[当事者訴訟――形式的当事者訴訟と実質的当事者訴訟]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、ときどき昼間より危険なものがあります。
静けさです。
電話が鳴らない。
来客もない。
相馬先輩も珍しく煙草を一本吸い終えるまで黙っている。
こうなると。
勉強するしかありません。
そして私の机の横には、
もっと危険なものがありました。
「……大根」
森川さんが置いていった箱です。
一本どころではありません。
大小さまざま。
曲がっている。
二股になっている。
一本なんか、どう育ったらそうなるのか分からない角度で曲がっています。
「先輩」
「何だ」
「これ、いつまで置いとくんです?」
「腐るまで」
「駄目でしょう」
「じゃあ食え」
「事務所で?」
「持って帰れ」
「昨日一本持って帰りました」
「なら今日も一本」
「日刊大根になってます」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「葉も食え」
「所長、その情報二回目です」
どうやら片桐事務所では、
土地収用事件が終わるまで、
大根の収用も続くらしい。
私は諦めてノートを開きました。
今日の見出し。
大きく書きます。
――当事者訴訟。
そしてその下。
――形式的当事者訴訟。
――実質的当事者訴訟。
書いた瞬間。
もう眠そうです。
「名前が悪いと思うんですよ」
「始まったな」
相馬先輩が言います。
「何がです?」
「お前の法律用語への文句」
「だって」
私はノートを指しました。
「形式的と実質的ですよ?」
「そうだな」
「名前だけ見て、中身の違いが分かります?」
「覚えろ」
「身も蓋もない!」
でも。
昨日までなら、
私はこの二つを、
同じ箱に入った似たような制度だと思っていました。
ところが。
森川さんの事件を見てからは違います。
形式的当事者訴訟。
収用はいい。
でも補償額が少ない。
払う側ともらう側で争う。
実質的当事者訴訟。
公務員の地位。
国籍。
選挙人たる地位。
公法上の法律関係そのものを争う。
「……やっぱり別物にしか見えません」
「だから別々に覚えろ」
相馬先輩が言いました。
「昨日、沢渡課長にも同じこと言われました」
「珍しくあいつと意見が合ったな」
「不本意そうですね」
「気のせいだ」
はい。
いつものやつです。
私はまず、
ノートの一番上に、
当事者訴訟とは何か。
と書きました。
「所長」
「何だ」
「定義から行きます」
「言ってみろ」
嫌な予感。
口頭試問です。
「当事者訴訟とは……」
頭の中の条文を引っ張り出す。
「当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で、法令の規定によりその法律関係の当事者の一方を被告とするものと――」
「長い」
相馬先輩が切りました。
「今、条文なんです!」
「聞いてる方が眠くなる」
「じゃあ先輩が言ってください」
「嫌だ」
「逃げた」
片桐所長が淡々と続けました。
「それが形式的当事者訴訟だ」
「はい」
「もう一つ」
「公法上の法律関係に関する確認の訴え、その他の公法上の法律関係に関する訴訟」
「それが」
「実質的当事者訴訟」
私は書きました。
そして。
しばらく眺めました。
「……分かりづらい」
「条文だけ読めばな」
所長が言います。
「だから事件に戻せ」
事件に。
森川さん。
県道拡幅。
土地収用。
補償額。
あ。
私はペンを取りました。
「まず、形式的当事者訴訟」
大きく丸をつけます。
「昨日の森川さんが典型ですね」
「ああ」
「土地を収用されること自体には納得している」
「うん」
