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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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289/701

[差止めの訴え]現場編 「処分される前に止めればいい」の罠。昭和にはまだない差止訴訟と、処分前の崖っぷちで拾う一枚の記録

挿絵(By みてみん)

 殴られてから「次は殴らないでください」と言っても、最初の一発は戻ってきません。


 だから普通は、


 殴られる前に止めたい。


 行政処分だって、たぶん同じです。


 ――ただし。


 法律というものは、ときどき、


 「その考え方は正しいです。でも、その道はまだできていません」


 という、とんでもなく意地の悪い返事をしてきます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「裁判にしてくれ!」


 午前九時十二分。


 事務所の引き戸が壊れるかと思いました。


 がらり、ではありません。


 ガンッ。


 です。


 入ってきた男性は五十代くらい。


 日に焼けた顔。


 作業着。


 靴には乾いた泥。


 右手には茶封筒。


 左手には――


「それ、何ですか」


「瓦だ」


「瓦」


「うちの屋根のだ!」


「持ってこなくても分かります!」


 なぜ行政書士事務所へ瓦を持参するのでしょう。


 証拠能力の圧がすごい。


「座ってください」


 相馬先輩が言いました。


「まず瓦を置け」


「これを見てくれ!」


「見るから置け。机割れたらお前に請求するぞ」


「……すまん」


 男はようやく椅子に座りました。


 名前は、


 古賀源一郎。


 五十三歳。


 市の東側、古い街道沿いで木造二階建ての家に住んでいる。


 一階は金物店。


 二階が住居。


 祖父の代から七十年以上使ってきた建物だそうです。


「で」


 相馬先輩が煙草に火をつけます。


「何を裁判にする」


「市だ!」


「市の何だ」


「壊せって言いやがった!」


 茶封筒から一枚の紙が出てきました。


 私は受け取りました。


 表題。


 ――是正指導通知書。


 古賀さん所有建築物について、


 一部増築部分が建築関係法令に適合しない疑いがある。


 現況を是正するよう求める。


 そんな内容です。


「……指導?」


 私は呟きました。


「これ、命令じゃないですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言います。


 古賀さんが机を叩きました。


「同じだろう!」


「違います」


「役所が壊せと言ってるんだぞ!」


「今の紙だけを見る限りは、是正してくれ、という行政指導です」


「じゃあ無視していいのか」


「そう単純でもないです」


「どっちなんだ!」


 気持ちは分かります。


 行政法は、住民に一番嫌われる言い方をよくします。


 命令ではありません。


 でも従わなかったら、次の手続に進むかもしれません。


 強制ではありません。


 でも放置すれば処分が来るかもしれません。


 自由に断れます。


 ただし、そのあと何も起きないとは言っていません。


 その絶妙な圧。


 私は通知書をもう一度見ました。


「この増築って、いつしたんです?」


「二十年前だ」


「二十年?」


「裏の物置を広げた。親父がやった」


「建築確認は」


「知らん」


「図面は」


「昔のならある」


「市役所から今まで何か言われたことは?」


「ない」


 片桐所長が奥の机から顔を上げました。


「今回、なぜ急に来た」


「道路を広げるんだよ」


「道路?」


「ああ」


 古賀さんの家の前を走る県道。


 そこを拡幅する話が、ここ数年出ているらしい。


 ただし。


 古賀家の建物は、予定線に完全にはかからない。


 玄関先とひさしの一部。


 それだけ。


 古賀さん自身も道路拡幅に全面反対しているわけではない。


「道路に出てるところは、話し合うって言ってる」


「問題は裏の増築?」


「そうだ!」


 古賀さんが身を乗り出しました。


「道路と関係ない裏の物置まで違法だ、壊せって言い始めた!」


「通知には『違法』とは断定してません」


「役所では言われた!」


「誰に?」


「建築課の若いのだ。『このままなら除却命令の手続も検討します』って」


 私は止まりました。


 除却命令。


 処分。


 そこまで行けば話が変わります。


「命令はもう出てますか」


「まだだ」


「聴聞とか弁明の機会とか、そういう通知は?」


「何もない」


「市から来た紙はこれだけ?」


「今はな」


 今は。


 その二文字が重い。


 私は頭の中で現代法を立ち上げました。


 まだ処分は出ていない。


 でも処分がされようとしている。


