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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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293/701

[当事者訴訟――形式的当事者訴訟と実質的当事者訴訟]現場編 「役所の裁決が気に入らないなら、役所を訴える」の罠。土地を取られることには納得した男が、“金額だけ”を争う相手

挿絵(By みてみん)

 役所が決めたことを争うなら、役所を訴える。


 普通は、そう思います。


 私もそう思っていました。


 でも法律は、ときどき言います。


 ――役所の決定がきっかけでも、喧嘩の相手は役所じゃありません。


 分かりにくい。


 ものすごく分かりにくい。


 しかも、それを間違えると。


 裁判の入口で、盛大に転びます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「裁判にしてやる!」


 午前九時十二分。


 事務所の引き戸が壊れそうな勢いで開きました。


 入ってきた男性は、五十代半ば。


 作業着。


 日に焼けた顔。


 右手には茶封筒。


 左手には――


「……大根?」


 私は思わず聞きました。


「畑からそのまま来たんだ!」


「あ、はい」


 だから大根。


 理解しました。


 いや、理解してどうする。


 男性は机の前まで来ると、茶封筒をばしんと置きました。


「県を訴える! 収用委員会でも何でもいい! こんな金額で先祖代々の畑を持っていかれてたまるか!」


 私は姿勢を正しました。


 収用。


 裁判。


 行政事件訴訟法。


 来ました。


 今週も胃に悪そうな案件です。


「まず、お名前を」


 片桐所長が静かに言います。


「森川栄一」


「土地は?」


「西浜の県道沿いだ」


 森川さんは封筒から書類を取り出しました。


 県道拡幅事業。


 土地収用。


 対象地は畑と、その脇の細長い宅地の一部。


 収用委員会の裁決も出ています。


 私は書面を追いました。


 収用する土地の範囲。


 権利関係。


 補償額。


 明渡し。


 数字が並んでいます。


「この金額ですよ!」


 森川さんが指を叩きつけました。


「こんなもんで納得できるか!」


 確かに。


 怒っている。


 ものすごく怒っている。


 私はまず、一番分かりやすいところを聞きました。


「土地を収用されること自体にも反対なんですか?」


「そりゃ腹は立つ」


「では、道路を広げることそのものを止めたい?」


「……いや」


 森川さんの勢いが、少し落ちました。


「道路が狭いのは知ってる」


「はい」


「事故もあった。学校の子も通る」


「はい」


「拡げるなとは言わん」


 私はペンを止めました。


「では」


「土地を取るなら、ちゃんと払えって言ってるんだ!」


 あ。


 そこか。


「収用そのものではなく」


「金額だ」


「補償額だけ?」


「そうだ!」


 私は裁決書をもう一度見ました。


 なるほど。


 それなら。


 頭の中で、現代の行政事件訴訟法が起動します。


 収用委員会。


 裁決。


 行政処分。


 不服。


 取消訴訟。


 被告は――


「県、でしょうか」


 ぽろっと出ました。


「違う」


 相馬先輩が言いました。


「え」


「今の聞いてたか」


「聞いてましたよ」


「じゃあ何を取り消すんだ」


「収用委員会の裁決を……」


「全部か?」


「あ」


 止まりました。


 森川さんは、収用そのものには納得している。


 問題は補償額。


 つまり。


 裁決全体を取り消してほしいわけではない。


「金額だけです」


「そうだ」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「だったら最初から、何を争うのか分けろ」


 私は裁決書の数字を見る。


 土地を取る。


 そこは争わない。


 いくら払う。


 そこを争う。


 同じ裁決書の中に書いてあるのに。


 争いの中身が違うだけで、訴訟の形まで変わる?


「まさか」


 私は呟きました。


「取消訴訟じゃない……?」


 片桐所長が言いました。


「当事者訴訟だ」


 出た。


 行政事件訴訟法の中でも、


 テキストを開いた瞬間に受験生の視線が少し遠くなる単元。


 当事者訴訟。


 私は受験時代、この言葉を見るたび、


 ――いや、訴訟なんだから全部当事者いるでしょ。


 と心の中で反抗していました。


 もちろん、そんな意味ではありません。


「形式的当事者訴訟……」


 私が言うと、相馬先輩が片眉を上げました。


「知ってるじゃねえか」


「単語は」


「一番危ないやつだな」


「自覚あります」


 森川さんが私たちを交互に見ました。


「何だ、その……形式なんとかってのは」


「ええと」


 説明しようとして。


 止まる。


 まずい。


 頭の中には条文があります。


 当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で、法令の規定により、その法律関係の当事者の一方を被告とするもの。


