[行政調査]現場編 「調査なんだから見せてもらいます」の罠。協力を求める調査と、拒否できない調査を混ぜる役所
「ちょっと確認するだけです」は、ときどき、ぜんぜん“ちょっと”ではありません。
家の中を見せてください。
帳簿を出してください。
物置を開けてください。
質問に答えてください。
役所の人が身分証を見せながらそう言うと、それだけでこちらは、
――拒んだらまずいのでは。
という気持ちになります。
でも。
「調べたい」と、
「調べる権限がある」と、
「拒めない」は、
同じ言葉ではありません。
その違いを、私はその日、古い喫茶店の水道管から教わることになりました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所の午前九時十五分。
私は机の上で、昨夜まとめた行政法のノートと戦っていました。
行政調査。
行政機関が、行政目的を実現するために必要な情報を集める活動。
うん。
そこまでは分かります。
問題はその次です。
強制調査。
間接強制調査。
任意調査。
名前からして、朝に読むものではありません。
特に「間接強制」という言葉。
何でしょう。
直接殴らないけれど後ろから圧をかけてくる感じがします。
「朝から難しい顔して何読んでんだ」
相馬先輩が、湯気の立つ茶を机に置きました。
「行政調査です」
「暇だな」
「受験生に向かって勉強を暇扱いしないでください」
「仕事中だ」
「もっと駄目です」
相馬先輩は私のノートを覗き込みました。
「強制、間接強制、任意?」
「はい」
「覚えりゃいいだろ」
「その覚え方で受かるなら世の受験生は苦労しません」
「強い、ちょっと強い、弱い」
「行政法を腕相撲みたいに分類しないでください」
奥の机で書類を読んでいた片桐所長が、こちらを見もしないまま言いました。
「相手が拒めるかを見ろ」
私はペンを止めました。
「拒めるか?」
「それと、拒んだ後に何が起きるかだ」
それだけ言って、所長はまた書類へ視線を戻します。
短い。
いつも短い。
でも、こういう人は試験問題を作ったら相当嫌なタイプだと思います。
私はノートに、
――拒めるか。拒んだらどうなるか。
と書いた、そのときでした。
事務所の引き戸が、ものすごい勢いで開きました。
「先生!」
入ってきたのは、五十代くらいの女性でした。
髪を後ろでまとめ、白い割烹着の上に薄いカーディガンを羽織っています。
顔色が悪い。
怒っているというより、混乱している顔でした。
「どうされました」
片桐所長が立ち上がります。
「市の人が、店の奥まで見せろって」
「店?」
「喫茶ミモザです。駅裏の」
あ。
知っています。
赤いテント看板に、クリームソーダの写真が貼ってある昔ながらの喫茶店。
事務所から歩いて七、八分。
私は一度だけ、相馬先輩に連れられて昼を食べに行ったことがあります。
ナポリタンの量が、明らかに「軽食」ではありませんでした。
「お名前を」
「大橋澄江です」
「市の何課ですか」
「水道課です。水が濁ったって近所から苦情があったとかで、給水管を調べたいって」
そこまでは、まあ分かります。
水道事業者が給水装置を確認したい。
ありそうな話です。
「それで?」
相馬先輩が聞きます。
「表の蛇口は見てもらいました。メーターも。でも、今度は店の裏にある物置を開けてくれって」
「給水管が通ってる?」
「昔の配管があるかもしれないって。でも、物置には亡くなった主人の荷物もあるし、帳簿も置いてあるんです。それで、今日は勘弁してくださいって言ったら……」
澄江さんは唇を噛みました。
「『調査ですから拒否できませんよ』って」
私は顔を上げました。
来た。
行政法で最も警戒したくなる言葉の一つ。
――拒否できません。
「それ、誰が言ったんです?」
「若い職員さんです。二人来てて、一人は名刺をくれました」
澄江さんが鞄から名刺を出します。
市水道課、施設係。
「何か書面は?」
「ありません」
「立入検査します、とか」
「口頭だけです」
「罰金とか、処罰されるとか言われました?」
「そこまでは。でも、『協力してもらえないと困ります』って。明日の朝、また来るそうです」
私は妙な感覚になりました。
昨夜までテキストでは、
行政調査。
情報収集活動。
はいはい、地味な章ですね。
くらいだったんです。
でも、実際に、
明日、家の物置を開けろと言われている人。
そこに立っているのは、言葉ではありません。
境界線です。
どこまで入っていいのか。
断っていいのか。
断ったらどうなるのか。
役所は、どこまでできるのか。
行政調査って、こんなに距離感の話だったんだ。
「こはる」
所長が言いました。
「何を見る」
来ました。
突然の実地試験。
「まず……その調査が何に基づいているか」
「うん」
「次に、どこまでできる調査なのか」
「続けろ」
「拒否した場合に、罰則があるのか。それとも、本当に物理的に入れるのか。あるいは、協力を求めているだけなのか」
相馬先輩が腕を組みました。
