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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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346/701

[地方自治法・住民訴訟]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 裁判所への道は、広い道ではありません。


 細くて。


 曲がっていて。


 しかも入口が、思ったより早く閉まります。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には、


 一通の封筒がありました。


 ただの茶封筒。


 角が少し潰れている。


 表には、


 湖西市監査委員。


 それだけ。


「……これが大事だったんですよね」


 私は封筒を持ち上げました。


 相馬先輩が煙草に火をつけます。


「中身じゃなくて封筒見てニヤニヤしてる奴、初めて見たぞ」


「褒められたんですよ」


「誰に」


「久世先生に」


「何を」


「封筒を残してたことを」


「人生でそこ褒められて喜ぶ十八歳も珍しいな」


「行政事件では到達日、大事なんです!」


「分かったから振り回すな」


 私は大事に封筒を机へ戻しました。


 その横にノート。


 今日は、


 いつもより少し緊張しています。


 上に大きく書きました。


 ――住民訴訟。


 昨日までなら。


 この言葉を見て思い出すのは、


 地方自治法二四二条の二。


 住民監査請求前置。


 三十日。


 地方裁判所。


 四つの請求。


 民衆訴訟。


 そんな試験用語でした。


 でも今は、


 長谷川さんの顔が浮かびます。


 十二万円。


 三社見積り。


 最高百四十八万円。


 監査結果は、


 請求に理由なし。


 そのあと出てきた資料。


 そして、


 残り二十三日。


 数字が急に怖くなった事件でした。


「相馬先輩」


「嫌だ」


「まだ何も言ってません」


「どうせ勉強会だろ」


「鋭い」


「何回同じ流れやるんだ」


 私は奥を見ました。


「所長」


「付き合え」


 片桐所長が帳簿から顔も上げずに言います。


 相馬先輩が天井を見ました。


「この事務所こそ住民訴訟が必要なんじゃねえか」


「住民じゃありません」


「そうだった」


「監査請求前置もできません」


「救済不能だな」


「悲しいこと言わないでください」


 私はペンを持ち直しました。


「じゃあまず」


 最初の見出し。


 ――住民訴訟は、何のための訴訟か。


「市に腹が立った住民が起こす裁判」


「雑すぎる」


 相馬先輩が即答しました。


「分かってます。わざとです」


「その言い訳便利だな」


 私は書き直します。


 普通地方公共団体の財務会計上の違法な行為、


 または怠る事実について、


 住民が裁判所に是正を求めるための訴訟。


「大事なのは?」


 相馬先輩が聞きます。


「財務会計上」


「もう一つ」


「違法」


「そこだ」


 私は『違法』を二重丸で囲みました。


「住民監査請求との違いですね」


「ああ」


 住民監査請求なら。


 違法。


 または、


 不当。


 両方を見ることができる。


 でも。


 住民訴訟は、


 訴訟です。


 裁判所が、


 行政の財務処理について、


 単に気に入らない。


 もったいない。


 もっと別の方法がよかった。


 という理由だけで介入する制度ではありません。


「だから」


 私は言いました。


「長谷川さんの事件でも、『十二万円じゃ安すぎる』だけじゃ足りなかった」


「そうだ」


「監査なら、不当な財産処分だって攻められる」


「うん」


「訴訟なら、それが法的に違法だと言えるところまで必要になる」


「そういうことだ」


 私はノートに矢印を書きました。


 住民監査請求。


 違法+不当。


 ↓


 住民訴訟。


 違法。


「入口が狭くなりましたね」


「裁判だからな」


「監査委員から裁判官に変わった瞬間、急に厳しい」


「当たり前だ」


 昨日の長谷川さんの件。


 市有備品を十二万円で売却した。


 安い。


 確かに安い。


 でも。


 中古品。


 一括搬出。


 保管場所を空ける必要。


 搬出費。


 市にも理屈はある。


 だから、


 十二万円という数字だけで、


 違法。


 とは言えない。


 そこで出てきたのが、


 三社見積り。


 九十六万円。


 百二十三万円。


 百四十八万円。


 しかも市は、


 それらを知っていた可能性がある。


「そこで初めて」


 私は言いました。


「単に安いじゃなく、なぜその価格にしたのかって判断過程が問題になった」


「そうだな」


「高い見積りを捨てる合理的理由があったのか」


