[地方自治法・住民訴訟]現場編 「監査委員が問題なしと言ったら、もう終わり」の嘘。三十日の期限を握って裁判所へつなぐ、住民一人の最後の監視線
役所の中で扉が閉まっても、外にもう一枚、扉が残っていることがあります。
ただし。
その扉には、
かなり短い時限爆弾が付いています。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は一通の封筒を前にして、
珍しく声を失っていました。
「……三十日?」
「そう書いてあるだろ」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「三十日しかないんですか」
「二回言っても増えねえぞ」
「一か月ですよ」
「そうだな」
「行政事件訴訟の出訴期間よりずっと短いじゃないですか」
「だから何だ」
「怖い!」
「法律に感想言うな」
でも怖いものは怖い。
机の上には、
一枚の通知書。
湖西市監査委員名。
その横には、
相談者。
長谷川正一さん。
六十二歳。
市内で電器店を営んでいる男性でした。
長谷川さんは、
通知書よりさらに硬い顔をしています。
「つまり」
低い声で言いました。
「市役所は、自分たちで調べて」
「はい」
「問題ありませんでした、と」
「正確には監査委員です」
「でも市役所の人間でしょう」
「……まあ、同じ自治体の仕組みの中ではあります」
「それで終わりなんですか」
私は通知をもう一度読みました。
長谷川さんが住民監査請求をしたのは、
湖西市が行った、
旧湖畔保養所の備品処分でした。
市所有の保養所。
建物は古い。
利用者も減っていた。
そこで一部を閉鎖し、
不用となった備品を処分した。
問題は、
その中身でした。
業務用冷蔵庫。
大型テレビ。
応接セット。
空調機。
厨房設備。
音響設備。
備品台帳上の取得価格を合計すると、
かなりの額です。
もちろん。
中古品です。
取得価格で売れるわけではありません。
古くなれば価値も落ちる。
壊れていれば、
処分費がかかることすらある。
そこまでは普通。
ところが。
「全部で十二万円ですよ」
長谷川さんが言いました。
「十二万円」
私も繰り返しました。
「しかも買ったのが、湖西観光開発」
市内で旅館やレストランを経営する会社。
そして。
「社長は、市長の後援会幹部」
嫌な単語が出てきました。
またです。
昭和六十三年。
地方都市。
観光振興。
随意契約。
後援会。
この組み合わせ、狙って配置しているとしか思えません。
「長谷川さんは電器店でしたよね」
「四十年やってます」
「冷蔵庫とかテレビの中古相場も分かる」
「だから気づいたんです」
長谷川さんは写真を出しました。
売却前。
保養所の厨房。
業務用冷蔵庫。
古いですが、
まだ動いていた。
型式も読めます。
別の写真。
ロビーの大型テレビ。
これも動作品。
「この冷蔵庫だけでも」
長谷川さんが言います。
「中古業者なら十万は出す」
「一台で?」
「状態次第じゃもっとです」
「それを他の備品込みで十二万円」
「はい」
だから長谷川さんは、
住民監査請求をした。
財産の処分。
財務会計上の行為。
住民一人でもできる。
監査委員に、
市有財産を不当に安く売ったのではないか。
必要な措置を取ってほしい。
そう求めた。
「監査結果は?」
私は通知を読みます。
結論。
請求には理由がない。
「理由は」
相馬先輩が聞きました。
「備品は老朽化していた」
「うん」
「一括搬出を条件とした」
「うん」
「保管場所を早期に空ける必要があった」
「うん」
「搬出費用等も考慮すれば、十二万円での一括売却が著しく不合理とまでは認められない」
「なるほど」
相馬先輩が言いました。
「役所側の理屈は通ってる」
「納得するんですか!」
長谷川さんが声を上げました。
「納得じゃねえ」
相馬先輩は落ち着いています。
「理屈があるって言ってんだ」
「同じでしょう!」
「違う」
ぴしゃり。
「相手の理屈を理解できねえ奴は、崩せねえ」
長谷川さんが黙りました。
相馬先輩は口が悪い。
でも。
こういうときは妙に冷静です。
「市の言い分は」
先輩が指を折ります。
「古い」
「はい」
「まとめて持っていけ」
「はい」
「保管場所を早く空けたい」
「はい」
