[民法・占有保持、占有保全、占有回収の訴え]法理編 こはるノート
自分の土地だからといって、他人を勝手に追い出していいわけではありません。
自分の建物だからといって、使っている人から力ずくで奪っていいわけでもありません。
なぜなら。
民法は、「誰のものか」だけでなく、「誰が現実に支配しているか」も守っているからです。
占有保持。
占有保全。
占有回収。
似たような名前が三つ。
でも、その役割はまったく違います。
今、邪魔されているのか。
これから邪魔されそうなのか。
それとも、もう奪われてしまったのか。
この違いを理解するだけで、民法の占有訴権は驚くほど分かりやすくなります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……相馬先輩」
「何だ」
「私、占有権って、ちょっとずるい制度だと思ってたんです」
新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。
「いきなり何だ」
「だって、所有者じゃなくても守られるんですよ?」
「そうだな」
「他人の土地を借りている人でも、現実に占有していれば保護される」
「ああ」
「それって、最初は不思議だったんです」
私は、昨日までの事件を思い出しました。
食事処ふじた。
三十年間、駅前で営業してきた小さな定食屋。
店主の藤田春江さんは、土地を借りて商売していました。
ところが。
新しい地主、黒川重蔵が突然現れた。
――土地は俺のものだ。
そう言って。
店舗入口に鎖をかけた。
裏口をドラム缶で塞いだ。
木製の物置を勝手に持ち去った。
そして、店の周囲をブルドーザーで整地すると宣言した。
春江さんは、泣きながら事務所に駆け込んできたのです。
あのとき私は。
占有訴権の三種類を使い分けました。
入口と裏口の妨害には、占有保持。
物置の持ち去りには、占有回収。
これから始まる工事には、占有保全。
そして、事実と証拠を整理した内容証明を送った結果。
黒川は、入口の鎖を外し、物置を返還し、工事を中止した。
もちろん、借地契約そのものの問題は残っています。
でも。
少なくとも、黒川が力ずくで春江さんの生活を壊すことは防げたのです。
「先輩」
「何だ」
「占有って、所有権より強いんですか?」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「違う」
「じゃあ、弱いんですか?」
「そういう比べ方をするな」
「え?」
先輩は六法を机に置きました。
「所有権と占有権は、守っているものが違う」
その言葉に、私は鉛筆を握り直しました。
なるほど。
今日の勉強会。
最初の問題は、そこから始まるようです。
「まず、占有って何だと思う?」
相馬先輩が聞きました。
「物を持っていることです!」
「半分正解」
「半分?」
「手で持ってなきゃ占有にならねえのか?」
「……あ」
私は考えました。
たとえば。
春江さんが食堂にいないとき。
夜になって、家へ帰ったとき。
その間、食堂の占有はなくなるのでしょうか。
「なくなりません!」
「そうだ」
「現実に支配している状態が続いていればいいんですね」
私は六法を開きました。
民法第百八十条。
占有権は、自己のためにする意思をもって物を所持することによって取得する。
「つまり、占有って、物を手で握っていることだけじゃないんですね」
「ああ」
「実際の支配関係が大切なんです」
相馬先輩が頷きます。
「春江さんの場合は?」
「店舗を使って営業していました」
「ほかには?」
「建物の鍵を管理して、物置に道具を入れて、毎日出し入れしていました」
「そうだ」
私は書きました。
――占有とは、物に対する事実上の支配を基礎とするもの。
「それで、民法がその状態を保護するんですね」
「そうだ」
「でも先輩。土地の所有者は黒川でしたよね」
「ああ」
「じゃあ、春江さんの占有を保護したら、黒川の所有権が無視されませんか?」
「無視されねえよ」
相馬先輩は、私のノートに二本の線を引きました。
一方に、
――所有権。
もう一方に、
――占有権。
「所有権は、その物について誰が権利を持っているかという問題だ」
「はい」
「占有権は、誰が現実に支配しているかという問題だ」
「はい」
「だから、土地の所有者と占有者が違うことは普通にある」
私は頷きました。
借家。
借地。
貸した道具。
預けた荷物。
世の中には、持ち主以外の人が物を使ったり管理したりする場面が、たくさんあります。
「つまり、所有権がないから占有も保護されない、というわけじゃないんですね!」
「そういうことだ」
