[仮の義務付け・仮の差止め]法理編 こはるノート
法律には、
「最終的に勝てるか」
とは別に、
「それまで持ちこたえられるか」
という問題があります。
正しい判決が出る。
でも、その前に家が崩れる。
正しい判決が出る。
でも、その前に土地が沈む。
正しい判決が出る。
でも、その前に生活が壊れる。
それでは。
正しかったことを証明できても、
救われたとは言いにくい。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机の上にノートを開いていました。
昨日まで、
ページの上には大きく、
――行政事件訴訟法。
とだけ書いてありました。
今日はその下に、
さらに大きく、
――仮の義務付け。
――仮の差止め。
と書きます。
「字がでかい」
向かいの机で相馬先輩が言いました。
「重要なんです」
「紙がもったいねえ」
「先輩の煙草より有益です」
「比較対象がおかしい」
私は無視しました。
高瀬さんの造成工事事件。
裏山の造成。
広がる亀裂。
詰まった排水。
さらに隣接区画への新しい許可申請。
高瀬さんが望んだことは、実は二つありました。
一つ。
今の工事が危ないから、
市に何らかの是正措置を取ってほしい。
もう一つ。
これ以上危険が増えるかもしれないから、
次の許可を出さないでほしい。
つまり。
行政に、
やれ。
と言いたい場面と、
やるな。
と言いたい場面。
「所長」
「何だ」
「昨日、高瀬さんの件で一番怖かったのって」
「うん」
「最終的に違法かどうかより、その判断が出るまで持つかどうかでしたよね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
仮の救済。
裁判の最終判断が出る前に、
暫定的に被害を防ぐ仕組み。
「取消訴訟には」
私は続けます。
「執行停止があります」
相馬先輩が頷きました。
「処分の効力なり、執行なりを止めるやつだな」
「はい」
取消訴訟を起こした。
でも。
判決までその処分が動き続けたら困る。
だから一定の場合に、
執行停止。
ここまでは。
昭和六十三年にも、あります。
「でも昨日の問題は」
私はペンを止めました。
「そもそも、止めたい処分がまだ出てなかった」
「そうだ」
「次の造成許可は、まだ申請段階」
「ああ」
「だから、取消訴訟の対象になる処分もまだない」
「当然だな」
「ということは」
私はため息をつきました。
「執行停止も、止めるものがない」
「そういうことだ」
行政事件訴訟法。
受験生のときは。
処分。
取消訴訟。
執行停止。
この順番で覚えていました。
でも現場に来ると、
その順番が人を苦しめることがあります。
処分されてから争う。
それでは遅い。
処分される前に止めたい。
でも。
処分前だからこそ、取消訴訟では争えない。
「行政法って」
私は言いました。
「この『まだ早い』と『もう遅い』の間が怖いですね」
相馬先輩が煙草を消しました。
「裁判ってのは、そういう隙間がある」
「隙間広すぎません?」
「昔はな」
昔は。
その一言が重い。
私はノートに線を引きました。
昭和六十三年。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
法律上の制度としては、まだ整備されていない。
「ここです」
「何がだ」
「未来人が昨日、盛大に転びました」
「いつもだろ」
「今回は大転倒です」
現代の行政事件訴訟法なら。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
法律に書かれています。
だから。
行政庁が一定の処分をしないことによって、
重大な不利益を受ける。
そんな場合には、
行政庁に処分をするよう求める訴訟が制度化されている。
逆に。
行政庁がこれから一定の処分をすることで、
重大な損害を受けるおそれがある。
そんな場合には、
処分をしてはならないと求める訴訟が制度化されている。
「義務付け」
私は言いました。
「行政に『しろ』」
「差止め」
「行政に『するな』」