「でも、補償額が少なすぎる」
「うん」
「その場合、収用委員会の裁決そのものを全部取り消してもらいたいわけじゃない」
「そうだ」
「争いたいのは、補償額だけ」
「そこだ」
私はその部分を二重線で囲みました。
これ。
ここが入口です。
行政処分がある。
不満もある。
だから取消訴訟。
ではない。
何に不満があるのか。
そこを見る。
「本来なら」
私は整理します。
「収用委員会の裁決が問題になっているから、その裁決を争うなら抗告訴訟を考える」
「そうだな」
「でも損失補償額については、法律が特別に、補償を受ける側と支払う側との間で争わせる形を取っている」
「うん」
「だから、法律関係の当事者の一方を被告とする」
「それが形式的当事者訴訟だ」
片桐所長が言いました。
私はノートに書きます。
――行政の処分・裁決が土台にある。
――でも、争いの相手は行政庁とは限らない。
――法令が、法律関係の当事者同士で争わせる。
これが、
形式的。
「なぜ形式的っていうんでしょう」
「分類の名前に深入りするな」
相馬先輩が言います。
「試験では名前を覚えろ」
「ひどい」
「理解に時間かけて本番で落とすよりましだ」
「実務派」
でも。
イメージは掴めます。
見た目は、
行政の裁決に関係している。
なのに訴訟の形は、
法律関係の当事者同士。
だから、
抗告訴訟とは違う。
「じゃあ逆は?」
相馬先輩が言いました。
「逆?」
「起業者が、補償額が高すぎると言ったら」
「あ」
そうでした。
森川さんは、
補償が少なすぎる。
だから増額してほしい。
でも。
反対側から見ることもある。
「起業者が、補償額が高すぎると争う場合」
「うん」
「今度は土地を収用された側が被告になる」
「そうだ」
「それでも形式的当事者訴訟」
「そういうことだ」
私は書き足しました。
――増額請求だけで覚えない。
――減額請求もある。
「これ、試験でいやらしく聞かれそうですね」
「どういうふうに」
「『形式的当事者訴訟では、常に私人が行政主体を被告とする』とか」
「×だな」
「ですよね」
「逆方向もある」
「はい」
私は少し嬉しくなりました。
こういう瞬間。
テキストの文章が、
事件の形になる。
それまでただの暗記だったものが、
人の位置関係に変わる。
土地を取られた側。
事業を行う側。
どちらが不満を持つかで、
原告と被告が入れ替わる。
でも訴訟類型は同じ。
「森川さんで覚えれば忘れませんね」
「大根も一緒に思い出しそうだな」
「やめてください」
試験中に大根が浮かんだら嫌です。
私はページを変えました。
次。
実質的当事者訴訟。
ここから、
見た目が一気に変わります。
「典型例」
私は言いました。
「公務員の地位確認」
「うん」
「懲戒免職処分を受けた公務員が、その処分は無効だとして、公務員としての地位があることを確認してもらう」
「そうだ」
「さらに給料の支払いを求めることもある」
ここで。
私は少し引っかかりました。
「でも」
「何だ」
「免職処分があるなら、無効等確認訴訟で無効を確認してもらえばいいんじゃないですか」
相馬先輩が煙草を灰皿へ置きました。
「お前、自分で昨日言ってただろ」
「何をです?」
「何を争いたいかを見ろ」
あ。
やられた。
「免職処分そのものの無効確認が最終目的なのか?」
「違う場合がある」
「本当に欲しいのは?」
「公務員としての地位」
「それと?」
「給料」
「なら?」
私は頷きました。
「現在の法律関係そのものを確認したり、給付を求めたりする」
「そうだ」
これが大事。
処分は過去にある。
でも。
本当に解決したいのは、
今、自分は公務員なのか。
今、給料を請求できるのか。