そこへ。
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「なぜ、占有を守る必要があると思う」
私は少し考えました。
「……実際に使っている人が困るからです」
「それだけか」
「えっと……」
所長は静かに言いました。
「自分に権利があると思った者が、みんな力ずくで物を奪い始めたら、どうなる」
私は想像しました。
地主が勝手に店の鍵を交換する。
大家が借家人の荷物を外へ放り出す。
貸した物の持ち主が、借りた人の家へ押し入って持ち去る。
誰も、法律上の手続を待たない。
力の強い人が勝つ。
「……大変なことになります」
「そうだ」
所長が頷きました。
「権利があるという主張と、自分の力で相手の占有を奪ってよいということは、同じではない」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
占有を守るのは。
単に物を使っている人が可哀想だからではありません。
自力で奪い合う社会にしないためでもあるのです。
「所長!」
「何だ」
「占有訴権って、自力救済を抑える役割があるんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「黒川みたいな奴を放っておくと、金と腕力のある人間が全部決めちまうからな」
私は大きく頷きました。
占有権。
所有権を否定する制度ではない。
現実の支配を保護し、権利の争いを適切な手続で解決させるための制度。
そう考えると。
あの食堂の事件が、急にはっきり見えてきました。
「よし」
私はノートの次のページを開きました。
「いよいよ、占有訴権の三種類です!」
「声がでけえ」
「大事ですから!」
私は大きく書きました。
――占有保持の訴え。
民法第百九十八条。
「まずは、これです!」
私は食堂の入口を思い出しました。
太い鉄の鎖。
南京錠。
裏口のドラム缶。
あれは、現に占有を妨害されている状態でした。
「占有保持の訴えは、占有者がその占有を妨害されたときに使うんですよね」
「そうだ」
「請求できるのは、妨害の停止と損害賠償!」
「うん」
私はノートに書きました。
――保持=今ある妨害を止める。
「先輩、ここで重要なのは、まだ占有そのものは奪われていないことですよね」
「そうだな」
「春江さんは、店を使う立場にありました。でも入口と裏口を塞がれて、自由に利用できなくなっていた」
相馬先輩が頷きました。
「だから、妨害の停止を問題にした」
「はい!」
ただし。
現場では、一つ注意が必要でした。
入口を塞がれたという事実だけで、必ず占有保持と決まるわけではありません。
占有自体が奪われたのか。
それとも、占有は続いているけれど利用を妨害されているのか。
その違いを見なければなりません。
「今回、春江さんは建物内部の管理や営業を続けていました」
「ああ」
「だから入口や裏口の封鎖を、現実の占有に対する妨害として整理したんですね」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
そして。
「先輩。占有保持の訴えには、期間があります!」
「言ってみろ」
「妨害が続いている間、または妨害がなくなった後一年以内です!」
「正解」
民法第二百一条第一項。
これは重要です。
占有回収の訴えと違って。
妨害が続いている限り、原則として、その妨害について占有保持の訴えを提起できる。
そして、妨害が消えたあとにも、一年間の期間があります。
「つまり、妨害が始まってから一年で必ず終わり、ではないんですね」
「そうだ」
「ただし、工事の場合は例外がある」
私は小さく書き足しました。
――工事による損害の場合は、特別の期間制限に注意。
この例外は、あとでまとめます。
相馬先輩が言いました。
「こはる。じゃあ、入口の鎖が外れたら、占有保持の問題は必ず全部終わるか?」
「……え?」
私は考えました。
入口の鎖。
それが外れれば、妨害は停止する。
でも、鎖があった間、営業できなかった日がある。
売上が減った可能性もある。
「あ!」
「何だ」
「損害賠償の問題が残る場合があります!」
「そうだ」
占有保持の訴えでは、妨害の停止だけでなく、損害賠償も請求できる。
ただし、具体的な損害や賠償責任が成立する事情については、証拠が必要です。
あの事件で。
営業日誌。
仕入れの記録。
店を開けられなかった時間。
そうした資料を集めたのも、そのためだったのです。
「なるほど……」
私は頷きました。
占有保持。
単に邪魔な物をどかすだけではない。
妨害によって受けた損害も、問題になる。
