[行政手続法5条・審査基準]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ嘘が減ります。
電話が鳴らない。
来客も途切れる。
窓口で飛び交っていた、
「前例です」
「総合的に判断します」
「内部のことです」
みたいな、意味があるようで輪郭のない言葉も聞こえなくなる。
そして静かな机の上には、今日の事件で残ったものが二つ。
一つ。
高瀬美津子さんの共同店舗利用申込みの写し。
もう一つ。
「……梅干しが三個しかありません」
「さっき四個あったな」
相馬先輩が新聞を読みながら言いました。
「ありました」
「不思議だな」
「先輩の口が動いてるのは、もっと不思議ですね」
「自然現象だ」
「窃取を自然現象に分類しないでください」
私は梅干しの瓶を自分の側へ引き寄せました。
相馬先輩も、こちらを見る。
完全に狙っています。
行政書士事務所なのに、夕方になると食料管理法だけ異様に緊張感が高い。
「一個くらい寄越せ」
「嫌です」
「基準は?」
「勤務態度」
「不透明だな」
「総合的に判断しました」
「お前、それ今日一番嫌ってたやつだろ」
そうでした。
私は小さく咳払いして、ノートを開きます。
表紙をめくった最初のページ。
昨日、とりあえず題名だけ書いたところ。
――審査基準。
その文字を見た瞬間、昼間の市役所が蘇りました。
高瀬さんは、市が整備する駅前共同店舗へ入りたかった。
ところが返ってきたのは、
諸般の事情を勘案した結果、入居を認めない。
それだけ。
何が足りないのか。
何を評価されたのか。
何を直せばいいのか。
さっぱり分からない。
役所へ聞きに行けば、
総合的に判断しています。
選考内容は内部のことです。
そして調べてみれば、役所の引き出しにはちゃんと採点項目が入っていた。
市内での営業年数。
店舗の独自性。
駅前への集客効果。
近隣店舗との業種重複。
営業時間。
施設管理上の事情。
つまり。
「物差し、あったんですよねえ」
私が呟くと、相馬先輩が新聞の向こうから言いました。
「急に何だ」
「今日の話です。高瀬さんを測る物差しはあった。でも、高瀬さんには見えなかった」
「だから揉めた」
「はい」
私はノートに一本、縦線を引きました。
左に書く。
行政庁。
右に書く。
申請者。
その真ん中に、
審査基準。
と囲みます。
「所長」
奥で帳簿を閉じていた片桐所長が顔を上げました。
「何だ」
「未来には、この辺りをちゃんと決める法律ができるんですよね」
所長が私を見ます。
あ。
言い方を間違えました。
昭和六十三年の人に「未来には法律ができますよね」は、かなり危険な発言です。
「……という夢を見まして」
「便利な夢だな」
相馬先輩が言いました。
「夢の中で六法読んでました」
「病気だ」
「受験生です」
所長は突っ込まずに言いました。
「仮に、一般的な手続法を作るなら、何を決めると思う」
助かった。
この人、たまに超常現象への耐性が高すぎる。
私はペンを持ち直しました。
「申請されたときに、行政庁が何を基準に許可とか不許可とか判断するのか」
「それから?」
「その基準を、できるだけ具体的にすること」
「それから?」
「申請する人に見えるようにしておくこと」
所長が頷きました。
「筋は悪くない」
私はノートに書きました。
行政手続法五条。
――ただし、これは今、昭和六十三年の片桐事務所で直接使える条文ではない。
ここ、大事です。
ものすごく大事です。
現在のこの町には、まだ行政手続法はありません。
だから昼間、市役所で、
「行政手続法第五条違反です!」
なんて叫んだら、
市役所職員どころか、たぶん所長から私が審査対象になります。
「先輩」
「何だ」
「存在しない法律を根拠に抗議したら、どうなります?」
「俺なら置いて帰る」
「私を?」
「現場に」
「ひどい!」
所長が一言。
「帰りの電車代は置く」
「優しさの場所がおかしいです!」
でも、そこは笑い話では済ませられません。
私はノートの上に大きく書きました。
昭和六十三年の事件と、後に整備される行政手続法第五条を混同しない。
今日、高瀬さんの件で私たちがやったのは、