 はい。


 普通の人にそのまま読んだら、たぶん帰ります。


「森川さん」


 片桐所長が代わりました。


「道路のために土地を取られる。そのこと自体は争わないんですね」


「ああ」


「しかし、その代わりに支払われる金額が少なすぎると思っている」


「そうだ」


「なら、収用そのものを取り消せ、という裁判ではない」


「じゃあ何なんだ」


「補償金を払う側と、金額を争う」


 森川さんが眉を寄せました。


「払う側?」


「この道路事業をする者です」


「県じゃないのか」


 私は書面の事業主体を確認しました。


 県道拡幅事業。


 起業者。


 静岡県。


「今回の事業では県ですね」


 私は言いました。


「ただし、大事なのは『収用委員会を相手に裁決全部を取り消せ』ではなく、補償に関する法律関係の当事者同士で金額を争う、という形になることです」


「……同じ県じゃないか」


 痛い。


 今回たまたま実際の名前を出すと、分かりにくさが増しました。


 相馬先輩が煙を吐きながら言います。


「役割が違うんだよ」


「役割?」


「収用委員会は裁決をする側だ。だが金を負担するのは、事業をやる側だ」


「ああ……」


「だから金額だけなら、裁決をした役所を殴りに行く話とは違う」


「殴っちゃ駄目ですけどね」


「比喩だ」


「森川さん、本当に殴りそうなので念のため」


「殴らん!」


 大根は持ってきましたが。


 私は口には出しませんでした。


「じゃあ、その金を払う県を訴えればいいんだな」


 森川さんが身を乗り出します。


「すぐやってくれ」


「できません」


 片桐所長が即答しました。


「何?」


「私たちは行政書士です」


 静かな声でした。


「訴訟代理はできない」


「あんたら法律屋だろ」


「法律に関わる仕事と、裁判所で代理人になる仕事は同じではありません」


 森川さんは明らかに不満そうでした。


「じゃあ、ここへ来た意味がないじゃないか」


「あります」


 相馬先輩が言いました。


「裁判所へ持っていく前に、何を争って、誰を相手にして、何を証拠にするかを整理する」


「……それで?」


「弁護士に渡す」


「弁護士か」


「ああ」


 相馬先輩は書類の束を指しました。


「『安すぎる、腹が立つ』だけ持っていっても仕事にならねえ」


「腹が立って何が悪い」


「悪くねえ。だが裁判所は腹の立ち具合で補償額を決めない」


 森川さんが黙りました。


 そこは厳しい。


 でも。


 たぶん必要な厳しさです。


「まず土地の資料」


 相馬先輩が数えます。


「登記」


「ある」


「固定資産関係」


「ある」


「周辺の取引事例」


「知らん」


「耕作状況」


「三十年以上やっとる」


「農作物」


「大根、白菜、玉ねぎ」


「収益記録」


「帳面ならある」


「建物や工作物」


「ビニールハウスが一部かかる」


「その移転費は裁決に入ってるか」


「分からん」


「じゃあ確認だ」


 次々出る。


 怒りが、


 事実に変わっていく。


 私はそれを見ながら、少し感心しました。


 行政訴訟というと、


 役所対住民。


 そんな図を思い浮かべがちです。


 でも。


 この争いは少し違う。


 収用という行政作用から生まれた紛争なのに、


 焦点は、


 この補償額で足りるのか。


 当事者同士の金額争いに近い。


 だからこそ。


 当事者訴訟。


「変ですね」


 私はつい呟きました。


「何が」


「行政事件訴訟なのに、中身はかなり民事っぽい」


 片桐所長が頷きました。


「そういう訴訟もある」


「でも抗告訴訟じゃない」


「そうだ」


 そこです。


 今日の地雷。


 行政が関係している。


 だから全部、取消訴訟。


 ではない。


 相馬先輩が私を見ます。


「お前、さっき期間確認しようとしてただろ」


「え」


「顔に出てた」


「そんなに?」


「六か月って考えただろ」


「……少し」


「昭和だぞ」


「分かってます!」


 危ない。


 行政事件訴訟と聞いただけで、


 現代の取消訴訟。


 出訴期間六か月。


 被告は行政主体。


 そんな知識が反射で飛び出してくる。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 しかもそもそも、今回の訴えは取消訴訟ではない。


