[行政手続法6条・標準処理期間]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ時間がゆっくり流れます。
電話が減る。
来客が途切れる。
窓の外では、駅前再整備の工事音も少し遠くなる。
そして机の上には、森田さんにもらったカステラ。
「……減ってません?」
「気のせいだ」
相馬先輩が言いました。
「昨日より二切れ少ないです」
「時間が経過したからな」
「カステラは時間経過で自然消滅しません」
「証拠は?」
「先輩の口元にざらめ付いてます」
完全立証。
相馬先輩は無言で口元を拭いました。
私は残ったカステラを自分の側へ引き寄せて、ノートを開きます。
昨日、ページの一番上に書いた言葉。
――標準処理期間。
昭和六十三年。
もちろん、行政手続法はまだありません。
行政手続法が制定されるのは平成五年。
施行されるのは平成六年十月一日。
だから今の片桐行政書士事務所で、
「行政手続法第六条によればですね」
なんて言い始めたら、私は未来人である前に、危ない人です。
でも。
森田さんの事件で起きたことは、まさに後の行政手続法が整理する問題でした。
申請を出した。
いつ終わるか分からない。
どこから時間を数えるのかも分からない。
提出先と、実際に処分する役所が違う。
そして行政の側には、
「普通ならどのくらいかかるか」
という感覚があるのに、それが外から見えない。
私はペンを持ちました。
「今日は、それを整理します」
相馬先輩が新聞をめくりながら言います。
「昨日の件か」
「はい」
「森田さんはもう許可出たんだろ」
「出ました」
「じゃあ終わりじゃないのか」
「実務の人、すぐ終わらせようとしますね」
「終わった仕事を蒸し返すな」
「受験生は蒸し返して点にするんです」
「嫌な生き物だな」
否定できません。
私はノートの中央に一本、線を引きました。
まず。
標準処理期間とは何か。
未来の行政手続法第六条では、行政庁が、
申請がその事務所に到達してから、
その申請について処分をするまでに、
通常どのくらいの期間を要するのか。
その目安となる期間を定めるよう努めることになっています。
私はそこまで頭の中で整理してから、現代語に直しました。
「所長」
「何だ」
「たとえば昨日の森田さんなら」
「ああ」
「申請を出してから、営業許可か不許可かが決まるまで、普通どれくらいかかるのか。その目安ですよね」
「考え方としてはそうだ」
片桐所長が答えます。
「期限とは違う」
私はペンを止めました。
来ました。
今日の一番大事なところ。
「期限ではない」
ノートに大きく書きます。
標準処理期間は、
その期間内に絶対に処分しなければならない法定期限、
という意味ではありません。
普通の案件なら、通常これくらい。
そういう標準的な目安です。
「じゃあ、二週間って決めてあったとして」
相馬先輩が言いました。
「十五日目になったら自動的に許可か」
「なりません」
「不許可か」
「それもなりません」
「じゃあ意味ないじゃねえか」
「極端!」
私はカステラを守りながら言いました。
「意味ありますよ。申請する側が、いつ頃まで待つのか予測できます」
「でも外れる」
「外れる場合はあります」
「なら期限じゃない」
「だから最初からそう言ってます!」
片桐所長が短く言いました。
「予測可能性だ」
私は顔を上げました。
「予測可能性」
「人は、結果がすぐ出なくても耐えられることがある」
所長は帳簿から目を上げません。
「だが、いつまでか全く分からなければ、次の行動を決められない」
森田さんの顔が浮かびました。
パン屋へ発注できない。
牛乳屋へ開始日を伝えられない。
娘さんに手伝いを頼めない。
開店広告も決められない。
あの人は、
審査が長いことだけに困っていたのではありません。
終わりが見えないことに困っていた。
私はノートに書き足しました。
標準処理期間の意味。
申請者に、処理に要する時間の目安を示し、予測可能性を与える。
「じゃあ次」
相馬先輩が勝手に出題者になります。
「いつから数える」
「申請が行政庁の事務所に到達した時から」
「“受け付けた時”じゃないのか」
私は少し考えました。
「そこ、言い方に注意ですね」
「何が違う」
「未来の条文は、“申請がその事務所に到達してから”です」
「到達」
「はい」
これは試験でかなり大事です。
標準処理期間の起算点は、
担当者が書類を読んだ日でもなければ、
