[民法・囲繞地通行権]法理編 こはるノート
自分の土地なのに、自由に使えないことがあります。
他人の土地なのに、通れることもあります。
そして。
同じように他人の土地を通っていても。
お金を払わなければならない人と、払わなくていい人がいるのです。
その違いは、何でしょうか。
土地の広さ?
通路の長さ?
隣人との仲の良さ?
いいえ。
ときには。
その土地が、どうやって袋地になったのか。
たったそれだけで、結論が変わってしまうのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、一冊のノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
「……二百十条、二百十一条、二百十二条、二百十三条」
私は鉛筆で条文番号を書き並べました。
「四つもありますね……」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「囲繞地通行権です」
「ああ、杉浦さんの件か」
「はい!」
私はノートを広げました。
杉浦トシさん。
六十五歳。
長年暮らしてきた家の前の通路を、実の弟に塞がれてしまった女性です。
弟の勝男は、通行する条件として百万円と毎年十万円を要求しました。
けれど。
土地の登記簿。
遺産分割協議書。
地積測量図。
それらを調べた結果、分かったことがありました。
もともと一つだった土地を、相続人同士で分けた。
その結果。
姉の土地が、公道に通じない袋地になった。
そこが決定打でした。
民法二百十三条。
分割によって生じた袋地については、特別な通行権が認められ、償金を支払う必要がない場合がある。
その事実を記した内容証明によって、弟は要求を撤回。
閉ざされていた道が、再び開いたのです。
「でも先輩」
「何だ」
「もし私が、最初に思いついた二百十条だけで通知書を書いていたら……」
「償金を払う話になっていたかもしれねえな」
「ですよね!」
私は頭を抱えました。
「危なかった……」
相馬先輩は笑いました。
「だから、条文は一つ読んで終わりじゃねえんだよ」
「はい……」
「袋地だと分かったら、次は何を調べる?」
私は即答しました。
「どうして袋地になったのか!」
「よし」
先輩が頷きました。
「じゃあ今日は、それを整理しろ」
「はい!」
こうして。
私の囲繞地通行権・完全攻略ノートが始まりました。
◇
「まずは、袋地と囲繞地です!」
私はノートに大きく書きました。
――袋地。
――囲繞地。
「先輩、読めますか?」
「読めるに決まってんだろ」
「いにょうち、ですよ」
「知ってるよ」
「最初、私、『かこにょうち』って読みそうになりました」
「どういう読み方だ」
私は笑いました。
でも。
法律の勉強では、こういう難しい言葉でつまずくことがあります。
「袋地は、他の土地に囲まれて、公道に通じていない土地です」
「ああ」
「囲繞地は?」
「袋地を囲んでいる他の土地だ」
「正解です!」
「お前、俺を試してんのか」
「復習です!」
私はノートに簡単な図を描きました。
町道が一本。
その奥に、勝男の土地。
さらに奥に、トシさんの土地。
トシさんの土地は、周囲を他人の土地に囲まれていて、町道に直接接していません。
「これが袋地ですね」
「そうだ」
「その周囲の土地が囲繞地です」
私は赤鉛筆で、トシさんの土地を囲みました。
「でも、袋地って、周りを完全に土地で囲まれていないと駄目なんですか?」
相馬先輩が聞きました。
「え?」
「例えば、家の前に川が流れていて、橋がなければ公道に出られない場合は?」
「あっ!」
私は六法を開きました。
民法二百十条。
その第二項。
「あります!」
私は読み上げました。
「池沼、河川、水路、海を通らなければ公道に至ることができない場合も、同じように扱われます!」
「うん」
「それから、崖があって、公道との間に著しい高低差がある場合も!」
私は頷きました。
つまり。
単純に地図上で公道と接しているかどうかだけではないのです。
目の前に公道があっても。
その間に深い川が流れている。
橋もない。
あるいは。
土地と道路の間が切り立った崖になっている。
そんな場合にまで、
「公道に接しているから、通行権は認めない」
と言われたら、困ります。
「民法は、現実に公道へ出られるかを考えているんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が奥から言いました。
「ただし、単に遠回りで不便だというだけで、当然に通行権が認められるわけではない」
「はい!」
私は赤線を引きました。
――不便だから通れる、ではない。公道への通行を確保するための法定の権利。
「ここ、試験で引っかかりそうですね」
「引っかかるなよ」
「努力します!」
「努力じゃなくて覚えろ」
「厳しい!」
◇
「では、民法二百十条です!」
私はノートの中央に書きました。
――公道に至るため、他人の土地を通行できる。
「これが囲繞地通行権の基本ですね」
「そうだ」
「でも、これって他人の所有権を制限していますよね?」
相馬先輩が頷きました。
「してるな」
「土地の所有者なら、他人を入れない自由があるはずなのに」
「ある。だが無制限じゃねえ」
私は、勝男の言葉を思い出しました。
――俺の土地だ!
