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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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342/701

[地方自治法・直接請求]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 住民が一票を投じるのは、一日です。


 でも。


 自治に参加できるのが、その一日だけとは限りません。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には、昨日までなかったものが増えていました。


 署名簿。


 条例案。


 選挙人名簿の人数を書き写した紙。


 朝市の配置図。


 そして。


「……団子」


「食え」


 矢島さんが置いていった包みを、相馬先輩が勝手に開いています。


「それ、みんなで食べてって言ってましたけど」


「だから食ってる」


「まだ所長食べてませんよ」


「早い者勝ちだ」


「自治の精神がない」


「団子に民主主義持ち込むな」


 私はため息をついて、ノートを開きました。


 今日の見出し。


 大きく。


 ――直接請求。


 その下に。


 ――代表者を通さず、住民自身が地方公共団体を動かす。


 と書きます。


「昨日までは」


 私は呟きました。


「直接請求って、試験の数字暗記だと思ってたんですよね」


「五十分の一とか三分の一とかか」


「はい」


 相馬先輩が団子を一つ取ります。


「で、今は?」


「人数に見えます」


「人数?」


「昨日、実際に三百二十人分の署名が集まり始めたでしょう」


「ああ」


「五十分の一って、分数じゃないんですよ」


 私は昨日の先輩の言葉を思い出しました。


「それだけの人が集まれば、役所も議会も『聞こえなかった』とは言えなくなる人数です」


 相馬先輩が少し止まりました。


「……それ、俺が言ったやつじゃねえか」


「いい言葉だったので採用しました」


「著作権料払え」


「団子一個で」


「安いな」


 まず。


 直接請求とは何か。


 私はノートに書きました。


 地方公共団体の住民が、


 議員などの代表者を介さず、


 一定の事項について、


 地方公共団体に直接、行動を求める制度。


「つまり」


 私は言いました。


「直接民主制の仕組みです」


「地方議会は?」


 片桐所長が聞きます。


「そっちは間接民主制。代表民主制です」


「違いは」


「住民が自分で意思決定に働きかけるか、選挙で選んだ代表者を通じて意思決定するか」


 私はノートに二本の矢印を書きました。


 住民


 ↓


 議員


 ↓


 議会


 これが代表民主制。


 もう一つ。


 住民


 ↓


 直接請求


 ↓


 長、監査委員、選挙管理委員会など


 こちらが直接民主制。


「ただし」


 所長が言いました。


「直接請求ができるのは、単にそこに住んでいる者全員じゃない」


「はい」


 ここは大事です。


 直接請求権を持つのは、


 その普通地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有する者。


「ということは」


 私はノートに線を引きます。


「昭和六十三年の制度では、外国人住民には直接請求権はありません」


「選挙権がないからな」


「はい」


 日常語では同じ町の住民でも。


 直接請求については、


 選挙権を持つかどうかが入口になります。


「ここ、試験で『住民なら誰でもできる』って出たら?」


 相馬先輩が聞きます。


「誤りです」


「即答できるようになったな」


「昨日の矢島さんが、町内の外国人経営者にも署名してもらおうとしてたので」


「止めたのか」


「はい」


「偉い」


「珍しく褒めた」


「気のせいだ」


 またです。


 次。


 直接請求の種類。


 私は四つ書きました。


 一、条例制定・改廃請求。


 二、事務監査請求。


 三、議会解散請求。


 四、解職請求。


「四つ」


 私は指を立てます。


「試験ではまず、これを箱で覚えたいところです」


「箱?」


「何を求める制度かで分けるんです」


 条例を作れ、変えろ、なくせ。


 仕事を監査しろ。


 議会を解散しろ。


 人を辞めさせろ。


「最後だけ物騒だな」


「言い方が雑だからです」


 でも。


 この四つを同じ制度として覚えると危ない。


 必要な署名数も、