現在の公法上の法律関係。
「民間会社なら」
私は言いました。
「社員が不当解雇された場合に、社員としての地位確認や賃金請求をする」
「民事訴訟だな」
「はい」
「公務員なら?」
「公法上の法律関係だから、実質的当事者訴訟になる」
「そういうことだ」
なるほど。
形は似ています。
会社員。
会社との雇用関係。
公務員。
国や地方公共団体との公法上の任用関係。
違いは、
法律関係の性質。
「これ、確かに内容だけ見ると民事訴訟みたいですね」
「だから余計に分かりにくい」
「でも相手が行政主体」
「それだけで全部行政事件になるわけじゃないが、公法上の法律関係なら当事者訴訟になる」
「はい」
私は書きました。
――実質的当事者訴訟=公法上の法律関係そのものを争う。
その下。
具体例。
公務員の地位確認。
給与支払請求。
議員の地位確認。
日本国籍の確認。
選挙人たる地位の確認。
憲法二十九条三項を直接根拠とする損失補償請求。
「具体例、多いですね」
「具体例で覚えろ」
「またそれですか」
「当事者訴訟は抽象論だけで覚えると迷子になる」
相馬先輩が珍しくまともなことを言いました。
「今、まともなこと言いましたね」
「いつも言ってる」
「気のせいでは?」
「殴るぞ」
「行政指導として受け止めます」
「暴力は行政指導じゃねえ」
所長が低く言いました。
はい。
その通りです。
私はノートの中央に線を引きました。
左。
形式的当事者訴訟。
右。
実質的当事者訴訟。
「比べます」
「やれ」
「形式的は、処分や裁決が関係する」
「うん」
「でも、法令の規定によって、法律関係の当事者同士で争う」
「うん」
「典型例、収用補償額の増額・減額」
「うん」
「実質的は」
右側。
「公法上の法律関係それ自体に関する訴訟」
「うん」
「典型例、公務員の地位確認、給料請求、国籍確認など」
「そうだ」
私は線を引いて、
二つの間に大きく書きました。
――無理につなげない。
「そこ試験答案に書くなよ」
「分かってます」
「でも覚え方としては正しい」
「ですよね」
名前は似ている。
でも中身は違う。
ここで無理やり共通イメージを作ろうとすると、
かえって混乱する。
「じゃあ共通点は?」
相馬先輩が聞きました。
「え?」
「形式的と実質的。まったく別物なら、何でどっちも当事者訴訟なんだ」
急に難しいことを。
私は少し考えました。
「抗告訴訟みたいに、行政庁の公権力行使そのものを直接攻撃して取り消してもらう形ではない」
「うん」
「当事者間の法律関係を中心に争う」
「それでいい」
所長が言いました。
なるほど。
細部は違う。
でも。
行政庁の処分を取消す、
という抗告訴訟型ではなく。
当事者間の法律関係を中心に解決する。
そこに共通した性格がある。
私はノートの上に一言。
――抗告訴訟ではない。
と書きました。
「ここで問題です」
私は言いました。
「誰に向かってだ」
相馬先輩。
「私にです」
「勝手にやれ」
「実質的当事者訴訟と争点訴訟の違い」
「出たな」
そう。
ここも混ざりやすい。
私も受験生時代、
何度か頭の中で一つに溶けました。
「どっちも、行政処分の有効性が背景で問題になることがあります」
「うん」
「でも」
私は整理します。
「実質的当事者訴訟は、行政主体と私人との間の公法上の法律関係を争う」
「うん」
「争点訴訟は、私人と私人の間の民事訴訟」
「そこだ」
私は大きく書きました。
――誰と誰の争いか。
「具体例」
相馬先輩が言います。
「急に先生みたいですね」
「いいから言え」
「たとえば」
私は考えます。
「行政処分の有効無効が前提問題になっていても、最終的に私人同士の権利関係を争っているなら争点訴訟」
