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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 物権

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467/610

[民法・占有保持、占有保全、占有回収の訴え]現場編 「土地は俺のものだ。何をしても自由だろ」の罠。奪われた店、塞がれた入口、迫るブルドーザー――三つの占有訴権が暴く地主の横暴

挿絵(By みてみん)

 自分のものだからといって、何をしても許されるわけではありません。


 たとえば。


 あなたが三十年間、借りている土地で商売をしていたとします。


 ある朝、店へ行くと。


 入口には鉄の鎖。


 窓には板。


 そして、店先には大きな看板。


 ――地主の所有地につき、立入禁止。


 昨日まで、当たり前に入れた場所。


 昨日まで、当たり前に働いていた場所。


 それが突然、他人の手によって奪われる。


 そんなとき。


 法律は、何を守ってくれるのでしょうか。


 所有権でしょうか。


 賃借権でしょうか。


 もちろん、それらも大切です。


 でも。


 民法には、もう一つ。


 少し変わった権利があります。


 占有権。


 現実に、その場所や物を支配しているという状態を、法律が守ってくれるのです。


 しかも。


 その守り方は三種類。


 邪魔されたら、止めさせる。


 邪魔されそうなら、予防する。


 奪われたら、取り返す。


 私はこの日。


 たった一軒の小さな食堂をめぐって、その三つを全部使い分けることになります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 十月の朝。


