[民法・囲繞地通行権]現場編 「俺の土地を通りたければ百万円払え」の罠。袋地を閉ざした強欲地主と、通行料ゼロを突きつける民法二百十三条の逆襲
土地を持っていても、家に帰れないことがあります。
家はある。
庭もある。
土地の登記簿にも、自分の名前が載っている。
なのに。
玄関から公道へ出ようとすると、他人の土地を通らなければならない。
そんなとき。
隣の地主から、
「俺の土地だ。通りたければ金を払え」
と言われたら、どうすればいいのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は民法の恐ろしさと優しさを、同時に知ることになります。
今回の敵は、悪徳地主。
武器は、一本の私道。
そして、勝敗を決めたのは。
たった一つの、土地の分け方でした。
「家から出られなくなったんです!」
朝九時。
事務所の扉が勢いよく開きました。
飛び込んできたのは、六十代半ばの女性でした。
名前は、杉浦トシさん。
六十五歳。
この町で三十年以上、和裁の仕事をしてきた女性です。
「家から出られないって……どういうことですか?」
私が聞くと、トシさんは震える手で一枚の写真を差し出しました。
そこには。
細い砂利道。
その真ん中に、太い丸太が二本。
さらに鉄の鎖。
そして、立て札。
――私有地につき通行禁止。
――無断通行者は法的措置を取る。
「……これ、どこですか?」
「私の家の前です」
「え?」
「私の家から、町道へ出るための道なんです」
私は写真を見直しました。
道の先には、小さな木造住宅。
花壇には赤いサルビア。
玄関脇には、古い郵便受け。
いかにも昭和の住宅という、落ち着いた家です。
「この道以外に、公道へ出る道はないんですか?」
「ありません」
「裏側は?」
「田んぼです。人様の田んぼを勝手に横切るわけにもいきません」
「反対側は?」
「用水路です」
「……なるほど」
私はノートを取りました。
周囲を他人の土地に囲まれ、公道に直接出られない土地。
これ、知っています。
民法です。
相隣関係です。
「袋地ですね!」
私が言うと、トシさんは驚いた顔をしました。
「ふくろじ?」
「はい。公道に通じていない土地のことです」
「ああ……。袋の中に入っているみたいだから?」
「そういうイメージです!」
私は頷きました。
そして。
頭の中に、現代の民法が浮かびました。
民法第二百十条。
公道に至るための他の土地の通行権。
袋地の所有者は、公道に出るため、周囲の他人の土地を通ることができる。
いわゆる囲繞地通行権。
よし。
今回は条文が使えます。
「大丈夫です!」
私は胸を張りました。
「囲繞地通行権があります!」
ところが。
「待て、こはる」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「はい?」
「何条を使うつもりだ」
「民法二百十条です!」
「それだけか?」
「え?」
「通行料はどうする」
「あ……」
そうでした。
囲繞地通行権。
法律上、他人の土地を通れる。
でも。
原則として、相手方の損害に対して償金を支払う必要がある。
民法二百十二条。
「通行料は……必要になることがありますね」
「そうだ」
「でも、法外な金額を請求されたら困りますよね」
「いくら請求された?」
相馬先輩が聞くと、トシさんは唇を噛みました。
「……百万円です」
「百万円!?」
私は思わず立ち上がりました。
「たった一本の道を通るだけで!?」
「それに、毎年十万円払えって……」
「毎年!?」
先輩が低い声で言いました。
「ずいぶん強気な地主だな」
トシさんはハンカチを握りました。
「払えなければ、家を売って出ていけと言われました」
……。
私は写真を見つめました。
丸太。
鎖。
通行禁止の立て札。
これでは、まるで家の周りに見えない壁を作られたようなものです。
「相手は誰ですか?」
「隣の土地の持ち主です」
トシさんは答えました。
「……実の弟なんです」
私は手を止めました。
「弟さん?」
「はい」
そして。
この事件は、ただの通行料争いではないことが分かってきたのです。
弟の名前は、杉浦勝男。
五十八歳。
町で建材店を営む男でした。
七年前。
トシさんたちの父親が亡くなりました。
父親は、町道に面した大きな土地を所有していました。
そこには母屋と離れ、そして細長い庭がありました。
父親の死後。
兄弟姉妹の間で遺産分割の話し合いが行われました。
