[行政調査]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ法律用語が似合います。
電話が減る。
来客が途切れる。
西日が書棚の背表紙を赤く染める。
そして私の机には、喫茶ミモザの大橋澄江さんからもらったサンドイッチの包み紙と、白紙のノート。
「……食べたあとに勉強すると、眠くなるんですよね」
「食わなくても眠いだろ」
相馬先輩が即答しました。
「行政法に対して失礼です」
「さっきまで強制調査と間接強制調査の違いで固まってた奴が言うな」
「それは行政法側にも責任があります」
「ない」
奥で新聞を読んでいた片桐所長が言いました。
「ないんですか」
「ない」
二対一。
行政法廷なら不利です。
私は諦めてノートを開きました。
一番上には、昨日書いた言葉があります。
――行政調査。
その下。
――「調査できる」と「拒否できない」は同じか?
昨日、喫茶ミモザに来た市水道課の森田さんは言いました。
『調査ですから拒否できませんよ』
でも実際に確認してみると、市の職員が力ずくで物置の鍵を開けることができるわけではありませんでした。
必要な配管箇所を説明し、澄江さんの協力を得て確認する。
結果として調査はできた。
けれど、それは、
役所が「調査」と言った瞬間、住民が無条件で従わなければならない。
という話ではありませんでした。
私はノートに書きます。
行政調査。
行政機関が、行政目的を達成するために必要な情報を収集する活動。
「まずそこからか」
相馬先輩が私の肩越しにノートを覗きました。
「基本大事です」
「で?」
「行政調査って、行政手続法に規定されてるんでしたっけ」
「お前それ聞くのか」
「確認です」
所長が新聞をたたみました。
「行政手続法には、行政調査についての一般的な規定は置かれていない」
私は大きく丸をつけました。
「ここ試験で大事ですよね」
「ああ」
行政手続法。
申請に対する処分。
不利益処分。
行政指導。
届出。
そういう行政手続のルールを定めています。
けれど、
行政調査について全部をまとめて定めた一般規定があるわけではない。
だから調査については、
それぞれの個別法。
判例。
調査の性質。
そういうものを見ながら考える必要があります。
「つまり」
私は言いました。
「行政調査って、ひとまとめに『こういう手続です』って処理できないんですね」
「そういうことだ」
所長が頷きます。
「だから昨日みたいに、調査という言葉だけで強制力を判断するな」
なるほど。
私は昨日の森田さんを思い出しました。
彼は嘘をついていたわけではありません。
水道法上、給水装置を検査する規定がある。
だから、
調査権限はある。
そこまでは正しい。
でも、
調査権限がある。
イコール、
住民の拒否を物理的に排除できる。
ではない。
「所長」
「何だ」
「行政調査って、大きく三つに分けるんですよね」
「言ってみろ」
口頭試問が始まりました。
昭和の事務所、予告なし小テストが多い。
「強制調査」
「うん」
「間接強制調査」
「うん」
「任意調査」
「違いは」
「そこからですね」
相馬先輩が笑いました。
「おい」
私はノートに三本線を引きました。
まず。
強制調査。
相手が拒否しても、行政機関が物理的な実力を使って調査を実施するもの。
「たとえば?」
「差押えとか、捜索とか」
「そうだ」
物を押さえる。
場所を捜索する。
本人が、
嫌です。
と言っても、それで終わらない。
行政側が物理的に実施する。
これは強い。
ものすごく強い。
「だから?」
所長が聞きます。
「法律の根拠が必要」
「それだけか」
え。
所長の目が怖い。
私は少し考えます。
「物理的な強制を伴うなら、令状主義も問題になります」
「そうだ」
私はその横に書きました。
強制調査。
実力による強制を伴う。
法律上の根拠が必要。
原則として、裁判官の令状が問題となる。
「昨日の喫茶ミモザで言えば」
私は続けました。
「森田さんが、澄江さんが嫌がっているのに物置の鍵を壊して入るとか、身体を押しのけて中を見るとか」
「それをするなら、単なる立入権限とは別に、相当強い根拠が要る」
相馬先輩が言いました。
「そういうことですね」
だから昨日、私たちは聞いた。
――拒否されたら、実力で入れるんですか。
それは嫌味ではなく、