「うん」


「一括搬出の負担が百万円以上の価格差を正当化するほどだったのか」


「うん」


「その検討記録すら残ってない」


「そこが弁護士も気にしてたところだな」


 住民訴訟。


 怒りを裁判にする制度ではない。


 事実を、


 違法性の問題へ組み立て直す制度。


 そう考えると、


 昨日の相馬先輩の言葉がよく分かります。


 相手の理屈を理解できない奴は、


 崩せない。


 次。


 私はノートに書きました。


 ――誰が訴えられるか。


「市民なら一人で」


「待て」


 相馬先輩が止めました。


「危ない?」


「半分だけな」


「住民なら誰でも、じゃない」


「そうだ」


 私は書き直します。


 住民訴訟を提起できるのは、


 先に住民監査請求をした住民。


「これです」


 住民監査請求前置主義。


「いきなり裁判所へ行けない」


「ああ」


「まず監査委員」


「そうだ」


「そこで監査を求める」


「うん」


「その結果に不服があるとか、勧告どおりの措置が取られないとか、そういう場合に住民訴訟」


「基本はそれだ」


 私は昨日の長谷川さんを思い出しました。


「じゃあ」


 相馬先輩が問題を出します。


「長谷川さんの隣の家の人が、新聞読んで腹立てた」


「はい」


「『俺も市民だ。市を訴える』」


「駄目」


「なぜ」


「その人は住民監査請求をしてないから」


「よし」


「長谷川さんは?」


「監査請求済み。だから要件を満たす」


「そのとおり」


 住民一人でも、


 自治体の財布を監視できる。


 でも。


 裁判へ行く人には、


 監査請求という一段目を踏んでいることが必要です。


「これ」


 私は言いました。


「何で前置させるんでしょう」


「考えろ」


「いきなり何でも裁判にされたら大変だから?」


「それもある」


 片桐所長が口を開きました。


「まず自治体自身に直す機会を与える」


「あ」


 そうです。


 住民監査請求。


 監査委員が調べる。


 もしそこで違法・不当な状態が直れば、


 裁判まで行く必要がない。


「行政内部で直せるものは、先に直す」


「そうだ」


「それで直らなかったときに司法」


「そういう順序だ」


 なるほど。


 前置主義は、


 住民を邪魔するだけの門番じゃない。


 行政内部での自己是正を先に働かせる仕組みでもある。


 昨日の事件では、


 それがうまく働かなかった可能性がある。


 監査結果は、


 問題なし。


 でも、


 あとから三社見積りが出た。


「つまり」


 私は言いました。


「監査が最終審じゃない」


「そういう言い方ならな」


「監査委員が『問題なし』と言っても、裁判所まで同じ判断をするとは限らない」


「当然だ」


 そこです。


 住民監査請求の次に、


 住民訴訟が用意されている意味。


 行政内部の監視には、


 やっぱり限界がある。


 だから外に、


 裁判所という別の目を置く。


「行政の中の目」


 私は書きました。


 監査委員。


 その下に、


 行政の外の目。


 裁判所。


「分かりやすいですね」


「答案にそのまま書くなよ」


「分かってます」


 次。


 ――住民訴訟は、自分のための裁判か。


「これは違います」


 私は言いました。


「何が」


「普通の訴訟と感覚が違う」


 長谷川さん。


 裁判に勝ったとしても、


 百三十六万円が本人の財布に入るわけではない。


 十二万円で売った備品も、


 長谷川さん個人の財産ではない。


 それでも、


 訴えられる。


「自分の法律上の利益を守るためじゃない」


「そうだ」


「地方公共団体の財務行政を適法に保つため」


「うん」


「だから」


 私は大きく書きました。


 ――民衆訴訟。


 そして横に、


 ――客観訴訟。


「ここ、行政事件訴訟法とつながりますね」


「説明してみろ」


「行政事件訴訟には、主観訴訟と客観訴訟の整理がある」


「うん」


「取消訴訟なんかは、自分の権利利益を守るため」


「うん」


「住民訴訟は、自分自身の個人的な権利利益を救済するためじゃない」


「そうだ」


「住民という資格で、自治体の財務会計の適法性を守る」


「だから民衆訴訟」


「はい」


 私は少しペンを止めました。


「これ、かなり特殊ですね」


「法律が特別に認めてるからな」


「普通だったら」


 例えば。


 他人の財産が減った。


 自分は損していない。


 それなのに、


 私が代わりに裁判をします。


 そんなことは、


 普通できません。


 でも住民訴訟は、


 地方自治法が特別に道を開いている。


「自治体は」


 私は言いました。


「自分で自分を訴えないですもんね」


「当たり前だろ」


「だから住民が動ける仕組みが必要なんだ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 自治体に損害が出ている。