その結果。
町道に面した広い土地を、弟の勝男が取得。
奥にある離れと、その敷地を、姉のトシさんが取得。
そして、登記も済ませた。
「ちょっと待ってください」
私は聞き返しました。
「もともとは、一つの土地だったんですか?」
「ええ。父の土地でした」
「それを、相続人同士で分けた?」
「はい」
「土地を分けたとき、トシさんの敷地は公道に面していなかったんですか?」
「そうです。でも、その代わり……」
トシさんは一枚の古い紙を取り出しました。
昭和五十六年。
遺産分割協議書。
少し黄ばんだ紙です。
私は慎重に広げました。
そして、その中の一文で目が止まりました。
――杉浦勝男は、杉浦トシが取得する宅地から公道に至るため、自己取得地の東側通路部分を従前どおり通行することを認める。
「……!」
私は顔を上げました。
「これ!」
「何かありますか?」
「あります!」
私は相馬先輩を見ました。
「先輩! 通行について書いてあります!」
先輩が協議書を受け取りました。
「ほう」
そして、低く笑いました。
「……面白くなってきたな」
片桐所長も書類を覗き込みました。
「登記簿は?」
「持ってきました」
トシさんは、もう一つの封筒を開きました。
土地登記簿謄本。
旧土地台帳の写し。
地積測量図。
そして、当時の分筆に関する資料。
所長は一枚ずつ確認しました。
「相馬」
「はい」
「この土地の分け方を調べろ」
「分かりました」
所長はトシさんへ向き直りました。
「トシさん。通行料を払う約束はありましたか」
「ありません」
「これまで払ったことは?」
「ありません」
「七年間、弟さんは何も言わなかった?」
「ええ。今年になるまでは」
「なぜ、急に通行禁止に?」
トシさんは目を伏せました。
「弟が、私の土地を買いたいと言い出したんです」
「買う?」
「建材店の資材置場を広げたいそうです」
なるほど。
話が見えてきました。
「断ったら?」
「……百万円払えって」
私は思わず机を握りました。
つまり。
土地を買い取れない。
ならば、通路を封鎖する。
困った姉が安値で土地を手放すように仕向ける。
そういうことですか。
「ひどい……!」
トシさんは小さく言いました。
「父が建ててくれた家なんです」
その声が震えます。
「主人も、あの家で亡くなりました」
「……」
「私は、あそこで最後まで暮らしたいだけなんです」
私は返す言葉がありませんでした。
家というのは。
単なる建物ではありません。
そこには、暮らした時間があります。
家族の声があります。
毎日出入りした玄関があります。
それを。
通路一本で奪おうとしている。
「所長」
私は言いました。
「絶対に何とかしましょう」
片桐所長は、静かに頷きました。
「まずは、現地だ」
そう言って、測量図を畳みました。
翌日。
私と相馬先輩は、トシさんの家へ向かいました。
駅から自転車で十五分。
田んぼの広がる町外れです。
秋の風が、刈り取られた稲の匂いを運んでいました。
そして。
「あれですね……」
目の前には、写真どおりの光景がありました。
細い通路。
幅はおよそ二メートル。
公道から奥の家まで、三十メートルほど。
そこを、鎖と丸太が塞いでいます。
「これじゃ自転車も通れませんよ!」
「そうだな」
「トシさん、どうやって買い物に?」
「今は近所の人に頼んで、必要な物を運んでもらっているそうだ」
「……」
私は奥の家を見ました。
玄関先には、白い菊の鉢植え。
家の中には誰かの生活があるのに。
外との道だけが断たれている。
「先輩、丸太をどかしちゃ駄目ですか?」
「駄目だ」
「でも!」
「勝手に撤去すりゃ、別の紛争になる」
「……はい」
「まず、土地を確認するぞ」
先輩は測量図を広げました。
私は、地面と図面を交互に見ました。
町道。
勝男の土地。
その奥に、トシさんの土地。
両側には隣接する田畑と宅地。
さらに裏側には用水路。
完全に袋地です。
「ここを通るしかありませんね」
「少なくとも、今の生活で使ってきた道はここだ」
「しかも、もともと一つの土地だった」
「ああ」
先輩が図面を指しました。
「こはる。民法二百十一条を言ってみろ」
「通行の場所と方法は、通行権者のために必要で、かつ、通行される土地の損害が最も少ないものを選びます!」
「よし」
「必要があれば、通路を開設することもできます!」
「そうだ」
「だから、ここが一番いいですよね!」
「待て」
「え?」