「要するに?」
私は澄江さんを見ました。
「“調査”って名前だけじゃ、拒否できないかどうかは分かりません」
澄江さんが目を瞬きます。
「そうなんですか?」
「はい。ただし、今の段階で『絶対断って大丈夫です』とも言えません」
ここ大事。
試験勉強で一番危ないのは、分かった単語で現実を殴ることです。
行政調査には種類がある。
強制できるものもある。
拒否すれば不利益や罰則につながるものもある。
任意のものもある。
つまり、
「調査だから拒めない」
も雑なら、
「令状がないから全部断れる」
も雑です。
「その若い職員が使っている権限を確認しましょう」
私は言いました。
「何法の何条なのか。何を検査できるのか。拒んだらどうなるのか」
相馬先輩が私を見ます。
「珍しく慎重だな」
「いつも慎重です」
「先週、資料見ずに条例番号言って外しただろ」
「あれは昭和六十三年に身体がまだ慣れてないだけです」
「便利だな、転生」
「そこ突っ込まないでください」
澄江さんが、ぽかんと私たちを見ています。
しまった。
相談者の前です。
私は咳払いしました。
「とにかく、明日の前に確認しましょう」
片桐所長が名刺を手に取りました。
「相馬。市役所」
「はいよ」
「こはるも」
「ですよね」
言い出しっぺ制度、今日も健在です。
市役所の水道課は、庁舎の別館にありました。
事務所から来た旨を伝えると、若い職員がすぐに出てきます。
「あ、大橋さんの件ですか」
名刺にあった職員。
名前は森田さん。
二十代半ばくらいでしょうか。
真面目そうな人です。
そして真面目そうな人ほど、
「役所のやることは当然できる」
と思い込んでいるときがあります。
悪意ではないぶん、ちょっと厄介です。
「明日、再度立ち入る予定と聞きました」
片桐所長が言います。
「はい。給水装置の確認です」
「根拠は」
「水道法です」
森田さんは即答しました。
おお。
今回はちゃんと法律が出てきた。
内心で少し姿勢を正します。
「条文は?」
「給水装置の検査規定です。必要がある場合、職員が土地や建物に立ち入って検査できます」
なるほど。
ここだけ聞くと強い。
役所の職員が立ち入れる。
法律にも書いてある。
澄江さんが不安になるのも分かります。
でも。
私は、その先が気になりました。
「それって」
口を挟みます。
「鍵の掛かった物置を、本人が拒否しても開けられるんですか?」
森田さんが一瞬止まりました。
「え?」
「立ち入りできることと、拒否されたら実力で開けられることは、同じですか?」
空気が変わりました。
相馬先輩が私の横で、ほんの少し口角を上げます。
たぶん、
そこだ。
という顔です。
「いや、実力でというか……」
森田さんが言葉を探します。
「でも法律上、検査できることになっていますので」
「分かります」
私は言いました。
「だから検査したい、までは分かります。でも、相手が『今日は開けません』と言ったら、その場で鍵を壊したり、身体を押しのけて入ったりできる権限まであるんですか?」
「それは……」
奥の机から誰かが顔を上げました。
「どうしました」
出てきたのは倉田係長でした。
商工観光課で会った倉田さん――ではありません。
同じ市役所には、似た肩書きがいっぱいあります。
こちらは水道課の係長。
三浦係長。
役所、係長多すぎ問題です。
事情を聞くと、三浦係長は森田さんを見ました。
「君、“拒否できない”と言ったのか」
「いえ、まあ……調査ですので」
「言ったんだな」
森田さんが黙ります。
ああ。
この沈黙、行政実務でよく見るやつです。
「確認したいんですが」
相馬先輩が前に出ました。
「この立入検査、拒否された場合に、職員が物理的に排除して入れるんですか」
三浦係長は首を振りました。
「そこまではできません」
やっぱり。
「では、拒否したら直ちに罰則がある?」
「給水装置の検査については……少なくとも今回、そういう説明をする予定ではありませんでした」
相馬先輩の目が細くなりました。
「じゃあ何で“拒否できない”になった」
森田さんが困った顔をします。
「法に“立ち入らせることができる”とあるので」
その瞬間。
昨夜のテキストが、急に立体になりました。
行政調査。
役所が調査できる。
でも、
調査できることと、
相手を実力で従わせられることは別。
まさにそこです。
「森田さん」
私は言いました。
「“できる”の主語、役所側ですよね」
「え?」
「役所が一定の場合に調査できる、ということと、相手が拒否した場合に強制的に従わせられる、ということは別の問題です」
三浦係長が私を見ました。
「君、片桐さんのところの?」
「見習いです」
「この前、商工観光課でも何かあった子だろ」
噂回ってる。
昭和の市役所、庁内ネットワークが速い。
電子メールないのに。
「有名になってるぞ」
「不本意です」
「大体こういう有名さは不本意なんだ」
相馬先輩が言いました。
「先輩まで何ですか」
片桐所長が低い声で言いました。
