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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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[地方自治法・住民監査請求]現場編 「役所のお金の使い方に、住民一人じゃ何も言えない」の嘘。一人で監査委員を動かす財務監視の切り札

挿絵(By みてみん)

 税金は、払った瞬間に他人のお金になるわけではありません。


 少なくとも。


 役所が好きに使っていいお金になるわけではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の相談者は、怒っていました。


 かなり怒っていました。


「三百八十万円ですよ!」


 机が揺れました。


「三百八十万円!」


「聞こえてます」


 私は湯呑みを押さえました。


「机まで監査しなくても大丈夫です」


「朝比奈さん、冗談じゃないんです!」


「はい」


 怒られた。


 相談者の名前は、


 河合文雄さん。


 五十四歳。


 駅前で文房具店を営んでいます。


 商店街では会計係。


 町内会では防犯灯の電気代を一円単位で確認するタイプ。


 たぶん一番敵に回したくない会計係です。


 河合さんは茶封筒から何枚ものコピーを取り出しました。


「これを見てください」


 一枚目。


 湖西市駅前観光振興事業。


 二枚目。


 駅前案内施設整備業務委託契約。


 三枚目。


 支出額。


 三百八十万円。


「観光案内所ですか?」


「看板ですよ!」


「看板?」


「看板です!」


 また机が揺れます。


 相馬先輩が煙草をくわえながら顔を上げました。


「落ち着け、おっさん。机は市の財産じゃねえ」


「相馬さん!」


「壊したらうちに払えよ」


「だから壊しません!」


 怒りの方向が少し分散しました。


 ありがたい。


 私は書類を読みます。


 駅前再整備の一環として、


 観光客向けの案内板を設置する。


 駅前広場に一基。


 木製。


 屋根つき。


 市内観光地の地図。


 名所案内。


 商店街案内。


 ここまでは普通です。


「何が問題なんです?」


 河合さんが、待ってましたとばかりに身を乗り出しました。


「同じような看板を、駅向こうの旅館組合が二年前に作ってるんです」


「いくらで?」


「七十万円」


「……だいぶ違いますね」


「しかも今回の三百八十万円、契約先が市長の後援会長の会社です」


 事務所が静かになりました。


 相馬先輩が煙草を灰皿へ置きます。


「会社名は」


「浜名観光企画」


「後援会長本人が社長か」


「息子さんです。でも会社の会長は本人です」


 ああ。


 嫌な匂いがします。


 法律的な意味で。


 もちろん、


 市長の知り合いの会社だから駄目。


 という話ではありません。


 知り合いでも、


 正当な手続で、


 適正な価格で、


 必要な仕事をしているなら問題はない。


 でも。


 三百八十万円。


 似たような看板が七十万円。


 しかも随意契約らしい。


 何かある。


 あるいは、


 何もないことを確認する必要がある。


「河合さん」


 片桐所長が言いました。


「何をしてほしい」


「市長を辞めさせたい」


「それは仕事じゃない」


 即答。


「じゃあ、この支出を止めたい」


「もう払ったのか」


「先月です」


「なら止められない」


「じゃあ返させたい!」


「それなら、まず事実を固める」


 所長はそれだけ言いました。


 私は書類をめくりました。


「河合さん、これ、どこで手に入れたんです?」


「議会の資料です。あと、市役所へ行って契約のことを聞きました」


「見積書は?」


「見せてもらえませんでした」


「契約方法は」


「随意契約だと言ってました」


「理由は?」


「『観光事業に精通した業者だから』」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「便利な言葉だな」


「でしょう!」


「褒めてねえよ」


 私は考えました。


 市長。


 後援会関係。


 随意契約。


 高額。


 公金支出。


 これは――


「住民監査請求ですね」


 口から出ました。


 河合さんが瞬きをします。


「監査?」


「はい。地方自治法に、住民が自治体のお金の使い方を監査委員に調べてもらう制度があります」


「そんなことできるんですか」


「できます」


「署名は何人要ります?」


「え?」


「こういうのって、五十人とか百人とか集めるんでしょう」


 私は笑いかけて、


 止まりました。


 あ。


 まずい。


 頭の中に別の制度が混ざった。


 事務監査請求。


 直接請求。


 有権者。


 五十分の一。


「……一人です」


 私は言いました。


「え?」


「住民監査請求なら、住民一人でできます」


「一人?」


「はい」


 河合さんが自分を指しました。


「私一人?」


「河合さん一人」


「署名集めなくていい?」


「いいです」


「町内会長の印鑑も?」