審査を始めた日でもありません。
申請が事務所に到達した時。
「昨日の件なら?」
相馬先輩。
「そこがちょっとややこしいんです」
私は昨日の時系列を書きました。
七月二十五日。
森田さんが、市役所へ申請書を提出。
七月二十八日。
市役所から県へ発送。
七月二十九日。
県の保健所へ到達。
「森田さんの感覚では二十五日から待ってる」
「そうだな」
「でも処分する行政庁は県」
「ああ」
「だから単純に“県に二十五日に申請した”とは言えない」
昨日、私が感じた違和感です。
申請者の時計は二十五日に始まった。
県の時計は二十九日に始まった。
その間の四日間は、どこへ行くのか。
未来の行政手続法は、そこまでちゃんと考えています。
法令によって、
処分をする行政庁とは別の機関が、
正式な申請提出先とされている場合。
この場合は、
その提出先の機関に申請が到達してから、
実際に処分する行政庁へ申請が到達するまで、
通常どれくらいかかるのか。
その期間についても定めるよう努める。
「なるほど」
私は自分で言って、自分で納得しました。
相馬先輩がこちらを見ます。
「自分で説明して自分で感心するな」
「いや、昨日よりきれいに見えたので」
昨日はただ、
市役所で三日。
県へ一日。
その時間も森田さんは待っている。
そう感じただけでした。
でも制度にすると、こうなる。
処分庁だけの中の処理時間を見せればいいわけではない。
正式な提出先が別にあるなら、
そこから処分庁へ届くまでの時間も、申請者にとっては待ち時間だからです。
「昨日、市役所が言ってたな」
相馬先輩が言います。
「県向けの便が週二回」
「はい」
「月曜と木曜だっけ」
「でしたね」
「じゃあ、水曜の夕方に出したら翌日送れる」
「はい」
「木曜の便が出た直後なら?」
「数日待つ」
「それも申請者には見えない」
「そうなんです」
私はペンで丸をつけました。
ここ。
重要です。
提出先と処分庁が違う場合の移送期間。
未来の第六条が、わざわざそこまで触れている意味。
昨日の森田さんなら、一発で分かります。
「でもさ」
相馬先輩が言いました。
「全部決めなきゃいけないのか?」
「そこです」
私はノートの次の欄へ進みます。
標準処理期間は、
必ず定めなければならないわけではありません。
「え」
「行政庁は、定めるよう努める」
「努力義務か」
「はい」
未来の行政手続法六条では、
標準処理期間を定めること自体は義務ではなく、
努力義務。
つまり、
定めなかったからといって、
それだけで直ちに行政手続法六条違反になるわけではありません。
私はノートに書きました。
定めること――努力義務。
「弱いな」
相馬先輩が言います。
「分かります」
「“決めろ”じゃなくて“なるべく決めろ”か」
「まあ、全部の申請についてきれいな標準期間を出せるとは限らないですし」
案件によって幅が大きいこともある。
専門的な調査が必要なものもある。
他機関との協議が必要なものもある。
一律の目安を作りにくい処分だってある。
だから、
標準処理期間を絶対に定めろ、
とはしていない。
「でも」
私は続けました。
「ここからが試験で大事です」
「嫌な言い方だな」
「受験生の血が騒ぐので」
定めること自体は努力義務。
しかし。
いったん標準処理期間を定めたら。
「公にしなければならない」
私はそこを二重線で囲みました。
相馬先輩が眉を上げます。
「そっちは義務か」
「はい」
定める。
これは努力義務。
定めた後に公にする。
こっちは義務。
「試験作る人、好きそうだな」
「大好きでしょうね」
「嫌な世界だ」
「同意します」
選択肢で出るなら、たぶんこうです。
行政庁は、標準処理期間を必ず定めなければならない。
――誤り。
行政庁が標準処理期間を定めた場合、公にするかどうかは行政庁の判断に委ねられる。
――これも誤り。
「なるほど」
相馬先輩が言います。
「作るかどうかは努力。作ったなら隠すな」
「そういうことです」
短い。
悔しいけど分かりやすい。
私はそのままノートに書きそうになって、やめました。
相馬語録を答案に書いたら怒られます。
「公にするって、何するんだ」
「提出先の事務所に備え付けるとか、その他適当な方法です」
「壁に貼るとか?」
「そういう方法も考えられますね」
未来ならホームページ、なんて言いたくなりますが。
昭和六十三年。
ホームページどころか、インターネットが町役場の窓口に並ぶ未来なんて、ここではSFです。
だから、