――誰を通すかは俺が決める!
あのとき。
確かに、勝男の土地であることは間違いありませんでした。
でも。
トシさんには、公道に出るための通行権があった。
「所有権って、最強の権利だと思っていました」
私が言うと、相馬先輩は笑いました。
「最強だからって、何でも許されるわけじゃねえ」
「はい」
「お前が土地を持っているとして、その周りの人間を一切通さなかったら、奥の家の人間はどうなる?」
「生活できなくなります」
「そうだ」
民法は、土地の所有権を尊重しています。
でも、土地は一つだけで存在しているわけではありません。
隣には、別の土地があります。
そこにも所有者がいて、生活している人がいる。
互いの権利を調整しなければ、社会は成り立たない。
「だから、相隣関係なんですね」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
――所有権は絶対無制限ではない。隣接する土地の利用を調整する。
「ところで先輩」
「何だ」
「囲繞地通行権って、契約していなくても発生するんですよね」
「ああ」
「それが、すごいと思いました」
例えば。
トシさんと弟の勝男が、
「通行を許可します」
という契約書を作っていなかったとしても。
民法二百十三条などの要件を満たせば、法律による通行権が認められます。
「相手が許可しないと言っても、法律上の権利がある」
「そうだ」
「これが法定の通行権なんですね!」
私は赤鉛筆を走らせました。
――契約がなくても、法律によって発生する。
ここで、もう一つ重要なことがあります。
「先輩。登記です!」
「何だ、急に」
「勝男さん、言ってましたよね!」
私は少し声を低くしました。
「登記を見ろ! 通行地役権なんか登記されてねえぞ!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえな」
「そこは気にしないでください!」
私は続けました。
「でも、囲繞地通行権は、登記がなくても主張できるんですよね」
「そうだ」
「法律によって生じる権利だから」
「ああ」
ここは大事です。
通行地役権と、囲繞地通行権。
どちらも他人の土地を通行する場面で登場します。
しかし、仕組みは違います。
通行地役権は、契約などを原因として設定されることがあります。
一方、囲繞地通行権は、法律上の要件を満たすことで生じる通行権です。
そのため、囲繞地通行権を主張するために、通行地役権の設定登記が必要になるわけではありません。
「つまり、勝男さんの『登記がないから通れない』という理屈は通用しなかったんですね」
「そういうことだ」
私は思いました。
もし、ここを知らなかったら。
登記簿に通行地役権がない。
だから道を通れない。
そう信じ込んでしまったかもしれません。
でも、違う。
民法は、契約や登記だけでなく、土地の客観的な状況からも権利を認めているのです。
◇
「次は二百十一条です!」
私はページをめくりました。
――通行の場所と方法。
「ここ、今回の事件でも大事でしたね」
「ああ」
「囲繞地通行権があれば、どこでも自由に通れるわけじゃありません」
「そうだな」
私は、トシさんの土地の図をもう一度描きました。
町道までの経路は、いくつか考えられました。
東側の既存の砂利道。
北側の畑。
西側の住宅の庭。
南側の用水路。
「もしトシさんが、最短距離だからといって北側の畑を横切ろうとしたら?」
相馬先輩が聞きました。
「畑の持ち主が困ります」
「そうだな」
「作物を踏み潰したり、耕作の邪魔をしたりするかもしれません」
「じゃあ、何を基準に決める?」
私は答えました。
「通行権を持つ人のために必要で、しかも通行される土地の損害が最も少ない場所と方法です!」
「正解」
私は大きく丸をつけました。
この二つ。
両方が重要です。
一つ目。
通行する人にとって、必要であること。
二つ目。
通行される土地への損害が、最も少ないこと。
「片方だけじゃ駄目なんですね」
「そうだ」