「要りません」


「市議会議員の紹介は?」


「要りません」


「本当に?」


「本当です」


「おい」


 相馬先輩が私を見る。


「お前今、一瞬怪しかったな」


「気のせいです」


「何と混ぜた」


「事務監査請求です」


「素直だな」


 もう隠せません。


 住民監査請求。


 事務監査請求。


 名前が似ています。


 しかも両方、監査委員が出てくる。


 受験生殺しです。


 でも中身はかなり違う。


 事務監査請求は、


 地方公共団体の事務全般について、


 選挙権を有する者の一定数の連署で求める直接請求。


 一方。


 住民監査請求は、


 財務会計上の違法・不当な行為などを対象に、


 住民一人でもできる。


「つまり」


 河合さんが言いました。


「市のお金の使い方がおかしいなら、私一人で監査を求められる」


「はい」


「住民なら?」


「はい」


「選挙権なくても?」


「住民監査請求なら、選挙権がある人に限りません」


「外国人でも?」


「できます」


「会社でも?」


「法人も住民として請求できます」


 河合さんがしばらく黙りました。


「……すごい制度ですね」


 私もそう思います。


 冷静に考えると。


 一住民が、


 市長や職員の公金支出について、


 監査委員を正式に動かせる。


 しかも、


 違法だけじゃない。


 不当な財務会計行為も対象になる。


 かなり強い。


「じゃあ出しましょう!」


 河合さんが立ち上がりました。


「ちょっと待ってください」


「なぜです!」


「住民なら何でも監査請求できるわけじゃありません」


「税金の無駄遣いでしょう?」


「そこを法律の言葉に直さないと駄目です」


 私は紙を一枚取りました。


 住民監査請求の対象。


 地方公共団体の執行機関または職員による、


 財務会計上の違法または不当な行為。


 あるいは、


 財務会計上の職務を怠る事実。


「例えば?」


 河合さんが聞きます。


「公金の支出」


「今回ですね」


「財産の取得、管理、処分」


「はい」


「契約の締結」


「今回ですね」


「債務その他の義務を負担すること」


「はい」


「あと、公金を徴収すべきなのに放置しているとか」


「税金を取ってないとか?」


「そういう怠る事実も対象になります」


 河合さんの目が光りました。


「じゃあ、市役所の悪いことなら何でも」


「違います」


 私は即答しました。


「何でもじゃありません」


「え」


「例えば職員が窓口で態度悪かった、とか」


「うん」


「公園の草刈りが遅い、とか」


「うん」


「市長の挨拶が長い、とか」


「それは悪いことなんですか」


「そこは知りませんけど」


 相馬先輩が吹き出しました。


「とにかく、住民監査請求が狙うのは財務会計です」


 お金。


 財産。


 契約。


 債務。


 徴収。


 そういう自治体の財布に関する行為。


「今回なら」


 私は契約書の写しを指しました。


「三百八十万円の業務委託契約と、その公金支出」


「これなら対象になる?」


「可能性は高いです」


 片桐所長が口を挟みました。


「まだ違法不当とは決まっていない」


「はい」


「高いというだけでは足りん」


「はい」


「市長と業者が知り合いだから、でも足りん」


「はい」


「何が問題なのかを特定しろ」


 そこです。


 住民監査請求は、


 役所が怪しい。


 税金の無駄遣いだ。


 市長が気に入らない。


 そんな感情だけでは通りません。


 どの財務会計行為が。


 いつ。


 誰によって。


 どう違法または不当なのか。


 そこを示す必要があります。


「契約日は?」


「四月十二日です」


「支出は?」


「五月二十八日」


「今日は?」


 私は壁のカレンダーを見ました。


 昭和六十三年六月。


「期間は問題なさそうですね」


「期間?」


「住民監査請求には期間制限があります」


「そんな!」


 河合さんが身を乗り出します。


「違法なら何年前でも調べるべきでしょう!」


「気持ちは分かります」


「じゃあ何年です?」


「原則、一年」


「短い!」


 そう。


 違法または不当な財務会計上の行為。


 作為。


 何かをした場合。


 原則として、


 行為があった日、


 または終わった日から一年を経過すると、


 監査請求できなくなる。


「ただし」


 私は続けました。


「正当な理由があれば、一年を過ぎても認められる余地はあります」


「正当な理由?」


「例えば、外から分からない形で行われていて、住民が知る機会がなかったとか。そういう事情は問題になります」


「じゃあ何でも『知らなかった』って言えば」


「それで通るほど甘くないと思います」


「ですよね」


 一方。


 職務を怠る事実。


 例えば、


 本来徴収すべき公金を徴収せず放置している。


 自治体の債権を回収すべきなのに回収しない。


 そんな不作為が続いている場合。


「こっちは期間制限がないんです」


「え?」


「怠っている状態が続く限り、原則として一年の期間制限はかかりません」


 河合さんが首をひねりました。


「同じ監査請求なのに?」


「はい」


