[地方自治法・住民監査請求]法理編 こはるノート
役所のお金は、役所だけが見張るものではありません。
夕方。
片桐行政書士事務所。
窓の外には、あの観光案内板が見えていました。
三百八十万円。
そこから三十五万円が戻って、
三百四十五万円。
数字だけ見ると、やっぱり大きい。
私は机の上でそろばんを弾きました。
ぱちん。
ぱちん。
「……三百四十五万円」
「さっきから何回計算してんだ」
向かいの机で相馬先輩が煙草に火をつけました。
「確認です」
「電卓使え」
「河合さんにもらったんですよ。使わないと悪いじゃないですか」
「そろばんに義理立てする奴、初めて見た」
「道具を大事にするタイプなんです」
「昨日落として玉ばら撒いてただろ」
「それは事故です」
私はそろばんを机の端へ置きました。
その横にはノート。
表紙を開く。
大きく書きました。
――住民監査請求。
昨日までなら。
この言葉を見ても、
ああ、地方自治法の住民監視制度ね。
一人でもできる。
一年。
監査委員。
六十日。
住民訴訟の前置。
そんなふうに、
試験用の数字が先に頭へ浮かんでいました。
でも今は違います。
三百八十万円の看板。
随意契約。
一社見積り。
曖昧な価格積算。
河合さん一人の請求。
監査委員の勧告。
三十五万円の返還。
そして、
市の契約運用の見直し。
数字の後ろに、
全部、人の顔がついている。
「今日は何だ」
相馬先輩が聞きました。
「住民監査請求です」
「昨日やっただろ」
「昨日は使いました。今日は整理します」
「嫌な予感がする」
「付き合ってください」
「嫌だ」
「所長」
私は奥を見ました。
「付き合え」
片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。
相馬先輩が煙草を灰皿に置きました。
「この事務所、権力分立が死んでるだろ」
「地方自治法の勉強にちょうどいいですね」
「どこがだ」
私はノートに最初の見出しを書きました。
――住民監査請求とは何か。
「まず簡単に言うと」
私は言いました。
「地方公共団体のお金の使い方がおかしいと住民が考えたとき、監査委員に調べてもらう制度」
「雑だな」
「またですか」
「昨日も言っただろ。『お金の使い方がおかしい』だけじゃ広すぎる」
「分かってます」
私は書き直します。
地方公共団体の執行機関または職員について、
財務会計上の違法または不当な行為、
または、
財務会計上の職務を怠る事実がある場合に、
住民が監査委員に対して必要な措置を求める制度。
「そこです」
私は『財務会計上』に二重線を引きました。
「一番大事なの」
「そうだな」
昨日。
河合さんは最初、
市長の後援会長の会社だから怪しい。
高すぎる。
市長を辞めさせたい。
そう言っていました。
でも。
住民監査請求は、
市政への不満を何でも持ち込む制度ではない。
「例えば」
私は言いました。
「市長の政策が嫌い」
「対象外」
「市役所の窓口が冷たい」
「対象外」
「公園の草刈りが遅い」
「普通はそれだけじゃ対象外」
「沢渡課長が無愛想」
「本人に言え」
「言ったら余計冷たくなりそうです」
「知らん」
重要なのは、
自治体の財務。
公金。
財産。
契約。
債務。
徴収。
そういう、
役所の財布に関する行為です。
私は項目を書きました。
違法または不当な公金の支出。
財産の取得。
管理。
処分。
契約の締結。
債務その他義務の負担。
それから、
公金の賦課徴収を怠ることなど。
「昨日の事件だと?」
相馬先輩が聞きました。
「駅前観光案内板の業務委託契約」
「うん」
「それに基づく三百八十万円の公金支出」
「うん」
「だから財務会計行為」
「そうだ」
私はそこに丸を付けました。
「市長が後援会関係者と付き合ってたこと自体が監査対象じゃない」
「そうだな」
「政治的に怪しい、でもない」
「うん」
「その関係の中で、具体的にどんな契約を結んで、いくら支出したか」
「そこを見る」
「はい」
私は少し考えてから言いました。
「これ、住民監査請求って名前より、『自治体財布監査請求』の方が分かりやすいですね」
「法改正する気か」
「受験生向け愛称です」
「余計な名前増やすな」
次。
――違法だけではなく、不当も対象。
私はそこにも線を引きました。