「そうだ」
「行政主体との公法上の地位や給付を直接争うなら、実質的当事者訴訟」
「それで整理しろ」
「はい」
私は矢印を書きました。
実質的当事者訴訟。
私人 対 行政主体。
公法上の法律関係。
争点訴訟。
私人 対 私人。
民事上の法律関係。
「似てるようで、入口が全然違いますね」
「行政法はそういうのばっかりだ」
「ほんとですよ」
処分性。
原告適格。
訴えの利益。
取消訴訟。
無効等確認。
当事者訴訟。
争点訴訟。
一文字違うだけで世界が変わる。
行政法、
名前の付け方にもう少し愛嬌があってもいいと思います。
そこで。
片桐所長が口を開きました。
「無効等確認訴訟との関係は」
「来ましたね」
私は姿勢を正します。
ここ。
大事です。
実質的当事者訴訟と、
無効等確認訴訟。
どちらを使うか。
「現在の法律関係に関する訴訟で目的を達成できるなら」
私は答えました。
「原則として、そちらを使う」
「うん」
「無効等確認の訴えは、現在の法律関係に関する訴えによって目的を達することができない場合などに限られる」
「そうだ」
私はノートに、
――無効確認は最後の手段になりやすい。
と書きました。
「たとえば、公務員の懲戒免職処分」
「うん」
「本当に欲しいのが『私は今も公務員です』という確認なら」
「うん」
「免職処分無効確認そのものより、公務員としての地位確認を求める方が直接的」
「そういうことだ」
「さらに未払い給料が欲しいなら、給付請求までできる」
「うん」
つまり。
処分の無効そのものを確認してもらうより。
現在の権利関係を直接確認した方が、
紛争を一気に解決できることがある。
「裁判所も、遠回りさせたくないんですね」
「制度としてはな」
相馬先輩が言いました。
「処分が無効かだけ確認して、そのあとまた地位確認や金銭請求をやるより、今の法律関係を直接片付けた方が早い」
「なるほど」
ここで。
私は今日一番、
当事者訴訟というものが分かった気がしました。
当事者訴訟は、
行政処分を叩くことが主役ではない。
その処分の先にある、
今の法律関係をどうするのか。
そこを直接解決しにいく訴訟。
「でも」
私は言いました。
「昭和六十三年と現代で、この辺りの位置づけって同じなんですか」
片桐所長がこちらを見ます。
「何が言いたい」
「現代だと、確認訴訟を使った救済の幅がかなり意識されますよね」
「未来の話か」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「今日は必要です」
「なら短くしろ」
「はい」
私はノートの端に、
現代。
と書きました。
平成十六年の行政事件訴訟法改正では、
救済手段の拡充が大きなテーマになりました。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
原告適格の考え方の整備。
出訴期間の延長。
そして。
公法上の法律関係に関する確認の訴えを含め、
当事者訴訟を活用する余地も改めて意識されるようになった。
「昭和六十三年には」
私は言いました。
「義務付け訴訟や差止訴訟が法定されてません」
「また未来の制度を持ち込むなよ」
「昨日は持ち込んでません!」
「珍しくな」
「その言い方」
でも。
ここは大事。
昔の行政訴訟は、
取消訴訟中心。
救済手段が狭い。
義務付けも差止めも法定されていない。
だから。
今ある法律関係をどう確認するか。
当事者訴訟で救済できないか。
そういう発想が、
場合によっては重要になる。
「でも何でも当事者訴訟にすればいいわけじゃない」
所長が言いました。
「もちろんです」
「処分を直接取り消さなければ救済できないなら、抗告訴訟を考える」
