[仮の義務付け・仮の差止め]現場編 「判決まで待てないなら、仮に止めればいい」の罠。まだ処分されていない昭和の夜に、未来人だけが知っていた二つの救済
裁判に勝っても、間に合わなければ意味がないことがあります。
家が崩れたあと。
土地が沈んだあと。
営業が潰れたあと。
命を失ったあと。
何年後かに、
「あなたの言い分が正しかったです」
と言われても。
たぶん、その人が欲しかったのは判決文ではありません。
崩れる前に止めてくれることです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の相談者は、椅子に座りませんでした。
「市役所を訴えてください!」
入ってきて第一声がそれです。
五十代くらいの男性。
作業着。
左手に茶封筒。
右手には、少し泥のついた長靴。
正確には履いています。
でも気持ちとしては、長靴まで怒っていました。
「まあ、座れ」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。
「座ってる場合じゃない!」
「立ってても工事は止まらん」
「ぐ……」
効いた。
男性は渋々座りました。
名前は、
高瀬宗一郎さん。
四十八歳。
市内の東丘町で、小さな文具店を営んでいるそうです。
問題は店ではありません。
自宅です。
「裏山を削ってるんです」
高瀬さんが茶封筒から写真を出しました。
造成工事。
山の斜面。
土がむき出しになっています。
ブルドーザー。
仮設の土留め。
その下。
高瀬さんの家。
さらに二軒。
細い市道。
「雨が降ると、土が流れてくる」
「いつからです?」
私が聞きます。
「先月からです」
「市には?」
「何度も言いました」
「返事は」
「業者に指導している、と」
「工事を止めろとは?」
「言ってないそうです」
私は写真を一枚ずつ見ました。
最後の写真で手が止まります。
「これ……」
擁壁。
というより。
仮設の板。
斜面の途中に土嚢が積まれていて、その下に亀裂があります。
「昨日撮りました」
「このひび、前から?」
「一週間で広がったんです」
嫌な感じがしました。
行政法の論点というより先に。
普通に怖い。
「市の担当課は現場を見たんですか」
「来ました」
「それで?」
「『直ちに危険とは判断していない』って」
高瀬さんの声が低くなります。
「直ちに危険じゃないって、どういう意味です」
私にも分かりません。
ひび割れに、
危険です。
ただし直ちにではありません。
という札でも立てるのでしょうか。
高瀬さんはさらに紙を出しました。
「それだけじゃないんです」
「まだあるんですか」
「業者が、次の区画も削る許可を申請してる」
「次の区画?」
「今削ってる場所の横です」
地図。
赤鉛筆で囲まれた斜面。
高瀬さんの家の、ほぼ真上。
「許可が出たら、もっと山を削るんです」
「いつ出る予定です?」
「明後日、市の審査会にかけるって聞きました」
私は顔を上げました。
明後日。
「それを止めてほしい」
「はい」
「それから」
高瀬さんは写真を叩きます。
「今の工事も、市から止めさせてほしい」
なるほど。
私の頭の中で。
現代の行政事件訴訟法が勢いよく起き上がりました。
来た。
これ、来た。
差止め。
義務付け。
しかも急ぐ。
だったら――。
「仮の差止めがあります」
私は言いました。
相馬先輩が煙草を持つ手を止めました。
片桐所長が書類から顔を上げました。
高瀬さんがこちらを見ます。
「何ですか、それ」
「裁判の結論が出るまで待っていたら間に合わない場合に、ひとまず行政に――」
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何年の話だ」
はい?