 入口から違う。


「怖いですね」


「何がだ」


「訴訟類型を間違えると、期間以前の問題になる」


「やっと分かったか」


 相馬先輩が言いました。


「裁判なんて負け戦だ」


「口癖ですね」


「だがやるなら要件を揃えろ」


 はい。


 いつものやつです。


 その日の午後。


 私たちは森川さん本人と一緒に、県の出先機関へ行きました。


 訴訟をしに行くわけではありません。


 事業者側の補償算定について、


 まず事実関係を確認するためです。


 応対した職員から資料の説明を受け、


 森川さんの主張との食い違いを確認します。


 そして。


 なぜか。


 帰りに市役所へ寄ることになりました。


「どうして市役所なんです?」


「道路沿いの土地利用資料だ」


 相馬先輩が言います。


「比較資料になるか確認する」


「なるほど」


 都市計画関係の窓口で資料を確認したあと。


 二階の廊下で。


 見つかってしまいました。


「ああ」


 総務課の扉から出てきた沢渡課長が、こちらを見ます。


「今日は何ですか」


「その言い方、私たちが毎日問題持ち込んでるみたいじゃないですか」


「違いましたか」


「否定しづらい」


 沢渡課長の視線が、森川さんの持っている裁決書へ移りました。


「土地収用ですか」


「県道の件です」


 私が答えます。


「補償額に不満があるそうで」


「それで市役所へ?」


「資料確認だけです」


「なるほど」


 森川さんが沢渡課長を見ました。


「役所の人か」


「市役所です」


「じゃあ聞く。役所の決めた金額が気に入らなかったら、役所を訴えばいいんだろ?」


 沢渡課長は一瞬、裁決書を見ました。


 それから、


「何を争うかによります」


 と言いました。


 おお。


 即答。


「またそれですか」


 私が言う。


「何がです」


「役所の人って、すぐ『場合によります』って言う」


「場合によるからです」


「強い」


 沢渡課長は森川さんに向き直りました。


「収用そのものを争うのですか」


「いや。金額だ」


「なら、収用裁決の取消しとは別に考える必要がありますね」


「さっき聞いた」


「そうですか」


 沢渡課長は私を見る。


「朝比奈さん」


「はい」


「何の訴訟です?」


 来た。


 抜き打ち試験。


「形式的当事者訴訟」


「被告は?」


「補償金の法律関係の相手方」


「具体的には?」


「起業者」


「では、収用委員会は?」


「補償額について増額を求めるその訴えでは、相手方そのものではない」


 沢渡課長が頷きました。


「珍しく整理できていますね」


「珍しくは余計です」


 森川さんが不機嫌そうに言います。


「役所が金額を決めたのに、役所を相手にしないのがまだ分からん」


「そこが分かりにくいところです」


 私は言いました。


「収用委員会の裁決が間に入っています。でも、争いたいのが補償額だけなら、法律が『お金を払う側と受け取る側で直接争いなさい』という形にしているんです」


「だったら最初からそう言えばいい」


「法律の条文は、たまに説明する気を失ってるので」


「朝比奈さん」


 沢渡課長が静かに言いました。


「公務員の前で言いますか」


「個人の感想です」


 相馬先輩が横で笑いを堪えています。


 沢渡課長が、ふと私に聞きました。


「ところで」


「はい」


「当事者訴訟は、全部こういうものだと思っていませんか」


 ぎく。


 分かるんですね、この人。


「……形式的当事者訴訟だけではないですよね」


「では、もう一つは?」


「実質的当事者訴訟」


「例えば?」


 私は記憶を掘ります。


 公務員。


 懲戒免職。


 地位確認。


 給料。


「たとえば、公務員が懲戒免職されたけれど、その処分が無効だという前提で、公務員としての地位確認を求めるとか」


「そうですね」


 森川さんが首を傾げました。


「それも同じ当事者訴訟なのか」


「同じ分類に入ります」


「全然違うじゃないか」


「そうなんです!」


 思わず強く言ってしまいました。


 私はずっとそれが不満だった。


「形式的当事者訴訟と実質的当事者訴訟って、名前は兄弟みたいなのに、中身の顔が全然似てないんです」


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「教材への愚痴みたいになってるぞ」


「でも本当ですよ」


 形式的当事者訴訟。


 行政の処分や裁決が関係する。


 だけど法律の特別な仕組みによって、


 その法律関係の当事者同士を原告・被告として争わせる。


 典型が、


 収用補償額の増額・減額。


 一方。


 実質的当事者訴訟。


 そもそも中心にあるのは、


 公法上の法律関係そのもの。