「一番いいと決めるには、ほかの経路も調べる必要がある」
「……あ」
先輩は測量図の隅を指しました。
「北側の畑を斜めに横切れば、距離だけなら短い」
「確かに」
「だが、そこは別の人の畑だ。作物を踏み潰すことにもなる」
「はい」
「西側は?」
「住宅の庭があります」
「南側は?」
「用水路です」
「だったら?」
私は図面を見ました。
現に使われてきた東側の通路。
すでに砂利が敷かれている。
家の出入りに必要な幅がある。
建物も作物も壊さずに済む。
「この既存の通路が、周囲の土地への損害を少なくできそうです」
「そうだな」
先輩は頷きました。
「ただし、現況だけじゃない。土地が分けられた経緯も重要だ」
そのときです。
「おい!」
怒鳴り声がしました。
振り返ると。
作業着姿の男が立っていました。
短く刈った髪。
太い腕。
そして、妙に威圧的な目。
「何を勝手に調べてる!」
杉浦勝男。
問題の弟です。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
先輩が名刺を差し出しました。
「杉浦トシさんから、土地の状況を確認するための書類作成を依頼されています」
「行政書士?」
勝男は鼻で笑いました。
「弁護士じゃねえのか」
「そうです」
「なら、土地のことに口出しするな!」
出ました。
行政書士を舐める悪役の定番台詞。
相馬先輩は表情を変えません。
「こちらは公道上から土地の状況を確認しています」
「ふん」
勝男は鎖を指差しました。
「見りゃ分かるだろ。俺の土地だ」
「はい」
「俺の土地を誰が通るかは、俺が決める!」
私は思わず口を開きました。
「でも、トシさんの家は袋地です!」
「だから何だ!」
「民法には、囲繞地通行権というものが――」
「知ってるよ!」
……え?
私は驚きました。
「知ってるんですか?」
「ああ!」
勝男は得意げに笑いました。
「土地屋に聞いたからな。通る権利があるなら、通行料を払うんだろ?」
……。
私は一瞬、言葉に詰まりました。
間違っていない。
一般的な囲繞地通行権では、償金が問題になります。
「だから百万円だ!」
勝男は腕を組みました。
「それと、毎年十万円!」
「金額の根拠は?」
相馬先輩が聞きました。
「俺が決めた!」
「……」
「嫌なら通るな!」
先輩は淡々と言いました。
「通行の必要性や、土地の損害などを確認する必要がありますね」
「何だと?」
「それに、土地を分けた経緯も」
その瞬間。
勝男の顔が、ほんの少し強張りました。
「……昔の話は関係ねえ」
「関係があるかどうか、調べます」
「登記を見ろ!」
勝男は怒鳴りました。
「通行地役権なんか登記されてねえぞ!」
私は、はっとしました。
通行地役権。
地役権は、他人の土地を自己の土地の便益のために利用する物権です。
でも。
今回の囲繞地通行権とは、仕組みが違います。
「先輩!」
私は小声で言いました。
「囲繞地通行権は、登記がなくても――」
「ああ」
先輩が頷きます。
「法律で認められる通行権だ」
勝男は鼻で笑いました。
「口で何とでも言えるだろ!」
そして。
こちらを睨みました。
「百万円払えなきゃ、姉貴には出ていってもらう」
私は唇を噛みました。
何という人でしょう。
実の姉に対して。
住む場所を奪うようなことを。
「相馬先輩……」
「こはる」
「はい」
「もういい」
「でも!」
「必要なことは分かった」
先輩は勝男に軽く頭を下げました。
「今日は失礼します」
「二度と来るな!」
背中に怒鳴り声が飛びました。
私は悔しくて仕方ありませんでした。
「先輩!」
「何だ」
「何で反論しなかったんですか!」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「それは分かってます!」
「依頼人の代理人として、相手と法律紛争の示談交渉はできねえ」
「……はい」
「相手の主張と、土地の現況は確認できた」
先輩は図面を畳みました。
「勝負は、事務所に帰ってからだ」
「……書類ですか?」
「ああ」
先輩は、にやりとしました。
「それも、普通の囲繞地通行権の通知じゃねえ」
「え?」
「こはる。二百十三条を読んでみろ」
私は固まりました。
二百十三条。
ええと。
何でしたっけ。
「……先輩」
「何だ」
「何となく、ものすごく大事な条文の気がしてきました」
「遅えよ」
先輩は笑いました。
「今回、通行料を払わずに済むかもしれねえ条文だ」
……え?