一秒。
二秒。
三秒。
私は壁のカレンダーを見ました。
昭和六十三年。
脳内。
行政事件訴訟法。
平成十六年改正。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
仮の義務付け。
仮の差止め。
「……あ」
声が出ました。
相馬先輩が目を細めます。
「またか」
「またです」
「何がだ」
「未来が早すぎました」
「意味が分からん」
分かります。
私には分かります。
そして今。
ものすごく絶望しています。
現代なら。
一定の要件の下で。
行政庁が処分をしないことで償うことのできない損害が生じる場合、
義務付け訴訟を提起して、
さらに緊急性があれば仮の義務付け。
逆に、
行政庁がこれから処分をすることで重大な損害が生じる場合には、
差止訴訟。
さらに間に合わないなら仮の差止め。
そんな道が法定されています。
でも。
昭和六十三年。
ありません。
少なくとも、
今のように行政事件訴訟法が、
「この訴訟がありますよ」
「この仮の救済がありますよ」
と道を舗装してくれてはいない。
義務付けも差止めも。
法定抗告訴訟ではない。
無名抗告訴訟。
例外中の例外。
まして。
仮の義務付け。
仮の差止め。
そんな現代の名前で使える制度はない。
「……嘘でしょ」
私は小さく呟きました。
「何が」
高瀬さんが不安そうに聞きます。
「いえ」
私は無理やり笑いました。
「ちょっと法律が古くて」
「法律が古い?」
「こいつの頭のほうが新しすぎるんだ」
相馬先輩。
お願いだから説明を増やさないでください。
「朝比奈」
片桐所長が静かに言いました。
「今、この人が欲しいのは何だ」
「工事を止めることです」
「違う」
「え」
「二つある」
私は高瀬さんを見る。
一つ。
現在の造成工事。
危険だから、市から業者へ何らかの停止・是正措置を取らせたい。
つまり、
行政に動いてほしい。
二つ。
次の区画について申請されている許可。
これを出してほしくない。
つまり、
行政に動かないでほしい。
「……行政に、やれと命じること」
「うん」
「行政に、やるなと命じること」
「そうだ」
所長が机の上で鉛筆を転がしました。
「今の法律に、それを正面から求める訴訟が用意されているか」
「……いません」
「仮の救済は」
「取消訴訟などに伴う執行停止」
「処分がまだ出ていない場合は」
私は黙りました。
出ていない処分は。
停止できない。
止める対象がまだ存在しないから。
明後日、許可が出るかもしれない。
でも今はまだ。
許可処分は存在しない。
だから、
取消訴訟もない。
執行停止も使えない。
「うわあ……」
思わず声が漏れました。
高瀬さんが青ざめます。
「駄目なんですか」
「待て」
相馬先輩が言いました。
「まだ入口だ」
「でも明後日ですよ!」
「だから慌てて間違えるな」
先輩の声が珍しく強い。
「裁判は、困ってるってだけじゃ動かねえ。特に行政裁判はな」
そして。
相馬先輩はいつもの言葉を吐きました。
「裁判なんて負け戦だ。だが、やるなら要件を揃えろ」
高瀬さんには意味が分からなかったでしょう。
でも私には痛いほど分かりました。
行政事件訴訟。
何を争うのか。
誰が争えるのか。
どんな訴訟類型なのか。
処分は存在するのか。
原告適格は。
訴えの利益は。
期間は。
管轄は。
被告は。
そしてそもそも。
求める救済が、この時代の裁判制度の中にあるのか。
裁判所は。
本題に入る前に、
入口で全部を見る。
高瀬さんが机を叩きました。
「じゃあ、崩れるまで待てって言うんですか!」
「言ってません」
私は思わず返しました。
「じゃあどうする!」
答えられない。
未来なら。
と言いかけて止める。
未来には制度があります。
でも、
今ここで困っている人に、
二十年待ってください。
とは言えません。
片桐所長が写真を手に取りました。
「市役所へ行く」
「え?」
「裁判を始める前に、役所を動かす」
高瀬さんが顔をしかめました。
「役所はもう駄目だって――」
「違う」