 その処分がされたら重大な損害が出る。


 処分後に取消訴訟では間に合わない。


 他に適当な方法がない。


 法律上の利益もある。


 なら――


 差止めの訴え。


「いけるかも」


 私は小さく言いました。


 相馬先輩がこちらを見ます。


「何が」


「まだ命令前ですよね」


「ああ」


「だったら、除却命令を出さないように裁判所に――」


 そこで。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「何年だ」


「え?」


「今年は何年だ」


「昭和六十三年です」


「もう一度言え」


「昭和六十三年」


「その訴えは、条文にあるか」


 私は口を閉じました。


 嫌な予感。


 ものすごく嫌な予感。


 頭の中で行政事件訴訟法が高速でめくられます。


 取消訴訟。


 無効等確認。


 不作為の違法確認。


 義務付け。


 差止め――


 待って。


 義務付けと差止めが法定されたのは。


「……平成十六年改正」


「施行は」


「平成十七年……」


「今は」


「昭和六十三年です」


 詰んだ。


 私の頭の中で、


 現代行政法の差止め訴訟が、


 さらさらと砂になって崩れました。


 現代なら。


 行政庁が一定の処分をしてはならないのに、それがされようとしている場合。


 裁判所に、


 その処分をするな。


 と命じてもらう差止めの訴えが法定されています。


 もちろん簡単じゃありません。


 重大な損害。


 他に適当な方法がない。


 法律上の利益。


 そういう入口の要件を満たす必要がある。


 さらに勝つには、


 処分をすべきでないことが明らかであるか、


 処分をすることが裁量権の逸脱・濫用になること。


 高い壁です。


 でも。


 少なくとも道はある。


 現代なら。


 道の入口に、


 『差止めの訴え』


 と看板が立っている。


 ところが昭和六十三年。


 その看板がない。


「法定されて……ない」


「そうだ」


 所長の返事は短かった。


 古賀さんが怪訝そうな顔をします。


「何の話だ」


「あの」


 私は何とか整理しました。


「今後、市から除却命令が出る可能性があります」


「だから、その前に止めたいんだ!」


「そうですよね」


「裁判所で止めろ!」


「それが……今の制度だと、かなり難しいんです」


「今って何だ」


「昭和六十三年の今です」


「当たり前だろう!」


 そうですよね。


 相談者からしたら、


 私だけが時代をまたいで混乱しています。


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「差止めって形の訴えが、法律に用意されてねえ」


「ないなら作れ!」


「裁判所は大工じゃねえ」


「じゃあ命令が出るまで待てってのか!」


 古賀さんの声が事務所に響きました。


「壊せって命令が出てから裁判しろって?」


 誰もすぐには答えませんでした。


 そこです。


 昔の行政裁判の嫌なところ。


 処分が出る前に止めたい。


 そう思っても。


 そのための法定された抗告訴訟類型がない。


 もちろん、学説や判例上、


 法定外抗告訴訟。


 いわゆる無名抗告訴訟として、


 差止め的な救済を求める余地が完全にゼロだったわけではありません。


 でも。


 簡単に認められる世界ではない。


 むしろ、


 例外中の例外。


 通常の方法では到底救済できない。


 処分を待ってから争ったのでは回復しがたい損害が生じる。


 そこまで切迫して、


 ようやく裁判所の扉を叩けるかもしれない。


 そんな時代。


 現代の私は、


 差止め訴訟。


 重大な損害。


 他に適当な方法なし。


 法律上の利益。


 そう覚えていました。


 でも昭和六十三年では。


 その整理表を出す前に、


 「そもそもその訴訟類型、まだ条文にありません」


 で殴られます。


 行政法。


 未来人への殺意が高い。


「じゃあ何もできないんですか」


 私は聞きました。


 所長は答えません。


 代わりに、


 古賀さんへ聞きました。


「市は、いつ除却命令を出すと言った」


「いつとは言ってない」


「文書では」


「ない」


「口頭だけか」


「ああ」


「誰が言った」


「建築課の大西っていう若い職員だ」


「課長ではない」


「違う」


「そのとき、上司はいたか」


「奥に何人かいた」


「道路拡幅の担当は別か」


「都市計画課だ」


 所長が頷きます。


「相馬」


「ああ」


 先輩が立ち上がりました。


「行くぞ」


「市役所ですか」


「裁判所に道がないなら、処分が出る前に役所の中を掘る」


「掘る?」


「本当に命令出すつもりなのか。誰が決めた。何を根拠にしてる。まずそこだ」


 なるほど。


 行政書士は訴訟代理人にはなれません。


 私たちが裁判所へ駆け込んで、


 除却命令を差し止めます!