私は目を丸くしました。
「通行料、ゼロですか!?」
「ああ。条件が揃えばな」
先輩は、トシさんの家を振り返りました。
「袋地になった理由が、鍵なんだよ」
事務所に戻ると。
私は六法を開きました。
民法第二百十三条。
そして。
「……あっ!」
思わず叫びました。
「これだ!」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「分かったか」
「はい!」
私は条文を指差しました。
「土地の分割によって、公道に通じない土地が生じた場合!」
「うん」
「その土地の所有者は、他の分割者の土地を通行できる!」
「そうだ」
「そして……」
私は一度、息を吸いました。
「償金を払う必要がない!」
相馬先輩が頷きました。
「そのとおり」
「ええええっ!」
私は立ち上がりました。
「じゃあ百万円どころか!」
「うん」
「毎年十万円も!」
「ああ」
「払わなくていいんですか!?」
「今回の土地の分割関係が、条文に当てはまればな」
私は、机の上の地積測量図を見ました。
七年前。
一つの土地。
遺産分割。
分筆。
弟が公道側。
姉が奥側。
そして、姉の土地は袋地となった。
……。
まさに、これではありませんか。
「先輩!」
「何だ」
「でも、どうして無料なんですか?」
「考えてみろ」
先輩は図面に鉛筆を走らせました。
「最初は一つの土地だった」
「はい」
「そのときは、敷地の中を通って公道に出られた」
「はい」
「ところが、それを二つに分けた」
「はい」
「奥の土地だけ、道がなくなった」
私は頷きました。
先輩は続けました。
「じゃあ、土地を分けた結果として生じた不便を、どう処理する?」
「……」
「土地を分けた当事者同士で、その通行関係を引き受けるべきだろ」
私は息を呑みました。
なるほど。
もともと一つだった土地を分けた。
その結果、袋地を作った。
なのに。
公道側の土地を取得した者が、奥の土地の所有者に、
「通りたければ金を払え」
と言い出せるなら。
土地を分けたことによる不利益を、奥の所有者だけに押しつけることになります。
「だから二百十三条では、特別な扱いをするんですね!」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「しかも、通れるのは原則として、その分割関係にある他の分割者の土地だ」
「隣の無関係な人の土地を、自由に選べるわけじゃない?」
「そのとおり」
私は感動しました。
すごい。
民法。
ちゃんと、土地が袋地になった事情まで見ているのです。
「……でも」
私は首をかしげました。
「一つ気になることがあります」
「何だ」
「現代の民法には『公道に至るための他の土地の通行権』という見出しがありますよね」
「公道に至るための……何だって?」
「あっ」
しまった。
やりました。
現代民法の見出し。
昭和六十三年の六法には、そのような現代の条文見出しは載っていません。
「こはる」
先輩が眉をひそめました。
「さっきから何の本を読んでる?」
「あ、いえ、その……」
「今は囲繞地通行権の話だろ」
「はい!」
私は慌てて六法を閉じかけました。
「閉じるな」
「はい……」
相馬先輩が溜息をつきました。
「民法の昔からある仕組みだ。名称ばかり気にするな」
「……はい」
囲繞地。
いにょうち。
現代でも、実務や学習では使われる言葉です。
でも、一般の人には難しい。
その点、現代の条文見出しは、何のための通行権なのかが分かりやすい。
もっとも、今回の通行権の基本的な仕組みは、昭和にも存在している。
新しい言葉を持ち込むより。
今ある条文を正しく使う。
それが大切なのです。
「所長!」
私は奥に声をかけました。
「二百十三条です!」
片桐所長が顔を上げました。
「分かったか」
「はい!」
「なら、条文を使う前に確かめることがある」
「何ですか?」
「本当に、分割によって袋地になったのか」
……。
あ。
そうでした。
民法二百十三条が使えるかどうか。
それは。
土地が袋地であるという事実だけでは決まりません。
その袋地が、どのように生まれたのか。
そこを、証拠で確認しなければならないのです。
「相馬」
「はい」
「資料を揃えろ」
所長は指示しました。
「分割前の登記簿」
「はい」
「分筆後の登記簿」
「はい」
「遺産分割協議書」
「あります」
「地積測量図」
「確認済みです」
「そして、現況の通路」
相馬先輩が頷きました。
「写真と実測記録を添えます」
所長は短く言いました。
「よし」
私は机に向かいました。
いよいよです。
民法二百十三条。
この条文が、強欲な地主の百万円を吹き飛ばす。
そう思うと。
鉛筆を握る手に、自然と力が入りました。
しかし。
片桐所長は、私の原案を見て。
すぐに赤鉛筆を取りました。
「こはる」
「はい!」
「これは何だ」
「通知書です!」
「読んでみろ」
私は自分の原案を読みました。
「貴殿の要求する通行料百万円は、民法二百十三条に違反する不当請求であり、直ちに通路を開放しなければ――」
「待て」
「はい?」
「『違反する不当請求』?」
「はい!」
「条文に基づく通行を妨げることと、請求した金額が法律上認められることは別だ。正確に書け」
「あ……」
「それに、相手に命令する立場でもない」
赤線。
「……はい」
「次」
所長は指差しました。
「『一切の通行料を支払う義務は存在しない』」
「はい」