「やったことは一年。やってないことは期限なし?」


「ざっくり言えば」


「法律って変ですね」


「私も最初そう思いました」


 でも。


 やった行為は、


 いつまでも争えると行政関係が安定しない。


 一方、


 やるべきことを今も怠っているなら、


 違法・不当な状態が現在進行形で続いている。


 そう考えると、少し見え方が変わります。


「こはる」


 所長が言いました。


「請求先は」


「市長」


 と言いかけて、


 止まる。


「……監査委員です」


「危ねえな」


 相馬先輩が笑います。


「今日二発目」


「分かってました!」


「今『市長』って口が動いたぞ」


「動いてません!」


「動いた」


 河合さんが不安そうに私を見ています。


 信頼が削れている。


 まずい。


「住民監査請求は監査委員に出します」


 私は仕切り直しました。


「市長に『あなたの支出を調べてください』とお願いする制度ではありません」


「監査委員って、市役所にいるんですよね」


「はい」


「結局、身内じゃないですか」


 鋭い。


 そこは当然の疑問です。


「だからこそ、監査委員には法律上の役割があります」


 片桐所長が言いました。


「首長の言うことを聞くだけなら、監査にならん」


「でも市長が選ぶんでしょう?」


「議会の同意もいる」


「完全に独立ですか」


「そこまで単純ではない」


 所長は断言しません。


 こういうところが実務家です。


 制度には理念がある。


 でも組織として同じ自治体の中にある。


 人間関係もある。


 政治もある。


 だから。


 制度があるから安心。


 ではなく。


 制度を働かせるために、


 請求する側が事実を固める。


「証拠を集めましょう」


 私は言いました。


「まず相場」


「旅館組合の七十万円」


「同じ規模か確認します」


「はい」


「今回の看板の仕様」


「はい」


「見積りが何社あったのか」


「はい」


「なぜ随意契約だったのか」


「はい」


「契約先選定の記録」


「見せてもらえるんですか」


「聞きます」


「断られたら?」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「断られたって事実も材料になる」


 いい顔して物騒なことを言います。


「行くぞ」


「どこへ?」


「市役所」


「今から?」


「監査請求書を机で妄想して作る気か」


「行きます」


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、私たちを見るなり眉間を押さえました。


「今週三回目ですね」


「人気者で困ります」


「朝比奈さんのことではありません」


「知ってます」


 相馬先輩が契約資料を机に置きました。


「駅前観光案内板」


「それが何か」


「三百八十万」


「それが何か」


「高くねえか」


 直球。


 沢渡課長は眉一つ動かしません。


「価格の妥当性は担当課で確認しています」


「何社見積りだ」


「契約手続については適正に処理しています」


「答えになってねえ」


「個別の契約資料について、あなた方にすべて説明する義務はありません」


「じゃあ聞き方を変えます」


 私は口を挟みました。


「随意契約ですか」


「そうです」


「競争入札にしなかった理由は?」


「特殊な観光案内設備であり、当該業者が地域事情に精通していたためです」


「特殊って、どの部分が?」


「設計、表示内容、観光情報の収集などです」


「看板自体は?」


「木製です」


「地図は?」


「印刷です」


「屋根は?」


「あります」


「特殊……?」


「朝比奈」


 相馬先輩に止められました。


「感想は要らん」


「はい」


 沢渡課長が眼鏡を押し上げます。


「何が目的ですか」


 片桐所長が答えました。


「住民監査請求を検討している」


 一瞬。


 空気が変わりました。


 ほんの少しだけ。


 沢渡課長の顔から、


 いつもの「窓口対応」が消えた。


「請求人は」


「市内住民だ」


「何についてです」


「契約締結と公金支出」


「違法性は?」


「まだ確認中だ」


「では、なぜ監査請求を」


「違法だけが対象じゃないでしょう」


 私は言いました。


 沢渡課長の視線が来る。


「不当な財務会計行為も対象です」


「よく勉強されていますね」


「褒めました?」


「事実を述べただけです」


 この人の褒め言葉は全部行政文書みたいです。


「ただし」


 沢渡課長が続けました。


「住民監査請求は、市政に不満がある人が何でも持ち込める制度ではありません」


「分かっています」


「財務会計行為を特定する必要があります」


「はい」


「単に『高い気がする』では不十分です」


「はい」


「市長の後援会関係者の会社だから、という政治的印象論でも足りません」


「それも分かってます」


「なら結構です」


 ……この人。


 敵のくせに、


 論点整理だけは正確です。


「課長」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ適正だって言うなら、相場と選定理由を出してくれ」