 なんてことはできない。


 でも。


 処分前なら、


 まだ行政内部に判断過程がある。


 調査。


 現地確認。


 事実認定。


 法令適用。


 裁量判断。


 そこでおかしなものを見つければ、


 命令そのものが出ない可能性もある。


 裁判で止められないなら。


 出す前に役所へ、


 これ、本当に処分できますか。


 と突きつける。


 片桐事務所の戦場は、


 裁判所の法廷より、


 市役所の会議机なのです。


 市役所二階。


 建築課。


 そして、なぜか。


「またあなた方ですか」


 沢渡課長がいました。


「課長、総務ですよね」


 私が言うと、


「建築課から相談を受けています」


「横断的ですね」


「問題案件ほど総務へ来ます」


「疫病神みたいな言い方ですね」


「朝比奈さんたちも、似たようなものでは?」


「否定しづらい」


 今日も沢渡課長は灰色の背広。


 眼鏡。


 無表情。


 ただし机の上には、


 古賀源一郎宅。


 と書かれたファイル。


 もう話は通っています。


 相馬先輩が座るなり言いました。


「除却命令を出すのか」


 沢渡課長は一秒だけ黙りました。


「現時点で、決定はしていません」


「建築課は本人にそう言ってる」


「将来的な可能性として説明したのでしょう」


「『検討します』ってな」


「ええ」


 相馬先輩が私を見る。


「こはる」


「はい」


「まだ処分は」


「されてません」


「されることが確定してるか」


「そこもまだ」


「じゃあまず、そこを混ぜるな」


「はい」


 そう。


 現代法の差止め訴訟でも、


 漠然と、


 いつか嫌な処分をされるかもしれない。


 では足りません。


 一定の処分又は裁決がされようとしている。


 その段階が要る。


 未来の制度を昭和に持ち込むことはできませんが、


 考え方自体は役に立つ。


 何がされようとしているのか。


 具体的か。


 切迫しているか。


 まず事実を確定しなければならない。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「古賀宅の違反内容は」


「裏側の増築部分です」


「何条違反だ」


 一瞬。


 沢渡課長がファイルを開きます。


「建ぺい率及び接道関係について、建築課が確認中です」


「確認中?」


 相馬先輩が眉を上げました。


「違反が確定してねえのか」


「現況図と過去資料に差異があります」


「それで除却命令の話を本人にした?」


「命令すると断定したわけではありません」


「でも言った」


「将来的選択肢としてです」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「役所の『可能性です』は、住民には十分脅しになるぞ」


