↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/262

[行政法の一般原則]現場編 「市の土地なんだから、今日中にどかしてもらえます」の罠。管理する権限と、好きに扱う権限を混ぜる役所

挿絵(By みてみん)

 役所に権限があることと、何をしてもいいことは、たぶん同じではありません。


 ハサミを持っている人に、他人の前髪を切る権利まで生えてこないのと同じです。


 そんな当たり前のことを、私は昭和六十三年の秋、市役所の駅前広場で思い知ることになりました。


「今日中に撤去してください」


 倉田係長が言いました。


 目の前には、小さな木造の屋台。


 赤い暖簾。


 鉄板。


 丸椅子が四脚。


 そして、その横で顔を真っ白にしている女性。


「きょ、今日中って……」


 女性の声が震えました。


「夕方までにです」


「でも、そんな……市役所の人に、ここでやっていいって言われて……」


「事情が変わったんです」


「借金までして、この屋台を作ったんですよ」


「お気持ちは分かります」


 来ました。


 行政実務の危険ワード。


 お気持ちは分かります。


 大抵そのあとに、気持ちではどうにもならない何かが飛んできます。


「ですが、市の土地ですから」


 倉田係長は困った顔で続けました。


「管理上、撤去をお願いすることはできます」


 私は思わず屋台を見ました。


 その横には、市が去年立てた看板があります。


 駅前ににぎわいを。


 空き店舗対策。


 若手商業者チャレンジ事業。


 ……ものすごく歓迎していた形跡がありますけど。


 話は、その日の朝まで遡ります。


 片桐行政書士事務所に、一人の女性が飛び込んできたのは午前九時すぎでした。


「助けてください」


 そう言って差し出された紙には、太いゴシック体で、


 仮設店舗撤去のお願い


 と書かれていました。


 お願い。


 題名だけなら柔らかい。


 中身は全然柔らかくありません。


 本日中に営業を中止し、仮設店舗を撤去してください。


 従わない場合には、市有地の適正管理のため必要な措置を検討します。


 笑顔で肩を叩きながら崖際まで連れていくタイプの文書です。


「まず座ってください」


 私が椅子を勧めると、女性は小さく頭を下げました。


「高瀬美代子です。駅前で焼きそば屋をやってます」


 年は三十代半ば。


 紺色のエプロンの上から薄いカーディガンを羽織っています。


 指には小さな火傷の痕。


 毎日鉄板の前に立っている人の手でした。


「仮設店舗って、駅前広場の?」


 相馬先輩が聞きます。


「はい」


「市のチャレンジ事業の店か」


「そうです」


 高瀬さんは頷きました。


 二年前、市は駅前再整備に向けて、広場の一角を使った実験的な商業事業を始めたそうです。


 空き店舗が増えた商店街へ人を呼び戻す。


 若い商売人に駅前で試験的に営業してもらう。


 うまくいけば、将来は再整備後の商業区画への出店も検討する。


 その説明会に、高瀬さんは参加しました。


「市の担当者が言ったんです」


 彼女は鞄から古い封筒を取り出しました。


「少なくとも三年くらいは、この場所で続けてもらう予定ですって」


 中には、市役所の商工観光課から届いた案内文。


 仮設店舗の設置計画。


 事業者向け説明会資料。


 そして、手書きのメモ。


 平成元年度以降も継続予定。


 ……いや昭和六十三年なので、来年が平成になるなんて私は知っていますけど、この町の人たちは知りません。


 歴史の先取りをすると面倒なので黙ります。


「それで屋台を?」


 私が聞くと、高瀬さんは頷きました。


「百八十万円借りました」


 私は一瞬黙りました。


 百八十万円。


 昭和六十三年。


 軽い額ではありません。


「厨房設備も入れました。保健所にも相談しました。市の人が業者も紹介してくれて」


「市が?」


「はい。『せっかくなら長く使える物にしましょう』って」


 相馬先輩の眉が動きました。


「で、二年も経たずに今日中に撤去しろ?」


「はい」


「理由は」


「それが……」


 高瀬さんが目を伏せました。


「私、先週の説明会で、再開発のやり方に少し文句を言ったんです」


 なるほど。


 不穏な匂いがしてきました。