 でも、


 その原因を作ったのが自治体内部の人間かもしれない。


 あるいは、


 自治体が相手方への請求をしようとしないかもしれない。


 そんなとき。


 誰も動けなければ、


 違法な財務会計行為を裁判所へ持っていく者がいなくなる。


「住民が番人になる」


 私は呟きました。


「言い方は雑だが、覚え方としては悪くない」


 相馬先輩が言います。


 珍しく褒められました。


「今、褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれ」


 次。


 ――どこの裁判所か。


「地方裁判所」


 私は即答しました。


「それだけか」


「普通地方公共団体の事務所の所在地を管轄する地方裁判所」


「よし」


 専属管轄。


「長谷川さんが住んでいる場所で決まるわけじゃない」


「そうだ」


「市役所の所在地を基準にする」


「うん」


 そして。


「同じ事件について」


 私は続けます。


「もう住民訴訟が係属している場合、同一の請求を別訴で重ねることはできない」


「何ていう」


「別訴禁止」


「よし」


「これも面白いですね」


「何が」


「みんなで別々に同じ訴訟したら大混乱だから」


「ざっくりしすぎだが、まあそうだ」


 住民なら一人でも監査請求できる。


 だからこそ、


 同じ財務会計行為について、


 同じ請求を何本も裁判所へ持ち込めたら大変です。


 そこで、


 すでに住民訴訟が係属している同一請求について、


 別訴は禁止。


「住民参加は広く」


 私は言いました。


「でも裁判は重複させない」


「そう覚えるのか」


「分かりやすいので」


 そして。


 私は少し緊張しながら、


 次の見出しを書きました。


 ――三十日。


 相馬先輩が笑います。


「でかいな」


「怖かったので」


「紙いっぱい使ってるぞ」


「昨日、残り二十三日って分かった瞬間、心臓に悪かったんですよ」


 三十日。


 住民訴訟の出訴期間。


 ここは、


 一つだけ覚えれば終わり、


 ではありません。


「四パターン」


 私は言いました。


「言ってみろ」


 一。


 監査結果または勧告に不服がある場合。


 その内容の通知があった日から、


 三十日以内。


「長谷川さんがこれ」


「そうだ」


 二。


 監査委員の勧告を受けた議会、長、職員などが措置をした。


 でもその措置に不服がある。


 その措置について監査委員から通知があった日から、


 三十日以内。


 三。


 監査請求をしたのに、


 六十日を経過しても監査または勧告が行われない。


 その六十日を経過した日から、


 三十日以内。


 四。


 監査委員が勧告した。


 ところが、


 議会や長などが、


 勧告に示された期間内に必要な措置を講じない。


 その期間を経過した日から、


 三十日以内。


 私はそこまで言って、


 息を吐きました。


「全部三十日」


「起点が違う」


 相馬先輩が言います。


「そこですね」


 三十日。


 という数字だけ覚えても駄目。


 何から三十日なのか。


 それが重要。


「だから封筒だったんだ」


 私は机の上の茶封筒を見ました。


 通知日。


 発送日。


 到達日。


 そこを雑にすると、


 期限計算が危ない。


「試験なら」


 私は言いました。


「『三十日』で丸が取れる問題もある」


「現場は?」


「いつから三十日かを確定しないと死ぬ」


「物騒だな」


「手続がです!」


 片桐所長が言いました。


「期限は、本案より先に見る」


「はい」


「どれだけ違法性の証拠を集めても、期間を落とせば意味がない」


「はい」


 何度も味わってきた、行政法の恐ろしさ。


 内容が正しい。


 かわいそう。


 役所がおかしい。


 それだけでは救済されない。


 期限。


 適格。


 管轄。


 前置。


 入口を全部そろえて、


 やっと中身を見てもらえる。


「行政事件って」


 私は呟きました。


「入口が多すぎません?」


「だから俺がいつも言ってんだ」


 相馬先輩が煙草を指で挟みます。