「この土地について、二百十三条が適用されることを資料で特定しろ」
「……はい」
赤線。
「次」
「まだあるんですか!?」
「『相手方の土地は自由に使用できる』」
私は固まりました。
「……駄目ですね」
「駄目だ」
所長は淡々と言いました。
「通行できることと、何でも自由に使えることは違う」
「はい」
「通行の場所と方法は、必要な範囲で、相手方の損害が最も少ないものを考える」
民法二百十一条。
私は頷きました。
通行権がある。
だから、好きなところを通れる。
違います。
相手の土地も、立派な私有財産です。
通る側の必要と。
通られる側の損害。
その両方を考える。
これが相隣関係なのです。
「所長」
私は聞きました。
「でも、勝男さんは道を塞いでますよね」
「ああ」
「トシさんが勝手に丸太をどかしたら?」
「勧められん」
「ですよね……」
「通行権があることと、自力で障害物を撤去してよいことは別だ」
所長は書面を置きました。
「必要なら、弁護士に引き継いで妨害排除などの法的手段を検討する」
「はい」
「俺たちがするのは、事実を整理し、本人の意思に基づく書類を正確に作ることだ」
私は頷きました。
法律上の権利があるからといって。
何でも力ずくで実現していいわけではありません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「お前、もう一つ忘れてるぞ」
「何ですか?」
「二百十二条だ」
「償金ですか?」
「ああ」
私は首をかしげました。
「でも、今回は二百十三条で無料ですよね?」
「そうだ。だが、普通の袋地ならどうなる?」
「原則として、囲繞地の損害に対する償金を払います」
「いつ払う?」
「えっと……」
私は六法を開き直しました。
「あっ!」
「思い出したか」
「一年ごとに支払うことができます!」
「ただし?」
「通路の開設のために生じた損害に対する償金は、その例外です!」
「よし」
私はノートに書きました。
一般の囲繞地通行権。
原則、償金あり。
通路開設の損害を除き、一年ごとの支払が可能。
分割によって生じた袋地。
民法二百十三条。
分割関係にある土地を通行。
償金不要。
……。
同じ袋地でも。
生まれ方によって、支払うお金が変わる。
これは、かなり大きな違いです。
「先輩」
「何だ」
「もし今回、トシさんが全然関係ない土地を買って、それが最初から袋地だったら?」
「その場合は、一般の二百十条以下の問題になる」
「償金が必要になる可能性がある?」
「そうだ」
「でも今回は、兄弟で元の土地を分けた」
「ああ」
「だから特別扱い!」
「そういうことだ」
私は拳を握りました。
よし。
これなら、もう間違えません。
……たぶん。
「たぶんじゃ困るぞ」
相馬先輩が言いました。
「声に出してません!」
「顔に出てる」
怖い。
昭和の先輩。
心まで読まないでください。
三日後。
片桐所長の机には、完成した書類が置かれていました。
表題。
――通行権に関する通知書。
差出人。
杉浦トシ。
宛先。
杉浦勝男。
私は、慎重に読み上げました。
「第一。本件土地は、昭和五十六年、被相続人杉浦重吉の遺産に属していた一団の土地を、相続人間の遺産分割により分けたものである」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第二。同遺産分割の結果、通知人取得地は公道に接しない袋地となり、貴殿取得地は公道に接する土地となった」
「うん」
「第三。民法第二百十三条により、分割によって公道に通じない土地が生じた場合、当該袋地の所有者は、他の分割者の所有地を通行することができ、その通行につき償金を支払うことを要しない」
私は一度、息を吸いました。
ここです。
今回の核心。
「第四。よって、通知人は、本件遺産分割によって生じた袋地から公道に至るため、貴殿取得地の従前の通路部分を、必要な範囲において通行する権利を有する」
所長が頷きました。
「続けなさい」
「第五。当該通路部分は従前から通行のために使用され、砂利敷きの通路として存在しており、現況及び周囲の土地利用状況に照らし、通行の必要性及び損害の少なさの点で合理的な経路である」
私は資料を見ました。
現況写真。
測量図。
遺産分割協議書。
分筆関係資料。
全部、揃っています。
「第六。貴殿が要求する百万円及び年額十万円について、民法第二百十三条に基づく本件通行の償金として支払う義務はない」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「いいな」
私は続けました。
「第七。昭和六十三年某月某日、貴殿が設置した丸太及び鎖により、従前の通路が閉鎖され、通知人の住居から公道への通行が妨げられている」
「うん」
「第八。ついては、右障害物を撤去するなどして、通知人の通行を妨げない状態に戻されたい。また、本通知書到達後七日以内に、対応方針を書面により回答されたい」
最後に。
私は声を落としました。
「なお、通行妨害が継続する場合には、弁護士に相談のうえ、通行権の確認、妨害排除その他必要な法的措置を検討する」
読み終わりました。
事務所が静かになりました。
所長は書面を見つめています。
「……どうでしょう」
私は恐る恐る聞きました。
所長は頷きました。
「よし」
「本当ですか!?」
「ああ」
私は思わず両手を握りました。
やった!
