[差止めの訴え]法理編 こはるノート
夕方の事務所は、昼間より少しだけ法律が分かりやすく見えます。
電話が鳴らない。
来客もいない。
窓の外では、商店街の看板に一つずつ灯りがつき始めている。
そして、私の机の前。
掲示板には、昨日打ちつけた紙がまだ残っていました。
――処分前だからこそ、止められる間違いがある。
「……曲がってません?」
「昨日直しただろ」
向かいの机で相馬先輩が言いました。
「でも右がちょっと下がってるような」
「お前の性格だろ」
「紙に性格は出ません」
「仕事には出る」
「嫌なこと言いますね」
私は椅子に座りました。
目の前にはノート。
上には大きく、
――差止めの訴え。
と書きます。
その下。
さらに大きく。
――ただし、昭和六十三年には法定されていない。
「最初からそこか」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「そこからです」
「未来の話だろ」
「今の私には大事なんです」
「今は昭和だ」
「分かってます!」
分かっている。
分かっているのです。
でも。
現代の行政法を勉強していた私にとって、
差止めの訴えは、
抗告訴訟の一種。
普通に条文に並んでいる制度。
ところが。
古賀さんの件で、
処分が出る前に止めたい。
と考えた瞬間、
その足元が丸ごと消えました。
平成十六年改正前。
昭和六十三年。
差止め訴訟は、
まだ法定されていません。
「所長」
「何だ」
「現代の差止めの訴えって、どう説明するのが一番分かりやすいですか」
片桐所長は帳簿から顔を上げません。
「処分される前に、するなと求める訴えだ」
「短い」
「足りんか」
「いえ。十分です」
私はそのままノートに書きました。
差止めの訴え。
行政庁が、
本来してはならない一定の処分又は裁決を、
これからしようとしている場合に、
その処分又は裁決をしてはならない、
と裁判所に命じてもらうことを求める訴訟。
「つまり」
私はペンを止めます。
「処分が出る前ですね」
「そこが大事だな」
相馬先輩が言いました。
そう。
取消訴訟とは時間の向きが違う。
取消訴訟。
すでに処分がある。
その処分を取り消してほしい。
一方。
差止めの訴え。
まだ処分はない。
でも、
これから処分がされようとしている。
だから、
出る前に止める。
「古賀さんの件が、まさにそうでした」
「ああ」
古賀さんの金物店。
市から来たのは、
まだ是正指導。
正式な除却命令ではなかった。
だけど担当職員から、
このままなら除却命令も検討する。
と言われていた。
もし。
現代法のもとで、
本当に違法な除却命令が目前まで来ているなら。
「そこで差止めの訴えを検討するわけです」
「ただし」
所長が言いました。
「『検討する』と言われただけで、何でも訴えられるわけじゃない」
「ですよね」
私は次の見出しを書きました。
――処分又は裁決がされようとしている場合。
ここ。
意外と大事です。
差止め訴訟は、
未来の行政処分なら何でも止められる制度ではありません。
いつか。
もしかしたら。
そのうち。
処分されるかもしれない。
それだけでは足りない。
「古賀さんのときも」
私は言いました。
「最初に先輩が確認しましたよね」
「何を」
「除却命令が本当に決まってるのか」
「ああ」
「いつ出すのか」
「うん」
「誰が決めたのか」
「うん」
「結局、まだ決定してなかった」
「だからだ」
相馬先輩が灰を落とします。
「訴えってのは、不安だけで作るもんじゃねえ」
「事実が要る」
「そうだ」
いつ。
誰が。
どの処分を。
どの根拠で。
しようとしているのか。
そこまで具体的になって、
初めて、
処分前の救済を考える土台ができる。
「未来の差止め訴訟も、まずそこが入口ですね」
「で」
相馬先輩が言います。
「入口は一個じゃねえんだろ」
「はい」
来ました。
行政事件訴訟法名物。
訴訟要件。
私はノートに、
一。
二。
三。
と書きました。
「差止めの訴えを適法に提起するための要件は、大きく三つです」
「言え」
「一つ目」
私は書きます。
――一定の処分又は裁決がされることにより、重大な損害を生ずるおそれがあること。
相馬先輩が眉を上げます。
「重大な損害」
「はい」
「普通の損害じゃ駄目なのか」
「そうです」
「厳しいな」
「かなり」