まずは、これで一つ目。
「では、二つ目です!」
私はノートをめくりました。
――占有保全の訴え。
民法第百九十九条。
「これは、まだ妨害されていない場合ですね!」
「正確に言え」
相馬先輩が言いました。
「……妨害されるおそれがある場合です!」
「そうだ」
私は食堂の事件を思い出しました。
黒川は、店の周囲にブルドーザーを入れると言っていました。
工事予告書もありました。
掘削する場所まで示されていました。
しかも、建物の塀を撤去するという発言もありました。
まだ工事は始まっていません。
でも。
工事が実施されれば、春江さんの店舗利用が妨害される具体的な危険がありました。
「そこで、占有保全の訴えなんですね!」
「そうだ」
「請求できるのは、妨害の予防、または損害賠償の担保です!」
私はノートに書きました。
――保全=これからの妨害を防ぐ。
「先輩、妨害の予防は分かります」
「ああ」
「でも、損害賠償の担保って何ですか?」
「将来損害が生じたとき、賠償を確保できるようにするための担保だ」
「……つまり?」
「相手が工事を進めて損害が出たとしても、賠償するだけの財産が残ってなけりゃ困るだろ」
「あっ!」
なるほど。
たとえば。
隣の土地で、大規模な掘削工事が予定されている。
自分の建物が傾く危険がある。
そこで、妨害の予防を求める。
または、損害賠償の担保を求める。
「ただし、保全という名前でも、必ず工事を止められるわけじゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「具体的な妨害の危険があるか。どんな予防措置が必要か。そこを見なきゃならねえ」
私は頷きました。
単に、
――隣の人が嫌い。
――何となく工事が怖い。
それだけでは足りません。
客観的な事情に基づいて、占有が妨害されるおそれがあることを示す必要があります。
「だから工事予告書が重要だったんですね!」
「ああ」
「日時、施工場所、工事内容、撤去予定の塀。全部、具体的な危険を示す材料だった!」
「そういうことだ」
私は鉛筆を握り直しました。
そして。
「先輩! 保全の訴えを起こせるのは、いつまでですか?」
「言ってみろ」
「妨害の危険が続いている間です!」
「正解」
民法第二百一条第二項。
これは、保持とも回収とも違います。
占有保全の訴えは、原則として、妨害の危険が存在している間に提起できます。
「じゃあ、危険が完全になくなったあとでは?」
「その危険を防ぐための占有保全の訴えは、原則として必要なくなるな」
「ですよね」
私は書きました。
――保全は、未来の危険があるうちに使う。
ここまで書いて、ふと疑問が湧きました。
「所長」
「何だ」
「もし黒川が工事を始めてしまったら、占有保全はもう使えませんか?」
片桐所長が顔を上げました。
「工事が始まっただけで、直ちに使えなくなるわけではない」
「え?」
「大切なのは、どのような妨害が生じ、どのような危険が残っているかだ」
なるほど。
工事が始まっていても、これから発生する占有妨害の危険が残っていれば、保全の問題になり得る。
すでに妨害が生じているなら、保持の問題にもなり得る。
ただし、工事については民法二百一条の特別な制限がある。
「そうか!」
私は手を叩きました。
「工事前なら絶対に保全、工事後なら絶対に保持、って機械的に決めるわけじゃないんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「大事なのは、実際に何が起きているかだ」
私は頷きました。
占有訴権の三種類は、試験のための単なる名前分けではありません。
現実の被害を、正確に見極めるための区別なのです。
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「三つ目だ」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――占有回収の訴え。
民法第二百条。
「これが、今回一番厄介でした!」
「そうだな」
黒川が持ち去った物置。
春江さんは、長年そこに漬物の樽や掃除道具を入れていました。
鍵も管理していました。
ところが黒川は、本人の承諾なく物置を運び出した。
現実の支配を、奪ったのです。
「占有回収の訴えは、占有を奪われたときに使うんですよね」
「そうだ」
「請求できるのは、物の返還と損害賠償です!」
私はノートに書きました。
――回収=奪われた物を取り返す。
「ここで重要なのが、占有の侵奪です」
私は言いました。
「たとえば、自分の物を相手に預けた場合は?」
