[行政手続法5条・審査基準]現場編 「基準は内部のことです」の罠。見えない物差しで落とす窓口と、申請者が確かめるべき“判断の線”
物差しを隠したまま、「あなたは足りません」と言われても困ります。
何センチ必要なのか。
どこから測るのか。
そもそも、本当に物差しがあるのか。
そこが分からないまま不合格だけ渡されると、人はだいたい二つの感情を抱きます。
不安。
そして、ものすごく地味な怒り。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所の午前十時。
私は、その地味な怒りを紙袋いっぱいに詰め込んだような女性と向かい合っていました。
「だからね、何が足りないのかを聞いてるんです」
女性は四十代半ば。
紺色のカーディガンに、きっちり結んだ髪。
膝の上には茶封筒。
封筒の角が、何度も握られたせいで少し丸くなっています。
「それなのに役所の人は、“総合的に判断しています”って、そればっかりで」
「総合的」
私は思わず繰り返しました。
出ました。
便利な日本語ランキングがあれば、かなり上位に来そうな言葉です。
総合的に判断。
事情を考慮。
適切に処理。
言っているようで、何も言っていない三兄弟。
「何の申請です?」
相馬先輩が机の向こうから聞きました。
相変わらず愛想はありません。
でも、相談者の顔を見ている。
この人は、口が悪いわりに、人が困っているときだけ視線が真面目です。
「駅前に、小さな惣菜店を出したいんです」
女性――高瀬美津子さんは答えました。
「今は母と二人で商店街の端で店をやってます。でも再整備で、あの辺り、来年には道路が変わるでしょう?」
私は頷きました。
最近、事務所へ持ち込まれる相談の三割くらいが、この駅前再整備に何かしらつながっています。
道路。
仮設店舗。
看板。
補助金。
立退き。
営業場所。
町というものは、地面を一枚掘り返すだけで法律問題を五つくらい産むらしい。
「市が整備した共同店舗に入れるって聞いて、出店の申込みをしたんです。食品を扱うから、そのための営業許可や設備の相談も始めてました」
「で、落とされた?」
相馬先輩が聞きます。
「落とされた、というか……」
美津子さんが茶封筒から一枚の紙を出しました。
市役所商工課。
駅前共同店舗使用申込について。
そこには、短く、
今回の申込みについては、諸般の事情を勘案した結果、入居を認めないこととしました。
とだけ書かれていました。
私は紙を持ったまま、しばらく黙りました。
諸般の事情。
勘案。
結果。
拒否理由を三段跳びで飛び越えています。
「これだけですか?」
「はい」
「何か条件一覧みたいなものは?」
「募集要項はあります」
別の紙が出てきました。
市内で営業実績があること。
地域商業の活性化に資すること。
施設の管理上支障がないこと。
その他、市長が適当と認めること。
「最後、強いなあ」
私は呟きました。
「“その他、市長が適当と認めること”」
「便利だろ」
相馬先輩が言いました。
「何でも入る」
「法のブラックホールみたいに言わないでください」
「実際そう見えるだろ」
否定しづらい。
私はもう一度、募集要項を読みました。
もちろん、こういう施設の利用者選定には、ある程度の判断の幅があるでしょう。
全員を受け入れられるとは限らない。
店舗の種類や配置。
衛生設備。
周囲との兼ね合い。
地域振興上の狙い。
いろんな事情を見る必要がある。
だから「点数が七十点以上なら自動的に合格」みたいな話ではないかもしれません。
でも。
「高瀬さん」
「はい」
「役所で、何が駄目だったのか聞きました?」
「聞きました。三回」
三回。
強い。
「最初は、“今回は枠が少なかったので”」
「はい」
「次は、“業種のバランスを考えました”」
「はい」
「昨日行ったら、“選考の中身は内部のことなのでお答えできません”って」
私は顔を上げました。
「内部のこと?」
「そう言われました」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「それは面白いな」
「先輩、相談者の前で面白がらないでください」
「お前も目が光ってるぞ」
失礼な。
でも、ちょっとだけ光っているかもしれません。
だって、見えてきたからです。
問題の形が。
昨夜までだったら、こういう話を聞いても、
役所が駄目って言ったなら駄目なのかな。
選考なんだから仕方ないのかな。
で終わっていたかもしれない。
でも今は違う。
行政法を勉強していると、やたら気になる言葉があります。
基準。
要件。
裁量。
理由。