「例えば、トシさんに便利だからといって、勝男さんの建物を壊して道を作るのは?」
「通常、そんなことを簡単に認められるわけがねえだろ」
「ですよね」
「逆に、囲繞地の所有者の負担だけを考えて、袋地の人が実際には使えない通路を指定しても困る」
「はい!」
私は頷きました。
通る側だけが得をしても駄目。
通られる側だけを優先しても駄目。
必要性と、損害の少なさ。
その両方を考える。
「これ、民法らしいですね」
「何がだ」
「公平です!」
相馬先輩は笑いました。
「まあ、隣同士で暮らしていくための法律だからな」
私はもう一つ質問しました。
「先輩。もしトシさんが『軽自動車で家の前まで行きたい』と言ったら、必ず車が通れる幅まで認められますか?」
「必ず、とは言えねえ」
「ですよね」
「土地の利用状況や必要性、それから通られる側の負担を見なきゃならん」
そうです。
徒歩で通行する権利がある。
だから自動車も自由に通せる。
とは限りません。
どこまでの通行が必要かは、具体的な事情によって判断されます。
住宅の利用状況。
従来の通行方法。
通路の幅。
囲繞地側の損害。
そうした事情を調べなければなりません。
「だから現場を見るんですね」
「そうだ」
「図面だけじゃ分からないこともありますから」
私は、勝男の土地に敷かれた砂利道を思い出しました。
あの道は、長年使われてきた通路でした。
新たに畑を潰す必要もありません。
住宅の庭を横切る必要もありません。
だから、合理的な経路と考えられたのです。
「それから、二百十一条第二項!」
私は続けました。
「必要があれば、通路を開設することもできます!」
「そうだ」
「でも、好き勝手に工事していいわけではありませんよね」
「当然だ」
通路を開設する必要性があるか。
どこに、どの程度の通路を設けるか。
他人の土地にどのような損害を与えるか。
これらを考慮する必要があります。
「じゃあ、勝男さんが置いた丸太と鎖を、トシさんが勝手に壊してしまうのは?」
「別問題だ」
相馬先輩が答えました。
「権利があることと、勝手に実力で権利を実現していいことは違う」
「はい」
私は頷きました。
ここも大切です。
通行権がある。
だから、妨害しているものを何でも壊してよい。
そうではありません。
必要に応じて、弁護士に相談し、妨害排除などの法的手続を取る。
権利を守るためにも、正しい方法を選ばなければならないのです。
◇
「さて、次はお金の話です!」
私はノートをめくりました。
――民法二百十二条。
償金。
「先輩。一般的な囲繞地通行権では、原則として償金が必要ですよね」
「ああ」
「どうしてですか?」
相馬先輩は新聞を置きました。
「簡単だ」
「はい」
「他人の土地を通るんだから、土地の持ち主に負担が生じるだろ」
「はい」
「それを全部、無料で我慢させるのも公平じゃねえ」
私は頷きました。
通行する人には、生活のために道が必要です。
でも、通られる人にも所有権があります。
自分の土地の一部を、他人の通行に使われる。
そのために損害が生じることもある。
「だから償金なんですね」
「そういうことだ」
ここで注意。
償金とは、地主が自由に決められる入場料ではありません。
通行によって生じる損害に対応する金銭です。
「じゃあ、勝男さんが『俺が決めたから百万円』と言ったのは?」
「それだけじゃ根拠にならねえ」
「ですよね!」
私は赤線を引きました。
――償金は地主の言い値ではない。
そして。
民法二百十二条には、もう一つ重要な決まりがあります。
「支払時期です!」
「おう」
「通路の開設のために生じた損害に対するものを除き、一年ごとに償金を支払うことができます!」
相馬先輩が頷きました。
「そこが大事だ」
例えば。
袋地の所有者が他人の土地を継続的に通行する。
その通行について償金が必要になる。
だからといって、将来分まで全部、一括払いしなければならないとは限りません。
一年ごとの支払が認められています。
「ただし、例外があるんですよね」
「ああ」
「通路を開設するために生じた損害です」