 私は公務員の地位にあります。


 私は日本国籍を有しています。


 私はこの公法上の金銭を請求できます。


 そういう現在の法律関係を確認したり、


 公法上の給付を求めたりする。


「名前でまとめて覚えようとすると混乱しますね」


 私が言うと、


 珍しく沢渡課長が少し笑いました。


「別々に覚えた方が早いでしょう」


「ですよね!」


「ただし」


 笑顔が消えました。


「裁判は暗記問題ではありません」


「はい」


「何を求める訴えなのかを見誤れば、名称を知っていても意味はない」


 また急に壁に戻った。


 この人、本当に行政法の教材から人型になって出てきたんじゃないでしょうか。


 翌日。


 片桐事務所。


 森川さんの資料は、机いっぱいに広がっていました。


 登記簿。


 公図。


 裁決書。


 補償明細。


 農作物の帳簿。


 ビニールハウスの写真。


 周辺の土地利用状況。


 そして。


「これ、抜けてます」


 私は言いました。


「何が」


 相馬先輩が覗き込みます。


「井戸です」


「井戸?」


「現地写真にあります」


 私は写真を指しました。


 畑の隅。


 小さなポンプ。


「森川さん、灌水用の井戸が収用範囲にかかってません?」


 本人に電話します。


『かかっとるぞ』


「補償明細に井戸関係の移設費らしき項目が見当たりません」


『最初から言っとる!』


「どこに?」


『県の人に!』


「書面では?」


『口では言った!』


 うわあ。


 実務で一番怖いやつ。


 言った。


 言わない。


「分かりました。井戸の設置時期、費用、今どう使ってるか分かるもの探してください」


『そんな昔の領収書あるか!』


「なければ、ほかの資料で立証できるか考えます」


 電話を切る。


 相馬先輩が頷きました。


「そこだな」


「はい」


 補償額が低い。


 という一言では弱い。


 何が評価されていないのか。


 どの項目がおかしいのか。


 どんな事実が抜けているのか。


 そこまで崩さないと、法律論にならない。


「行政書士の仕事って」


 私は言いました。


「裁判所に行かないのに、裁判の入口まではかなり近いですね」


「近いから線を越えるな」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「訴訟代理は弁護士だ」


「はい」


「こちらは事実を整える。資料をそろえる。行政手続の経過を整理する」


「はい」


「弁護士が判断できる形にして渡す」


「はい」


 明確です。


 越えない。


 でも。


 手前でやることは、山ほどある。


 三日後。


 提携先の弁護士、榊原先生が事務所へ来ました。


 四十代。


 紺の背広。


 相馬先輩より煙草の本数は少なく、


 片桐所長より喋ります。


「これ、よく整理してありますね」


 森川さんのファイルをめくりながら言いました。


 私は少し嬉しくなりました。


「朝比奈さん?」


「はい」


「この比較表、作ったの」


「はい」


「助かります」


 やった。


 行政法で褒められた。


 現代にいた頃なら赤飯を炊くところです。


 榊原先生は補償明細と写真を見比べました。


「井戸だけじゃないな」


「え?」


「この通路部分」


 指で示します。


「残地の使い勝手が落ちる可能性がある」


「あ」


「農機具が入る幅、今と収用後で変わるでしょう」


 森川さんに確認する。


 やはり。


 大型の耕運機を入れる経路が狭くなる。


 場合によっては迂回が必要になる。


「これは検討材料ですね」


 榊原先生が言いました。


 森川さんが身を乗り出します。


「じゃあ勝てるのか」


「まだ言えません」


「またそれか!」


「裁判で一番危険なのは、資料を見る前に勝てると言うことです」


 森川さんが唸ります。


 片桐所長と同じタイプだ。


 ぬか喜びをさせない。


「ただ」


 榊原先生は続けました。


「少なくとも、『気に入らないから裁決全部を取り消してくれ』という話ではありません」


「ああ」


「収用自体は受け入れる」


「仕方ないと思っとる」


「なら争点は補償額です」


「そうだ」


「そこに絞れるのは大きい」


 榊原先生がファイルを閉じました。


「土地収用法の規定に従って、補償額の増額を求める形を検討します」


 森川さんがゆっくり頷きました。


「相手は?」


「起業者です」


「収用委員会じゃなく?」


「補償額だけを争う訴えでは、そうです」


 森川さんが私を見ました。


「本当だったんだな」


「私、そんなに信用なかったです?」


「若いからな」


「十八です」


「ほら」


 ほらじゃない。


 でも見た目十八歳の行政書士見習いに、