「脅してはいません」


「意図の話じゃねえ」


 ヒリヒリします。


 私はファイルに目を落としました。


「過去資料って、何があります?」


「昭和四十四年の増築届に関する記録があります」


「あるんですか?」


 古賀さんは知らないと言っていました。


「完全ではありませんが」


「見せてもらえます?」


「本人案件の代理・補助関係は確認していますので、閲覧可能な範囲は対応します」


 書類が出てきました。


 黄ばんだ紙。


 青焼きの図面。


 活字ではなく手書き。


 私は息を止めました。


「これ」


「何だ」


 相馬先輩が覗き込みます。


 増築位置。


 裏側物置。


 寸法。


 今問題にされている場所と、


 かなり似ています。


「課長」


 私は言いました。


「市はこの増築、当時から把握してたんですか」


「この記録だけでは断定できません」


「受付印があります」


「届出を受けたことと、現行法上適法であることは別です」


「それは分かります」


 でも。


 大事なのはそこだけではありません。


 二十年近く前から行政が把握していた可能性がある。


 にもかかわらず。


 道路拡幅の話が具体化した今になって、


 突然、


 違反の疑い。


 是正。


 場合によっては除却命令。


 そうなると。


 なぜ今なのか。


 という疑問が出る。


「道路拡幅と関係あります?」


 私は聞きました。


 沢渡課長の目がこちらへ向きました。


「建築行政と道路事業は別です」


「組織上は」


「実務上もです」


「じゃあ、古賀さんの建物が道路拡幅の対象になったことと、今回の調査開始は無関係?」


「……調査の端緒は、都市計画課からの照会です」


 来た。


 相馬先輩が椅子に深く座りました。


「照会内容は」


「道路予定地周辺の建築物について、権利関係と現況確認を求めたものです」


「で、裏の増築まで見つけた」


「そういうことです」


「道路に掛かるのは表だけだろ」


「違反建築物であるなら、道路に掛かるかどうかとは別問題です」


 理屈は通っています。


 違反が本当にあるなら、


 別件の調査中に見つかったから放置してよい、


 とはならない。


 でも。


 私はもう一枚の図面に気づきました。


「先輩」


「何だ」


「これ、敷地境界が今の図面と違います」


「どこだ」


 古い図面では、


 隣地との境界が現在の課税図より約八十センチ外側にある。


 たった八十センチ。


 でも建ぺい率計算では、


 その八十センチが効く可能性がある。


「境界確定してるんですか」


 沢渡課長が建築課職員を見ました。


 端にいた中年職員が資料をめくります。


「……未確定です」


「未確定?」


「昭和四十年代に区画整理が入っており、旧図面との対応を確認中です」


「それで違反扱い?」


「疑いです」


「除却命令の可能性を本人に伝えた?」


「それは――」


「大西君ですね」


 沢渡課長が言いました。


 若い職員が顔を上げました。


「はい」


「何を説明した」


「現況上、建ぺい率超過の可能性がありますので、是正指導に従っていただけない場合は、法に基づく命令も検討されます、と」


「境界未確定だと知っていた?」


「……その時点では知りませんでした」


 部屋の空気が変わりました。


 処分前。


 まだ何も決まっていない。


 だからこそ。


 事実の穴がそのまま残っている。


 もしこれが除却命令まで進んだあとなら、


 古賀さんは処分取消しを求めて争うことになる。


 訴訟。


 執行停止。


 時間。


 費用。


 精神的負担。


 そして何より、


 違法建築物として命令を受けたという事実が先に立つ。


 だから本当は、


 処分前に止めたい。


 現代なら、


 差止め訴訟という法定の選択肢がある。


 でも昭和にはない。


 なら。


 この段階で行政の判断材料そのものを崩す。


 それが私たちにできることです。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「現状で除却命令を出せるか」