調査の種類を見分ける質問だったのです。
「教材で出てくる典型は」
私はノートをめくりました。
「旧国税犯則取締法の臨検、捜索、差押えですね」
「裁判官の許可を得て行うものだな」
所長が言います。
国税犯則事件。
つまり、税に関する犯則事件について、臨検や捜索、差押えをする。
こうした物理的に強い調査は、
ただ役所が必要だと思ったから、
では足りない。
法律上の根拠に加えて、裁判官による令状という司法的チェックが入る。
「強制調査は分かりやすいですね」
私は言いました。
「分かりやすい?」
「嫌だと言っても強制される」
「乱暴な覚え方だな」
「試験では乱暴なくらいがちょうどいいときもあります」
「で、次」
相馬先輩がノートを指で叩きます。
「間接強制」
来た。
一番名前が分かりにくいやつ。
「物理的な実力行使はしない」
「うん」
「でも、拒否したら罰則がある」
「そうだ」
私は書きます。
間接強制調査。
行政機関がその場で腕をつかんだり、鍵を壊したりすることはない。
しかし、
質問への回答。
帳簿の提示。
検査への協力。
そうした義務に違反すると、刑罰などの制裁がある。
「要するに」
私はペンを止めました。
「身体は押されないけど、法律に背中を押される」
相馬先輩が笑いました。
「珍しく分かりやすいな」
「珍しくって何ですか」
でも、本当にそうです。
その場で物理的に強制されるわけではない。
けれど拒めば処罰される可能性がある。
だったら、
「嫌なら断ればいいですよ」
では済まない。
「典型は税務調査ですね」
「ああ」
国税通則法上の質問検査権。
税務職員が、
質問する。
帳簿書類その他の物件を検査する。
提示や提出を求める。
そして一定の場合、その検査を拒んだり妨げたりすれば罰則がある。
「だから」
私は言いました。
「税務調査で『令状がないから全部断れます』っていうのは危ない」
「そのとおりだ」
所長が頷きました。
「物理的強制がないから任意、とは限らない」
ここ。
かなり大事です。
私は太く線を引きました。
実力行使がない。
イコール、
完全な任意ではない。
拒否に罰則が付くなら、
法的にはかなり強い調査です。
「じゃあ任意調査」
相馬先輩が言いました。
「はい」
任意調査。
相手方の協力に基づいて行う調査。
強制力はない。
原則として拒否できる。
「法律の根拠は?」
「強制力を伴わない任意の調査であれば、一般に必ずしも法律上の特別な根拠を必要としない」
「言い方慎重だな」
「今日の私は慎重です」
「昨日痛い目見たからな」
「見てません」
でも行政法は、
「絶対」
と言った瞬間に罠が開く科目です。
私は続けます。
「昨日の給水装置の検査は、少なくとも現場で物理的強制を伴うものではありませんでした」
「そうだな」
「だから、森田さんが『拒否できません』と断言したのがまずかった」
「正確には」
所長が言いました。
「調査権限そのものがないわけではない。そこを混同するな」
はい。
ここも重要です。
私は書き直しました。
法律に立入検査の権限が定められている場合がある。
しかし、
その規定があることと、
拒否を実力で排除できることは別。
「昨日はそこを分けたんですよね」
「ああ」
給水装置を調べる必要がある。
だから水道担当職員には一定の調査権限がある。
でも。
澄江さんが物置を開けるのを渋った。
そのとき、
鍵を壊していい。
押し入っていい。
とはならない。
必要性を説明する。
範囲を限定する。
協力を求める。
そうして実際、
澄江さんは自分で箱を動かし、
必要な配管部分だけを見せました。
「つまり」
私は言いました。
「行政調査を見るときは、まず三段階で考えるといいんですね」
「言ってみろ」
「一つ。調査権限の根拠があるか」
「うん」
「二つ。その調査はどこまでできるのか」
「うん」
「三つ。拒否したらどうなるのか」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はちょっと嬉しくなりました。
昨日は現場で感覚的に聞いた質問が、
今日は試験の整理になっています。
行政法、そういうところだけは気持ちいい。
「じゃあ令状の話」
相馬先輩が言いました。
「急に重いところ来ますね」
「避けるな」
「はい」
私は新しい見出しを書きます。
――行政調査と令状主義。