 事務所の扉が、勢いよく開きました。


「助けてください! うちの店が、なくなっちゃうんです!」


 飛び込んできた女性の手には。


 真っ二つに折れた、木製の看板が握られていました。


「……店が、なくなる?」


 私は思わず聞き返しました。


「はい!」


 女性は息を切らしながら頷きました。


「昨日まで、ちゃんと商売してたんです。でも今朝行ったら、入口に鎖がかかっていて……!」


 女性の名前は、藤田春江さん。


 五十八歳。


 駅の北側で、小さな定食屋を営んでいます。


 店の名前は、


 ――食事処ふじた。


 焼き魚定食。


 肉じゃが。


 味噌汁。


 そして、一日限定二十食の煮込みハンバーグ。


 駅前の工場で働く人たちに人気のお店だそうです。


「主人と二人で始めて、もう三十年になるんです」


 春江さんは折れた看板を撫でました。


「主人は五年前に亡くなりましたけど、私だけでも続けようと思って……」


「土地と建物は、春江さんのものですか?」


 片桐所長が尋ねました。


「いいえ。土地は借りています。建物は主人が建てたもので、今は私のものです」


「地主は?」


「先月、代替わりしました」


 春江さんの顔が曇ります。


「前の地主さんは、とてもいい人だったんです。でも、その息子さんが土地を相続してから……」


 名前は、黒川重蔵。


 四十五歳。


 市内で不動産業を営む男。


 駅前再整備の話を聞きつけ、土地をまとめて売却しようとしているらしい。


「重蔵さんが言ったんです」


 春江さんは震える声で続けました。


「来月までに出ていけって。あの土地は俺のものだから、いつまでも商売できると思うなって……」


「借地契約書はありますか?」


「あります」


 春江さんは鞄から、茶色く変色した紙を取り出しました。


 昭和三十二年に交わされた土地賃貸借契約書。


 建物所有を目的とする賃貸借。


 さらに、毎月の地代の領収書。


 先月分まで、きちんと残っています。


「地代は滞納していません」


「なるほど」


 所長が頷きました。


「それで、今朝どうなっていたんですか」


「入口に鎖がかけられていました。それに、店の裏口には大きなドラム缶が三つ置かれていて……」


「ドラム缶?」


「はい。通れないように」


 私は眉をひそめました。


 嫌がらせ。


 それも、かなり悪質です。


「でも、それだけじゃないんです」


 春江さんは唇を噛みました。


「店の裏に、小さな物置があるんです」


「物置?」


「主人が作ったもので、漬物の樽や、店の道具を入れていました」


「はい」


「その物置を……」


 春江さんの声が震えました。


「重蔵さんが、勝手に持っていってしまったんです」


「……え?」


「今朝、なくなっていました」


 私は固まりました。


 入口を塞ぐ。


 裏口を妨害する。


 物置を持ち去る。


 これだけでも十分ひどい。


 ところが。


 春江さんは、最後にもう一枚の紙を取り出しました。


 そこには、太い赤字でこう書かれていました。


 ――十月二十日より、敷地内整地工事開始。


 ――作業中の事故について、土地所有者は責任を負わない。


 ――建物周辺に重機を搬入し、必要に応じて塀等を撤去する。


「工事……?」


「来週からブルドーザーを入れるそうです」


「店は?」


「まだ営業しています」


「なのに?」


「はい……」


 春江さんは、とうとう泣き出しました。


「私は、ただ定食屋を続けたいだけなんです」


 折れた看板を握る手が、小刻みに震えていました。


「主人と守ってきた店なんです。どうして地主が変わっただけで、全部奪われなきゃいけないんでしょうか」


 私は、胸の奥が熱くなりました。


 こんなの。


 許されるわけがありません。


「大丈夫です!」


 私は立ち上がりました。


「地主さんだからって、勝手に鍵をかけたり、物置を持ち去ったりすることはできません!」


 春江さんが顔を上げます。


「本当ですか?」


「はい!」


 私は六法を手に取りました。


「占有権があるんです!」


 そうです。


 民法。


 物権。


 占有権。


 現代の行政書士試験でも、しっかり勉強しました。


「占有を妨害された場合は、占有保持の訴え!」


 私は指を一本立てました。


「妨害されるおそれがある場合は、占有保全の訴え!」


 二本目。


「占有を奪われた場合は、占有回収の訴え!」


 三本目。


「つまり、三種類です!」


 完璧。


 今回こそ、現代知識がそのまま使える。


 なぜなら。


 占有訴権の基本条文は、昭和六十三年にも存在しているからです。


 私は勢いよく続けました。


「現代の民法でも、百九十八条、百九十九条、二百条です! 今回は条文番号まで同じです!」


「……現代?」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


 あ。


「い、いえ! 現在の六法でもという意味です!」


「当たり前だろ。昨日と今日で条文が変わるかよ」


「ですよね!」


 危ない。


 未来人。


 また妙なことを口走りかけました。


 でも、今回は本当に助かります。


 平成の成年後見制度も。


 令和の契約不適合責任も。


 今回の中心ではありません。


 占有保持。


 占有保全。


 占有回収。


 この三つなら、昭和でも勝負できます。


「よし!」


 私は六法を開きました。


「春江さん、さっそく裁判で取り返しましょう!」


「待て」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい?」


「お前が裁判するのか」


「……あ」


「誰の代理人として?」


「……春江さんの」


「お前、弁護士資格持ってたか?」


「持ってません」


「じゃあ、何ができる?」


 私は口を閉じました。


 そうでした。


 行政書士。


 訴訟代理はできません。


 紛争の示談交渉を業として引き受けることもできません。


「書類作成と、事実関係の整理です……」


「そうだ」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「俺たちは、依頼人の代わりに法廷で戦う人間じゃねえ」


「はい」


「だがな」


 先輩は春江さんの持ってきた書類を指で叩きました。


「相手が調子に乗ってるなら、法廷に行く前に、自分のやってることがどれだけ危ねえか、分からせる方法はある」


「内容証明ですね!」


「その前に」


 片桐所長が静かに口を開きました。


「三つの被害を分けなさい」


「……分ける?」


「そうだ」


 所長は白紙を三枚、机に並べました。


 一枚目。


 入口の鎖と、裏口のドラム缶。


 二枚目。


 持ち去られた物置。


 三枚目。


 これから始まる整地工事。


「こはる」


「はい」


「全部、同じ侵害か」


 私は三枚の紙を見ました。


 そして。


 気づきました。


「あ……!」


 今まさに邪魔されていること。


 すでに奪われたこと。


 これから邪魔されそうなこと。


 全部、段階が違う。


「一枚目は、保持!」


 私は言いました。


「二枚目は、回収!」


「では三枚目は?」


「保全です!」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


 私は三枚の紙を見つめました。


 なるほど。


 占有訴権は。


 ただ三種類あるだけではない。


 現実に何が起きているかで、使う武器が変わるのです。


 そして、この事件には。


 三種類すべてが揃っていました。


 翌日。


 私は相馬先輩と一緒に、食事処ふじたへ向かいました。


 駅の北側。


 古い商店が並ぶ通り。


 豆腐屋。


 クリーニング店。


 自転車屋。


 その一角に、小さな食堂がありました。


 白い暖簾。


 緑色の庇。


 店先には、手書きのメニュー板。


 ――本日の定食 焼き鯖 五百円。


 ところが。


「……ひどい」


 私は思わず呟きました。


 入口の取っ手には、太い鉄の鎖。


 その先に南京錠。


 扉は、少しも開きません。


 裏口へ回ると、錆びたドラム缶が三つ。


 その後ろには、重い木箱まで積まれています。


「これじゃ、食材も搬入できませんね」


「ああ」


 相馬先輩は手帳を取り出しました。


「写真を撮れ」


「はい!」


 私は事務所から借りたカメラを構えました。


 ガシャッ。


 入口。


 ガシャッ。


 裏口。


 ガシャッ。


 ドラム缶の位置。


 昭和六十三年。


 スマートフォンなんてありません。


 撮影した写真をその場で何十枚も確認することもできません。


 フィルムの残りを気にしながら、一枚ずつ証拠を残します。


「こはる」


「はい」


「鎖がつけられた日付は?」


「昨日の朝、発見したそうです」


「発見日と設置日は違う」


「あっ」


「断定するな。近所の人に聞け」


「はい!」


 私たちは隣の豆腐屋へ向かいました。


 店主のおじいさんが、腕を組んで言います。


「ああ、見たよ」


「本当ですか!」


「一昨日の夜だ。黒川のところの若い衆が二人来て、鎖をつけてた」


「時間は?」


「夜の八時半くらいだったかな」


「物置のことは?」


「昨日の朝、トラックで運び出してたよ」


 私は鉛筆を走らせました。


「どこへ運んだか分かりますか?」


「黒川の資材置場だろうな。駅の東にある」


 なるほど。


 現場の写真。


 日時。


 目撃証言。


 そして、物置の搬出先。


 少しずつ、事実が固まっていきます。


「先輩」


「何だ」


「これなら占有回収も――」


「まだだ」


「え?」


「物置の所有者は誰だ」


「春江さんです」


「証拠は?」


「……えっと」


 私は慌てて鞄を開きました。


 春江さんから預かった写真。


 そこには、食堂の裏に置かれた木製の物置が写っています。


「これです!」


「写真に写ってるだけじゃ、所有権までは確定しねえ」


「じゃあ……」


「慌てるな」


 相馬先輩は写真を見ました。


「今回、まず問題にしてるのは何だ」


「占有……」


「そうだ」


 先輩は物置のあった場所を指差しました。


「春江さんが、そこを物置として使っていた。中に店の道具を入れ、鍵を管理し、日常的に出し入れしていた」


「はい」


「それを、本人の承諾なく持ち去った」


「はい」


「だったら、現実の支配を奪われたという問題があるだろ」


 私は息を呑みました。


 そうか。


 所有権を証明する話と。


 占有を奪われた話は、違う。


「たとえ所有権について争いがあっても、勝手に持ち去っていい理由にはならない……」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「そこを混同するな」