「雑だな」
「覚える入口としては強いんです」
そして。
それぞれに対応する仮の救済。
義務付け訴訟を提起した。
でも判決まで待っていたら間に合わない。
そこで、
仮の義務付け。
差止訴訟を提起した。
でも判決まで待っていたら間に合わない。
そこで、
仮の差止め。
「現代法は」
私はペン先でノートを叩きました。
「本案と仮の救済が対になってるんですよね」
「本案?」
「最終的に求める訴訟です」
「ふん」
「義務付け訴訟を本案として、仮の義務付け」
「うん」
「差止訴訟を本案として、仮の差止め」
「うん」
「つまり」
私は四角で囲みました。
義務付け訴訟
↓
仮の義務付け
差止訴訟
↓
仮の差止め
「昨日の高瀬さんの話、そのままですね」
「どういう意味だ」
「市に危険防止措置を取らせたい」
「義務付け方向」
「次の許可を出させたくない」
「差止め方向」
「それを判決まで待てない」
「だから仮の救済」
「はい」
綺麗です。
現代法の教科書なら。
本当に綺麗。
でも私は今。
昭和六十三年にいます。
「そして今は、その綺麗な表が使えない」
「そうだな」
「つらい」
「泣くな」
「泣いてません」
「顔が泣いてる」
転生者に行政事件訴訟法の改正前後をまたがせるのは、
誰が考えた修行なのでしょう。
私ですけど。
私は次の見出しを書きました。
仮の義務付けとは何か。
「行政庁に」
私は言います。
「本案の結論が出る前に、暫定的に処分や裁決をするよう命じる仕組み」
所長が頷きます。
「何のためだ」
「間に合わないから」
「雑だ」
「分かってます!」
私は書き直しました。
義務付け訴訟の判決を待っている間に、
処分や裁決がされないことで回復困難な被害が生じることがある。
そのため、
一定の厳しい要件のもとで、
判決前に暫定的な処分を命じる。
「例えば」
相馬先輩が言いました。
「昨日みたいな崖なら?」
「そこは少し注意です」
「何がだ」
「誰が何の処分を求められるか、本案の義務付け訴訟自体の要件が問題になります」
「面倒だな」
「行政訴訟ですから」
「便利な言い訳だ」
でも。
教材の典型例なら分かりやすい。
違法建築物がある。
今にも倒れそう。
隣の住民が、
行政庁に除去命令を出してほしい。
本案の義務付け訴訟を起こす。
ところが。
判決を待っている間に建物が倒れたら意味がない。
だから。
仮の義務付け。
「名前どおりですね」
私は言いました。
「本当に仮なんだな」
「はい。最終的に義務付けが認められるかどうかとは別に、とりあえず緊急で命令する」
「裁判所が行政庁に」
「そうです」
相馬先輩が少し黙りました。
「強いな」
「そうなんですよ」
そこです。
仮の義務付けは強い。
行政庁に、
まだ本案判決も出ていないのに、
「処分しなさい」
と裁判所が暫定的に命じる。
「そりゃ簡単には認められません」
「要件か」
「はい」
私は大きく、
要件。
と書きました。
一つ目。
手続要件。
義務付けの訴えが提起されていること。
「仮だけ単独で飛んでこない?」
「そうです」
「まず本体がある」
「はい」
仮の義務付けだけ申し立てて、
本案はありません。
では駄目。
あくまで。
義務付け訴訟がある。
その途中の暫定救済。
そこが基本です。
「次」
私は数字を書きます。
一。
償うことのできない損害を避けるため、
緊急の必要があること。
「言葉が重いな」
相馬先輩が言いました。
「重大な損害じゃなくて、『償うことができない損害』ですからね」
「金で払えば済む程度じゃ足りない?」
「そこまで単純に切れませんけど、少なくとも後で埋め合わせれば済むような被害では弱い」
「なるほど」
家が倒壊する。
身体生命に危険がある。
環境や生活基盤が不可逆的に失われる。
そういう。
後から完全には戻せない損害。
「しかも」
私は続けました。
「緊急の必要があること」
「いつか困る、じゃ足りない」
「はい」
「今、止めないと間に合わない」
「そうです」
昨日の高瀬さん。
大雨。
亀裂。
排水不良。
隣接区画の許可審査。
まさに。
間に合うか。