ここが差止めの訴えの大きな壁。
処分前に裁判所が行政へ、
するな。
と言う。
かなり強い司法介入です。
だから、
処分が出れば少し不便です。
少し損します。
では足りない。
「古賀さんなら?」
所長が聞きました。
私は考えます。
「もし除却命令が出て、その内容が家屋や店舗の重要部分を壊すようなもので、処分後の取消訴訟を待っていたら営業や生活に回復しにくい損害が出るなら」
「うん」
「重大な損害のおそれが問題になる」
「その程度でいい」
私は頷きます。
もちろん。
何が重大な損害かは、
単に本人が大変だと言えば決まる話ではありません。
損害の性質。
程度。
処分後に回復できるか。
金銭賠償で埋められるか。
そういう事情を見る。
「例えば」
私は言いました。
「除却命令で建物を壊してしまったあと、取消判決が出ました、じゃ遅い場合があります」
「壊したものは簡単には戻らん」
「はい」
「営業も止まる」
「常連客が離れることもある」
「住む場所を失うこともある」
「そうです」
処分後の勝訴では、
時間を巻き戻せない。
そんな損害があるから、
差止めという制度が必要になる。
私は次へ進みます。
「二つ目」
――その損害を避けるため、他に適当な方法がないこと。
「これも厳しいですね」
「どういう意味だ」
相馬先輩が聞きます。
「別の救済方法がちゃんとあるなら、まずそっちを使えってことです」
「たとえば?」
「処分後の取消訴訟や執行停止で十分救済できるなら、差止めまで認める必要はない」
「なるほど」
「差止めは、先回りする訴訟ですから」
私は線を引きました。
他に適当な方法がない。
つまり。
処分されたあと争えば足りるなら、
差止め訴訟の必要性は弱い。
逆に。
処分を待っていたら取り返しがつかない。
執行停止でも救えない。
ほかの手段でも間に合わない。
そうなって初めて、
処分前に止める必要が出てくる。
「古賀さんの件なら」
私は昨日のことを思い出します。
「そもそも、役所内部で調査のやり直しを求める余地がありました」
「実際止まった」
「はい」
「なら」
相馬先輩が言いました。
「未来法でも、『他に適当な方法がない』ってところで揉めるかもしれねえな」
「そういうことです」
まさに。
差止め訴訟は、
なんでも裁判所に持ち込むための抜け道じゃない。
他に救済方法があるなら、
それも含めて検討する。
「三つ目」
私は続けます。
――行政庁が一定の処分又は裁決をしてはならない旨を命ずることを求めるにつき、法律上の利益を有する者であること。
「法律上の利益」
相馬先輩が言いました。
「また出たな」
「行政訴訟の常連です」
「つまり原告適格か」
「はい」
誰でもいいわけではない。
行政が将来する処分に反対している人。
それだけでは足りない。
その処分によって侵害される利益が、
法律上保護されている。
そう言える人でなければならない。
「古賀さん自身なら」
「自分の建物への除却命令だ」
「だから直接関係があります」
「近所のおっさんが『古賀の店がなくなると寂しい』って訴えるのは?」
「普通は厳しいです」
「常連客は?」
「それも、通常は法律上の利益まで認められるか別問題です」
「つまり」
「本人の困りごとと、法律上の利益は同じではありません」
ここがまた冷たい。
困る。
悲しい。
不便。
それだけでは、
行政訴訟の入口を通れないことがある。
でも。
逆に言えば。
法律上の利益がある人なら、
感情とは別に、
裁判所へ進む資格が制度として認められる。
「三つとも必要なんですよね」
相馬先輩が言います。
「はい」
「一個でも欠けたら」
「不適法」
「で」
「却下」
私は大きく書きました。
――訴訟要件を一つでも欠くと、却下。
「ここです」
「何が」
「勝つ負ける以前の話」
「門前払いだな」
「はい」
これが怖い。
差止め訴訟で、
行政の処分が違法かどうか。
裁量権の逸脱・濫用かどうか。
そこまで裁判所に見てもらう前に。
重大な損害はあるか。
他に適当な方法はないか。
法律上の利益はあるか。
そこを通過しなければならない。
「古賀さんが『裁判にしてくれ』って来たとき」
私は言いました。
「私、最初に本案ばかり考えてました」
「違法な除却命令なら止められる、ってか」
「はい」
「でも先に入口」
「そうです」
裁判は、