相馬先輩が聞きました。
「自分の意思で預けたなら、それだけで占有を奪われたとはいえません」
「そうだ」
「一方、勝手に持ち去られた場合は?」
「侵奪が問題になる」
「はい!」
今回の物置は、まさにそれです。
そして。
「占有回収の訴えは、奪われた時から一年以内に提起しなければならない!」
「そうだ」
私は、そこに赤線を引きました。
ここは、占有保持との大きな違いです。
占有保持は、妨害が続いている間という期間があります。
でも占有回収は。
奪われた時から一年以内。
「先輩、ここで間違えやすいことがあります!」
「何だ」
「物が戻ってこない間は、ずっと訴えられると思ってしまうことです!」
「そのとおり」
私は頷きました。
占有を奪われた状態が続いている。
だから、いつまでも回収の訴えが使える。
そうではありません。
占有回収の訴えについては、奪われた時点から期間を数えます。
「つまり、二年前に奪われた物を、今も返してもらえないからといって、当然に占有回収の訴えが使えるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「でも!」
私は続けました。
「所有権に基づく返還請求など、別の手段が残っているかは、別問題!」
相馬先輩が笑いました。
「おお。そこまで覚えたか」
「昨日の事件で学びました!」
私は胸を張りました。
占有の訴えの期間を過ぎた。
だから、すべての権利が消える。
そういうわけではありません。
何を根拠として請求するか。
そこを分けて考えなければならないのです。
「ただし」
相馬先輩の声が少し低くなりました。
「占有回収には、もう一つ罠がある」
「……来ましたね」
「何がだ」
「試験で狙われるやつです!」
私は六法を開きました。
民法第二百条第二項。
――占有を侵奪した者の特定承継人。
――ただし、その承継人が侵奪の事実を知っていたときは、この限りでない。
「これです!」
私は思わず身を乗り出しました。
物置を持ち去った黒川。
その黒川から物置を買い取った丸山運送の社長。
あの二人の関係が、ここで問題になりました。
「先輩。特定承継人って何ですか?」
「売買や贈与など、特定の原因によって物を譲り受けた人のことだ」
「つまり、黒川から物置を買った丸山社長ですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ここがややこしいのです。
黒川が占有を奪った。
だから黒川に対して、占有回収を求める。
これは分かります。
でも。
黒川が物置を第三者に売却した場合。
その第三者に対しては、占有回収の訴えが制限される。
「どうしてですか?」
私が尋ねると、片桐所長が答えました。
「侵奪の事情を知らずに物を取得した者については、取引上の保護を考える必要があるからだ」
「なるほど……」
私は考えました。
たとえば、中古品店で木製の物置を買った。
売主が他人から勝手に持ち去った物だとは知らなかった。
その買主に対して、元の占有者が当然に占有回収の訴えを起こせるとしたら。
取引の安全に影響が出る。
だから民法は、特定承継人について例外を置いている。
「でも!」
私は指を立てました。
「買った人が、侵奪の事実を知っていた場合は別です!」
「そうだ」
「知っていたなら、占有回収の訴えを起こせる!」
「そのとおり」
私はノートに大きく書きました。
――善意の特定承継人には、原則として占有回収不可。
――侵奪の事実を知る悪意の特定承継人には、占有回収可能。
「先輩!」
「何だ」
「ここでいう悪意って、意地悪な人って意味じゃないんですよね!」
「当たり前だ」
「法律上の悪意は、知っていること!」
「そうだ」
私は笑いました。
悪意。
日常会話では、他人を困らせようとする気持ち。
でも民法では、ある事実を知っていることを意味する場合が多い。
今回なら。
物置が春江さんから無断で持ち去られたという侵奪の事実を、丸山社長が知っていたか。
それが問題になります。
「だから、丸山社長が黒川の知り合いというだけでは足りなかったんですね」
「ああ」
「無断で運び出したことを知っていたか、具体的な証拠が必要だった!」
「そのとおり」
私は、あの日の調査を思い出しました。
豆腐屋のおじいさん。
運送会社の配車帳。
事務員の証言。
丸山社長が、店主の留守中に物置を運び出したと話していたこと。
それらを組み合わせて、事情を知っていた可能性を裏付けていったのです。
「でも所長」
「何だ」
「善意の特定承継人に占有回収の訴えを起こせないなら、その人が必ず所有権を取得するんですか?」