 請求先も、


 その後の手続も違うからです。


 昨日の事件では。


 朝市の利用者選定を、役所内部の判断だけに任せず、


 基準や手続を条例にしたい。


 だから使うのは。


「条例制定請求」


 私は丸で囲みました。


「署名数は?」


 所長。


 また抜き打ちです。


「選挙権を有する者の総数の五十分の一以上」


「請求先」


「長です」


「昨日なら」


「市長」


「その後」


「長は、請求を受けたら直ちに請求の要旨を公表して、二十日以内に議会を招集する」


「それだけか」


「自分の意見を付けて、条例案を議会に付議します」


 所長が頷きます。


 よし。


 今日は順調です。


「で」


 相馬先輩が団子を食べながら言いました。


「住民投票で決めるのか?」


「決めません」


「昨日もそこ勘違いしそうだった奴いたな」


「杉山さんですね」


「条例制定の直接請求は」


 私はノートに太字で書きます。


 ――住民が条例を直接成立させる制度ではない。


「これ大事です」


「じゃあ何を直接やる」


「条例案を議会にかけさせるところまで、住民が直接動かす」


 つまり。


 条例の最終的な議決は議会。


 住民投票で可決すれば条例成立。


 ではない。


「直接民主制なのに、最後は議会なんですね」


「それが地方自治の面白いところだ」


 所長が言いました。


 直接民主制と代表民主制。


 どちらか一つを選ぶのではない。


 両方を組み合わせる。


 普段は代表者が議会で決める。


 でも一定数の住民が、


 この問題を議会で扱ってくれ。


 と言える。


「だから昨日」


 私は思い出しました。


「『成立させる制度ではなく、無視させない制度』って感じたんですね」


 相馬先輩が頷きます。


「それでいい」


 次。


 例外。


 条例なら何でも直接請求できるわけではありません。


 私は三つ書きました。


 地方税の賦課徴収。


 分担金。


 使用料・手数料の徴収。


「このあたりに関する条例は、制定・改廃の直接請求の対象外」


「昨日、じいさんが朝市の場所代下げろって言ってたな」


「はい」


「もし『朝市使用料を半額にする条例を作れ』なら?」


「直接請求ではできません」


「じゃあ、『朝市区画の選定基準を条例で定めろ』なら?」


「内容次第ですが、使用料の徴収そのものではないので対象になり得る」


「その切り分けだ」


 片桐所長が言いました。


 同じ朝市。


 同じ住民の要求。


 でも。


 何を条例にしようとしているのかで、直接請求できるかどうかが変わります。


「法律って」


 私は言いました。


「事件名で判断しちゃ駄目なんですね」


「当たり前だ」


「『朝市事件』じゃなくて、請求内容を見る」


「そうだ」


 行政書士試験でも。


 実務でも。


 ラベルではなく中身。


 朝市に関する条例。


 だけでは足りない。


 使用料徴収に関する条例なのか。


 利用基準に関する条例なのか。


 そこを見る。


 次は。


 事務監査請求。


「これ、昨日の件でも一瞬候補に入ったんですよね」


「何を監査させる」


 相馬先輩が聞きます。


「朝市区画の整理方針が、どういう事務処理で決まったのか」


「うん」


「市の事務執行を監査してもらう」


「署名数は」


「これも五十分の一以上」


「請求先」


「監査委員」


 ここ。


 条例制定請求と署名数が同じだから、


 ちょっと紛らわしい。


 五十分の一。


 でも。


 請求先は違う。


 条例制定・改廃請求。


 長。


 事務監査請求。


 監査委員。


「目的も違います」


 私は言いました。


「条例制定請求は、ルールを作る・変える話」


「うん」


「事務監査請求は、地方公共団体の事務執行や、長・委員会・委員の権限に属する事務執行を監査してもらう話」


「昨日なら」


「基準を条例にしたいなら条例制定請求。今までの決め方に問題がなかったか調べてほしいなら事務監査請求」


「両方必要な場合もある」


 所長が言いました。


「はい」


 ここで私は、一つ思い出します。


「所長」


「何だ」


「現代なら外部監査ってありますよね」


「何だそれは」


「あ」


 またです。


 私は頭を抱えました。


「ありませんよね、昭和六十三年には」


「知らん」


「制度がまだないんです」


 現代の地方自治には、


 外部監査制度があります。


 でも昭和六十三年には存在しない。


「じゃあ、今の私は」


 私はノートに書きました。


 ――昭和六十三年。外部監査制度なし。


