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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 地方自治法

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347/695

[地方自治法・公の施設]現場編 「市長が嫌がっているから貸せません」の嘘。住民の集会所を“身内の建物”にしない、公の施設と不当な利用拒否

挿絵(By みてみん)

 鍵を持っている人が、建物の主人とは限りません。


 まして。


 税金で建てた建物なら、なおさらです。


 昭和六十三年。


 六月。


 梅雨入りした湖西市は、朝から細い雨が降っていました。


 片桐行政書士事務所。


 午前九時十二分。


 入口の戸が勢いよく開きました。


「こんなの、役所の私物じゃないでしょう!」


 第一声が、それでした。


 びっくりして、私は湯呑みを落としかけました。


「おっと」


 向かいの机から相馬先輩が手を伸ばし、私の湯呑みを受け止めます。


「ありがとうございます」


「茶くらい自分で守れ」


「今のは不可抗力です」


「役所相手でも、その言い訳は使うなよ」


 使いません。


 たぶん。


 入口に立っていたのは、五十代半ばほどの女性でした。


 濡れた紺色の傘。


 薄茶色のカーディガン。


 手には市役所の封筒。


 そして顔には、


 どう考えても納得していない人の表情。


「どうぞ」


 片桐所長が応接卓を指しました。


「話を聞きます」


 女性は椅子に座ると、封筒から一枚の紙を取り出しました。


「これです」


 机に置かれた紙を見る。


 湖西市中央公民館使用不許可通知書。


 申請者。


 西浜母親会。


 代表。


 高瀬美智子。


 利用目的。


 子どもの通学路安全対策に関する住民説明会。


 希望日時。


 六月二十五日午後六時から九時。


 使用場所。


 中央公民館大会議室。


 そして。


 不許可理由。


 ――施設管理上適当でないと認められるため。


「……また便利な日本語ですね」


 思わず言ってしまいました。


 相馬先輩が紙を取り上げます。


「何が適当じゃねえんだ」


「聞きました」


 高瀬さんが言いました。


「市役所へ行って、何が駄目なのかって」


「何て?」


「交通行政に批判的な内容だから、市の施設を使わせるのは好ましくないって」


 私は瞬きをしました。


「……市政批判だから?」


「そうです」


「危険物を使うとか」


「使いません」


「大声で騒ぐとか」


「普通の説明会です」


「営利目的?」


「違います」


「定員オーバー?」


「百人の部屋に、六十人くらいです」


「過去に問題を起こしたとか」


「ありません」


 相馬先輩が紙を机へ置きました。


「で、その安全対策ってのは何だ」


 高瀬さんの表情が少し曇ります。


「西浜小学校の前に、県道があるんです」


「知ってる」


「朝、トラックが多いでしょう」


「ああ」


「去年、子どもが一人、軽いけがをしました」


 私は背筋を伸ばしました。


「それで?」


「横断歩道を増やしてほしい。ガードレールもほしい。大型車の時間帯規制も検討してほしいって、市にお願いしてるんです」


「市の返事は?」


「難しい、ばかりです」


 なるほど。


「県道なら県の話もありますよね」


「そうなんです。でも市から県へ要望も出せるはずでしょう?」


「はい」


「だから、一度住民で話し合って、要望をまとめようとしたんです」


「それで中央公民館を借りようと」


「はい」


「拒否された」


「はい」


 高瀬さんは通知書を指で叩きました。


「しかも昨日、市役所の人に言われました」


「何を?」


「市長が、こういう運動を大きくされたくないと思っているから、と」


 事務所の空気が変わりました。


「誰が言った」


 相馬先輩の声が低くなります。


「公民館の窓口の方です」


「名前は」


「控えてあります」


 相馬先輩が少しだけ口角を上げました。


「いい相談者だ」


「褒め方が怖いです」


「記録を残す客はいい客だ」


「先輩、商売人ですね」


「仕事だ」


 でも。


 これは確かに大事です。


 誰が。