憲法三十五条。
住居、書類、所持品について、侵入、捜索、押収を受けない権利。
令状による保障。
「刑事事件ならイメージしやすいんです」
私は言いました。
「警察が勝手に家を捜索できない、とか」
「行政調査では?」
「そこがややこしい」
代表的なのが、
川崎民商事件。
最高裁昭和四十七年十一月二十二日判決。
税務調査の質問検査について、
あらかじめ裁判官の令状を必要としないからといって、
直ちに憲法三十五条の趣旨に反するわけではない。
そう判断されています。
「え」
相馬先輩がわざとらしく驚きます。
「令状いらないのか」
「全部の行政調査に令状がいるわけじゃないんです」
「じゃあ令状主義は無関係か」
「それも違う」
やめてください。
こういう引っかけ問題を口で出すの。
「川崎民商事件では」
私は整理しました。
「税務上の質問検査は、刑事責任追及のための捜査そのものではない。しかも、直接強制ではなく、拒否などに罰則を置く方式だった」
「うん」
「だから、令状なしで行われる制度だから直ちに憲法違反とはならない」
「ただし?」
所長が聞きました。
「行政調査なら何をしてもいいわけじゃない」
「そこだ」
そう。
令状が不要。
イコール、
無制限。
ではありません。
調査の必要性。
態様。
相手方の権利利益。
そういったものとのバランスが問題になる。
私は昨日の澄江さんを思い出しました。
物置全部を見たい。
帳簿もある。
亡くなった夫の私物もある。
でも実際に必要だったのは、壁際の古い配管だけ。
必要な範囲が狭いなら、
調査もそこへ絞ればいい。
「これ、判例の考え方にも通じますよね」
「荒川民商事件だな」
所長が言いました。
最高裁昭和四十八年七月十日。
税務調査における質問検査について、
法律に細かく定められていない部分、
たとえば、
範囲。
程度。
時期。
場所。
そうした実施の細目は、
調査の必要性があり、
相手方の私的利益との衡量で社会通念上相当な限度にとどまる限り、
権限ある税務職員の合理的な選択に委ねられる。
「合理的な選択」
私は呟きました。
「行政側にある程度の裁量は認める。でも何でもありじゃない」
「そういうことだ」
「さらにこの判例」
私はノートを見ました。
「事前通知も、一律に絶対必要ではない」
「うん」
「調査理由や必要性の個別具体的な告知も、法律上一律の要件ではない」
「そうだ」
「ここ、引っかけられそうですね」
かなり。
税務調査をするときは、
必ず前日までに通知しなければならない。
必ず理由を細かく告げなければならない。
そういう一律のルールではない。
もちろん現行制度や個別の手続上、通知に関する規定が置かれる場面はあります。
でも判例上、
質問検査の適法性を判断するうえで、
事前通知や理由告知が常に絶対条件というわけではない。
「昨日の喫茶ミモザでは説明を求めたのに?」
相馬先輩が聞きました。
「そこなんですよ」
私は少し考えました。
「昨日は『法律上必ず詳細説明しないと調査が無効』って言ったわけじゃない」
「うん」
「必要な協力を得るために、どこを見るのかを明らかにしないと、住民側は過剰に権限を受け取ってしまう。だから実務として説明を求めた」
「その区別は大事だ」
所長が言いました。
法律上一律に義務づけられていること。
適法に調査を進めるうえで必要になる配慮。
実務上望ましい説明。
全部、同じではない。
ここを混ぜると、
「説明が足りなかったから即違法」
みたいな乱暴な話になる。
逆に、
「法律に説明義務が明記されてないから何も説明しなくていい」
も乱暴です。
行政法、
毎回中間地点に立たされます。
「次」
相馬先輩が言いました。
「所持品検査」
「税務から急に警察へ行きますね」
「行政調査だろ」
「はいはい」
私は次の判例を書きます。
最高裁昭和五十三年九月七日。
職務質問に付随する所持品検査。
「原則は?」
「任意」
「つまり?」
「所持人の承諾を得て、その範囲で行うのが原則」
「じゃあ承諾がなければ絶対駄目?」
「そこが罠」
私はペンを指で回しました。
判例は、
承諾がない限り一切許されない、
とはしていません。
ただし、
捜索に至らない程度。
強制にわたらない。
必要性。
緊急性。
侵害される個人の利益。
守ろうとする公共の利益。
そうした事情を考えて、
具体的状況のもとで相当と認められる限度なら、