「ここ、行政不服審査とちょっと似てますね」
「何が」
「違法だけじゃない。不当も見る」
「そうだな」
昨日の契約。
随意契約そのものが、
ただちに法律違反だったとは限らない。
三百八十万円という金額も、
高いから即違法、
ではない。
でも。
比較見積りがない。
価格積算の根拠が弱い。
既存資料を使ったのに調査費が九十万円。
契約価格の決め方として妥当だったのか。
それは別問題。
「違法じゃなくても」
私は言いました。
「税金の使い方として、不適切なら監査対象になる」
「そういうことだ」
「不当まで見るから、住民監査請求は使い道が広いんですね」
「ただし」
片桐所長が口を挟みました。
「不当という言葉を便利に使うな」
「はい」
「高い気がする。不愉快だ。好きじゃない。そんなものは不当ではない」
「理由が必要」
「事実も必要だ」
その通りです。
昨日の請求書には、
感情を書きませんでした。
三百八十万円なんてふざけている。
税金泥棒だ。
癒着だ。
そういう言葉は削った。
代わりに、
契約日。
支出日。
随意契約。
一社のみ。
類似業務の価格。
既存観光資料。
価格積算資料の不足。
それを並べた。
「事実が先」
私は言いました。
「評価は後」
「行政書士の仕事はだいたいそれだ」
片桐所長が言いました。
私は頷きました。
次。
――誰が請求できるか。
「これは好きです」
「何でだ」
「住民なら一人でいい」
私は大きく書きました。
住民監査請求。
住民一人でもできる。
「昨日、河合さんも驚いてましたね」
「ああ」
「署名集め不要」
「うん」
「議員の紹介不要」
「うん」
「町内会長の判子不要」
「うん」
「選挙権も要件じゃない」
「そうだ」
だから、
外国人住民でもよい。
法人でもよい。
納税しているかどうかも問われない。
年齢も問われない。
「ここ、事務監査請求とごちゃつきます」
私は言いました。
「お前昨日ごちゃついてたもんな」
「思い出させないでください」
事務監査請求。
こちらは、
地方公共団体の事務全般について監査を求める直接請求。
そして、
選挙権を有する者の一定数の連署が必要。
「数字は?」
相馬先輩が聞きます。
「五十分の一以上」
「誰の?」
「選挙権を有する者の総数」
「外国人住民は?」
「選挙権がないから、その請求人側には入れない」
「法人は?」
「無理」
「住民監査請求は?」
「住民なら一人でもいい。外国人も法人も可能」
「よし」
私はノートに表っぽく書きました。
住民監査請求。
対象――財務会計上の違法・不当な行為、怠る事実。
請求人――住民一人でも可。
事務監査請求。
対象――地方公共団体の事務全般。
請求人――選挙権を有する者の総数の五十分の一以上の連署。
「これ、名前が似てるのが悪いですよ」
「法律に文句言うな」
「だって受験生を落としに来てます」
「制度は受験生のために作ってねえ」
正論。
悔しい。
「ただ」
私はノートを見ました。
「現場で見ると、違いが分かりやすいですね」
「どう違う」
「事務監査請求は、住民による大きな直接請求」
「うん」
「住民監査請求は、一人でも自治体の財布を監視できる制度」
「ざっくりなら、それでいい」
次。
――請求先。
「監査委員」
私は即答しました。
「今日は市長って言わねえんだな」
「もう間違えません!」
「昨日三回危なかった」
「二回です!」
「数えてんのか」
「悔しかったので」
住民監査請求も、
事務監査請求も、
請求先は監査委員。
ここは同じ。
でも。
請求できる者や対象が違う。
「監査委員って」
私は言いました。
「改めて見ると面白い立場ですね」
「何がだ」
「同じ自治体の中にいながら、長や職員の財務処理を監査する」
「ああ」
「完全に外部じゃない」
「そうだな」
「でも、市長の部下として言われた通りにする役職でもない」
「当然だ」
昨日。
河合さんは言いました。
どうせ身内でしょう、と。
その感覚は分かります。
市役所の中で、
市役所のお金の使い方を監査する。
でも。
だからこそ、
地方自治法は監査委員という仕組みを置いている。
「現代なら外部監査制度もありますけど」
私は言いました。
「今は昭和六十三年です」
「何だそれ」
相馬先輩が眉をひそめます。
「外部監査」
「未来の制度です」
「またか」
「包括外部監査とか、個別外部監査とか」