 いつ。


 どこで。


 何を言ったのか。


 行政相手の話になると、この四つが急に強くなります。


 高瀬さんは続けました。


「それで腹が立って」


「はい」


「じゃあ、民間の人に公民館を管理してもらえばいいでしょうって言ったんです」


「え?」


「市役所の人だと市長の顔色を見るなら、民間の会社に管理させれば公平になるでしょう?」


 私は、


「あ」


 と声を出しました。


 脳の中で。


 一つの単語が派手に点灯します。


 指定管理者。


「それです!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「指定管理者にすればいいんですよ!」


 高瀬さんが目を丸くします。


「指定……?」


「公の施設って、自治体が指定した民間団体なんかに管理させる制度があるんです。条例で手続とか管理基準とか業務範囲を決めて、議会の議決を経て――」


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「座れ」


「でも」


「座れ」


 嫌な予感。


 私はゆっくり座りました。


 相馬先輩が煙草の箱を机でとんと叩きます。


「また未来か」


「……たぶん」


「たぶんじゃねえ」


 私は目を閉じました。


 ここは。


 昭和六十三年。


 一九八八年。


 指定管理者制度。


 導入。


 平成十五年。


 ……ない。


「ない……」


「何が」


「指定管理者制度」


「当たり前だ」


「十年以上先です」


「俺に未来の年表を説明するな」


 私は両手で顔を覆いました。


 またです。


 行政法タイムトラベラー殺し。


 現代なら、


 市民会館。


 体育館。


 文化ホール。


 公園。


 そうした施設を民間企業やNPOなどの指定管理者が管理している例は珍しくありません。


 でも昭和六十三年。


 今の形の指定管理者制度はありません。


 つまり私は、


 存在しない制度で役所を殴りに行こうとしていました。


 完全に幽霊兵器です。


「じゃあ」


 高瀬さんが心配そうに言います。


「民間に管理してもらうことはできないんですか」


「今の制度では、少なくとも未来の私が考えた『指定管理者に丸ごと管理させる』という仕組みは使えません」


「未来?」


「あっ」


 やばい。


 相馬先輩が即座に言いました。


「こいつ寝不足なんです」


「ひどいごまかし方」


「黙れ」


 片桐所長が通知書を手に取りました。


「管理者の話は今は関係ない」


「そうなんですか?」


 高瀬さんが聞きます。


「誰が管理しているかより先に確認することがある」


「何でしょう」


「この公民館は、何のためにある施設か」


 私は顔を上げました。


 何のため。


 建物。


 会議室。


 市役所。


 市民。


 条例。


 頭の中に地方自治法の条文が浮かびます。


「公の施設」


 私は呟きました。


 所長が頷きます。


「そうだ」


 地方自治法二百四十四条。


 公の施設。


 普通地方公共団体が、


 住民の福祉を増進する目的をもって、


 その利用に供するための施設。


 道路。


 公園。


 体育館。


 図書館。


 公営住宅。


 そして。


 公民館。


「住民に使わせるためにある」


 私は言いました。


「そういうことですね」


「乱暴に言えばな」


 相馬先輩が答えます。


「でも」


 私は通知書を見ます。


「利用を拒否できないわけじゃないですよね」


「当然だ」


 何でも貸さなければならないわけではない。


 建物を壊すおそれがある。


 定員を大幅に超える。


 他人に危害を加える危険がある。


 施設の設置目的に明らかに反する。


 条例上の利用条件を満たしていない。


 そんな事情があれば、


 正当な利用拒否はあり得る。


 でも。


「市の政策に批判的だから」


 私は言いました。


「それって正当な理由なんですか」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「だから調べるんだよ」


     ◇


 まず見たのは、


 湖西市中央公民館条例。


 古い例規集。


 分厚い。


 重い。


 紙が黄色い。


