↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
295/701

[争点訴訟]現場編 「役所の処分が無効なら、役所を訴えればいい」の罠。欲しいのは処分の死亡診断書ではなく、土地を返せという判決だった

挿絵(By みてみん)

 裁判で大事なのは、


 誰が悪いか。


 だけではありません。


 最後に、何をもらって帰りたいのか。


 そこを間違えると、


 正しい怒りを持って裁判所まで行っても、


 違う扉の前で立ち尽くすことになります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「裁判にしてやる!」


 その日の相談者は、椅子に座る前から裁判を始めていました。


「市役所を訴えてやる!」


 二回目。


「この土地は俺のだ!」


 三回目。


 勢いだけなら、すでに第一審判決くらいまで出ています。


「まあ、座ってください」


 私は湯呑みを置きました。


「茶なんか飲んでる場合じゃない!」


「飲まなくてもいいので座ってください」


「俺の土地なんだぞ!」


「立ってても所有権は強くなりません」


「こはる」


 相馬先輩が低い声で呼びました。


「はい」


「煽るな」


「事実を言っただけです」


「そういうのを煽るっていうんだ」


 相談者は、


 藤巻源蔵さん。


 六十二歳。


 市内の外れで農業を続けてきた人でした。


 目の前の机には、


 古い登記簿の写し。


 農地に関する通知。


 売買契約書。


 そして、何度も折り畳まれて角が白くなった一枚の文書。


 話をまとめると、こうです。


 藤巻さんの父親が所有していた畑について、


 ずいぶん昔に行政上の買収処分が行われた。


 その後、土地は別の私人へ渡り、


 さらに現在の所有者である男――西野という人物の名義になっている。


 ところが最近になって、


 藤巻さんが古い資料を整理しているうちに、


 買収処分そのものに重大な問題があるのではないか、


 という資料が見つかった。


「父親には、まともな通知が来てない」


 藤巻さんが机を叩きます。


「しかも対象地の表示まで食い違ってる。こんなもん有効なわけがないだろ!」


 私は資料を見ました。


 土地の地番。


 面積。


 名義。


 当時の処分記録らしき写し。


 確かに、素人目にも妙な点があります。


「それで西野さんに土地を返してほしいと?」


「当たり前だ!」


「西野さんは?」


「返さないと言ってる!」


「何と言って?」


「登記は自分名義だ。役所の処分がどうとか知らん。文句があるなら裁判しろ、と」


 なるほど。


 そこで藤巻さんの怒りが法廷まで走ってきたわけですね。


「市役所に聞きました?」


「行った」


「どうでした?」


「昔の処分なので確認に時間がかかる。それだけだ!」


「総務課?」


「沢渡っていう、眼鏡の男が出てきた」


 ああ。


 やっぱり。


 うちの案件で役所の壁が必要になると、かなりの確率で出現する人です。


「でな」


 藤巻さんが身を乗り出しました。


「役所の処分が無効なら、無効確認訴訟ってやつをやればいいんだろ?」


「……え?」


「本で読んだ。行政処分が無効なら、裁判所に無効だって確認してもらうんだ」


 私は一瞬、


 そうですね。


 と言いかけました。


 行政事件訴訟法。


 無効等確認の訴え。


 処分や裁決の存否、効力の有無を確認する抗告訴訟。


 現代の受験知識が、頭の中から元気よく飛び出してきます。


 処分が重大かつ明白な瑕疵で無効なら――。


 待て。


 私は藤巻さんを見ました。


「藤巻さん」


「何だ」


「欲しいのは、何です?」


「だから、処分が無効だって――」


「その先です」


「その先?」


「裁判で処分が無効だと確認されたら、それで満足ですか」


「……は?」


 藤巻さんの眉が寄ります。


 私は聞き方を変えました。


「土地はいらないんですか」


「いるに決まってるだろ!」


「じゃあ、本当に欲しい判決は?」


「俺の土地だって認めてもらうことだ!」


 そこ。


 私は資料に目を落としました。


 何かが、


 カチッと噛み合いました。


 処分の無効そのものを確認してもらう。


 それが目的ではない。


 藤巻さんの最終目的は、


 今の土地所有者である西野さんとの関係で、


 この土地の所有権が自分にあると確認してもらうこと。


 つまり。


 表面に見えている敵は行政処分。


 でも、