承諾がなくても許される場合がある。
「嫌だって言ってるのに、何でできるんです?」
相馬先輩が言います。
「そこを一言で処理しないのが判例なんですよ」
「面倒だな」
「行政法ですから」
任意手段。
だから原則承諾。
でも、
承諾がない。
即違法。
でもない。
強制に至らない範囲で、
具体的状況を踏まえて相当性を判断する。
「昨日の給水調査と少し似てますね」
私は言いました。
「全部見る、全部見せない、の二択じゃない」
「そうだな」
「目的に必要な範囲まで絞る」
物置全部。
ではなく、
配管の通っている壁際だけ。
箱の中。
ではなく、
箱を本人に少し動かしてもらう。
帳簿。
ではなく、
水道管だけ。
こうして見ると、
行政調査では、
何ができるかだけじゃない。
どこまでやるのが相当か。
そこがものすごく大事です。
「自動車検問も出るぞ」
相馬先輩が言いました。
「先輩、今日だけ妙に詳しくないですか」
「お前のノートに書いてある」
「カンニング!」
私はノートを取り返しました。
最高裁昭和五十五年九月二十二日。
自動車の一斉検問。
交通違反が多い地域などで、
通過する自動車を、
外観上特に不審な点がなくても短時間停止させ、
必要な質問をする。
「怪しくない人まで止めていいんですか」
「判例は一定条件で認めている」
所長が言いました。
ポイントは、
相手方の任意の協力を求める形で行われること。
自動車利用者の自由を不当に制約しない方法、態様であること。
「また出た」
「何が」
「任意」
でも、
道路で警察官に止められて、
「ちょっといいですか」
と言われたら。
心理的にはかなり止まります。
任意って、現実ではものすごく灰色です。
「だから任意調査って」
私は言いました。
「ただ『拒めます』だけ覚えると危ない気がします」
「どういう意味だ」
「法的には強制じゃなくても、行政機関から協力を求められると現実には圧がある」
「うん」
「だからこそ、強制にわたっていないか。自由を不当に制約してないか。やり方が相当かを見る」
「その理解でいい」
任意だから自由。
ではありません。
行政側が、
任意ですよ。
と言いさえすれば何をしてもいいわけではない。
形式ではなく、実質を見る。
行政法って、意外と人間の圧に敏感なのかもしれません。
「最後」
所長が言いました。
「税務調査と犯罪捜査」
「来ましたね」
最高裁平成十六年一月二十日判決。
法人税法上の質問検査権。
「これは目的の問題ですね」
「ああ」
税務上の質問検査権は、
本来、
適正な課税など税務行政のための調査権限。
それを、
犯罪の証拠を集めるため。
犯則事件の捜査のため。
その手段として使うことは許されない。
「目的外使用みたいな感じですね」
「そう考えれば分かりやすい」
「でも」
私は判例を見ます。
「調査で集めた資料が、あとで犯則事件の証拠に使われる可能性があると分かっていただけで、直ちに違法になるわけでもない」
「そこだ」
所長が頷きます。
税務調査中、
この資料、あとで刑事事件になるかもしれない。
そう予想できた。
それだけで、
税務調査が全部違法になるわけではない。
問題は、
その質問検査権が、
実質的に最初から犯則事件の証拠収集手段として使われたか。
「権限は、目的まで見る」
私は言いました。
「そうだ」
昨日の喫茶ミモザなら。
水道管を調べるために立ち入る。
それなのに、
ついでだから店の売上帳簿も見せてください。
営業許可の違反がないか調べます。
なんて始めたら。
「嫌ですよね」
「嫌かどうかじゃない」
相馬先輩が言います。
「権限の目的が違う」
「そうでした」
感情ではなく論点。
水道の調査権限なら、
水道の調査をする。
それを別目的の調査に流用できるかは別問題。
「行政法って」
私は言いました。
「権限を持ってるかだけじゃ足りないんですね」
「何度目だ、それ」
「今日はそこがテーマなんです」
誰が。
何の根拠で。
何のために。
どこまで。
どんな方法で。
調べるのか。
全部分ける。
そのどれかが雑になると、
「行政調査だから」
という言葉が、
必要以上に大きくなる。
私はここで、ノートを一度整理しました。
行政調査は、
行政機関が行政目的のために情報を収集する活動。
行政手続法には、行政調査全般を定める一般規定はない。
そして調査には、