「搬出費も相手持ち」
「はい」
「だから安くても不合理とは言えねえ」
「……そうです」
「じゃあ壊すならそこだ」
私は写真に目を落としました。
何かないか。
長谷川さんが、
もう一つ茶封筒を出しました。
「これを見てください」
「何です?」
「市が最初に取った見積りです」
私は受け取りました。
一枚。
二枚。
三枚。
そこで、
手が止まりました。
「……百四十八万円?」
「はい」
地元の中古設備業者。
市内のリサイクル業者。
隣町の厨房機器業者。
三社。
買い取り見積り。
九十六万円。
百二十三万円。
百四十八万円。
「待ってください」
私は顔を上げました。
「市は見積り取ってたんですか」
「取ってたんです」
「監査請求のとき、この資料は?」
「知りませんでした」
「いつ分かったんです?」
「監査結果が出たあとです」
「どうやって」
「元職員から聞いて、議員に頼んで資料を確認してもらいました」
私はもう一度、
監査結果通知を見ました。
十二万円。
最高見積り百四十八万円。
差額。
百三十六万円。
もちろん。
条件が違う可能性はあります。
搬出時期。
対象備品。
引き取り条件。
支払条件。
だから、
差額だけで即違法とは言えない。
でも。
「課長」
片桐所長が初めて口を開きました。
もちろん沢渡課長はいません。
所長が呼んだのは、
私。
「はい」
「監査結果の日」
「あ」
そこ。
私は通知の日付を見ます。
そして長谷川さんを見る。
「これ、届いたのはいつです?」
「一週間前です」
「正確に」
「先週の火曜日」
「封筒あります?」
「あります」
消印。
到達日。
確認。
私はカレンダーを引き寄せました。
数える。
一日。
二日。
三日。
「……まだ間に合う」
思わず声が出ました。
「何にです?」
長谷川さんが聞きます。
私は通知を指しました。
「住民訴訟です」
◇
「裁判?」
長谷川さんは、
明らかに身構えました。
「はい」
「私が?」
「住民監査請求をした長谷川さんが」
「市を訴えるんですか」
「そこは請求の形によります」
「朝比奈」
相馬先輩が低い声を出しました。
「そこから先、軽く言うな」
「あ」
そうでした。
住民訴訟。
訴訟です。
ここから先は、
行政書士が代理人として裁判所へ立てる世界ではない。
「長谷川さん」
片桐所長が言いました。
「先に線を引きます」
「はい」
「私たちは行政書士です」
「ええ」
「裁判の代理人にはなれません」
「……はい」
「訴訟をするなら、弁護士へ引き継ぎます」
長谷川さんの表情が少し曇りました。
「じゃあ、ここでは何もできない?」
「逆です」
私は言いました。
所長がこちらを見る。
でも、
これは言っていい。
「裁判所へ行く前に、何を争えるのか、期間はいつまでか、監査請求で何を主張したか、新しく何が分かったか。全部整理して渡します」
「……それを?」
「弁護士さんに」
相馬先輩が付け加えます。
「丸腰で行かせる気はねえよ」
長谷川さんは、
少しだけ肩の力を抜きました。
「それで」
私はノートを開きました。
「まず大前提です」
「はい」
「住民訴訟は、誰でもいきなり起こせるわけじゃありません」
「私は?」
「長谷川さんは、住民監査請求をしています」
「はい」
「そこが大きい」
住民監査請求前置。
先に監査請求。
その結果に不服がある。
あるいは、
監査委員が勧告したのに、
長や職員が必要な措置を取らない。
そんな場合に、
住民訴訟という次の扉が開く。
「つまり」
長谷川さんが言いました。
「監査を飛ばして裁判はできない」
「原則として、そうです」
「私は監査した」
「だから次へ進む資格がある」
そこまで言って、
私は一つ付け足しました。
「正確には、住民監査請求をした住民です」
「一人でいい?」
「はい」
「署名は?」
「要りません」
「議員は?」
「要りません」
「でも裁判ですよね」
「裁判です」
住民監査請求は、
行政内部。
住民訴訟は、
裁判所。
その一線は大きい。
「ただし」
私は言いました。
「監査請求と住民訴訟では、一つ大きな違いがあります」
「何です?」
「不当だけでは駄目です」
長谷川さんが眉をひそめました。
「不当?」
「監査請求では、財務会計上の違法な行為だけじゃなく、不当な行為も対象になりました」
