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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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[行政手続法1条・目的]現場編 「市役所のやることですから、公平です」の罠。結果だけ告げる行政と、誰が見ても同じ手続

挿絵(By みてみん)

 役所の手続は、公平であるだけでは足りません。


 公平に見えなければ、人は納得できないのです。


 逆に言えば。


 どれほど立派な結論でも、


 誰が。


 何を見て。


 どういう順番で。


 どう決めたのか。


 そこが真っ暗なら、疑われても仕方がありません。


 ――ということを、私は一枚の不採択通知から思い知ることになりました。


「補助金、落とされました」


 昭和六十三年。


 午後二時すぎの片桐行政書士事務所。


 私、朝比奈こはるの前に座った女性は、膝の上で茶封筒を握りしめていました。


 三十代後半くらい。


 紺色のエプロン姿。


 商店街で小さな洋裁店を営んでいるという。


 名前は水野春江さん。


「落とされた、というのは?」


 片桐所長が聞きました。


「駅前の改装補助です」


 春江さんが茶封筒から紙を取り出しました。


「駅前再整備に合わせて、古い店の看板とか外壁を直すと、市から少し補助が出るっていう制度です」


「ああ、商店街景観整備事業か」


 相馬先輩が言いました。


「今年始まったやつだな」


「はい」


 春江さんは頷きました。


「うちは父の代から三十年近くやってる店で、看板もだいぶ傷んでて。これを機会に直そうと思って……」


 それは、ずいぶん普通の願いに聞こえました。


 店を豪華にしたいわけでもない。


 儲けたいから税金を寄越せ、でもない。


 古くなった看板を直して、商店街でこの先も店を続けたい。


 たったそれだけです。


「申請したら、これが来ました」


 差し出された紙を見る。


 そこには、


 ――審査の結果、本年度の補助対象として採択しないこととなりました。


 とだけ書いてありました。


 以上。


 本当に以上でした。


「……理由は?」


 私は思わず聞きました。


「書いてないんです」


「電話では?」


「聞きました」


 春江さんは唇を噛みました。


「でも、『総合的に判断しました』って」


 出ました。


 総合的に判断。


 役所界の万能ふろしきです。


 何でも包める。


 そして包んだあと、中身が見えない。


「何を総合したんでしょう」


「私も聞きました」


「そしたら?」


「『審査の内容はお答えできません』って」


 なるほど。


 これは嫌な感じがします。


 採択されなかったこと自体ではありません。


 補助金なら、予算の限界もあるでしょう。


 応募が多ければ、全員には出せません。


 基準を満たしていても、優先順位で落ちることだってある。


 問題は。


 その優先順位が、どこにあるのか分からないことです。


「春江さん」


 片桐所長が静かに聞きました。


「何か、他に気になっていることがありますね」


 さすがです。


 私はまだ紙に夢中だったのに、所長は相談者の顔を見ています。


 春江さんは少し迷ってから口を開きました。


「……向かいの店は、通ったんです」


「向かい?」


「大黒堂っていう土産物屋です」


 駅前の大きな店らしい。


「そこも看板を直す申請をしてました。でも、あそこは通った」


「内容が違った可能性は?」


 相馬先輩が聞きます。


「もちろんあると思います。でも……」


 春江さんは声を落としました。


「大黒堂の社長さん、市の観光協会の役員なんです」


 空気が、ほんの少し変わりました。


 はい。


 こういう瞬間、行政法は急に眠くなくなります。


「それだけじゃありません」


 春江さんは続けました。


「ほかにも通った店が何軒かあるんですけど、駅前再開発の協力会に入ってる店ばかりなんです」


「春江さんは?」


「入りませんでした」


「なぜ?」


「再開発そのものに反対してるわけじゃありません。でも、店の裏の搬入口を潰す案だったから、もう少し話し合ってほしいって言ったんです」


 なるほど。


 嫌な線が一本、頭の中に引かれました。


 もちろん、まだ何も決まっていません。


 再開発に協力的だった店が、たまたま補助対象として優れていたのかもしれない。


 大黒堂の改修計画のほうが、景観改善効果が高かったのかもしれない。


 春江さんの申請に、何か不足があった可能性もあります。


 でも。


 それなら、それが見える手続であってほしい。


「募集要項、あります?」


 私が聞くと、春江さんは鞄から折り畳んだ紙を出しました。


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「対象要件は……市内駅前商店区域で営業していること。外観改修であること。事業継続の予定があること」