所長が言いました。
「あなたが今まで言ったのは、『危ないから何とかしてくれ』だ」
「そうです」
「今度は違う」
「何が」
「裁判になったとき、市が何を説明しなければならなくなるか。それを持って行く」
その日の午後。
私たちは東丘町へ向かいました。
もちろん。
私たちは工事を止められません。
行政書士にそんな権限はない。
裁判の代理人にもなれません。
だから。
現場を見て。
写真を撮って。
高瀬さんから時系列を聞いて。
市へ出した要望書の写しを確認して。
市の回答を並べる。
そして、
提携先の弁護士へ渡せる形まで整理する。
それが仕事です。
「……思ったより近いですね」
私は斜面を見上げました。
「だろ」
高瀬さんが言います。
家の裏から斜面まで。
十数メートル。
上では重機が動いています。
土の匂い。
湿った風。
昨日の雨が残っていて、
ところどころ水が染みています。
「こはる」
相馬先輩が指差しました。
「見ろ」
「何です?」
「排水」
斜面に沿って、
仮設の溝。
でも途中で土に埋まっています。
水が別の場所へ流れていました。
「写真」
「はい」
撮る。
「日時入れろ」
「はい」
「場所も図面に落とせ」
「はい」
こういうとき。
相馬先輩は妙に細かい。
でも分かります。
行政相手に、
「怖いんです」
だけでは弱い。
どこが。
いつから。
どのくらい。
行政はいつ知った。
何を確認した。
どんな措置をした。
どこまで危険を予測できた。
全部。
事実にする必要があります。
「高瀬さん」
片桐所長が聞きました。
「市が現場確認したのはいつです?」
「四日前です」
「そのあと雨は」
「一昨日かなり降りました」
「その後、市は見ていない?」
「はい」
所長が一度斜面を見上げました。
「次の許可申請の範囲は」
高瀬さんが地図を開きます。
「この上です」
「今の亀裂と近いな」
「そうなんです」
私は背中が少し冷たくなりました。
今ある危険。
これから出るかもしれない許可。
市が何もしないこと。
市が何かすること。
二つが同時に迫っている。
現代なら。
仮の義務付け。
仮の差止め。
頭に浮かぶ。
だけど今は、
名前だけ持っていても使えない。
受験知識が、
未来の便利道具ではなく、
存在しない扉の案内板になっています。
「先輩」
「何だ」
「昔の行政裁判、きつすぎません?」
「今さら何言ってる」
「処分されてから取消訴訟。で、止めたければ執行停止」
「ああ」
「でも処分される前に止めたいときは」
「壁だな」
「行政に何かしろって命じてほしいときも」
「壁だ」
「壁だらけじゃないですか」
「行政裁判ってのは昔から壁を見る仕事みてえなもんだ」
「夢がない」
「夢で崖は支えられん」
正論が今日も土嚢より強い。
市役所。
総務課。
沢渡課長は写真を三枚見たところで言いました。
「造成課の案件ですね」
「知ってる」
相馬先輩が答えます。
「今日は総務として聞きたい」
「何をです」
「市の法的リスクだ」
沢渡課長の目が少し細くなりました。
「朝から物騒ですね」
「高瀬さんの家の上の造成。現状確認してるな」
「造成課が」
「是正命令なり工事停止命令なりを出せる可能性は検討したか」
「個別法上の要件があります」
「検討したか聞いてる」
間。
「現段階では、行政指導で対応していると聞いています」
「なぜ命令じゃない」
「直ちに命令が必要な状態ではないという判断でしょう」
「判断資料は」
「造成課に確認してください」
相馬先輩が私を見る。
出番。
私は鞄から一枚出しました。
「今朝じゃなくて、今日の午後の写真です」
沢渡課長が受け取る。
「排水溝が土砂で塞がっています」
「……」
「二日前の雨のあと、市は現地確認していません」
「そのようですね」
「今ある亀裂も広がっています」
「測ったんですか」
「高瀬さんが一週間前から記録しています」
写真。
日付。
ものさし。
地味です。
でも。
こういう地味なものが、行政法では急に刃になります。
「それと」
私は別の紙を出しました。
「次の区画の許可申請」