という時間の問題でした。
「次」
二。
本案に理由があるとみえること。
「ここ、行政書士試験っぽいですね」
「どういう意味だ」
「緊急だからって、見込みゼロの本案を仮に通すわけにはいかない」
「まあ当然だな」
「最終判断前ではあるけど、ある程度は本案で勝ち目が見えないといけない」
ただ怖い。
ただ困る。
ではなく。
行政庁が本来その処分をすべき法的根拠がある。
本案の義務付け訴訟に理由がありそうだ。
その見込みが必要。
「つまり」
私はまとめました。
危ない。
だけでは足りない。
急ぐ。
だけでも足りない。
法的にも筋が通っていないといけない。
「昨日、所長がやたら資料を揃えてた理由だな」
相馬先輩が言います。
「はい」
市がいつ危険を知ったか。
どんな現場確認をしたか。
その後に何が変わったか。
排水。
亀裂。
雨。
次の許可審査。
全部。
気持ちの話ではなく、
法的な筋を作るため。
「ただし」
私はノートに大きく、
ただし。
と書きました。
「まだあります」
「行政法だもんな」
「先輩、理解が早くなりましたね」
「嫌な理解だ」
消極要件。
公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがある場合。
仮の義務付けは認められない。
「消極要件」
相馬先輩が言いました。
「満たしたら駄目なほうか」
「はい」
「積極要件は満たしたら前へ進む」
「そうです」
「消極要件は満たしたら止まる」
「その覚え方、かなりいいです」
私はノートの端に書きました。
積極要件。
あれば効力発生方向。
消極要件。
あれば効力阻止方向。
「つまり」
私は説明します。
償うことのできない損害。
緊急性。
本案に理由あり。
ここまであっても。
仮の義務付けを認めた結果、
公共の福祉に重大な影響が及ぶおそれがあるなら認めない。
「例えば」
相馬先輩が言います。
「行政に何かやらせた結果、地域全体が危険になるとかか」
「そうですね。仮の救済は申立人だけ見ればいいわけじゃない」
強い救済だから。
社会全体への影響も見る。
ここは。
沢渡課長が昨日言っていたことにもつながります。
裁判所が行政に、
やれ。
やるな。
と命じる。
しかも仮に。
それは行政の動きをかなり強く制限する。
だからこそ。
公共の福祉との均衡が必要になる。
私はページをめくります。
次。
仮の差止め。
「こっちは逆ですね」
「何が」
「行政庁に処分するな、と仮に命じる」
差止訴訟。
行政庁がこれからしようとしている処分を、
してはならないと求める。
そして。
判決まで待てば処分されてしまう。
だから。
仮の差止め。
「昨日の隣接区画の許可」
私は地図を思い出しました。
「もし現代法の要件を満たす事件なら、発想としてはこちら側」
「まだ許可が出てない」
「はい」
「出る前に止めたい」
「そういうことです」
「取消訴訟じゃ遅い」
「そうです」
これ。
本当に大きい。
取消訴訟は、
処分されたあと。
差止訴訟は、
処分される前。
「事後救済と事前救済ですね」
私は書きました。
取消訴訟。
出た処分を取り消す。
差止訴訟。
出る前の処分を止める。
「やっと分かってきた」
相馬先輩が言いました。
「先輩、行政法向いてますよ」
「褒めるな。気持ち悪い」
「褒めてません」
「おい」
仮の差止めの要件。
手続要件。
差止めの訴えが提起されていること。
これは仮の義務付けと同じ。
そして。
積極要件。
一。
処分または裁決がされることによって生ずる、
償うことのできない損害を避けるため、
緊急の必要があること。
二。
本案に理由があるとみえること。
消極要件。
公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあること。
「同じですね」
「ほぼ同じだな」
「はい。向きだけ逆」
義務付け。
処分されないことで損害。
だから、
してくれ。
差止め。
処分されることで損害。
だから、
しないでくれ。
仮の救済でも。
同じ関係です。
「図にすると」
私はノートに矢印を書きました。