「どんな文句です?」


「新しい駅前ビルができたあと、家賃が高すぎたら今の商売人は入れないんじゃないかって。若い店を育てるって言って始めたのに、それじゃ意味がないって」


「それだけ?」


「はい」


「暴れたとか」


「してません」


「机をひっくり返したとか」


「してません!」


「相馬先輩」


「確認だ」


 確認の幅が昭和です。


 高瀬さんは続けました。


「その翌日に、商工観光課の人が来て……『駅前事業への協力姿勢に問題がある』って」


 私は顔を上げました。


「協力姿勢?」


「はい。それで昨日、撤去の紙を」


「他の仮設店舗は?」


「そのままです」


「何軒あります?」


「四軒です」


「同じような許可?」


「たぶん」


 私は文書をもう一度見ました。


 仮設店舗撤去のお願い。


 理由の欄。


 駅前広場の円滑な管理及び再整備事業の推進のため。


 抽象的。


 ものすごく抽象的。


 何をすると撤去なのか。


 高瀬さんの何が問題なのか。


 なぜ今日中なのか。


 なぜ他の三軒は残れるのか。


 そこが全部、煙の中です。


「所長」


 私は奥を見ました。


 片桐所長は、高瀬さんの資料を一枚ずつ黙って読んでいました。


「どう思います?」


「お前は」


 またですか。


 昭和の事務所、先に新人を崖から落として泳げるか確認する方式でしょうか。


 私は紙を机に置きました。


「変です」


「雑だな」


「だって、変なものは変です」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「どこがだ」


「まず、市が二年近く前から出店を勧めて、継続する予定だと説明して、高瀬さんはそれを信じて設備まで入れてます」


 高瀬さんがこちらを見る。


「もちろん、市の方針が未来永劫変えられないとは思いません。でも……」


 私は撤去通知を指で叩きました。


「変えるにしても、昨日まで続けていいと言っていた人に、いきなり今日中に全部どかせ、っていうのは乱暴です」


 所長は何も言いません。


 止めない。


 なら続けます。


「次に、目的と手段が合ってるのか」


「どういう意味だ」


 相馬先輩が聞きます。


「仮に、高瀬さんの屋台に何か管理上の問題があるとしても、いきなり全撤去が必要なのか、です」


「例えば?」


「営業時間の調整とか、場所の変更とか、設備の改善とか。もっと軽い方法があるのに、いきなり商売そのものを潰すなら、やりすぎじゃないかって」


 口にしながら、私は昨夜まで眺めていた行政法のテキストを思い出していました。


 一般原則。


 眠かった。


 ものすごく眠かった。


 信義誠実。


 比例。


 平等。


 適正手続。


 権利濫用。


 ページに並んでいると、法律界の道徳標語みたいに見えます。


 ちゃんとしましょう。


 やりすぎないようにしましょう。


 平等にしましょう。


 人の話を聞きましょう。


 小学生の学級目標か。


 そう思っていました。


 でも今。


 百八十万円の借金をして屋台を作った人が、昨日一枚の紙で生活を切られようとしている。


 途端に、単語が眠くなくなりました。


「それから」


 私は続けます。


「他の三軒を残して、高瀬さんだけ撤去するなら、違いは何なのか説明が必要です」


「平等ってやつか」


「たぶん」


「たぶん言うな」


「まだ見習いなんです」


「便利だなお前」


「最後に」


 私は高瀬さんを見ました。


「撤去を決める前に、高瀬さんから何か聞かれました?」


「いいえ」


「弁解する機会は?」


「ありません」


「問題点を直してください、という話は?」


「一度も」


 私は息を吐きました。


「そこも気になります」


 所長が資料を閉じました。


「市役所へ行くぞ」


「今からですか」


「今日中に撤去なんだろう」


 そうでした。


 こういうとき、役所の一日は妙に短い。


 市役所の商工観光課へ着くと、倉田係長が待っていました。


 最近、何かあるたびに会う人です。


 融通が利かない。


 でも、完全な悪人ではない。


 そして今日も、板挟みの人特有の顔をしています。


「片桐先生……じゃなかった、片桐所長」


「高瀬さんの件です」


 所長が名刺を置きました。