正しい人が必ず話を聞いてもらえる場所ではない。
訴訟要件を満たした人が、
ようやく本案を聞いてもらえる場所。
そこが怖い。
そして実務では、
ものすごく大事です。
「じゃあ」
相馬先輩が身を乗り出します。
「三つ通ったら勝ちか」
「違います」
「またか」
「ここから勝訴要件です」
「行政訴訟、入口多すぎだろ」
「私もそう思います」
私は見出しを書きました。
――差止め訴訟の勝訴要件。
大きく二つ。
ただし、
三つの訴訟要件と違って、
こちらは二つのうちどちらか一つを満たせばよい。
「一つ目」
――行政庁がその処分又は裁決をすべきでないことが明らかであること。
「明らか」
相馬先輩が繰り返します。
「強い言葉ですね」
「かなりな」
単に、
処分は違法かもしれない。
だけではない。
その処分をすべきでないことが、
明らか。
それくらいの強さが求められる。
「古賀さんなら」
私は考えます。
「例えば、法律上の要件をどう見ても満たしていないのに除却命令を出そうとしている、とか」
「うん」
「処分権限そのものがないのに出そうとしている、とか」
「うん」
「そういう明白なケース」
「そうだな」
そして二つ目。
――その処分又は裁決をすることが、裁量権の逸脱又は濫用となると認められること。
「これも行政法らしいですね」
「裁量」
「はい」
行政庁に一定の判断余地がある。
だから、
一つの答えしかないとは限らない。
でも。
その判断が、
与えられた裁量の範囲を飛び出した。
または、
裁量をおかしな目的で使った。
そんな場合。
差止めが認められる余地がある。
「古賀さんの件で言えば」
私は昨日の市役所でのやり取りを思い出します。
「道路拡幅に応じさせるために、建築行政の除却命令を圧力として使う、みたいな話だったら」
相馬先輩の顔が少し険しくなります。
「かなり臭いな」
「はい」
「本来の建築行政の目的と違う」
「そうです」
幸い、
古賀さんの件では、
そこまでの事実は確認されなかった。
道路事業の照会をきっかけに建築上の問題が見つかった。
その後、
建築課の確認不足のまま、
除却命令の可能性を先走って説明してしまった。
役所側の判断過程には問題があった。
でも。
最初から、
古賀さんを立ち退かせるための嫌がらせ処分だった。
とまでは言えなかった。
「こういうところ」
私は言いました。
「現場だと、すぐ『権力の横暴だ!』って言いたくなるんですよね」
「言いたくなるだけなら自由だ」
所長が言います。
「書面には書くな」
「はい」
「事実で詰めろ」
「はい」
感情で、
ひどい。
ずるい。
狙い撃ちだ。
と決めつける。
それでは足りない。
何を根拠に。
どんな資料で。
誰が判断した。
比較対象は。
目的は。
手続は。
その積み重ねで、
初めて、
逸脱・濫用という言葉に血が通う。
「所長」
「何だ」
「訴訟要件と勝訴要件、区別して覚えた方がいいですよね」
「当たり前だ」
「ですよね」
私は表にしました。
訴訟要件。
満たさないと、
不適法。
却下。
勝訴要件。
訴訟要件を通ったあと、
本案で判断される。
満たせば、
認容。
満たさなければ、
棄却。
「ここ、試験で混ぜられそう」
「実務でも混ぜるな」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「却下と棄却も」
「はい」
却下。
入口でアウト。
中身まで判断されない。
棄却。
入口は通った。
でも本案で負けた。
「これ」
私は言いました。
「見た目はどっちも負けですけど、意味が全然違う」
「そうだ」
「却下だと、『あなたの主張は間違ってます』とすら言ってもらえない場合がある」
「門前払いだからな」
「怖い」
「だから俺がいつも言ってるだろ」
相馬先輩が煙草を消しました。
「裁判なんて負け戦だ。だがやるなら要件を揃えろ」
「今日は妙に説得力があります」
「いつもある」
「それはどうでしょう」
「殴るぞ」
差止めます。
とは言いませんでした。
今日は学習済みです。
私はページをめくります。
次。
もっと大事なところ。
――昭和六十三年には、差止めの訴えは法定されていない。
「さて」
私は言いました。
「ここから過去と未来です」
「お前だけ未来だろ」
相馬先輩が言います。
「比較すると分かりやすいんです」
昭和六十三年。
行政事件訴訟法。