「よく調べましたね」
「明後日、審査にかかるそうですね」
「審査予定については答えられません」
「否定しないんですね」
「朝比奈さん」
「はい」
「言葉尻を取る仕事ではないでしょう」
「今日は違います」
私も引きませんでした。
「許可を出したあとで斜面が悪化したら、市はどう説明しますか」
沢渡課長が私を見る。
「仮定の話には答えられません」
「では現在の話です」
私は机の上の写真を指します。
「既存区画で排水不良と亀裂が確認されている。住民が市へ複数回通報している。その状態で隣接区画の造成をさらに認める」
「許可要件を満たせば、許可しないわけにはいかない場合もあります」
「分かります」
「では」
「でも」
私は息を吸いました。
「今ある危険を、許可判断の前提として本当に調べたんですか」
沢渡課長が黙りました。
「こはる」
片桐所長が低く言います。
「訴訟の話を」
はい。
ここからです。
「高瀬さんは裁判も考えています」
沢渡課長の顔は変わりません。
「どうぞご自由に」
来た。
この人の、
裁判なんて言葉だけでは一ミリも動きません。
「ただし」
沢渡課長が続けました。
「何を訴えるんです?」
「……」
「まだ次の許可は出ていない」
「はい」
「現在の工事について、市に何らかの命令を出せという訴えですか」
「可能性としては」
「法定の訴訟類型ですか?」
刺してきた。
真正面から。
「今の行政事件訴訟法では」
沢渡課長が淡々と続けます。
「義務付け訴訟も、差止訴訟も、明文で設けられていませんね」
「……はい」
「無名抗告訴訟として構成する?」
「弁護士と検討します」
「認められる見込みは」
「簡単ではありません」
「では」
沢渡課長は眼鏡を直しました。
「『裁判にする』という言葉だけで行政が判断を変えると思わないことです」
悔しい。
でも。
正しい。
行政事件訴訟は、
怒鳴った人が勝つ制度ではありません。
制度上の入口がある。
そして昭和の入口は、
とんでもなく狭い。
「課長」
片桐所長が言いました。
「だから今来た」
「何です?」
「裁判を脅しに使うためじゃない」
「では?」
「裁判になった場合、市が何を問われるかを確認するためだ」
沢渡課長の表情が、ほんの少し変わります。
所長は写真を一枚ずつ並べました。
「住民から危険の通報があった」
「はい」
「市は一度現場確認した」
「はい」
「その後、大雨が降った」
「……はい」
「新たな排水不良と亀裂拡大が確認された」
「はい」
「それでも再確認しない」
沢渡課長は黙りました。
「さらに」
所長が地図を置く。
「隣接区画の許可判断を進めている」
「許可されるとは限りません」
「だから今なら戻れる」
静かな声でした。
「処分前だからこそ、行政内部で止められる」
私ははっとしました。
裁判所には、
まだ処分前だから止めにくい。
でも。
役所自身には。
まだ処分前だからこそ見直せる。
所長は続けました。
「許可を急がなければならない理由はあるか」
「審査期限との関係はあります」
「二日、現場を再確認する余地もない?」
「……」
「造成課が危険性を再確認し、それでも許可要件を満たすと判断するなら、その記録を残せばいい」
「先生」
沢渡課長が言いました。
「随分、裁判を意識していますね」
「俺たちは裁判代理はできない」
「ええ」
「だから入口まで揃える」
「……」
「その先は弁護士に渡す」
所長は高瀬さんの時系列表を出しました。
「市がいつ知ったか」
一枚。
「何を見たか」
一枚。
「その後、何が変わったか」
一枚。
「次の判断をいつするか」
一枚。
「全部整理した」
沢渡課長はしばらく見ていました。
そして。
「相変わらず、嫌な仕事をしますね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めていません」
知っています。
でも。
この人が嫌がるときは、
たぶん効いています。
「沢渡課長」
私は言いました。
「もし現代なら」
「現代?」
「あ、いえ」