窓口で閲覧できるようにする。
備え付ける。
案内文書に記載する。
そういう形になるでしょう。
私は昨日の黒川さんを思い出しました。
「普通なら二週間程度です」
実は、内部には一応の感覚があった。
でも外には出ていなかった。
問い合わせても、
「案件ごとに違います」
「いつとは言えません」
で終わっていた。
未来の制度では、
もし正式に標準処理期間として定めたなら、
役所だけで持っていてはいけない。
公にしておかなければならない。
「所長」
「何だ」
「標準処理期間を公表したら、そこを超えた時点で処分が違法になるんですか」
片桐所長がこちらを見ました。
ちょっとだけ目が鋭い。
たぶん良い質問です。
「それだけで直ちに、とは言えん」
「ですよね」
私は頷きます。
標準処理期間はあくまで標準。
法定の処理期限ではありません。
だから、
標準処理期間を一日過ぎた。
イコール。
当然に処分が違法。
という話ではない。
「ただし」
私は考えながら続けました。
「だからって、いつまでも放置していいわけでもないですよね」
「当然だ」
所長が言います。
「行政が申請を握ったまま、理由もなく処理しない。それは別の問題になる」
そう。
ここを混ぜてはいけません。
標準処理期間の超過。
それだけで自動的に違法になる、とは限らない。
でも、
行政庁が不当に長期間、申請を放置していいことにはならない。
そもそも申請に対しては、
審査して、
許可なり不許可なり、
何らかの処分をする必要があります。
黙って抱えておけば永遠に安全。
そんな制度ではない。
「昨日の森田さんみたいに」
私は言いました。
「補正もなし。追加資料もなし。特別な問題もなし。通常二週間程度なのに三週間以上、現地確認すら入ってない」
「あれは説明が足りなかった」
所長が言います。
「処理が遅れる事情があるなら、それも含めて説明すべきだった」
私は少し考えました。
未来の行政手続法六条そのものは、
遅れた理由を必ず説明せよ、
と直接書いている条文ではありません。
ここは混同注意です。
「第六条の話と、遅延理由の説明は分けた方がいいですね」
私は呟きます。
「何だ」
相馬先輩。
「あ、いえ」
危ない危ない。
また未来法を口にしかけました。
「標準処理期間を定めて公表することと、個別事件で遅れた理由を説明することは別論点だなって」
「そりゃそうだろ」
「先輩に簡単に言われると悔しいです」
「知らん」
私はノートに一本線を引きます。
標準処理期間は、
個々の事件の処理期限を保証する制度ではない。
あくまで通常要すべき期間の標準。
だから、
個別案件が長引くこと自体はあり得る。
難しい事実関係。
補正。
他機関との協議。
現地調査。
申請件数の集中。
事情はいろいろあるでしょう。
ただ、
標準が見えていれば、
「普通より遅れている」
ということ自体に申請者が気づける。
ここが大きい。
「昨日の森田さんだ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「二週間って知らなかったら、三週間経ってても遅いかどうか分からん」
「そうなんです」
「半年でも待ってたかもしれん」
「極端ですけど、あり得なくはないです」
標準処理期間は、
行政庁を機械的に縛る期限ではない。
でも、
申請者に比較対象を与える。
通常は二週間。
自分は三週間。
じゃあ今どこで止まっているんですか。
そう聞ける。
制度の役割が、少し見えてきました。
「冷たい数字ですね」
私が言うと、所長が聞き返しました。
「何がだ」
「二週間とか三週間とか」
「ああ」
「人情はないです」
「期間だからな」
「でも」
私は昨日の森田さんを思い出しました。
「数字がある方が、人を助けることもある」
所長は何も言いません。
でも止めない。
なので続けます。
「役所が、“なるべく早くやります”って言っても、何も分からないじゃないですか」
「そうだな」
「“通常は二週間です”なら、少なくとも予定が立てられる」
「うん」
「二週間を超えたら、聞きに行ける」
「そうだ」
「冷たい数字の方が、親切なこともあるんですね」
片桐所長が短く答えました。
「曖昧な親切よりな」
……。
これ。
今日のノートの最後に書こう。
私は次の見出しを作りました。
――試験で間違えやすいところ。
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「まだやるのか」
「ここからが点になります」