差止め訴訟は法定されていない。
義務付け訴訟も、
法定されていない。
「つまり」
私は言います。
「行政庁に『この処分をしろ』とか『この処分をするな』とか、正面から命じてもらう訴訟類型が条文に整備されてない」
「じゃあどうしてた」
「無名抗告訴訟です」
「名前がないのに名前あるじゃねえか」
「そういう名前です!」
正式な法定類型ではない。
でも、
法定された抗告訴訟だけでは救済できない場合に、
理論上、
それ以外の抗告訴訟を認められないか。
そう考えられてきた。
法定外抗告訴訟。
無名抗告訴訟。
その中に、
差止めを求めるものもあった。
「でも」
私は線を引きます。
「簡単には認められない」
「だろうな」
「処分前に裁判所が行政へ口を出すんですから」
昔の裁判所は、
今よりさらに慎重。
行政庁の第一次判断権を尊重する。
まだ処分も出ていないのに、
裁判所が先回りして、
するな。
と命じる。
そこへのハードルは非常に高かった。
「古賀さんの事件でも」
私は言いました。
「私が現代知識で『差止め訴訟!』って思ったけど」
「条文がない」
「はい」
「で、法定外抗告訴訟を考えるにしても」
「弁護士案件」
「そうだ」
そこは絶対に外せない。
行政書士は訴訟代理人になれない。
だから、
私たちが裁判所へ訴状を出して、
差止めを求める。
なんてことはできない。
私たちにできるのは、
事実を整理する。
資料を集める。
処分の具体性を確認する。
損害を整理する。
法律上の利益を検討する。
行政内部で是正の余地を探す。
そして必要なら、
弁護士へ繋ぐ。
「昨日の動きって」
私は言いました。
「今思うと、未来の差止め訴訟の要件を、そのまま裁判に使ったわけじゃないけど」
「うん」
「考え方としては役立ってたんですね」
「どういう意味だ」
相馬先輩が聞きました。
私は指を折ります。
「まず、処分が本当にされようとしてるのか」
「うん」
「どんな損害が出るのか」
「うん」
「裁判以外に避ける方法がないのか」
「うん」
「本人に直接関係する処分なのか」
「そこまで整理すりゃ」
「弁護士に渡しやすい」
「そうだ」
所長が言いました。
「制度が違っても、事実整理は無駄にならん」
その言葉。
なんだか好きです。
法改正で条文は変わる。
訴訟類型も増える。
期間も変わる。
被告も変わる。
でも。
事実は何か。
誰が困るのか。
何が起きようとしているのか。
ほかに手段はあるのか。
そこを整理する仕事は、
時代が変わっても消えない。
「じゃあ」
相馬先輩が言います。
「未来では何が変わる」
「平成十六年改正です」
私は大きく書きました。
平成十六年。
行政事件訴訟法改正。
平成十七年施行。
義務付け訴訟。
差止め訴訟。
法定。
「なぜ法定された」
所長が聞きます。
「処分後の取消訴訟だけじゃ、救済として遅い場合があるからです」
「もっと」
「行政訴訟を、より実効的な権利救済制度にするため」
「そうだ」
私は頷きます。
昔の行政訴訟は、
基本的に、
処分が出た。
その処分を取消す。
という事後救済が中心だった。
でも。
世の中には。
処分されてからでは遅い。
そんな場面がある。
建物。
営業。
教育。
資格。
環境。
一度進んだら、
あとで判決をもらっても、
元の状態へ戻すのが難しいことがある。
だったら。
処分前の救済ルートも、
条文上きちんと用意しよう。
それが差止め訴訟の法定化。
「つまり」
私は言いました。
「無名抗告訴訟という細い裏道を、条件付きで正面玄関にした」
「分かりやすいな」
相馬先輩が言います。
「でしょう?」
「ただし玄関の前に門番三人」
「重大な損害、他に適当な方法なし、法律上の利益」
「で、中入ってからもう二人」
「処分すべきでないことが明らか、または裁量権の逸脱・濫用」
「全然入りやすくねえ」
「でも入口そのものがあるのは大きいんです」
本当にそう。
制度が厳しい。
要件が重い。
それでも。
条文に、
差止めの訴え。
と書いてある。
その意味は大きい。
どんな場合に使えるのか。
どんな利益を守るのか。
裁判所はどこまで介入できるのか。
議論の土台が明確になる。
昭和六十三年の古賀さんのように、
まず、
そんな訴えが認められるのか。
から争わなくてよくなる。
「こう考えると」
私は言いました。