「はい」
「でも住民訴訟は訴訟です」
「ということは」
「違法である必要があります」
部屋が少し静かになりました。
これ。
大きい。
住民監査請求なら、
法律違反とまでは言えなくても、
税金の使い方として妥当ではない。
財産処分として不適切だ。
そこまで監査を求められる。
でも。
裁判所へ行った瞬間。
壁が一段高くなる。
単に、
安すぎる。
納得できない。
税金の無駄だ。
それだけでは足りない。
「つまり」
長谷川さんがゆっくり言いました。
「十二万円が不当に安い、だけじゃ駄目」
「はい」
「違法だと」
「そこまで構成しないといけません」
「……急に難しくなりましたね」
「裁判ですから」
言ってから、
自分でも重いと思いました。
片桐所長が資料を指で叩きます。
「だから見積りが効く」
「え?」
「安かったという感想じゃない」
三社の見積り。
九十六万円。
百二十三万円。
百四十八万円。
「市が自分で取った数字だ」
所長が言いました。
「はい」
「それを知っていながら、なぜ十二万円で特定業者に売った」
「……そこですね」
「理由が要る」
相馬先輩が続けました。
「しかも、その理由が財務会計上通るかだ」
長谷川さんの顔つきが変わりました。
怒りから、
考える顔へ。
これが大事です。
裁判は、
怒った方が勝つ場所じゃない。
その日の午後。
私たちは市役所へ行きました。
総務課。
沢渡課長。
私たちを見た瞬間、
また眉間に指を当てました。
「今日は何でしょう」
「嫌そうですね」
「嬉しそうに見えますか」
「全然」
相馬先輩が三枚の見積書を机へ置きました。
「旧湖畔保養所」
沢渡課長の目が止まりました。
「備品売却ですか」
「監査請求は棄却」
「請求には理由がない、です」
「細けえな」
「重要です」
相馬先輩が一枚目を押し出しました。
「じゃあこれ」
「……」
二枚目。
三枚目。
沢渡課長は、
しばらく黙っていました。
「どこで入手しました」
「適法に確認した資料です」
片桐所長が答えます。
「内容は本物か」
「少なくとも、その形式の見積書が作成されたことは把握しています」
「じゃあ聞く」
相馬先輩が身を乗り出します。
「百四十八万の買い取り見積りがあったのに、何で十二万で売った」
「条件が異なります」
「どう違う」
「高額見積りの業者は、引き取り対象を選別しています」
「全部じゃねえ?」
「ええ」
「十二万の方は?」
「不用備品を一括で搬出する条件です」
なるほど。
ちゃんと反論がある。
私はメモを取ります。
「じゃあ」
私は聞きました。
「三社見積りで対象外だった備品って、どれですか」
「確認が必要です」
「搬出費はいくら差があったんです?」
「それも担当課に」
「保管場所を急いで空ける必要があったそうですけど」
「はい」
「期限は?」
「七月末です」
私はカレンダーを思い出します。
「売却したの、五月ですよね」
「ええ」
「二か月以上ある」
「施設閉鎖には準備があります」
「それは分かります。でも」
私は見積りを指しました。
「百万円以上の差を飲んでまで急ぐ必要があったなら、その検討記録ありますよね」
沢渡課長が、
私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「住民訴訟を考えていますか」
来た。
私は一瞬、
言葉を止めました。
ここは、
軽々しく宣戦布告する場面じゃない。
片桐所長が答えました。
「検討している」
「監査結果通知から三十日です」
「分かっている」
「行政書士が代理できないことも」
「分かっている」
「では」
「弁護士へ渡す」
短い。
沢渡課長の表情が、
少しだけ変わりました。
行政書士が怒鳴っている。
それだけなら、
役所も慣れている。
でも。
資料が整理されて。
期限が確認されて。
次が裁判だと分かっている。
しかも、
弁護士へ引き継ぐ準備までできている。
そこまで行くと、
話が変わります。
「ひとつ確認します」
私は言いました。
「監査請求で問題になった財務会計行為は、市有備品の売却ですよね」
「そうです」
「住民訴訟でも、そこが土台になる」
「ええ」
「何でも追加できるわけじゃない」
「その理解でいいでしょう」
「じゃあ」
私は三枚の見積りを指しました。