「裁判なんて負け戦だ」


「あ」


「だがやるなら」


 にやり。


「要件を揃えろ」


「出た」


「何だ」


「先輩の決め台詞」


「決め台詞じゃねえ」


「かなり決め台詞ですよ」


 次。


 私はページをめくりました。


 ――何を請求できるか。


「四つ」


「今の制度と昭和を混ぜるなよ」


 相馬先輩が先に釘を刺しました。


「……昨日の傷をえぐりますね」


「二十年近く未来の法律しゃべった奴が悪い」


「反省してます」


 住民訴訟は、


 何でも裁判所に求められるわけではない。


 法定された請求類型がある。


 まず。


 一号。


 財務会計上の行為について、


 全部または一部の差止め。


「昨日の備品売却なら?」


「もう売却済みだから、その売却自体を止めるのは遅い」


「そうだ」


「でも、まだ実行前の違法な支出なんかだったら差止めが問題になる」


「うん」


 二号。


 行政処分である財務会計行為の、


 取消しまたは無効確認。


 三号。


 怠る事実について、


 違法確認。


「例えば」


 私は言いました。


「回収すべき自治体の債権を、違法に放置している」


「うん」


「その怠る事実が違法だと確認してもらう」


「そうだ」


 そして。


 四号。


 ここで私は、


 ペンを止めました。


「昭和六十三年」


 声に出して確認。


「そうだ」


「現代法じゃない」


「そうだ」


「平成十四年改正前」


「未来の元号を普通に使うな」


「もういいでしょう!」


 私はノートの上に、


 大きく書きます。


 旧四号。


 この時代は、


 住民が普通地方公共団体に代位して、


 違法な財務会計行為によって責任を負う職員や相手方などに対し、


 損害賠償や不当利得返還などを求める形の住民訴訟でした。


 これが後の平成十四年改正で、現代のように、執行機関や職員に対して「責任を負う者へ請求せよ」と求める形へ変更されます。


「昨日」


 私は言いました。


「完全に現代法で答えました」


「ああ」


「市に、相手方へ返還請求するよう求めるって」


「言ってたな」


「恥ずかしい」


「いい勉強になっただろ」


「痛い勉強でした」


 でも。


 この時代差は、


 かなり大きい。


 現代の四号請求では、


 住民が、


 自治体の執行機関や職員に対して、


 責任を負う職員や相手方へ損害賠償等の請求をするよう求める。


 一方、


 昭和六十三年当時は、


 住民が地方公共団体に代位して、


 その請求権を行使する形だった。裁判例でも、平成十四年改正前の制度が「代位訴訟」の形式だったことが確認されています。


「これ」


 私は言いました。


「同じ『四号住民訴訟』でも中身が変わってる」


「そうだ」


「転生者殺し」


「またそれか」


「だって現代の行政書士試験知識をそのまま昭和で使ったら間違えるじゃないですか!」


「だから条文の日付を見ろ」


「はい……」


 機関委任事務。


 外部監査制度。


 指定管理者制度。


 そして住民訴訟の四号。


 地方自治法。


 この法律、


 未来人に厳しい。


「そもそも」


 私は言いました。


「なんで四号を改正したんでしょう」


「未来の制度改正の理由なんざ俺に聞くな」


「ですよね」


 現代法では、


 住民が職員本人などを直接被告として自治体に代位して請求する形から、


 自治体の執行機関等に請求を求める形へ変わった。


 制度の仕組みを改め、


 地方公共団体側が持つ資料や証拠も訴訟で活用しやすくするなど、住民訴訟の審理を充実させる趣旨が説明されていました。


「未来って」


 相馬先輩が言います。


「何でも便利になるんだな」


「いや」


 私は即答しました。


「便利になるって単純な話でもないです」


「そうなのか」


「制度を変えれば、別の問題も出ます」


「じゃあ何で変える」


「今の制度で困ったことが積み上がるからです」


 自分で言って、


 少し納得しました。


 法律改正。


 受験生のころは、


 覚えることを増やす敵でした。


 でも。


 昭和の現場に来ると、