 私は物置の跡を見つめました。


 四角く色の違う地面。


 長年、同じ場所に置かれていた痕跡。


 そこには、確かに生活がありました。


 漬物の樽。


 掃除道具。


 亡くなったご主人が使っていた、大工道具まで。


 それを。


 地主だからという理由で、勝手に持っていった。


 なんて乱暴な話でしょう。


 そのときです。


「おい。何をしている」


 背後から、低い声がしました。


 振り返ると。


 黒い乗用車から、一人の男が降りてきました。


 銀縁の眼鏡。


 濃紺の背広。


 妙に光った革靴。


 黒川重蔵。


 今回の地主です。


「ここは私有地だ。勝手に写真なんか撮るな」


 男は、私たちを睨みつけました。


 その口元には。


 最初から勝利を確信しているような、薄い笑みが浮かんでいました。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


 先輩が名乗りました。


「春江さんのご依頼で、現場の状況を確認しています」


「行政書士?」


 黒川は鼻で笑いました。


「何だ。弁護士も雇えないのか、あの婆さん」


 ……。


 この人。


 今、全国の行政書士を敵に回しましたね。


「それで?」


 黒川は腕を組みました。


「あんたら、何ができるんだ?」


「事実関係を確認し、必要な書類を作成します」


「はっ。代書屋か」


 黒川は胸ポケットから煙草を取り出しました。


「だったら、俺に口出しするな。ここは俺の土地だ」


「土地の所有権については、争っていません」


 相馬先輩が答えました。


「だったら終わりだろ」


「ただ、実際に土地を使っている人がいます」


「ああ、藤田の婆さんな」


 黒川は食堂を顎で示しました。


「親父が甘やかしたせいで、三十年も居座ってる」


「契約書と地代の領収書があります」


「だから何だ」


 黒川は笑いました。


「地主が自分の土地を整理して、何が悪い」


 私は我慢できなくなりました。


「勝手に入口を塞いだり、物置を持ち去ったりするのは別問題です!」


「あ?」


「春江さんは、現実にこの土地と建物を使っていたんです。それを一方的に妨害する権利はありません!」


 黒川は私を見下ろしました。


「嬢ちゃん」


「はい」


「土地ってのはな、持ってる奴が強いんだよ」


 ……!