誰が、何を物差しに判断したのか。
テキストでは眠かった単語が、美津子さんの茶封筒を前にすると、急に輪郭を持ちました。
「所長」
私は奥の机を見る。
片桐所長は、申請書の束から顔を上げました。
「何だ」
「これ、結果より先に聞くべきことがあります」
「言ってみろ」
「何を基準に選んだのか、です」
美津子さんがこちらを見ます。
私は募集要項を指で押さえました。
「“市内で営業実績がある”“地域商業の活性化に資する”“施設管理上支障がない”までは書いてあります。でも、実際にどう判断するのかが見えません」
「続けろ」
「食品店が何店舗までなのか。既存店との競合をどう見るのか。売場面積なのか。営業時間なのか。実績年数なのか。それとも全部見るのか」
相馬先輩が横から言いました。
「で、その物差しは表に出してるのか」
「そこです」
私は美津子さんを見る。
「役所が内部で何らかの判断基準を持っているなら、その内容がまったく分からない状態で申請者だけ審査されるのは、かなり困ります」
「でも、“内部のこと”って……」
「内部で検討する資料まで全部見せろ、という話ではありません」
私は言いました。
「ただ、何を満たせば通る可能性があるのかまで全部秘密だと、申請する側は直しようがないんです」
それが一番嫌でした。
駄目なら駄目でいい。
いや、よくはないけど。
少なくとも、
厨房面積が足りない。
営業時間が施設方針に合わない。
同種店舗が多すぎる。
何か分かれば、次がある。
直せる。
諦めるにしても納得できる。
でも「総合的に判断しました」だけでは、次の一歩がありません。
所長が立ち上がりました。
「相馬」
「はい」
「市役所へ行く」
「またですか」
私は言いました。
「今日はお前も来い」
「やっぱり」
「物差しを探したいんだろ」
「言い方が探偵みたいですね」
「行政書士も似たようなもんだ」
相馬先輩が書類を掴みます。
「人が隠した紙を探して、人が書かなかったことを聞く」
「夢がない」
「現実はある」
強い。
そしてその三十分後。
私たちは市役所の商工課で、倉田係長と再会していました。
「また片桐さんですか」
倉田係長が、露骨に嫌そうな顔をしました。
「またです」
相馬先輩が返す。
「最近よく会いますね」
「あなた方がよく来るんでしょう」
「役所がよく問題を作るんですよ」
「相馬」
所長が一言。
「はいはい」
先輩が引きました。
この事務所で最も効力の強い行政指導は、所長の名前呼びかもしれません。
私は机の上に、美津子さんの通知書を置きました。
「高瀬美津子さんの共同店舗利用申込みについて伺いたいんです」
倉田係長の顔が少し曇ります。
「その件ですか」
「不採用の理由を伺ったところ、“総合的判断”“内部のこと”との説明だったそうですが」
「ええ。選考ですので」
「選考基準はありますか?」
私が聞くと、倉田係長の視線が一瞬だけ泳ぎました。
ありますね。
今の目は、ありますね。
「募集要項に書いてあるとおりです」
「それ以外には?」
「……内部の採点表はあります」
ほら。
物差し発見。
私は内心でガッツポーズをしました。
顔には出しません。
たぶん。
「どんな項目です?」
「それは内部資料です」
「点数そのものを全部見せてください、とは言っていません」
「同じことです」
「違います」
思ったより強い声が出ました。
倉田係長が私を見ます。
「違う?」
「誰が何点つけたかを聞いてるんじゃありません。申請者が何を満たせばいいのか、その判断要素を聞いています」
「募集要項に……」
「“地域商業の活性化に資すること”だけでは、申請する側には分かりません」
私は紙を指しました。
「たとえば地元雇用を何人作るのか。営業年数を見るのか。駅前に不足している業種を優先するのか。既存店との重複を避けるのか。そういう判断要素があるんじゃないですか?」
倉田係長が黙ります。
相馬先輩が横から畳みかけました。
「で、高瀬さんは何で落ちた?」
「ですから総合的に――」
「その“総合”の中身を聞いてる」
言葉が鋭い。
でも怒鳴ってはいません。
だから余計に逃げづらい。
倉田係長はしばらく指で机を叩いていました。
そして、観念したように引き出しを開けます。
一枚の紙が出てきました。
「これは外部配布用じゃありません」
「分かっています」
所長が言いました。
「見せるかどうかは、そちらで判断してください。ただし、申請者へ説明できる内容と、できない内容は分けて考えてください」
倉田係長は紙を見ながら、ぽつぽつと言いました。
「選考項目としては、市内営業年数。店舗の独自性。駅前への集客効果。近隣店舗との業種重複。営業時間。あと……施設管理面です」
