[地方自治法・直接請求]現場編 「市長が決めたんだから、住民は従うしかない」の嘘。五十分の一の署名が議会を動かす、昭和の直接民主制
選挙は、四年に一度です。
でも。
町で困ることは、四年に一度しか起きないわけではありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の相談者は、三人いました。
一人目。
魚屋の主人。
二人目。
乾物屋のおばさん。
三人目。
なぜかものすごく怒っている和菓子屋のおじいさん。
「勝手に決めやがった!」
入ってくるなり、おじいさんが机を叩きました。
どん。
湯飲みが跳ねました。
「ちょ、ちょっと」
私は慌てて押さえます。
「机に罪はありません」
「市長に言っとるんだ!」
「市長は机ではありません!」
「分かっとる!」
分かってるんだ。
相馬先輩が煙草をくわえたまま新聞から顔を上げました。
「何を決めた」
「駅前朝市だ!」
魚屋の主人――杉山さんが、丸めた市の広報紙を机に置きました。
大きな見出し。
――駅前再整備に伴う朝市区画の整理について。
駅西口。
川瀬さんが花を売っているあの一帯から、少し南へ行った場所。
毎月第一、第三日曜日に、地元の商店や農家が簡易な露店を出している小さな朝市がありました。
魚。
野菜。
乾物。
団子。
漬物。
昭和の朝は、だいたい茶色い食べ物が強い。
その朝市について、市が翌年度から大幅に区画を縮小する方針を決めたというのです。
「二十六店あったのを、八店にするそうです」
乾物屋の竹下さんが言いました。
「八店?」
「はい」
「どうやって選ぶんです?」
「市が選考するそうです」
「基準は?」
「それが分からない」
嫌な予感。
このところ私は、役所の「基準はあります」に敏感になっています。
「理由は?」
「駅前の景観統一と、再整備です」
また駅前整備。
この町、駅前を整備するたびに誰かが事務所へ来ます。
「市役所には聞いたんですか」
「聞いた!」
和菓子屋のおじいさん――矢島さんがまた机を叩きました。
どん。
「だから机」
「すまん」
素直。
「何て言われました?」
「市の方針です、と」
「それだけ?」
「商業振興と駅前環境の整備を総合的に勘案した、と」
出ました。
役所用語。
総合的に勘案。
たいてい何でも入る魔法の箱です。
「市議会には?」
片桐所長が聞きました。
杉山さんが苦い顔をします。
「議員にも頼みましたよ」
「何と」
「『話は聞きます』」
「それで?」
「三か月経っても聞いてるだけだ!」
なるほど。
選挙で選んだ議員へ頼む。
議員が議会で動く。
本来、それが地方自治の基本です。
代表を選び、その代表が意思決定する。
間接民主制。
でも。
代表者が動かないとき。
住民には、本当に何もできないのでしょうか。
「だったら」
私は口を開きました。
「管理を商店街に任せたらどうです?」
三人が私を見る。
「管理?」
「はい。市が全部やるんじゃなくて、商店街を指定管理者にして――」
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「今、何年だ」
嫌な質問です。
「昭和六十三年です」
「指定なんちゃらって何だ」
「……ですよね」
やりました。
未来人。
また地雷を踏みました。
現代なら、公の施設の管理に指定管理者制度という発想があります。
地方公共団体が指定した民間事業者などに管理を行わせる制度。
でも。
昭和六十三年には、そんな制度はありません。
「ないんですか」
杉山さんが聞きました。
「ありません」
「さっきあるって」
「未来では」
「未来?」
「忘れてください」
最近こればっかりです。
私は額を押さえました。
地方自治法。
現代の私は、
地方分権。
自治事務。
法定受託事務。
指定管理者。
国地方係争処理委員会。
そんな言葉に囲まれて勉強してきました。
でも。
ここは昭和六十三年。
機関委任事務が当たり前に存在し、
国の通達が地方行政を強く縛り、
今よりずっと中央集権色が濃い時代。
地方自治。
という言葉から想像するほど、
地方が自由に何でも決められる世界ではありません。
「……詰んでません?」
私は小声で言いました。
「何がだ」