「この資料は、同じ売却行為の違法性を判断するための証拠として重要ですよね」
「裁判所がどう評価するかは、私が答えることではありません」
「課長ならそう言いますよね」
「当然です」
でも。
否定はしなかった。
「もう一つ」
相馬先輩が言いました。
「売却代金、もう入ってんのか」
「十二万円は収納済みです」
「備品は?」
「すべて搬出済み」
「転売されたか」
「一部は観光開発の施設で使用していると聞いています」
つまり。
今から売却そのものを止めるのは難しい。
差止め。
その言葉が頭に浮かびました。
でももう、
行為は終わっている。
「朝比奈」
相馬先輩が私を見ます。
「今何考えた」
「差止めは遅いなって」
「そういうことだ」
住民訴訟には、
請求の型がある。
何でも好きな判決を求められるわけではない。
差止め。
取消し・無効確認。
怠る事実の違法確認。
そして財産的な回復を求める類型。
ただし。
私はそこで、
現代のテキストの文章を思い出しました。
――当該職員又は相手方に損害賠償又は不当利得返還の請求をすることを、普通地方公共団体の執行機関又は職員に対して求める。
そうそう。
四号請求。
「だったら市に、相手方へ返還請求するよう求める訴えを――」
「待て」
相馬先輩。
低い声。
嫌な予感。
「はい」
「誰に対して何を求めるって?」
「市の執行機関に、相手方へ損害賠償とか不当利得返還を請求するよう――」
「こはる」
片桐所長が私を見る。
静かです。
静かだから余計怖い。
「今、何年だ」
「昭和六十三年」
「その四号請求、どこの法律だ」
私は固まりました。
え。
頭の中で、
現代法の条文が、
嫌な音を立てて崩れます。
「……違う?」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「今の四号は、住民が普通地方公共団体に代位して請求する形だ」
「代位……」
「職員本人や相手方に対してな」
「直接?」
「そうだ」
私は額を押さえました。
来た。
また来た。
地方自治法、
時代錯誤地雷。
現代の四号住民訴訟は、
平成十四年の改正によって、
住民が相手方へ直接請求する代位訴訟型から、
地方公共団体の執行機関や職員に対し、相手方へ請求するよう求める形へ改められました。
でも。
ここは昭和六十三年。
十四年も未来どころか、
平成すらまだ来ていません。
今の私は、
改正後の制度を二十年近く先取りして口走ったことになります。
「……未来では変わるんです」
小声で言いました。
「知るか」
相馬先輩が冷たい。
「平成十四年に」
「平成って何だ」
「あ」
まだ元号すら存在しない。
最悪です。
「何でもありません」
「お前、たまに怖いぞ」
「私も自分が怖いです」
転生者、
法改正を知っていることが武器になる日もあります。
地雷になる日の方が多い気がします。
片桐所長が言いました。
「今使う法律だけ見ろ」
「はい」
「現代の便利な整理を持ち込むな」
「はい」
私はノートの端に、
大きく書きました。
――昭和六十三年。旧四号。
二重丸。
絶対忘れない。
もう忘れない。
たぶん。
沢渡課長が眼鏡を直しました。
「相談は終わりましたか」
「見てました?」
「目の前で始めたでしょう」
「恥ずかしい」
「それで」
沢渡課長は資料を見ます。
「市としては、監査結果が出ています」
「だから終わりだと?」
長谷川さんが初めて口を開きました。
今日はずっと黙っていました。
「そうは申しません」
沢渡課長が答えます。
「住民訴訟を提起する権利はあります」
「監査委員が問題なしと言ったのに?」
「監査結果に不服があれば、法律上の要件を満たして住民訴訟を提起する道があります」
「じゃあ」
長谷川さんは三枚の見積書を見ました。
「監査委員が間違っていたかどうかも、裁判所で見てもらえる」
「財務会計行為が違法かどうか、です」
沢渡課長が訂正しました。
そう。
ここも大事。
裁判所は、
監査委員を叱るためにあるわけではない。
問題となる財務会計行為が違法か。
そこを司法が見る。
「課長」
片桐所長が言いました。
「契約当時の価格検討記録を、もう一度内部で確認してほしい」
「監査は終わっています」
「監査後に出た資料がある」
「……」
「訴訟になれば、争点になる」