 裁判として最後に決着させたいのは私人間の所有権。


「先輩」


 私は相馬先輩を見ました。


「これ」


「ああ」


「争点訴訟……?」


 相馬先輩が煙草を灰皿に置きました。


「やっと気づいたか」


「やっとって」


「さっきから顔に『無効確認訴訟!』って書いてあったぞ」


「そんな顔あります?」


「お前にはある」


 ひどい。


 でも。


 危なかった。


 かなり危ない。


 私は頭の中で整理しました。


 争点訴訟。


 私法上の法律関係に関する訴訟。


 ただし、


 その前提として、


 行政処分や裁決の存否、


 または効力の有無が争われる。


 今回なら、


 藤巻さん対西野さん。


 問題となるのは土地所有権。


 これは私法上の権利。


 でも、


 藤巻さんが所有権を主張する前提として、


 昔の農地買収処分が無効だったかどうかが問題になる。


 つまり。


 民事訴訟なのに、


 ど真ん中に行政処分が立っている。


「何だそれ」


 藤巻さんが言いました。


「民事なのか行政なのか、どっちなんだ」


「訴訟としては民事です」


 私は答えました。


「ただし、民事上の所有権を判断する前提として、行政処分の効力が争点になる」


「分からん」


「ですよね」


 私も受験生時代、


 最初に見たときは、


 法律がわざと分類を難しくしているのかと思いました。


「たとえば」


 私は紙に簡単な図を書きました。


 藤巻さん。


 土地。


 西野さん。


「藤巻さんが最終的に言いたいのは、『この土地は自分のものだ』ですよね」


「ああ」


「それを争う相手は?」


「西野だ」


「市役所じゃない」


「……まあな」


「でも西野さん側は、昔の買収処分が有効だったから、その後の取得も有効だと言う」


「そうだ」


「だから藤巻さんは、『そもそも最初の買収処分が無効だから、自分の所有権は失われていない』と主張する」


「そうだ!」


「その形なら」


 私は一度区切りました。


「処分の無効は、最終ゴールじゃなくて、所有権を決めるための前提問題です」


 藤巻さんが腕を組みました。


「……前座か」


「かなり重要な前座です」


「主役級の前座だな」


「そうですね」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「要するに」


 彼が藤巻さんに言います。


「役所の処分が無効かどうかだけ聞きたいんじゃねえんだろ」


「ああ」


「土地が誰のもんか決めてほしい」


「そうだ」


「なら、訴えの形もそこに合わせろってことだ」


 藤巻さんはしばらく黙りました。


「裁判ってのは」


 ぼそりと言います。


「悪いところを訴えるんじゃないのか」


「違います」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「何を求めるかで決まります」


 短い。


 でも強い。


 藤巻さんが所長を見る。


「同じ『役所の処分がおかしい』でも?」


「その処分自体を消したいのか」


「……」


「無効だと確認してほしいのか」


「……」


「その無効を前提に、土地や金を取り戻したいのか」


「違うのか」


「違います」


 所長は机の文書を指しました。


「入口が変わる」


 私は心の中で唸りました。


 行政事件訴訟法。


 受験テキストだと、


 取消訴訟。


 無効等確認。


 不作為の違法確認。


 当事者訴訟。


 民衆訴訟。


 機関訴訟。


 争点訴訟。


 そんなふうに棚へ並んでいます。


 でも現場では、


 この棚のどこから出すかを間違えると、


 相談者の本当に欲しいものへ届かない。


「じゃあ」


 藤巻さんが言いました。


「市役所は訴えないのか」


「今回、所有権確認を求めるなら、基本的な相手は現在の所有権を争う西野さんです」


「役所の処分が問題なのに?」


「そこが気持ち悪いですよね」


「お前もそう思うのか」


「最初は」


「こはる」


「はい」


 片桐所長に見られました。


「感想を説明に混ぜるな」


「はい」


 でも本当に不思議です。


 行政処分の無効が重要な争点なのに、


 訴訟の表札は民事。


 しかも当事者は私人同士。


 行政事件なのかと思えば、


 最後に争っている権利は所有権。


 ここが争点訴訟のややこしくて、


 そして面白いところです。


「ただし」


 相馬先輩が言いました。


「今ここで『勝てる』とは言わねえぞ」


 藤巻さんの顔が険しくなります。


「何でだ」