「春江さん、全部満たしてますね」


「はい」


「選考基準は?」


 紙を下へ追います。


 ありません。


 正確には、


 「予算の範囲内で市長が適当と認める者」


 という、かなり広い文言だけでした。


「うわあ」


「何だ」


 相馬先輩が言う。


「『適当と認める』って書いてあります」


「読めば分かる」


「読むほど怖いやつです」


 もちろん。


 こう書いてあるから何でも自由、ではありません。


 ただ、昭和六十三年の私は、その先で一瞬、頭の中が止まりました。


 昨夜まで――いえ、私の感覚では昨夜まで――読んでいた行政書士試験のテキストに、まさにこういう場面のための言葉があったからです。


 行政手続法。


 処分。


 行政指導。


 届出。


 命令等。


 公正の確保。


 透明性の向上。


 国民の権利利益の保護。


 ――ところが。


 ここは昭和六十三年です。


 私は心の中で頭を抱えました。


 ない。


 まだ、あの法律がない。


 後に行政手続法と呼ばれる法律は、今のこの時代にはまだ成立していません。


 受験知識、まさかのタイムトラベル敗北。


「どうした、新人」


 相馬先輩が怪訝そうに見る。


「いえ」


 私は何とか顔を上げました。


「法律って、まだ生まれてないと使えないんだなと思いまして」


「当たり前だ」


「ですよね」


 当然すぎて泣ける。


 でも。


 だから終わり、ではありませんでした。


 むしろ逆です。


 後の時代に、なぜそんな法律が必要になるのか。


 今、目の前にその理由が座っている。


 そう思った瞬間、昨夜まで暗記語だったものが、別の形で輪郭を持ち始めました。


「所長」


「何だ」


「市役所に行きたいです」


「何を聞く」


 来ました。


 ここで「不公平です!」と叫んだら負けです。


 だってまだ、不公平かどうか分かりません。


 だから。


「選考の結論じゃなくて、選考の仕組みを聞きます」


 所長がこちらを見ました。


 私は続けます。


「誰が審査したのか。基準は何だったのか。何を比較したのか。その基準は申請前に示されていたのか」


「それから?」


「春江さんが落ちた理由を、どこまで説明できるのか」


 相馬先輩が鼻を鳴らしました。


「急に偉そうだな」


「自分でもちょっと思いました」


「論点で喋るなよ。役所で嫌われるぞ」


「先輩が言うと説得力ないです」


「俺は最初から嫌われてる」


「胸を張るところじゃありません」


 所長が立ち上がりました。


「行くぞ」


 市役所の商工振興課は、昼下がり特有の慌ただしさに包まれていました。


 電話。


 伝票。


 煙草の匂い。


 金属製の書類棚。


 昭和の役所は、紙の量だけで人間を圧迫してきます。


 受付で事情を話すと、出てきたのは倉田係長でした。


「ああ、片桐さん」


 最近、顔を合わせることが増えています。


 倉田係長は私を見て、少し嫌そうな顔をしました。


「今日は何ですか」


 私を見るなり「今日は何ですか」は、だいぶ育ってきた関係性です。


「商店街景観整備事業の件です」


 片桐所長が春江さんの不採択通知を置きました。


 倉田係長は「ああ」と頷きます。


「水野洋裁店さんですね」


「不採択理由を確認したい」


「総合的な判断です」


 早い。


 想定回答が早い。


「その総合の中身を聞いています」


 相馬先輩が言いました。


「審査会で決めました」


「誰の?」


「庁内の選考会です」


「メンバーは?」


「商工振興課と観光課、それから都市計画課の担当者です」


 私はメモを取ります。


「審査基準はありますか」


 私が聞くと、倉田係長の視線がこちらへ動きました。


「募集要項に書いてあるでしょう」


「『市長が適当と認める者』以外にです」


「内部ではあります」


 出ました。


 内部。