「さっきも聞いたぞ」
「行政書士試験は、同じ知識を角度変えて殴ってきますから」
「怖え試験だな」
まず。
標準処理期間を定めることは任意、正確には努力義務です。
必ず定めなければならない。
これは違う。
次。
定めた場合。
公にすることは義務。
定めたけれど内部資料なので非公開。
これは駄目。
次。
起算点。
審査担当者が審査を始めた時ではない。
担当課が書類を開封した時でもない。
申請が事務所に到達した時。
「郵送なら?」
相馬先輩。
「郵便を出した日ではなく、事務所に届いた時」
「窓口なら?」
「事務所に提出して到達した時」
「担当者が三日後に見る」
「それでも起算点を三日後にはできません」
「役所の机の上で寝かせれば時計も寝る、じゃないんだな」
「そういうことです」
昨日の市役所で申請書が三日間、県行きの便を待っていた。
行政内部の都合で書類が止まる。
だからこそ、
どこからどこまでを期間として見るかが重要になります。
「じゃあ」
相馬先輩がまた言います。
「別の役所が提出先なら、処分庁に届くまでの期間も絶対に決めるのか」
「そこも努力義務です」
「絶対じゃない」
「はい」
ここも試験では危ない。
法令により、
処分をする行政庁とは異なる機関が申請の提出先とされている場合。
行政庁は、
その提出先へ申請が到達してから、
自分の事務所へ届くまでに通常必要な期間も、
併せて定めるよう努める。
ここも、
必ず定めなければならない、
ではありません。
「“努める”が二回出てくるんですね」
「覚えやすいじゃねえか」
相馬先輩が言います。
「どこがです?」
「決めるのは努力。決めたら公開」
「……」
また分かりやすい。
腹立つ。
私はノートに小さく書きました。
決めるのは努力、決めたら公開。
「今書いただろ」
「見ないでください!」
私は腕で隠しました。
所長が少し笑った気がします。
たぶん気のせいです。
私は昨日の事件をもう一度、頭の中で並べます。
森田さん。
七月二十五日、市役所へ提出。
市から県への便は週二回。
七月二十九日、県へ到達。
県内部では、通常なら現地確認まで二週間程度。
でもその目安は公にされていない。
森田さんは三週間以上待っても、
それが普通なのか遅いのか判断できなかった。
担当者に聞いても、
「案件ごとに違います」
だけ。
その状態で、
パン屋も、
牛乳屋も、
娘さんも、
開店広告も、
全部止まっていました。
「標準処理期間って」
私は言いました。
「役所のための期間管理だけじゃないんですね」
「当然だ」
所長が言います。
「行政の都合だけで使うなら、内部表で足りる」
私は頷きました。
なるほど。
標準処理期間を「公にする」意味。
行政内部の進捗管理表とは違う。
申請者が知るためです。
どのくらい待つのか。
普通より遅れていないか。
いつ頃から次の準備をすればよいのか。
その情報が外へ出て初めて、
申請者のための制度になる。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「役所が標準処理期間を十日って公表したとして」
「はい」
「申請書が不完全で、補正してくれって返した」
「はい」
「申請者が一か月放置した」
「うわ」
「十日超えたぞ。役所の違法か?」
「そう単純には言えません」
私は即答しました。
標準処理期間は、
通常要すべき期間。
個別案件の事情は当然あります。
申請内容の不備。
補正。
追加資料。
本人側の対応待ち。
そういう事情まで無視して、
公表期間だけで機械的に判断するわけではない。
「標準って言葉、ちゃんと意味あるんですね」
「当たり前だ」
「法律用語、たまに素直ですね」
「たまにって何だ」
私は笑いながら、次を書きます。
標準処理期間。
法定処理期限ではない。
申請者の予測可能性を高めるための目安。
定めることは努力義務。
定めたら公にするのは義務。
起算点は、申請が事務所に到達した時。
法令上、別機関が提出先なら、
その提出先から行政庁へ到達するまでの標準的期間についても定めるよう努める。
書き終えて、私はペンを置きました。
「できたか」
相馬先輩。
「大枠は」
「じゃあカステラ食っていいな」
「なぜそうなるんです」
「勉強終わっただろ」
「私のカステラの権利と何の関係が?」
「机上に到達してから相当期間が経過してる」
「勝手に標準処理期間を援用しないでください!」
相馬先輩が手を伸ばす。
私は皿を引く。