「住民が監査を求めるなら、この時代の制度でやるしかない」


「未来の便利な制度に逃げるな」


 相馬先輩。


 最近そればっかり言います。


「逃げてません。脳が勝手に未来へ行くんです」


「帰ってこい」


「はい」


 次。


 議会解散請求。


 ここから数字が変わります。


「何分の一?」


 相馬先輩。


「三分の一以上」


「請求先」


「選挙管理委員会」


「その後」


「住民投票」


「何票で解散」


「過半数の同意」


「よし」


 私はノートに書きます。


 条例制定・改廃請求。


 五十分の一。


 事務監査請求。


 五十分の一。


 議会解散請求。


 三分の一。


「この差」


 私は言いました。


「意味ありますね」


「何が」


「条例案を議会に出させるだけなら五十分の一」


「うん」


「議会そのものを解散させる入口は三分の一」


「そりゃそうだ」


「権力への影響が大きいほど、署名要件も重い」


 もちろん。


 単純に全部がその発想だけで設計されている、と言い切るつもりはありません。


 でも覚え方として。


 議会を丸ごと解散させる。


 その入口が軽すぎたら、地方政治は安定しません。


 三分の一という大きな数が必要なのは、感覚的にも分かります。


「しかも」


 私は続けます。


「三分の一集めたら自動的に解散じゃない」


「住民投票がある」


「はい」


「過半数の同意が必要」


 つまり。


 まず相当数の住民が、


 この議会を解散させるべきだ。


 と請求し。


 さらに住民投票で、


 本当に解散させるかを決める。


 二段階。


「矢島さんに教えたら喜びそうですね」


「教えるな」


「なんでです?」


「あのじいさん、何でも署名始めそうだから」


 否定できません。


 そして。


 解職請求。


「ここは三つに分けます」


 私はノートに書きました。


 議員。


 長。


 役員。


「議員と長は似ています」


 選挙権を有する者の総数の三分の一以上の連署。


 請求先。


 選挙管理委員会。


 その後。


 住民投票。


 過半数の同意で解職。


「議員も市長も、住民が選挙で選ぶから」


 私は言いました。


「最後も住民投票なんですね」


「そう考えると覚えやすい」


 所長が言いました。


 選挙で選ばれた者。


 議員。


 長。


 その解職は住民投票。


 一方。


 役員。


 ここが違います。


「役員って誰です?」


 相馬先輩が聞きます。


「この教材上では、副知事・副市町村長、選挙管理委員、監査委員、公安委員会委員など」


「指定都市の総合区長とかいうのは?」


「未来です」


「また未来か」


「現代制度では出てきますけど、昭和六十三年の物語でそのまま出すと危険です」


 私は二重線を引きました。


 時代。


 時代。


 時代。


 この連載。


 法律の勉強というより、


 法改正との鬼ごっこになってきています。


「役員の解職請求は」


 私は続けます。


「三分の一以上の連署」


「請求先は?」


「長」


「選挙管理委員会じゃない」


「はい」


「その後」


「議会に付議」


「議会の議決要件」


 ここです。


 数字が重い。


「議員の三分の二以上が出席して」


「うん」


「その出席者の四分の三以上の同意」


「重いな」


「重いです」


 役員は、住民が直接選挙で選んでいる人とは限らない。


 だから住民投票で直接解職する構造ではなく、


 長が議会へ付議する。


「つまり」


 私は表にしました。


 議員・長。


 三分の一。


 選挙管理委員会。


 住民投票。


 過半数。


 役員。


 三分の一。


 長。


 議会。


 三分の二以上出席+四分の三以上同意。


「試験で狙いやすいですね」


「数字が多いからな」


「嫌な意味で狙いやすい」


 ここまで書いて。


 私は鉛筆を止めました。


「でも」


「何だ」


「直接請求って、思ったより全部違いますね」


 相馬先輩が笑います。


「今さらか」


「だって『住民が直接請求する制度』で一括りにしてたから」


 でも実際は。


 何を求めるか。


 誰に請求するか。


 何人の署名が必要か。


 そのあと誰が判断するか。


 全部違う。


「じゃあ整理しろ」


 所長が言いました。


「どうやって」


「目的から逆算しろ」


 私は考えます。


 ルールを作りたい。


 条例制定・改廃請求。


 仕事ぶりを調べてほしい。


 事務監査請求。


 議会ごと入れ替える入口を作りたい。