「登記簿を見てみろ。所有者は俺だ。あの婆さんの名前なんか載ってねえ」


「所有権と占有権は違います!」


「何だと?」


 私は六法を取り出しました。


「民法百九十八条です。占有者は、占有を妨害されたとき、占有保持の訴えによって妨害の停止と損害の賠償を請求できます!」


 黒川の眉が動きました。


「……占有保持?」


「はい!」


「そんなもの、地主の所有権に勝てるのか?」


「所有権の勝ち負けとは、別の問題です!」


 私は続けました。


「土地が誰のものかという問題と、今そこを使っている人を勝手に追い出していいかという問題は、違います!」


 黒川の笑みが消えかけました。


 しかし。


「ふん」


 すぐに鼻を鳴らします。


「だったら裁判でも起こせばいい。こっちは登記簿があるんだ」


 私は口を開きかけました。


 ところが。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「はい」


「そこまでだ」


「でも!」


「相手の主張は分かった」


 先輩は黒川に向き直りました。


「では、工事は予定どおり始めるお考えですね」


「当たり前だ」


「建物のすぐ横を掘削する予定ですか」


「そうだ。あんな古い塀、邪魔だからな」


「倒壊などの危険については?」


「俺の土地の工事だぞ。何でそんなことまで説明しなきゃならん」


 黒川は煙草を地面に落としました。


「それに物置なら、もう俺の知り合いに売った」


「……売った?」


 私は思わず声を上げました。


「春江さんの物置をですか!」


「うるさいな。俺の土地にあったんだ。俺が処分して何が悪い」


 黒川は車のドアを開けました。


「とにかく、来週から工事だ」


 そして。


 最後に、こう言ったのです。


「裁判なんかやってる間に、全部片づけてやるよ」


 車が走り去りました。


 私は、拳を握りしめました。


「先輩!」


「ああ」


「聞きましたよね!」


「ああ」


「最悪です!」


「そうだな」


「裁判してる間に壊すって……!」


 相馬先輩は、煙草の吸い殻を見つめました。


「こはる」


「はい」


「今の話、全部覚えてるか」


「はい!」


「なら、帰って記録にしろ」


「……え?」


「特に工事の開始予定日。物置を売ったという発言。それから、塀を壊すつもりだという話だ」


「はい」


「証拠として使えるように、正確に残すんだ」


 先輩は、食堂の入口にかけられた鎖を見ました。


「それと、もう一つ」


「何ですか?」


「今のあいつ、重要なことを言ったぞ」


「……重要なこと?」


「ああ」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「物置を誰かに売ったって言ったな」


「はい」


「そいつが、どういう事情で買ったのか調べるぞ」


 私は首をかしげました。


「それが何か?」


「占有回収の訴えには、厄介な例外がある」


「……例外?」


 先輩は短く言いました。


「奪った奴から買った相手には、いつでも取り返せるとは限らねえんだ」


 えっ。


 何ですか、それ。


 私は六法を開きました。


 民法二百条。


 その第二項。


 そこに書かれていた言葉を見て。


 私は、背筋が冷たくなりました。


「……これ、まずいじゃないですか!」


 事務所へ戻った私は、机を叩きました。


 相馬先輩が顔をしかめます。


「机を壊すな」


「物置です!」


「分かってる」


「占有回収の訴えって、奪った相手から物を取り返すためのものですよね!」


「そうだ」


「でも!」


 私は六法を指差しました。


「奪った人から物を買った第三者には、原則として占有回収の訴えを起こせないって書いてあります!」


「そのとおり」


 私は頭を抱えました。


 何ということでしょう。


 盗んだように持ち去った物を、別の人へ売ってしまえば。


 占有回収が難しくなる場合がある。


「じゃあ黒川は、わざと売ったんでしょうか?」


「可能性はある」


 相馬先輩が言いました。


「ただし、例外がある」


「……例外?」


「買った奴が、占有を奪った事実を知っていた場合だ」


 私は六法に目を戻しました。


 確かに。


 ただし書があります。


 ――その承継人が侵奪の事実を知っていたときは、この限りでない。


「つまり!」


 私は顔を上げました。


「物置を買った人が、春江さんから無断で奪ったものだと知っていたら、その人にも占有回収の訴えを起こせるんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「だが、知っていたことをどう立証する?」


 私は止まりました。


 ……そうでした。


 法律には、条件がある。


 そして。


 その条件を満たしていると主張するなら、裏付けが必要です。


「先輩。買った人は誰なんですか?」


「黒川興業の下請けをやってる、丸山運送の社長らしい」


「知り合いなんですよね?」


「知り合いってだけじゃ足りねえ」


「……はい」


 そうです。


 知り合いだから悪意。


 親戚だから悪意。


 そんな決めつけはできません。


 必要なのは。


 無断で持ち去った事実を知っていたかどうか。


「物置を運んだ人は?」


 私が聞くと、相馬先輩が笑いました。


「そこだ」


「え?」


「豆腐屋の爺さんが言ってただろ。昨日の朝、トラックで運び出したって」


「はい!」


「運転手を確認するぞ」


 翌朝。


 私たちは、豆腐屋の店主から聞いた運送会社を訪ねました。


 事情確認への協力をお願いすると、事務員の女性が古い配車帳を見せてくれました。


 そこには、物置を運んだ日の記録。


 そして、運転手の名前。


 丸山運送の社長本人です。


「……社長が運転したんですか?」


「ええ」


 事務員は頷きました。


「黒川さんの頼みだったので」


「作業について、何か聞いていますか?」


「社長が帰ってきて、怒ってましたよ」


「怒っていた?」


「はい。『店のおばちゃんがいない間に運び出すなんて、妙な仕事を頼みやがって』って」


 私は手帳を握りしめました。


 ……!


「その言葉、いつ聞きましたか?」


「昨日の午前十時頃です」


「ほかに聞いていた人は?」


「整備工場の人もいました」


 相馬先輩と目が合いました。


 まだ。


 それだけで悪意が完全に証明されたとはいえません。


 でも。


 少なくとも、丸山社長が事情を知っていた可能性は高い。


 追加の確認をして、事務員には、記憶している事実を自分の言葉で書き留めてもらいました。


 さらに、春江さんが保管していた物置の写真と、搬出された時刻。


 丸山運送の配車帳。


 目撃者の記録。


 そして、黒川自身の発言。


 材料が揃い始めました。


「先輩」


「何だ」


「黒川は、誰かに売れば安心だと思ったんでしょうか」


「さあな」


 相馬先輩は配車帳の日付を控えました。


「だが、相手が事情を知っていたなら、そう簡単にはいかねえ」


 私は頷きました。


 占有回収。


 ただ取り返すだけではない。


 誰から取り返すのか。


 相手が何を知っていたのか。


 そこまで法律は見ているのです。


 その日の午後。


 私たちは片桐所長の前に、資料を並べました。


 入口の写真。


 裏口の写真。


 物置の写真。


 目撃者の記録。


 配車帳。


 工事予告書。


 土地賃貸借契約書。


 地代の領収書。


 そして、黒川の発言記録。


 所長は一つずつ目を通しました。


 やがて。


「こはる」


「はい」


「通知書の原案を書いてみなさい」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


 よし。


 相手は悪徳地主。


 こちらには、民法の三つの武器。


 逃がしません!


 私は勢いよく書き始めました。


 ――黒川重蔵殿。


 ――貴殿の違法行為により、当方は多大な損害を被っている。


 ――直ちに一切の妨害を停止し、物置を返還し、工事を中止せよ。


 ――応じなければ、法的措置を講じる。


 完成!


