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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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43/281

[行政手続法6条・標準処理期間]現場編 「いつ終わるかは言えません」の罠。申請者の時計と役所の時計を分ける“受け取った日”と“回した日”

挿絵(By みてみん)

 役所の「審査中です」は、ときどき時間を止めます。


 止まるのは役所の時計ではありません。


 店の家賃。


 仕入れの支払い。


 工事代金。


 そして、待っている人の生活です。


 でも窓口では、そんな時計は見えません。


「審査中です」


 その一言で、今日も明日も来週も、全部まとめて灰色になります。


 ――昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所で働き始めて間もない私は、その灰色の恐ろしさを、まだ教科書では知りませんでした。


「朝比奈。電話」


 相馬先輩が受話器をこちらへ突き出しました。


「はい」


「女。泣いてる」


「情報量が雑すぎません?」


「聞けば分かる」


「電話対応を野生動物の捕獲みたいに言わないでください」


 仕方なく受話器を受け取ります。


「お電話代わりました。片桐行政書士事務所、朝比奈です」


『あの……森田と申します』


 女性の声でした。


 五十歳くらいでしょうか。


 確かに少し震えています。


『市役所で、こちらに相談してみたらって言われて……』


「どうされました?」


『店が、開けられないんです』


 それが始まりでした。


     ◇


 森田文江さんは、その日の午後には事務所へ来ました。


 茶色い手提げ鞄を膝に置き、その上で両手を握っています。


 駅前商店街で二十年以上、夫婦で菓子店を営んできた人でした。


 夫が亡くなったあと、店を縮小。


 今回、駅前再整備に合わせて作られた仮設商店街の一角へ移り、小さな喫茶店を始める予定なのだそうです。


 店の名前は「喫茶つばめ」。


「コーヒーとトーストくらいなんです」


 森田さんは言いました。


「あと、うちで作ってるカステラを少し」


「いいですね」


「昔から、主人がね。店の隅に椅子を置いて、お客さんに食べてもらえたらいいなって言ってたんです」


 一瞬だけ、森田さんの顔が柔らかくなりました。


 でも、すぐに曇る。


「開店予定が、来月の一日なんです」


 今日は八月二十二日。


 十日もありません。


「営業許可の申請は?」


 片桐所長が聞きました。


「出しました。先月の二十五日に」


 私は顔を上げました。


「一か月近く前?」


「はい」


「何か書類が足りないと言われました?」


「いいえ」


「設備を直してください、とか」


「それもありません」


「検査は?」


「まだです」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「じゃあ何してるんだ」


「それを聞いても……」


 森田さんの指が鞄の持ち手を握り直します。


「『審査中です』って」


 出ました。


 役所の万能煙幕。


 審査中。


 便利な言葉です。


 何をしているのか言わなくても、それっぽく聞こえる。


 私は嫌な予感がしました。


「申請はどこへ出したんです?」


「市役所の衛生係です。県の許可だから、本当は県の保健所が決めるんだけど、申請書は市役所へ持っていくことになってるって」


 所長が頷きました。


「この地域はその取扱いだな」


「それで、市役所には二十五日に?」


「はい。受け取ってもらいました」


「控えはありますか」


「これです」


 差し出された紙には、確かに受付印が押されています。


 七月二十五日。


 私はその日付を見つめました。


「それから何度か電話して?」


「最初は市役所に聞きました。そしたら『県へ回してあります』って」


「いつ回したかは?」


「分かりません」


「県にも聞きました?」


「はい」


「何て?」


「『こちらに来たのは七月二十九日です』って」


 四日。


 私は少し引っかかりました。


「それで県は?」


「『審査は二十九日からです』って言われました」


 ん?