沢渡課長は黙りました。
「三十日しかない」
所長は続けます。
「こちらは待てない」
その一言で、
空気が変わりました。
三十日。
そうです。
住民訴訟の出訴期間。
監査結果や勧告に不服がある場合、
通知があった日から三十日以内。
監査委員の勧告後の措置に不服なら、
その措置についての通知から三十日以内。
監査請求から六十日経っても監査や勧告がないなら、
六十日を経過した日から三十日以内。
勧告を受けた側が、
示された期間内に措置を取らなかった場合も、
その期間経過後三十日以内。
三十日。
三十日。
三十日。
「短すぎる……」
私は思わず呟きました。
「また言ってるな」
相馬先輩が言います。
「だって短いですよ」
「だから仕事しろ」
「はい」
文句を言っても、
期限は伸びません。
それが法律です。
事務所へ戻る。
片桐所長が机の上に、
四枚の紙を並べました。
「整理するぞ」
「はい」
一枚目。
住民監査請求書。
二枚目。
監査結果通知。
三枚目。
三社の見積書。
四枚目。
市有備品売却関係資料。
「こはる」
「はい」
「訴訟要件」
来た。
私は背筋を伸ばしました。
「原告になれるのは、住民監査請求をした住民」
「長谷川さんは?」
「該当」
「対象」
「財務会計上の違法な行為または怠る事実」
「今回」
「市有財産の処分」
「違法性」
「そこが本案の争点」
「請求先」
「……」
あ。
危ない。
「裁判所です」
「どこだ」
「地方裁判所」
「どこの」
「普通地方公共団体の事務所所在地を管轄する地方裁判所」
「よし」
行政書士試験なら、
ここで一点。
実務なら、
間違えると洒落にならない。
「期間」
「監査結果通知から三十日以内」
「残り」
私は計算しました。
「二十三日」
「実質はもっと短い」
「弁護士さんに渡して、検討して、訴状作って」
「そうだ」
胸が重くなりました。
二十三日。
受験問題なら、
正誤を選んで終わり。
現場では、
二十三日後に道そのものが閉じる。
「別の住民が」
相馬先輩が言いました。
「俺も腹立った。今から訴えてやるって言ったら?」
「監査請求してないなら駄目」
「長谷川さんの監査請求に便乗は?」
「原告になれるのは監査請求した住民」
「そうだ」
「じゃあ長谷川さん、重要人物ですね」
「急に扱い変えるな」
長谷川さんが少し笑いました。
今日初めてです。
「別の人が同じ訴えを起こしたら?」
相馬先輩。
また問題。
「同一の請求について、すでに住民訴訟が係属しているなら……別訴禁止」
「そうだ」
「同じ事件で同じ請求を重ねて別訴できない」
「よし」
「先輩」
「何だ」
「今日ずっと口頭試問みたいになってません?」
「弁護士に馬鹿な資料渡したくねえからな」
「私への信用が薄い!」
「未来の法律しゃべった奴が言うな」
ぐう。
翌日。
片桐所長が付き合いのある弁護士へ電話を入れました。
久世弁護士。
行政事件も扱う、
四十代半ばの人です。
午後。
事務所へ来てもらいました。
私は机いっぱいに資料を並べます。
「監査請求書」
「はい」
「監査結果」
「はい」
「到達日」
「封筒もあります」
「いいですね」
褒められた。
ちょっと嬉しい。
「財務会計行為の特定」
「市有備品の一括売却です」
「時期」
「五月十七日契約。二十三日搬出。代金収納二十五日」
「三社見積り」
「こちら」
久世弁護士が、
一枚ずつ見ていきます。
「条件が違いますね」
「はい」
私は即答しました。
「百四十八万円の業者は一部選別。十二万円の業者は全品一括。ただし、差額を合理化するだけの搬出費・処分費の積算資料は、今のところ確認できてません」
「監査委員はこの三社見積りを?」
「少なくとも請求人側からは出していません。長谷川さんが知ったのは監査結果後です」
「なるほど」
「市は存在を把握していたようです」
「そこは重要ですね」
久世弁護士が、
所長を見ました。
「訴訟まで行く価値はあります」
長谷川さんが息を呑みました。
「勝てますか」
久世弁護士は、
すぐには答えませんでした。
「分かりません」
この答え。
片桐所長と同じです。
「監査請求と違って、裁判では『不当だった』だけでは足りません」
「朝比奈さんにも言われました」
「違法性を立てなければならない」
「はい」