「市が方針を決めた。議員も動かない。指定管理者も使えない」
「だからどうした」
「どうしたって」
相馬先輩は煙草を灰皿へ押しつけました。
「住民まで消えたのか?」
「え?」
「地方自治法に、住民はいねえのかって聞いてんだ」
私は止まりました。
住民。
議会。
長。
そして。
「……直接請求」
「やっと起きたか」
相馬先輩が言いました。
机の向こうで、三人の相談者が首をかしげます。
「直接、何です?」
「請求です」
私は言いました。
「議員さんを通さず、住民自身が地方公共団体に一定の行動を求める制度があります」
矢島さんが身を乗り出しました。
「市長に文句を言えるのか」
「文句ではありません」
「じゃあ何だ」
「法律上の手続です」
その言葉で。
三人の顔が少し変わりました。
お願い。
陳情。
要望。
それとは違う。
地方自治法が用意した、住民自身の手続。
「何を請求できる」
片桐所長が私に聞きました。
抜き打ち試験です。
「大きく四つです」
指を折ります。
「条例の制定・改廃」
一つ。
「事務監査」
二つ。
「議会の解散」
三つ。
「議員、長、それから一定の役員の解職」
四つ。
矢島さんの目が光りました。
「市長を辞めさせられるのか!」
「そこ食いつかないでください!」
「市長を辞めさせるなら俺は署名するぞ!」
「いきなり最終兵器を出さない!」
相馬先輩が鼻で笑います。
「じいさん。長の解職請求は簡単じゃねえぞ」
「何人要る」
「この市の規模なら、原則、有権者の三分の一だ」
「三分の一!?」
「しかも署名集めて終わりじゃねえ。その後、住民投票だ」
「……多いな」
「多いから首長を気分で引きずり下ろせねえんだよ」
矢島さんは少し残念そうでした。
そこ残念がるところじゃありません。
「今回、本当に市長を辞めさせたいんですか」
私は聞きました。
「いや」
「即答ですね」
「朝市を残したい」
「ですよね」
目的と手段。
ここを間違えると、法律は急に暴走します。
「だったら」
私はノートを開きました。
「条例を作る、という方法があります」
三人が黙りました。
「条例?」
「はい」
「市長が決めるんじゃないのか」
杉山さんが言います。
「条例は議会が議決します」
「じゃあ結局、議員じゃないか」
「最終的に議決するのは議会です」
「ほら」
「でも」
私はペンを置きました。
「議会に、その条例案を審議させるところまで、住民自身の請求で持っていけます」
空気が変わりました。
「……そんなことできるのか」
「できます」
条例制定・改廃の直接請求。
選挙権を持つ住民が、
一定数以上の署名を集め、
代表者から長へ請求する。
必要なのは。
「有権者の五十分の一以上です」
「五十分の一?」
竹下さんが聞き返しました。
「はい」
杉山さんが指を動かし始めます。
「仮に有権者が五万人なら……」
「千人」
「千人……」
多い。
でも。
三分の一とは桁が違う。
「千人なら」
矢島さんが呟きました。
「集められん数じゃない」
「まだ署名集めるって決まってませんからね」
「朝市に毎回何人来ると思っとる」
目が怖い。
この人、本当に動きそうです。
片桐所長が言いました。
「先に、何を条例にしたいのか決めろ」
「朝市を残す条例だ!」
「その書き方じゃ駄目だ」
「なんでだ」
「法律は願い事を書く紙じゃない」
所長は白紙を一枚取りました。
「市の方針に腹を立てたから、朝市を永久に残せ」
一本線。
「違う」
「じゃあ?」
「駅前広場を利用した定期市について、利用者選定の基準、手続、募集方法、使用条件を条例で定める」
私は思わず所長を見ました。
「なるほど」
朝市を絶対残せ。
ではない。
市が誰を残し、
誰を外し、
何を理由に選ぶのか。
そこを制度にする。
「役所が勝手に八店選ぶな、ではなく」
私は言いました。
「選ぶなら基準を条例で作って、公平にやれ」
「そういうことだ」
相馬先輩が言いました。
「役所が偉いんじゃねえ」
来た。
「条例が偉いんだ」
今日はいつもより重みがあります。
住民が条例案を出す。
議会にかけさせる。
通れば。
行政はその条例に従って動かなければならない。
「よし」
矢島さんが立ち上がりました。
「署名だ!」
「待って!」
「何だ!」
「まだ大事な確認があります!」
