[行政手続法7条・申請に対する審査・応答]現場編 「書類が足りないから預かれません」の罠。補正できる申請と、窓口で消される申請
役所の窓口でいちばん怖い言葉は、「不許可」ではありません。
「これじゃ受け取れません」
です。
不許可なら、まだ何かが残ります。
申請した。
審査された。
駄目だと判断された。
少なくとも、そこまでの足跡は残る。
ところが、
「受け取れません」
で終わると、最初から何もなかったみたいになる。
申請書も。
申請日も。
役所に来たという事実さえも。
――これ、地味ですけど、かなり怖いやつです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所の朝は、相馬先輩が電話口で怒鳴っているところから始まりました。
「だから昨日持ってっただろうが!」
朝から元気ですね。
私は湯呑みにお茶を注ぎながら、できるだけ聞いていないふりをしました。
「足りないなら足りないで、何が足りないか言え! 何だその『一式揃ってから持ってきてください』ってのは!」
あ。
これは聞いたほうがよさそうです。
私は急須を置きました。
向かいの机では片桐所長が、電話の怒声など存在しないかのように新聞を読んでいます。
この事務所、騒音耐性が高すぎる。
「……分かった。今から行く」
ガチャン。
相馬先輩が受話器を置きました。
「市役所ですか」
「聞いてたのか」
「あれだけ大声なら商店街まで聞いてます」
「ちょうどいい。お前も来い」
「なぜ」
「新人は現場を見ろ」
「便利な言葉ですね、それ」
「便利だから使ってる」
清々しい。
所長が新聞を折りました。
「誰の件だ」
「森下さんです。駅裏の弁当屋」
「ああ」
私は首をかしげました。
「弁当屋さん?」
「駅前再整備で立ち退き食らうだろ。仮設店舗へ移る話が進んでる」
ああ。
最近、町のあちこちで聞く話です。
駅前再整備。
古い店舗を整理して、道路を広げて、観光客も呼び込んで、町をきれいにする。
言葉だけ聞けば良いことずくめです。
ただし。
町をきれいにするとき、一番最初に困るのは、だいたいそこですでに暮らしている人です。
「森下さんは仮設店舗で営業を続けるために、営業関係の申請を出すんですよね」
「そうだ」
「で、何が足りないんです?」
「分からん」
「分からない?」
「窓口が書類を預からなかった」
私は瞬きをしました。
「不足書類を教えずに?」
「正確には、『まだ不備があるので受理できません。一式揃えてから来てください』だ」
「何が足りないかは?」
「『確認してから』」
「確認してから……?」
「でも書類は返された」
嫌な予感がしました。
すごく。
行政法を勉強していると、ときどき出会うんです。
法令の条文より先に、
――え、それで申請したことになるの?
と聞きたくなる場面に。
「いつ持っていったんです?」
「昨日」
「期限は?」
「明日」
私は急須を落としかけました。
「明日!?」
「だから行くんだよ」
相馬先輩は鞄をつかみます。
「期限を過ぎたあとで、『申請されてません』と言われたら洒落にならん」
なるほど。
話が見えました。
いや、見えてほしくなかった。
書類に不足がある。
だから窓口が返す。
その間に期限が来る。
期限後に再提出。
すると役所側は言える。
期限内の申請ではありません。
怖い。
ものすごく地味なのに、ものすごく怖い。
「所長」
私は振り返りました。
「行ってきてもいいですか」
「行け」
「早い」
「相馬一人だと喧嘩になる」
「俺を何だと思ってる」
「喧嘩になる人」
「所長まで!」
意見の一致を見ました。
相談者の森下春江さんは、市役所の玄関前で待っていました。
五十代半ばくらいの女性です。
白い割烹着の上に薄いカーディガン。
手には、角の擦れた茶封筒。
中には申請書類一式。
顔を見るなり、相馬先輩に頭を下げました。
「すみませんねえ。また来てもらって」
「謝るのは市役所に全部聞いてからです」
相馬先輩、相談者には案外優しい。
「森下さん」
私は隣に立ちました。
「昨日は、書類を提出しようとしたんですよね」