「知らん」
「ですよね」
「存在しねえもんを当然みたいに言うな」
そう。
現代なら、
自治体の監査機能を外から補強する外部監査制度があります。
でも。
昭和六十三年にはまだない。
「未来では便利になります」
「今ないなら使えねえ」
「はい」
これです。
転生してから何度も殴られてきた壁。
現代の制度を知っていても、
施行前なら存在しない。
外部監査人を頼もう。
なんて言っても、
この時代には通じない。
「だから昭和では」
私は言いました。
「監査委員制度をきっちり使うしかない」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
「制度が古いから使えない、ではない」
「はい」
「ある制度を使い切れ」
「はい」
その言葉は、
昭和の実務家らしい。
次。
私は少し大きく書きました。
――期間制限。
「来ましたね」
「何が」
「受験生が数字を間違えるところ」
「お前だけだろ」
「全国に仲間がいます」
違法または不当な財務会計上の行為。
つまり作為。
何かをした場合。
原則として、
その行為があった日、
または終わった日から一年を経過すると、
住民監査請求はできなくなる。
「昨日の事件なら」
私は整理しました。
「契約締結が四月十二日」
「うん」
「公金支出が五月二十八日」
「うん」
「請求は六月」
「だから一年以内」
「余裕でした」
「油断するな」
所長が言いました。
「はい」
「一年は長そうに見えて短い」
「確かに」
自治体の契約。
支出。
財産処分。
住民が知るころには、
何か月も経っていることがあります。
新聞報道で知る。
議会資料で知る。
決算書で知る。
そうしているうちに、
一年が近づく。
「じゃあ一年過ぎたら絶対駄目?」
相馬先輩が聞きます。
「例外があります」
「何だ」
「正当な理由」
「説明しろ」
私は少し考えました。
「行為が秘密裏に行われていたとか」
「うん」
「住民が通常の注意を払っても知り得なかったとか」
「うん」
「そういう場合は、一年を超えても請求できる余地がある」
「そうだ」
ただし。
正当な理由があると言えば何でも通るわけではない。
ここは、
実際に住民が知ることができた時期や事情が問題になる。
「知らなかった、だけじゃ駄目」
「そうだな」
「知らなくても仕方なかった、まで要る」
「方向としてはそうだ」
私はノートに書きました。
一年。
ただし正当な理由があれば例外。
そして、
その下にもう一つ。
――怠る事実には期間制限なし。
「ここ、昨日河合さんも変だって言ってました」
「お前も言ってたな」
「だって対比が強いんですよ」
やった行為。
一年。
やっていない状態。
原則、期間制限なし。
「例えば」
私は言いました。
「市が回収すべき債権をずっと回収していない」
「うん」
「徴収すべき公金を徴収していない」
「うん」
「その怠っている状態が現在も続いているなら」
「一年で切れない」
「はい」
なぜなら、
問題となる不作為が、
今も続いているから。
「ただし」
所長が言いました。
「何でも『怠る事実』に言い換えれば期限を逃げられると思うな」
「あ」
「過去の一回の財務会計行為を、無理に不作為として構成して一年制限を避けようとするのは別問題だ」
「なるほど」
そこは重要です。
作為なのか。
怠る事実なのか。
ラベルの貼り方だけで決まる話じゃない。
実質を見ないといけない。
「受験勉強では」
私は言いました。
「作為一年、不作為なし、で覚えますけど」
「現場では、何が作為で何が不作為かを見極めるところからだ」
「はい」
数字だけ覚えても、
事件には使えない。
昨日まで、
何度も見てきたことです。
次。
――監査委員は何をするか。
「六十日」
私は言いました。
「何がだ」
「請求があった日から六十日以内に監査」
「そうだ」
昨日。
五十八日目に監査結果が届きました。
ぎりぎりです。
「理由がないと判断したら」
私は書きます。
「理由を付して、書面で請求人に通知」
「それだけか」
「公表もする」
「うん」
「理由があると判断したら」
議会。
長。
職員。
その他関係する機関などに対し、
期間を示して、
必要な措置を講ずるよう勧告。
そして、
その結果を請求人に通知し、
公表する。
「昨日は後者でした」