「契約書は公開できる範囲があります」


「見積書は」


「業者の営業上の情報が含まれます」


「全部隠すのか」


「全部とは言っていません」


「他社見積りは」


「ありません」


 相馬先輩が止まりました。


 私も。


「一社だけ?」


「はい」


「比較見積りなし?」


「当該業者にしかできないと担当課が判断したためです」


「根拠は」


「地域観光情報に精通している」


「他に観光会社ねえのか」


「あります」


「看板屋は」


「あります」


「印刷会社は」


「あります」


「木工所は」


「あります」


「じゃあ何でここしかできねえんだ」


 沢渡課長は少し黙りました。


「総合的な判断です」


「出た」


 相馬先輩が笑いました。


「役所の万能語」


「相馬さん」


「何だ」


「総合的判断って言っとけば説明した気になる病気、いつ治るんだ」


「行政判断を病気扱いしないでください」


 沢渡課長の声が少し冷えました。


 私は机の資料を見ます。


 相場。


 競争性。


 随意契約理由。


 契約相手との関係。


 ここで重要なのは、


 癒着だ。


 と決めつけることじゃない。


 問題は、


 三百八十万円という公金支出が、


 適正な契約手続と価格判断に基づいていたか。


「課長」


 私は言いました。


「契約決裁書はありますよね」


「あります」


「随意契約理由も」


「あります」


「価格が妥当だと判断した資料は?」


 一瞬。


 沢渡課長が黙りました。


「担当課に確認します」


「旅館組合が二年前に設置した案内板、把握してました?」


「民間の施設については知りません」


「市の補助金が入ってますよ」


 河合さんが横から言いました。


 今日は本人も同行しています。


 沢渡課長が初めて河合さんをしっかり見ました。


「観光協会補助事業の件ですか」


「七十万円ですよ」


「仕様が異なるでしょう」


「じゃあ比較してください」


 河合さんの声は、


 事務所で怒鳴っていたときより静かでした。


 でも今の方が強い。


「七十万円の看板と、三百八十万円の看板。何が違うのか。五倍以上違う理由を説明してください」


「河合さん」


 沢渡課長が言いました。


「公金支出が高額だからといって、直ちに違法でも不当でもありません」


「分かってます」


「なら」


「だから調べてもらうんです」


 河合さんは言いました。


「監査委員に」


 沢渡課長は黙りました。


 いい。


 怒りが、


 制度の言葉に変わった。


「住民監査請求は」


 私は言いました。


「市長を罰する制度でも、担当者を吊るし上げる制度でもないですよね」


「ええ」


「財務会計上の行為に問題があるなら、必要な措置を求める」


「そうです」


「問題がなければ、理由を付けてそう判断する」


「そのとおりです」


「なら、使います」


 沢渡課長はしばらく私を見ていました。


「六十日です」


「え?」


「監査委員は、請求を受けたら原則として六十日以内に監査する」


「知ってます」


「本当に?」


「そこは!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「今日三発目」


「黙っててください!」


 沢渡課長まで口元が動きました。


「笑いました?」


「気のせいでしょう」


 絶対笑った。


 事務所へ戻ると、


 片桐所長は紙を三枚並べました。


「こはる」


「はい」


「監査請求書を作る前に、事件を切れ」


「切る?」


「何を監査してほしいのか、一つずつ分けろ」


 私は書きます。


 一。


 駅前観光案内板整備業務委託契約の締結。


 二。


 契約に基づく三百八十万円の公金支出。


 三。


 随意契約選定理由の合理性。


 四。


 契約金額の妥当性。


「三と四は、一と二の違法不当を支える事情だ」


「あ」


「対象行為と理由を混ぜるな」


「はい」


 なるほど。


 住民監査請求で対象になるのは、


 具体的な財務会計行為。


 契約締結。


 公金支出。


 その行為がなぜ違法・不当なのかを、


 価格や選定過程で説明する。


「次」


 相馬先輩が言います。


「請求内容」


「契約を取り消せ?」


「もう履行済みだ」


「じゃあ三百八十万円全額返還」