「違う」
「ですよね!」
ここが重要です。
占有回収の訴えを提起できるか。
所有権を取得したか。
この二つは別問題です。
所有権を取得したかどうかは、取引の効力や即時取得など、別の規定も検討する必要があります。
「つまり!」
私は言いました。
「占有回収ができないからといって、その第三者が絶対に所有者だと決まるわけじゃない!」
「そうだ」
「逆に、占有回収ができるからといって、最終的な所有者まで決まるわけでもない!」
相馬先輩が頷きました。
「ようやく分かってきたな」
「はい!」
私は得意になって、ノートに二重線を引きました。
占有を取り戻せるか。
所有権が誰にあるか。
それぞれ別に考える。
ここを混同すると。
民法の問題は、簡単に迷路になってしまうのです。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「今度は、工事の期間制限だ」
「はい!」
私はノートの新しいページを開きました。
――民法第二百一条・工事の特則。
「これ、今回の事件で一番怖かったところです」
相馬先輩が頷きました。
「ああ。黒川は工事を始めようとしていたからな」
私は条文を見直しました。
工事によって占有物に損害が生じた場合。
その工事に着手した時から一年を経過したとき。
または。
工事が完成したとき。
占有保持の訴えは、提起できません。
さらに。
工事によって占有物に損害が生じるおそれがある場合の占有保全の訴えについても、同じ制限が準用されます。
「先輩。これ、二つの条件のうち、どちらか一方に当てはまったら駄目なんですよね」
「そうだ」
私は具体例を書きました。
工事着手から十一か月。
でも、すでに工事完成。
この場合は?
「完成しているので、工事に関する占有保持・占有保全の訴えは提起できません!」
「そうだ」
では。
工事着手から一年二か月。
まだ工事は終わっていない。
この場合は?
「着手から一年を経過しているので、やはり提起できません!」
「正解」
私は頷きました。
ここで危ないのが、
――工事が終わるまで大丈夫。
という思い込みです。
違います。
工事が完成していなくても、着手から一年を経過していれば、制限にかかる。
反対に。
着手から一年経っていなくても、工事が完成していれば、制限にかかる。
「つまり、完成と着手から一年。二つの時計を見なきゃいけないんですね!」
「そういうことだ」
私は鉛筆で、時計を二つ描きました。
一つは、工事着手からの経過時間。
もう一つは、工事の完成。
どちらも重要。
「でも所長」
「何だ」
「これって、工事による損害や、そのおそれについての特則ですよね」
「そうだ」
「世の中のすべての占有保持・保全の訴えが、工事着手から一年で消えるわけじゃない」
「そのとおり」
私は赤線を引きました。
ここ、間違えたら大変です。
普通の占有妨害と、工事による占有侵害。
期間の考え方に違いがあるのです。
「そして」
所長が言いました。
「この制限を過ぎたら、どうなる」
「占有保持や占有保全という訴えを、その工事について提起できなくなります」
「それだけか」
「……それだけ?」
私は少し考えました。
「あ!」
「何だ」
「所有権や賃借権に基づく請求、それから不法行為による損害賠償請求などは、別に検討する必要があります!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「占有訴権の期間制限があるからといって、あらゆる救済手段が一緒に消えるわけではない」
なるほど。
法律は、一つの問題に対して、複数の解決手段を用意していることがあります。
でも。
それぞれの要件も、期間も違う。
だからこそ、急いで正確に整理する必要があるのです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「ここまでで、三つの期間を一気に言えるか?」
「任せてください!」
私は立ち上がりました。
「占有保持!」
「うん」
「妨害が続いている間、または消滅後一年以内!」
「占有保全!」
「妨害の危険が続いている間!」
「占有回収!」
「奪われた時から一年以内!」
「工事の特則!」
「着手から一年経過、または完成した場合には、工事による損害・そのおそれについての保持・保全の訴えは提起できません!」
相馬先輩が少し驚いた顔をしました。
「……覚えたな」
「ふふん!」
「ただし、実際の事件では日付を確認しろよ」
「はい!」
私はノートを見つめました。
最初は。
保持。
保全。
回収。
どれも似たような名前に見えました。
でも。