「一部な」
「はい」
監査委員は、
契約全体を違法とは言わなかった。
でも。
価格決定過程に合理性を裏付ける資料が不足している。
だから再検証しなさい。
過大支出があるなら必要な措置を取りなさい。
そう勧告した。
その結果、
三十五万円が戻った。
「勧告って」
私は言いました。
「命令とは違いますよね」
「違う」
「監査委員が直接、業者に三十五万円返せって判決を出すわけじゃない」
「そうだ」
「市長に、必要な措置を取りなさいと求める」
「うん」
そこも、
住民監査請求の性格をよく表しています。
監査委員が、
裁判所のように最終判決を出す制度ではない。
まず自治体内部で、
財務処理を点検し、
必要な是正を促す。
「だから昨日の件も」
私は言いました。
「監査結果が出た瞬間に三十五万円返ってきたわけじゃない」
「市が再検証して、業者と協議して、返還に至った」
「はい」
「監査はきっかけ」
「そして正式な勧告」
私は丸を付けました。
次。
ペンが少し止まりました。
――住民訴訟。
「ここ、行政書士として大事ですね」
「ああ」
「私たちは訴訟代理できない」
「当然だ」
住民監査請求の結果に、
請求人が納得できない。
または、
勧告された措置が十分でない。
そんな場合。
住民訴訟へ進む道がある。
「でも」
私は言いました。
「いきなり住民訴訟はできない」
「そうだ」
「先に住民監査請求」
「住民監査請求前置」
「はい」
ここ。
試験でも重要。
住民訴訟は、
住民監査請求を経ることが前提。
つまり、
河合さんが最初から裁判所へ、
三百八十万円の契約がおかしい。
と飛び込むことはできない。
まず、
監査委員に監査を求める。
「行政内部で先に直す機会を与える」
私は言いました。
「そう考えると分かりやすい」
「うん」
「そこで直れば、裁判まで行かなくていい」
「昨日がそうだったな」
「はい」
河合さんは、
住民訴訟まで行かなかった。
三十五万円が戻ったから、
だけではない。
市の契約運用自体も見直された。
本人が求めていた、
税金の使い方をちゃんと調べてほしい。
という目的が、
かなり達成されたからです。
「でももし」
私は言いました。
「監査委員が全部問題なしとした」
「うん」
「河合さんが納得できなかった」
「うん」
「住民訴訟を考える」
「その場合は?」
「弁護士へつなぐ」
「それでいい」
行政書士は、
訴状を書いて代理人として裁判所へ立つ仕事ではありません。
私たちがやるのは、
その前。
対象行為の特定。
資料収集。
時系列整理。
住民監査請求書。
証拠の整理。
そして必要なら、
弁護士へ渡せる状態まで整える。
「行政書士って」
私は言いました。
「裁判できない代わりに、裁判になる前の地面を整える仕事ですね」
「代わりに、じゃねえ」
相馬先輩が言いました。
「それが仕事だ」
「あ」
「裁判できねえから仕方なく書類作ってると思うな」
少し強い声でした。
「裁判にならずに直るなら、その方が早いこともある」
「はい」
「昨日みたいにな」
「はい」
そうです。
あの三十五万円は、
判決で戻ったわけじゃない。
住民一人の監査請求から始まり、
行政内部の監査と再検証で戻った。
裁判まで行かず、
制度が動いた。
「……格好いいですね」
「何が」
「行政書士」
「今さらか」
「たまに再確認します」
「普段どう思ってんだ」
「紙の多い仕事」
「否定できねえな」
私は笑って、
次のページを開きました。
そして少し迷ってから書きます。
――昭和六十三年と現代の違い。
「来たな」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「未来講座です」
「要らん」
「大事です」
「俺は未来の試験受けねえ」
「でも読者が」
「誰だ読者」
「何でもありません」
危ない。
私は咳払いしました。
住民監査請求そのものは、
昭和六十三年にもある。
今回の事件で普通に使えた。
でも。
現代の地方自治を考えると、
監査制度の周辺は変わっています。
「例えば」
私は言いました。
「現代には外部監査制度があります」
「さっき言ってたやつか」
「はい」
「昭和には?」
「ない」
「じゃあ終わり」
「終わらせないでください」
現代。
地方自治体の監査機能について、