 行政法でこの言葉が出たとき、だいたい一度は立ち止まったほうがいい。


「どんな基準ですか?」


「駅前全体への波及効果、観光振興への寄与、景観上の効果、緊急性などです」


「申請者には示してませんよね」


「細かい採点基準までは」


「なぜです?」


「内部資料ですから」


 うん。


 非常によくある答えです。


 でもそれだけでは、次へ進めません。


「では、水野さんはどの項目で評価が低かったんですか」


「それは個別の審査内容ですので」


「本人にも?」


「審査会の内容は原則非公開です」


「会議の発言じゃありません」


 私は言いました。


「本人が、なぜ自分の申請が通らなかったのかです」


 倉田係長が少し眉を寄せました。


「同じことです」


「同じじゃありません」


 口から出てから、自分でも驚きました。


 倉田係長も驚いています。


 相馬先輩は、面白そうに黙っています。


 所長も止めません。


 止めないなら。


 行きます。


「誰が何を言ったかを全部公開してくださいって言ってるんじゃないです。水野さんの申請が、どの基準で足りなかったのか。それくらい分からないと、来年どう直せばいいかも分かりません」


「補助金は権利じゃないんですよ」


 倉田係長の声が少し硬くなりました。


「全員に交付できるものでもない。予算がありますから」


「それは分かります」


「なら――」


「だからこそです」


 私は一歩だけ前へ出ました。


「全員がもらえないなら、どういう基準で分けたかが重要になるんじゃないですか」


 係長が黙りました。


 私の中で、何かがはっきりしていました。


 これは、


 水野さんを採択してください、


 という話だけではありません。


 大黒堂を落としてください、


 という話でもない。


 もっと手前。


 行政が人を選ぶとき、その選び方が外から見えるか。


 同じ申請を出した人が、同じ物差しで測られていると分かるか。


 そこです。


 私は言いました。


「市役所の中では公平に審査したのかもしれません」


「そうです」


「でも、市民には見えません」


 倉田係長の顔が止まりました。


「基準は内部資料。理由は総合的判断。審査内容は非公開。これだと、水野さんから見れば、自分が再開発に意見したから落とされたのか、単に計画の評価が低かったのか、区別がつかないんです」


「そんな恣意的なことはしていません」


「なら、なおさら説明したほうがいいです」


 言ったあと。


 あ。


 と思いました。


 これだ。


 公正と透明性。


 公平にやっているなら、それを見えるようにする。


 見えるようにすることで、行政の判断を信用できる。


 そして、判断された側も、自分の次の行動を選べる。


 後の時代の条文で、何度も読んだ言葉でした。


 でも今は、暗記ではありません。


 春江さんの店の古びた看板。


 不採択通知。


 「総合的に判断しました」。


 その全部が、一つの線につながっていました。


 相馬先輩が倉田係長へ言います。


「係長。こいつの言い方は面倒くさいが、言ってることは簡単ですよ」


「分かっています」


「じゃあ出してください」


「何を」


「水野さんの評価項目」


 倉田係長はため息をつきました。


「内部資料そのものは出せません」


「じゃあ説明を」


「……確認します」


「誰に」


「課長です」


「いつ」


「相馬さん」


「祭りの件で学んだんですよ。『検討します』は期限をつけないと冬眠する」


「あなた本当に行政書士ですか」


「残念ながら」


 嫌な自己紹介だ。


 そこへ、奥から五十代くらいの男性が出てきました。


 商工振興課長だそうです。


「何の話だ」


 倉田係長が事情を説明します。


 課長は最初、いかにも面倒そうな顔をしました。


「補助事業の審査というのは、個別の事情を総合的に――」


 総合、二人目。


 この役所、「総合的」という言葉を備品として支給してません?