「そして、売却価格の決定には一定の判断余地もある」
「はい」
「ただ」
弁護士は三社見積りを持ち上げました。
「行政自身がこれだけ高い買い取り可能性を把握していたのに、なぜ十二万円を選択したのか。その判断過程に合理的説明がないなら、かなり気になります」
長谷川さんが頷きました。
「お願いします」
「訴訟を?」
「はい」
「分かりました」
久世弁護士が、
私たちを見る。
「ここから先は私が受任します」
「お願いします」
片桐所長が言いました。
私は一歩、
後ろへ下がりました。
これが境目です。
行政書士。
弁護士。
できることが違う。
でも。
ここまで積み上げた紙が、
無駄になるわけではない。
「朝比奈さん」
弁護士が言いました。
「時系列表、もらえます?」
「もちろんです」
「あと見積り条件の比較表」
「作ります」
「売却対象一覧との対応も」
「やります」
お。
まだ仕事がある。
「嬉しそうだな」
相馬先輩が小声で言います。
「だって」
「何だ」
「バトン渡したあとも走れるんですね」
「リレーで渡した奴が走ったら反則だろ」
「例えです!」
三日後。
資料が完成しました。
表紙。
時系列。
監査請求の内容。
監査結果。
対象財産一覧。
三社見積り比較。
一括搬出条件。
売却決裁。
判明している事実。
未確認事項。
そして、
監査結果通知の到達日。
赤枠。
出訴期限。
「そこ赤くしたのか」
相馬先輩が言います。
「命ですから」
「大げさだな」
「二十三日しかなかったんですよ」
「もう十九日だ」
「言わないでください!」
久世弁護士へ渡す。
そこから先。
訴状は、
弁護士の仕事。
私は書きません。
代理もしません。
でも。
裁判に必要な事実は、
全部一列に並べました。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「役割を間違えるな」
「はい」
「裁判をやるのが偉いわけじゃない」
「はい」
「裁判に行く前に落とし穴を潰すのも仕事だ」
「はい」
出訴権者。
前置。
対象。
違法性。
地方裁判所。
期限。
請求類型。
何か一つ欠ければ、
本案の前で転ぶことがある。
行政事件は、
内容が正しいだけでは足りません。
入口を間違えたら、
中まで入れない。
その翌日。
市役所から電話が来ました。
『沢渡です』
「はい」
『旧湖畔保養所の件ですが』
「はい」
『内部で再確認しました』
私は受話器を握り直しました。
「どうでした」
『三社見積りを踏まえた売却価格の検討記録が、決裁上ほとんど残っていません』
「……ほとんど?」
『「一括搬出可能業者を優先」とあるだけです』
「金額差については?」
『記載がない』
「搬出費の比較」
『ない』
「廃棄費」
『ない』
「……課長」
『言いたいことは分かります』
沢渡課長の声が、
いつもより少し重い。
『市として、問題がないとは断定できない状況です』
「監査結果と違いますね」
『監査時に十分確認されていなかった資料があります』
「じゃあ」
『ただし』
来た。
『監査委員の判断を総務課が覆すことはできません』
「ですよね」
『市長部局としてできる範囲で、売却手続の再調査を始めました』
「相手方への請求は?」
『まだそこまで判断していません』
「訴訟の期限、待ってくれませんよ」
沈黙。
『分かっています』
「こちらは進めます」
『それで結構です』
私は少し驚きました。
「止めないんですか」
『なぜ私が止めるんです』
「市が訴えられるかもしれないのに」
『住民訴訟は、住民に認められた法定の制度です』
沢渡課長が言います。
『使うかどうかは、長谷川さんが判断することです』
「課長」
『何でしょう』
「たまに格好いいですね」
『余計です』
切られました。
さらに一週間。
久世弁護士から連絡がありました。
住民訴訟。
提起。
期限内。
地方裁判所。
受理。
「出たんですね」
私は電話口で言いました。
『出しました』
「間に合った」
『朝比奈さんが封筒まで残してくれていたので、到達日の争いも避けられそうです』
「封筒!」
『大事ですよ』
「相馬先輩!」
私は受話器を押さえて振り返りました。
「何だ!」
「封筒褒められました!」
「知らん!」
嬉しい。
行政書士見習い、
封筒で活躍。
地味。
でも、