 行政事件訴訟の分類を説明されたら、


 私でも少し疑います。


 その週の終わり。


 森川さんは再び県側と話す場を持ちました。


 今回は弁護士への相談に進んでいることも伝え、


 補償算定上の確認事項を整理した書面を持参しました。


 私たちは訴訟代理をしません。


 ただし。


 訴訟になった場合に、


 何が争点になるのか。


 どの資料が問題になるのか。


 そこまで輪郭が見えれば、


 行政側にも見え方が変わります。


 井戸。


 農機具の進入路。


 残地の利用状況。


 施設移転。


 それぞれについて、


 補償算定でどう扱ったのか。


 説明を求める。


 向こうも、


 単なる怒鳴り込みではないと分かります。


 数日後。


 県側から連絡がありました。


 一部の算定項目について、再確認する。


 追加資料の提出を受ける。


 まずはそこまで。


 全面解決ではありません。


 金額が上がるとも決まっていません。


 訴訟になる可能性も残っています。


 でも。


「話をし直すって言ったのか」


 森川さんは事務所で確認しました。


「はい」


「前は『裁決が出ています』の一点張りだったぞ」


「今度は論点を絞りましたから」


「論点?」


「土地を取るな、じゃない」


 私は言いました。


「取るなら、この補償項目をちゃんと評価してください、です」


 森川さんは腕を組みました。


「……同じ怒ってるでも違うもんだな」


「かなり違います」


「俺は最初、全部ひっくり返せと思ってた」


「それだと、収用そのものを争う話と混ざります」


「で、金だけなら当事者何とか」


「形式的当事者訴訟」


「長えな」


「私もそう思います」


「覚え方ねえのか」


 私は少し考えました。


「収用はいい。でも金が足りない」


「うん」


「払う人と、もらう人で直接争う」


「うん」


「それが典型例です」


「そっちのほうが分かる」


「法律用語より事件で覚えた方が早いんですよ」


 言ってから。


 私は少し止まりました。


 あ。


 これ。


 まさに今の私です。


 受験生の頃、


 当事者訴訟。


 形式的。


 実質的。


 主観訴訟。


 抗告訴訟ではない。


 そんな言葉を表で暗記していました。


 でも今なら、


 森川さんの顔が出てくる。


 土地は使っていい。


 道路も広げていい。


 だけど。


 その代わりに払う金まで、


 役所が決めたから黙って飲み込め、


 ではない。


 そのとき、


 取消訴訟とは違う道がある。


 行政裁判なのに、


 行政庁の処分を取り消すことが主役ではない。


 当事者同士の法律関係を争う。


 だから。


 当事者訴訟。


「ようやく名前に納得しました」


 私が言うと、


 相馬先輩が新聞から目を上げました。


「遅えよ」


「受験生時代から数えると、かなり時間かかりました」


「十八で何言ってんだ」


「いろいろあるんです」


 森川さんが帰りかけて。


 引き戸の前で止まりました。


「あ」


「どうしました?」


「忘れてた」


 外へ出る。


 戻ってくる。


 両手に、大きな段ボール箱。


「何ですか、それ」


「大根」


「また?」


「売り物にならん曲がったやつだ」


 箱いっぱい。


 見事に曲がっています。


 右。


 左。


 一本は完全に二股。


「多くないですか」


「持ってけ」


「いや、事務所ですよ?」


「煮れば同じだ」


 相馬先輩が箱を覗き込みます。


「食えるんだろ」


「先輩、そういう時だけ反応早いですね」


「おでんだな」


「まだ十月にもなってませんよ」


「夜は冷える」


 片桐所長まで一本持ち上げました。


「葉も食える」


「所長まで」


 森川さんが笑いました。


 初めて来た日とは、ずいぶん違う顔です。


「まだ終わってないぞ」


 所長が言いました。


「分かっとる」


「補償額も変わるとは限らない」


「それも分かっとる」


「ならいい」


 森川さんは頷きました。


「でもな」


「はい」


「最初は、役所が決めた数字なら、もうどうにもならんと思っとった」


 私は黙って聞きました。


「裁判にしてやるって怒鳴ったけど、本当は何を裁判にするのかも分かっとらんかった」


「普通は分からないですよ」


「そうか?」


「当事者訴訟なんて名前だけで理解できる人、かなり少ないです」


「お前も分かっとらんかったじゃないか」


「そこは忘れてください」


 森川さんが笑いました。


「でも」


 私は言いました。


「役所が関わっている争いだからといって、全部が『役所の処分を取り消せ』ではないんです」


「ああ」


「何を争いたいのかで、入口が変わる」