行政が動かない
↓
損害が出る
↓
義務付け
↓
判決まで待てない
↓
仮の義務付け
行政が動く
↓
損害が出る
↓
差止め
↓
判決まで待てない
↓
仮の差止め
相馬先輩が覗き込みました。
「これは分かりやすいな」
「珍しく素直ですね」
「消すぞ」
「褒め言葉を撤回しないでください」
私は少しペンを止めました。
そして。
ページの真ん中に横線を引きます。
上。
現代法。
下。
昭和六十三年。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「新旧比較です」
「お前の鬼門だな」
「今日は転びません」
「昨日転んだ」
「今日は!」
現代法。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
法定されている。
仮の義務付け。
仮の差止め。
法定されている。
昭和六十三年。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
現在のような法定抗告訴訟としては存在しない。
無名抗告訴訟として議論される。
仮の義務付け。
仮の差止め。
現在のような制度は存在しない。
「だから昨日」
私は言いました。
「高瀬さんが『今すぐ行政を動かして』『次の許可を出さないで』と言っても」
「裁判所に持っていく道が狭い」
「すごく狭い」
「で、行政内部を先に動かした」
「はい」
そこです。
昨日の所長の戦い方。
訴訟を直接代理するのではない。
行政書士は訴訟代理人にはなれない。
だから。
高瀬さんの事実関係を整理する。
証拠を並べる。
行政が危険をいつ認識したかを確認する。
次の許可判断との時間関係を整理する。
それを。
弁護士へ渡せる形にする。
同時に。
市役所へ示す。
「裁判で負けるぞ」
と脅すのではなく。
「このまま進めた場合、裁判になればこの点を説明する必要がありますよ」
と。
行政自身に見直させる。
「行政書士らしいですね」
私が言うと、
所長が帳簿から顔を上げました。
「何がだ」
「裁判はできない」
「うん」
「でも裁判になったとき必要な事実を揃える」
「うん」
「その資料を役所にも見せる」
「うん」
「すると、役所のほうが先に動くことがある」
「それで済むなら、そのほうが早い」
そう。
昨日。
高瀬さんに必要だったのは、
美しい勝訴判決ではありません。
今日、
重機が止まること。
許可判断が保留になること。
再調査が入ること。
その時間です。
「裁判で勝つより」
私は言いました。
「行政が自分で止まったほうが早い場合もある」
「それを忘れるな」
所長が言いました。
「訴訟は目的じゃない」
私は黙りました。
「人を守るのが目的だ」
短い。
でも。
たぶん今日いちばん大事です。
「所長」
「何だ」
「じゃあ、なぜ現代では義務付け訴訟や差止訴訟が法定されたんです?」
所長が私を見る。
「未来の話を俺に聞くな」
「あ」
そうでした。
「相馬先輩」
「俺にも聞くな」
「ですよね」
仕方ありません。
未来人、自己解説します。
かつての行政事件訴訟制度は。
処分が出たあとに、
その処分を取り消す。
という救済を中心に組み立てられていました。
でも。
現実にはそれだけでは救えない事件がある。
行政が何もしないから困る。
処分されたあとでは遅い。
そんな事件。
「昨日ですね」
私は言いました。
「そのまんまだな」
「はい」
処分後中心の救済では。
穴がある。
その穴を埋める方向で、
行政事件訴訟法は大きく改正されていった。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
仮の義務付け。
仮の差止め。
「つまり」
私はノートに書きます。
事後救済だけでは足りない。
だから。
事前・積極的救済を制度化。
「積極的救済?」
相馬先輩が聞きます。
「単に違法処分を消すだけじゃなくて、必要な処分をさせる方向まで踏み込むってことです」
「行政にやらせる」
「はい」
「裁判所も忙しくなるな」