この人、点火が早すぎる。
「条例なら何でも直接請求できるわけじゃありません」
「何が駄目だ」
「地方税の賦課徴収」
「税金?」
「はい。それから分担金、使用料、手数料の徴収に関する条例」
矢島さんが止まりました。
「……待て」
「はい」
「朝市の場所代を安くしろ、という条例は?」
危ない。
私は相馬先輩を見る。
先輩が顎をしゃくりました。
自分で答えろ。
はい。
「それが使用料の徴収に関する条例なら、直接請求の対象にはできません」
「なんでだ!」
「地方自治法が除外しているからです」
「住民の制度じゃないのか!」
「だからって税金や使用料まで何でも直接請求できるわけじゃないんです!」
矢島さんが椅子へ戻ります。
「法律、急に冷てえな」
「だいたいいつも冷たいです」
でも。
そこで終わりではありません。
「今回の目的は、場所代を下げることじゃないですよね」
「違う」
「誰を利用させるか。その手続と基準を整えること」
「そうだ」
「なら、条例案の内容をそこに絞る」
所長が頷きます。
「使用料の徴収を触るな」
「はい」
「行政が朝市区画を整理する権限自体を全部奪うような書き方もするな」
「はい」
「何を決めたい」
「選定基準」
「ほかは」
「募集方法」
「ほかは」
「決定理由の通知」
相馬先輩が言いました。
「不利益を受ける奴に、なぜ外されたのか分かるようにな」
「はい」
書類が。
急に生き物みたいになってきました。
単なる、
朝市を守ってください。
というお願いではない。
行政が朝市区画を決める。
その権限は認める。
でも。
選ぶ基準を明らかにしろ。
公平に募集しろ。
理由を示せ。
そういう制度を条例にする。
「それなら、市長が嫌だと言えば終わりですか」
竹下さんが聞きました。
「終わりません」
私は言いました。
「条例制定の直接請求が正式に成立したら、長には手続上やることがあります」
「何を?」
「まず請求の要旨を公表します」
「公表?」
「はい」
つまり。
市役所の奥で、
そんな話は聞いてません。
とはできなくなる。
住民が条例制定を求めている。
そのこと自体が表へ出る。
「それから」
私は続けました。
「長は請求を受けた日から二十日以内に議会を招集して、自分の意見を付けて条例案を議会に出します」
三人とも黙りました。
矢島さんが聞きます。
「市長が反対でも?」
「反対意見を付けることはできます」
「でも議会には出す?」
「はい」
「握り潰せない?」
「正式な直接請求なら、その手続に乗せる必要があります」
矢島さんが。
ゆっくり笑いました。
「面白えな」
怖い。
何かに目覚めています。
「ただし」
相馬先輩が割って入りました。
「議会に出せば必ず通るわけじゃねえぞ」
「え?」
「直接請求は、住民が条例を勝手に成立させる制度じゃない」
「……違うのか」
「長へ請求して、議会へ付議させる。そこで議会が審議して決める」
「否決もある?」
「ある」
そこは大事です。
直接民主制。
とはいっても。
条例制定・改廃請求では、住民投票でその条例が直接成立するわけではありません。
住民が議会へ議題を持ち込む。
議会を動かす。
そこまでが強い。
でも最後の議決は議会です。
「だったら意味ないじゃないか」
杉山さんが言いました。
「否決されたら終わりだろ」
「違います」
口から先に出ました。
三人が私を見る。
「……何が違う」
「議員にお願いして、取り上げてもらえるか待つのと」
私は机の上の広報紙を指しました。
「法律上の手続で署名を集めて、市長に二十日以内に議会を招集させて、正式な議案として審議させるのは、全然違います」
自分で言って。
少し鳥肌が立ちました。
これだ。
直接請求。
成立を保証する制度ではない。
でも。
無視させない制度なのです。
翌日。
私たちは市役所へ行きました。
また。
二階。
総務課。
「最近よく会いますね」
沢渡課長が言いました。
「私もそう思います」
「今度は何です?」
「朝市です」
沢渡課長の眼鏡が少し光りました。
「ああ」
「八区画に減らすそうですね」
「駅前再整備計画上の措置です」
「選定基準は」
「現在、商工観光課で検討しています」
「公表しますか」
「必要に応じて」
「必要に応じて、って誰が決めます?」
「市です」