 森川さんは少し考え、


「道路はいい。金は嫌だ」


「ものすごく簡単に言えば、それです」


「じゃあ俺は、それで行く」


 片桐所長が首を横に振りました。


「行くかどうかは弁護士と決める」


「細かいな」


「大事だ」


 そう。


 大事です。


 行政書士が裁判の結果を決めるわけではない。


 裁判を代理するわけでもない。


 でも。


 怒りの中から、


 何を争うのかを取り出す。


 処分そのものか。


 法律関係か。


 金額だけか。


 現在の地位か。


 相手は誰か。


 入口はどこか。


 その仕分けを間違えない。


 たぶん。


 裁判という大きな建物に入る前には、


 そんな地味な案内標識が必要なのです。


 夕方。


 森川さんが帰ったあと。


 机の横には大根の箱。


 私は一本持ち上げました。


 二股です。


「先輩」


「何だ」


「今日の事件、この大根みたいですね」


「意味分からん」


「行政訴訟って一つの根っこから、道が分かれてる」


「無理やりだな」


「取消訴訟へ行く道と、当事者訴訟へ行く道」


「大根に謝れ」


「じゃあこれは形式的当事者訴訟」


 右側を指します。


「こっちは実質的当事者訴訟」


 左側。


「食い物で法律やるな」


「覚えやすいですよ」


「じゃあ抗告訴訟はどこだ」


「葉っぱ?」


「雑すぎる」


 片桐所長が奥から出てきました。


 大根を見る。


「何をしてる」


「当事者訴訟の理解を深めています」


「料理しろ」


「所長までおでん派ですか」


「味噌汁でいい」


 行政書士事務所の業務範囲が、今日も広すぎます。


 私は大根を箱へ戻しました。


 そして心の中で、


 今日の教訓を一つだけまとめる。


 役所が出てくる裁判だからといって、


 全部が役所の処分を取り消す裁判ではない。


 まず見るのは、


 誰に腹を立てているかではなく。


 何を争いたいのか。


 そこです。


 土地を取ることなのか。


 補償額なのか。


 公務員としての地位なのか。


 現在の公法上の法律関係なのか。


 そこを間違えれば、


 正しい法律論を持っていても、


 違う入口の前で立ち尽くす。


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「何です?」


「大根一本持って帰れ」


「嫌ですよ。重いです」


「二本」


「増やさないでください」


「不服か」


「不服です」


「じゃあ訴えろ」


「何訴訟ですか」


「大根引取拒否訴訟」


「存在しません!」


「義務付けで持って帰らせるか」


「昭和六十三年に法定の義務付け訴訟はありません!」


「お」


 相馬先輩が笑いました。


「今日は地雷踏まなかったな」


「誰のせいで地雷原歩いてると思ってるんですか!」


 片桐所長が一本の大根を私の鞄の横へ置きました。


「所長?」


「持って帰れ」


「拒否します」


「決定だ」


「理由を示してください」


「余ってる」


「短い!」


「十分だ」


「処分性から争いますよ!」


「これは処分じゃねえ」


 相馬先輩が吹き出しました。


 私は鞄と大根を見比べました。


 役所の決定なら、


 何でも取消訴訟になるわけじゃない。


 事務所の決定も、


 どうやら何でも抗告訴訟にできるわけではないらしい。


 仕方なく大根を抱える。


 ずしりと重い。


 今日覚えた当事者訴訟も、


 昨日までの私には同じくらい重かった。


 でも。


 森川さんの畑を思い浮かべれば、


 少しだけ軽くなる。


 ――収用そのものは争わない。


 ――補償額だけを争う。


 ――だから、払う側ともらう側で争う。


 形式的当事者訴訟。


 そして。


 処分を取り消すのではなく、


 公務員の地位や公法上の権利関係そのものを争うなら、


 実質的当事者訴訟。


 名前だけなら眠い。


 人の困りごとになると、


 突然、違いが見える。


「こはる」


「はい」


「それ」


 所長が大根を指しました。


「葉を捨てるな」


「そこまで指定するんですか」


「食える」


「所長、行政法より大根に詳しくないですか」


「両方知ってる」


「強い」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日は、


 裁判の相手を間違えない方法と、


 大根の葉は捨てない方がいいという知識を覚えました。


 試験に出るのは、


 たぶん前者だけです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
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