私は聞き逃さないよう、メモを取ります。
「高瀬さんは?」
「営業年数は問題ありません」
「独自性は?」
「普通です」
「普通」
「惣菜店ですから」
なんだその評価。
惣菜店に何を求めてるんでしょう。
火を吹くコロッケでしょうか。
「業種重複?」
「それが大きいです。すでに弁当店を一店舗入れる予定でしたので」
「募集時点で、その点は書いてありました?」
「……いいえ」
「食品関係は一業種一店舗まで?」
「そこまで明確には」
「じゃあ、どういう扱いなんです」
「同種が重なった場合は、新規性や集客効果を見ます」
私はペンを止めました。
「それも募集要項にはない」
「はい」
「申請者は知らない」
「はい」
「でも審査では使った」
「……はい」
部屋の空気が、ぴんと張りました。
ここです。
私が引っかかっていたのは。
基準があること自体が悪いわけじゃない。
むしろ、ある方がいい。
誰にでも同じように判断するための物差しが必要です。
でも、その物差しが全部机の引き出しの中にあって、
申請者には、
とにかく書類を出してください。
あとはこっちで見ます。
落ちても理由は内緒です。
では困る。
少なくとも、自分が何を見られているのか分からない。
「倉田係長」
私は言いました。
「高瀬さん、募集時点で“同種店舗との重複が重要です”と分かっていたら、申請内容を変えられたかもしれません」
「変える?」
「はい。お母さんの惣菜だけじゃなくて、朝市の野菜を使った加工品を前面に出すとか。昼の弁当販売ではなく夕食向けに特化するとか。既存予定店と役割が違うことを説明できたかもしれない」
倉田係長が少し考え込みます。
「確かに……」
「今は、試験問題なのに出題範囲だけ隠されてる状態です」
相馬先輩が吹きました。
「分かりやすいな」
「笑わないでください」
「いや、珍しく使える例えだ」
「珍しくは余計です」
倉田係長は腕を組みました。
「しかし、すべて公表すると、基準に合わせた申請ばかりになる」
「合わせちゃ駄目なんですか?」
思わず聞き返しました。
「え?」
「必要な条件を満たすように申請内容を整えるのは、むしろ普通では?」
倉田係長が詰まりました。
相馬先輩が、にやっとする。
あ。
今、ちょっと痛快でした。
でも私は続けます。
「もちろん、不正に点を取りに来るとか、形だけ整えるとか、そういう問題はあるかもしれません。でも、“基準を知られると基準に合わせられるから困る”って、基準の意味として変じゃないですか?」
所長が短く言いました。
「審査は、罠じゃない」
それだけでした。
でも、空気が止まりました。
審査は、罠じゃない。
本当にそうです。
申請者を落とすために条件を隠すわけじゃない。
必要な条件に合っているかを見る。
なら、本来、何を見るのか分かる方が、申請者も行政も無駄が減るはずです。
倉田係長はため息をつきました。
「……この選考方式、去年から始まったんです」
「はい」
「最初は、項目を外へ出す話もありました。ただ、“数字だけ独り歩きする”“窓口で揉める”という話になって」
「それで内部資料にした」
「ええ」
「誰か、公表しないと決めたんですか?」
「課内で」
「理由を文書に?」
「いや……そこまでは」
なるほど。
またです。
悪意のある秘密主義ではない。
たぶん、
揉めそうだから。
説明が面倒だから。
柔軟にやりたいから。
そういう現場の都合が積み重なって、いつの間にか「内部のことです」になった。
制度の雑さは、大抵こういう顔をしています。
誰も悪党じゃない。
でも、困る人はちゃんと出る。
「倉田係長」
所長が言いました。
「現時点の制度上、この採点表を当然に全面開示しろと言うつもりはありません」
「……はい」
「ただ、申請者に何を求めているのか説明できない選考は、いずれ揉めます」
倉田係長が苦い顔をします。
「もう揉めてますね」
「そういうことです」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ、高瀬さんの件はどうする」
少し沈黙がありました。
倉田係長は、机の端を指で二度叩きました。
「もう一度、話を聞きます」
「再申請ですか?」
「申請の締切はまだです。いったん今回の通知は……」
言いにくそうに咳払いをする。
「最終確定前の連絡扱いに戻します」
相馬先輩が眉を上げました。
「ずいぶん器用に戻るな」
「そこは言わないでください」
「じゃあ何を聞くんです?」
私は尋ねました。
「高瀬さんに、既存の弁当店との違い、営業時間、それと地元食材を使った商品の計画があるなら、そのあたりを出してもらいます」