 片桐所長が遮りました。


「課長」


「はい」


「採択しろと言っているわけではありません」


 課長が黙る。


「公平に審査したというなら、その公平さを申請者が確認できる形にしてください」


 短い。


 でも強い。


 所長は続けました。


「内部で公平だと思っているだけでは足りない」


 課長が少し表情を変えました。


「……審査項目は、確かに事前には公表していません」


「なぜです」


「特に必要だという認識がなかったので」


 悪意はない。


 たぶん、本当にない。


 それが一番厄介です。


 誰かを落とそうとしたわけではない。


 ただ、


 役所の内部で分かっているから。


 毎年こうだから。


 審査する側には普通だから。


 説明する必要を感じなかった。


 そういう雑さです。


「来年度からは考えるとして」


 課長が言いました。


「今年については、評価結果を個別に説明することはできます」


 春江さんが顔を上げました。


「本当ですか」


「はい。ただし、他の申請者との比較内容や、委員の個別発言までは出せません」


「それでいいです」


 春江さんは即答しました。


 その声に、私は少し驚きました。


 もっと怒っていると思っていたからです。


 でも春江さんが欲しかったのは、犯人探しではなかった。


 自分の店が、なぜ駄目だったのか。


 ただ、それを知りたかったのです。


 課長が倉田係長に言いました。


「資料、持ってきてくれ」


「今ですか」


「今」


 おお。


 珍しく行政が速い。


 数分後。


 一枚の評価表が出てきました。


 店名や他人の点数は伏せられていましたが、春江さん自身の評価は分かります。


 景観改善効果。


 高。


 事業継続性。


 高。


 駅前全体への波及効果。


 中。


 観光振興への寄与。


 低。


「観光振興……」


 春江さんが呟きました。


 倉田係長が説明します。


「今回、応募が予算をかなり超えまして。観光客向けの店舗や、駅前の回遊性を高める事業を優先しました」


「うちは洋裁店だから?」


「それだけではありませんが、評価上はそこで差が出ました」


「再開発に文句を言ったからじゃない?」


 春江さんが真正面から聞きました。


 倉田係長は首を横に振りました。


「それは審査項目にありません」


「本当に?」


「少なくとも、この評価表には入っていません」


 春江さんはしばらく紙を見ていました。


 納得したような。


 していないような。


 やがて、少し苦く笑いました。


「じゃあ、大黒堂さんが通ったのも」


「観光客向け商品を扱っていて、外観改修の規模も大きかったので、評価は高かったです」


「そう」


 春江さんは短く言いました。


 そして。


「なら、最初からそう書いといてくれればよかったのに」


 本当に。


 それです。


 私は心の中で百回頷きました。


「観光への効果が重いって分かってたら、私だって駅前案内図を店先に置くとか、旅行客向けの裾直しサービスとか、何か考えたかもしれないでしょう」


 倉田係長の顔が固まりました。


 そこまで考えていなかったのでしょう。


 基準を隠すということは。


 単に役所が楽になる、というだけではありません。


 申請する側から、


 何を求められているのか知る機会まで奪う。


 だから、行政の透明性は、単なる「情報公開サービス」ではない。


 人が制度に合わせて、自分の行動を選ぶために必要なんだ。


 私はそこでようやく、その言葉の意味を身体で理解しました。


 課長が咳払いをしました。


「……次年度は、選考項目の公表を検討します」


 相馬先輩がすかさず言います。


「また検討ですか」


「今度は本当に検討します」


「前の検討と何が違うんです」


「あなた、いちいち面倒ですね」


「よく言われます」


 倉田係長が頭を抱えていました。


 でも、少しだけ笑っています。


「水野さん」


 課長が続けました。


「今年の追加採択は、現時点では約束できません。ただ、辞退者が出た場合の繰上げ候補には入っています」


「そうなんですか?」


「はい」


「それも聞いてませんけど」


「……通知に書いてませんでしたか」


 倉田係長と課長が顔を見合わせる。


 書いてない。


 またです。


 私と相馬先輩も顔を見合わせました。


「透明性」