「所長!」


「見せなさい」


 片桐所長は原案を読みました。


 そして。


 赤鉛筆を持ちました。


 ……嫌な予感。


「全部やり直し」


「えええっ!」


「何が足りないか分かるか」


「……迫力?」


「違う」


 相馬先輩が吹き出しました。


「お前、脅迫状でも書くつもりか」


「違います!」


「じゃあ、何だその雑な文章は」


「法律を突きつけようと……」


「条文が一つも書いてねえじゃねえか」


「あっ」


 片桐所長が、白紙を三枚並べました。


「さっき整理した三つの被害を思い出しなさい」


「はい」


「占有保持。何を求める」


「妨害の停止と、損害の賠償です」


「占有保全は」


「妨害の予防、または損害賠償の担保です」


「占有回収は」


「物の返還と、損害の賠償です!」


「では、今の原案では、それぞれ何が起きたのか、どの請求の根拠になるのか、分かるか」


 私は紙を見ました。


 ……分かりません。


 全部まとめて、


「悪いことをしたから何とかしろ」


 と書いているだけです。


「……すみません」


「謝る必要はない」


 所長は静かに言いました。


「ただ、相手が反論できないように、事実を具体的に書きなさい」


 相馬先輩も頷きました。


「法律の名前を振り回すだけじゃ駄目だ。どの行為が、どの規定に触れるのか、見せるんだ」


「はい!」


 私は書き直しました。


 まず、占有保持。


 現在の妨害。


 入口の鎖。


 裏口のドラム缶。


 営業に支障が出ている事実。


 次に、占有回収。


 持ち去られた物置。


 春江さんが管理していた事実。


 本人の承諾がなかったこと。


 第三者へ譲渡したという黒川の発言。


 最後に、占有保全。


 工事予告書。


 掘削予定。


 塀を撤去するという発言。


 店舗の利用が妨害される具体的な危険。


 三つを分けると。


 不思議なくらい、問題がはっきり見えてきました。


「できました!」


 私は原案を差し出しました。


 所長が読みます。


 今度は。


 赤鉛筆が止まりました。


「……悪くない」


「本当ですか!」


「ただし、もう一つ」


「はい」


「期間は確認したか」


 私は首をかしげました。


「期間?」


「占有の訴えには、提起できる期間の制限がある」


「あ……!」


 民法二百一条。


 占有保持の訴え。


 妨害が続いている間、または妨害が消えてから一年以内。


 占有保全の訴え。


 妨害の危険が続いている間。


 占有回収の訴え。


 占有を奪われた時から一年以内。


「今回は、全部最近の出来事です!」


「そうだな」


「だから、まだ間に合います!」


「ただし」


 所長の声が低くなりました。


「工事の場合は、別の制限がある」


「……え?」


「六法を読みなさい」


 私は慌てて条文を確認しました。


 そして。


 目を見開きました。


 ――工事により占有物に損害を生じた場合。


 ――工事に着手した時から一年を経過し、又は工事が完成したときは、占有保持の訴えを提起できない。


 占有保全の訴えにも、同様の制限が準用される。


「工事が完成したら……!」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「占有保持や占有保全という手段については、工事特有の制限に注意がいる」


「つまり、工事が終わってからでは手遅れになる場合があるんですね」


「そのとおり」


 私は工事予告書を見ました。


 十月二十日。


 来週です。


 黒川は言いました。


 裁判なんかやっている間に、全部片づけてやる。


 ただの脅しではない。


 工事には、時間という武器があるのです。


「所長!」


「何だ」


「これは急がないと!」


「ああ」


「でも、内容証明を送れば工事は止まるんですか?」


「止まらない」


 即答。


 私は固まりました。


「……止まらないんですか?」


「内容証明には、工事を強制的に停止させる効力はない」


 ……そうですよね。


 内容証明郵便は、魔法ではありません。


 どんなに正しい条文を書いても。


 それだけで、重機を止める強制力は生まれない。


「それなら……」


 私が呟くと、所長が言いました。


「弁護士に連絡する」


「はい!」


「差し迫った工事については、必要なら仮処分などの保全手続も検討してもらう」


 所長は受話器を取りました。


「こちらは、事実と証拠を揃える」


 私は頷きました。


 そうです。


 行政書士の仕事は。


 訴訟の代理をすることではありません。


 まして、相手と勝手に和解条件を交渉することでもありません。


 本人の意思を確認し、権利関係を整理し、必要な書面を作成する。


 そして、訴訟や保全手続が必要なら。


 弁護士へ、正確な資料を引き継ぐ。


 そのために。


 今までの調査があるのです。


 翌朝。


 机の上に、完成した通知書が置かれました。


 差出人。


 藤田春江。


 宛先。


 黒川重蔵。


 春江さんは内容を一行ずつ確認し、自分の意思で署名押印しました。


 私は、読み上げます。


「第一。本件土地及び建物は、通知人が長年にわたり食堂営業のため占有使用しているものである」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第二。貴殿側は、通知人の承諾なく店舗入口に鎖を設置し、裏口にドラム缶等を置いた。これにより通知人の占有使用が現に妨害されている」


「うん」


「第三。右行為については、民法第百九十八条の占有保持の訴えにより、妨害の停止及び損害賠償を求め得るものである」


 私は息を吸いました。


「第四。貴殿側は、通知人が管理占有していた木製物置を、承諾なく搬出した。これは占有の侵奪に当たり、民法第二百条による占有回収の対象となる」


 所長が頷きます。


「第五。右物置について、第三者への譲渡が行われたとの説明があるが、譲受人が侵奪の事実を知っていた場合には、民法第二百条第二項ただし書の適用が問題となる」


 ここが。


 今回の大きな刃です。


 黒川は、第三者に売ったから終わりだと思っていたかもしれません。


 でも。


 第三者が事情を知っていたなら、占有回収の訴えの相手になる可能性がある。


 しかも。


 それを裏付ける記録も、すでに集めてある。


 私は続けました。


「第六。貴殿は本件建物周辺における掘削及び塀の撤去工事を予告しており、通知人の占有が妨害される具体的危険がある」


「うん」


「第七。右危険については、民法第百九十九条の占有保全の訴えにより、妨害の予防または損害賠償の担保を求め得る」


 そして最後。


「通知人は、店舗入口及び裏口の妨害物の撤去、物置の返還、占有を妨害する工事の中止について、貴殿自身による自主的な是正を求める」


 私は一度、紙から顔を上げました。


 片桐所長が頷きます。


「続けなさい」


「本通知受領後、速やかに是正方針を書面により回答されたい。なお、妨害が継続し、又は工事による占有侵害が差し迫る場合には、弁護士への相談のうえ、占有訴権に基づく訴訟及び必要な保全手続その他の法的措置を検討する」