「その代わり要件は厳しいです」
そして仮の救済も。
誰でも簡単に使えるわけではない。
償うことのできない損害。
緊急性。
本案に理由。
公共の福祉。
「かなり絞ってますよね」
「そりゃそうだろ」
相馬先輩が言いました。
「判決前に行政止めるんだぞ」
「ですよね」
仮の差止めなら。
本案判決が出る前に、
行政庁へ、
その処分をするな。
と命じる。
仮の義務付けなら。
本案判決前に、
行政庁へ、
その処分をしろ。
と命じる。
裁判所が。
行政の判断に、
かなり強く入っていく。
「だから」
私は丸をつけます。
強い救済
=
厳しい要件。
「これ、覚えやすいですね」
「最初からそう覚えろ」
「教科書はもっと固いんですよ」
「法律だからな」
私は次に、
昨日の高瀬さん事件を当てはめてみました。
「これは勉強上の整理ですよ」
「誰に言ってんだ」
「未来の私です」
今の工事について。
高瀬さんは、
市に危険防止措置を取ってほしい。
仮に現代法で義務付け訴訟の本案要件を満たす構成が可能な事件であれば。
さらに。
判決まで何もしないことで、
家屋倒壊などの償うことのできない損害が迫っている。
緊急の必要がある。
本案にも理由があるとみえる。
公共の福祉への重大な影響もない。
そこまで揃えば。
仮の義務付けの検討余地。
「検討余地、なんですね」
相馬先輩が言います。
「はい」
「使える、じゃなく」
「ここ大事です」
実際の事件で。
教材の要件を並べただけで、
「使えます」
とは言えません。
そもそもの本案訴訟の要件。
処分性。
原告適格。
法令上、行政庁がどの処分をすべき義務を負うのか。
他の救済手段。
事案ごとの法令。
全部見る必要があります。
「行政法は」
私は言いました。
「一枚の暗記カードで勝手に事件を解決しない」
「当たり前だ」
「受験生には大事なんです」
次。
新しい造成許可。
まだ出ていない。
でも出れば危険が増える。
現代法で本案の差止訴訟の要件を満たすなら。
判決までに許可されることで、
償うことのできない損害が生じる。
緊急の必要がある。
本案に理由があるとみえる。
公共の福祉への重大な影響がない。
なら。
仮の差止め。
「要するに」
相馬先輩が言いました。
「仮の救済だけ見ても駄目なんだな」
「はい」
「本体の訴訟から確認する」
「そうです」
これ。
行政書士試験でも大事です。
仮の義務付け。
前提。
義務付けの訴えあり。
仮の差止め。
前提。
差止めの訴えあり。
単独制度ではない。
「そこ、出そうですね」
「お前、急に受験生に戻るな」
「大事なんですよ!」
私はノートに、
積極要件。
消極要件。
と書きました。
「ここも覚えます」
「また受験か」
「実務にも大事です」
積極要件。
それがあれば、
制度を認める方向へ進む条件。
仮の義務付け・仮の差止めなら。
一。
償うことのできない損害を避けるため緊急の必要がある。
二。
本案に理由があるとみえる。
「二つ」
「はい」
そして。
消極要件。
あると、
認められなくなる条件。
公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれ。
「これは一つ」
「はい」
私は語呂を考えました。
「何だその顔」
「覚え方を考えてます」
「嫌な予感しかしねえ」
「仮の救済は――」
一拍。
「『戻せない、急げる、勝ち目あり。でも世間を壊すなら駄目』」
「長い」
「じゃあ」
考える。
「『戻らない、急ぐ、勝ち目。公共ダメ』」
「日本語が壊れたぞ」
「語呂は意味が伝わればいいんです!」
所長が言いました。
「普通に覚えろ」
「一番冷たい解決法!」
でも。
確かに。
現場を知っていれば。
語呂はいらないのかもしれません。
高瀬さんの家。
大雨。
亀裂。
もし崩れれば、
あとから完全に戻せない。
だから、
償うことのできない損害。
明日にも危険が迫る。
だから、
緊急性。
でも、
行政に命令する法的理由がなければいけない。
だから、
本案に理由があるとみえること。
そして。
一人を救うために、
地域全体へ重大な悪影響を及ぼすなら認められない。