「はい」
「現在の法律関係を直接争えば足りるなら、当事者訴訟を考える」
「はい」
「類型は目的から選べ」
私はそのまま書きました。
――類型は目的から選ぶ。
これ、
今日一番大事かもしれません。
私は昨日の森川さんを思い出します。
最初は、
県を訴える。
収用委員会を訴える。
裁判にしてやる。
全部ひとまとめでした。
でも。
何を望んでいるのかを聞いたら。
道路を止めたいわけではない。
土地収用そのものを無かったことにしたいわけでもない。
補償額だけ。
そこが分かった瞬間。
訴訟の形が変わりました。
「怒りから訴訟類型は決まりませんね」
私が言うと、
相馬先輩が頷きました。
「当たり前だ」
「でも相談者って、最初はだいたい『訴えてやる』じゃないですか」
「だから聞くんだよ」
「何を?」
「最後に何が欲しいのか」
あ。
私はペンを止めました。
「それ、いいですね」
「何が」
「最後に何が欲しいのか」
処分を消したい。
許可が欲しい。
地位を確認したい。
金を払ってほしい。
差止めたい。
補償額を増やしたい。
最終目的。
そこから逆算する。
行政事件訴訟法の訴訟類型は、
ただ分類を覚えるためにあるのではない。
欲しい救済によって、
入口を選ぶためにある。
「受験生時代の私に言いたい」
「何を」
「訴訟類型の表を眺める前に、『この人は最後に何が欲しい?』って考えろ、と」
「それができりゃ苦労しねえ」
「確かに」
私はノートを見直しました。
形式的当事者訴訟。
処分や裁決に関係する。
でも法令の規定によって、
法律関係の当事者の一方を被告にする。
典型例。
土地収用の補償額。
増額。
減額。
実質的当事者訴訟。
公法上の法律関係そのものを争う。
典型例。
公務員の地位確認。
給料支払請求。
議員の地位確認。
国籍確認。
選挙人たる地位確認。
憲法二十九条三項に基づく損失補償請求。
争点訴訟との違い。
実質的当事者訴訟は、
私人対行政主体。
公法上の法律関係。
争点訴訟は、
私人対私人。
民事訴訟。
無効等確認訴訟との関係。
現在の法律関係を確認する訴えなどで目的を達成できるなら、
そちらを使う。
無効等確認訴訟は、
それでは目的を達成できない場合に問題になる。
「所長」
「何だ」
「試験なら、どこを一番押さえます?」
「全部」
「厳しい」
「なら典型例だ」
「形式的は収用補償額」
「うん」
「実質的は公務員の地位確認」
「うん」
「争点訴訟との違いは、行政主体との公法上の関係か、私人間の民事関係か」
「そうだ」
「無効確認より現在の法律関係を直接争えるなら、そちらを優先」
「それでいい」
私は大きく丸をつけました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『森川だ』
「あ、森川さん」
『県から連絡が来た』
「どうでした?」
『井戸と通路の件、もう一回現地を見るってよ』
「本当ですか」
『ああ』
声が少し明るい。
『まだ金が増えるかは分からんがな』
「それでも前進ですね」
『そうだな』
少し間があって。
『それで聞きたいんだが』
「はい」
『あの、当事者なんとかって、俺はもう覚えたぞ』
「お」
『形式的当事者訴訟だろ』
「正解です」
『土地は取っていい。金は足りん。払う側と争う』
「完璧です」
『じゃあ実質的は?』
「え」
『昨日聞いたけど忘れた』
「公法上の法律関係そのものを争う方です。たとえば公務員の地位確認とか」
『……大根とは関係ないか』
「ありません」
『そうか』
「何であると思ったんです?」
『相馬さんが昨日、大根の二股で説明してたから』
私は相馬先輩を見ました。
聞いてます?