初稿から何度も書き直した内容証明。
ようやく完成です。
相馬先輩が、書類を指で叩きました。
「こはる」
「はい!」
「この書面のどこが一番強いと思う?」
「民法二百十三条です!」
「それだけか?」
「……え?」
「条文だけなら、勝男だって六法を買えば読める」
「確かに」
「大事なのは、その条文が使える事実を揃えたことだ」
私は書面を見ました。
昭和五十六年。
遺産分割。
分筆。
袋地の発生。
分割者それぞれの取得地。
従前の通路。
その全部が、客観資料で繋がっています。
「なるほど……」
「相手が『俺の土地だ』と言っても、こっちは『だから何だ』と返せる」
先輩は笑いました。
「所有権があることと、法律上の通行を拒めることは別なんだ」
私は頷きました。
そうです。
勝男は確かに、自分の土地を持っています。
でも。
土地の所有権は、何をしてもよいという無制限の権利ではありません。
隣接する土地との関係で、一定の調整を受ける。
民法の相隣関係。
その意味が、ようやく分かってきました。
「所長」
私は聞きました。
「内容証明だけで、本当に相手は折れるでしょうか」
片桐所長は、静かに答えました。
「分からん」
「えっ」
「相手が従わなければ、裁判が必要になることもある」
「……はい」
「だが、こちらの権利と証拠が整理されていれば、相手も争う危険を理解できる」
所長は封筒を手にしました。
「裁判になれば、証拠を出さなければならん」
「はい」
「土地がどう分けられたのか。なぜ通行料を請求できると考えたのか。なぜ道を塞いだのか」
私は頷きました。
そして。
勝男の顔を思い出しました。
俺の土地だ。
俺が決めた。
百万円払え。
……。
その言葉だけでは。
民法二百十三条に、勝てない。
「相馬」
所長が言いました。
「発送の準備を」
「はい」
こうして。
杉浦トシさん本人の意思を確認し、署名押印を得た通知書は、内容証明郵便として発送されました。
声を荒らげない。
脅さない。
ただ、事実と法律を示す。
それが。
昭和の代書屋の戦い方でした。
内容証明が届いてから、四日目。
事務所に一本の電話が入りました。
「……片桐事務所か」
聞き覚えのある声。
杉浦勝男でした。
ただし。
あの威勢はありません。
「はい。片桐です」
所長が受話器を取りました。
『あの……通知書のことで』
「はい」
『……知り合いの弁護士に見せた』
私は顔を上げました。
相馬先輩も、新聞から目を離します。
『民法二百十三条ってのは……』
勝男の声が、少し震えています。
『本当に、通行料を取れないのか?』
所長は落ち着いて答えました。
「通知書に記載した土地の分割関係が確認され、その規定が適用される場合には、同条による通行に償金を要しません」
『……そうか』
沈黙。
そして。
『弁護士にも、そう言われた』
私は思わず息を呑みました。
『それに、遺産分割協議書も見せたら……』
勝男が言葉を詰まらせました。
『あの道は、もともと姉貴が通る前提で分けた土地だろうって』
所長は黙って聞いています。
『通れなくしておいて百万円を請求するなんて、裁判になれば厳しいって……』
私は机の下で拳を握りました。
来た。
来ました。
民法二百十三条。
効果抜群です。
『……丸太は、どかす』
勝男が言いました。
『鎖も外す』
私は思わず立ち上がりかけました。
相馬先輩が、こちらを睨みます。
……はい。
まだ喜びません。
現物を確認するまでは。
『百万円も、もう請求しない』
勝男は続けました。
『毎年の十万円も……』
そこで、小さな溜息。
『……やめる』
所長は短く答えました。
「そうですか」
『ただ……』
「はい」
『姉貴には、あんまり大事にしないでくれって……』
所長は少し間を置きました。
「その点は、トシさんご本人の判断になります」
『……分かった』
電話が切れました。
私は相馬先輩を見ました。
「先輩……」
「何だ」
「勝ちました?」
「まだだ」
「ですよね!」
「だが、相手が法律上の立場を理解したのは確かだ」
先輩は笑いました。
「百万円が、ゼロになったな」
私は、思わず笑ってしまいました。
たった一つ。
土地を分けた経緯。
それを見落としていたら。
トシさんは、不当な通行料を払わされていたかもしれません。
あるいは。
長年暮らした家を、手放すことになっていたかもしれません。
……怖い。
でも。
法律を知っていれば、防げることもあるのです。
その二日後。
トシさんから、事務所に電話がありました。
『道が……』
声が震えています。
「トシさん?」
『道が、開いたんです』
「本当ですか!」
『丸太も鎖も、なくなって……』