私はノートに二つを書き分けました。
継続的な通行による損害に対する償金。
原則として、一年ごとの支払が可能。
通路開設のために生じた損害に対する償金。
この一年ごとの支払の扱いからは除かれる。
「例えば、通路を作るために土地の一部を掘削して損害が生じた場合などですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
同じ償金でも、何に対する損害なのかを区別する必要があります。
「先輩」
「何だ」
「これ、試験で『償金はすべて一年ごとに支払える』って出されたら?」
「間違いだ」
「ですよね!」
私は大きく書きました。
――通路開設の損害は例外!
「よし。覚えました!」
「本当か?」
「はい!」
「じゃあ、その償金は今回のトシさんに必要だったか?」
「いいえ!」
「なぜだ?」
私は笑いました。
「いよいよ二百十三条です!」
◇
私はノートの新しいページを開きました。
そして。
赤鉛筆で、特大の文字を書きました。
――民法第二百十三条。
――分割によって生じた袋地。
――償金不要。
「今回の主役です!」
相馬先輩が笑いました。
「ずいぶん気合いが入ってんな」
「だって、この条文で百万円が消えたんですよ!」
「正確には、法律上請求できる根拠がなかったと分かったんだ」
「あ、はい!」
危ない。
法律は魔法ではありません。
百万円という数字を消したわけではない。
その請求が認められるかどうかを、条文と事実によって明らかにしたのです。
「まず、土地が一つあります」
私は図を描きました。
公道に面した、細長い土地。
「これを二つに分けます」
真ん中に線を引きました。
手前がA。
奥がB。
「Aは公道に面しています」
「うん」
「でもBは、公道に面していません」
「そうだな」
「Bが袋地になります!」
私はBを赤く囲みました。
「この場合、Bの所有者は、Aの土地を通って公道に出られるんですね」
「ああ」
「そして、償金が不要!」
「そうだ」
私は頷きました。
土地を分割した結果として、袋地が生まれた。
その場合、袋地の所有者には、分割関係にある土地を通行する特別な権利が認められます。
しかも償金は不要。
「なぜ無料なんですか?」
私は自分で問いかけました。
相馬先輩が言いました。
「お前、昨日も聞いただろ」
「復習です!」
「……」
先輩は溜息をつきました。
「もともと一つだった土地を、自分たちで分けたんだろ」
「はい」
「分けたせいで、奥の土地が道に出られなくなった」
「はい」
「だったら、その不便は、分けた土地同士で処理するのが筋だ」
私は頷きました。
そうです。
最初は一つの土地でした。
公道へ出るための通路も、同じ所有地の中にありました。
それを分けた結果、奥の土地が袋地になった。
なのに、公道側の土地を取得した人が、
「道が必要なら、別料金だ」
と当然のように言えるのでは、奥の土地の所有者に不利益が集中してしまいます。
「だから二百十三条があるんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――土地を分けたために生じた通行の必要は、原則としてその分割関係にある土地の間で解決する。
そして。
ここが、ものすごく大事です。
「先輩。二百十三条では、通行できる土地に制限がありますよね」
「ああ」
「他の分割者の所有地のみ!」
「正解」
私は赤い二重線を引きました。
一般の囲繞地通行権では、公道への通行に必要な周囲の土地が問題になります。
しかし、分割によって生じた袋地については、二百十三条の特別な扱いがあります。
原則として、分割関係にある土地に通行の負担を求める。
無関係の隣地に、当然に通行を求められるわけではありません。
「例えば」
私は図にCという土地を書き足しました。
「AとBを分割して、Bが袋地になったとします」
「うん」
「でも、Bから公道へ出る最短距離は、隣のCさんの土地だったら?」
「どう考える?」
「二百十三条による通行は、基本的にAの土地です!」