 議会解散請求。


 特定の人を辞めさせたい。


 解職請求。


「先に数字を覚えるんじゃない」


 私は言いました。


「何をしたいかを決める」


「その次は」


「請求先」


「その次」


「必要署名数」


「その次」


「請求後の手続」


 所長が頷きます。


「それでいい」


 そして。


 昨日の朝市事件。


 改めて考えると。


 私たちは、


 いきなり一番強い制度を使おうとしたわけではありません。


 まず。


 市役所へ聞く。


 基準を確認する。


 議員へも相談する。


 それでも話が止まっている。


 そこで。


 条例制定の直接請求という、


 法律上の正式なルートを示した。


「まだ提出もしてないのに、市が動きました」


 私は言いました。


「選定基準を公表する」


「説明会もやる」


「はい」


「なら直接請求は不要か?」


 相馬先輩が聞きます。


「それは住民が決める」


「理由は」


「制度を使うこと自体が目的じゃないから」


 昨日、所長に言われた言葉です。


 法律上の手続を最後まで走り切ること。


 それが成功ではありません。


 要求が実現する。


 運用が改善する。


 それで十分な場合もある。


 でも。


 今回の杉山さんたちは、


 署名を続けることを選びました。


 なぜか。


「人ではなく、仕組みにしたいから」


 私は呟きました。


「昨日の杉山さんの言葉か」


「はい」


 今の担当者が、


 基準を公表します。


 と言う。


 今の市長が、


 説明会をやります。


 と言う。


 それは大事。


 でも。


 担当者は替わる。


 市長も替わる。


 課長も替わる。


 景気も変わる。


 駅前整備計画も変わる。


「条例にするって」


 私は言いました。


「誰かの親切を、仕組みに変えることなんですね」


 片桐所長がこちらを見ます。


「悪くない」


「褒めました?」


「事実だ」


 今日は褒められる日らしいです。


 ここで。


 私はふと思いました。


「現代だったら、もっと地方自治体が自由に動けるんですよね」


 相馬先輩が嫌そうな顔をします。


「また未来か」


「大事なところです」


 私はノートに、


 昭和六十三年。


 と書きました。


 この時代。


 国と地方の関係には、


 機関委任事務という大きな仕組みがありました。


 地方公共団体の長が、


 ある事務について、


 国の機関として処理する。


 国の指揮監督を強く受ける。


「市長なのに」


 私は言いました。


「その仕事については、市の代表というより国の手足みたいになる」


「そういう事務がある」


「通達も強い」


「今よりな」


「地方自治なのに、自治しにくい」


 言ってみると。


 妙な感じです。


「じゃあ未来は?」


 相馬先輩が聞きます。


「平成十一年の地方分権一括法以降、機関委任事務は廃止されます」


「ほう」


「自治事務と法定受託事務という整理になる」


「何が変わる」


「国と地方を、上下・主従じゃなく、対等・協力の関係として整理する方向へ大きく変わる」


「夢みてえな話だな」


「完全に好き勝手できるわけではありませんけど」


 それでも。


 制度思想は大きく違います。


 昭和六十三年。


 地方は国から強く縛られている。


 現代。


 地方分権を進め、


 地方公共団体自身の判断を重くする。


「だから」


 私は昨日の朝市事件を思い出しました。


「昭和の住民にとって、直接請求って余計に大事だったんじゃないですか」


 所長が目を上げます。


「なぜだ」


「上からも縛られる。役所内部でも前例が強い。議会もすぐ動くとは限らない」


「うん」


「だから住民が直接、下から押す制度が必要になる」


 上からは国。


 中には首長と議会。


 下から住民。


 地方自治というのは、


 その力関係の中で動いている。


「ただし」


 相馬先輩が言います。


「直接請求があれば、国の通達も法律も無視できるわけじゃねえぞ」


「もちろんです」


「条例だって法令に反するものは作れねえ」


「はい」


 ここ重要。


 住民自治。


 直接民主制。


 だからといって。


 何でも多数決で決められるわけではありません。


 地方自治は、


 法の枠内で行われる。


 直接請求は、


 法律の外へ飛び出す制度ではなく、


 法律の中から行政や議会を動かす制度。


「だから面白いんですよね」


 私は言いました。


「何でもできる権利じゃない」


「うん」