未来の条文を適用することではありません。
今ある制度の中で、
何を基準に判断したのか。
基準は存在するのか。
その基準について、申請者へ説明できることはないのか。
そこを実務上、問いただしただけです。
そして。
後の行政手続法は、まさにこうした問題について一般的なルールを置くことになる。
私は次の行へ進みました。
「まず、審査基準って何ですか」
相馬先輩が呆れた顔をします。
「今さらそこからか」
「そこからです。受験生は言葉を分かった気になって死ぬんです」
「死ぬな」
「比喩です」
私は自分で答えます。
「申請に対して許認可等をするかどうかを判断するときの基準」
「まあ、そうだな」
所長が補います。
「誰が定める」
「行政庁」
「申請者じゃない」
「もちろんです」
「窓口の担当者個人でもない」
「あ」
私はペンを止めました。
ここ、現場ではかなり大事です。
昼間の倉田係長。
もし彼がその日の気分で、
今日は惣菜屋は気分じゃない。
弁当屋の方が好きだからこっち。
なんて決めていたら、それは基準でも何でもない。
「審査基準は、行政庁が定める」
私は声に出して確認しました。
「うん」
「そして、行政手続法五条では、“定めるものとする”」
「どういう意味だ」
「義務です」
相馬先輩が口を挟みます。
「努力義務じゃない?」
「違います」
「できれば作ってね、では?」
「違います」
「暇なら?」
「違います!」
「じゃあ何だ」
「作るんです!」
声が大きくなりました。
所長が小さく頷きます。
「そこは押さえろ」
私はノートに書きます。
審査基準を定めること。
これは行政庁の義務。
「でも所長」
「何だ」
「全部の許認可について、ものすごく細かい点数表まで作らないといけないんですか?」
「そこは違う」
「ですよね」
法律の世界は、すぐ極端にすると間違えます。
審査対象によっては、
数字で割り切れるものもある。
面積。
年数。
人数。
設備。
一方で、
公共の安全。
周辺への影響。
公益上の必要性。
みたいに、評価を含む判断もある。
だから審査基準を定めろと言っても、
全国すべての行政処分を、
百点満点のマークシートにしろ、
という話ではありません。
「じゃあ次」
私は二つ目の見出しを書きました。
できる限り具体的に。
「ここ、“具体的にしなければならない”じゃないんですね」
「条文をよく見ろ」
所長が言います。
「“許認可等の性質に照らして、できる限り具体的なものとしなければならない”」
「つまり」
私は今日の共同店舗を思い出しました。
募集要項には、
地域商業の活性化に資すること。
施設管理上支障がないこと。
などと書いてあった。
方向性は分かります。
でも、それだけだと広い。
広すぎる。
何でも入る。
だから実際には、
営業年数。
業種の重複。
営業時間。
集客性。
地域性。
などに落としていた。
「今日の市役所、内部ではそれなりに具体化してたんですよね」
「そうだな」
相馬先輩が言います。
「問題は、それを隠してた」
「はい」
「ただし」
所長が言いました。
「“具体的であること”と、“全部数値化すること”を混同するな」
「はい」
私は赤で囲みました。
具体的=必ず点数化、ではない。
たとえば。
飲食店の営業許可なら、設備要件など比較的客観化しやすい項目が多い。
でも性質によっては、判断に幅が残る許認可もある。
その場合でも、
どんな観点を見るのか。
どんな事情を重視するのか。
できるだけ具体的にしておく。
「要するに」
私は呟きました。
「役所の頭の中だけで、“その都度いい感じに判断します”じゃ駄目」
「言い方は軽いが、まあそうだ」
「試験答案には書きません」
「当然だ」
次。
私は一番大きな丸を書きました。
公にしておく。
ここです。
今日、高瀬さんが一番困っていたところ。
「審査基準って、役所が持ってればいいだけじゃないんですね」
「後の行政手続法ではな」
所長が言います。
「原則として公にしておく」
私は条文の形を頭の中から引っ張ります。
申請の提出先とされている機関の事務所における備付け。
その他の適当な方法。
「備付け……」
「何だ」
「昭和らしいですね」
「今、昭和だ」