 沢渡課長はすぐ答えませんでした。


「違反事実が確認できれば」


「今は」


「確認中です」


「境界も」


「未確定です」


「昭和四十四年の資料も」


「精査が必要です」


「なら、命令の話を本人へ先行させるのは早い」


 沢渡課長が片桐所長を見ました。


「それは認めます」


 おお。


 早い。


 合理的人間。


 自分の側の前提が崩れると、ちゃんと計算を変えます。


「ただし」


 来ました。


 沢渡課長名物。


 ただし。


「最終的に違反が確認されれば、必要な是正を求めることはあります」


「それは当然だ」


 所長が言いました。


「違反を見逃せと言っているんじゃない」


「では、何を求めます」


「調査が終わるまで、命令手続に進まないこと」


 私は横で息を止めました。


 これは裁判上の差止めではありません。


 行政書士が、


 裁判所に、


 処分をしてはならない。


 と命令してもらう話ではない。


 あくまで行政内部で、


 事実関係が未確定のまま不利益処分へ進むな。


 と求める。


 沢渡課長は腕を組みました。


「その点については、建築課と協議します」


「もう一つ」


「何でしょう」


「本人への文書」


「文書?」


「今の是正指導通知だ。『違反の疑い』と書いてあるが、何が未確定なのか分からない」


 所長が通知を置きます。


「境界の確認中。過去資料の精査中。現時点で除却命令を決定していない。それを明確にしろ」


「そこまで書く必要がありますか」


「本人は『明日にも家を壊される』と思っている」


 沢渡課長の表情が止まりました。


「行政側には途中経過でも、本人には生活だ」


 静かな声でした。


 大きくない。


 でも。


 所長の言葉は、ときどき役所の机に重く落ちます。


 古賀さんの建物。


 一階は店。


 二階は家。


 仮に裏の物置だけが問題でも、


 除却命令。


 違法建築。


 そんな言葉を聞けば、


 全部壊されると思う人だっている。


「……分かりました」


 沢渡課長が言いました。


「内部確認します」


「いつまでに」


「一週間」


「三日」


「無理です」


「五日」


「一週間です」


「七日後の午前中」


「交渉が細かいですね」


「待ってる側は、一日でも長い」


 沢渡課長が小さく息を吐きました。


「分かりました」


 市役所を出ると。


 私は大きく息を吐きました。


「はああ……」


「何だ」


 相馬先輩が言います。


「疲れました」


「何もしてねえだろ」


「結構しゃべりましたよ」


「半分は未来の法律で事故りかけてた」


「それは言わないでください」


「差止めの訴え、だったか?」


「現代ではあります」


「便利だな」


「便利というほど簡単じゃないです」


 私は歩きながら整理します。


「処分がされようとしてるだけじゃ駄目で」


「うん」


「その処分で重大な損害を生じるおそれがある」


「うん」


「その損害を避けるために他に適当な方法がない」


「うん」


「しかも、その処分を止めることを求める法律上の利益がある」


「面倒だな」


「入口だけで三つあります」


「で、入れたら勝てるのか」


「それも別です」


「まだあるのか」


「処分をすべきでないことが明らかか、処分をすると裁量権の逸脱・濫用になると認められないと」


「未来も大して優しくねえな」


「それは本当にそうです」


 道はある。


 でも道があることと、


 簡単に通れることは違う。


 現代の差止め訴訟だって、


 行政庁の処分前に司法が介入するわけだから、


 要件は厳しい。


 何でもかんでも、


 将来嫌な処分されそうだから止めてください。


 では行政が動けなくなります。


 でも。


 昭和六十三年との最大の違いは。


 少なくとも現代には、


 その厳しい要件を満たした人のために、


 正面玄関が用意されている。


 この時代は。


 玄関そのものがない。


 裏口があるかどうかを判例と理論で探す。


 そんな感じ。


「先輩」


「何だ」


「昔の人、相当大変じゃないですか」


「何が」


「処分される前に止めたいとき」


「だから大変なんだよ」


「さらっと言いますね」


「制度がそうなら、その中で動くしかねえ」


「でも、処分を待ったら遅いことだってある」


「ある」


「建物壊されたら戻らないとか」


「ある」


「営業停止で店が潰れるとか」


「ある」


「学校の処分で卒業できなくなるとか」


「あるだろうな」


「じゃあ――」


「だから」


 相馬先輩が私を見ました。


「処分前にやれることを全部やるんだろ」


 私は黙りました。


「裁判だけが救済じゃねえ」


「……はい」


「行政書士ならなおさらだ。お前が法廷で止めるんじゃない。記録集めろ。事実を固めろ。役所が処分出したら危ないって分かる材料を揃えろ」


「弁護士に渡すためにも」


「そうだ」


「もし本当に処分が迫ったら」


「先生に繋ぐ」


「法定外の差止めを検討する?」


「それを決めるのは弁護士だ」


「はい」


「俺たちは」


 相馬先輩が前を向きました。