こういう地味さが行政事件では大事です。
その日の午後。
長谷川さんが事務所へ来ました。
「裁判になりましたね」
「はい」
「怖いです」
「ですよね」
「私、市から金をもらいたいわけじゃないんです」
「分かってます」
「勝っても、私に百万円入るわけじゃない」
「はい」
「じゃあ何で私が原告なんでしょうね」
私は、
少し考えました。
ここです。
住民訴訟の変なところ。
普通の裁判なら。
自分の権利が侵害された。
自分が損した。
自分の処分を取り消してほしい。
そういう、
自分の法律上の利益を守るために裁判をする。
でも。
住民訴訟は違う。
「長谷川さん」
「はい」
「十二万円で売ったせいで、長谷川さん個人の冷蔵庫がなくなったわけじゃないですよね」
「ないです」
「長谷川さんの預金が百万円減ったわけでもない」
「はい」
「それでも訴えられる」
「住民だから?」
「はい」
自治体の財務を、
適法に保つため。
住民という立場で、
法律が特別に訴える道を開いている。
自分のためだけじゃない。
「こういうの」
私は言いました。
「民衆訴訟っていうんです」
「民衆」
「客観訴訟の一つです」
「自分の利益じゃないから?」
「そうです」
長谷川さんは、
少し笑いました。
「変な裁判ですね」
「私も最初そう思いました」
でも。
変だからこそ意味がある。
もし、
自分自身が直接百万円損しないと訴えられないなら。
自治体が百万円損しても、
誰も裁判所へ持っていけないことがある。
だから。
住民が、
自治体の財布の番人として、
法廷へ行ける。
「ただし」
私は言いました。
「誰でも何でも訴えられるわけじゃない」
「監査請求」
「はい」
「三十日」
「はい」
「違法じゃないと駄目」
「はい」
「ちゃんと壁がある」
「ものすごくあります」
長谷川さんが笑いました。
「朝比奈さん、楽しそうですね」
「法律がつながってきたので」
「私は胃が痛いです」
「すみません」
裁判の結論は、
まだ先です。
行政書士事務所で判決を出すこともできません。
住民訴訟は、
出せば勝てる魔法ではない。
監査委員が問題なしとした。
市には市の理屈がある。
一括搬出。
老朽化。
迅速な施設整理。
裁判所が、
十二万円での売却を違法と認めるか。
それは分からない。
でも。
訴えを提起した翌週。
市は旧湖畔保養所の残りの財産処分を、
一時停止しました。
今後売却予定だった、
送迎用マイクロバス。
厨房機器。
寝具。
事務備品。
全部。
価格評価をやり直す。
複数見積りを取る。
随意で売却する場合には、
価格差を含めた理由を文書に残す。
そんな方針が決まりました。
「裁判、まだ始まったばっかりなのに」
私は沢渡課長へ言いました。
市役所。
総務課。
沢渡課長は、
書類から顔を上げません。
「同じ問題を増やす必要はありません」
「合理的」
「いつも言っているでしょう」
「市が負けるかもしれないから?」
「それもあります」
認めた。
「ですが」
沢渡課長が続けます。
「住民訴訟を起こされたから直す、では遅い」
「……」
「今回の資料を見る限り、意思決定過程を残すという点で改善すべき部分はある」
「監査では問題なしだったのに」
「監査結果と、内部改善は別です」
「なるほど」
この人は、
負けを認めない。
でも、
危険を認めたら直す。
たぶん。
役人としては、
かなり厄介で、
かなりまともです。
「朝比奈さん」
「はい」
「住民訴訟は強い制度です」
「はい」
「だからこそ、軽く使う制度でもありません」
「分かってます」
「裁判になれば、自治体にも費用と時間がかかる」
「住民にも」
「ええ」
「でも」
私は言いました。
「監査の中で終わらせたら、裁判所には届かない」
「そうです」
「行政だけで自分を監視するのには限界がある」
沢渡課長が、
少しだけ黙りました。
「それを言うために」
私は続けます。
「住民訴訟があるんですよね」
「……でしょうね」
沢渡課長が言いました。
「私が積極的に勧める立場ではありませんが」
「ですよね」
帰り道。
夕方の駅前。
私は相馬先輩の後ろを歩いていました。
「先輩」
「何だ」
「今日の教訓、できました」
「聞いてねえ」
「聞いてください」
「勝手に言え」
私は少し考えます。
住民監査請求。