「選考項目に沿って?」
「……そうです」
「高瀬さんにも説明を?」
「説明します」
完勝ではありません。
不採用が採用に変わったわけでもない。
でも。
見えなかった物差しが、少し見えました。
それだけで、勝負の形は変わります。
事務所に戻ると、美津子さんは立ち上がりました。
「どうでした?」
「もう一度、出せます」
私が言うと、美津子さんの目が大きくなります。
「本当ですか?」
「ただし、受かるとは言えません」
「はい」
「役所が見ている項目も、全部じゃないですけど分かりました。同じような弁当屋さんとの差をどう出すか。それから営業時間。地元の食材を使う計画も評価材料になるみたいです」
美津子さんは、しばらくぽかんとしていました。
それから急に、鞄を探り始めます。
「あります」
「何がです?」
「母がずっと作ってる、梅干し」
「梅干し?」
「うちの惣菜、町内の農家さんから野菜を買ってるんです。売れ残った野菜を漬物にしたり、梅を漬けたり。駅前に店を出せたら、そういうのも並べようと思ってました」
私は相馬先輩を見る。
「先輩」
「ああ」
「そこ、最初の申請に書きました?」
美津子さんが気まずそうに首を振ります。
「ただ“惣菜・弁当販売”って」
「もったいない!」
思わず声が出ました。
「それ、役所が欲しがってる“地域商業の活性化”そのものじゃないですか!」
「そうなの?」
「たぶんかなり近いです!」
所長が奥から言いました。
「たぶんを強調しろ」
「はい。たぶんです」
「急に弱くなったな」
相馬先輩が笑います。
そこからは早かった。
地元農家からの仕入れ先。
昔から作っている惣菜。
夕方の買い物客向けの営業時間。
予定されている弁当店が昼中心なら、高瀬さんは夕食向け。
駅前利用者だけでなく、近所の高齢者にも使ってもらう。
私は美津子さんの話を聞きながら、申請内容を書き直していきました。
不思議でした。
最初の紙には、
惣菜・弁当販売。
それだけだった店が、
話を聞けば聞くほど、
町の農家とつながって、
お母さんの梅干しが出てきて、
夕方の食卓につながっていく。
審査する側に基準が見えないと困る。
でも、申請する側も、何を伝えるべきか分からなければ、本当に必要なことを書けない。
物差しが見えれば、背伸びをするだけじゃない。
自分のどこを測ってほしいかも分かるのです。
三日後。
倉田係長から電話がありました。
『高瀬さんの件ですが』
「はい」
『もう一度、選考にかけます』
「ありがとうございます」
『まだ採用とは言ってませんからね』
「分かってます」
『それと……』
珍しく言葉を濁します。
「はい?」
『次の募集から、選考項目の概要を募集要項に載せることになりました』
私は受話器を持ったまま、思わず背筋を伸ばしました。
「本当ですか?」
『全部じゃありませんよ。点数までは出しません。ただ、業種重複、営業時間、地域性、集客性、その辺りは』
「十分前進じゃないですか」
『揉めると思いますけどね』
「今までだって揉めてたじゃないですか」
一拍。
『君、最近遠慮がなくなったね』
「係長に鍛えられてます」
『うれしくないな』
電話は切れました。
私は受話器を置きました。
相馬先輩が新聞の向こうから言います。
「何だって?」
「次回から、選考項目を少し表に出すそうです」
「へえ」
「へえ、って。それなりに大きいですよ」
「役所が一行増やしただけだ」
「その一行が大きいんです」
「はいはい」
でも私は、ちょっと嬉しかった。
何か法律で役所を叩き伏せたわけではありません。
そもそも今は昭和六十三年。
私の頭のどこかにある、未来の行政手続のルールを、そのまま持ち出せる時代ではない。
申請に対する審査基準を行政庁が定めて、できるだけ具体的にし、原則として公にしておく――そんな形で一般的なルールが整えられるのは、まだ先のことです。
だから今日は、
「この条文に違反しています」
とは言えませんでした。
未来の条文を昭和の窓口に突きつけるなんて、タイムトラベル以前に法治国家が壊れます。
でも。
条文がまだなくても、
何を基準に判断しているのか。
その基準は申請者に分かるのか。
基準が曖昧すぎて、担当者ごとに結果が揺れないか。
そんな問いまで存在しないわけじゃない。
むしろ、制度として十分に整えられていないからこそ、現場では一つずつ確かめるしかない。
夕方。
美津子さんが事務所へ来ました。
手には、小さな瓶。
「母の梅干しです」
「いいんですか?」
「こはるちゃんが、“これ書いた方がいい”って言ってくれたでしょう」
「私は食べたいとは言ってませんよ」