 私はもう一度、受付印を見ました。


 七月二十五日。


 市役所が受け取った。


 県に届いたのは二十九日。


 森田さんは二十五日から待っている。


 県は二十九日から数えている。


 たった四日です。


 でも、この感じ。


 妙に覚えがあります。


 頭の奥で、令和の行政書士テキストがむくりと起き上がりました。


 申請が、その事務所に到達してから――。


「……あ」


「何だ」


 相馬先輩がこちらを見る。


「いえ」


 危ない。


 私は口を閉じました。


 行政手続法。


 まだありません。


 平成五年制定。


 平成六年施行。


 今は昭和六十三年。


 未来の法律を持ち出して、


「行政手続法六条によりますと!」


 などと叫んだ瞬間、私は法律に詳しい見習いではなく、かなり具体的な種類の不審者です。


 でも。


 私が未来で覚えた条文は、何もないところから生まれたわけじゃない。


 今、森田さんが困っている。


 いつ終わるのか分からない。


 どこから待ち時間を数えるのかも分からない。


 窓口を一つ経由しただけで、その数日が消えている。


 つまり。


 後の法律が整理する問題は、もう目の前にある。


「森田さん」


「はい」


「県の人に、あとどのくらいかかるか聞きました?」


「聞きました」


「何て?」


 森田さんは俯きました。


「『いつとは言えません』って」


 私は思わず眉間を押さえました。


 うわあ。


 強い。


「普通はどのくらいなんですか、とは?」


「聞きましたよ。でも、『案件ごとに違いますので』って」


「開店日を伝えても?」


「伝えました」


「それでも?」


「はい」


 森田さんは笑いました。


 困った人がする、全然おかしくない笑い方でした。


「だから、牛乳屋さんにもパン屋さんにも、何日からお願いしますって言えなくて」


 小さい話です。


 たぶん役所から見れば。


 許可申請一件。


 書類一冊。


 でも森田さんにとっては違います。


 開店日が決まらない。


 仕入れを頼めない。


 広告も打てない。


 仮設店舗の賃料はもう発生している。


 棚も入れた。


 冷蔵庫も買った。


 なのに。


「審査中です」


 その一言だけで、全部が止まっている。


 所長が聞きました。


「申請後に、役所から連絡は一度も?」


「ありません」


「補正も?」


「ありません」


「追加資料も?」


「何も」


「現地確認の日程調整も?」


「ないんです」


 所長が相馬先輩を見る。


「行くぞ」


「市役所ですか」


「まず市だ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「こはる」


「はい」


「お前も来い」


「なぜ毎回」


「今、変な顔してただろ」


「顔で同行決めないでください」


「何か引っかかったんだろ」


 この人。


 口は悪いくせに、妙なところだけ鋭い。


「……ちょっとだけ」


「じゃあ来い」


 昭和の実務教育、だいたい現地連行です。


     ◇


 市役所の衛生係は、二階の一番奥にありました。


 窓口で森田さんの受付控えを見せると、若い職員が帳簿をめくります。


「ああ、森田さんですね」


「七月二十五日受付」


 相馬先輩が言いました。


「県へ送ったのは?」


「少々お待ちください」


 また帳簿。


 紙。


 判子。


 紙。


 昭和の行政は、たぶん紙を食べて生きています。


「二十八日に発送していますね」


「県には二十九日到着」


「はい」


「三日置いた?」


 職員の顔が固まりました。


「いえ、置いたというか……」


「二十五日に受け取って、二十八日に発送したんだろ」


「県向けの便が週二回なんです」


 なるほど。


 月曜日と木曜日。


 まとめて送るらしい。


「じゃあ」


 私は聞きました。


「森田さんが二十五日に持ってきても、県側では二十九日まで動かない?」


「まあ……そうですね」


「急ぎの申請でも?」


「基本的には同じです」


「そのこと、申請者には説明していますか?」


「え?」


「市役所へ提出した日と、県に届く日に何日か差が出ること」


 職員は少し困った顔をしました。


「特には」


「どれくらいかかるかの目安は?」


「県の審査なので、こちらでは」


 相馬先輩が口を挟みます。


「でも提出先はここなんだろ」


「ええ」


「市民からすりゃ、ここへ出した日から待ってる」


「それはまあ……」


「県は『うちに来た日からだ』。市は『県のことだから知らん』。その間の時間は誰のものだ?」


 職員が黙りました。


 私は内心で唸りました。


 それ。


 まさにそれです。


 申請者の時計では、七月二十五日から始まっている。