 そして当然のように検索機能はありません。


「令和に帰りたい」


「帰れ」


「帰れません」


「じゃあめくれ」


 相馬先輩、未来人への配慮がゼロです。


 私は目次を探します。


 設置。


 名称。


 位置。


 使用許可。


 使用制限。


 使用料。


「ありました」


 使用を許可しないことができる場合。


 公の秩序を乱すおそれがあるとき。


 施設又は設備を損傷するおそれがあるとき。


 管理上支障があると認めるとき。


 その他条例所定の事情。


 私は指で追いました。


「『市政に批判的な集会』はありません」


「当たり前だ」


「でも最後の『管理上支障があると認めるとき』に入れるつもりなんじゃ」


「役所はそこへ突っ込んでくるだろうな」


 片桐所長が静かに言いました。


「だから事実を取れ」


「事実」


「同じ公民館で、ほかにどんな団体が使っている」


 なるほど。


 そこで高瀬さんの目が光りました。


「あります」


「何がです?」


「先月、市長を囲む会があそこで開かれました」


「市の行事?」


「違います。市長の後援会に近い人たちの集まりです」


 相馬先輩の煙草が止まりました。


「使用許可は?」


「出ています」


「ほかには」


「商工会の懇談会」


「政治的な話は?」


「駅前開発を推進する会も使ってました」


「市の政策に賛成する側?」


「そうです」


 私は思わず椅子から身を乗り出しました。


「じゃあ」


「待て」


 相馬先輩が止めました。


「まだ飛ぶな」


「はい」


「同じ条件か確認しろ」


 使用人数。


 時間帯。


 部屋。


 目的。


 過去のトラブル。


 設備利用。


 警備上の問題。


 それぞれ違う可能性はある。


 利用許可が出た一例だけで、


 即差別。


 とは言えない。


 でも。


 もし。


 似た条件で、


 市政に賛成する集会は許可。


 批判する集会は不許可。


 理由が政策的な不快感だけ。


 だとしたら。


「地方自治法二百四十四条三項」


 私は言いました。


「不当な差別的取扱いの禁止」


 片桐所長が頷きます。


「そこまで来たな」


 普通地方公共団体は、


 住民が公の施設を利用することについて、


 不当な差別的取扱いをしてはならない。


 さらに。


「二項」


 私は続けました。


「正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない」


「それだ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「行くぞ」


「どこへ」


「役所」


「またですか」


「紙が揃ったら次は口だ」


「先輩、行動が早すぎません?」


「お前は未来の制度を思い出す前に歩け」


 ぐうの音も出ません。


 湖西市役所。


 二階。


 総務課。


 雨の日の役所というのは、


 なぜか晴れの日より書類が多く見えます。


 湿気のせいでしょうか。


 たぶん違います。


 窓口の奥。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 沢渡課長。


 私たちの姿を見るなり、目を細めました。


「今週二度目ですね」


「数えてるんですか」


「目立つので」


 相馬先輩が通知書を机へ置きました。


「中央公民館」


「高瀬さんの件ですね」


「知ってるなら早い」


「何でしょう」


「使用不許可の理由」


「通知書に記載してあります」


「『施設管理上適当でない』」


「そうです」


「だから具体的に何が管理上適当じゃねえ」


 沢渡課長は眼鏡の位置を直しました。


「今回の集会は、市の交通行政に対する批判を目的とするものと聞いています」


 私は思わず口を挟みました。


「だから何です?」


「行政施設は、市民の対立を煽るような利用に供するべきではありません」


「対立?」


「はい」


「横断歩道を増やしてほしいって話し合うと、対立になるんですか」


「要求内容そのものの問題ではありません」


「じゃあ何の問題です?」


「運動化する可能性です」


 便利。


 可能性。


 行政法で便利すぎる言葉ランキングを作ったら、


 上位に入る気がします。


 相馬先輩が聞きました。


「条例のどこだ」