私は受話器を握りしめました。
『昨日、弟が来て、全部片付けたんです』
「よかった……!」
トシさんは続けました。
『それから、書面を持ってきました』
勝男が署名押印した確認書でした。
そこには。
――杉浦勝男は、杉浦トシの本件土地から公道に至るための従前の通行について、今後これを妨げないことを確認する。
――本件通行に関し、これまで請求した百万円及び年額十万円の償金請求を撤回する。
そう記されていました。
私は胸がいっぱいになりました。
「……よかったですね」
『はい』
トシさんの声が、少し明るくなりました。
『今朝ね、久しぶりに自分で買い物に行ったんです』
「買い物?」
『ええ』
トシさんは笑いました。
『商店街まで歩いて、お豆腐を買ってきました』
……。
お豆腐。
たった、それだけ。
でも。
それが、どれほど大切なことだったのか。
私には分かる気がしました。
『帰ってきたとき、家が見えて……』
トシさんは言葉を詰まらせました。
『ああ、ちゃんと帰れるんだって』
私は黙って聞きました。
『今までは当たり前だったことなのにね』
……。
そうです。
自分の家から出かける。
買い物をする。
帰ってくる。
その普通の生活が。
一本の道で成り立っている。
民法は。
その一本を、守ってくれたのです。
一週間後。
トシさんが事務所を訪れました。
手には、小さな紙袋。
「皆さんでどうぞ」
中には、お饅頭が入っていました。
「ありがとうございます!」
私は嬉しくなりました。
トシさんは、少し照れたように笑いました。
「弟とは、まだ気まずいんですけどね」
「……そうですよね」
「でも、昨日は向こうから挨拶してきました」
「本当ですか?」
「ええ」
トシさんは、窓の外を見ました。
「昔は仲がよかったんです」
私は静かに聞きました。
「小さい頃は、あの道を二人で走って、学校へ行きました」
「……」
「父が生きていた頃は、あの道で弟が転んで、よく泣いていました」
トシさんが笑います。
「私が手を引いて、家まで連れて帰ったんです」
その道が。
今度は、弟によって塞がれた。
どれほど悲しかったことでしょう。
「土地って、不思議ですね」
トシさんが言いました。
「紙の上では、線を引けば分けられるのに」
私は顔を上げました。
「はい」
「人の暮らしは、線を引いたからって、簡単には分けられないんですね」
……。
私は、何も言えませんでした。
その言葉は。
どんな民法の解説よりも、心に残りました。
トシさんが帰ったあと。
私は机の上の六法を開きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回、私、最初は二百十条しか見てませんでした」
「そうだな」
「袋地だから、通行できる」
「うん」
「でも、償金は払う」
「原則はな」
「そこで終わっていたら、危なかったですね」
先輩は頷きました。
「危なかったな」
私はノートに書きました。
袋地。
囲繞地。
通行の必要性。
損害の少ない経路。
償金。
そして。
土地の分割。
「先輩」
「何だ」
「民法って、土地の形だけじゃなくて、歴史も見るんですね」
「歴史?」
「はい」
私は図面を指差しました。
「今、袋地になっているという事実だけじゃない」
「うん」
「どうして袋地になったのか」
「そうだ」
「誰が土地を分けたのか」
「うん」
「その結果、誰が公道に接する土地を取得したのか」
相馬先輩が頷きました。
「そこまで調べて、やっと結論が出る」
私は笑いました。
「すごいですね」
「何がだ」
「囲繞地通行権って、最初は難しい漢字の法律だと思ってました」
「実際、難しい漢字だろ」
「はい。でも中身は、すごく生活に近い」
私は続けました。
「家から出られない人を守る」
「うん」
「でも、他人の土地を好き勝手に通らせるわけではない」
「そうだ」
「通る人と、通られる人の両方を考える」
先輩は短く笑いました。
「相隣関係ってのは、そういうもんだ」
なるほど。
相隣関係。
難しい言葉です。
でも。
要するに。
隣同士、人はどうやって暮らしていくのか。
その調整なのです。
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「袋地の所有者は、公道に出るため、周囲の土地を通行できる場合があります」
「うん」
「ただし、必要性と、相手の土地への損害を考えないといけません」
「そうだ」
「一般には償金が必要ですが、分割によって生じた袋地には特別な規定がある」
「うん」
「他の分割者の土地を通行する場合、二百十三条で償金が不要になるんです」