「その先生が一時間で状況を分かるようにして渡す」


 裁判なんて負け戦だ。


 だがやるなら要件を揃えろ。


 いつもの口癖。


 今日は少し違って聞こえます。


 訴訟類型が狭い時代ほど。


 訴訟要件だけではなく、


 処分の前提事実そのものを揃えておく。


 行政書士の仕事は、


 裁判をすることではない。


 でも。


 裁判の一歩手前を、


 泥だらけになって整えることはできる。


 五日後。


 古賀さんがまた事務所へ来ました。


 今日は瓦を持っていません。


 よかった。


「これ」


 一枚の紙を差し出します。


 市役所からの連絡書。


 ――古賀源一郎氏所有建築物について、現況及び過去の建築関係記録を再調査する。


 ――調査完了まで、除却命令その他の不利益処分に係る手続には移行しない。


 ――現時点において、除却命令を行う決定はしていない。


「止まった……んですか」


 古賀さんが聞きました。


「今のところは」


 私は答えました。


「裁判で止めたわけじゃありません」


「でも命令は出ない?」


「調査が終わるまでは」


「じゃあ家は」


「今日明日でどうこうなる話ではありません」


 古賀さんは。


 しばらく紙を見ていました。


 それから、


 肩を落としました。


 疲れが抜けたような。


 逆に一気に出てきたような。


「女房がな」


「はい」


「荷物まとめ始めてたんだ」


「……え?」


「家壊されるなら、娘のとこ行くしかないって」


 私は何も言えませんでした。


 古賀さんは金物屋。


 一階が店。


 二階が住まい。


 店を閉じる。


 家を出る。


 そう思っていたらしい。


「まだ終わってません」


 片桐所長が言いました。


「調査の結果、是正が必要になる可能性はある」


「ああ」


「ただし」


 所長が紙を指しました。


「役所にも、まず事実を確認させる」


「それだけでもいい」


 古賀さんが言いました。


「いきなり壊せって言われると思ってたからな」


 いきなり。


 実際にはまだ言われていない。


 でも。


 住民の側からすると、


 役所の人間が、


 『除却命令も検討します』


 と言った時点で、


 もう未来が決まったように感じる。


 だから。


 処分前の救済は難しい。


 何もされていないとも言える。


 でも、


 何かされるのを待っていたら遅いこともある。


 行政訴訟が長いあいだ抱えてきた、


 嫌な狭間。


 まだ処分前。


 だから取消訴訟はない。


 差止め訴訟も、この時代には法定されていない。


 なら待つしかないのか。


 ――そうじゃない。


 少なくとも。


 待っているあいだに、


 できることはある。


「所長」


 相馬先輩が奥から声をかけました。


「建築課から電話」


 所長が受話器を取ります。


「片桐です」


 短いやり取り。


「分かった」


 電話を切る。


「どうでした?」


「境界、古賀さん側の主張に近いらしい」


「え?」


「区画整理前後の資料を重ねたら、今使ってる課税図の線が建築確認用の境界としてそのまま使えない可能性が高い」


「じゃあ」


「建ぺい率超過そのものが消えるかもしれん」


 古賀さんが立ち上がりました。


「本当か!」


「まだ確定ではありません」


 所長は冷静です。


「ただ、少なくとも『明らかな違反建築だから除却命令』という話ではなくなった」


「……そうか」


 古賀さんは座り直しました。


 しばらくして。


「役所も、間違うんだな」


 ぽつりと言いました。


「間違います」


 私は答えました。


「人がやってますから」


「じゃあ裁判すれば勝てるのか」


「それは別です」


「別なのか」


「裁判って、本当に『別です』が多いんですよ」


 古賀さんが初めて笑いました。


「面倒だな、法律って」


「はい」


「そこ即答するのか」


「面倒じゃないとは言えません」


 でも。


 その面倒さが、


 人を救うこともある。


 違反か。


 本当に。


 境界は。


 本当に。


 命令の前提事実は。


 本当に。


 一つずつ。


 冷たいくらいに確認する。


 その冷たさが、


 勢いで進みかけた処分を止めることがある。


 翌週。


 私たちは再び市役所にいました。


「結論から申し上げます」


 沢渡課長が言いました。


「現時点で、古賀さんに対する除却命令は行いません」


 私は思わず息を吐きました。


「違反なし?」


「そこまでは言っていません」


 ですよね。


 この人がそんな気持ちよく終わらせてくれるわけがありません。


「裏側増築部分については、当時の法令、敷地状況、手続記録をさらに確認します」


「でも命令は出さない」


「現状の資料だけで命令へ進むことは適切でないと判断しました」


「道路拡幅との関係は」


「切り分けます」


 沢渡課長が言いました。


「道路事業に必要な部分は、都市計画課が通常の補償・協議手続を進める。建築関係は建築関係で判断する」


「最初からそうしてください」


「組織は常に完璧には動きません」


「開き直りですか」


「事実です」