「何がでしょう」


「『市の政策を批判する集会は貸さない』って条文」


「そのような表現はありません」


「じゃあ不許可根拠は」


「管理上支障があると認められる場合です」


「支障って何だ」


「先ほど申し上げた通りです」


「だから具体的に言え」


 沢渡課長の視線が少し硬くなります。


 私は横から条例の写しを開きました。


「予定人数六十人」


「ええ」


「大会議室の定員百人」


「ええ」


「夜九時まで」


「許可時間内です」


「設備の特殊利用なし」


「そう聞いています」


「過去に騒乱や施設損傷を起こした団体ではない」


「承知しています」


「じゃあ、物理的な管理上の問題はないんですね」


「物理的な問題だけが管理上の問題ではありません」


 そう来ますよね。


 私は少し息を吸いました。


「先月、市長を囲む会が同じ大会議室を使ってますよね」


 沢渡課長が黙りました。


「駅前開発推進協議会も」


「それが何か」


「行政施策について意見を述べる集会という点では同じです」


「内容が違います」


「はい」


「目的も違う」


「違います」


「では比較にはなりませんね」


「いいえ」


 私は言いました。


「内容が違うからこそ、比較する意味があります」


 沢渡課長がこちらを見ます。


「市の政策に賛成する団体は使える」


「そのような基準ではありません」


「批判する団体は使えない」


「ですから」


「もし本当にそれが理由なら」


 喉が少し乾きます。


 それでも続けます。


「利用内容じゃなくて、意見の中身で扱いを変えてませんか」


 静かになりました。


 地方自治法二百四十四条。


 公の施設。


 住民の福祉を増進するための施設。


 正当な理由なしに利用を拒んではならない。


 不当な差別的取扱いをしてはならない。


 これは、


 役所が親切なら貸しましょう、


 という話ではない。


 役所の好みで、


 貸したり、


 貸さなかったりしてはいけない。


 そういうルールです。


「課長」


 相馬先輩が言いました。


「公民館は誰の建物だ」


「市の施設です」


「違う」


 沢渡課長の眉がわずかに動きます。


「市長の応接室じゃねえ」


「……」


「住民の利用に供するための公の施設だ」


 相馬先輩は条例の写しを机に置きます。


「役所が偉いんじゃねえ」


 来た。


 私は心の中で姿勢を正しました。


「条例が偉いんだ」


 沢渡課長が静かに相馬先輩を見ました。


「地方自治法もな」


 相馬先輩は続けます。


「貸したくねえなら、正当な理由を出せ」


「出しています」


「抽象論じゃなく具体的にだ」


「……」


「賛成意見には貸す。反対意見には貸さない。もしそんな運用してるなら、不当な差別的取扱いの問題になるぞ」


「断定は慎んでいただきたい」


「だから確認しに来た」


 相馬先輩は淡々と言いました。


「こっちはまだ断定してねえ」


 怖い。


 こういうときの先輩は怖い。


 怒鳴っているわけではないのに、


 逃げ道を一本ずつ塞いでいきます。


 沢渡課長が私たちを見回しました。


「そもそも」


 低い声。


「今回の問題は、公民館だけで完結する話ではありません」


「どういう意味です?」


 私が聞きます。


「県道の交通規制には、県や警察の判断が絡みます」


「はい」


「市だけで決められる話ではない」


「それは分かっています」


「上級官庁の方針もある」


 出ました。


 昭和。


 上。


 通達。


 この時代独特の重さを持つ言葉です。


「現在、交通安全対策については国や県の基準に沿った運用が求められています」


 沢渡課長は続けました。


「市が独自に住民運動を後押しするような形は避けたい」


 私は反射的に言いそうになりました。


「じゃあ国と協議すれば――」


 その瞬間。


 相馬先輩が肘で私の脇腹を小さく突きました。


「痛っ」


「黙れ」


「まだ何も」


「顔で分かる」


 現代の私は、


 国と地方は対等・協力。


 国の関与に不服があるなら、制度的に争う道もある。


 そんな地方分権後の頭で考えそうになります。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 機関委任事務が生きている時代。