「そうでした」
危ない危ない。
現代感覚だと、役所のホームページに掲載、なんて考えます。
でも昭和六十三年。
インターネットどころか、私のスマホすら存在してくれません。
だから役所の窓口に冊子として備え付ける。
閲覧できるようにする。
そういう形が現実的です。
「“公にする”って、“官報に載せる”って意味じゃないですよね」
「違う」
「誰でも確認できる状態にしておく」
「そう考えろ」
私はノートに書きました。
審査基準は、原則として公にしておく。
その理由は何か。
ここを覚えると、単なる暗記じゃなくなります。
私は今日の高瀬さんを思い出しました。
「申請者が、何を満たせばいいか分かるから」
「一つ」
「行政庁も、担当者ごとに判断がぶれにくくなる」
「一つ」
「あと……恣意的な審査を防ぐ」
所長が頷く。
「そうだ」
相馬先輩が梅干しの瓶を見ながら言いました。
「基準を先に出すと、ごまかしにくい」
「それです」
私は指を立てました。
「先輩、珍しく受験生みたいなこと言いましたね」
「俺を何だと思ってる」
「現場で圧を出す人」
「だいたい合ってる」
審査基準が見えないと、
今回だけこれを重視しました。
あの人には甘く、この人には厳しく。
そんな運用があっても外から分かりにくい。
逆に、
私たちはこういう基準で審査します。
とあらかじめ公にしておけば、
申請者も準備できる。
行政側も、その基準から大きく外れた判断をするなら説明が必要になる。
透明性が上がります。
公平性も上がる。
そして何より、
申請者が自分の生活を組み立てやすい。
高瀬さんだって、
同種店舗との重複が重要だと知っていたら、
最初から地元野菜。
夕食向け惣菜。
母親の漬物。
そこをきちんと申請書に書けたはずです。
「じゃあ」
私はペンを止めました。
「今日の倉田係長が言ってた、“基準を公開すると基準に合わせた申請をしてくる”って」
「ああ」
「むしろ、ある意味では当然なんですよね」
「そうだな」
所長が答えます。
「基準を満たすように行動できること自体が、基準を公にする意味の一つだからな」
ですよね。
試験の合格基準を隠しておいて、
合格点に届くよう勉強されると困る。
とは言わない。
必要な設備基準を隠しておいて、
基準どおりに工事されると困る。
とも言わない。
むしろ満たしてもらうために示す。
「審査基準って、落とすための秘密兵器じゃないんですね」
「当たり前だ」
「でも現場だと、たまに秘密兵器みたいになりそうで」
「だから手続を整える」
所長の言葉は短い。
でも、今日のテーマそのものです。
私は次の見出しを書こうとして――止まりました。
「例外」
相馬先輩が言います。
「顔に書いてあるぞ」
「何がです?」
「原則があるなら例外があるんだろ、って顔」
「私そんな受験生みたいな顔してます?」
「ずっとしてる」
そのとおりです。
行政手続法第五条第三項。
行政庁は、行政上特別の支障があるときを除き、審査基準を公にしておかなければならない。
「ここ、試験で絶対狙われますよね」
「何が」
「“審査基準は必ず公開しなければならない”」
「誤りだな」
「はい」
原則として公にする義務がある。
ただし、
行政上特別の支障があるとき。
例外的に、公にしないことが認められる。
「所長、“行政上特別の支障”って、役所が揉めるから嫌だ、でもいいんですか」
「そんなもので例外にしたら原則が消える」
ですよね。
昼間、倉田係長は、
基準を表に出すと窓口で揉める。
数字だけ独り歩きする。
そんな話をしていました。
でも将来、行政手続法五条が適用される場面なら、
単に面倒だから。
説明が増えるから。
役所に都合が悪いから。
そういう程度の理由で、
「行政上特別の支障があります」
と何でも非公開にできるわけではない。
それでは例外が本体になります。
「つまり」
私は書きました。
原則、公にする。
例外、行政上特別の支障がある場合。
例外は例外として覚える。
「受験生って、こういう“ただし”に殺されるんですよ」
「また死んでるぞ」
「何度でも蘇ります」
「ゾンビ受験生だな」
嫌な称号です。
私はページをめくりました。