「でも、ちゃんと要件を満たせば、役所も無視できない」


「それが手続だ」


 私はノートの真ん中に、


 四つの箱を書きました。


 条例制定・改廃。


 五十分の一。


 長。


 議会へ。


 事務監査。


 五十分の一。


 監査委員。


 監査へ。


 議会解散。


 三分の一。


 選挙管理委員会。


 住民投票へ。


 解職。


 三分の一。


 対象によって、


 選挙管理委員会または長。


 住民投票または議会へ。


「これなら覚えられそうです」


「まだ甘い」


 相馬先輩が言いました。


「何がです?」


「条例制定請求の除外」


「地方税、分担金、使用料、手数料」


「事務監査請求の請求先」


「監査委員」


「議員解職」


「選管、住民投票、過半数」


「長の解職」


「同じ」


「役員」


「長へ請求。議会議員の三分の二以上出席、出席者の四分の三以上同意」


「よし」


 私は胸を張りました。


「完璧」


「有権者四十万人超の補正は」


「教材上、試験では優先度低めです!」


「逃げた」


「範囲管理です!」


 前にも同じこと言った気がします。


 そのとき。


 事務所の扉が開きました。


「こんばんは」


 杉山さんでした。


 魚屋の白い前掛け姿。


 手には新しい署名簿。


「どうしました?」


「報告」


「署名ですか」


「ああ」


 紙を置く。


「八百六十二」


「え」


「八百六十二人」


 私は固まりました。


「昨日三百二十でしたよね?」


「商店街だけじゃねえ」


「誰が」


「朝市の客」


「え?」


「朝市がなくなるかもしれんって言ったら、客のほうが署名したいって」


「……」


「もちろん選挙権ある人だけ確認してる」


 ちゃんと学習してる。


 失礼ながら少し驚きました。


「市の説明会にも行った」


「どうでした?」


「八店に減らす理由は聞いた」


「納得しました?」


「半分」


「半分?」


「通路幅を確保する必要はある。消防車両も入れたい。そこは分かった」


「はい」


「でも」


 杉山さんが条例案を見ます。


「だったら、誰を残すかは最初から決め方を出してほしい」


 静かな声でした。


「魚屋だから残せ、とは言わん」


「……はい」


「古株だから残せ、とも言わん」


「はい」


「でも、市役所の中だけで決めて、あとで結果だけ出すのは嫌だ」


 私は何も言いませんでした。


「だから署名は続ける」


「条例、否決されるかもしれませんよ」


「知ってる」


「市長も反対意見を付けるかもしれません」


「それも聞いた」


「それでも?」


「それでも」


 杉山さんは笑いました。


「議会で話してもらう」


 その言葉。


 昨日より強く聞こえました。


 勝つ。


 負ける。


 だけじゃない。


 議題にする。


 表へ出す。


 賛成なら賛成と言わせる。


 反対なら反対と言わせる。


 それも民主主義です。


 杉山さんが帰ったあと。


 私はしばらく署名簿を見ていました。


 八百六十二。


 まだ必要数には足りないかもしれない。


 無効署名が出ることもある。


 手続だって簡単ではない。


 それでも。


 一人。


 一人。


 一人。


 紙の上に名前が並ぶ。


 名前が集まると。


 それまで「苦情」だったものが、


 法律上の力を持ち始める。


「相馬先輩」


「何だ」


「分かりました」


「今日は何がだ」


「直接請求って」


 私はペンを持ちました。


「多数決そのものじゃないんですね」


「うん」


「住民が、意思決定の舞台に議題を押し戻す仕組みなんだ」


 相馬先輩が煙草に火をつけます。


「全部がそうとは言わねえが」


「条例制定請求は特に」


「そうだな」


「議員が動かなくても」


「うん」


「市長が乗り気じゃなくても」


「うん」


「要件を満たして住民が請求すれば、正式に議会で扱わせることができる」


「そこが強い」


 私はノートの最後のページを開きました。


 一行の覚え書き。


 さて。


 どう書く。


 少し考えて。


 書きました。


 ――直接請求は、住民が代表者任せにせず、自治を自分の手で議題に戻す制度。


「長い」


 相馬先輩が言いました。


「またですか」


「試験直前に見て長い」


「じゃあ短くします」


 私は下に書きました。


 ――自治は、選挙で終わらない。


「短すぎる」


「ちょうどいいじゃないですか!」


「数字が一個も入ってねえ」


「一行の覚え書きに全部入れたら一行じゃ済みません!」


 奥から所長の声。