だから、
公共の福祉。
「事件で覚えたほうが早いですね」
「やっと気づいたか」
「受験生時代に言ってください」
「知らねえよ」
私はもう一つ。
大きく書きました。
執行停止との違い。
「ここ、混ぜたら危ないですね」
「何が違う」
相馬先輩が聞きます。
「執行停止は、基本的に既にある処分などの効力・執行を止める方向」
「うん」
「仮の差止めは、これから処分されるのを止める方向」
「なるほど」
「仮の義務付けは、行政に暫定的に処分させる」
「逆向きだな」
「はい」
私は三本の矢印を書きました。
既に処分あり
→
止める
→
執行停止
まだ処分なし
→
処分するな
→
仮の差止め
まだ必要な処分なし
→
処分しろ
→
仮の義務付け
「これ、かなり整理できます」
「最初から図で覚えろ」
「教科書を全部図にしたい」
「分厚くなるぞ」
「それでも行政法より薄い気がします」
「何と戦ってんだ」
行政法です。
外が暗くなってきました。
事務所の窓に、
室内の灯りが映ります。
私は昨日のことを思い出しました。
高瀬さん。
昨日は。
裁判に訴えてやる。
という顔で来ました。
でも。
欲しかったのは、
裁判そのものではなかった。
家族が安心して眠れること。
雨の日に、
裏山を見上げなくて済むこと。
危険なまま工事を進められないこと。
行政に、
一度立ち止まってもらうこと。
「所長」
「何だ」
「仮の救済って」
「うん」
「裁判の付属品みたいに見えてたんです」
「受験生にはそう見えるだろうな」
「はい」
執行停止。
仮の義務付け。
仮の差止め。
条文番号。
要件。
正誤問題。
そんな感じ。
「でも」
私は言いました。
「本案判決が出るまで、生き延びるための制度なんですね」
所長が一度だけ頷きました。
「そういうことだ」
判決は。
最後の答え。
仮の救済は。
最後の答えが出るまで、
取り返しのつかないことにならないための時間を作る。
そのための仕組み。
「時間を守る制度」
私は呟きました。
相馬先輩がこちらを見る。
「何だそれ」
「仮の救済」
「ふん」
「高瀬さんも、工事が一時止まったことで時間ができた」
「安全確認する時間な」
「はい」
「役所側にも時間ができた」
「許可判断をやり直す時間」
「そうだ」
それなら。
ただの住民対行政ではありません。
仮の救済には。
間違った処分を防ぐ時間。
重大な被害を避ける時間。
行政自身が考え直す時間。
そんな意味もあるのかもしれない。
私は最後のページを開きました。
「一行の覚え書き、いきます」
「勝手にしろ」
「毎回付き合ってるのに冷たい」
「仕事が進まねえんだよ」
私はペンを構えました。
まず。
長め。
――仮の義務付け・仮の差止めは、判決まで待てない損害から人を守るための暫定救済。
「長い」
「まだ第一案です」
次。
――行政に『仮にやれ』『仮にやるな』。ただし緊急・勝ち目・公共の福祉。
「雑だな」
「試験向けです」
「もっと人間らしくしろ」
「先輩がそれ言います?」
考える。
昨日。
高瀬さんが、
久しぶりに眠れた。
と言っていた。
それを思い出す。
私は書きました。
――救済は、正しい判決だけじゃない。間に合うことまで含めて救済だ。
少し。
静かになりました。
相馬先輩がノートを覗きます。
「法律用語が入ってねえな」
「今日はこれでいいです」
「試験には使えん」
「だから下に試験用も書きます」
その下。
――仮の義務付け=仮に処分せよ。仮の差止め=仮に処分するな。共通要件は緊急・本案理由、公共の福祉でストップ。
「二行だな」
「情報量が多いんです」
「一行の覚え書きじゃねえのか」
「行政法に一行を要求するほうが悪いです」
「法律のせいにすんな」
私はノートを閉じました。
そこへ。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『高瀬です』
「あ、高瀬さん」
『今日、市の人がまた来ました』
「何かありました?」
『斜面の排水、追加で直すそうです』
「そうですか」
『それで』
「はい」