「処分が本当に無効かは別問題だ」


「通知がおかしいんだぞ」


「おかしいと無効は同じじゃねえ」


 出ました。


 行政法の冷たい壁。


 瑕疵がある。


 だから無効。


 とは限りません。


 取消し得るだけの処分と、


 最初から効力を認められない無効の処分は違う。


「昔の処分ですよね」


 私は言いました。


「取消訴訟の期間なんて、とうに過ぎてる」


「期間?」


「取消訴訟には出訴期間があります」


 ここで、


 私は反射的に、


 知った日から六箇月――


 と言いかけました。


 喉のところで止めます。


 昭和六十三年。


 現在じゃない。


 当時の取消訴訟の出訴期間は、


 処分または裁決があったことを知った日から三箇月。


 未来人の脳みそは、


 毎回こういうところで地雷を踏みに行きます。


「もっとも」


 片桐所長が言いました。


「今回は、その期間の話が中心ではない」


「はい」


 処分が本当に無効なら、


 取消訴訟の出訴期間を徒過したからといって、


 当然に有効なものへ変身するわけではありません。


 だからこそ、


 何十年も経ったあとでも、


 民事上の権利関係をめぐる訴訟の前提として、


 その処分が無効かどうかが問題になることがある。


 でも。


「無効のハードルは高いですよね」


「ああ」


 相馬先輩が答えます。


「ちょっと手続を間違えた、くらいじゃ足りねえ」


「ですよね」


 藤巻さんが不機嫌そうに言いました。


「じゃあ結局、何を調べるんだ」


「全部です」


 相馬先輩が言いました。


「雑!」


「雑じゃねえ」


 先輩は書類を一つずつ指します。


「当時の買収処分の根拠」


「はい」


「処分名義」


「はい」


「対象土地」


「はい」


「通知」


「はい」


「手続」


「はい」


「その後の登記移転」


「はい」


「西野がどういう経緯で取得したか」


「はい」


「お前は返事だけしてねえで書け」


「書いてます!」


 片桐所長が藤巻さんに言いました。


「うちは裁判を代理できません」


「ああ」


「だから、ここで訴状を書く仕事はしない」


「じゃあ何をするんだ」


「弁護士に渡す材料を整える」


 所長は静かでした。


「何を求める訴訟なのか」


「……所有権」


「誰と争うのか」


「西野」


「その前提として何が問題になるのか」


「昔の買収処分が無効かどうか」


「その無効を支える事実は何か」


 藤巻さんが黙りました。


「それを揃えます」


 なるほど。


 行政書士が法廷に立つわけではない。


 でも、


 法廷へ入る前の地図を作ることはできる。


 どの事実が必要か。


 どの文書を集めるか。


 誰が当事者か。


 何が最終目的か。


 そして、


 行政処分のどこが民事上の権利関係へつながるのか。


 その整理が雑なら、


 弁護士へ渡す時点で事件が迷子になる。


 二日後。


 私たちは市役所にいました。


 もちろん目的は、


 「裁判だ!」


 と叫ぶためではありません。


 資料確認です。


 総務課。


 いつもの机。


 いつもの灰色の背広。


 いつもの細い眼鏡。


「またですか」


 沢渡課長が言いました。


「こっちの台詞です」


「朝比奈さんは役所に来るたび元気ですね」


「役所に来る用事がない人生が理想です」


「行政書士見習いには向いていませんね」


 くっ。


 正論で殴ってくるタイプです。


 片桐所長が古い文書の写しを机へ置きました。


「藤巻源蔵さんの件だ」


「ああ」


「当時の農地買収関係記録を確認したい」


「保存状況を調べています」


「処分対象地の地番に食い違いがある」


「承知しています」


「名義人への通知記録は」


「現在確認中です」


 相馬先輩が腕を組みます。


「ずいぶん歯切れ悪いな」


「昭和二十年代の記録を、今朝出した書類のように言われても困ります」


「それでも処分は処分だ」


「否定していません」


 沢渡課長は淡々と答えます。


「ところで」


 彼が私たちを見る。


「藤巻さんは市を相手に無効確認訴訟をするつもりですか」


 来た。


 試されている。


 私は一瞬、


 口を開きかけました。


 でも。


 先に片桐所長が言いました。


「それだけを求める必要があるとは限らない」


 沢渡課長の眉がわずかに動きました。


「ほう」


「藤巻さんが求めているのは、処分の無効という看板じゃない」


「……」


「土地だ」


 部屋が静かになります。