 改正前の制度が抱えていた不便さや緊張感が見える。


 未来の法律は、


 空から突然降ってくるわけじゃない。


 昔の現場で、


 誰かが困った跡にできている。


「住民訴訟も」


 私は言いました。


「制度が続きながら、形を変えていったんですね」


「今の俺には今の法律しか使えねえけどな」


「はい」


「未来がどう変わろうが」


 相馬先輩は言いました。


「長谷川のおっさんの期限は三十日だ」


「……強い」


「何が」


「現場主義」


「仕事しろって話だ」


 次。


 私はノートに、


 ――住民訴訟と国・地方の関係。


 と書きました。


「そこまでつなげるのか」


「今回、地方自治法シリーズなので」


「また知らねえ誰かに説明してんな」


「気のせいです」


 昭和六十三年。


 地方自治は、


 現代とは違う。


 今のように、


 自治事務。


 法定受託事務。


 という二本立てではない。


 機関委任事務がある。


 首長が、


 国の機関として事務を処理する場面が大量にある。


 国からの指揮監督も強い。


「地方自治って名前なのに」


 私は言いました。


「今よりずっと中央に縛られてる」


「そういう時代だ」


「国地方係争処理委員会もない」


「知らん」


「指定管理者制度もない」


「知らん」


「外部監査制度もない」


「未来講座やめろ」


「はい」


 でも。


 だからこそ。


 住民監査請求。


 住民訴訟。


 こういう、


 住民が自治体を監視する制度の存在感が大きく見えます。


「上から国に縛られて」


 私は言いました。


「下から住民に見られる」


「市役所も大変だな」


「沢渡課長が冷たい顔になる理由がちょっと分かります」


「同情すんな」


「してません」


 地方自治には、


 二つの方向があります。


 国に対する地方公共団体の自立。


 団体自治。


 そして、


 地方公共団体の中で住民が自治に参加する。


 住民自治。


「住民訴訟って」


 私は言いました。


「かなり住民自治っぽい制度ですね」


「そうだな」


「選挙まで待たない」


「うん」


「議員になる必要もない」


「うん」


「自分に直接損害がなくても、住民として自治体の違法な財布の使い方を裁判所へ持っていける」


「そういう制度だ」


 地方自治。


 というと、


 市長。


 議会。


 条例。


 そんな大きな言葉を思い浮かべます。


 でも。


 長谷川さんみたいな電器店のおじさんが、


 一枚の監査請求書から裁判所まで行く。


 それも、


 地方自治。


「主権者って」


 私は言いました。


「選挙の日だけ主権者になるんじゃないんですね」


 片桐所長が顔を上げました。


「当たり前だ」


「はい」


 短い。


 でも。


 たぶん今日一番大事なところです。


 私は、


 最後の整理に入りました。


「試験用に行きます」


「勝手にしろ」


「聞いてください」


「結局聞かせるんじゃねえか」


 住民訴訟。


 第一。


 対象。


 財務会計上の違法な行為、


 または怠る事実。


「不当は?」


「住民監査請求まで。住民訴訟は違法」


「よし」


 第二。


 原告になれる者。


 住民監査請求をした住民。


「前置」


「必要」


 第三。


 裁判所。


 普通地方公共団体の事務所所在地を管轄する地方裁判所。


 第四。


 同一請求について、


 住民訴訟が係属していれば別訴禁止。


 第五。


 出訴期間。


 原則、


 三十日。


 ただし、


 何から三十日なのかを区別。


 第六。


 性質。


 自己の法律上の利益の救済を目的とする主観訴訟ではなく、


 民衆訴訟。


 客観訴訟。


 第七。


 請求類型。


 差止め。


 取消し・無効確認。


 怠る事実の違法確認。


 四号請求。


「ただし」


 私は自分で止めました。


「昭和六十三年の四号は、現代法と同じ形じゃない」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「もう未来法で事故らねえな」