 倉田係長は小さく息をつきました。


「やはり来られましたか」


 やはり。


 来られる自覚はあるんですね。


「撤去の根拠を確認したい」


 所長が言います。


「市有地です」


「それは所有関係だ」


 相馬先輩が割って入りました。


「聞いてるのは、高瀬さんだけ今日中に撤去させる理由だ」


「駅前広場の管理上の判断です」


「具体的には?」


「再整備事業の円滑な推進に支障があると判断しました」


 私は思わず口を開きました。


「何が支障なんですか」


 倉田係長がこちらを見る。


「ああ、君か」


 最近その反応が定着してきましたね。


「先日の説明会で、市の事業方針に対して強い批判がありました」


「それですか?」


「それだけではありません」


「他には?」


「今後、市と協力して事業を進められるかどうか……」


「屋台の衛生状態に問題があったんですか」


「いや、それはありません」


「火災の危険?」


「それも特には」


「通行の妨げ?」


「現在の配置なら問題ありません」


「営業時間違反?」


「ありません」


 私は少し首を傾げました。


「じゃあ、商売上の違反はない?」


「形式的には」


 出ました。


 形式的には。


 この言葉が出たとき、だいたい本体は別のところにいます。


「では、なぜ高瀬さんだけ?」


 倉田係長が黙りました。


 相馬先輩が追います。


「他の三軒は同じ市有地だろ」


「はい」


「同じ仮設店舗」


「はい」


「そっちは残す」


「現時点では」


「違いは、市への意見か?」


「……そう単純な話ではありません」


「じゃあ複雑な部分を説明してください」


 私が言うと、倉田係長は眉間を押さえました。


「君は相変わらず遠慮がないね」


「先輩ほどではありません」


「巻き込むな」


 所長が静かに言いました。


「係長」


「はい」


「市が管理権限を持つことは分かっています」


「でしたら」


「だが、権限があることと、理由を問われないことは別です」


 部屋が静かになりました。


 所長は声を荒らげません。


 なのに、こういうとき一番重い。


「高瀬さんは、市の施策を信頼して設備投資をした。市も継続を前提とした説明をしている」


「永久使用を保証したわけではありません」


「それも分かっています」


 所長は頷きました。


「施策は変わる。事情も変わる。ただ、変えるなら、これまで市が作った信頼をどう扱うのかは考えなければならない」


 倉田係長が黙ります。


「しかも今回は、全店舗の撤去ではない。高瀬さんだけだ」


 私は高瀬さんを見る。


 膝の上で、手をぎゅっと握っています。


「何か管理上の違反があるなら示してください」


 私は言いました。


「直せる問題なら、直す機会をください」


「しかし」


「今日中に全部撤去、じゃなくて」


 私は言葉を選びました。


「何が問題なのかを本人に伝えて、話を聞いて、それでも必要なら判断する。それじゃ駄目なんですか」


 倉田係長は困った顔をしました。


「手続上、そこまで必要とは……」


「必要か必要じゃないか以前に」


 相馬先輩が言いました。


「昨日紙一枚で商売止められた側が、納得すると思うか?」


「それは……」


「行政書士らしくない言い方ですね」


 私が囁く。


「うるさい」


 でも、その一言で十分でした。


 法律の名前を出さなくても、手続の雑さは見えます。


 何が悪いか分からない。


 言い分も聞かれない。


 他の店との違いも分からない。


 なのに期限だけは今日。


 これでは、結論以前に階段を三段くらい飛ばしています。


「倉田係長」


 私は聞きました。


「撤去以外の方法は検討したんですか」


「というと?」


「例えば、再整備事業の説明会での発言が問題なら、それは屋台撤去じゃなくて、説明会の運営の問題ですよね」


「……」


「店舗運営上の問題があるなら、改善を求めるとか」


「……」


「広場の配置が問題なら、移動するとか」


「……」


「どうしていきなり一番重い方法なんです?」


 自分で言っていて、背中が少しぞくっとしました。


 比例原則。


 昨日まで、


 必要最小限。


 過度な規制は駄目。


 と覚えていた言葉。


 それが今は、


 どうしていきなり商売を潰すの?