 片桐所長が続けました。


「現在の所有名義人との間で所有権が争われるなら、その民事訴訟の前提として処分の無効が争点になる」


 沢渡課長が眼鏡を指で押し上げました。


「争点訴訟ですか」


「そうなる可能性がある」


「なるほど」


 私は心の中で少し嬉しくなりました。


 行政法の用語一個で、


 役所側の空気がほんの少し変わる瞬間。


 それまで、


 昔の処分です。


 確認中です。


 で済んでいた話が、


 裁判上どこでどう扱われるかまで具体化すると、


 役所も軽くは扱えなくなる。


「ただ」


 沢渡課長が言います。


「当然ですが、買収処分に何らかの瑕疵があったからといって、直ちに無効になるわけではありません」


「分かっている」


 相馬先輩が答えます。


「無効のハードルは高い」


「それに」


 沢渡課長は続けました。


「私人間の所有権関係について、市は結論を出す立場ではありません」


「それも分かってる」


「では何を求めてここへ?」


 相馬先輩が古い資料を指で叩きました。


「役所が持ってる事実だ」


「事実?」


「処分したなら、何を処分したのか」


「……」


「誰に対してやったのか」


「……」


「どういう手続を踏んだのか」


「……」


「裁判で勝つ負けるは弁護士と裁判所が決める。だが、お前らしか持ってねえ記録まで『昔だから分かりません』で済ませるな」


 沢渡課長はしばらく黙っていました。


「記録調査の範囲を広げます」


「頼む」


「県の旧資料にも照会します」


「それも頼む」


 あ。


 動いた。


 ほんの少しだけ。


 でも確実に。


 沢渡課長が私を見る。


「朝比奈さん」


「はい」


「あなたは無効確認訴訟だと思っていたでしょう」


「何で分かるんですか」


「顔に書いてあります」


「相馬先輩と同じこと言わないでください!」


「勉強し直したほうがいい」


「これからします!」


 沢渡課長の口元がわずかに緩みました。


 悔しい。


 敵キャラに補習を命じられました。


「ただし」


 彼が続けます。


「争点訴訟だからといって、行政事件訴訟法と無関係になるわけではありません」


「え?」


「処分の効力が争われるのだから、行政処分に関する問題は残る」


 私は瞬きしました。


 相馬先輩が横から言います。


「当たり前だ」


「分かってましたよ」


「今初めて聞いた顔だったぞ」


「顔面で全部判断するのやめません?」


 そう。


 争点訴訟は民事訴訟。


 だからといって、


 行政処分の無効判断が普通の民事上の契約とまったく同じように処理されるわけではない。


 行政事件訴訟法には、


 処分の効力が争点となる民事訴訟について、


 行政事件特有の手続を準用する仕組みが置かれています。


 処分庁への通知など、


 行政処分の効力が裁判で判断される以上、


 行政側が完全に蚊帳の外になるわけでもない。


 民事訴訟なのに、


 行政事件訴訟法の影が差す。


 何ですか、このハイブリッド。


 受験生を迷わせるために生まれたとしか思えない。


 いや違う。


 必要だからこうなっている。


 たぶん。


 その一週間後。


 市役所から連絡が来ました。


 古い文書が見つかった。


 県へ移管されていた資料もあったらしい。


 片桐事務所の机に、


 追加資料が並びました。


 相馬先輩が一枚ずつ確認します。


「こはる」


「はい」


「これ見ろ」


 差し出された紙。


 当時の処分対象地一覧。


 私は地番を追いました。


「……違う」


「ああ」


「藤巻さんの土地の枝番が」


「通知と一覧で食い違ってる」


「こっちは?」


「こっちは登記簿の地番」


「つまり」


「処分記録の中で土地の特定が揺れてる」


 さらに。


 通知送達簿。


 そこには藤巻さんの父親の名がありませんでした。


「ない」


「な」


「でも、これだけで無効とは言えませんよね」


「やっと慎重になったな」


「成長しました」


「一週間で?」


「人は伸びます」


「調子に乗るな」


 でも。


 材料としては大きい。


 処分対象の特定。


 名宛人。


 通知。


 手続。


 これらに重大な問題があった可能性が出てきた。


 片桐所長は資料を整理すると、


 提携先の弁護士へ電話しました。


「藤巻さんの件です」


 短く事情を説明します。


 行政書士事務所で整理したのは、


 訴訟の結論ではありません。


 事実関係。


 土地の移転経緯。


 行政処分の記録。