「うん。でもね、『足りないものがあるから受け取れません』って」
「何が足りないかは?」
「聞いたよ。でも、『担当に確認しないと分からない』って」
「担当の方は?」
「会議でいなかったみたいで」
「じゃあ昨日は、結局そのまま?」
「そう」
森下さんは封筒を抱え直しました。
「明日までに出さないと、仮設店舗の割り振りに間に合わないかもしれないって言われてるんだけどねえ」
「誰にです?」
「商工課の人」
「書面ですか?」
「口で」
昭和の行政実務。
口頭運用が元気です。
「期限そのものは、どこに書いてあります?」
「説明会でもらった紙に」
私はその紙を見せてもらいました。
仮設店舗利用希望者は、所定の申請書および関係書類を九月三十日までに提出すること。
今日は九月二十九日。
確かに明日までです。
「昨日の時点で申請書そのものは記入済み?」
「はい」
「判子も?」
「押した」
「添付書類も、分かる範囲では?」
「全部そろえたつもり」
私は封筒を開きました。
申請書。
営業実績を示す書類。
店舗の図面。
身分関係の証明。
商店会の証明書。
結構あります。
「昨日、これを出そうとしたんですよね」
「うん」
「でも、窓口で中身をざっと見て、返された」
「そう」
私は紙束を見ながら、妙な感覚になりました。
昨日までなら。
いや、未来の私なら。
この場面を見て、頭の中に一つの条文番号が浮かびます。
行政手続法七条。
申請が事務所に到達したら、遅滞なく審査を開始する。
形式上の要件に適合しないなら、相当の期間を定めて補正を求めるか、申請を拒否する。
――ただし。
今は昭和六十三年です。
行政手続法は、まだありません。
未来の法律を取り出して、
「七条です!」
とか言ったら、私は受験生ではなく未来人として保護されます。
違う意味で手続が始まる。
「何ニヤニヤしてる」
相馬先輩が睨みました。
「いえ。未来を見てました」
「気持ち悪いな」
「自覚はあります」
でも。
未来に条文化されるということは、
今、この時代に何の問題もないという意味ではありません。
むしろ逆。
問題があるから、後になって整理される。
申請を出したい人がいる。
役所が受け取らない。
不足があると言う。
でも何が足りないか言わない。
その間に期限だけ過ぎる。
こんなことが各地で起きたから、
後に法律が、
申請が届いたら審査を始めろ。
不備があるなら放置するな。
補正を求めるか、拒否するかしろ。
そう線を引く。
私は、未来の条文をいったん頭の奥へ押し込みました。
今ここで使うべきなのは条文番号ではない。
もっと手前の話です。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、書類を置いて帰りません?」
「置いて?」
「はい」
「昨日みたいに返されたら?」
「そこを確認したいです」
森下さんが不安そうに私を見ました。
「何を?」
「役所は今、この書類をどう扱うつもりなのかです」
市役所二階の商工課。
昨日、森下さんの申請書を返した職員は、若い男性でした。
私たちを見るなり、少し気まずそうな顔になります。
「あ、昨日の……」
相馬先輩が封筒を窓口に置きました。
「これ。提出します」
職員は封筒を開き、書類をめくります。
「あの、ですから、昨日も申し上げましたが、まだ書類が……」
「何が足りないんです?」
「それを今、担当に確認していて」
「じゃあ、それが分かるまで預かってください」
「いや、全部そろってからでないと受付は……」
「受付できない根拠は?」
相馬先輩、今日は最初から切れ味が良い。
職員が言葉に詰まります。
「いえ、うちでは通常そうしておりまして」
出ました。
通常。
役所の「決まりです」に次ぐ、だいぶ怪しい言葉。
「通常じゃなくて」
私は口を挟みました。
「森下さんは、今日これを提出します」
「でも、不備があると」
「それなら、不備が何か教えてください」
「だから今、確認を」
「確認するなら、その確認の対象として預かればいいんじゃないですか?」
職員が眉を寄せました。
「申請として、ですか?」
「はい」
「いや、それは……」