所長が頷きました。
「よし」
私はノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行だけ書きました。
――袋地の通行権は、道の有無だけでなく「なぜ袋地になったか」で償金まで変わる。
書き終えた瞬間。
私は満足して鉛筆を置きました。
「できました!」
相馬先輩が覗き込みました。
「ほう」
「どうですか?」
「悪くねえ」
「褒めましたね!」
「調子に乗るな」
私は笑いました。
でも。
今日は、本当に忘れないと思います。
百万円。
毎年十万円。
強欲な地主が要求したお金。
それが。
土地の分割という一つの事実によって、法律上の償金としては認められないことが分かった。
しかも。
単に支払いを免れただけではありません。
トシさんは、自分の家へ帰る道を取り戻したのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「一つ問題だ」
「またですか!?」
「今度は別の袋地だ」
「はい!」
「ある男が、もともと他人の土地に囲まれた家を買った」
「はい」
「公道に出るには、隣の畑を通るしかない」
「はい」
「その男が言った。『俺には囲繞地通行権がある。だから一円も払わねえ』」
私は即答しました。
「間違いです!」
「なぜだ?」
「分割によって生じた袋地とは限りません!」
「うん」
「民法二百十条による一般の通行権なら、原則として償金が必要です!」
「正解」
私は拳を握りました。
「やった!」
「じゃあ、次」
「まだあるんですか!?」
「通行する場所は、袋地の所有者が自由に決めていいか?」
「駄目です!」
「なぜ?」
「必要な通行で、なおかつ他の土地に対する損害が最も少ない場所と方法を選びます!」
「よし」
「民法二百十一条!」
「正解」
私は得意になりました。
「次もどうぞ!」
相馬先輩が、にやりとしました。
「じゃあ、登記は?」
「囲繞地通行権は、法律上発生するので、登記がなくても主張できます!」
「よし」
「ちなみに、通行地役権とは違います!」
「おお」
「どうですか!」
私は胸を張りました。
すると。
所長が静かに言いました。
「最後に一問」
「はい!」
「今朝、事務所の裏口に荷物が積まれていて、通れなかったな」
「……はい?」
「あれは誰の荷物だ」
私は固まりました。
裏口。
段ボール。
大量の六法の注文書。
……。
「私が片付けようとして、置いた荷物です」
「そうか」
「はい……」
「では、裏口を通る人が困らないようにするには、どうすればいい」
私は相馬先輩を見ました。
先輩が、にやりと笑っています。
「こはる」
「はい……」
「民法を使って答えてみろ」
私は深呼吸しました。
「通行の妨害になるので、荷物を移動させます」
「正解!」
「でも先輩!」
「何だ」
「あれ、そもそも囲繞地通行権の問題じゃありません!」
「分かってるよ」
「事務所の裏口です!」
「だから片付けろ」
「……!」
またしても。
法律知識では、掃除を免れることができませんでした。
私は溜息をつきながら、段ボールを運び始めました。
窓の外。
夕方の町に、柔らかな光が差しています。
あのどこかで。
トシさんは、今日も細い砂利道を歩いているのでしょう。
買い物に行くため。
近所の人と話すため。
そして。
自分の家へ、帰るために。
囲繞地通行権。
いにょうちつうこうけん。
漢字は難しい。
条文も細かい。
償金が必要な場合もあれば、不要な場合もある。
でも。
その向こうにあるのは。
ただ、家へ帰りたいという、ごく普通の願いです。
私は段ボールを一つ持ち上げました。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「民法って、本当に優しいですね!」
「何で急にそうなる!」
「だって、道を守ってくれるんですよ!」
「だったら、まず事務所の道を空けろ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
今日もまた、民法は誰かの暮らしを守りました。
地主の怒鳴り声でもなく。
百万円という大金でもなく。
土地の形と、分けられた経緯。
その事実を、法律に照らしただけで。
一本の道が、再び開いたのです。
そして私は、今日の教訓を、もう一つだけ心に刻みました。
土地は分けられても、人が生きるための道まで、勝手に消してよいわけではない。
民法二百十三条。
私は、きっともう忘れません。
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