「昔の行政裁判って、使い勝手悪かったんですね」
「今さらか」
相馬先輩が呆れます。
「受験生のときは、改正前後を表で覚えてただけなので」
「表って怖えな」
「便利なんですけどね」
旧法。
義務付け訴訟なし。
差止め訴訟なし。
現代法。
どちらも法定。
テキストでは数行。
でも。
古賀さんの奥さんが、
引っ越し用の段ボールに食器を詰めていた。
それを思い出すと。
その数行が全然違って見える。
処分後では遅い。
その言葉の中には。
家を出るかもしれない人。
店を閉めるかもしれない人。
学校を去るかもしれない人。
資格を失うかもしれない人。
そういう生活が入っている。
「仮の救済は?」
相馬先輩が聞きました。
「来た」
「何が」
「昭和の壁」
私はノートに書きます。
現代。
義務付け訴訟。
差止め訴訟。
さらに、
仮の義務付け。
仮の差止め。
一定の仮救済制度がある。
「でも昭和六十三年は」
「執行停止だな」
所長が言いました。
「はい」
処分が出たあと。
取消訴訟などを提起して。
その処分の効力や執行を一時的に止めてもらう。
執行停止。
でも。
古賀さんの件のように、
まだ処分が出ていない。
その段階では、
止めるべき処分そのものがまだない。
「だから」
私は言いました。
「処分前の仮救済も、昔は今より弱かった」
「そういうことだな」
「未来、だいぶ整備されますね」
「お前の未来はよく改正するな」
「必要があったんです」
制度改正は、
受験生を苦しめるためではない。
分かってはいた。
でも。
今回みたいな事件を見ると、
本当に分かる。
なぜ変わったのか。
昔の仕組みでは、
救えない人がいたから。
私は一度ノートを閉じかけて、
また開きました。
「もう一個あります」
「まだやるのか」
「重要です」
見出し。
――主観訴訟と抗告訴訟。
「差止めの訴えは」
私は言います。
「主観訴訟の中の抗告訴訟」
「説明しろ」
相馬先輩が言いました。
「主観訴訟は、自分自身の権利利益の救済を目的とする訴訟」
「うん」
「抗告訴訟は、行政庁の公権力の行使に不服があって、その適法性を争う訴訟」
「うん」
「差止めは、自分に直接関係する将来の処分を止めるための抗告訴訟」
「それでいい」
古賀さんが、
金物屋の常連として、
別の誰かの除却命令を止めてほしい。
という話ではない。
自分の建物。
自分の営業。
自分の生活。
そこへ向けられようとしている行政処分。
だから主観訴訟。
そして、
行政庁が公権力として行う処分を止める。
だから抗告訴訟。
「こういう分類」
私は言いました。
「受験生のときは本当に眠かったです」
「またそれか」
「民衆訴訟とか機関訴訟とか、表だけ見てると」
「今は?」
「古賀さんの家を思い出すから、少し起きてます」
「少しか」
「完全覚醒です」
「嘘つけ」
夕方の光が薄くなってきました。
私は今日のノートを見返します。
差止めの訴え。
処分前。
重大な損害。
他に適当な方法がない。
法律上の利益。
三つの訴訟要件。
一つでも欠ければ却下。
そのうえで。
処分をすべきでないことが明らか。
または、
処分をすることが裁量権の逸脱・濫用。
どちらかを満たせば、
認容の可能性。
満たさなければ、
棄却。
そして。
昭和六十三年には、
差止め訴訟は法定されていない。
無名抗告訴訟という高い壁。
現代では、
平成十六年改正で法定。
「所長」
「何だ」
「一行でまとめろって言いますよね」
「言ってない」
「いつも言うので」
「勝手にやれ」
私はノートの一番下に、
四角で囲って書きました。
――差止めは、処分後では遅い人のための、処分前の最後の門。
「最後の門?」
相馬先輩が覗き込みます。
「他に適当な方法がない、って要件がありますから」
「なるほど」
「どうです」
「悪くない」
「褒めた」
「気のせいだ」
「またそれですか」
でも。
もう少し書きたくなりました。
その下。
もう一行。
――ただし昭和六十三年、その門にはまだ看板がない。
「二行じゃねえか」
「歴史込みです」
「一行の覚え書きじゃないのか」
「じゃあ合体します」
私は考えて。
書き直しました。
――差止めは、処分後では遅い人を処分前に救う訴え――ただし昭和には、まだ正面玄関がない。
「長い」
「内容が大事です」
「試験前に見たら疲れるぞ」
「じゃあ超短縮版」
さらに下。