という顔をする。
相馬先輩が目を逸らしました。
「森川さん」
『何だ』
「忘れてください、その覚え方」
『でも覚えやすかったぞ』
「試験受けるわけじゃないでしょう」
『そうだけどな』
笑っています。
『じゃあまた連絡する』
「はい」
電話が切れました。
「先輩」
「何だ」
「大根で説明したんですか」
「してねえ」
「森川さん言ってました」
「冗談だ」
「定着してるじゃないですか!」
所長が低く笑いました。
夕方の光が、
机の上のノートを斜めに照らしています。
私は最後のページを開きました。
いつもの。
一行の覚え書き。
「今回は難しいなあ」
「何が」
「一行にするのが」
形式的。
実質的。
争点訴訟。
無効確認との関係。
全部入れたら一行ではありません。
「削れ」
相馬先輩が言います。
「何を残すんです?」
「核」
「その核を考えてるんですよ」
私はしばらくペンを止めました。
森川さん。
土地は取っていい。
でも金は足りない。
だから補償額だけを争う。
公務員なら。
免職処分そのものではなく、
今も公務員としての地位があるかを争う。
どちらも。
処分を攻撃すること自体が目的ではない。
その先にある法律関係を解決したい。
私は書きました。
――当事者訴訟は、「処分を消せ」ではなく、「当事者の法律関係を決めてくれ」と争う訴訟。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めました?」
「気のせいだ」
「またそれ」
私はその下に、
さらに小さく書きました。
――形式的は「収用補償額」、実質的は「公法上の地位・権利」。
「二行になってるぞ」
「補助記憶です」
「一行の覚え書きじゃなかったのか」
「例外です」
「行政法みたいだな」
「やめてください。例外が増殖する」
ノートを閉じる。
今日は、
行政訴訟という言葉の見え方が少し変わりました。
私は今まで、
行政事件訴訟法と聞くと、
役所の処分を裁判所で取り消す。
そんな絵ばかり浮かべていました。
でも。
行政と国民の間に生まれる争いは、
それだけではありません。
処分があった。
裁決があった。
だからといって、
必ずその処分を正面から殴りにいく必要はない。
むしろ。
その処分を前提にして、
今、誰にどんな権利があるのか。
誰がいくら払うのか。
誰がどんな地位にあるのか。
その法律関係を直接決めた方が、
人を救えることがある。
昔の行政裁判は、
今より入口が狭い。
義務付け訴訟も、
差止訴訟も、
まだ法律に整備されていない。
取消訴訟の出訴期間だって三か月。
被告だって現代とは違う。
だからこそ。
どの道を選ぶか。
昔の実務家は、
今以上に慎重だったのかもしれません。
一つ入口を間違えれば、
裁判所は中身を見る前に止まる。
でも。
それは意地悪ではありません。
訴訟には訴訟の形がある。
誰が、
誰に、
何を求めるのか。
そこを厳格にするからこそ、
裁判所は具体的な紛争を解決できる。
制度の冷たさは、
ときどき壁になります。
でも。
正しい入口を見つけた人には、
その冷たさが、
公平な道になります。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「帰るぞ」
「はい」
「大根」
「……」
「忘れるな」
「所長」
「何だ」
「私は大根を持ち帰る法的義務がありますか」
「ある」
「根拠法令は?」
「所長命令」
「それ法令じゃないです!」
相馬先輩が箱から一本取りました。
「ほら」
「何です?」
「形式的当事者訴訟」
二股の右側を指す。
「こっちが実質的」
「先輩もやってるじゃないですか!」
「覚えやすいぞ」
「森川さんに感染させた犯人!」
私は二股大根を奪い取りました。
「じゃあここ」
真ん中を指します。
「争点訴訟」
「どこだよ」
「私人と私人だから、左右の根っこの間」
「意味分からん」
「無効等確認訴訟は葉っぱ」
「完全に破綻したな」
「だから大根で行政事件訴訟法を説明するのやめましょう!」
片桐所長が先に引き戸を開けます。
「早くしろ」
「はい」
私はノートを鞄に入れ、
大根を一本抱えました。
重い。
でも。
昨日より、
当事者訴訟は軽くなっています。
形式的。
実質的。
名前だけ見れば、
相変わらず少し眠い。
でも今は、
その向こうに人が見える。
土地を取られる森川さん。
補償金を払う起業者。
免職された公務員。
国籍を確認したい人。
自分の地位を確かめたい人。
法律関係を直接決めてほしい人。
それぞれが、
取消訴訟とは違う入口に立っています。
私は鞄を肩に掛けました。
「今日の一行」
誰にともなく呟きます。
――処分を消すだけが行政訴訟じゃない。今ある法律関係を直接決める道もある。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「もう帰ります!」
事務所の灯りを消す。
外はもう薄暗い。
右手に鞄。
左手に大根。
昭和六十三年。
今日も私は、
現代のテキストでは眠かった法律用語を、
人の困りごとと一緒に持ち帰ることになりました。
ただし。
大根だけは、
明日には食べたいと思います。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