「顔に出てたよ」
「そんな」
相馬先輩が横から瓶を取ります。
「じゃあ俺が」
「先輩」
「何だ」
「それ、高瀬さんが私に」
「事務所への差し入れだろ」
「今、明確に“こはるちゃん”って」
「内部基準では共有物だ」
「また勝手な内部基準を作る!」
美津子さんが笑いました。
最初に来たときとは、まるで違う顔でした。
「まだ、店に入れるかは分からないんですよね」
「はい」
私は正直に言いました。
「でも、前よりはちゃんと審査してもらえます。少なくとも、“何を見てるか分からないまま駄目”ではなくなりました」
「それだけでも違うね」
美津子さんは瓶の蓋を指で撫でました。
「前はね、私の店そのものを否定された気がしてたんです」
「……はい」
「何が悪いかも分からないから。母と三十年やってきた店が、“総合的に駄目です”って言われたみたいで」
その言葉に、私は少し胸が詰まりました。
審査基準。
文字にすると、ひどく無機質な言葉です。
基準。
判断。
具体性。
公開。
どれも人肌の温度なんかありません。
でも、基準が見えないということは、
落とされた人が、
自分の何が悪かったのか、
直せるのか、
もう一度挑戦できるのか、
何も分からないということです。
人は、理由のない拒絶に弱い。
法律が冷たい言葉で線を引くのは、ときどき、その拒絶を人そのものへの否定にしないためなのかもしれません。
「高瀬さん」
「はい」
「次は、梅干しを全面に出しましょう」
「そんなに?」
「少なくとも先輩には効いてます」
相馬先輩はもう瓶を開けていました。
「うまい」
「早い!」
「仕事が早い男だからな」
「食べ物にだけ発揮しないでください!」
所長が奥から言います。
「一個残せ」
相馬先輩の手が止まりました。
「所長も食べるんですか」
「判断に必要だ」
「何の審査です?」
「味」
「基準は?」
「酸っぱすぎないこと」
私は思わず笑いました。
「所長。それ、かなり具体的ですね」
「公表もした」
「確かに」
相馬先輩が梅干しを一つ口に入れ、顔をしかめました。
「酸っぱい」
「じゃあ不合格ですか?」
「いや、うまい」
「基準がぶれてる!」
美津子さんが声を上げて笑いました。
その笑い声を聞きながら、私は机の端に置いたノートを開きました。
今日はまだ、詳しくまとめません。
あの内部の採点表は何だったのか。
行政が申請を受けるとき、あらかじめ判断の物差しを持つことには、どんな意味があるのか。
どこまで具体的であるべきなのか。
外へ示す必要はあるのか。
示さないことが許される場合はあるのか。
そして将来、こういう問題を正面から扱う一般的な手続の法律ができるとしたら、どんな形になるのか。
そこは、ちゃんと整理したい。
今は題名だけ。
私はノートの一番上に書きました。
――審査基準。
その下に、今日の教訓を一行だけ。
見えない物差しで落とされたら、まず「何を測ったんですか」と聞く。
「こはる」
相馬先輩が横から覗き込みます。
「何です?」
「それ、役所で言うと嫌われるぞ」
「知ってます」
「それでも聞くのか」
私は梅干しを一つつまみました。
酸っぱい。
でも、おいしい。
「聞かないと、直しようがありませんから」
所長が小さく頷きました。
「それでいい」
窓の外では、駅前再整備予定地の向こうに夕日が沈みかけています。
町はこれから変わる。
店が動く。
道が変わる。
新しい制度が増える。
そのたびに、誰かが申請し、
誰かが審査し、
誰かが「駄目です」と言われる。
たぶん大切なのは、
全部通せと迫ることじゃありません。
駄目なら駄目で、
何を見て、
どこが足りなくて、
次に何を直せばいいのか。
その線が見えること。
それだけで、
拒絶は少しだけ、手続になります。
制度の言葉は冷たい。
でも、冷たい物差しだからこそ、
人の好き嫌いより、
窓口の気分より、
「なんとなく駄目」より、
まだましなのかもしれません。
「先輩」
「何だ」
「最後の梅干し、私のですよ」
「何を根拠に」
「高瀬さんが私に持ってきた」
「事務所に持ってきた」
「では審査基準を示してください」
「先着順」
「今作ったでしょう!」
「内部基準だ」
「外部に効かせないでください!」
所長が新聞をめくりました。
「半分にしろ」
「梅干しを!?」
昭和六十三年。
行政手続を一般的に整える法律は、まだありません。
でも。
見えない物差しを、見えないままにしない。
そんな発想だけは、きっと法律より先に必要だったのだと思います。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