「そうだ」
「Cさんは、AとBの分割に関係ないからですね」
私は頷きました。
もし、AとBの都合で土地を分けた結果。
何の関係もないCさんが、突然、
「あなたの土地が一番近いから、無料で通らせてください」
と言われたら。
それは不公平です。
「そうか……」
私は鉛筆を止めました。
「二百十三条って、袋地の人を守るだけじゃないんですね」
「ほう」
「土地の分割に関係のない人も守っている」
相馬先輩が頷きました。
「そこまで分かれば上出来だ」
「褒めましたね!」
「調子に乗るな」
でも。
私は少し嬉しくなりました。
条文の意味が、だんだん立体的になってきたのです。
◇
「もう一つあります!」
私は条文を指差しました。
民法二百十三条第二項。
「土地の所有者が、その土地の一部を譲り渡した場合にも準用されるんですよね」
「そうだ」
「つまり、共有物の分割だけじゃない!」
ここは重要です。
例えば。
ある地主が、一つの土地を持っていたとします。
公道に接した大きな土地です。
その地主が、奥の部分だけを他人に売りました。
ところが、奥の部分は公道に接していません。
すると。
売られた奥の土地が袋地になります。
「この場合も、二百十三条の特別な通行関係が問題になるんですね」
「そうだ」
「一部を売ったことによって袋地ができたから」
「ああ」
私はノートに書きました。
――分割だけでなく、一部譲渡も対象。
「先輩、これを忘れると危険ですね」
「危険だな」
「『共有物の分割だけが例外』って覚えたら、間違えます」
「そうだ」
私は赤線を引きました。
共有物の分割。
土地の一部譲渡。
どちらも、二百十三条の射程に入る。
「これで完璧です!」
私が言うと。
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「では、二百十三条による通行権は、土地の所有者が変わったら必ず消えるのか」
私は固まりました。
「……え?」
「例えば、勝男が自分の土地を第三者に売ったらどうなる」
「……」
私は考えました。
あの砂利道。
トシさんの家。
そして、弟の勝男が土地を手放す。
新しい所有者が現れる。
「その新しい所有者が、『俺は遺産分割の当事者じゃない』と言ったら……」
相馬先輩が口を開きました。
「土地が売られただけで、奥の家の通行権が簡単に消えたら困るだろ」
「はい!」
私は頷きました。
分割によって生じた通行関係は、その後の所有権移転によって当然に消滅するものではありません。
土地の承継人との関係でも問題になります。
「なるほど……」
私はノートに書きました。
――土地の分割による通行関係は、所有者が変われば当然に消えるわけではない。
所長が頷きました。
「ただし、土地の状況や権利関係が変わった場合には、その内容を具体的に調べる必要がある」
「はい!」
私は深呼吸しました。
土地の問題は、奥が深い。
一度分けたら終わりではありません。
その後、売られることもある。
相続されることもある。
建物が建つこともある。
だからこそ、登記や測量図だけでなく、過去の経緯まで調べる必要があるのです。
◇
「ところで、先輩」
私はふと気づきました。
「この囲繞地通行権って、昭和と現代でそんなに変わっていないんですね」
「何の話だ?」
「あっ」
しまった。
また、現代の民法を持ち込みかけました。
でも。
今回は、そこが大切なところでもあります。
「いえ、法律の言葉の変化について考えていたんです」
「言葉?」
「はい」
私はノートに書きました。
――囲繞地通行権。
――公道に至るための他の土地の通行権。
「囲繞地って、かなり難しい漢字ですよね」
「まあな」
「初めて見た人には、意味が分かりにくいと思うんです」
相馬先輩が頷きました。
「それはそうだろうな」
囲繞地。
袋地。
相隣関係。
民法には、日常会話ではほとんど使わない言葉がたくさんあります。
でも。
中身は、意外なほど生活に密着しています。
自分の家から公道に出られない。