 首長が、


 国の事務を国の機関として処理する。


 そんな構造がまだ残っている。


 国からの指揮監督。


 通達。


 上級庁。


 現代の感覚より、ずっと重い。


 私は一瞬、


 壁の高さにくらっとしました。


 未来なら。


 もっと地方が自分で判断できる。


 もっと対等にものを言える。


 でも今は。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「混ぜるな」


「はい」


「県道の交通規制の話と」


 所長が沢渡課長を見る。


「公民館の利用許可は別だ」


 あ。


「……そうか」


 私は思わず声を出しました。


 沢渡課長の視線が動きます。


 所長は続けました。


「国や県の方針に従う必要がある事務があるとしても」


「ええ」


「それで、市の公民館を使わせない理由になるのか」


 沢渡課長が黙りました。


「住民が何を要望するかと」


 片桐所長の声は穏やかです。


「その要望について話し合うため、公の施設を利用することは別問題だ」


 そこだ。


 私は完全に腑に落ちました。


 昭和の地方自治は、


 確かに国に縛られている。


 機関委任事務もある。


 通達も重い。


 市が自由にできない行政分野もある。


 だからといって。


 住民のために設置した公民館まで、


 市長や国の都合で自由に閉じていいわけじゃない。


 国との関係が縦なら。


 住民との関係には、


 別の条文が立っている。


 地方自治法二百四十四条。


「なるほど」


 私は小さく呟きました。


 相馬先輩が横目で見ます。


「やっと戻ってきたか」


「はい」


「未来から」


「はい」


 沢渡課長がため息をつきました。


「朝比奈さんは、ときどきどこへ行っているんですか」


「気にしないでください」


「気になりますが」


 片桐所長が鞄から一枚の書面を出しました。


「正式な照会書を出す」


 沢渡課長の目が細くなります。


「照会?」


「行政書士として、申請者から依頼を受けている」


 所長が紙を置きます。


 公民館使用不許可理由に関する照会書。


 内容は簡潔でした。


 第一。


 条例上、使用不許可に該当すると判断した具体的事実。


 第二。


 施設管理上の支障と認定した事情。


 第三。


 同一施設における過去の類似利用申請との取扱いの差異。


 第四。


 地方自治法二百四十四条第二項及び第三項との整合性。


 第五。


 再検討の予定の有無。


 感情はない。


 怒りもない。


 ただ。


 答えなければならない質問だけが並んでいる。


「回答期限は一週間」


 相馬先輩が言いました。


「短いですね」


 沢渡課長が言います。


「利用予定日が近い」


「……なるほど」


「それと」


 相馬先輩が続けます。


「これで駄目なら陳情書も準備する」


「議会へ?」


「必要ならな」


「ずいぶん大事にしますね」


「大事にしてるのはそっちだろ」


 相馬先輩は言いました。


「公民館一室貸すのに思想審査みてえな真似し始めたら、大事になる」


「思想審査という表現は不適切です」


「じゃあ違うって紙で説明してくれ」


 沢渡課長は返事をしませんでした。


 ただ。


 通知書と照会書を並べて、


 しばらく見ていました。


「検討します」


 やがて言いました。


「それだけですか」


 私が聞く。


「現時点では」


 役所語。


 翻訳。


 ――今ここでは何も約束しない。


 でも。


 門前払いではなくなりました。


 事務所へ戻る道。


 雨が少し弱くなっていました。


「所長」


 私は歩きながら聞きました。


「もし本当に市が管理上危険だって立証できたら、不許可もあり得るんですよね」


「ある」


「地方自治法二百四十四条二項があるから、絶対貸さなきゃいけない、ではない」


「そうだ」


「正当な理由があれば拒否できる」


「そうだ」


「じゃあ今回、勝負になるのは」


「正当な理由があるか」


「はい」


「それと」


 相馬先輩が言いました。


「同じような奴を、同じように扱ってるか」


「三項」


「ああ」


 不当な差別的取扱い。


 市政に賛成か。


 反対か。


 市長に近いか。


 遠いか。


 そんなもので、


 住民の施設利用を選別していないか。


「公の施設って」


 私は言いました。


「『市が持ってる施設』って意味だけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「住民の福祉を増進するために、住民の利用に供する」