私は少し考えました。
「じゃあ逆に伺います。今日ここに置いていっても、申請ではないんですか?」
「一式そろって受付印を押して、初めて受付です」
そこだ。
私は心の中で、鉛筆を一本折りました。
いや折ってませんけど。
気持ちとして。
「それって」
私は聞きました。
「受付印を押した日が、申請日なんですか?」
「え?」
「それとも、申請書を役所へ出した日が申請日なんですか?」
職員は黙りました。
後ろの机から、見覚えのある人が顔を上げました。
倉田係長です。
最近、私たちは市役所に来るたび、この人に会っている気がします。
「……また君たちか」
「こんにちは、係長」
「今度は何だ」
「森下さんの申請を受け取ってもらえません」
倉田係長が若い職員を見ました。
「どういうことだ」
「書類がまだ不足している可能性があるので、一式そろってから再提出をお願いしてまして」
「不足は何だ」
「担当に照会中です」
「じゃあ、まだ分かってないのか」
「はい」
倉田係長の眉間に皺が寄りました。
相馬先輩が腕を組みます。
「分かってない不備を理由に返したんですか」
「いや……」
「しかも締切前日に?」
職員の顔色が少し変わりました。
悪意はなさそうです。
ただ、窓口でそうしてきた。
そろっていない申請書は受け取らない。
きれいにしてから持ってきてもらう。
おそらく効率のため。
後で問い合わせる手間を減らすため。
未完成な案件を抱えないため。
役所側から見れば、合理的な面もある。
でも。
申請する側の人生は、窓口の整理棚ほど簡単じゃありません。
「森下さん」
倉田係長が書類を手に取りました。
「昨日持ってこられたのは、これで全部ですか」
「はい」
「昨日も提出する意思はあった?」
「ありましたよ。だから来たんです」
そりゃそうです。
観光でもないのに、市役所へ書類の束を持って遊びに来る人はいません。
倉田係長は職員を見ました。
「昨日、何か預かりの記録は?」
「ありません」
「相談記録は?」
「……ないです」
「じゃあ昨日来たことも、うちの記録には残ってないのか」
「はい」
その瞬間。
森下さんの顔が変わりました。
「え」
小さな声でした。
「じゃあ私、昨日来てないことになってるんですか」
部屋が少し静かになりました。
役所の窓口では、ときどき。
法律用語より、その一言のほうが重い。
「来てない、という意味では……」
若い職員が慌てます。
「でも記録がないなら、同じじゃないかい」
森下さんは、怒鳴りませんでした。
ただ、封筒を見ました。
「私、昨日、店を昼で閉めたんですよ」
職員が顔を上げます。
「ここへ来るために」
「……」
「お弁当も早めに売り切って。お客さんにも謝って。そしたら、足りないかもしれないから持って帰ってって」
誰も言葉を挟みません。
「今日だって同じです」
森下さんは続けました。
「うちは私一人じゃ店を回せないから、娘に仕事休んでもらってるんです」
私は、胸の奥が少し冷えました。
行政手続という言葉は。
教科書の中にあると、ものすごく無機質です。
申請。
到達。
審査。
補正。
拒否。
単語だけ見ると、段ボール箱に貼るラベルみたい。
でも。
その「到達」の向こうには、
一日店を閉めた人がいる。
子どもに仕事を休んでもらった人がいる。
期限までに間に合わせようとした人がいる。
そこで役所が、
「まだ完成してないから持って帰って」
と全部を無かったことにするなら。
これは単なる受付方法の話じゃありません。
「係長」
私は言いました。
「少なくとも今日、この申請書を預かってもらえませんか」
「……」
「それで、中身を見てください」
「不備があった場合は?」
「具体的に教えてください」
私は書類を指しました。
「直せるものなら直します」
「直せないものなら?」
相馬先輩が横から言いました。
「そのときは、そのときで正式に判断すりゃいいでしょう」
倉田係長はしばらく黙っていました。
そして、私たちではなく、若い職員を見ます。
「受付簿、持ってきて」
「係長?」
「いいから」
職員が奥へ消えました。
倉田係長は森下さんへ向き直ります。