 私は小声で言いました。


「何だ?」


「いえ。独り言です」


 最終的に。


 春江さんの不採択そのものは覆りませんでした。


 大黒堂の採択もそのまま。


 不正があったと分かったわけでもありません。


 でも。


 春江さんには、


 自分が何を評価され。


 何が足りず。


 次回どう変えられるのか。


 それが見えるようになりました。


 市は、不採択者への評価理由の説明を行うこと。


 次年度からは、主要な選考項目を募集要項に載せる方向で整理すること。


 そして繰上げ候補者には、その旨を通知すること。


 そこまで話が進みました。


 帰り道。


 春江さんが、古い商店街の角で立ち止まりました。


「こはるちゃん」


「はい」


「私ね」


「はい」


「まだ悔しいよ」


「それはそうだと思います」


「大黒堂さんより、うちの店のほうが町に必要だと思ってるし」


「はい」


「でも」


 春江さんは少し笑いました。


「落とされた理由が分かったら、不思議と前より腹が立たないね」


「……そういうものですか」


「分からないのが、一番嫌だったんだよ」


 その言葉が、妙に残りました。


 分からないこと。


 それは時々、不利な結論そのものより人を苦しめます。


 なぜ。


 誰が。


 どうして。


 そこが全部閉じていると、人は一番嫌な理由を想像する。


 嫌われたから。


 コネがないから。


 文句を言ったから。


 役所に睨まれたから。


 実際にそういうことが絶対ないとは言えません。


 だからこそ。


 手続を見えるようにする必要がある。


 事務所へ戻ると、春江さんから夕方に差し入れが届きました。


 小さな紙袋。


 中には、色とりどりの布で作った巾着袋が三つ入っています。


 手紙も添えてありました。


 ――売れ残りの端切れで作りました。役所には負けましたが、理由が分かったので次は作戦を立てます。


「強いなあ」


 私は巾着を一つ手に取りました。


「商売人だからな」


 相馬先輩が言います。


「先輩、どれにします?」


「それ」


「一番いい柄じゃないですか」


「早い者勝ち」


「またですか」


「社会は不公平だ」


「今までの話、全部台無しですよ」


 相馬先輩が笑いました。


 片桐所長は、残った二つを見て言いました。


「公平と平等は違う」


「突然講義を始めないでください」


「三人に二つしかない」


「現実が教材になる事務所ですね、ここ」


「じゃんけんだ」


「透明性は高いですね」


「結果に文句を言うなよ」


「手続が公正なら負けても納得できるかどうか、今から実証します」


 結果。


 私は負けました。


「納得できません」


「おい」


「理論と感情は別です」


 相馬先輩が声を上げて笑いました。


 少しして。


 電話も来客も途切れた事務所で、私は机の引き出しからノートを出しました。


 今日のページは、まだ白い。


 ペン先を置きかけて。


 止めました。


 書きたい言葉は、いくつもありました。


 公正。


 透明性。


 権利利益の保護。


 処分。


 行政指導。


 届出。


 命令等。


 そして。


 今の昭和六十三年には、まだない法律。


 私の頭の中にだけある、


 行政手続法。


 未来の条文をここへそのまま持ってくることはできません。


 そんな法律は、まだ成立していない。


 今日、市役所へ行って、


「行政手続法一条に書いてあります」


 なんて言ったら、


 多分、病院を紹介されます。


 でも。


 なぜ後の時代に、そんな法律が作られるのか。


 今日は少し分かった気がしました。


 行政が、


 あなたは駄目です。


 あなたは通ります。


 これは認めます。


 これは認めません。


 そうやって人の生活に触れるなら。


 せめて、


 どういう手続で決めるのか。


 どんな基準なのか。


 どうしてその結論なのか。


 それを、できるだけ見えるようにする。


 役所の人が善人だから、ではありません。


 担当者が親切だから、でもありません。


 善人でなくても。


 親切でなくても。


 誰が担当しても。


 なるべく同じように扱われる。


 そういう冷たい仕組みを作る。


 それが結果として、人を守る。


「何書いてる」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まだ何も」