 行政の内部では、


 市役所に届いた日。


 発送した日。


 県に届いた日。


 担当者が見た日。


 いろんな時計が勝手に生まれる。


 そして誰も、全体で何日かかるのか説明しない。


 未来の私は知っています。


 この問題は、あとでちゃんと条文になる。


 申請が事務所に到達してから処分まで、通常どのくらいかかるのか。


 別の機関が提出先になっているなら、そこから処分庁へ届くまで通常どのくらいかかるのか。


 そんな「時間の見える化」を求める仕組みができる。


 でも。


 今はまだ昭和です。


 条文を振り回すことはできない。


 なら、今ある事実を聞くしかありません。


「すみません」


 私は言いました。


「この申請、市役所に届いてから県へ届くまで、普通どれくらいなんですか?」


「普通?」


「はい。週二回便なら、だいたい一日から四日ですよね」


「まあ、そのくらいです」


「それ、申請する人に分かるようになってます?」


「いえ」


「じゃあ県に届いた後、許可まで普通どのくらいかかるんです?」


「それは県に聞いてください」


 見事なたらい。


 私は危うく拍手しそうになりました。


 所長が静かに言いました。


「県へ行こう」


     ◇


 県の保健所では、担当者が最初から少し疲れていました。


 駅前再整備の関係で、新規申請が増えているらしい。


 応対に出たのは、五十代くらいの男性。


 名札には「食品衛生担当 黒川」とあります。


「森田さんの件ですね」


「はい」


 片桐所長が控えを置きました。


「申請書は七月二十九日にこちらへ到達している」


「ええ」


「不足書類は?」


「ありません」


「施設基準で問題は?」


「図面上は特には」


「現地確認は?」


「まだです」


「なぜ?」


 黒川さんは少し眉を寄せました。


「順番にやっています」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「いつ頃です」


「ですから、順番です」


「順番なのは分かった。その順番がいつ回ってくるのか聞いてる」


「それは約束できません」


「約束しろとは言ってない」


「案件ごとに違いますから」


「普通は?」


「ですから……」


 空気が少し固くなりました。


 私は黒川さんの机の後ろを見ました。


 壁に予定表。


 検査日程らしき手書きの表。


 月曜。


 水曜。


 金曜。


 名前が並んでいます。


 完全に無計画というわけではない。


「黒川さん」


「はい?」


「こういう営業許可って、だいたい何日くらいで現地確認まで行くことが多いんですか?」


「だいたい?」


「絶対じゃなくていいんです。通常なら、です」


 黒川さんは一瞬止まりました。


「……二週間程度です」


 出た。


 相馬先輩も動きを止めました。


「二週間?」


「混雑してなければ、ですが」


「今、森田さんの申請は?」


 黒川さんが書類を確認します。


「二十九日受付だから……」


「今日で二十四日目」


 私は言いました。


「三週間を超えてます」


 黒川さんの顔に、ほんの少しだけ「しまった」が浮かびました。


 相馬先輩が逃しません。


「じゃあ遅れてるんじゃないか」


「今は申請が多くて」


「なら最初にそう言えばいい」


「……」


「普通は二週間程度。ただし今は混雑して三週間以上かかっている。そう説明すれば済む話だろ」


「正式に二週間と決めているわけではありません」


 黒川さんが少し強く言いました。


 私はそこで、また未来の条文が頭に浮かびました。


 標準処理期間。


 必ず定めろ、ではない。


 定めるよう努める。


 そして定めたなら、公にする。


 ああ。


 なるほど。


 今この人が怖がっているのは、たぶん「二週間と言ったら期限になる」と思っているからだ。


「黒川さん」


 私は言いました。


「二週間で必ず許可してください、って話じゃないです」


 黒川さんが私を見る。


「普通ならどれくらいなのか、それすら分からないから森田さんは困ってるんです」


「……」


「二週間が目安で、今は混んでいて三週間以上かかるなら、それを知りたいだけです」


「しかし、個別の案件は――」


「違うこともありますよね」


「ええ」


「だから、“標準”なんじゃないですか」


 言ってから、少し心臓が跳ねました。


 標準。


 危ない。


 未来用語に片足を突っ込みました。


 でもこれは普通の日本語です。


 セーフ。


 たぶん。


 黒川さんは黙っています。


 私は続けました。


「設備に問題があって延びる人もいる。追加書類が必要な人もいる。特殊な案件もある。でも、それと“普通の案件ならどのくらいか”を言えないことは別じゃないですか」