――出る前に止める。ただし昔は、その道が細い。
相馬先輩が数秒見ました。
「そっちでいい」
「ですよね」
「最初からそれ書け」
「過程が大事なんです」
行政法も小説も。
たぶんそうです。
そのとき。
電話が鳴りました。
私は受話器を取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『古賀です』
「あ、古賀さん」
『市役所からまた連絡が来てな』
「はい」
『裏の増築、すぐ壊せって話じゃなくなったそうだ』
「そうですか」
『昔の図面をもう一回調べるって』
「はい」
『女房がな』
「はい」
『荷物、全部戻した』
私は少し笑いました。
「それはよかったです」
『まだ安心するなって、片桐先生には言われたけどな』
「所長はそういう人です」
『でもまあ』
一瞬。
電話の向こうで店の音がしました。
金属が触れる音。
『明日も店開けるよ』
「はい」
『じゃあな』
電話が切れました。
私は受話器を置きました。
「古賀さん?」
相馬先輩が聞きます。
「明日も店開けるそうです」
「そうか」
それだけ。
大事件ではありません。
新聞にも載らない。
判決も出ない。
そもそも訴訟すらしていない。
でも。
処分前に、
事実を一つ確認した。
境界が未確定だった。
過去資料が残っていた。
命令を出す前提が崩れた。
だから。
明日も店が開く。
たぶん法律の救済って、
いつも判決文の形で来るわけじゃない。
処分が出なかった。
命令に進まなかった。
話し合いに戻った。
その結果、
何も起きなかった。
それも一つの救済なのだと思います。
現代法は、
そんな「起きる前に救う」必要を、
差止めの訴えという形で正面から認めました。
もちろん。
誰でも。
いつでも。
簡単に使えるわけではない。
重大な損害。
他に適当な方法がない。
法律上の利益。
高い入口。
さらに。
処分をすべきでないことが明らか。
あるいは、
裁量権の逸脱・濫用。
本案も高い。
でも。
高い門でも、
門があることには意味がある。
昭和六十三年。
その門は、
まだ法律の中にきちんとは建っていない。
だからこの時代の人たちは。
役所の会議室で。
記録庫で。
古い図面の上で。
処分前の救済を探している。
未来の私は、
その先に差止め訴訟という制度ができることを知っています。
でも。
制度ができる理由まで、
昨日までは知りませんでした。
処分後では遅い。
たったその一言の中に。
店を閉める人。
家を出る人。
仕事を失う人。
明日の予定を変える人。
そういう生活が全部入っている。
だから。
行政事件訴訟法は、
ただ処分を取消すだけの法律から、
少しずつ、
起きる前に救う法律へ広がっていった。
私は掲示板を見ました。
――処分前だからこそ、止められる間違いがある。
今度は。
曲がっている気がしませんでした。
「こはる」
所長が言いました。
「何です?」
「その紙」
「はい」
「外せ」
「えっ」
「邪魔だ」
「昨日貼ったばっかりですよ!」
「掲示板を占領してる」
「でも今回のテーマそのものですよ!」
「業務連絡が貼れん」
「重大な損害が生じますか?」
「生じる」
「他に適当な方法は?」
「お前が外せ」
「法律上の利益は?」
「事務所の管理者だ」
強い。
三要件が揃いそう。
「じゃあ差止め訴訟で――」
言いかけて。
私は止まりました。
相馬先輩がにやにやしています。
「どうした」
「……昭和六十三年でした」
「学習したな」
「無名抗告訴訟を――」
「やめろ」
所長が言いました。
「却下ですか」
「違う」
「じゃあ棄却?」
「撤去命令だ」
「行政庁じゃないでしょう!」
相馬先輩が吹き出しました。
私は渋々、
掲示板から紙を外します。
「所長」
「何だ」
「この処分、裁量権の濫用じゃないですか」
「明らかか」
「私には明らかです」
「主観だ」
「法律上の利益ありますよ!」
「ない」
「あります!」
「相馬」
「何だ」
「こいつ止めろ」
「了解」
「物理的差止め!?」
昭和六十三年。
差止めの訴えは、
まだ条文の中にはありません。
けれど。
片桐行政書士事務所では今日も、
私の余計な抵抗だけは、
驚くほど迅速かつ確実に差し止められていました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