『許可のほうも、安全対策の報告が終わるまで審査を進めないって』
私は少し笑いました。
「よかったです」
『まだ完全に終わったわけじゃないけど』
「はい」
『でも、雨が降っても前ほど怖くなくなりました』
昨日と同じ。
大きな勝訴じゃない。
工事全面中止でもない。
申請却下でもない。
ただ。
少し時間ができた。
「高瀬さん」
『はい』
「記録、続けてくださいね」
『やってます』
「写真も」
『毎日撮ってます』
「雨の日も」
『女房に怒られない程度に』
「それ大事です」
『朝比奈さんも、あんまり無茶しちゃ駄目ですよ』
「私?」
『この前、市役所で相馬さんに首つかまれてたでしょう』
「見てたんですか!」
『よく見えました』
恥ずかしい。
『じゃあ、また』
「はい」
電話を切ります。
「何だって?」
相馬先輩が聞きました。
「追加の安全対策。許可審査もまだ保留」
「そうか」
「あと」
「何だ」
「私の首つかんだの、高瀬さんに見られてました」
「だから何だ」
「事務所の品位が」
「お前が未来の法律喋り出すからだろ」
「暴力で止める必要あります?」
「仮の差止めだ」
「物理!」
所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい」
「茶」
「またですか」
「冷めた」
「自分で淹れてください」
「義務付ける」
「その制度、この時代にありません!」
「じゃあ業務命令だ」
「行政事件訴訟法より強い!」
相馬先輩が笑っています。
私は立ち上がりました。
急須を持つ。
お湯を注ぐ。
茶葉がゆっくり開いていく。
判決も。
行政も。
人の暮らしも。
全部。
答えが出るまでには時間がかかります。
でも。
時間がかかるからこそ。
その途中で壊れてしまわないようにする制度がいる。
昭和六十三年。
まだその道は狭い。
義務付け訴訟も。
差止訴訟も。
仮の義務付けも。
仮の差止めも。
現代のような形では用意されていません。
だから。
昨日の私たちは、
法律の外から魔法を出したわけではありません。
事実を揃え。
危険を見える形にし。
行政自身に立ち止まる理由を作った。
それだけ。
でも。
高瀬さんは眠れた。
たぶん。
制度というのは、
こういう足りなかった救済の積み重ねから変わっていくのでしょう。
昔、
間に合わなかった人がいた。
処分後では遅かった人がいた。
行政が動かず困った人がいた。
だから。
未来の法律は、
少しずつ入口を増やした。
私は湯呑みを所長の机に置きます。
「所長」
「何だ」
「今日の最終教訓です」
「まだあるのか」
「はい」
私は胸を張りました。
「行政事件訴訟法は、あとから取り消すだけの法律じゃない」
「未来ではな」
「そうです」
「今は昭和六十三年だ」
「最後までそこ突きます?」
「時代を間違えるな」
「はい」
そこは。
今日いちばん忘れてはいけないところです。
私はノートをもう一度開き、
最後の余白に、
小さく書き足しました。
――救済は、勝つことだけでは足りない。壊れる前に間に合わせる。
その下。
――ただし昭和六十三年では、その入口自体がまだ狭い。
「二行」
相馬先輩が言いました。
「うるさいです」
「一行の覚え書き」
「これは新旧比較込みです!」
「言い訳するな」
「じゃあ先輩が一行でまとめてくださいよ」
相馬先輩は少し考えました。
そして。
「壊れる前に止めろ。でも法律が止められるとは限らねえ」
私は黙りました。
「……それ、いいですね」
「だろ」
「腹立つ」
「何でだよ」
所長がお茶を一口飲みました。
「こはる」
「はい」
「採用しろ」
「所長まで!」
結局。
私のノートの最後には、
こう残りました。
――壊れる前に止めろ。でも法律が止められるとは限らない。
その下に。
小さく、
現代法では、だからこそ仮の義務付け・仮の差止めがある。
と書きました。
昭和六十三年。
未来人のノートだけが、
二十年ほど先の救済制度を、
一足早く知っていました。
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