「じゃあ、ここから引っかけ整理します」
「勝手に始めたな」
「試験に使える回ですから」
まず。
審査基準は、行政庁が定める。
これは義務。
「“必要に応じて定めることができる”」
「誤り」
「“行政庁は審査基準を定めるよう努める”」
「誤り」
「そうです」
次。
審査基準は、できる限り具体的に。
「“必ず数値化しなければならない”」
「誤り」
「“許認可等の性質に関係なく、完全に一義的な基準でなければならない”」
「誤り」
「はい」
次。
公表。
「“審査基準は、すべての場合に公にしなければならない”」
「誤り」
「例外は?」
「行政上特別の支障があるとき」
「正解です」
相馬先輩が眉をひそめました。
「何で俺が試験受けてるんだ」
「先輩、意外といけますね」
「受けねえよ」
「もったいない」
「仕事増えるだろ」
そういう理由なんですか。
「もう一つ」
所長が言いました。
「公にしておく場所」
「はい」
「どこでもいいのか」
「ええと」
私は条文を思い返します。
「法令により申請の提出先とされている機関の事務所における備付け、その他の適当な方法」
「そうだ」
「つまり」
申請書を出しに行く場所で、審査基準を確認できる。
これが典型です。
申請前に、
自分は条件を満たすか。
何を準備すればいいか。
確認できる。
今日の高瀬さんのように、
申請して、
落ちて、
三回窓口へ行って、
行政書士事務所へ来て、
ようやく基準の一部が分かる。
それでは遅い。
「高瀬さんの場合」
私はノートの中央に名前を書きました。
高瀬美津子。
そこから矢印を引く。
市役所。
さらに、
共同店舗利用申込み。
「ただし、所長」
「何だ」
「今日の共同店舗の選考が、そのまま将来の行政手続法五条の“許認可等”に当たるって断定するのは危ないですよね」
所長がこちらを見ました。
「よく気づいたな」
相馬先輩も新聞を下ろします。
「どういうことだ」
「行政手続法五条の審査基準って、“申請に対する処分”のための審査基準ですよね」
「ああ」
「今日の共同店舗への入居選考は、市の施設利用についての制度設計次第で、行政手続法上の申請に対する処分に当たるかどうかは別に検討が必要です」
ここは大事です。
物語の事件は、審査基準という考え方を理解するために使っています。
でも、
市が管理する共同店舗への入居申込み。
というだけで、自動的に行政手続法上の「申請」になるわけではない。
法令に基づき、
行政庁の許可、認可、免許その他の自己に対する何らかの利益を付与する処分を求める行為で、
行政庁が諾否の応答をすべきもの。
そうした「申請」に対する処分である必要がある。
「じゃあ今日の事件、教材として使えないのか?」
相馬先輩が聞きます。
「逆です」
私は答えました。
「むしろ、そこを分けると分かりやすいです」
今日の事件では、
見えない基準で判断される不都合。
基準を具体化する意味。
申請者に示す意味。
そこを体感した。
そして法律の勉強では、
この発想が、行政手続法五条ではどんな場面に法的義務として現れるのかを整理する。
事件と条文を重ねるけれど、
事件=条文そのもの、
とはしない。
「それ、大事だな」
所長が言いました。
「実務でも試験でも、似ているから同じ、と飛ぶな」
「はい」
私は赤線を引きました。
似ている制度と、適用される条文は別。
これ、行政法で何度も出てきそうです。
続いて私は、教材にあった典型例を書きます。
宅地建物取引業の免許。
たとえば東京都知事へ免許申請をする。
行政庁は、申請に対し、
免許するか。
しないか。
判断する。
その際の物差しとなるのが審査基準。
「こっちは分かりやすいですね」
「何が」
「許認可の申請だから」
高瀬さんの共同店舗のように法的性質を一段確認する必要がある例より、
宅建業免許。
飲食店営業許可。
建設業許可。
農地法上の許可。
そういった典型的な申請の方が、制度の理解には向いています。
「じゃあ、審査基準と法律上の許可要件って同じなんですか?」
私が聞くと、所長は少し考えました。
「同じとは限らない」
「ですよね」
法律や条例などには、
許可できる条件。
不許可になる条件。
基本的な要件が書かれている。