乾いています。
相変わらず見事な乾燥具合。
「なら」
相馬先輩が封筒を机に置きました。
「条例制定の直接請求を検討する」
沢渡課長の手が止まりました。
ほんの少しだけ。
「……直接請求ですか」
「朝市区画の利用者選定について、条例化を求める」
「随分大げさですね」
「大げさかどうかは住民が決める」
「駅前再整備は市の政策判断です」
「政策判断だから条例で縛れねえ、とはならんだろ」
「内容によります」
「だから内容を詰めに来た」
沢渡課長は椅子へ座り直しました。
「市としては、行政運営の柔軟性を損なう条例には賛成できません」
「反対すりゃいい」
「え?」
「市長が反対意見付けるのは自由だろ」
相馬先輩が言います。
「だが正式に要件満たして請求されたら、なかったことにはできねえ」
空気が変わります。
沢渡課長は私たちを見ました。
「署名数をご存じですか」
「有権者総数の五十分の一以上」
私は答えました。
「請求できる者は?」
「議員と長の選挙権を有する者」
「誰でも住民ならいいわけではありません」
「分かっています」
直接請求の権利を持つのは、
単にそこへ住んでいる人すべてではない。
その地方公共団体の議会議員や長の選挙権を持つ者。
当時の制度上、外国人住民にはその選挙権がない。
だから直接請求の主体にもなれません。
住民。
という日常語と。
法律上、直接請求権を持つ者。
は、完全には同じではない。
「請求内容は?」
沢渡課長が続けます。
「朝市利用料の減免条例ではありません」
「ほう」
「利用者の選定基準、募集方法、決定理由の明示を制度化する条例です」
「使用料には触れない?」
「触れません」
沢渡課長の目が細くなりました。
そこまで確認済みか。
そういう顔です。
「市長に提出して終わりだと思っていませんか」
「思ってません」
「最終的には議会です」
「はい」
「議会が否決することもある」
「はい」
「なら」
沢渡課長は指を組みました。
「何のためにそこまでします?」
私は少し迷いました。
法律の答えなら簡単です。
直接民主制。
住民自治。
直接請求。
でも。
たぶん今、問われているのはそういうことじゃない。
「話を」
私は言いました。
「話を、正式に始めるためです」
沢渡課長が私を見る。
「今までは、朝市の人たちが担当課にお願いして」
「ええ」
「議員さんにも頼んで」
「ええ」
「でも、市は方針です、議員さんは話を聞きます、で止まってる」
私は封筒に手を置きました。
「直接請求なら、要件を満たせば、条例案として議会の机に乗ります」
「……」
「市長が反対なら、反対意見を付ければいい」
「……」
「議員が反対なら、議会で反対すればいい」
「……」
「でも、誰も『聞いてません』では逃げられない」
静かになりました。
沢渡課長が眼鏡を外しました。
布で拭く。
この人が考えるときの癖です。
「朝比奈さん」
「はい」
「直接請求は、市の政策を住民が好き勝手に上書きする制度ではありません」
「分かっています」
「条例案も、法令に反する内容では駄目です」
「はい」
「市に裁量が必要な部分もある」
「はい」
「それでもやると?」
「やるかどうか決めるのは、私じゃありません」
私は言いました。
「署名する人たちです」
沢渡課長は少し黙ってから、
「……そうですね」
と言いました。
その一言。
小さい。
でも。
なんだか勝った気がしました。
事務所へ戻ると。
杉山さんたちが待っていました。
「どうだった!」
矢島さんが立ち上がります。
「まだ何も勝ってません」
「またそれか」
「法律の手続は一日で大団円にならないんです」
「で?」
「市は、条例制定の直接請求そのものを否定はしていません」
「当然だろ」
「当然なんですけど」
私は笑いました。
「その当然を確認するのが大事なんです」
片桐所長が机へ一枚の紙を置きました。
「条例案のたたき台だ」
全員が集まります。
仮称。
湖西市駅前定期市利用手続条例。
一、募集は公示する。
二、利用者の選定基準をあらかじめ明らかにする。
三、選定に当たっては業種、継続性、安全、通行への影響等を考慮する。
四、不選定の場合は、その理由を通知する。
「これで朝市は残るのか」
杉山さんが聞きました。
「残るとは言えません」