 読み終えました。


 事務所に、静寂が落ちます。


「……所長」


「何だ」


「これ、かなり怖いですね」


「そうか」


「はい」


 私は通知書を見つめました。


 怒鳴っていません。


 罵倒していません。


 地主を泥棒呼ばわりしてもいません。


 でも。


 黒川がやったこと。


 これからやろうとしていること。


 それぞれについて。


 何が問題になるのか、はっきり書いてあります。


「しかも先輩」


「何だ」


「土地の所有権そのものについて、争ってませんよね」


「そうだ」


「どうしてですか?」


 相馬先輩は六法を指差しました。


「民法二百二条を読め」


 私は開きました。


 ――占有の訴えは、本権の訴えを妨げず、また、本権の訴えは占有の訴えを妨げない。


 そして第二項。


 ――占有の訴えについては、本権に関する理由に基づいて裁判をすることができない。


「……!」


 私は目を見開きました。


「所有権の話と、占有の話を分けているんですね!」


「そうだ」


「地主のものだから、勝手に妨害してもいい、とはならない!」


「ああ」


 相馬先輩は頷きました。


「所有権を主張するなら、相応の法的手段がある。だが、自分で勝手に鎖をかけて追い出すのは別問題だ」


 なるほど。


 私は思いました。


 この条文。


 地味ですが、ものすごく重要です。


 所有権を持っている人が、いつでも自分の力で現実の支配を奪えるなら。


 強い人ほど有利になります。


 大きな会社。


 土地をたくさん持っている人。


 重機を動かせる人。


 そういう人が、腕力や財力で相手を排除できてしまう。


 でも。


 民法は、それを簡単には許さない。


 実際に占有している人の状態を、いったん法律で守る。


 そして。


 誰に最終的な権利があるのかという問題は、別の法的手続で解決する。


「……なるほど」


 私は小さく呟きました。


 占有権。


 ただ物を持っている人を守る、不思議な制度だと思っていました。


 でも。


 違うのです。


 それは、力ずくで現状を変えてはいけないという、社会の大切な約束でもあるのです。


「相馬先輩」


「何だ」


「黒川さん、土地の登記簿を見せれば勝てると思ってましたよね」


「ああ」


「でも、今回の占有の問題では、それだけじゃ勝てない」


「そういうことだ」


 相馬先輩は笑いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 出ました。


 いつもの台詞。


 でも今回は。


 少しだけ、意味が違って聞こえました。


 内容証明郵便を発送して、二日後。


 黒川重蔵は、自分の事務所で封筒を開きました。


「……何だ、これ」


 最初は、笑っていたそうです。


 たかが行政書士。


 たかが内容証明。


 そんなもの、怖くない。


 ところが。


 条文を読み進めるうちに。


 その表情が変わっていったのです。


 民法百九十八条。


 妨害の停止。


 民法百九十九条。


 妨害の予防。


 民法二百条。


 占有の回収。


 そして。


 第二百条第二項ただし書。


 侵奪の事実を知っていた特定承継人。


「……何だと?」


 黒川は受話器を握りました。


 まず、物置を買い取った丸山運送の社長に電話をかけたそうです。


『おい、丸山!』


『何だよ』


『あの物置、まだあるか!』


『あるけど』


『誰にも渡すなよ!』


『当たり前だろ。それよりお前、あの婆さんに無断で運ばせたんだろ』


『……!』


『お前、自分の土地にあったからって、勝手に持っていっていいと思ってたのか?』


 丸山社長は、こう続けたそうです。


『弁護士に聞いたぞ。俺まで巻き込まれる可能性があるって言われたんだ。何とかしろよ!』


 黒川の顔から、血の気が引きました。


 物置は第三者へ売った。


 だから自分はもう持っていない。


 これで逃げ切れる。


 そう考えていたのなら。


 相手が事情を知っていたという事実は、大きな誤算です。


 さらに。


 黒川は、知り合いの弁護士へ通知書を持ち込みました。


「土地は俺のものなんだぞ!」


 弁護士は書面を読み、静かに言ったそうです。


「黒川さん。土地の所有権と、現実に占有している人を勝手に排除してよいかは、別問題です」


「でも!」


「借地契約の効力について争う余地があるとしても、適法な手続を取る必要があります」


「……」


「それに、工事によって占有侵害が生じる危険が具体的なら、相手は保全手続を求める可能性があります」


 黒川は黙り込みました。


 弁護士が、さらに言います。


「この通知書には写真や日時が記載されています。事実関係が裏付けられれば、あなたの対応には相当な法的リスクがあります」


「……裁判になったら?」


「一概に勝敗は断定できません。ただ、土地があなたの所有だというだけで、すべて正当化できるとは考えないでください」


 そして。


 最後の一言。


「判決などに基づく強制執行や、損害賠償の問題にも発展しかねません。工事はいったん見直した方がいいでしょう」


 黒川は、ようやく理解しました。


 自分が持っていたのは、土地の所有権。


 しかし。


 それは、他人の占有を力ずくで奪う免許証ではなかったのです。


 三日後。


 食事処ふじたの入口から、鎖がなくなりました。


 裏口のドラム缶も撤去されました。


 そして。


 工事現場に停まっていたブルドーザーは、動きませんでした。


 黒川は、弁護士と相談したうえで予定していた整地工事を中止し、春江さん宛てに書面を送りました。


 ――店舗入口及び裏口の障害物を撤去した。


 ――木製物置については、譲受人から引取りのうえ、原状のまま返還する。


 ――現状の店舗利用を妨げる工事は実施しない。