でも、その法令の文言だけでは実際の運用で判断が難しい場合がある。
行政庁は、それを具体的にどう審査するかという基準を定める。
「だから審査基準が、勝手に法律を上書きしていいわけじゃない」
「当然だ」
「法律にない不許可条件を、審査基準だけで自由に足せるわけでもない」
「そうだ」
私は大きく丸を付けました。
審査基準は、行政庁が勝手に新しい法律を作る道具ではない。
法令に基づく許認可等を審査するための基準。
ここを忘れると、
内部基準が法令そのものに化けます。
前にやった行政立法の話とも、どこかでつながってきます。
内部で作ったものが、どこまで外へ効くのか。
誰にどんな法的効果があるのか。
行政法って、結局ずっとそこを聞いてくる。
「所長」
「何だ」
「審査基準を公にしてなかったら、申請に対する処分は全部当然に無効になるんですか」
相馬先輩がこちらを見ました。
「また断言ゲームか」
「はい」
「どうせ違うんだろ」
「たぶん」
「自信ないのか」
「こういうの怖いんですよ!」
所長が口を挟みました。
「第五条の義務に違反した場合の効果と、個別の処分の効力は、分けて考えろ」
「ですよね」
審査基準を定めていない。
あるいは公にしていない。
だから、そこから機械的に、
その処分は当然に無効です。
と一足飛びには言えない。
個別の処分の違法性をどう評価するかは、具体的な事情や法令との関係を含めて考える必要があります。
「試験では、“違反したから当然に無効”みたいな強い言い切りを警戒」
「そうだ」
私は書きました。
行政法試験の敵。
必ず。
一切。
当然に。
直ちに。
「今日の市役所の最初の通知も、“総合的に”で逃げましたけど、試験は逆に断言で殴ってきますね」
「どっちにしても面倒だな」
「行政法ですから」
「お前、最近それで全部済ませてないか」
気のせいです。
私は少し席を立って、お茶を淹れました。
湯呑みを所長と相馬先輩へ置く。
自分の席へ戻る。
夕暮れの光が、ノートの端まで伸びています。
そこで、昼間の美津子さんの言葉を思い出しました。
前は、自分の店そのものを否定された気がした。
あれが、ずっと引っかかっていました。
「審査基準って」
私は言いました。
「役所のためのものでもあるけど、申請者が“自分自身を否定された”って思わないためのものでもあるんでしょうか」
相馬先輩が怪訝そうに見る。
「急に詩人になったな」
「違います」
私はノートを指しました。
「何が基準か分からないと、不許可の理由を全部自分に引き受けちゃうじゃないですか」
店が駄目。
自分が駄目。
これまでやってきたことが駄目。
でも。
基準が見えていれば、
設備要件が足りない。
営業年数が足りない。
この場所ではこの業種が重複している。
そこへ分解できる。
もちろん落ちたらつらい。
でも、
自分という人間そのものを「総合的に不適格」と言われたわけではない。
「制度って冷たいですよね」
私は言いました。
「そうだな」
所長が答える。
「でも、その冷たさが助けになることもある」
私は頷きました。
審査基準。
なんて冷たい言葉でしょう。
でも、
何を見るか。
どこまで満たせばいいか。
どう判断するか。
そこを人間関係から切り離してくれる。
好き嫌い。
印象。
顔なじみ。
その日の機嫌。
そんなものから少し遠ざけてくれる。
冷たい物差しは、
ときどき、
人を雑に測る手を止める。
「よし」
私は最後のページを開きました。
「まとめます」
「まだやるのか」
「ここからが試験用です」
相馬先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。
「まず一つ目」
行政庁は、審査基準を定める。
義務。
「二つ目」
審査基準は、許認可等の性質に照らして、できる限り具体的にする。
「三つ目」
行政庁は、原則として審査基準を公にしておく。
典型的には、申請の提出先とされている機関の事務所へ備え付けるなど、適当な方法をとる。
「四つ目」
例外。
行政上特別の支障があるときは、公にしなくてもよい。
「五つ目」
公にすることと、全てを数値化することは別。
「六つ目」