「いきなり全部か?」


「……違う」


 危ない。


 感情で大砲を撃つところでした。


 必要な措置。


 監査委員は、


 請求に理由があると判断すれば、


 議会や長、職員などに対し、


 期限を示して必要な措置を講ずるよう勧告できる。


 だから請求人側も、


 何を求めるかを現実的に整理する。


「不当に高額な部分があるなら、その是正」


「うん」


「責任ある職員等に損害補填を求めるべき場合なら、その措置」


「うん」


「今後の同種契約の手続是正」


「それは監査結果次第だな」


「はい」


 所長が一枚の見積書を置きました。


「取ってきた」


「何です?」


「市内の看板業者」


 早い。


「同等仕様で?」


「完全同一ではない。概算だ」


「いくらです?」


「百二十から百六十万」


 河合さんが息を呑みました。


「三百八十万の半分以下」


「ただし」


 所長が言います。


「これで不当と決まるわけじゃない」


「はい」


「観光情報の調査費、設計費、維持管理費、その他が入っているかもしれん」


「契約内訳が必要ですね」


「そうだ」


 相馬先輩が別の紙を出しました。


「旅館組合の七十万の方も見てきた」


「どうでした?」


「小さい」


「どのくらい?」


「今回の七割くらい。屋根なし。地図も簡単」


「じゃあ単純比較できない」


「だが五倍差を当然とするほどでもねえ」


 証拠が少しずつ揃っていきます。


 そして翌日。


 河合さんが一枚の紙を持ってきました。


「これ」


「何です?」


「浜名観光企画が市に出した請求書の内訳です」


「どうやって?」


「知り合いが観光課に」


「待ってください」


 私は手を止めました。


「その知り合い、勝手に持ち出したとかじゃないですよね」


「議員に出された資料の写しです」


「それなら……」


 私は受け取ります。


 案内板本体。


 百四十万円。


 地図製作。


 八十万円。


 観光情報調査。


 九十万円。


 企画調整費。


 七十万円。


 合計。


 三百八十万円。


「企画調整費七十万」


 相馬先輩が呟きます。


「何を調整したんだ」


「観光情報調査九十万も」


 私は言いました。


「市内の名所を調べるだけで?」


「行政は調査に金がかかる場合もある」


 所長が制します。


「決めつけるな」


「はい」


 ただ。


 疑問は増えました。


 しかも。


 河合さんがもう一枚出します。


「観光協会が去年作った観光マップ」


「あ」


 駅前案内板に載っている名所。


 写真。


 説明文。


 ほぼ同じ。


「これ、市の補助金で作ったやつです」


「つまり」


 私は見比べました。


「観光情報調査九十万円って……既存資料を使った可能性がある?」


「そこを調べてほしいんです」


 河合さんが言いました。


 そう。


 それでいい。


 私たちは裁判官じゃない。


 ここで横領だ、癒着だ、不正だと断定する必要はない。


 住民監査請求は、


 疑いを噂として撒く制度じゃない。


 具体的な財務会計行為について、


 証拠を添えて、


 監査委員に調査を求める制度です。


「作ります」


 私は言いました。


「住民監査請求書」


 三日後。


 完成した書類は、


 驚くほど地味でした。


 怒りの言葉はありません。


 市長の後援会。


 癒着。


 税金泥棒。


 そんな言葉も削りました。


 残ったのは、


 日付。


 契約名。


 契約額。


 支出日。


 契約方法。


 随意契約理由。


 比較可能な類似事例。


 市内業者の概算見積り。


 既存観光資料との重複。


 そして。


 この契約締結および公金支出について、


 契約相手選定と価格決定に合理性を欠き、


 財務会計上不当な行為である疑いがあるため、


 監査を求める。


 そういう内容でした。


「これだけ?」


 河合さんが聞きました。


「はい」


「後援会長の会社だってこと、もっと強く書かなくていいんですか」


「関係があること自体は事情として触れます」


「でも」


「そこを主役にすると、政治的な恨みみたいに見えます」


 私は書類を指しました。


「主役はこっちです」


 三百八十万円。


 随意契約。


 比較見積りなし。