「……君、何者?」


「見習いです」


 また言われました。


 昭和に来てからこの質問、多いな。


 相馬先輩が横から言います。


「変な見習いだ。気にするな」


「フォローになってません」


 所長が黒川さんへ尋ねました。


「森田さんの案件は、何か特別に時間がかかる事情がありますか」


「……いえ」


「書類不足なし」


「はい」


「図面上の問題なし」


「はい」


「なら、今残っているのは?」


「現地確認です」


「いつ入れられます」


 黒川さんは予定表を見ました。


 数秒。


 それから書類。


 また予定表。


「……二十四日の水曜」


「明後日?」


「午前なら」


 森田さんが息を呑みました。


「来てもらえるんですか」


「はい。ただし、検査で問題があれば、その場で許可とはいきません」


「分かっています」


「設備が図面どおりなら、その後の処理は進めます」


 森田さんの肩から、目に見えて力が抜けました。


 まだ許可が出たわけではありません。


 でも。


 いつになるか分からない。


 から、


 明後日、検査。


 へ変わった。


 たったそれだけです。


 なのに、部屋の空気はかなり違いました。


「もう一つ」


 片桐所長が言いました。


 黒川さんが顔を上げます。


「今後、せめて通常どの程度かかるのか、窓口で説明した方がいい」


「……」


「決めているなら見えるようにする。決めていないなら、問い合わせに対して実情を答える」


「正式な期限ではありませんよ」


「期限だとは言っていない」


 所長はそこで言葉を切りました。


「待たせるなら、待ち方くらい教えるべきだ」


 短い。


 でも刺さりました。


 黒川さんも、少しだけ表情を変えました。


「……検討します」


 相馬先輩が私の方へ顔を寄せます。


「役所の『検討します』は信用するなよ」


「声が大きいです」


「聞こえるように言った」


「やめてください」


 黒川さんが苦笑しました。


 完全な悪人ではない。


 たぶん本当に忙しいのでしょう。


 駅前開発。


 新しい店。


 祭り。


 再整備。


 申請件数が増えて、手が回らない。


 でも。


 忙しいことと、説明しなくていいことは同じではありません。


     ◇


 帰り道。


 森田さんは何度も頭を下げました。


「ありがとうございます。本当に」


「まだ検査前ですから」


 私は言いました。


「設備で何かあったら直さないといけませんし」


「それでもいいんです」


 森田さんは笑いました。


 今度は、さっきとは違う笑い方です。


「日にちが分かったから」


 私はその言葉に、ちょっと詰まりました。


 日にちが分かった。


 たったそれだけ。


「パン屋さんに電話できます」


「はい」


「牛乳も、いつからって相談できる」


「はい」


「娘にも、手伝いに来てって言えます」


「……はい」


「駄目なら駄目で、直せばいいんです」


 森田さんは小さく息を吐きました。


「一番困るのは、いつまで待つか分からないことだったんですね」


 その言葉を聞いて、私は未来のテキストを思い出しました。


 標準処理期間。


 受験生だった頃の私は、あれを数字の問題だと思っていました。


 任意。


 定めたら公表。


 申請が事務所に到達してから。


 別の機関が提出先なら、そこから行政庁へ届くまでの期間も――。


 覚える。


 選択肢を切る。


 丸かバツか。


 それだけ。


 でも違った。


 あれは。


 待っている人に、


 自分はいま、どこにいるのか。


 だいたい、あとどのくらいなのか。


 それを見えるようにするための仕組みだったのだ。


 まだ、この時代にはないけれど。


「何ニヤついてる」


 相馬先輩に言われました。


「ニヤついてません」


「いや、ちょっと嬉しそうだったぞ」


「法律の意味が分かった気がしただけです」


「また論点か?」


「論点っていうより……時計です」


「は?」


「申請者と役所で、時計が違うんだなって」


 相馬先輩は眉をひそめました。


「役所の時計?」


「森田さんは七月二十五日から待ってた。でも県は二十九日から数えてたでしょう」


「ああ」


「市役所では二十八日に発送した。県では二十九日に受付した。担当者が実際に見たのはもっと後かもしれない」


「で?」


「役所の中に時計が何個もあるんです」


「面倒くせえ話だな」


「でも待つ人には一個しかない」


 相馬先輩がこちらを見ました。


 私は続けました。


「申請書を出した日から、ずっとです」


 しばらく黙っていた所長が言いました。


「だから行政の側が整理しなければならない」


「何をです?」


「どこから数えるのか。普通はどれくらいなのか」