強制調査。
間接強制調査。
任意調査。
がある。
「試験なら、どう聞いてくると思います?」
私は相馬先輩に聞きました。
「俺に振るな」
「さっきから口頭試問してたくせに」
「じゃあ」
相馬先輩が腕を組みました。
「行政調査には必ず裁判官の令状が必要である」
「誤り」
「理由」
「行政調査のすべてに令状が必要なわけではない。川崎民商事件でも、税務上の質問検査について、令状を一般的要件としていないから直ちに憲法三十五条違反とはされていない」
「うん」
「次」
「任意調査は法律の根拠がないから違法である」
「誤り」
「理由」
「強制力を伴わず、相手方の協力に基づく調査であれば、必ずしも個別の法律上の強制根拠を必要としない」
「次」
「間接強制調査は相手の身体を直接拘束する」
「誤り。拒否した場合に罰則などを課すことで、間接的に調査の実効性を確保する」
「次」
「質問検査権による税務調査は、必ず事前通知しなければ違法である」
「誤り。荒川民商事件では、事前通知が法律上一律の要件とはされていない」
「次」
「所持品検査は、本人の承諾がなければ絶対に許されない」
「これも誤り。原則は承諾を得て行う任意手段だけど、捜索に至らず、強制にわたらない範囲で、必要性や緊急性、法益の衡量などから相当と認められる場合には、承諾なしでも許されることがある」
「次」
「税務調査で得られた資料が後に犯罪捜査で使われたら、その税務調査は当然に違法になる」
「誤り。後に証拠利用されることが想定できただけでは直ちに違法にならない。ただし質問検査権を最初から犯則事件の証拠収集手段として使うことは許されない」
相馬先輩が黙りました。
「どうです」
「腹立つな」
「なぜ」
「ちゃんと答えた」
「褒めてくださいよ」
「明日忘れてなければな」
受験生に厳しい。
「でも」
私は昨日のことを思い返しました。
澄江さんは、
『役所の人が調査ですって言うと、それだけで従わなきゃいけない気がする』
と言っていました。
あれが、たぶん行政調査の一番怖いところです。
法律上、
強制できるか。
罰則があるか。
任意か。
そういう線引きがある。
でも住民から見れば、
役所の職員が二人で来る。
身分証を出す。
「調査です」
と言う。
それだけで、
もうかなり強い。
「所長」
「何だ」
「任意調査なら、相手は拒否できる」
「ああ」
「でも役所は、任意であることを必ず説明しなきゃいけないんですか?」
所長は少し考えました。
「個別法や場面による」
「ですよね」
「ただし」
所長は言いました。
「強制権限がないのに、あるように見せるな」
短い。
でも、昨日の全部です。
任意調査の相手に、
拒否できません。
と言う。
それは、
実際には持っていない強制力を、言葉で作ってしまう。
「制度の強さを盛るな、ってことですね」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
行政調査で見るべきなのは、
名称ではなく、実際の強制力。
この一行、
かなり使えそうです。
ここで相馬先輩が、机の引き出しから飴を一つ出しました。
「食うか」
「ください」
「質問に答えたらな」
「またですか」
「強制調査と間接強制調査の違い」
「物理的実力を使って拒否を排除するのが強制調査。物理的には強制しないけど、拒否に罰則などを付けるのが間接強制調査」
「任意調査」
「相手方の協力に基づく。強制力はない」
「行政手続法」
「行政調査について一般規定はない」
「令状」
「すべての行政調査に必須ではない。ただし物理的強制を伴うような強い調査では令状主義が重要になる」
「税務調査の事前通知」
「常に一律の法律上の要件ではない」
「所持品検査」
「任意が原則。でも承諾がない場合も、強制に至らず、具体的状況で必要性・緊急性・法益衡量から相当な範囲なら許されることがある」
「よし」
飴が飛んできました。
私は受け取ります。
「何味です?」
「ハッカ」
「いらない」
「返せ」
「受け取った以上、行政財産です」
「民法からやり直せ」
所長がぼそっと言いました。
「二人とも仕事しろ」
はい。
私は最後に、昨日の喫茶ミモザの件を一行ずつ当てはめてみました。
市水道課には、給水装置を調べるための法的な調査権限がある。
でも、
その権限があるからといって、