春江さんの食堂を思い出せば、もう迷いません。
入口の鎖。
今、邪魔されている。
だから、保持。
ブルドーザー。
これから邪魔される危険がある。
だから、保全。
持ち去られた物置。
すでに奪われた。
だから、回収。
「……なるほど」
私は思わず笑いました。
「何だ」
相馬先輩が聞きます。
「やっぱり、事件で覚えると忘れませんね」
「そりゃそうだろ」
「だって、三つ全部に顔があるんですよ」
「顔?」
「入口の鎖には黒川さんの嫌な笑顔。ブルドーザーにも黒川さん。物置にも黒川さん」
「全部黒川じゃねえか!」
「今回の悪役、働きすぎですよね!」
相馬先輩が吹き出しました。
確かに。
占有訴権を三種類全部覚えさせてくれるなんて。
行政書士試験の教材としては、妙に優秀な悪役でした。
もちろん。
現実の被害者にとっては、まったく笑えない話ですが。
「じゃあ、次は本権との関係です!」
私は大きく書きました。
――民法第二百二条。
「これが、今回の黒川さんに一番効いたところですね」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
黒川の主張は単純でした。
――土地は俺のものだ。
――登記簿にも俺の名前がある。
――だから、自由に使える。
でも。
片桐所長は、その主張に正面から所有権で対抗したわけではありません。
春江さんの現実の占有が妨害されているという事実を整理しました。
「先輩。どうして所有権そのものを争わなかったんですか?」
「土地が黒川のものだという点は、争いがなかったからだ」
「はい」
「それに、占有の訴えで何を判断するかは、法律が決めている」
私は条文を読みました。
民法第二百二条第一項。
占有の訴えは本権の訴えを妨げず、本権の訴えは占有の訴えを妨げない。
第二項。
占有の訴えについては、本権に関する理由に基づいて裁判をすることができない。
「つまり」
私は言いました。
「占有の問題と、所有権などの本権の問題は、独立して扱われるんですね」
「そうだ」
「黒川さんが土地の所有者だからといって、占有の訴えについて当然に勝てるわけじゃない」
「そのとおり」
私は例を書きました。
Aさんが土地を所有している。
Bさんがその土地を借りて使用している。
Aさんが突然、Bさんを力ずくで追い出した。
「Aさんに所有権があるから、Bさんの占有回収は絶対に認められない」
これは誤りです。
Aさんに所有権があることと、Bさんの占有を侵奪したことは、別に判断しなければならないからです。
「でも、Bさんが占有を回復できたら、Aさんの所有権が消えるんですか?」
相馬先輩が聞きました。
「消えません!」
「そうだ」
「Aさんは、所有権や契約関係に基づいて、適法な手続で権利を主張する余地があります!」
「正解」
私は頷きました。
これです。
占有を保護することは、所有者を永久に排除することではありません。
誰が最終的に利用する権利を持つのか。
その問題を、力ずくではなく法律によって解決する。
だから。
占有の訴えと本権の訴えは、互いに妨げない。
「所長!」
「何だ」
「これって、民法の秩序を守る考え方なんですね!」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は、しばらく六法を眺めました。
自分の権利を守るためだとしても。
他人の権利を勝手に踏みにじってよいわけではない。
法律がある以上。
法律の手続で解決しなければならない。
この考え方は。
昭和六十三年でも。
現代でも。
変わらないのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「今回の占有訴権、昭和と令和でほとんど同じですよね?」
「あ?」
相馬先輩が顔を上げました。
「また妙なことを言い始めたな」
「あ、いえ!」
しまった。
未来人の癖です。
私は慌てて六法を抱えました。
「民法の改正について考えていたんです!」
「ほう」
「民法って、時代によってずいぶん変わりますよね」
私は、これまでの事件を思い出しました。
成年後見制度。
禁治産者。
準禁治産者。
現代では成年被後見人や被保佐人などの制度に変わっている。
そして。
債権法の大改正。
現代では、契約不適合責任という言葉を使う。
でも昭和六十三年には、瑕疵担保責任という制度がある。
消滅時効にも大きな違いがある。
なのに。
今回の占有訴権は。
民法百九十八条。
百九十九条。
二百条。
二百一条。
二百二条。
昭和でも、現代でも、基本的な仕組みが続いている。
「どうしてだと思う?」
片桐所長が尋ねました。
私は少し考えました。