危ない。
「もし法律がもっと整備されていたら」
言い直す。
「住民は、行政に処分をしろとか、処分をするなとか、もっと正面から裁判所に求められる仕組みがあってもいいと思います」
「理想論ですね」
「そうですか」
「行政判断に裁判所が事前に深く入りすぎれば、行政機能が止まるおそれもある」
なるほど。
そこもある。
仮の救済は。
困っている人だけ見れば、
すぐ命じてほしい。
すぐ止めてほしい。
でも。
行政には行政の仕事がある。
裁判所が暫定的に処分を命じたり、
処分を禁止したりするのは、
かなり強い介入です。
「だから要件が厳しくなるんでしょうね」
思わず言いました。
「何の話です?」
「独り言です」
未来の制度では。
仮の義務付けも。
仮の差止めも。
何となく不安だから。
では使えません。
償うことのできない損害を避けるための緊急の必要。
本案に理由があるとみえること。
そして。
公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあれば認められない。
強い救済だからこそ。
入口も重い。
それでも。
入口自体が法定されている現代と。
その入口の存在から争わなければならない昭和。
差は大きい。
「分かりました」
沢渡課長が言いました。
私たち全員が顔を上げます。
「造成課に再確認を求めます」
「許可審査は」
相馬先輩が聞く。
「少なくとも、現地を再確認するまで最終判断をしないよう伝えます」
高瀬さんが息を呑みました。
「工事は?」
「私に停止を命じる権限はありません」
「じゃあ――」
「ただし」
沢渡課長が遮ります。
「現状が報告と違うなら、行政指導の内容も含めて再検討させます」
完全勝利ではない。
命令も出ていない。
工事もまだ止まっていない。
でも。
明後日そのまま許可。
という流れは一度止まった。
「課長」
私が言いました。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「でも」
「行政内部で確認すべき事情が増えただけです」
やっぱりこの人は。
親切で動くのではなく、
合理性で動く。
「一つ」
沢渡課長が私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「さっき何か言いかけましたね」
「何をです?」
「仮に行政へ命令させるとか、仮に止めるとか」
ぎく。
「未来の法律ですか」
「なんで分かるんですか!」
部屋が静まりました。
やってしまった。
相馬先輩が額を押さえます。
「こいつ時々、頭打つんですよ」
「打ってません!」
「そういうことにしとけ!」
沢渡課長は私を数秒見てから、
「奇妙な人ですね」
と言いました。
「よく言われます」
「それで」
沢渡課長は少しだけ口元を緩めました。
「その未来では、行政庁に『やれ』と裁判所が仮に命じる制度でもできるんですか」
「……」
答えていいのでしょうか。
歴史が変わりませんか。
行政事件訴訟法改正に沢渡課長の影が入ったら、私は責任を取れません。
「秘密です」
「何ですか、それは」
「未来の行政法は守秘義務です」
「そんな法律はありません」
「今は」
「朝比奈!」
相馬先輩に首根っこをつかまれました。
翌朝。
雨が降りました。
細い雨。
秋の雨です。
事務所の窓から外を見ながら、私は何度も時計を確認していました。
「落ち着け」
相馬先輩が言います。
「無理です」
「お前が斜面支えてるわけじゃねえだろ」
「でも気になるじゃないですか」
「だから昨日やることやった」
「まだ工事止まってないですよ」
「行政書士がブルドーザーの前に立つ気か」
「それは業務範囲外ですね」
「人生の範囲でもやめろ」
午前十時。
電話。
私が飛びつきました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『声が大きい』
「沢渡課長!」
『名乗る前に決めつけないでください』
「違ったらすみません」
『沢渡です』