拒否した住民を物理的に排除して物置へ入れるわけではない。
今回、
罰則を背景にした調査だという説明もなかった。
現場で必要だったのは、
何のために。
どの場所を。
どの範囲で。
確認したいのかを整理すること。
そうすると、
「物置全部を見せろ」
だった話が、
「壁際の配管だけ確認したい」
に変わった。
澄江さんも、
それなら、
と協力できた。
「昨日の件」
私は言いました。
「結局、一番大きかったのは権限を削ったことじゃないんですね」
「どういう意味だ」
相馬先輩が聞きます。
「もともと役所には調査権限があった」
「うん」
「でも、その権限を正確な大きさに戻した」
相馬先輩が少し笑いました。
「なるほど」
「役所側は、必要以上に大きく見せてた。澄江さん側は、それをもっと大きく受け取ってた」
「だから測り直した」
所長が言いました。
「はい」
行政調査は、
強いか弱いか。
ではなく、
どこまで強いか。
そこを見る。
少しだけ、昨日より分かった気がします。
私はノートの最後に、
一行の覚え書き、
を書きました。
――「調査です」と言われたら、まず「拒否したら何が起きますか」を見る。
相馬先輩が横から読みます。
「昨日とほぼ同じじゃないか」
「昨日は感覚でした。今日は法律です」
「便利な言い訳だな」
「じゃあもう一行」
私はその下に書きました。
――調査権限があることと、強制できることは別。
所長がそれを見ました。
「それでいい」
私は少し考えて、さらに小さく書き足します。
――そして、強制できる場合でも、目的・必要性・方法・限度を見る。
今度は相馬先輩も何も言いませんでした。
窓の外は、もう暗くなっていました。
昭和六十三年の町に、商店街の灯りが一つずつ点いていきます。
喫茶ミモザでは、たぶん今ごろ澄江さんがコーヒーを淹れています。
水道課の森田さんも、
明日からまた別の家へ調査に行くのでしょう。
次はたぶん、
「拒否できません」
とは言わない。
何を見るのか。
なぜ必要なのか。
どこまでなのか。
少なくとも、昨日よりは説明する。
それだけで、
行政調査は少しだけ違うものになります。
行政には情報が必要です。
調べなければ、
正しい行政判断はできない。
税金も。
水道も。
交通安全も。
違反の確認も。
何も始まりません。
だから行政には調べる権限が与えられる。
でも、
調べる必要があるからといって、
人の家も、
物も、
書類も、
生活も、
際限なく覗いていいわけではない。
強制調査。
間接強制調査。
任意調査。
令状。
必要性。
相当性。
法益の衡量。
昨日までなら、
見ただけで眠くなった言葉です。
でも今日は違う。
全部、
澄江さんの物置の前に立っています。
鍵を開けるのか。
開けなくてもいいのか。
役所はどこまで入れるのか。
その答えを決めるための言葉です。
法律用語は冷たい。
けれど、
その冷たい区別があるから、
「役所だから全部見せてください」
という雑な圧に、
ここまでです、
と線を引ける。
同時に、
「嫌だから何も見せません」
という側にも、
そこは必要な調査です、
と線を引ける。
制度の冷たさは、
誰か一人の気分ではなく、
双方に同じ物差しを置くためにあるのかもしれません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「机の引き出し」
「嫌です」
「調査する」
「何の?」
「俺のホチキスが消えた」
「知りませんよ」
「開けろ」
「拒否します」
「拒否したら?」
「先輩が困ります」
「間接強制にならんな」
「当たり前です」
片桐所長が新聞から顔を上げました。
「相馬」
「はい」
「ホチキスならお前の胸ポケットだ」
相馬先輩が止まりました。
胸ポケットから、
ホチキスが出てきました。
「……」
「……」
私はゆっくりノートを開きます。
「今日の追加教訓、書いていいですか」
「やめろ」
「調査の前に、自分を調べる」
「やめろ」
「必要性なし」
「うるさい」
所長が新聞を戻しました。
「調査終了」
こうして片桐行政書士事務所の行政調査は、
令状も罰則もなく、
十分ほどで終了しました。
もっとも。
相馬先輩の信用だけは、
少し差し押さえられた気がします。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