「昨日のことは、すみませんでした」
森下さんが驚いたように目を上げます。
「今の時点で、この申請が完全かどうかはまだ分かりません」
「はい」
「ただ、今日提出されたものとして預かります」
私は息を吐きました。
「今日?」
相馬先輩が言います。
「昨日持ってきた件は?」
倉田係長が苦い顔をしました。
「そこは……昨日、正式に預かっていない以上、昨日付の受付にするのは難しい」
「そっちが返したんだろ」
「分かってる」
「じゃあ」
「相馬さん」
片桐所長の声がしました。
「え?」
振り返ると。
なぜか所長が立っていました。
「所長!?」
「遅かったな」
相馬先輩が言います。
「いつからいたんですか」
「今」
「怖い登場やめてください」
所長は窓口へ歩み寄ります。
「倉田さん」
「片桐先生……じゃなくて、片桐さん」
「所長でいいです」
細かい。
倉田係長は咳払いしました。
片桐所長は森下さんの書類を一枚めくりました。
「今日付で受ける。それで構いません」
相馬先輩が振り返ります。
「所長」
「締切は明日だ」
「ああ」
「今日受ければ間に合う」
そう。
ここで昨日付か今日付かを争って時間を使うより、
今日、確実に申請を成立させる。
期限はまだ一日残っています。
所長は続けました。
「問題は、今後です」
倉田係長が黙って聞きます。
「不足があるなら、その内容を示してください。可能なら期限も切ってもらいたい」
「期限?」
「補えるものなら、いつまでに補えば審査を続けられるのか。そこが分からなければ申請者は動けない」
私は、頭の中で未来の七条が光るのを感じました。
相当の期間を定めて補正を求める。
そう。
未来では、もっとはっきり書かれる。
不備があるなら、申請者に補正を求める。
それとも、申請自体を拒む。
どちらかだ。
少なくとも、
窓口に持ってきた申請を、
「何か足りないかもしれないから」
という曖昧な理由で返し続けて、
申請が存在しない状態のまま期限を過ぎさせる。
そんな霧の中に置いておくのはおかしい。
「所長」
私は小さな声で言いました。
「はい」
「昨日持ってきた時点で、受け取って中身を審査して、不備があるなら後で直してもらう、って方法もあったんですよね」
所長は少しだけ私を見ました。
「当然、それは考えられる」
「でも、この役所では先に全部そろわせる運用だった」
「そうだな」
「だから申請の入口で止まってた」
「そういうことだ」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「役所からすりゃ、未完成品を抱えたくなかったんだろ」
「でしょうね」
「でも出す側からすりゃ、受付されないまま期限だけ進む」
「はい」
「面倒な話だな」
「行政法って大体そこです」
「お前、最近楽しそうだな」
「気のせいです」
絶対、気のせいです。
教科書で見たときは眠かったですから。
倉田係長は、持ってきた受付簿へ森下さんの名前を書き込みました。
そして、申請書の余白に受付日を記入します。
九月二十九日。
その日付を見て。
森下さんの肩が、少しだけ下がりました。
たった数字四つと月日です。
でも。
今の森下さんにとっては、
私はちゃんと申請した。
その証拠でした。
「受付印は?」
相馬先輩。
「今押します」
「控えにも」
「分かってます」
「よし」
「相馬さん、職員みたいですね」
「うるさい」
若い職員が、森下さんの控えにも日付印を押しました。
ぽん。
乾いた音。
たったそれだけ。
でも、その音で「提出した」が形になりました。
私は思わずその印を見つめます。
行政手続って。
派手じゃない。
むしろ、びっくりするくらい地味です。
印鑑。
日付。
受付簿。
不足書類。
補正期限。
どれも映画にならない。
でも。
誰かが後から、
「そんな申請は受けてません」
と言えないようにする。
それだけで、人はずいぶん救われる。
「不足書類は今日中に確認します」
倉田係長が言いました。
「森下さんには電話します」
「電話だけですか?」
私が聞くと、相馬先輩が横から肘で小突きました。
「お前、急に厳しいな」