「合ってるじゃないですか」
『造成課が今朝、現地確認しました』
私は姿勢を正しました。
「どうでした?」
『昨日の資料どおり、排水経路に問題が確認された』
「はい」
『亀裂についても追加調査が必要と判断したそうです』
「じゃあ」
『施工業者へ、該当部分の工事を一時中断するよう指導しました』
「……!」
私は思わず相馬先輩を見る。
先輩も受話器の向こうを聞こうと顔を寄せています。
『隣接区画の許可審査も保留です』
「保留」
『安全対策の確認が終わるまで』
「処分しない?」
『現時点では』
やった。
と言いかけて。
飲み込む。
行政指導。
まだ正式な命令ではない。
許可申請も却下されたわけではない。
問題が解決したわけじゃない。
「分かりました」
『高瀬さんにも造成課から連絡します』
「ありがとうございます」
『だから礼はいりません』
「じゃあ言いません」
『もう言いました』
「細かい」
『行政は記録に残りますので』
電話が切れました。
「どうだった」
相馬先輩が聞きます。
「工事、一時中断」
「指導か」
「はい」
「許可は」
「保留」
先輩が息を吐きました。
「まず一歩だな」
「ですね」
片桐所長は帳簿から顔を上げませんでした。
「弁護士への資料はそのまま仕上げろ」
「え」
「行政指導は強制じゃない」
「あ」
「業者が従わない場合もある」
「はい」
「安全対策の結果、許可が出る可能性もある」
「はい」
「一歩進んだからって、道が終わったと思うな」
そうです。
これは魔法じゃない。
裁判所から、
仮に命じてもらったわけでも。
仮に止めてもらったわけでもない。
行政内部が。
自分で止まっただけ。
でも。
今朝、重機が動き続ける未来と。
一度停止して、安全確認をする未来。
その差は大きい。
昼過ぎ。
高瀬さんが事務所へ来ました。
「止まりました」
昨日とは別人みたいな声でした。
「重機、止まりました」
「聞きました」
「市の人も朝から来て」
高瀬さんは何度も頭を下げます。
「ありがとうございました」
「まだ終わってません」
片桐所長が言いました。
「はい」
「工事再開もあり得ます」
「はい」
「許可が出ることもある」
「はい」
「だから記録は続けてください」
「分かりました」
高瀬さんは椅子に座りました。
昨日は座る暇もないと言っていた人です。
今日は、
ようやく座れた。
それだけでも少し違いました。
「でも」
高瀬さんが言います。
「裁判って、もっと何でもできると思ってました」
私は苦笑しました。
「私もです」
「お前は受験生だろ」
相馬先輩が突っ込みます。
「現代の受験生ですから」
「また始まった」
高瀬さんが首をかしげます。
「裁判所に行けば、『危ないから止めなさい』ってすぐ言ってくれるもんだと」
「そう簡単じゃないんです」
私は答えました。
「特に今は」
今は。
昭和六十三年。
義務付け訴訟も。
差止訴訟も。
法律にきちんと書かれた訴訟ではない。
まして、
仮の義務付けも。
仮の差止めも。
制度として用意されていない。
あるのは。
既に出た処分の効力などを一時的に止める執行停止。
つまり。
処分が出てから戦う制度が中心。
でも現実には。
処分が出る前に止めなければ間に合わないこともある。
行政が何もしないままでは間に合わないこともある。
だから後の時代。
法律は変わっていく。
困った人がいたから。
今ある制度では救えない場面があったから。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日覚えたことは」
来た。
今日の教訓。
私は少し考えました。
「判決で勝てるかだけ考えてちゃ駄目」
「うん」
「勝つまでに、被害が出ないかを見る」
「それから」
「今、その時代に使える救済が本当にあるのかを確認する」
所長が頷きました。
相馬先輩が付け加えます。
「未来の法律を持ち出すな」
「そこは私限定じゃないですか」
「一番大事だ」
「試験には出ません」
「お前の人生には出る」
否定できない。
一週間後。