役所の中で、
財務会計上の違法や不当を調べてもらう。
住民訴訟。
その先。
違法な財務会計行為を、
裁判所で争う。
ただし、
監査請求を先にやる。
訴えられるのは、
監査請求をした住民。
期限は短い。
原則として、
監査結果等の通知から三十日。
そして。
行政書士は、
裁判の代理人にはなれない。
だから。
入口まで完璧に整えて、
弁護士へ渡す。
「今日の教訓です」
「うん」
「監査で扉が閉まっても、裁判所への扉まで閉まったとは限らない」
相馬先輩が少し考えました。
「長えな」
「じゃあ短くします」
私は夕焼けの市役所を振り返りました。
――監査の次には、司法がある。
「それでいい」
「お」
「ただし」
先輩が言います。
「三十日だ」
「……そこ足します?」
「一番忘れちゃいけねえだろ」
「じゃあ」
私は指を一本立てました。
――監査の次には司法がある。ただし、三十日は待ってくれない。
「長くなったぞ」
「先輩のせいです!」
事務所へ戻ると。
長谷川さんから、
段ボール箱が届いていました。
「何ですこれ」
開ける。
古い電気ポット。
卓上扇風機。
ラジオ。
「……中古品?」
添えられた手紙。
――店で売れ残ったものですが、全部まだ使えます。
「長谷川さんらしいな」
相馬先輩が扇風機のスイッチを入れます。
ぶおん。
盛大な音。
「うるさっ!」
「動くぞ」
「音が昭和です!」
「今が昭和だ」
「そうでした」
片桐所長が電気ポットを持ち上げます。
「使えるな」
「所長、こういうの好きですよね」
「捨てる理由がない」
「十二万円で全部売ります?」
私は冗談で言いました。
所長が私を見ました。
「見積りを取れ」
「そこから!?」
相馬先輩が笑います。
「三社だな」
「事務所の備品処分に住民訴訟制度を持ち込まないでください!」
「価格差の理由も記録しろ」
「沢渡課長まで乗り移ってません!?」
扇風機が、
ぶおん、ぶおんと回っています。
裁判は、
まだ終わっていません。
勝つか負けるかも分からない。
百三十六万円の差が、
違法な損失だったのか。
合理的な処分だったのか。
それを決めるのは、
私たちではありません。
裁判所です。
だから私は、
そこから先へは出ません。
行政書士は、
訴訟代理人ではない。
でも。
監査請求書を読み、
通知日を確認し、
封筒を残し、
財務会計行為を特定し、
証拠を並べ、
期限を計算し、
弁護士へ渡す。
その全部がなければ、
裁判所の扉へたどり着く前に、
道が消えることがあります。
住民訴訟は、
住民が役所に勝つための制度ではありません。
住民が金をもらうための制度でもない。
自分には一円も入らないかもしれない。
それでも。
自治体の財布の使い方が、
本当に法律どおりだったのか。
行政の中だけではなく、
裁判所にも聞ける。
そのための制度です。
私は机の上のカレンダーに、
赤鉛筆で丸をつけました。
訴状提出日。
期限内。
その小さな赤丸を見て、
少しだけ安心します。
「こはる」
「はい」
片桐所長が言いました。
「扇風機」
「何です?」
「うるさい」
「私に言われても!」
「処分しろ」
「じゃあ見積り取ります」
「三社な」
「本当にやるんですか!?」
相馬先輩が笑いました。
「住民監査請求されると困るからな」
「誰が住民なんですか!」
「俺」
「事務所の住民じゃありません!」
「じゃあ住民訴訟」
「先に監査請求してください!」
「監査委員は?」
私は止まりました。
事務所を見渡す。
片桐所長。
相馬先輩。
私。
「……いません」
「前置できねえな」
「この事務所、司法統制までたどり着けない!」
ぶおん。
ぶおん。
古い扇風機だけが、
どうでもよさそうに首を振っていました。
役所の中で、
「問題なし」と言われても。
それが、
法律の最後の言葉とは限らない。
監査の向こうには、
裁判所がある。
ただし。
その扉は、
いつまでも開いているわけではありません。
三十日。
短い。
とても短い。
だからこそ。
法律を知っているということは、
勝ち方を知っていることだけではない。
まだ道が残っているうちに、
次の人へバトンを渡すことなのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