他人の土地を通らなければならない。
通るためには、お金が必要なのか。
それを決める法律です。
「未来の法律では、もっと分かりやすい言葉になっていくのかもしれませんね」
私が言うと、相馬先輩は笑いました。
「未来の話なんか知らねえよ」
「ですよね」
私は苦笑しました。
令和の民法では、土地の通行に関する条文見出しも、内容を理解しやすいものになっています。
ただし。
今回の二百十条から二百十三条にある基本的な考え方は、昭和六十三年にも存在しています。
土地の所有権と、隣地の利用。
通行する人の必要性。
通られる土地の損害。
袋地が生じた原因による調整。
こうした仕組みは、昔から人々の生活を支えてきました。
「法律って、全部が大改正で変わるわけじゃないんですね」
私が言うと。
所長が頷きました。
「社会が変わっても、必要な考え方は残る」
「はい」
「土地があり、人が暮らす限り、隣同士の問題はなくならん」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
――隣人との公平は、時代が変わっても必要。
なるほど。
転生して初めて。
私は、古い民法がただ古いだけの法律ではないと感じました。
現代の制度に引き継がれている、大切な考え方がある。
それを知ることも、法律を学ぶ意味なのです。
◇
「さて、確認問題だ」
相馬先輩が煙草を消しました。
「来ましたね!」
「第一問」
「はい!」
「Aの土地は、公道に通じていない袋地だ。Aの所有者は、周囲の土地を通行できるか?」
「民法二百十条の要件を満たせば、公道に至るため通行できます!」
「正解」
「次!」
「第二問。Aの所有者は、好きな場所を好きな方法で通行できるか?」
「できません!」
「理由は?」
「必要な通行であり、なおかつ他の土地への損害が最も少ない場所と方法を選ばなければならないからです!」
「正解」
「次!」
「第三問。一般の囲繞地通行権では、償金は不要か?」
「原則として必要です!」
「支払時期は?」
「通路開設のために生じた損害に対する償金を除き、一年ごとに支払うことができます!」
「正解」
「次!」
「第四問。共有物の分割によって袋地が生じた場合、他の分割者の土地を通行するために償金が必要か?」
「不要です!」
「何条だ?」
「民法二百十三条!」
「よし」
私は拳を握りました。
「完璧です!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「第五問」
「まだありますか!」
「ある」
先輩はノートに簡単な図を描きました。
「甲の土地を二つに分けた結果、奥の乙が袋地になった」
「はい」
「その隣には、分割に関係のない丙の土地がある」
「はい」
「乙から公道に出るには、丙の土地を通る方が短い。だから、乙の所有者は丙の土地を無料で通れる。正しいか?」
「間違いです!」
「理由は?」
「二百十三条による特別な通行権は、分割関係にある土地に認められるからです!」
「そうだな」
「丙さんは分割に関係ありません!」
「正解」
私は得意になりました。
「次もどうぞ!」
「第六問」
「はい!」
「ある地主が、自分の土地の奥部分を売った。その結果、売られた土地が袋地になった」
「はい」
「共有物の分割ではないから、二百十三条は使えない。正しいか?」
「間違いです!」
「理由は?」
「第二項で、土地の一部を譲り渡した場合にも準用されるからです!」
「正解」
私は思わず笑いました。
よし。
もう怖くありません。
囲繞地通行権。
名前は難しい。
でも、中身は整理できました。
通行できるか。
どこを通れるか。
お金を払うか。
そして。
どうして袋地になったか。
その順番で考えればいいのです。
◇
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私は、今日のノートを見直しました。
民法二百十条。
公道へ出るための通行権。
民法二百十一条。
必要性と、他の土地への損害が最も少ない場所・方法。