私は答えました。
「八店になる可能性もあります」
「じゃあ」
「でも」
片桐所長が言いました。
「誰を八店にするかを、役所の胸の内だけで決めにくくなる」
竹下さんが条例案を見つめます。
「……それでいいかもしれない」
杉山さんが振り向きました。
「いいのか?」
「だって」
彼女は静かに言いました。
「私だけ残ればいいわけじゃないもの」
その言葉に。
部屋が少し静かになりました。
「魚屋さんが落とされても嫌だし」
「おい」
「矢島さんの団子が落とされても」
「団子は残る!」
「なんでそこだけ自信あるんですか」
「人気商品だ!」
「そういう基準を先に決めましょう、って話です」
笑いが起きました。
それから。
署名集めの準備が始まりました。
誰が請求代表者になるか。
どういう条例案にするか。
誰に説明するか。
誰なら有効に署名できるのか。
そして。
何より。
朝市を残せ。
だけで署名を集めない。
「何の条例なのか説明してください」
私は何度も言いました。
「市と喧嘩する署名じゃありません」
「じゃあ何だ」
「市が朝市の利用者を選ぶなら、その決め方を見えるようにする条例です」
「長いな」
「でも正確です」
「『勝手に決めるな条例』でいいだろ」
「よくありません!」
矢島さんは本当に最後まで雑でした。
二週間ほどして。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課、沢渡です』
最近この声を聞く回数が多い。
「はい」
『朝市の件ですが』
「何かありました?」
『市の内部で、選定基準案を公表する方向になりました』
私は固まりました。
「……条例ができる前に?」
『まだ条例制定の直接請求は提出されていませんからね』
「そうですけど」
『正式な請求になれば、議会招集や市長意見の作成など、こちらにも対応が必要になります』
「はい」
『その前に、現在の運用で改善できる点は改善することになりました』
思わず笑いそうになります。
「それ、直接請求されたくないからですか」
『合理的な行政運営です』
「またそれ」
『選定基準を公表し、朝市出店者との説明会も開きます』
「八店に減らす方針は?」
『そこは変更していません』
「じゃあ、まだ問題は残りますね」
『ええ』
沢渡課長はあっさり認めました。
『ですから、直接請求するかどうかは住民の皆さんが決めればいい』
「止めないんですか」
『止める権限がありません』
少しだけ間。
『それが制度でしょう』
「……はい」
電話が切れました。
私は受話器を見ました。
また。
敵なのか先生なのか分からなくなりました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「市が、選定基準を公表するって」
「へえ」
「説明会も開くそうです」
「署名まだ出してねえのにな」
「はい」
片桐所長が帳簿から顔を上げます。
「それでいい」
「でも、まだ条例にはなってません」
「だからどうした」
「え?」
「制度を使う目的は、制度を使い切ることじゃない」
私は黙りました。
「住民の要求が行政に届いて、運用が変わるなら、それも前進だ」
「……はい」
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「市が説明会開いたくらいで、全部解決した顔すんなよ」
「してません」
「条例化する意味があると思えば、署名を続ける」
「はい」
「今の運用改善で足りると思えば、止める」
「はい」
「決めるのは誰だ」
私は答えました。
「住民です」
その日の夕方。
杉山さんたちが来ました。
市の説明会の知らせを見せると、
矢島さんが鼻を鳴らしました。
「急に話を聞く気になったな」
「そうですね」
「署名が怖くなったか」
「怖いというか」
私は少し考えました。
「無視できない手続が後ろにあるって分かったからだと思います」
杉山さんが条例案を手に取ります。
「署名は続けるよ」
「いいんですか」
「ああ」
「説明会は開かれますけど」
「今の課長がちゃんとしてても、次の課長までちゃんとしてるとは限らんだろ」
私は。
少し驚きました。
「だから基準を条例にしておきたい」
杉山さんが言います。