「今日はずいぶん喋ってたじゃないか」


「現場で分かった気になっただけです」


「またそれか」


「だって、まだ整理できてません」


 私はノートを指で叩きました。


「今日の話って、結局どこまで法律の対象になるのか、とか」


「うん」


「役所の行為なら何でも同じ手続になるのか、とか」


「うん」


「国と市役所で違いはあるのか、とか」


「そこまで考えてるのか」


「考え始めたら増えました」


 しかも。


 未来の受験知識では、ここが意地悪なのです。


 行政手続法の対象は、何でもかんでも「行政のすること全部」ではない。


 処分。


 行政指導。


 届出。


 命令等を定める手続。


 しかも地方公共団体が絡むと、さらに線引きがある。


 法律を根拠とするものなのか。


 条例や規則に基づくものなのか。


 国の機関なのか。


 地方公共団体なのか。


 ……眠い。


 今、急に眠くなってきました。


「顔が死んだぞ」


「思い出したんです」


「何を」


「法律って、目的だけ分かると感動的なのに、適用範囲まで行くと急に試験問題になるんですよ」


「何言ってるか分からん」


「私もです」


 奥で書類を閉じた所長が言いました。


「目的と範囲は分けて考えろ」


 私は顔を上げました。


「目的と、範囲?」


「何のための制度かと、どこまでその制度が及ぶかは別の話だ」


 短い。


 でも。


 また明日のノートが増えました。


「所長」


「何だ」


「今日の市役所の件は、公平だったんでしょうか」


 所長は少し考えました。


「分からん」


 即答ではありませんでした。


「え?」


「結果だけ見ても分からん。手続だけ見ても分からん」


「じゃあ?」


「だから、見えるようにする」


 私は黙りました。


 なるほど。


 透明性があるから、行政が必ず正しいわけではない。


 説明されたから、不公平が消えるわけでもない。


 でも。


 見えなければ、そもそも確かめることすらできない。


 春江さんは今日、


 補助金をもらえませんでした。


 だから制度に救われた、とまで言えば嘘になります。


 でも、


 何も分からず門前払いされた昨日と、


 理由を知って次の手を考えられる今日では、


 同じ「不採択」でも意味が違う。


 それだけは確かでした。


 私はノートの一番上に、題名だけ書きました。


 ――行政手続法 一条 目的。


 そして、その下へ小さく、


 公正。


 透明性。


 権利利益の保護。


 と三つだけ書きました。


 続きは、まだ書きません。


 処分。


 行政指導。


 届出。


 命令等。


 それぞれ何なのか。


 どこまで法律が及ぶのか。


 国と地方では何が違うのか。


 特別の法律がある場合はどうなるのか。


 そのへんを分かったふりして書くと、未来の試験で確実に刺される気がします。


 今日は、入口だけでいい。


 春江さんが言っていました。


 分からないのが、一番嫌だった。


 その言葉を思い出します。


 行政手続という言葉は、冷たい。


 公正の確保。


 透明性の向上。


 国民の権利利益の保護。


 条文にすると、さらに冷たい。


 でも。


 今日の春江さんみたいな人が、


「なぜ駄目だったんですか」


 と聞いたとき。


「役所が決めたからです」


 で終わらせないための冷たさなら。


 私は、少し好きになれそうでした。


「こはる」


 相馬先輩が呼びます。


「何ですか」


「巾着、所長が要らないって」


「本当ですか!」


「だから俺が二つもらう」


「待ってください!」


「早い者勝ち」


「その配分基準は事前に公表されてません!」


「総合的に判断した」


「最悪の回答!」


 私は立ち上がりました。


「選考過程の透明性を要求します!」


「うるせえ!」


 所長が新聞から目を上げます。


「じゃんけんしろ」


 結局。


 今日一番透明だった手続は、やっぱりじゃんけんでした。


 そして私は、また負けました。


 行政運営の公正は大切です。


 ただし。


 じゃんけんの結果まで国民の権利利益を保護してくれる法律は、


 未来にもたぶんありません。

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