「なら二つに分けろ」


「所長まで!」


「理念と数字だ」


「……なるほど」


 私はもう一つ書きました。


 ――条例・監査は五十分の一。解散・解職は原則三分の一。


 相馬先輩が覗き込みます。


「それなら使える」


「でしょう?」


「ただし請求先を忘れるな」


「まだ足すんですか」


「条例は長。監査は監査委員。解散は選管」


「一行じゃなくなります!」


「勉強なんだから諦めろ」


 私は机に突っ伏しました。


 法律。


 どうして一行で済ませてくれないのでしょう。


 でも。


 たぶん。


 済まないから意味がある。


 条例を作るのか。


 監査を求めるのか。


 議会を解散させるのか。


 誰かを解職するのか。


 目的が違えば。


 必要な人数も。


 請求する相手も。


 その後に判断する者も違う。


 手続を細かく分けることで、


 住民の力が暴走しないようにしながら、


 それでも本当に必要なときは政治を動かせるようにしている。


 直接民主制。


 という言葉だけ見ると。


 住民が全部その場で決める制度みたいに聞こえます。


 でも実際は違う。


 代表民主制の横に、


 もう一本の道を残す。


 普段は議員に任せる。


 だけど。


 どうしても任せておけないとき。


 一定数の住民が自分で立ち上がれる。


 そのための道です。


 昭和六十三年。


 地方はまだ、


 国の強い指揮監督の下にありました。


 機関委任事務がありました。


 指定管理者制度もありません。


 外部監査制度もありません。


 国地方係争処理委員会もありません。


 現代の私から見ると。


 地方自治なのに、


 ずいぶん窮屈です。


 でも。


 そんな時代にも。


 住民が直接、


 自治の扉を叩く仕組みはありました。


 五十分の一。


 三分の一。


 過半数。


 三分の二。


 四分の三。


 受験生には、


 嫌になるくらい数字だらけです。


 だけど。


 今日だけは。


 その数字の向こうに、


 人の顔が見えます。


 魚屋。


 乾物屋。


 団子屋。


 朝市の客。


 一枚ずつ署名する人。


 数字は、


 人が集まった結果です。


 そして。


 人が一定数集まったとき、


 法律はそれを、


 ただの不満ではなく、


 手続に変える。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩が言います。


「はい」


「団子まだあるぞ」


「本当ですか」


 包みを見る。


 一個。


「……一個しかないじゃないですか」


「あるだろ」


「三人いるんですけど」


「直接請求するか?」


「何をです?」


「団子分配条例の制定」


「五十分の一の署名集めますよ」


「誰から」


 私は事務所を見回しました。


 所長。


 相馬先輩。


 私。


 三人。


「この事務所の有権者総数が三人なら、五十分の一以上は一人で足ります」


「雑な自治体作るな」


「代表者、朝比奈こはる」


「長は誰だ」


 二人で奥を見る。


 片桐所長が書類から顔を上げました。


「却下」


「まだ請求してません!」


「使用料に関する条例だ」


「団子は無料です!」


「では財政上の理由だ」


「反対意見を付けて議会に出してください!」


 相馬先輩が笑い出しました。


「議会って誰だよ」


「私たちです!」


「長まで議員になるのか」


「制度設計が崩壊してます!」


 片桐所長は、最後の団子を手に取りました。


「あ」


「所長!」


「議決」


「一人で!?」


「全会一致だ」


「一人しか投票してないでしょう!」


 所長は何も言わず、団子を食べました。


 私は抗議しようとして。


 やめました。


 今日の勉強で、一つ分かったからです。


 直接請求は、


 何でも思い通りにする魔法ではありません。


 要件がある。


 請求先がある。


 その後の手続がある。


 そして最後には、


 賛成されることもあれば、


 反対されることもある。


 それでも。


 黙って見ているしかないのと、


 自分で議題を持ち込めるのとでは、


 まるで違います。


 私はノートの表紙を指で叩きました。


 ――自治は、選挙で終わらない。


 それだけは。


 たぶんもう、


 数字を忘れても忘れません。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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