 私は所長を見ました。


「そういう考え方、今もあるんですか」


「当たり前だ」


「法律に書いてなくても?」


「法律に書いてなければ、問題が消えるわけじゃない」


 ……。


 それ。


 今日一番、転生者に刺さる言葉でした。


 後の時代に法律ができる。


 ということは。


 その法律ができる前には、何もなかったわけじゃない。


 困っていた人がいた。


 揉めた現場があった。


 行政内部のばらつきがあった。


 説明されない待ち時間があった。


 そういう積み重ねが、


 いつか条文になる。


 私は未来を知っている。


 でも未来の条文を知っているから偉いわけではない。


 むしろ逆だ。


 いま目の前にある困りごとが、


 どうして後に制度化されるほど大事だったのか。


 それを、私は初めて見ている。


     ◇


 二日後。


 森田さんの店には、黒川さんが本当に来ました。


 私は相馬先輩と一緒に立ち会いました。


「手洗いはここ」


「はい」


「給水設備」


「こちらです」


「冷蔵庫の温度計は?」


「あっ」


 森田さんが固まりました。


「……ないです」


 黒川さんも固まりました。


 私も固まりました。


 相馬先輩が天井を見ました。


「出たな」


「何です」


「現場あるある」


 結局、温度計など数点の手直しが必要になりました。


 完全合格ではありません。


 でも黒川さんは、その場で必要な箇所を一つずつ説明しました。


「ここを直してください」


「はい」


「これは今日中に用意できると思います」


「はい」


「確認できれば、処理を進めます」


 森田さんは必死にメモを取っています。


 私は横で見ながら、少し安心しました。


 これならいい。


 駄目な理由が分かる。


 次に何をすればいいか分かる。


 いつ確認してもらえるか分かる。


 同じ「まだ許可できません」でも、


 中身がある。


 午後。


 森田さんは温度計を買いに走り、業者へ連絡し、翌日の再確認が決まりました。


 そして三日後。


「出ました!」


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 森田さんでした。


 手には許可書。


 もう一方の手には、大きな紙袋。


「許可、出ました!」


「おめでとうございます」


「一日に間に合います!」


 相馬先輩が紙袋を見る。


「そっちは?」


「試作品です」


「開けよう」


「先輩、許可書より先に食べ物見ましたね」


「重要だろ」


「何がです」


 紙袋の中には、カステラが入っていました。


 焼き色のきれいな、昔ながらのカステラ。


「主人が好きだったんです」


 森田さんは言いました。


「店でも出そうと思って」


「いいですね」


「開店したら、食べに来てください」


「もちろんです」


 森田さんは少し笑ってから、ふと真面目な顔になりました。


「でもね」


「はい」


「今回、許可が遅れたことより、怖かったことが分かりました」


「何です?」


「いつまでか分からないこと」


 私は黙って聞きました。


「一週間なら一週間って分かれば、待てるんです」


「はい」


「三週間なら、三週間なりに仕入れをずらせる」


「そうですね」


「でも、“分かりません”だけだと、何も決められない」


 森田さんは許可書を見下ろします。


「人間って、待つ時間より、終わりが見えない方がつらいんですね」


 私は少しだけ笑いました。


「たぶん役所は、その辺をこれから何十年かかけて勉強します」


「何十年?」


「あ」


 相馬先輩が振り向きました。


「何言ってんだ、お前」


「比喩です」


「下手な比喩だな」


「忘れてください」


 危ない。


 未来人、油断すると年表を漏らします。


 森田さんが帰ったあと、相馬先輩は早速カステラを切り始めました。


「五等分だな」


「四人しかいませんけど」


「俺が二つ」


「また相馬法ですか」


「今日は検査立会いした」


「私もしました」


「俺は車を運転した」


「それを根拠に配分を増やさないでください」


 奥から所長の声。


「四等分」


「所長」


「はい」


「行政庁による裁定入りました」


「行政庁じゃない」


「でも一番権限ありますよね」


「給料を減らす権限ならある」


「権力が生々しい!」


 相馬先輩が笑います。


 私はカステラを一切れもらって、机へ戻りました。


 甘い。


 表面のざらめが少し残っている。


 昭和のカステラ、強い。


 私はノートを開きました。


 書きたいことは山ほどあります。


 森田さんは七月二十五日に市役所へ申請した。


 県へ届いたのは二十九日。


 県はそこから自分たちの時計を動かしていた。