「たぶん」


「たぶん?」


「絶対です」


「信用ならんな」


 私は赤鉛筆で囲いました。


 ――昭和六十三年=旧四号・代位訴訟型。


 もう一度囲む。


 さらに二重丸。


「そんなに書く必要あるか」


「精神的な傷が深いんです」


 そこで。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「長谷川さんの件で、一番大事だったのは何だ」


「違法性の証拠」


「違う」


「え」


「もう一回」


「住民監査請求をしていたこと」


「それも大事だ」


「地方裁判所?」


「違う」


「旧四号?」


「違う」


 分からない。


 相馬先輩が煙草を消しました。


「期限だろ」


「あ」


 片桐所長が頷きます。


「どれだけ筋がよくても」


「はい」


「どれだけ証拠があっても」


「はい」


「訴訟できる期間を落とせば、そこで終わる」


「……はい」


 私は茶封筒を見ました。


 長谷川さんが、


 捨てずに持ってきた封筒。


 久世弁護士が、


 大事だと言った封筒。


 ただの紙です。


 でも。


 その紙に押された日付が、


 裁判所への道が開いている時間を示していた。


「法律を知ってるって」


 私は言いました。


「条文をいっぱい暗記することじゃないんですね」


「今さらか」


「今さらです」


 制度を知る。


 要件を知る。


 そして。


 いつ使わなければ消えるのかを知る。


 そこまで含めて、


 法律を使えるということ。


 私はノートの最後に、


 一行の覚え書きを書こうとしました。


 住民監査請求を経て、


 財務会計上の違法を、


 住民が裁判所へ――


「長えぞ」


 相馬先輩。


「まだ書いてません!」


「顔に書いてある」


「顔で文章読まないでください」


 少し考える。


 そして。


 書きました。


 ――監査で終わらなければ、住民が司法へつなぐ。ただし三十日は待たない。


「また三十日入れたな」


「忘れたくないので」


「覚え書きとしては悪くねえ」


「褒めた」


「気のせいだ」


 私はその下に、


 もう一行書きました。


 ――住民訴訟は、自分の財布ではなく、みんなの財布を守る裁判。


「二行になったぞ」


「こっちも捨てがたい」


「一行の覚え書きだろ」


「じゃあ合体」


 考える。


 かなり考える。


 そして、


 最後に書き直しました。


 ――住民訴訟は、監査の先で「みんなの財布」の違法を司法に問う――三十日を忘れるな。


「長い」


「内容重視です」


「試験前に読みにくい」


「じゃあ超短縮」


 私はその下に、


 大きく書きました。


 ――監査の次は司法。違法・三十日。


 相馬先輩が黙りました。


「どうです」


「試験前ならそっちだな」


「勝った」


「何にだ」


 窓の外。


 市役所の向こうに、


 湖畔保養所へ続く道が見えます。


 あの建物から、


 冷蔵庫も。


 テレビも。


 応接セットも。


 もう運び出されています。


 住民訴訟を起こしたからといって、


 時間が巻き戻るわけではありません。


 売却前の状態に、


 魔法みたいに戻るわけでもない。


 裁判に勝つかどうかも分からない。


 市の判断が、


 最終的に適法だとされるかもしれない。


 長谷川さんが負けるかもしれない。


 それでも。


 意味がないわけではない。


 一度、


 行政の中で、


 問題なし。


 とされた。


 でも。


 そのあと新しい資料が見つかった。


 なら。


 もう一度、


 別の目に見てもらう道がある。