民法二百十二条。
原則として償金が必要。一年ごとの支払ができる場合がある。
民法二百十三条。
分割などによって生じた袋地の特則。分割関係にある土地を通行し、償金は不要。
私は鉛筆を置きました。
「……分かりました」
相馬先輩が顔を上げました。
「何がだ」
「囲繞地通行権って、道を通る権利を認めるだけじゃないんですね」
「ほう」
「通る側にも、通られる側にも、ちゃんと理由がある」
私は続けました。
「袋地の人は、公道に出られなければ生活できない」
「うん」
「でも、周囲の土地の所有者にも財産権がある」
「そうだ」
「だから、必要な範囲で、損害が少ないように通る」
「うん」
「そして、普通は償金を払う」
「そうだな」
「でも、自分たちで土地を分けた結果、袋地を作った場合には、特別に償金が不要になる」
所長が静かに頷きました。
「そこが核心だ」
私は笑いました。
そう。
今回のトシさんの事件では。
道があるかどうかだけを見ていたら、解決できませんでした。
土地の分割という、七年前の出来事。
そこに答えがあったのです。
「所長」
「何だ」
「私、今日、土地の登記簿を読む意味が少し分かった気がします」
「ほう」
「登記簿って、今の所有者を確認するだけじゃないんですね」
「そうだ」
「昔、どういう土地だったのか。いつ分けられたのか。そういう歴史が残っている」
所長が頷きました。
「土地の紛争では、その経緯が決定的になることがある」
「はい」
私は、トシさんの言葉を思い出しました。
――紙の上では、線を引けば分けられるのに。
――人の暮らしは、線を引いたからって、簡単には分けられないんですね。
あの言葉。
今なら、もっと深く理解できます。
土地の境界線は、人が決めます。
でも。
その土地で暮らす人にとって。
必要な道は、境界線だけで消えるものではありません。
私はノートの最後のページを開きました。
「よし」
鉛筆を握ります。
「今日の一行です!」
相馬先輩が覗き込みました。
「何て書く?」
私は少し考えました。
そして。
大きく、一行を書きました。
――袋地は通れる。原則は償金あり、分割で生まれた袋地は分割関係の土地を償金なしで通る。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩は、しばらく眺めました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
あの細い砂利道。
丸太。
鉄の鎖。
百万円の請求。
そして。
再び開いた道。
それを思い出すだけで、二百十三条が頭に浮かびます。
暗記ではありません。
ちゃんと、意味が分かったのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「勉強は終わったか?」
「終わりました!」
「じゃあ、裏口の段ボールを片付けろ」
「……え?」
「まだ残ってるだろ」
私は固まりました。
裏口。
大量の書類箱。
昨日、片付けたはずなのに。
「先輩!」
「何だ」
「あれ、先輩が追加で積んだんですよね!」
「そうだが?」
「だったら先輩が片付けてください!」
相馬先輩が笑いました。
「お前、見習いだろ」
「それとこれとは別問題です!」
私は腕を組みました。
「先輩には、自分の荷物を管理する責任があります!」
「ほう」
「しかも、裏口の通行を妨害しています!」
「……」
「つまり、相隣関係の精神に反しています!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「おい」
「はい!」
「ここは事務所の裏口だぞ」
「分かってます!」
「他人の土地に囲まれた袋地じゃねえぞ」
「……」
私は止まりました。
確かに。
事務所の裏口。
ただ荷物が置かれているだけ。
袋地でもなければ、囲繞地でもありません。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「民法二百十条を使う場面か?」