「だって後で言った言わないになります」
倉田係長がため息をつきました。
「紙にもします」
「ありがとうございます」
「……君、だんだん役所の嫌がるところを覚えてきたね」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてない」
でも、少し笑っていました。
結局。
午後三時過ぎ、市役所から連絡が入りました。
不足していたのは二つ。
仮設店舗内の設備配置をもう少し明確にした図面。
それから、使用予定の給水設備についての確認書。
どちらも補えるものでした。
しかも。
翌日の午前中までに追加提出すれば、申請は今日受け付けたものとして審査を続ける。
そういう扱いになりました。
「だったら昨日そう言ってくれりゃよかったんですよ」
森下さんは、事務所の椅子に座って笑いました。
本当に。
それだけの話でした。
図面が少し足りない。
確認書が一枚足りない。
補えばいい。
ただそれだけ。
なのに。
昨日は、
「足りないものがあるかもしれないから受け取れません」
だった。
今日になって、
「この二つを明日の午前中までに補ってください」
へ変わった。
同じ「不備があります」でも、
意味がまるで違います。
前者は道を消す。
後者は道を示す。
「朝比奈さん」
森下さんが、紙袋を差し出しました。
「これ、持って帰って」
「何ですか?」
「弁当」
「え」
「今日、店に出せなかった分」
「いや、それは売り物じゃ」
「売れないから余ったの。捨てるより食べてもらったほうがいいよ」
相馬先輩が即座に紙袋を受け取りました。
「ありがとうございます」
「先輩、速い」
「礼は速度だ」
「聞いたことないです」
袋の中には、幕の内弁当が三つ。
焼き鮭。
卵焼き。
煮物。
小さな梅干し。
昭和の弁当は、茶色が強い。
でも美味しそうです。
「三つ?」
私は数えました。
「三人分」
森下さんが笑います。
「片桐所長と、相馬さんと、朝比奈さん」
「ありがとうございます」
「今日はね」
森下さんは、少し照れたように言いました。
「受付印って、あんなに安心するものなんだねえ」
私は、少しだけ言葉に詰まりました。
「たぶん」
それから答えます。
「印そのものが安心なんじゃなくて」
「うん?」
「もう、なかったことにされないって分かるからじゃないですか」
森下さんは、少し考えました。
それから、小さく頷きます。
「そうかもねえ」
帰り際。
彼女は控えの申請書を、茶封筒の一番上へ丁寧に入れました。
受付日が見えるように。
「明日、図面持ってきます」
「一緒に確認します」
「よろしくね」
事務所のドアが閉まります。
相馬先輩が、早速弁当を開けました。
「食うぞ」
「まだ四時です」
「昼飯食ってない」
「そういえば私もです」
所長が新聞を畳みました。
「先に不足書類を確認しろ」
「弁当が冷めます」
「書類が先だ」
「制度が冷たい!」
「お前が言うな」
相馬先輩に突っ込まれました。
私は笑いながら、森下さんの案件ファイルを開きます。
不足書類。
二点。
提出期限。
明日午前。
受付日。
今日。
見通しがある。
それだけで、昨日とはまるで違う案件に見えました。
昨日までは、
受け付けてもらえない。
何が足りないかも分からない。
期限だけ迫ってくる。
そんな、出口のない話だった。
でも今は違います。
申請は受け付けられた。
足りないものは二つ。
直せる。
期限も分かる。
明日持っていけばいい。
問題が小さくなったわけではありません。
問題の形が見えたんです。
見える問題は、対処できます。
見えない「駄目です」が、人を一番弱らせる。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日の一番の問題って、書類不足じゃなかったですよね」
「じゃあ何だ」
「書類不足を理由に、申請そのものを入口で消してたことです」
「消してた、か」
「だって記録に残ってなかったじゃないですか」
「まあな」
私は申請書の控えを指で叩きます。
「不足があるなら、何が不足してるのか言えばいい。直せるなら直してもらえばいい。それでも駄目なら、その時点で判断すればいい」