 強い。


 嫌な意味で強い。


「朝比奈さん」


「はい」


「あなた、前回『裁判で処分前に止める』ようなことを言いかけましたね」


「聞いてました?」


「聞こえていました」


「忘れてください」


「無理です」


「恥ずかしい」


「何という訴えですか」


「言いません」


「未来にはあるんでしょう?」


 私は沢渡課長を見ました。


 この人。


 たまに勘が怖い。


「……差止めの訴えです」


「差止め」


「行政庁が一定の処分をしようとしている場合に、その処分をしてはならないと裁判所に命じてもらう訴え」


「今は?」


「法定されてません」


「では使えない」


「はい」


 ものすごく気持ちよく断言されました。


「ただ」


 私は少しだけ反撃します。


「未来では法定されます」


「なぜでしょうね」


 沢渡課長が言いました。


 私は答えようとして、


 止まりました。


 なぜ。


 それは。


 今日まさに見てきたことです。


「処分されたあとじゃ、遅いことがあるから」


「そうでしょうね」


「取消訴訟で後から消せても、損害が戻らないことがある」


「ええ」


「だから、重大な損害が出るような場合で、ほかに適切な救済方法もなくて、その人自身に法律上の利益があるなら、処分前に司法救済へ行ける道が必要になる」


「なるほど」


「もちろん、何でも止められるわけじゃありません」


「行政が何もできなくなりますからね」


「はい」


「勝つためにも厳しい条件がある?」


「あります」


「どんな」


「それは――」


 私は止まりました。


「今日は言いません」


「なぜです」


「話が長くなるので」


「珍しく自覚があるんですね」


 くっ。


 この人。


 やっぱり敵です。


 相馬先輩が横から言いました。


「課長」


「何でしょう」


「未来の法制度の授業はいい」


「あなたが始めたんでしょう」


「違う。こいつだ」


「私を売らないでください」


「仕事の話に戻すぞ」


 先輩は机の上の古賀さん関係資料を指しました。


「今後、追加で現地調査するなら本人に事前連絡」


「分かりました」


「違反の内容が固まってないうちは、命令を前提にした言い方はするな」


「建築課には伝えます」


「道路補償との取引材料に使うな」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「使っていません」


「なら、そのままでいい」


 一秒。


 二秒。


 妙な緊張。


 そして。


「承知しました」


 沢渡課長が答えました。


 それで話は終わりました。


 市役所を出たあと。


 古賀さんの店へ寄りました。


 金物店。


 狭い店内に、


 釘。


 金づち。


 鎌。


 蝶番。


 古い鍋。


 何に使うのか分からない金属部品。


 私は棚を見上げました。


「すごいですね」


「何が」


「全部、用途分かるんですか」


「当たり前だ」


「これ何です?」


「戸車」


「これは?」


「鎹」


「これは?」


「お前、買うのか」


「勉強です」


「金物屋の試験でも受けるのか」


 相馬先輩が笑います。


 店の奥では、


 古賀さんの奥さんが、


 段ボールから食器を戻していました。


 引っ越し用にまとめていたものらしい。


「ご迷惑かけました」


 奥さんが頭を下げます。


「いえ」


「もう少しここにいられそうです」


 もう少し。


 その言葉が残りました。


 永久にここに住める保証ではない。


 道路拡幅の話も続く。


 建築関係の調査も終わっていない。


 何も完全には解決していない。


 でも。


 まだ出ていない処分を、


 まだ出ていないから何もできない、


 で放っておかなかった。


 その結果。


 荷物をほどく時間が戻ってきた。


「朝比奈さん」


 古賀さんが声をかけました。


「はい」


「これ持ってけ」


「瓦ですか」


「何で瓦欲しがるんだ」


「最初に持ってきたので」


「釘だよ」


 小さな紙袋。


「事務所で使え」


「釘って意外と使いませんよ」


「額でも掛けろ」


「所長、壁に穴開けるの嫌がりそう」


「じゃあ相馬の机に打て」


「おい」


 先輩が後ろから低い声を出しました。


「それは魅力的ですね」


「こはる」


「冗談です」


 帰り道。


 夕方の風が少し冷たくなっていました。


 私は歩きながら、


 頭の中で今日のことを並べます。


 処分前。


 まだ取消す処分はない。


 でも。


 処分されてからでは遅いことがある。


 現代なら、


 差止めの訴え。


 行政庁に、


 その処分をするな。


 と求める法定の抗告訴訟がある。


 重大な損害。


 他に適当な方法がない。


 法律上の利益。


 入口は厳しい。


 勝つためにも、


 処分をすべきでないことが明らか。


 あるいは、


 裁量権の逸脱・濫用。


 さらに高い壁。


 それでも。


 道はある。


 一方。


 昭和六十三年。


 その差止め訴訟は、


 まだ行政事件訴訟法に書かれていない。