「そこまで言えるなら分かってきたな」


「だから市役所自身の会議室とは違う」


「そういうことだ」


 私は前を向きました。


 まだ雨は降っています。


 でも。


 さっきより少し空が明るい。


「ところで先輩」


「何だ」


「指定管理者」


「忘れろ」


「いや、未来では重要なんです」


「今は昭和だ」


「法理編で絶対整理したいところです」


「法理編って何だ」


「独り言です」


 危ない危ない。


 三日後。


 湖西市役所から電話がありました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 出た。


「お世話になります」


『高瀬さんの中央公民館の件です』


「はい」


『不許可決定を再検討します』


 私は受話器を握り直しました。


「再検討?」


『正確に言えば、施設担当課から申請者へ再申請をお願いすることになります』


「結果は?」


『条件付きで許可する方向です』


「条件?」


『定員遵守。施設内での物品販売禁止。騒音を生じさせないこと。終了時刻厳守』


「……普通ですね」


『普通の条件です』


「市政批判は禁止?」


 少し間がありました。


『そのような条件は付しません』


 私は思わず笑いそうになりました。


「理由は?」


『内部で使用制限基準を確認しました』


「はい」


『今回の集会について、条例上の使用拒否事由に該当するとまで判断できる具体的事情がありませんでした』


「じゃあ最初の不許可は」


『担当者の判断が広すぎた、ということです』


「課長」


『何でしょう』


「それ、かなり役所語ですよ」


『役所ですから』


 強い。


「それから」


 沢渡課長が続けます。


『もう一点あります』


「はい」


『今後、公民館利用の審査について、集会内容が市政に賛成か反対かという事情を、それ自体で許否判断の材料にしないよう確認しました』


 私は黙りました。


『朝比奈さん?』


「聞いてます」


『そうですか』


「それって」


 私は言いました。


「今回だけじゃないんですね」


『何がです』


「高瀬さんだけ許可して終わりじゃない」


 少し沈黙。


『基準が曖昧なら、次も同じ問題が起きます』


「……はい」


『それでは』


 電話が切れました。


 私は受話器を置きました。


「どうだった」


 相馬先輩が聞きます。


「使えるそうです」


「そうか」


「条件付き」


「何だ」


「定員守れ。騒ぐな。時間守れ」


「当たり前じゃねえか」


「当たり前でした」


 奥で帳簿を見ていた片桐所長が顔を上げます。


「理由は」


「条例上、拒否できる具体的事情がなかった」


 所長が小さく頷きます。


「それでいい」


 その日の夕方。


 高瀬さんが事務所へ来ました。


「本当に?」


「本当にです」


「公民館、使えるんですか」


「はい」


 高瀬さんは椅子に座ったまま、


 しばらく何も言いませんでした。


「良かった……」


 声が、急に小さくなりました。


 怒っていた人が安心すると、


 人はこんなに小さな声になるのか。


 私は初めて知りました。


「ただ」


 私は言いました。


「市が交通規制やガードレール設置を認めたわけじゃありません」


「分かってます」


「説明会ができるだけです」


「それでいいんです」


 高瀬さんは笑いました。


「まずみんなで話さないと、何をお願いするかも決まりませんから」


 そうなんです。


 法律が今日守ったのは、


 ガードレールではありません。


 横断歩道でもありません。


 大型車規制でもない。


 もっと手前。


 住民が集まって、


 話す場所。


 その入り口です。


「子どもたちのために」


 高瀬さんが言いました。


「何が必要か、ちゃんと話してきます」


「はい」


「市をやっつける会じゃないですよ」


「分かってます」


 相馬先輩が横から言います。


「やっつける必要なんかねえよ」


 高瀬さんが振り向きます。


「え?」


「役所が間違えたら、条文置いて戻しゃいい」


 相変わらず言い方が物騒です。


「役所が偉いんじゃねえ」


 相馬先輩は新聞を広げながら続けました。


「条例が偉いんだ」


「今日は地方自治法もですよ」


 私が言うと、


「細けえな」


 と言われました。


 細かくありません。


 そこ大事です。


 六月二十五日。


 夜八時五十分。


 片桐行政書士事務所。


 閉所寸前。


 電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『朝比奈さん?』


「高瀬さん?」


『今、公民館からです』


「どうでした?」


『終わりました』


「問題ありませんでした?」


『何にも』


 電話の向こうから、人の声が聞こえます。


 椅子を片付ける音。


 机を動かす音。


 誰かが笑う声。


『六十八人来ました』


「定員内ですね」


『ちゃんと守りました』


「さすがです」


『それでね』


「はい」


『市役所の交通担当の人も来てくれました』


「え?」


『話を聞きたいって』


 私は思わず相馬先輩を見ました。


「先輩」


「聞こえてる」


 高瀬さんが続けます。


『すぐ全部はできないけど、危険箇所を一緒に見てくれるって』


「良かったですね」


『まだ何も決まってませんよ』


「はい」


『でも』


 少し間があって。


『話す場所があるって、大事ね』


 その言葉だけが、


 妙に胸に残りました。


「そうですね」


『ありがとう』


 電話が切れます。


 私はしばらく受話器を見ていました。


「終わったか」


 相馬先輩が聞きます。


「はい」


「じゃあ帰るぞ」


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、できました」


「聞いてねえ」