弁護士、公認会計士など外部の専門家が関与する仕組みが整備されている。
でも、
昭和六十三年にはまだ存在しない。
だから今回。
河合さんが、
外の専門家に監査してもらえ。
と言っても、
法制度としてその道はない。
「つまり」
私は言いました。
「昭和の住民は、今より自治体内部の監査委員制度に頼る割合が大きい」
「そういう面はあるな」
「だから監査委員にちゃんと動いてもらうために、住民側が具体的な事実を揃える意味も大きい」
「うん」
そして。
地方自治法全体の大きな違い。
「現代は」
私は言いました。
「国と地方は、対等・協力が基本」
「また未来の話か」
「はい」
「昭和は違う」
「機関委任事務の時代」
片桐所長がこちらを見ました。
ここは今回の事件の中心ではありません。
でも、
地方自治法を勉強するなら外せない。
昭和六十三年。
地方公共団体の長が、
国の機関として処理する機関委任事務が数多く存在していた。
国の通達や指揮監督も強い。
「現代みたいに」
私は言いました。
「自治事務と法定受託事務に整理されて、国と地方が対等・協力って発想じゃない」
「今は上が強い」
相馬先輩が言います。
「そうです」
「国の仕事を市長が国の機関としてやる」
「はい」
「そこじゃ自治なんて言っても、きれい事だけじゃ済まねえ」
「ですよね」
だからこそ。
昭和の地方自治では、
住民側が使える自治体内部の仕組みが重要になる。
条例。
直接請求。
住民監査請求。
監査委員。
議会。
そういう制度を、
一つずつ使う。
「上から縛られている時代だからこそ」
私は言いました。
「下から監視する制度の意味も大きい」
片桐所長が少しだけ頷きました。
「そう見てもいい」
「住民一人で使えるの、かなり強いですよね」
「強い」
「選挙まで待たなくていい」
「うん」
「議員にならなくてもいい」
「うん」
「五十分の一集めなくてもいい」
「そうだ」
「自治って」
私はペンを止めました。
「住民が全部直接決めることじゃないんですね」
「当たり前だ」
「役所に任せる。でも、任せっぱなしにしない」
「そういうことだ」
地方自治。
言葉だけ見ると、
地方公共団体が国から独立して自分たちで決める、
という話に見えます。
でも。
もう一つある。
その地方公共団体の中で、
住民が行政をどう監視するか。
そこも自治です。
「住民自治」
私は呟きました。
片桐所長が言います。
「団体自治だけ見て地方自治だと思うな」
「はい」
地方公共団体が国からどれだけ自立しているか。
それが団体自治。
住民が地方行政に参加し、監視する。
それが住民自治。
昭和六十三年は、
国との関係では今より地方が弱い。
機関委任事務もある。
でも。
その中でも、
住民自治の制度はある。
住民監査請求は、
その象徴の一つなのかもしれません。
「そう考えると」
私は言いました。
「河合さん、一人で地方自治してたんですね」
「大げさだ」
相馬先輩が言います。
「でも間違ってはいない」
片桐所長が言いました。
お。
珍しい。
「一人が監査請求して」
私は続けます。
「市の契約運用まで変わった」
「うん」
「次の契約は少し透明になる」
「そうだな」
「それって、市民が行政の仕組みに参加したってことですよね」
「そういう面はある」
私はノートの余白に書きました。
住民監査請求は、
金を取り戻すだけの制度ではない。
自治体に、
その支出は説明できますか。
と問い直させる制度。
ここで。
相馬先輩が私のノートを覗きました。
「で、試験用にまとめるとどうなる」
「急に受験指導」
「お前が始めたんだろ」
「じゃあ行きます」
私はペンを構えました。
住民監査請求。
対象。
財務会計上の違法・不当な行為、
または怠る事実。
請求人。
住民なら一人でも可。
外国人住民も可。
法人も可。
請求先。
監査委員。
期間。
違法・不当な財務会計上の行為については、
原則として行為の日または終わった日から一年。
正当な理由があれば例外。
怠る事実。
原則期間制限なし。
監査。
請求の日から六十日以内。
理由なし。
理由を付して通知、公表。
理由あり。
必要な措置を講ずべきことを勧告。
その結果を通知、公表。
住民訴訟。
住民監査請求を経てから。
「住民監査請求前置」
「はい」
「事務監査請求との違い」
「住民監査請求は財務会計限定、一人でも可」