 処分前の司法救済は、


 無名抗告訴訟という、


 霧の中の細い道。


 だから片桐所長たちは。


 裁判所の扉を叩く前に、


 役所の処分過程へ手を突っ込んだ。


 境界は確定しているか。


 違反事実は確定しているか。


 過去資料は確認したか。


 道路事業と建築行政を混同していないか。


 命令を出す前提は揃っているか。


 一つずつ。


 処分の足場を確認した。


 すると。


 足場の一本が腐っていた。


 だから役所も、


 そのまま前へ進めなくなった。


「先輩」


「何だ」


「差止めって、裁判の名前だけじゃないんですね」


「どういう意味だ」


「処分前に止めたいなら、まず処分が出るまでの過程を見る」


「うん」


「裁判で止められなくても、間違った前提なら行政内部で止まることがある」


「そうだな」


「行政書士は、そこを掘る」


「そういうことだ」


 私は少し考えました。


 今日の教訓。


 ――処分前は、まだ何も起きていないんじゃない。


 ――処分前だからこそ、止められる間違いがある。


「お前」


 相馬先輩が言いました。


「また顔が勉強モードだぞ」


「今日のまとめしてました」


「帰ってからやれ」


「忘れます」


「じゃあ今言え」


「処分前は、まだ何も起きてないんじゃない。処分前だからこそ、止められる間違いがある」


 相馬先輩が黙りました。


「どうです」


「長い」


「そこですか」


「もっと短くしろ」


「じゃあ――」


 少し考える。


「『出てから争うな。出る前の事実を掘れ』」


「物騒だな」


「先輩向けです」


「俺を何だと思ってる」


「行政法界の土木作業員」


「殴るぞ」


「処分前に差し止めます」


「できんのか」


「あ」


 しまった。


 相馬先輩がにやりとしました。


「昭和六十三年だぞ」


「……無名抗告訴訟で」


「弁護士呼べ」


「正しい!」


 悔しい。


 ものすごく悔しい。


 でも。


 夕暮れの向こう。


 古賀金物店の古い看板には、


 今日も灯りがついていました。


 処分は、まだ出ていない。


 だから。


 今日は何も起きなかった日。


 そう言うこともできます。


 けれど私には。


 何も起きなかったことこそが、


 今日いちばん大きな成果に思えました。


 行政法は、


 起きてしまったことを争う法律だとばかり思っていました。


 でも本当は。


 起きる前に止めなければ、


 救えないものもある。


 そのための道が、


 未来では一本増える。


 差止めの訴え。


 昭和六十三年には、


 まだ条文の中に居場所がない制度。


 けれど。


 居場所がない時代にも、


 困っている人はちゃんといる。


 だから昔の実務家は、


 狭い制度の隙間で、


 記録を拾い、


 事実を揃え、


 処分の前提を崩し、


 それでも駄目なら弁護士へ繋ぐ。


 制度が冷たいなら。


 その冷たさに耐えられるだけの事実を、


 一つずつ積む。


 たぶん。


 そうやって次の時代の法律は、


 必要になっていったのだと思います。


 事務所へ戻ると。


 私は古賀さんにもらった紙袋を机に置きました。


「所長」


「何だ」


「釘もらいました」


「いらん」


「即答」


「壁に穴を開けるな」


「まだ何も言ってません」


「お前の顔を見れば分かる」


 相馬先輩が自分の机を庇いました。


「俺の机にも打つなよ」


「どうしましょう」


「持って帰れ」


「せっかくなので使いたいです」


 私は事務所を見回しました。


 壁。


 棚。


 窓。


 そして。


 古い木製の掲示板。


「あ」


「何だ」


「これなら穴、増えても平気ですよね」


 私は紙を一枚取りました。


 大きく書きます。


 ――処分前だからこそ、止められる間違いがある。


「お前、それ貼るのか」


「今日の教訓です」


「誰が読む」


「未来の私」


「意味分からん」


 私は釘を当てました。


 金づちを探します。


「先輩、金づちあります?」


「金物屋からもらってこいよ」


「釘だけでした」


「中途半端だな」


 そのとき。


 片桐所長が机の引き出しから、


 小さな金づちを出しました。


「あるんですか!」


「昔からある」


「さすが行政書士事務所」


「行政書士関係ねえだろ」


 私は一発。


 軽く叩きます。


 コン。


 釘が掲示板に入る。


 もう一発。


 コン。


 紙を掛ける。


「できました」


「曲がってるぞ」


 相馬先輩が言いました。


「味です」


「直せ」


「行政には裁量があります」


「逸脱してる」


「そんなに?」


 片桐所長が一度見ました。


「濫用だな」


「所長まで!?」


 私は渋々、釘を打ち直しました。


 どうやら。


 差止めの訴えが法定されていない昭和六十三年でも。


 私の雑な仕事に対する差止めだけは、


 片桐行政書士事務所で、


 十分すぎるほど機能しているようでした。

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