「聞いてください」


「嫌だ」


「所長」


「言え」


 強制参加。


 私は少し考えました。


「公の施設は」


 窓の外。


 雨はもう止んでいます。


 遠くに中央公民館の灯りが見えます。


「役所が住民に貸してあげる建物じゃない」


 二人が黙っています。


「住民に使ってもらうために、役所が預かっている建物なんですね」


 片桐所長が少しだけ頷きました。


「悪くない」


「本当ですか」


「ただし」


「はい」


「『何でも使わせろ』と覚えるな」


「正当な理由があれば拒否できる」


「そうだ」


「でも理由なく拒めない」


「そうだ」


「不当に差別もできない」


「そうだ」


 私は机の端に置いてあったメモ帳へ書きました。


 ――公の施設は、役所の持ち物ではなく、住民のための場所。


「それが一番覚えやすいです」


 相馬先輩が覗き込みます。


「試験答案には書くなよ」


「分かってます」


「二百四十四条って書け」


「夢がない」


「試験に夢を求めるな」


 ひどい。


 翌朝。


 片桐行政書士事務所。


 私は新聞を読みながら、昨日の事件を思い返していました。


 公の施設。


 住民の福祉を増進する目的。


 利用に供する施設。


 設置と管理は条例。


 正当な理由のない利用拒否は禁止。


 不当な差別的取扱いも禁止。


 そして。


 指定管理者。


 ……未来。


 私はため息をつきました。


「どうした」


 相馬先輩が聞きます。


「昨日の話です」


「終わっただろ」


「現代だったら、指定管理者制度も論点になるのになって」


「まだ言ってんのか」


「重要なんですよ」


「存在しねえ制度で仕事するな」


「分かってます」


「じゃあ忘れろ」


「でも十五年くらいしたらですね」


「知らん」


「法人その他の団体を指定して、公の施設を管理させられるようになって」


「知らん」


「指定には議会の議決が必要で」


「知らん」


「利用料金を指定管理者の収入にできたり」


「うるせえ」


「大事なんです!」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「こはる」


「はい」


「今は昭和六十三年だ」


「はい」


「今日来る客に使える法律を覚えろ」


「はい……」


 正論が強い。


 未来の制度を百個知っていても、


 今日使えないなら、


 今日の相談者は救えません。


 でも。


 逆も同じ。


 昭和の制度が窮屈でも。


 新しい制度がまだなくても。


 今ある条文の中に、


 ちゃんと住民を守る武器はある。


 派手じゃない。


 国に逆らう制度でもない。


 市長を倒す制度でもない。


 ただ。


 住民のためにつくった施設を、


 住民のために使わせる。


 その当たり前を守る条文です。


「先輩」


「何だ」


「私、分かりました」


「何が」


「地方自治って、国と地方の権限争いだけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「住民と役所の距離の話でもある」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「やっと入口だな」


「厳しい」


「自治って字を見ろ」


「はい?」


「自分で治める、だろ」


「……はい」


「役所だけで治めるって意味じゃねえ」


 私は少し黙りました。


 そうか。


 だから公民館がある。


 だから図書館がある。


 だから公園がある。


 だから道路がある。


 地方自治法が守っているのは、


 役所の権限だけじゃない。


 そこで暮らす人の、


 使う権利。


 集まる場所。


 生活そのもの。


「じゃあ今日の教訓、修正版です」


「またか」


「聞いてください」


「嫌だ」


「所長」


「言え」


 二日連続の強制参加。


 私は胸を張りました。


「公の施設は、市長の建物じゃない」


「うん」


「役所の都合で、住民を選ぶ場所でもない」


「うん」


「住民のためにつくったなら、住民のためのルールで使わせる」


 片桐所長が頷きます。


「それでいい」


「よし」


 相馬先輩が煙を吐きました。


「じゃあ、その住民のための場所へ行ってこい」


「え?」


「中央公民館」


「何でです?」


「高瀬さんが忘れ物した」


「何を」


「傘」


「本人が取りに行けばいいじゃないですか」


「ついでに昨日の使用状況、写真撮ってこい。机の傷とか確認する」


「私が?」


「見習いだろ」


「公の施設を便利に使ってません?」


「正当な理由がある」


「どんな?」


「仕事だから」


「強い!」


 私は鞄を持ちました。


 事務所を出る。


 昨日の雨が嘘みたいに、


 空は晴れていました。


 中央公民館へ向かう道。


 子どもたちが集団登校しています。


 西浜小学校の方向へ歩いていく。


 その先には、


 例の県道。


 危険な交差点。


 まだガードレールは増えていません。


 横断歩道も変わっていません。


 何も解決していないように見えます。


 でも。


 昨夜、


 六十八人が一つの部屋に集まった。


 話した。


 役所の職員も聞いた。


 次は現場を一緒に見る。


 法律が動かしたのは、


 たった一枚の使用許可です。


 けれど。


 住民が集まれる場所を取り戻せば、


 その先で、


 住民自身が町を動かし始める。


 地方自治。


 その言葉が、


 昨日より少しだけ分かった気がしました。


 私は中央公民館の看板を見上げます。


「公の施設、か」


 鍵を開けるのは役所。


 条例を作るのは議会。


 管理するのも市。


 でも。


 そこを使って町をつくるのは、


 住民です。

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