審査基準は、法令を離れて新しい不許可理由を自由に創設するものではない。
「七つ目」
制度上の審査基準と、単なる担当者個人の感覚は違う。
「八つ目」
似たような選考制度でも、それが行政手続法上の「申請に対する処分」に当たるかは別途確認する。
相馬先輩が顔をしかめました。
「多い」
「八個くらいで泣かないでください」
「お前が昨日まで寝てた単元だろ」
「人は成長するんです」
「一日で?」
「追い込まれると」
所長が私のノートをちらりと見ました。
「一番大事なものはどれだ」
私は少し考えます。
義務。
具体性。
公開。
例外。
どれも大事です。
でも今日の事件を通して、一番腹に落ちたのは――。
私は最後に、一行だけ書きました。
――審査基準は、役所が人を落とすための秘密の物差しではない。申請者にも「何を満たせばいいか」を見えるようにするための物差しだ。
所長が読みます。
「長い」
「一行です」
「文字が多い」
「内容が大事なんです!」
相馬先輩が覗き込みました。
「試験向けなら、もっと短くしろ」
「じゃあ先輩なら?」
「決める。具体化する。原則見せる」
私は固まりました。
「……うまい」
「だろ」
「悔しい」
「例外は?」
「特別の支障」
「ほら」
なんでしょう。
行政法、全部先輩に語呂で覚えさせた方が早い気がしてきました。
私はその下に小さく書き足します。
決める。
具体化する。
原則、見せる。
例外は、行政上特別の支障。
「これなら覚えられますね」
「使用料、梅干し一個」
「高い!」
「適正価格だ」
「審査基準を示してください」
「先着順」
「またそれ!」
私が瓶を守ろうとした瞬間。
所長の手が伸びました。
最後から二番目の梅干しが消える。
「所長!?」
「適正に審査した」
「何を!?」
「味」
「結果は?」
所長は無表情のまま、少しだけ頷きました。
「許可」
「何の許可ですか!」
相馬先輩が笑っています。
私は最後の一個を急いで確保しました。
危ない。
片桐行政書士事務所における食品保全制度は、まだ法制化が必要です。
窓の外では、昭和六十三年の町が夕闇に沈んでいきます。
駅前では、再整備予定地を囲う柵が夕日に黒く浮かんでいました。
あそこにはこれから、いろんな店が入る。
いろんな人が申請する。
そしてきっと、
何で私は駄目なんですか。
何を満たせばいいんですか。
そんな問いが何度も生まれる。
今の昭和六十三年には、まだ行政手続法はありません。
今日の高瀬さんの事件に、未来の第五条を直接ぶつけることもできません。
でも数年後。
行政手続を一般的に整える法律ができれば、
行政庁は申請を審査する物差しを定め、
できるだけ具体的にし、
原則として人に見える場所へ置く。
そんな考え方が、明文の形を持つことになる。
法律は、未来から過去を救えません。
でも。
なぜその法律が必要になったのか。
今日みたいな一件を見れば、少し分かる気がします。
見えない物差しは、人を不安にする。
見える物差しは、人を落とすためだけにあるんじゃない。
どこまで行けば届くのかを示すためにもある。
私はノートを閉じました。
今日の一行の覚え書き。
――「何を基準に駄目なのか」が見えれば、不許可はただの拒絶から、次へ進むための情報になる。
「こはる」
「はい?」
「その梅干し」
相馬先輩が最後の一個を見ています。
「駄目です」
「理由は?」
「私が食べます」
「基準は?」
「所有権です」
「強いな」
「今日は行政法じゃなくて民法で守ります」
所長が新聞を広げました。
「食べるなら早くしろ」
「はい」
私は最後の梅干しを口に入れました。
酸っぱい。
かなり酸っぱい。
でも、不思議なくらい頭はすっきりしていました。
審査基準。
昨日までなら、五条を三回読んで二回寝た単元です。
今はもう、
高瀬さんが握っていた茶封筒と、
倉田係長の引き出しに入っていた採点表と、
梅干しの酸っぱさまで一緒に思い出せる。
法律用語に血が通うって、
たぶんこういうことなんでしょう。
……できれば次は、もう少し甘い教材がいいですけど。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