 通常なら二週間程度。


 でも、それは外には見えていなかった。


 そして担当者は、


 「正式な期限ではないから」


 という理由で、目安を口にすることさえ避けていた。


 私はペンを持ちました。


 でも。


 まだ書きません。


 今日の話は、意外にややこしい。


 普通どのくらいかかるかを決めることと、


 何日以内に必ず処分しなければならないという法定期限は違う。


 目安を決めることと、


 その目安どおりに必ず終わることも違う。


 そもそも、


 そういう期間を決めなければならないのか。


 決めたなら、誰に見せるのか。


 そして。


 市役所のような別の機関が正式な提出先になっている場合、


 市役所から県へ書類が移動する時間はどう扱うのか。


 頭の中で、


 未来の条文がかなり具体的な顔をしてこちらを見ています。


 行政手続法第六条。


 でも私は、ノートの上にはまだ書きませんでした。


 昭和六十三年には、存在しない。


 今日の私は、未来の答えを知っているだけです。


 どうしてその答えが必要になったのか。


 そこを、ちゃんと理解したい。


「書かないのか」


 相馬先輩が言いました。


「今日は題名だけにします」


「またか」


「現場で分かった気になってる時が、一番危ないんです」


 所長が少しだけ頷きました。


「何と書く」


 私は考えました。


 そしてノートの一番上に、


 こう書きました。


 ――標準処理期間。


「何だそれ」


 相馬先輩が覗き込みます。


 しまった。


「ええと」


「聞いたことないぞ」


「私の造語です」


「また妙な言葉を」


「普通はどのくらいで処理するか、って意味です」


 所長がその文字を見ました。


「悪くない」


「え」


「申請者には必要な考え方だ」


 私は少し息を止めました。


 未来では。


 その言葉は本当に法律に書かれます。


 でも今。


 そんな未来を知らない片桐所長が、


 必要な考え方だと言った。


 それが妙に嬉しかった。


「じゃあ明日、整理します」


「今日やれ」


「またですか」


「忘れる」


「未来の法律なので忘れません」


「何?」


「何でもありません!」


 相馬先輩が怪しそうにこちらを見ます。


 私はカステラで口を塞ぎました。


 自分の口を。


 危ない危ない。


 窓の外では、夕方の駅前に工事の音が響いていました。


 新しい商店街。


 新しい店。


 新しい申請。


 町が変われば、役所へ出す紙も増える。


 紙が増えれば、待つ人も増える。


 そのとき、


 役所の中では普通の一件でも、


 外では誰かの店が一日ずつ止まっている。


 今日、森田さんを救ったのは、


 許可を特別に早く出してもらったことではありません。


 何が止まっているのかを確認したこと。


 通常ならどのくらいなのかを聞いたこと。


 そして、


 次にいつ動くのかを見えるようにしたこと。


 たぶん行政の時間は、


 早ければいいわけじゃない。


 慎重な審査が必要なことだってあります。


 でも。


 待たせる時間を、役所だけが知っていていいわけでもない。


 いや。


 役所すら知らないまま、


 「審査中です」


 で済ませていいわけでもない。


 私はノートの題名をもう一度見ました。


 標準処理期間。


 まだ存在しない法律の言葉。


 でも、その言葉が必要になる理由は、もうこの町にありました。


 法律は、ときどきずいぶん遅れてやって来ます。


 先に困る人がいる。


 先に揉める現場がある。


 先に「これ、おかしくないですか」と言う誰かがいる。


 そして何年もあとになって、


 ようやく法律がそれに名前をつける。


 今日の教訓は、たぶんこれです。


 「いつ終わりますか」に答えがないなら、


 まず、


 「普通なら、どのくらいですか」


 と聞いてみる。


 その一言だけで、


 止まっていた時計が動くことがある。


「朝比奈」


「はい」


「最後のカステラ」


 見ると、皿の上に一切れ。


 私と相馬先輩の視線がぶつかりました。


「公平に半分です」


「嫌だ」


「普通なら四等分でしたよね」


「これは余りだ」


「では余りの標準処理方法を決めましょう」


「じゃんけん」


「早い」


 所長が新聞から顔を上げます。


「三秒以内」


「処理期間まで決められた!」


「最初はグー!」


 結果。


 私は負けました。


 行政の処理期間は見えるようになったのに、


 カステラの処理だけは異様に迅速でした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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