 ――今後の借地関係については、適切な法的手続によって解決を図る。


 春江さんは、その手紙を持って事務所に来ました。


「……本当に、鎖がなくなったんです」


 目に涙を浮かべています。


「裏口も開きました」


「よかったです!」


 私は立ち上がりました。


「物置も?」


「昨日、戻ってきました」


「本当ですか!」


「はい。中の道具も、そのままでした」


 私は思わず両手を握りました。


 やった。


 占有保持。


 占有回収。


 占有保全。


 三つの問題について、相手が自主的に是正したのです。


「でも……」


 春江さんが少し不安そうな顔をしました。


「地主さんとの問題は、もう全部終わったんでしょうか」


 私は、すぐには答えませんでした。


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「いいえ。土地の賃貸借関係については、まだ確認すべきことがあります」


「……そうですか」


「ただし、今回のように、勝手に入口を塞いだり、物置を持ち去ったりする行為が正当化されるわけではありません」


 春江さんは頷きました。


「今後、借地契約そのものについて争いになる場合は、弁護士に相談して進めましょう」


「はい」


 私はそのやり取りを聞きながら、少しだけ驚いていました。


 事件は解決した。


 そう思いました。


 でも。


 片桐所長は、まだ終わっていない部分を、きちんと分けている。


 占有の問題。


 所有権の問題。


 借地契約の問題。


 似ているようで、全部違う。


 法律は、ひとつの事件を、いくつもの角度から見ているのです。


「春江さん」


 私は言いました。


「明日から、またお店を開けますね」


「はい」


 春江さんは笑いました。


「明日は、いつもの煮込みハンバーグを作ります」


「わあ!」


 思わず声が出ました。


「私、それ食べたいです!」


「ぜひ来てください」


「行きます!」


 すると、相馬先輩が横から言いました。


「こはる」


「はい?」


「仕事中に食い物の話をするな」


「先輩も一緒にどうですか?」


「……ハンバーグか」


「はい!」


「まあ、昼ならな」


「行く気満々じゃないですか!」


 春江さんが、声を上げて笑いました。


 その笑顔を見て。


 私は思いました。


 今回守ったのは。


 単なる土地の占有ではありません。


 三十年間続いた、小さな食堂。


 亡くなったご主人の思い出。


 毎日そこへ来る、お客さんたちの昼ご飯。


 そして。


 春江さんが、明日も当たり前に働けるという生活そのものだったのです。


 翌日の昼。


 私たちは、食事処ふじたを訪れました。


 入口に、鎖はありません。


 暖簾が、秋風に揺れています。


 店内には、味噌汁の香り。


 焼き魚の音。


 そして、お客さんの笑い声。


「おばちゃん! 今日もハンバーグある?」


「あるよ!」


「よかった!」


 作業服の男性たちが、次々と席につきました。


 私は、その光景を眺めていました。


 昨日まで。


 この場所は、鉄の鎖で塞がれていたのです。


 たった一人の地主が、


「俺の土地だ」


 と言っただけで。


 でも今は。


 食堂が、ちゃんと動いています。


「こはるちゃん」


 春江さんが皿を置きました。


「はい!」


「本当に、ありがとうね」


 目の前には、煮込みハンバーグ。


 大きい。


 そして、いい匂い。


「いえ、私たちは書類を作っただけですから」


「それが、ありがたかったのよ」


 春江さんは、少しだけ真剣な顔になりました。


「私ね。黒川さんに、土地は俺のものだって言われたとき、何も言い返せなかったの」


「……はい」


「本当にそうだと思ったから」


 私は箸を止めました。


「土地を借りている人間は、地主さんには逆らえない。そう思ってた」


「……」


「でも、違ったのね」


 春江さんは、店内を見渡しました。


「借りている場所でも、ちゃんと守られるものがあるのね」


 私は頷きました。


「はい」


 所有権は大切です。


 もちろん。


 土地の持ち主に権利がないわけではありません。


 でも。


 そこを現実に使っている人にも、法律が認める保護がある。


 それが占有権です。


「春江さん」


「何?」


「民法って、少し不思議なんです」


「不思議?」


「はい」


 私は笑いました。


「誰のものかを決めるだけじゃなくて、今そこにある暮らしも守ろうとするんです」


 春江さんは、少し考えてから頷きました。


「そうね」


 そして。


「じゃあ、今度はその法律に、ハンバーグを一つサービスしなくちゃね」


「えっ!」


「こはるちゃん、もう一個食べる?」


「食べます!」


「おい!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「お前、最初の一個も食い終わってねえだろ!」


「法律は生活を守るんですよ!」


「ハンバーグを二個食う権利までは保障してねえ!」


「占有権です!」


「何の占有だ!」


「お皿の上のハンバーグです!」


「まだお前のものになってねえだろ!」


 ……。


 うう。


 法律の使い方が、少し違ったようです。


 春江さんは、また笑いました。


 私たちも笑いました。


 そして私は。


 温かいハンバーグを口に運びながら、心の中で思いました。


 こんな当たり前の昼食を。


 誰かが勝手に奪っていいはずがない。


 民法の条文には。


 そういう当たり前を守る力が、きっとあるのです。


 夕方。


 事務所へ戻った私は、六法を開いていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、占有権が好きになりました」