 地番の不一致。


 通知記録の欠落。


 現在の名義人。


 藤巻さんが本当に求めているもの。


 土地所有権の確認。


 その前提として買収処分の無効を主張する構造。


 電話を切った所長が言いました。


「先生が受ける」


 藤巻さんが身を乗り出しました。


「裁判か!」


「まず面談です」


「でも戦えるんだな」


「可能性を検討できる段階まで来た」


「勝てる?」


 所長はいつもどおり、


 すぐに期待を売りませんでした。


「分かりません」


「……」


「ただ」


 片桐所長が書類の束を軽く叩きます。


「何を争うかは見えた」


 藤巻さんは、


 その言葉を聞いて、


 少しだけ肩の力を抜きました。


「最初はな」


 彼が言いました。


「役所が悪い。役所を訴える。それしか考えてなかった」


「普通はそうなりますよ」


 私は答えました。


「処分が原因ですから」


「でも違った」


「半分は合ってます」


「半分?」


「役所の処分は重要です」


「うん」


「でも藤巻さんが欲しいのは、『役所の処分は無効でした』っていう紙一枚じゃない」


「ああ」


「畑です」


 藤巻さんが小さく笑いました。


「そうだな」


 その笑い方は、


 最初に机を叩いていたときよりずっと穏やかでした。


「親父がな」


 藤巻さんが言います。


「あの畑で大根作ってたんだ」


「大根」


「冬になると、俺にも抜かせた」


「子どもの頃ですか」


「ああ」


「固かったでしょう」


「全然抜けん」


「分かります」


「尻もちばっかりついてな」


 藤巻さんは机の上の古い土地図を見ました。


「だから」


 少し間を置いて、


「『処分無効』って言葉が欲しいんじゃないんだ」


 私は黙って聞きました。


「俺は、あそこが誰の土地なのか、ちゃんと決めたいんだ」


「はい」


「それだけだ」


 法律の言葉にすると、


 所有権確認請求。


 その前提として、


 行政処分の無効。


 争点訴訟。


 冷たい言葉です。


 でも。


 藤巻さんの言葉に直すと、


 父親と大根を抜いた畑が、


 本当は誰のものなのか。


 それを決めてほしい。


 それだけでした。


 数日後。


 また市役所から電話がありました。


 相手は沢渡課長。


『藤巻さんの件ですが』


「はい」


『追加で県から記録が届きました』


「何かありました?」


『当時の処分台帳と通知案です』


「地番は?」


 一瞬、間。


『一致していません』


 私は背筋を伸ばしました。


「やっぱり」


『ただし、処分が無効と決まったわけではありません』


「分かってます」


『そこは裁判所が判断することになります』


「はい」


『それと』


「何です?」


『市としても、今後同種の古い処分記録を照会された場合の調査手順を整理することになりました』


「藤巻さんの件がきっかけで?」


『そうです』


 沢渡課長らしい。


 負けを認めるでもない。


 謝罪するでもない。


 ただ、


 制度や記録に穴があれば、


 合理的に直す。


「課長」


『何でしょう』


「最初、無効確認訴訟をすると思ってました?」


『思っていました』


「ですよね」


『ですが、土地所有権を直接争うなら、現在の法律関係を決めるほうが本筋でしょう』


「……ですよね」


『朝比奈さん』


「はい」


『処分を争うことと、処分そのものを訴訟物にすることは、同じではありません』


 ぐっ。


 また補習。


「覚えました」


『なら結構です』


「課長って、私の受験指導してません?」


『していません』


「ちょっとしてますよね」


『していません』


「二回言った」


『では』


 切られました。


 私は受話器を置きます。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きました。


「記録がまた出てきたそうです」


「地番は」


「一致してない」


「そうか」


「それと」


「何だ」


「沢渡課長にまた行政事件訴訟法を教えられました」


「授業料払っとけ」


「嫌ですよ」


「市役所行くたび一個賢くなってんだから安いもんだろ」


「悔しいんです」


 片桐所長が書類から顔を上げます。


「何を覚えた」


「え?」


「今日の話だ」


 私は少し考えました。


 無効等確認訴訟。


 争点訴訟。


 私人間。


 私法上の権利。


 行政処分の効力。


 全部頭に並べます。


 そして言いました。