 という、ごく普通の問いに変わっています。


 倉田係長はしばらく何も言いませんでした。


 やがて小さく息を吐きます。


「……正直に言います」


 お。


「上から急げと言われました」


「上?」


「駅前整備室です」


「理由は」


「高瀬さんの発言が新聞社に伝わったらしくて」


 なるほど。


 行政法の向こうから政治的都合の匂いがしてきました。


「計画に反対する店を、市が支援しているように見えるのはまずい、と」


 高瀬さんの顔がこわばりました。


「私、反対なんてしてません」


「分かっています」


 倉田係長がすぐに言いました。


「私も、説明会で聞いていました」


「じゃあ」


「家賃の設定を考えてほしい、と言っただけですよね」


「そうです」


「ただ、上では……」


 言葉が途切れました。


 私は妙に腹が立ちました。


 派手な悪事ではありません。


 誰かが賄賂を取ったわけでもない。


 ただ、


 面倒な意見を言った店。


 協力的ではない店。


 そういう札を一枚貼られて。


 それまで市が勧めてきた事業から、急に外へ押し出される。


 それが一番怖い。


「所長」


 私は言いました。


「これ、管理権限を使ってるように見えて、本当は別の目的に使ってませんか」


 相馬先輩がこちらを見ます。


 倉田係長も黙ります。


 所長は短く答えました。


「そこを確認する」


 そして倉田係長に向き直りました。


「市有地の管理が目的なら、管理上の必要性を示してください」


「……はい」


「批判的な意見を言った事業者を排除するためなら、話は別です」


 倉田係長の表情が固くなります。


「そこまでの意図は……」


「なら、なおさら整理しましょう」


 所長は淡々と言いました。


「何が問題なのか。誰が判断したのか。他の事業者との違いは何か。なぜ即日撤去なのか。高瀬さんの意見を聞かずに決める必要があるのか」


 一つずつ。


 感情ではなく。


 論点を並べる。


 するとさっきまで、


 市の土地だから。


 上から言われたから。


 協力姿勢に問題があるから。


 という霧みたいな話だったものが、急に形を持ち始めました。


 倉田係長は机の上の撤去文書を見ました。


「……この通知、一旦止めます」


 高瀬さんが顔を上げました。


「え?」


「今日中の撤去は求めません」


「本当ですか」


「ただし、正式にどうするかは再検討です」


「それでいいです」


 高瀬さんはすぐ答えました。


「話を聞いてもらえるなら」


 その言葉が、妙に残りました。


 残りたい、ではない。


 絶対認めろ、でもない。


 話を聞いてもらえるなら。


 そこまで下がってしまっていたのです。


 人は理不尽なことをされると、最初から完全勝利なんて望めなくなることがあります。


 せめて理由を。


 せめて話を。


 せめて昨日までと言ってることを変えるなら説明を。


 そんな、ごく小さなところまで願いが縮む。


 それを制度が拾わなくて、どうするんでしょう。


「倉田さん」


 相馬先輩が言いました。


「他の三店舗と同じ基準で見ろよ」


「分かっています」


「あと」


「まだありますか」


「批判したから協力的じゃない、はやめとけ」


「……私に言われても」


「上に言え」


「簡単に言いますね」


「俺は役人じゃないからな」


 ずるい。


 でも、倉田係長は少し笑いました。


 笑える余裕が戻っただけでも、さっきよりはいい。


 市役所を出たところで、高瀬さんが深く頭を下げました。


「ありがとうございました」


「まだ決まってませんよ」


 私は言いました。


「撤去がなくなったわけじゃないです」


「分かってます」


「条件の見直しだってあるかもしれません」


「はい」


「市の計画自体が変わる可能性も」


「それも」


 高瀬さんは頷きました。


「でも昨日は、何を言っても『市の土地ですから』だけだったんです」


 その言葉を思い出して、私は少し腹が立ちました。


 市の土地ですから。


 確かに事実です。


 でも。


 事実であることと、それで全部の説明が終わることは別です。


「今日は、ちゃんと聞いてもらえました」


 高瀬さんが言いました。


「それだけで、全然違います」


 事務所へ戻ったのは夕方でした。


 少しすると、高瀬さんがまた顔を出しました。


 大きなアルミ皿を抱えて。


「試作品です」


 蓋を取る。


 ソースの匂いが広がりました。


「焼きそば!」


 私の声が弾みます。


「撤去しなくて済んだので、仕込んだ分が余らなくて済みました」


「まだ正式決定じゃないぞ」


 相馬先輩が言います。


「分かってますよ。でも今日中に捨てなくてよくなったから」


 その言い方が、高瀬さんらしかった。


 勝った。


 負けた。


 そんな大げさな話ではない。


 今日捨てなくて済んだ。


 明日も話ができる。


 ただそれだけ。


 でも生活というのは、たぶんそういう小さな一日でできています。


 相馬先輩が焼きそばを小皿に取ります。


「うまい」


「早いですね」


「伸びるだろ」


「まだ高瀬さん座ってもいませんよ」


「客じゃないからいいんだ」


「何法ですか、その解釈」


「相馬法」


「また出た」


 片桐所長は黙って一口食べました。


 高瀬さんが緊張した顔で見ます。


「どうです?」


「うまい」


 短い。