造成地では排水設備の補修が行われました。
土留めも追加。
亀裂部分は専門業者が調査。
隣接区画の許可審査は、
その報告書が提出されるまで延期になりました。
工事が永遠に止まったわけではありません。
高瀬さんの望みどおり、
全部中止。
になったわけでもない。
それでも。
雨が降るたび、
家の裏を見上げて眠れなかった人に。
少なくとも、
「安全を確認するまで進めない」
という時間ができた。
夕方。
高瀬さんから電話がありました。
『昨日、久しぶりに寝られました』
「そうですか」
『雨だったけど』
「はい」
『重機が止まってるって分かってたから』
私は何も言えませんでした。
『ありがとうございました』
「私たちは整理しただけです」
『その整理がなかったら、役所も動かなかったでしょう』
「……そうかもしれません」
『じゃあ』
「はい」
『また何かあったらお願いします』
「今度は何もないのが一番です」
『本当ですね』
電話を置きました。
窓の外。
雲の切れ間から夕日が出ています。
「先輩」
「何だ」
「法律って、遅いですね」
「急にどうした」
「裁判って、時間がかかる」
「ああ」
「だから途中の救済って大事なんですね」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「今日は使えなかったけどな」
「そうなんですよ」
悔しい。
現代なら、
仮の義務付け。
仮の差止め。
そういう名前の救済がある。
もちろん。
簡単には認められない。
償うことのできない損害。
緊急の必要。
本案に理由があるとみえること。
公共の福祉への重大な影響。
強い救済だから、
要件も厳しい。
でも。
制度がある。
裁判所に、
「判決まで待っていたら間に合わない」
と正面から言える。
その入口がある。
昭和六十三年の今。
私はその入口がない場所に立っています。
「先輩」
「何だ」
「将来、この辺の法律、変わると思います?」
「知らん」
「冷たい」
「俺は予言者じゃねえ」
「私はちょっと知ってます」
「はいはい」
「本当に変わるんですよ」
「じゃあ何で今日使えなかった」
「施行前だからです」
「役に立たねえ未来人だな」
「ひどい!」
所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい」
「茶」
「私ですか」
「見習いだろ」
「それ、何でも使える言葉じゃないですよ」
「早くしろ」
私は立ち上がりました。
湯呑みを三つ出す。
急須へ茶葉。
湯を注ぐ。
待つ。
「……所長」
「何だ」
「お茶にも仮の義務付け制度、欲しいですね」
「何だそれは」
「正式に私が淹れるかどうか決着する前に、とりあえず所長が自分で淹れるよう命じるんです」
「却下」
「まだ申立て前ですよ!」
「差止める」
「何をです?」
「くだらない話をすることを」
「仮の差止めですか」
「今すぐだ」
「強すぎる!」
相馬先輩が吹き出しました。
「公共の福祉に重大な影響が出てるんじゃねえか」
「私の雑談で?」
「事務所の仕事が止まる」
「重大じゃないです!」
片桐所長が湯呑みを指差しました。
「茶」
「はいはい」
私は急須を持ち上げました。
法律は。
ときどき間に合いません。
だから人は、
間に合わせる仕組みを作ろうとする。
判決まで待てないなら。
仮に動かす。
仮に止める。
そんな発想が、
やがて法律の中に名前を持つ。
でも。
名前が生まれる前の時代にも、
困っている人はいました。
崩れそうな斜面も。
迫る処分も。
眠れない夜も。
ちゃんとありました。
今日の教訓は、たぶんこれです。
――救済は、勝つことだけじゃない。間に合わせることまで考えて、初めて人を守れる。
そしてもう一つ。
私は所長の湯呑みにお茶を注ぎながら思いました。
――未来の制度を知っていても、施行前には使えない。
こちらは。
転生者にだけ厳しすぎる教訓でした。
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