「役所の処分が争点になっていても、最終的に争うのが私人間の私法上の権利なら、民事訴訟になる」


「うん」


「処分の無効そのものを確認してほしいなら、無効等確認の訴え」


「うん」


「でも、処分の無効を前提にして、土地の所有権やお金の返還みたいな私法上の権利義務を争うなら」


 一度息を吸います。


「争点訴訟」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 相馬先輩が煙草を取り出します。


「もっと短くしろ」


「何でです?」


「お前、そのうちノートに書くだろ」


 図星です。


 私は机の端のメモ用紙を取りました。


 今日の教訓。


 何と書こう。


 少し迷って、


 こう書きました。


 ――処分の無効は、ゴールとは限らない。欲しい権利から、訴えを選ぶ。


「どうです」


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあまあだな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「最近それ便利に使いすぎですよ」


 そのとき、


 藤巻さんが持ってきた紙袋が目に入りました。


「そういえばこれ何でしたっけ」


「大根」


 相馬先輩が答えます。


「藤巻さんが置いてった」


「大根?」


「畑の話したら、別の畑で採れたやつ持ってきた」


 袋を開ける。


 立派な大根が三本。


「でかっ」


「一本持ってけ」


「最近、大根つづきなので」


「煮ろ」


「指示が雑」


「大根なんて煮ればだいたい食える」


「料理人に謝ってください」


 片桐所長が一本持ち上げました。


「重いな」


「所長、持って帰ります?」


「一本でいい」


「じゃあ残り二本」


「お前と相馬で一本ずつ」


「強制処分ですか」


「業務命令だ」


「取消訴訟します」


 相馬先輩が吹き出しました。


「誰を被告にすんだよ」


「所長」


「この時代なら処分庁本人だな」


「あ」


 私は固まりました。


 昭和六十三年。


 そうです。


 当時の取消訴訟では、


 今みたいに法人としての国や公共団体を被告にする制度ではありません。


 処分をした行政庁を被告にする。


「……今の、試験に出ますね」


「大根持って帰るだけで何を勉強してんだお前は」


「日常の全部を行政法に変える体質になってきました」


「末期だな」


「受験生としては完成形です」


 所長が大根を新聞紙で包みながら言いました。


「こはる」


「はい」


「それは争点訴訟じゃない」


「分かってます!」


「大根の所有権でも争うか」


「事務所と私人の争いですか」


「まず大根を持ち帰れ」


「請求の趣旨が具体的すぎる!」


 相馬先輩が笑います。


 窓の外は、


 もう暗くなり始めていました。


 裁判という言葉を聞くと、


 私は昔、


 悪い処分を取り消してもらう場所だと思っていました。


 でも。


 人が本当に欲しいものは、


 処分の取消しとも、


 無効という宣言とも限りません。


 土地を返してほしい。


 払った金を返してほしい。


 自分の権利があると認めてほしい。


 そんな現在の法律関係を決めるために、


 過去の行政処分が、


 途中の大きな争点として立ちはだかることもある。


 行政事件なのに民事。


 民事なのに行政処分。


 ややこしい。


 でも。


 ややこしいのは、


 現実の権利関係が一枚の教科書みたいに綺麗に分かれていないからなのだと思います。


 藤巻さんが欲しいのは、


 処分の死亡診断書じゃない。


 父親と大根を抜いた土地について、


 今、


 誰のものなのかを決めてもらうこと。


 だから法律も、


 過去だけを見るのではなく、


 今の権利関係へ道をつなぐ。


 私は大根の入った紙袋を持ち上げました。


「重っ」


「所有権はお前に移った」


 相馬先輩が言います。


「いりません」


「放棄するか」


「所長に返します」


「贈与か」


「法律問題にしないでください!」


 片桐所長がぽつりと言いました。


「現在の法律関係を確定しろ」


「大根一本で争点訴訟の復習させるのやめてもらえます!?」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら今日の私には、


 土地の所有権より先に、


 大根の帰属を確定させる必要がありそうでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。