 でも高瀬さんは、ぱっと笑いました。


「よかった」


 私は焼きそばを箸で巻きながら、今日の出来事を思い返しました。


 市には市有地を管理する権限がある。


 行政には裁量もある。


 施策を途中で変えることだってある。


 だから、市が一度言ったことは未来永劫変えられません、なんて話ではない。


 でも。


 だからといって。


 昨日まで信じさせたことを、今日いきなり踏み潰していいわけでもない。


 同じ立場の人のうち、一人だけ理由なく違う扱いをしていいわけでもない。


 目的のためなら、必要以上に重い手段を選んでいいわけでもない。


 権限という看板を掲げれば、別の目的に使っていいわけでもない。


 そして何より。


 人の生活を大きく変える判断をするのに、その人の話を聞かなくていいということでもない。


 法律のテキストには、こういうものが全部、別々の見出しで載っています。


 信義誠実。


 権利濫用。


 比例。


 平等。


 適正手続。


 五つ並ぶと眠い。


 ものすごく眠い。


 でも今日の現場では、全部同じ方向を向いているように見えました。


 ――権限を持っている側こそ、雑にやるな。


 たぶん、そういう話です。


「何ニヤニヤしてる」


 相馬先輩が言いました。


「いや、行政法って意外と常識的だなって」


「気づくの遅いだろ」


「テキストで読むと全部呪文なんですよ」


「現場で呪文唱えるなよ」


「唱えませんよ」


 私は焼きそばを一口食べました。


 おいしい。


 少し甘めのソース。


 紅しょうが多め。


 昭和の味です。


「所長」


「何だ」


「今日の件、一言で言うなら何ですか」


 所長はしばらく黙りました。


 そして焼きそばをもう一口食べてから言いました。


「権限は、免罪符じゃない」


 私は箸を止めました。


 なるほど。


 短い。


 今日一日分が、それでほとんど入っています。


 私は机の端に置いてあったノートを開きました。


 白いページ。


 一番上に、


 ――行政法の一般原則。


 とだけ書きます。


 その下に何か続けようとして、やめました。


「書かないのか」


 相馬先輩が聞きます。


「今日はまだ、ちゃんと整理できてません」


「珍しいな」


「褒めてます?」


「いや」


「でしょうね」


 でも、本当にそうでした。


 今日私は、


 市が約束らしいことをしたら、どこまで守らなければならないのか。


 同じ状況の人を違って扱えるのは、どんなときなのか。


 行政目的と手段の釣り合いは、どこで線を引くのか。


 権限の行使が、どこから濫用になるのか。


 そして行政手続で、いつ、どこまで本人に話す機会を与えなければならないのか。


 そこまでは、まだ言葉にできていません。


 今日の私に分かったのは。


 役所に権限がある。


 それだけで、話が終わるわけではないということ。


 むしろ、そこから始まるということでした。


 何のための権限か。


 どう使ったのか。


 誰に使ったのか。


 他の人と同じように扱ったか。


 もっと軽いやり方はなかったか。


 相手の信頼をどう扱ったか。


 言い分を聞いたか。


 一つずつ問い直す。


 それだけで、


 「今日中に撤去してください」


 だった話が、


 「一度、判断を止めて考え直しましょう」


 へ変わった。


 法律は、ときどき冷たいです。


 情けをかけましょう、とは言わない。


 かわいそうだから許しましょう、とも言わない。


 でも。


 同じなら同じように扱え。


 やりすぎるな。


 信じさせたなら、その信頼を雑に踏むな。


 権限を別の目的に使うな。


 決める前に、ちゃんと話を聞け。


 その冷たい線があるからこそ、


 大きな力を持つ側の「まあいいだろう」を止められる。


 私はノートの一番下に、今日の教訓だけ小さく書きました。


 ――「権限があります」と言われたら、次は「どう使ってもいい権限ですか」と考える。


「長い」


 相馬先輩が覗き込みました。


「見ないでください」


「一行じゃないだろ」


「ほぼ一行です」


「二行半ある」


「字が大きいんです」


「言い訳も行政並みだな」


「失礼な」


 その横で片桐所長が、アルミ皿をこちらへ押しました。


「残り、食え」


「いいんですか?」


「伸びる」


 私は笑って、もう一口取りました。


 窓の外では、駅前の明かりが点き始めています。


 あの広場では今も、高瀬さんの小さな屋台が立っているはずです。


 明日も残れるかは分からない。


 一年後も続けられるかは、もっと分からない。


 でも少なくとも今夜は、


 「市の土地だから」


 という一言だけで消されることはありませんでした。


 それで十分とは思いません。


 ただ。


 制度が人を救うときって、


 案外こういうところから始まるのかもしれません。


 結論を変える前に。


 まず、雑な決め方を止める。


 私は残った焼きそばを頬張りました。


「先輩」


「何だ」


「最後の豚肉、私のです」


「根拠は」


「さっきから私の皿にありました」


「共有財産だ」


「違います」


「事務所全体の利益を考えろ」


「権限濫用!」


「俺に何の権限があるんだよ」


 確かに。


 そこから整理が必要でした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。