「役所の人を信用しないって意味じゃない」
紙を指で叩く。
「人じゃなくて、仕組みにしておきたいんだ」
片桐所長が、ほんの少し頷きました。
「それが条例だ」
私はその言葉をノートに書き留めました。
人を信じないためではない。
人が替わっても続くようにするため。
条例。
そのとき矢島さんが言いました。
「ところで」
「はい」
「署名、もう三百二十人集まったぞ」
「えっ」
「昨日の朝市で」
「早くないですか!?」
「団子買った奴には全部声かけた」
「署名を購入特典みたいに言わないでください!」
「ちゃんと説明したぞ!」
「何て?」
「朝市を市役所の好き勝手にさせない条例だ!」
「雑!」
「だいたい合っとる!」
「だいたいで法的手続を走らせないで!」
事務所に笑い声が広がりました。
窓の外。
夕方の駅前を、自転車が何台も通っていきます。
市役所がある。
議会がある。
市長がいる。
議員がいる。
そして。
そのどれでもない場所に、
住民がいる。
私はずっと、
地方自治というのは、
首長と議会の仕組みを覚える科目だと思っていました。
でも違う。
代表者を選んだら、
住民は次の選挙まで黙って待つ。
そんな制度ではない。
条例を作ってほしい。
行政の仕事を監査してほしい。
議会を解散してほしい。
議員や長を辞めさせたい。
要件は厳しい。
署名もいる。
請求先も違う。
請求したから願いが必ず通るわけでもない。
それでも。
地方自治法は、
住民自身が政治へ手を伸ばす道を残している。
「先輩」
「何だ」
「今日の教訓、分かりました」
「聞いてねえぞ」
「言わせてください」
「嫌だ」
私は無視しました。
「選挙で代表を選んでも、住民の出番は終わらない」
相馬先輩が少しだけこちらを見ます。
「……まあな」
「直接請求は、住民が議会の外から自治を動かす非常口なんですね」
「非常口?」
「普段使いじゃない。でも、扉はちゃんとある」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「悪くねえ」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またです。
矢島さんが条例案を畳みながら言いました。
「よし。明日も署名だ」
「説明は正確にしてくださいね」
「分かっとる!」
「使用料を安くしろって話は入れないでください」
「分かっとる!」
「市長を辞めさせる署名でもないですよ」
「それもついでに――」
「駄目です!」
「三分の一だろ?」
「覚えなくていいところだけ覚えないでください!」
全員が笑いました。
その笑いの向こうで。
条例案の白い紙が、夕日の中に置かれていました。
ただの紙です。
まだ条例でもない。
まだ議案ですらない。
議会で否決されるかもしれない。
市長が反対意見を付けるかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
それでも。
昨日まで、
「市の方針です」
の一言で閉じていた話が、
今は、
「では議会で話しましょう」
というところまで来ている。
その距離を縮めたのは、
偉い議員でも、
強い市長でもありません。
魚屋。
乾物屋。
団子屋。
そして、
その町で一票を持つ人たちでした。
私はノートの端に、小さく書きました。
――地方自治は、見ているだけでは自治にならない。
すると相馬先輩が横から覗き込みます。
「何書いてんだ」
「今日の覚え書きです」
「ならもう一行書いとけ」
「何を?」
先輩は条例案を指で叩きました。
「五十分の一は、数字じゃねえ」
「え?」
「それだけ集まれば、役所も議会も『聞こえなかった』とは言えなくなる人数だ」
私は少しだけ笑いました。
昭和六十三年。
指定管理者もありません。
国と地方が対等だと言い切れる時代でもありません。
役所は今よりずっと上を見て仕事をし、
住民は今よりずっと遠くから役所を見上げています。
それでも。
地方自治法には、
住民から役所へ伸びる道がありました。
細いけれど。
署名を一つずつ積み重ねれば、
その道は、
議会の扉まで続いています。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