「……違います」
「では、二百十三条は?」
「……もっと違います」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「うう……!」
私は悔しくなりました。
でも。
ここで、ふと思いました。
「所長!」
「何だ」
「私、分かったことがあります!」
「ほう」
「法律って、似ている状況なら何でも同じ条文を使っていいわけじゃないんですね」
所長は頷きました。
「そうだ」
「必要な要件が揃っているか、確認しなければならない」
「そのとおり」
私は少し嬉しくなりました。
これも今日の勉強の成果です。
道が塞がれた。
だから囲繞地通行権。
ではない。
土地が袋地か。
公道への通行が必要か。
どこを通るべきか。
どのように袋地が生じたか。
そうした事実を確認して、初めて条文を使える。
「なるほど……」
私は頷きました。
「じゃあ、今回は囲繞地通行権じゃなくて、普通に片付けを頼みます!」
「最初からそうしろ!」
相馬先輩が笑いました。
私も笑いました。
そして。
段ボールを一つ持ち上げました。
「でも先輩!」
「今度は何だ!」
「今日は半分ずつ片付けましょう!」
「何でだよ!」
「公平です!」
相馬先輩は、しばらく私を睨んでいました。
それから。
「……仕方ねえな」
そう言って、もう一つの段ボールを持ち上げました。
「えっ!」
私は驚きました。
「先輩が手伝ってくれるんですか!?」
「うるせえ。さっさと運べ」
「はい!」
私は笑顔で裏口へ向かいました。
夕暮れの光が、廊下に差し込んでいます。
窓の外。
町のあちこちに、家々の明かりが灯り始めていました。
その一つ一つに。
誰かの暮らしがあります。
玄関があります。
門があります。
道があります。
そして。
その道の先には、必ず誰かの土地がある。
私たちは、たくさんの境界線の上で暮らしています。
自分の土地。
他人の土地。
公道。
私道。
それぞれに権利があり、義務がある。
だからこそ。
民法は、その境界線の間に、通るための道を用意しているのでしょう。
「相馬先輩!」
「まだ何かあるのか!」
「最後に一つだけ!」
「何だ!」
私は笑いました。
「土地は分けられても、必要な道まで消せないんですね!」
相馬先輩は、少しだけ表情を緩めました。
「……まあな」
その短い返事が、今日は妙に嬉しく聞こえました。
私は机の上に置いたノートを振り返りました。
そこには。
今日の一行。
――袋地は通れる。原則は償金あり、分割で生まれた袋地は分割関係の土地を償金なしで通る。
民法二百十条から二百十三条。
もう、ただの暗記項目ではありません。
あの道がある。
トシさんがいる。
百万円の請求がある。
そして、古い遺産分割協議書がある。
だから。
忘れない。
法律の一つ一つに、人の暮らしが繋がっている。
それを知ったからです。
「こはる!」
「はい!」
「ぼんやりしてねえで運べ!」
「今、民法の精神を噛みしめてたんです!」
「精神は後で噛みしめろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「通路を塞ぐと、他人が困るんですよ!」
「分かってるよ!」
「じゃあ、早く片付けましょう!」
「お前が言うな!」
……なるほど。
囲繞地通行権を学ぶと。
通路を塞いだ荷物まで、気になるようになるようです。
もっとも。
だからといって、すべての通路に民法二百十条が適用されるわけではありません。
法律は。
正しい場面で、正しい条文を使ってこそ、人を守る力になる。
私は段ボールを抱え直しました。
そして、心の中で呟きました。
――民法二百十三条。
土地を分けた結果、道を失った人を守る条文。
道が一本あること。
それは。
当たり前のようで、当たり前ではない。
その道を歩いて、今日も誰かが家へ帰る。
法律が守っているのは、そんな何気ない毎日なのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