 今度は、


 役所の中の監査委員ではなく。


 裁判所に。


 それが、


 住民訴訟です。


 住民が、


 自治体の代わりに行政を支配する制度ではない。


 住民が、


 好き嫌いで政策をひっくり返す制度でもない。


 財務会計上の違法。


 そこに絞って。


 司法へ問う。


 狭い。


 厳しい。


 前置もある。


 期限も短い。


 でも。


 道はある。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩が立ち上がります。


「はい」


「帰るぞ」


「待ってください」


「何だ」


 私は机の横にある、


 長谷川さんからもらった古い扇風機を指しました。


「これ、処分する話どうなりました?」


「所長が使うってよ」


「え?」


 奥を見る。


 片桐所長の机。


 例の扇風機が、


 ぶおん。


 ぶおん。


 盛大な音を立てて回っています。


「うるさくないですか」


「動く」


「それ答えになってません」


「捨てる理由がない」


「じゃあ電気ポットは?」


「使う」


「ラジオは?」


「使う」


「全部?」


「使える」


「片桐事務所、廃品回収所になってません?」


 相馬先輩が笑いました。


「不用財産じゃねえってことだ」


「財産管理の適正化ですね」


「そういうことにしとけ」


 私は扇風機の首振りを見ました。


 右。


 左。


 右。


 左。


 まるで、


 監査委員と裁判所。


 二つの目で、


 同じものを見ているみたいです。


「何ニヤニヤしてんだ」


「ちょっといい比喩を思いつきました」


「言うな」


「監査委員が右で――」


「言うな」


「裁判所が左」


「くだらねえ」


「分かりやすいでしょう!」


 片桐所長が、


 扇風機のスイッチを一段強くしました。


 ぶおおおん。


「うるさい!」


「動く」


「所長、それ便利な言葉になってます!」


 相馬先輩が腹を抱えて笑いました。


 私は扇風機に負けない声で言います。


「所長!」


「何だ」


「その扇風機、もし不当に高い値段で買ってたら監査請求しますからね!」


「誰が」


「私が!」


「住民か」


「……違います」


「却下」


「まだ出してません!」


「監査請求前置できねえな」


 相馬先輩まで乗ってきました。


「じゃあ住民訴訟もできない!」


「そうだ」


「救済不能!」


「諦めろ」


「地方自治法が職場の不正に冷たい!」


「市役所じゃねえからな」


 ぶおん。


 ぶおん。


 昭和六十三年の古い扇風機は、


 法律の改正なんて知るはずもなく、


 ただ左右へ首を振っていました。


 監査委員が、


 問題なしと言った。


 だから終わり。


 ではありません。


 でも。


 納得できないから裁判。


 でもありません。


 住民監査請求を経て。


 財務会計上の違法を見つめ。


 誰が訴えられるか。


 どこへ出すか。


 何を求めるか。


 いつまでか。


 その細い要件を全部そろえて。


 初めて、


 裁判所への道が開く。


 行政の中で閉じた扉を、


 司法がもう一度見る。


 その道を残しているのが、


 住民訴訟です。


 そして。


 その道へ走る人の横で、


 期限を数え、


 資料をそろえ、


 落とし穴を潰し、


 自分では越えられない線まで来たら、


 弁護士へきっちりバトンを渡す。


 それもまた、


 行政書士の戦い方なのでした。

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