「また変なこと言い出したな」


「だって、すごいじゃないですか!」


 私は指を三本立てました。


「今、邪魔されていたら、占有保持!」


「うん」


「これから邪魔されそうなら、占有保全!」


「うん」


「奪われてしまったら、占有回収!」


「そうだ」


「つまり、三段階で守れるんですよ!」


 相馬先輩が頷きました。


「だが、忘れるなよ」


「何をですか?」


「期間だ」


 私は指を下ろしました。


「あ……」


「保持の訴えは?」


「妨害が続いている間、または消滅してから一年以内!」


「保全は?」


「妨害の危険が続いている間!」


「回収は?」


「奪われた時から一年以内です!」


「工事は?」


「……!」


 私は思い出しました。


 そうでした。


 工事による損害の場合。


 着手から一年が経過した場合や、工事が完成した場合には、占有保持の訴えは提起できない。


 占有保全の訴えにも、その制限が準用される。


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「法律は、いつまでも使えるとは限らねえ」


「はい」


「だから、何が起きたかだけじゃなく、いつ起きたかを調べる」


「……はい!」


 私は手帳を見ました。


 今回。


 入口に鎖がかけられた日時。


 物置が運び出された日時。


 工事の開始予定日。


 それらを確認したのには、理由がありました。


 民法には、時間という条件がある。


 そして、その条件を見落とすと。


 正しい権利があっても、使いたい手段を失ってしまうことがある。


「所長」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「占有って、誰のものかを決める制度じゃないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「今ある支配を、勝手に乱されないように守る制度なんですね」


「うん」


「そして、所有権の争いとは別に考える」


「そうだ」


 私は、最後の一行を書こうとしました。


 ところが。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「こはる」


「はい?」


「最後にもう一問だ」


「何ですか?」


「他人が勝手に持ち去った物置を、事情を知らない第三者が買っていたら?」


 私は止まりました。


 ……。


 占有回収。


 特定承継人。


 悪意。


 ああ。


「その第三者が侵奪の事実を知らなかった場合、原則として、その人には占有回収の訴えを提起できません!」


「よし」


「でも!」


「何だ」


「それで所有権に基づく請求など、別の手段まで全部なくなるわけじゃありません!」


 相馬先輩が笑いました。


「そうだ」


「民法二百二条!」


「よく覚えてたな」


「へへっ」


 私は胸を張りました。


 占有の訴え。


 本権の訴え。


 どちらも、別々に考える。


 だからこそ。


 占有回収が難しくても、別の権利に基づく請求ができるかを検討する余地がある。


 ただし。


 占有の訴えそのものについて、所有権があるという理由だけで判断してはいけない。


 ……なるほど。


 法律って。


 一つの扉が閉まっても、別の扉が残されていることがあるんですね。


 もちろん。


 その扉を開くためには、別の要件が必要です。


 でも。


 何も知らなければ、最初の扉が閉まったところで諦めてしまう。


 春江さんも、そうでした。


 地主が土地の所有者だから。


 もう何も言えない。


 そう思い込んでいたのです。


 でも。


 占有という扉があった。


 そこから、生活を守るための道が開けた。


「所長」


「何だ」


「私、今日の事件で、一番怖い言葉が分かりました」


「ほう」


「『俺のものだから、何をしても自由だ』です」


 片桐所長は、少しだけ目を細めました。


「そうだな」


「所有権があることと、勝手に力ずくで奪えることは、違うんですね」


「そのとおり」


 私は頷きました。


 そして。


 ノートの最後に、一行を書きました。


 ――占有は、妨害されたら保持、危険なら保全、奪われたら回収。所有権があっても、自力で奪っていいわけじゃない。


 今日の教訓。


 これなら、忘れません。


 そのとき。


 相馬先輩が私の机を見ました。


「こはる」


「はい?」


「そのハンバーグの包み、何だ」


「あっ」


 私は慌てて、紙袋を隠しました。


「春江さんがお土産にって……」


「二個食ったうえに、持って帰ってきたのか?」


「一個だけですよ!」


「十分だろ!」


「これは私の占有物です!」


「誰も奪わねえよ!」


 私は紙袋を抱きしめました。


「念のためです!」


「何の念だ!」


「占有回収の訴えにならないように!」


「お前から取り上げる気はねえ!」


 ……。


 なるほど。


 占有権を守るためには。


 まず、実際に侵害されているか、侵害される具体的な危険があるかを確認しないといけません。


 単に先輩がハンバーグを見た。


 それだけでは、占有保全の出番ではないのです。


 残念。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「明日、あの食堂の資料をもう一度整理しておきなさい」


「はい!」


「借地関係の問題は、まだ残っているからな」


「分かりました!」


 私は紙袋を置き、手帳を開きました。


 昭和六十三年。


 秋の夕暮れ。


 窓の外では、商店街の明かりが一つずつ灯り始めています。


 そのどこかで。


 春江さんは、明日の仕込みをしているのでしょう。


 大根を切って。


 味噌汁の出汁を取って。


 ハンバーグの種をこねて。


 三十年間、続けてきた日常を。


 また明日へ、つないでいく。


 占有保持。


 占有保全。


 占有回収。


 試験のテキストでは、たった三つの見出しでした。


 でも。


 それぞれの条文には、人の暮らしがありました。


 奪われた物を取り戻したい人。


 今ある邪魔をやめさせたい人。


 これから起こる被害を防ぎたい人。


 そんな人たちのために。


 民法は、三つの道を用意しているのです。


 私は六法を閉じました。


 そして、少し笑いました。


 地主だから。


 所有者だから。


 登記簿に名前があるから。


 そんな言葉だけで、誰かの日常を壊していいわけではない。


 だって。


 民法が守っているのは、財産の持ち主だけではありません。


 その財産の上で、今日を生きている人の暮らしもまた。


 守るべきものなのです。

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