「……人が物を使って暮らしているという現実は、時代が変わってもなくならないからでしょうか」
所長は頷きました。
「そうだな」
私は続けました。
「所有権が誰にあるかという問題も、もちろん大切です」
「うん」
「でも、その解決のために力ずくで占有を奪ってはいけないという考え方は、時代が変わっても必要なんですね」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だ。未来になったら地主が勝手に人を追い出していい社会になるのか?」
「なりません!」
「だろうな」
私は少し笑いました。
民法の改正には、いろいろな理由があります。
古い用語を見直す。
社会の変化に対応する。
判例で積み重ねられてきた考え方を明文化する。
契約関係のルールを分かりやすくする。
でも。
必要な仕組みは、長く引き継がれることもある。
占有訴権は、その一つなのです。
「……なるほど」
私は呟きました。
法律って。
変わる部分だけを見ると、昔と今でまったく別物に思えます。
でも。
変わらない部分を見ると。
人間社会が、ずっと守ろうとしてきたものが見えてくる。
今回の占有訴権なら。
それは、平穏な生活と、法的な秩序でした。
窓の外が、少し暗くなってきました。
私はノートを閉じかけました。
ところが。
「こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい?」
「最後に確認問題だ」
「来ましたね!」
「何で嬉しそうなんだ」
「試験対策ですから!」
私は鉛筆を構えました。
「第一問」
「はい!」
「Aが所有する土地をBが借りて使用していた。Aが勝手にBの入口を塞ぎ、使用を妨害した。Bが考える占有の訴えは?」
「占有保持の訴えです!」
「何を請求できる?」
「妨害の停止と損害賠償です!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「第二問」
「はい!」
「隣の土地で、来週から掘削工事が始まる。自分の建物の占有が妨害される具体的な危険がある。使う訴えは?」
「占有保全の訴え!」
「何を請求できる?」
「妨害の予防、または損害賠償の担保です!」
「よし」
「第三問!」
「はい!」
「自分が占有していた物置を、無断で持ち去られた」
「占有回収の訴えです!」
「請求できる内容は?」
「物の返還と損害賠償です!」
「提起期間は?」
「奪われた時から一年以内!」
よし。
完璧です。
「第四問」
「はい!」
「持ち去った奴が、その物置を第三者に売った」
「はい!」
「第三者が侵奪の事実を知らなかった場合は?」
「原則として、その第三者には占有回収の訴えを提起できません!」
「知っていた場合は?」
「提起できます!」
「正解」
私は拳を握りました。
やった。
占有訴権。
もう怖くありません。
しかし。
「最後だ」
片桐所長が口を開きました。
「はい!」
「工事が完成したあとでも、工事による占有侵害について、占有保全の訴えを提起できるか」
「できません!」
「理由は?」
「民法二百一条二項が、一項ただし書を準用しているからです!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず立ち上がりました。
「全部正解です!」
「座れ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「まだ終わってねえ」
「えっ?」
先輩が、にやりと笑いました。
「じゃあ、地主が土地の所有権を持っていたら、占有の訴えについて、所有権を理由に裁判で勝てるか?」
私は即答しました。
「所有権があるという理由だけで、占有の訴えについて判断することはできません!」
「何条だ?」
「民法二百二条第二項!」
「よし!」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく一人前の受験生らしくなってきたな」
「見習い行政書士です!」
「まだ資格を取ってねえだろ」
「夢は大きくです!」
私は笑いました。
でも。
心の中では、少しだけ誇らしい気持ちになっていました。
占有保持。
占有保全。
占有回収。
最初は、ただの暗記項目でした。
でも今は。
あの食堂の入口が浮かびます。
鎖。
ドラム缶。
持ち去られた物置。
そして。
ブルドーザー。
それぞれの場面を思い出せば、三種類の違いが自然に分かるのです。
私は最後のページを開きました。
「さて」
鉛筆の先を整えます。
「今日の一行です!」
相馬先輩が横から覗き込みました。