所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「最後に一つ」
私は姿勢を正します。
たぶん口頭試問です。
「標準処理期間は何のためにある」
「行政を急がせるため?」
「それだけか」
「……違いますね」
私は少し考えました。
昨日。
森田さんが言った言葉。
一週間なら一週間と分かれば待てる。
三週間なら仕入れをずらせる。
一番困るのは、いつまでか分からないこと。
「申請者が、自分の時間を取り戻すため」
所長がこちらを見ました。
「少し綺麗に言いすぎたな」
「ですよね」
「だが、間違ってはいない」
私は笑いました。
そうなのかもしれない。
行政に申請書を出す。
その瞬間から、申請者は少しだけ自分の時間を行政へ預けます。
許可が出るまで待つ。
不許可なら次を考える。
でも、どちらにもならない。
いつ終わるかも分からない。
そうなると、
行政は申請書だけではなく、
その人の予定まで握ってしまう。
標準処理期間は、
その握られた時間に目盛りをつける仕組みなのかもしれません。
しかも。
未来の行政手続法は、
絶対に何日以内に終われ、
とは言っていない。
まずは、
普通ならどれくらいなのかを決めるよう努める。
そして決めたなら、
申請者から見えるようにする。
派手ではありません。
行政法らしく、かなり地味です。
でも。
昨日の森田さんには、その地味な考え方が必要だった。
私はノートの最後に、
一行の覚え書きを書きました。
――標準処理期間は、「役所が待たせる時間」を申請者から見える時間に変える。
相馬先輩が横から覗きます。
「また綺麗にまとめたな」
「覚えやすいでしょう」
「試験答案には書くなよ」
「分かってます」
私はその下に、もっと試験向けの一行も書き足しました。
――決めるのは努力。決めたら公開。時計は到達から動く。
「そっちの方がいい」
「先輩のせいで語呂が荒くなりました」
「受かればいい」
実務派。
強い。
私はノートを閉じました。
窓の外では、駅前に新しい看板が取り付けられています。
喫茶つばめ。
森田さんの店も、もうすぐ開きます。
行政手続法は、まだこの町にはありません。
標準処理期間という仕組みも、今の役所には制度として整っていない。
でも。
困りごとは先にある。
申請を出した。
いつ終わるか分からない。
誰に聞いても、
「審査中です」
と言われる。
その不安は、
法律が制定されるまで待ってはくれません。
だから現場では、
法律より先に問いが生まれる。
いつから待っているのか。
普通ならどのくらいかかるのか。
今、どこで止まっているのか。
その問いを何度も突きつけられて、
いつか制度が形になる。
未来の私は、その完成した条文だけを覚えていました。
努力義務。
公表義務。
到達主義。
別機関経由。
試験の肢を切るための知識として。
でも昭和六十三年の私は、
その条文の前にいた人を知りました。
牛乳屋へ電話できなかった森田さん。
娘さんへ開店日を伝えられなかった森田さん。
何日待つのか分からず、
「審査中です」
という言葉の前で立ち止まっていた森田さん。
条文は冷たい。
期間も数字です。
でも。
冷たい数字があるから、
人は自分の予定を立てられる。
冷たい目盛りがあるから、
「これは少し長すぎませんか」
と尋ねることができる。
制度の冷たさは、
ときどき、
曖昧な待たせ方から人を守る。
「朝比奈」
「はい」
「カステラ」
相馬先輩が最後の一切れを指さしています。
「二人で半分です」
「昨日じゃんけんで俺が勝った」
「昨日の勝敗を今日まで持ち越す法的根拠はありません」
「慣行」
「一日で慣行を作らないでください」
所長が新聞を折りたたみました。
「半分にしろ」
「ほら!」
「ただし、切るのは相馬」
「なぜ俺が」
「処理担当」
私は吹き出しました。
「所長、標準処理期間は?」
「十秒」
「定めた!」
「公にしたぞ」
「しかも口頭!」
相馬先輩がぶつぶつ言いながら包丁を取ります。
「十秒以内に切らなかったら?」
「こはるのもの」
「おい!」
処理は七秒で終わりました。
行政実務にしては驚異的です。
私は半分になったカステラを受け取ります。
昨日より少し小さい。
でも今日は、ちゃんと終わりが見えていました。
それだけで、待つ時間はずいぶん違うものです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