「事務監査請求は?」
「事務全般、選挙権を有する者の総数の五十分の一以上の連署」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「今日なら受かるんじゃねえか」
「今日だけですか」
「明日忘れるかもしれん」
「縁起でもない」
でも。
たぶん忘れません。
なぜなら、
数字に事件がくっついたから。
一年。
契約と支出の期限。
六十日。
監査委員が結果を出すまで。
一人。
河合さん。
三百八十万円。
監査対象になった契約。
三十五万円。
戻った公金。
全部、
数字だけではなくなりました。
私はノートの最後に、
大きく一行を書こうとしました。
「何書く」
相馬先輩が聞きます。
「一行の覚え書きです」
「昨日もやってたな」
「習慣になりました」
少し考えます。
――住民監査請求は、一人で自治体の財布を見張る制度。
「短いな」
「どうです?」
「悪くねえ」
「じゃあこれで」
でも。
もう少しだけ考えて、
その下に小さく書き足しました。
――役所に任せる。でも、任せっぱなしにしない。
相馬先輩がそれを見ます。
「二行じゃねえか」
「今回は補足です」
「毎回それ言ってねえか」
「大事なことが多いんですよ」
窓の外を見る。
駅前の観光案内板。
夕日を受けて、
昨日と同じように立っています。
見た目は何も変わらない。
看板が消えたわけでもない。
市長が辞職したわけでもない。
会社が潰れたわけでもない。
大事件の結末としては、
地味です。
でも。
あの看板には今、
一つだけ前とは違う意味がある。
その金額は、
誰にも見られず決められるものではない。
住民が聞ける。
監査を求められる。
説明を求められる。
おかしければ、
直すきっかけにできる。
地方自治法は、
住民に自治体の財布そのものを渡してはいません。
住民が直接、
今日から予算を使えるわけでもない。
でも。
財布の中身を、
誰にも見せなくていいとも言っていない。
私はそろばんを一度弾きました。
ぱちん。
「何だ」
相馬先輩が聞きます。
「三十五万円」
「急だな」
「戻ったお金です」
「知ってる」
「河合さん一人で始めたんですよね」
「そうだ」
「一人で三十五万円戻した」
「正確には監査委員と市と業者が動いた結果だ」
「沢渡課長みたいな言い方」
「正確に言っただけだ」
私は笑いました。
「でも」
「何だ」
「最初の一枚を書かなかったら、何も始まらなかった」
「まあな」
住民監査請求書。
たった一枚の書類。
正確には添付資料が山ほどありましたが。
そこは気にしない。
「行政書士って」
私は言いました。
「やっぱり紙で役所を動かす仕事ですね」
「紙だけじゃねえ」
「事実も必要」
「そうだ」
「要件も」
「そうだ」
「期限も」
「そうだ」
「証拠も」
「そうだ」
「じゃあ」
私は笑いました。
「紙に全部詰める仕事」
相馬先輩が煙草を消しました。
「まあ、それなら近い」
奥から片桐所長が声をかけます。
「こはる」
「はい」
「昨日のそろばん」
「はい」
「帳簿に使う」
「え」
「貸せ」
「河合さんが私にくれたんですけど」
「事務所で使う」
「私物です!」
「業務に必要だ」
「財産の管理が不当です!」
「監査請求するか」
「します!」
「誰に」
私は止まりました。
「……監査委員がいません」
「なら終わりだ」
「そんな!」
相馬先輩が笑います。
「住民でもねえしな」
「じゃあ事務監査請求!」
「選挙権ある奴五十分の一集めろ」
「事務所の有権者、三人くらいしかいません!」
「一人で足りるじゃねえか」
「計算上はそうですけど!」
片桐所長がそろばんを持っていきます。
「異議があります!」
「却下」
「地方自治法が事務所内自治を守ってくれません!」
窓の外では、
夕暮れの駅前に、
例の観光案内板が静かに立っていました。
役所に任せる。
でも、
任せっぱなしにはしない。
地方自治法が住民に渡しているのは、
権力そのものではありません。
問い直す権利です。
たった一人でも、
その支出、本当に大丈夫ですか。
そう聞ける権利。
それがある限り。
自治体の財布は、
役所だけの密室にはならないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