「何を書くんだ?」
「決まってます!」
私はゆっくり書きました。
――保持は「今の妨害を止める」、保全は「未来の妨害を防ぐ」、回収は「奪われた物を取り戻す」。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が見ました。
「まあ、分かりやすいな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
今日の一行は、たぶん忘れません。
食事処ふじた。
三十年間、続いてきた小さな定食屋。
土地は、地主のもの。
でも。
そこには春江さんの暮らしがありました。
亡くなったご主人との思い出がありました。
毎日昼ご飯を食べに来る人たちがいました。
そうした日常を、民法は占有という仕組みを通じて守ろうとしている。
所有権を否定するのではなく。
誰かが勝手に力ずくで現実を変えてしまうことを防ぐ。
その意味が、今なら分かります。
「所長」
「何だ」
「私、占有権のこと、もうずるい制度だとは思いません」
片桐所長が顔を上げました。
「そうか」
「はい」
「どうしてだ」
私は少し考えました。
そして答えました。
「法律は、強い人だけが自分の権利を実現できる仕組みであってはいけないからです」
所長は、静かに頷きました。
「そうだな」
「所有者にも、借りている人にも、それぞれ権利がある」
「うん」
「だから、その争いは、力じゃなくて法律で解決しなきゃいけない」
私はノートを閉じました。
「それが、占有訴権の大切なところなんですね」
「そうだ」
所長は短く言いました。
でも。
その一言が、とても嬉しかったのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「今日はもう終わりだ。机を片付けろ」
「はい!」
「それと、その紙袋は何だ?」
……。
私は机の端を見ました。
そこには、食事処ふじたからいただいたハンバーグの包み。
「これは、春江さんからいただいたものです!」
「昨日も食ってなかったか?」
「昨日のは昨日のです!」
「毎日もらってるのか」
「ご厚意です!」
私は紙袋を抱きしめました。
「ちなみに先輩」
「何だ」
「これは私が占有しています」
「見りゃ分かる」
「だから、勝手に奪ったら占有回収の訴えです!」
「誰も奪わねえよ!」
「それから、勝手に袋を開けて中身を触ったら占有保持!」
「開けねえ!」
「さらに、先輩が今から奪おうとしているなら占有保全!」
「だから奪わねえって言ってるだろ!」
私は笑いました。
「三段階で完璧に守ります!」
「お前、法律を何に使ってるんだ!」
……。
なるほど。
民法を学ぶと、何でも法律問題にしたくなります。
でも。
先輩がただ紙袋を見ただけでは、具体的な占有妨害の危険があるとはいえません。
占有保全の訴えを使うためには、実際に妨害されるおそれが必要です。
そこは、ちゃんと区別しないといけません。
「分かりました!」
私は紙袋を置きました。
「先輩を疑うのはやめます!」
「最初から疑うな!」
「でも、もし勝手に食べたら……」
「食わねえよ!」
事務所に笑い声が響きました。
窓の外。
夕暮れの町には、商店の明かりが灯っています。
あのどこかで。
春江さんも、明日の仕込みをしているのでしょう。
大きな鍋。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚の香り。
そして。
鎖のかかっていない、当たり前の入口。
そんな日常が、明日も続く。
それは、決して小さなことではありません。
占有保持。
占有保全。
占有回収。
三つの訴えには、それぞれ違う役割があります。
今ある妨害を止める。
未来の妨害を防ぐ。
奪われた物を取り戻す。
そして、それらの奥には。
他人の暮らしを、力ずくで壊してはいけないという考え方がある。
私はノートをもう一度開きました。
最後の一行を、指でなぞります。
――保持は「今の妨害を止める」、保全は「未来の妨害を防ぐ」、回収は「奪われた物を取り戻す」。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「そのハンバーグ、冷めるぞ!」
「……あっ!」
私は慌てて紙袋を持ちました。
そうでした。
占有権で守ることができても。
ハンバーグが冷めるのを、民法が止めてくれるわけではありません。
残念ながら。
今日、一番急いで守るべきものは。
私の夕ご飯だったようです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