 価格形成資料が不明確。


 既存資料との重複可能性。


「監査委員に見てもらうのは、市長の好き嫌いじゃありません」


「金の使い方」


「はい」


 河合さんはしばらく黙り、


 頷きました。


「分かりました」


 片桐所長が最後に確認します。


「契約日から一年以内」


「はい」


「支出日からも一年以内」


「はい」


「請求人は市の住民」


「はい」


「対象行為は特定」


「はい」


「事実証明書も添付」


「はい」


「請求先」


「監査委員」


「よし」


 相馬先輩が言います。


「やっと市長って言わなくなったな」


「一回しか言いかけてません!」


「言いかけたんじゃねえか」


 そこは否定できない。


 市役所。


 監査委員事務局。


 私は少し緊張していました。


 総務課へ殴り込みに行くのとは違います。


 ここでは、


 書類の一文字がそのまま勝負になる。


「住民監査請求です」


 河合さんが封筒を出しました。


 担当職員が受け取ります。


「お預かりします」


「これで監査してもらえるんですね」


「要件を確認した上で、監査委員が判断します」


 当たり前ですが、


 出せば必ず請求内容が認められるわけではありません。


 対象外なら退けられることもある。


 特定が足りない。


 証拠が足りない。


 期間を過ぎている。


 そもそも財務会計行為ではない。


 そういう壁があります。


「結果は?」


 河合さんが聞きます。


「法定の期間内に」


 担当職員が答えます。


「六十日以内ですね」


 私が言うと、


 相馬先輩が横で小さく笑いました。


「何ですか」


「いや」


「今度は合ってますからね!」


 それから二週間。


 三週間。


 市役所では、


 契約担当者への事情聴取が始まったらしい。


 浜名観光企画からも資料提出があった。


 契約決裁書。


 価格積算資料。


 観光課内部の打合せ記録。


 監査委員が動いている。


 その途中。


 沢渡課長が事務所へ来ました。


 珍しい。


 というより怖い。


「何かしました?」


 私が聞くと、


「なぜ最初から犯罪者扱いされるんですか」


「沢渡課長が事務所へ来ると緊張するので」


「私もここへ来ると緊張します」


「お互い様ですね」


 沢渡課長は封筒を置きました。


「監査とは別件です」


「はい」


「駅前観光事業の契約手続について、総務課内でも点検することになりました」


 相馬先輩が眉を上げます。


「監査請求が入ったからか」


「それだけではありません」


「じゃあ何だ」


「今回の契約について、比較見積りを取らなかった理由の記録が十分でないことが分かりました」


「ほう」


「随意契約自体が直ちに違法だとは考えていません」


「うん」


「ただし、価格の妥当性を裏付ける資料が弱い」


「そこだな」


 沢渡課長は淡々と言います。


「監査委員の結論はまだです。こちらから先に違法不当を認めることはできません」


「分かってます」


「ですが」


 少し間がありました。


「今後、一定額以上の類似契約については、原則として複数見積りを取る運用を検討します」


 私は思わず笑いました。


「まだ監査結果出てないのに?」


「問題が見つかったら、結果を待たずに直す部分もあります」


「合理的ですね」


「私はいつも合理的です」


「自分で言うんだ」


「朝比奈さん」


「はい」


「住民監査請求というのは」


 沢渡課長が私を見ました。


「役所からすると、非常に面倒です」


「それ前にも聞いた気がします」


「ですが」


「はい」


「財務処理を外から見られる機会は、必要です」


 私は少し驚きました。


「課長がそこまで言うんですね」


「公金ですから」


 短い。


 でも。


 それで十分でした。


「役所の金じゃない」


 相馬先輩が言います。


「市民の金だ」


 沢渡課長が視線を向ける。


「正確には市の公金です」


「そういうとこだぞ」


「法律上正確に言っただけです」


「可愛げがねえ」


「相馬さんに言われたくありません」


 珍しく会話が互角です。


 五十八日目。


 監査結果が出ました。


 河合さんは朝一番で事務所へ来ました。


「届きました!」


 息を切らしています。


 私は封筒を開きました。


 手が少し震えます。