「簡単に言うな」
「簡単な話だから腹立つんですよ」
相馬先輩が少し笑いました。
「それは分かる」
奥から所長が言いました。
「行政は、判断しなければ責任も生じにくい」
「え?」
「受け付けない。預からない。書面にしない。判断を先送りする。そうすれば、外から見れば何も起きていないことになる」
私は黙りました。
「だが」
所長が続けます。
「何も起きていない間にも、相手の時間は進む」
時計を見ました。
午後四時十二分。
森下さんの申請期限まで。
あと一日もありません。
「だから入口で止めること自体が、実質的には大きな意味を持つ」
「はい」
未来の私は知っています。
数年後。
この国では、行政手続法ができる。
申請が役所に届いたら、遅滞なく審査を始める。
形式的な不備があるなら、速やかに補正を求めるか、求められた許認可等を拒否する。
役所の机の端に、
何となく置きっぱなし。
何となく返却。
何となく受け付けない。
そういう「何となく」の場所を狭くしていく。
でも。
昭和六十三年の今。
その法律は、まだありません。
だから私は未来の条文を口にはできません。
ただ。
今日の森下さんの顔を見ると、分かる。
なぜ後の時代に、
申請が届いたら審査を始めなさい。
不備があるなら、補正か拒否か、態度を明確にしなさい。
そんなルールが必要になるのか。
法律って。
未来から突然降ってくるわけじゃない。
先に、困った人がいるんです。
役所に書類を出しに来て。
でも受け取ってもらえなくて。
何が足りないのかも分からなくて。
期限だけが近づいて。
その積み重ねの後ろから、
やっと条文が追いついてくる。
私は机の上のノートを開きました。
今日の題だけ書きます。
――申請に対する審査・応答。
「また勉強か」
相馬先輩が言いました。
「忘れないうちに」
「何を書く」
「今日は題だけです」
「珍しいな」
「ちゃんと整理すると、未来の知識と今の知識が混ざりそうなので」
「未来?」
「こっちの話です」
「やっぱり気持ち悪いな」
失礼です。
私はノートの下に、小さく一行だけ書きました。
受け取らないことも、ひとつの強い運用になる。
そして、そこでペンを止めます。
詳しく整理するのは、もう少しあと。
今日のところは、それで十分です。
役所へ申請する人にとって、
大事なのは「全部完璧であること」だけじゃない。
出した。
届いた。
見てもらえる。
足りなければ、何が足りないのか分かる。
次に何をすればいいのか分かる。
その一本の道があること。
それが大事なのだと思います。
制度の冷たさは、ときどき人を困らせます。
でも。
届いたなら届いた。
足りないなら足りない。
直せるなら直す。
駄目なら駄目。
そうやって曖昧さを減らす冷たさは、
むしろ人を救うことがある。
「こはる」
「はい」
所長が弁当を指しました。
「食べるなら今だ」
「え?」
見ると。
相馬先輩が、私の弁当に手を伸ばしていました。
「先輩」
「何だ」
「それ、私のです」
「名前書いてないぞ」
「森下さんが三人分って言いました!」
「形式上の要件を満たしてない」
「何の申請ですか!」
「弁当占有申請」
「却下!」
「理由は?」
「私のだからです!」
「主観的だな」
「所長!」
所長は自分の弁当を開けながら、短く言いました。
「こはるのだ」
「ほら!」
「……ちっ」
「今舌打ちしましたね!?」
相馬先輩は渋々手を引っ込めました。
私は弁当を確保します。
受付成功。
補正不要。
即時処分。
これくらい役所も早ければいいんですけど。
まあ。
そんなことを考えながら食べた卵焼きは、少し甘かった。
今日の教訓。
「不備があります」で終わらせない。
何が足りないのか。
直せるのか。
それでも駄目なのか。
そして何より。
申請を、入口で存在しなかったことにしない。
昭和六十三年。
まだ名前のない手続の問題が、町の小さな弁当屋のカウンターから、もう始まっていました。
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