 結果。


 契約全体を違法とまでは認めない。


 随意契約を選択したこと自体についても、


 直ちに違法とはいえない。


 でも。


 価格決定過程について、


 複数業者との比較や十分な積算資料がなく、


 一部の費用について合理性を裏付ける資料が不足していた。


 特に。


 観光情報調査費。


 九十万円。


 既存資料の利用状況との関係で、


 費用算定の根拠が不十分。


 監査委員は、


 市長に対し、


 契約価格の再検証を行い、


 過大な支出が認められる場合には、


 相手方との協議その他必要な措置を講ずること。


 さらに、


 今後の随意契約における価格決定手続を明確化すること。


 そう勧告していました。


「勝った?」


 河合さんが聞きました。


 私は少し迷いました。


「全部ではありません」


「でも?」


「監査請求には、一部理由があると認められています」


「じゃあ」


 河合さんの顔が明るくなります。


「市はやり直す?」


「価格を再検証します」


「金が戻るかもしれない?」


「そこはこれからです」


「市長は辞める?」


「辞めません」


「そこは駄目か」


「最初からそこは目的じゃありません」


 相馬先輩が結果通知を取ります。


「でも勧告まで行ったか」


「はい」


「監査委員が、市長に必要な措置を取れって言った」


「はい」


 河合さんが椅子に座りました。


 しばらく何も言いません。


「私一人だったんですよね」


「はい」


「町内会の署名も集めてない」


「はい」


「議員にも頼んでない」


「はい」


「選挙で勝ったわけでもない」


「はい」


「ただ、市民一人で」


「はい」


「三百八十万円の使い方を、正式に調べさせた」


「そうです」


 河合さんは、


 笑いました。


 最初に事務所へ来たときの、


 怒鳴るような笑いじゃありません。


 少しだけ照れたような笑いでした。


「すごいですね、地方自治法」


 私は頷きました。


 本当にそう思います。


 住民監査請求。


 名前は地味です。


 響きも地味。


 必殺技感はありません。


 でも。


 住民一人が、


 役所の財布に、


 ちょっと待て。


 と正式に手を掛けられる。


 これはかなり強い。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「ここで終わりとは限らん」


「え?」


 河合さんが振り返ります。


「監査結果に不服がある場合、次の制度もある」


 私は分かりました。


「住民訴訟」


「そうだ」


 住民監査請求。


 そして、


 その結果に不服があれば、


 住民訴訟。


 でも。


 いきなり住民訴訟へは行けない。


 まず監査請求を経る。


 住民監査請求前置。


「裁判ですか」


 河合さんが少し身構えました。


「そうなれば、行政書士が代理することはできません」


 私は言いました。


「必要なら弁護士へつなぎます」


「でも今回は?」


「まず、市が勧告にどう対応するかを見ます」


 行政書士の仕事は、


 裁判で殴り勝つことではありません。


 その前に。


 事実を集める。


 対象行為を特定する。


 期間を確認する。


 要件を整える。


 証拠をつける。


 そして、


 役所の中の制度を正しく動かす。


 それだけで、


 状況が変わることがあります。


 一か月後。


 市から発表がありました。


 契約額の再検証。


 浜名観光企画との協議。


 観光情報調査費のうち、


 三十五万円について、


 実施内容を裏付ける資料が十分でないとして、


 業者側が自主的に返還。


 そして。


 今後の一定額以上の随意契約について、


 価格妥当性資料の作成を義務化。


 可能な限り複数見積りを取得。


 契約理由を決裁文書に明記。


「三十五万円か」


 河合さんが言いました。


 その日、


 事務所へ報告に来ていました。


「三百八十万円全部じゃなかったですね」


「はい」


「でも」


 彼は笑いました。


「三十五万円って、防犯灯何本分だろう」


「町内会会計の発想ですね」


「大事ですよ」


「否定はしません」


 河合さんは紙袋を机に置きました。


「差し入れです」


 相馬先輩が反応します。


「食い物か」


「そろばんです」


「要らねえ」


「何ですかその態度!」


「差し入れでそろばん持ってくる奴があるか」


「商売人なら必需品です!」


「事務所に三つある」


「じゃあ四つ目!」


「増やすな!」


 私は笑いました。


「河合さんらしいですね」


「朝比奈さんに」


「私?」


「今回ずっと計算してたでしょう」


「そうですけど」


「これなら三百八十万円でも三十五万円でも一瞬です」


「私を何だと思ってるんですか」


「見習い会計係」


「行政書士見習いです!」


 片桐所長がそろばんを一度だけ弾きました。


 ぱちん。


「悪くない」


「所長!?」


「使うんですか!」


「電卓は停電すると使えん」


「電池式ですよ」


「細かいこと言うな」


 細かいのが今日のテーマでは。


 とは思いましたが、黙りました。


 窓の外。


 駅前には、


 例の観光案内板が見えます。


 三百八十万円。


 今は三十五万円が戻り、


 残り三百四十五万円。


 高かったのか。


 妥当だったのか。


 全部が白黒ついたわけではありません。


 監査委員も、


 契約全部を違法だとは言わなかった。


 市長も辞めていない。


 業者も営業を続けている。


 大悪党を倒して終わる話ではありません。


 でも。


 役所が、


 このくらいでいいだろう。


 前例どおりでいいだろう。


 この業者でいいだろう。


 そうやって使った公金に、


 一人の住民が、


 「根拠を見せてください」


 と言った。


 その結果。


 監査が入り。


 金が少し戻り。


 契約のやり方が変わった。


 それで十分、


 法律は働いたのだと思います。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今日の教訓は」


「え」


「いつも頭の中でまとめてるだろ」


 ばれていた。


 私は少し考えました。


 住民監査請求。


 一人でできる。


 対象は財務会計上の違法・不当な行為や怠る事実。


 請求先は監査委員。


 作為には原則一年。


 監査は六十日以内。


 理由があれば勧告。


 その先には住民訴訟。


 でも。


 今日、一番残ったのはそこじゃない。


「役所のお金は」


 私は言いました。


「役所の好きにしていいお金じゃない」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「当たり前だ」


「でも、その当たり前を確かめる制度がある」


「うん」


「しかも、一人で使える」


 私は窓の外の案内板を見ました。


「今日の教訓です」


 ――住民一人でも、自治体の財布には「待った」をかけられる。


 河合さんが頷きます。


「いいですね」


 相馬先輩が言いました。


「ただし何でも監査請求すんなよ」


「分かってます」


「公園の草が長いとか」


「財務会計じゃありません」


「沢渡の態度が冷たいとか」


「財務会計じゃありません」


「所長が給料上げねえとか」


 私は止まりました。


「……それは財務会計では?」


「お前」


 相馬先輩が笑いました。


「住民じゃねえだろ」


「あ」


 片桐所長がそろばんをぱちんと弾きます。


「却下」


「まだ請求してません!」


「期間制限もない」


「給料上げるのを怠る事実です!」


「違法でも不当でもない」


「不当です!」


「監査委員は誰だ」


「……いません」


「終わりだ」


「うちにも監査制度を!」


 河合さんが笑い、


 相馬先輩も笑いました。


 窓の外では、


 三百四十五万円になった看板が、


 夕日を受けて静かに立っています。


 税金は、


 数字です。


 契約書の中では。


 予算書の中では。


 決算書の中では。


 ただの数字です。


 でも。


 その一円一円を出した人がいる。


 だから。


 地方自治法は、


 その数字を役所だけのものにしなかった。


 住民にも、


 見る権利を残した。


 問う道を残した。


 一人でも。


 たった一人でも。


 市役所の財布の前に立って、


 その支出、


 本当に大丈夫ですか。


 そう言える道を残したのです。

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