「大橋さんは調査自体を拒んでいるわけではありません」
三浦係長が頷きます。
「はい」
「表の蛇口とメーターの確認には応じた。物置については私物と帳簿があり、いきなり全面的に開けることに抵抗がある」
「そう聞いています」
「なら、必要な範囲を説明すべきです」
所長は一拍置きます。
「何を確認したいのか。どこまで見たいのか。なぜその物置が必要なのか」
三浦係長が森田さんを見ました。
「説明したか」
「古い配管がある可能性があるとは……」
「可能性だけ?」
「図面上、建物裏側へ分岐した跡がありまして」
「その説明、大橋さんは聞いてません」
私は言いました。
澄江さんは、
近所から濁り水の苦情があった。
裏を見せろ。
調査だから拒否できない。
そこまでしか聞いていない。
なぜ自分の物置なのか。
何を見るのか。
どこまで見るのか。
その説明が抜けていた。
三浦係長が額を押さえます。
「森田」
「はい」
「調査の権限を言う前に、調査の目的を言え」
「……はい」
「相手に協力を求めるなら、なおさらだ」
私はその言葉に少し驚きました。
役所の係長から、
協力を求めるなら、
という言葉が出たからです。
たぶん、三浦係長は最初から、
職員が力ずくで物置を開けられる、
なんて思ってはいなかった。
でも現場では、
法律に立入検査の規定がある。
だから調査に応じてもらえる。
だから「拒否できません」。
そういうふうに言葉が少しずつ省略され、
最後には、
任意で協力を求める部分まで、
まるで絶対的な強制権限のように聞こえてしまった。
悪人はいません。
でも、雑です。
そして行政法では、雑な一言が強い。
「じゃあ」
相馬先輩が言います。
「明日はどうする」
三浦係長は少し考えました。
「物置全部を見せてもらう必要はないでしょう。図面を確認して、配管が通っていると思われる壁際だけ見せてもらう。必要なら、大橋さんに荷物を動かしてもらう」
「職員が勝手に箱を開ける?」
「しません」
「帳簿を見る?」
「水道管の調査なので必要ありません」
「拒否されたら?」
三浦係長はそこで一度、言葉を選びました。
「その場で実力行使することはありません。改めて必要性を説明し、協力を求めます」
うん。
ずいぶん違う。
昨日の、
「拒否できません」
とは、まるで違います。
「その説明を明日、大橋さん本人にもしてください」
片桐所長が言いました。
「そうします」
そこで終わるかと思ったのですが。
森田さんが、まだ納得しきれていない顔をしています。
「でも……」
彼は言いました。
「じゃあ、法律に立入検査の規定がある意味って何なんですか」
おお。
良い質問です。
私も聞きたい。
むしろ今、私の頭の中で受験生が全員立ち上がりました。
片桐所長は森田さんを見ました。
「権限があることと、強制の方法があることを分けろ」
短い。
でも今日も重い。
「法律が行政機関に調査権限を与えていても、相手方の拒否に対して、どんな手段まで使えるかは別に見る」
私は思わず頷きました。
そういうことか。
調査権限がある。
だから調査行為そのものは、単なるお願いとは違う。
でも。
拒否されたとき、
身体を押しのけて入れるのか。
罰則で間接的に履行を確保するのか。
それとも、協力を求めるにとどまるのか。
そこは制度ごとに違う。
つまり。
行政調査を見たら、
「調べられるんですね」
で終わってはいけない。
――どうやって。
まで見る。
昨夜のテキストで眠かった言葉が、今日ようやく目を開けました。
翌朝。
私たちは喫茶ミモザにいました。
開店前の店内は、コーヒーの匂いが少し濃い。
澄江さんは落ち着かない様子でカウンターを拭いていました。
「本当に大丈夫かしら」
「何がです?」
「昨日、役所で揉めたんでしょう?」
「揉めてません」
相馬先輩が言います。
「整理しただけです」
「先輩が言うと、だいたい揉めてるんですよ」
「黙れ」
午前九時。
三浦係長と森田さんが来ました。
今日は最初から雰囲気が違います。
森田さんが帽子を取り、澄江さんに頭を下げました。
「昨日は説明が足りませんでした。すみません」
澄江さんが少し驚いた顔をします。
「いえ……」
「今日は、建物裏側にある古い給水管の分岐箇所を確認したいんです」
森田さんは図面を広げました。
古い建物図面。
端に薄く線が引かれています。
「ここです。昔、裏の流し台につながっていた管が残っている可能性があります。濁りがこの枝管から出ているかもしれないので、壁際だけ見せてもらいたいんです」
「物置全部じゃないんですか」
「はい。箱の中などを見る必要はありません」
「帳簿も?」
「見ません」
澄江さんの肩が少し下がりました。
「あら。それなら……」
彼女は物置の鍵を持ってきました。
鍵を開ける。
中には段ボール箱と古い椅子。
奥の壁際に、使われていない流し台。
その下から、錆びた管が伸びていました。
「ああ、これですね」
森田さんがしゃがみ込みます。
触らない。
勝手に物を動かさない。
「この箱、少しだけずらしていただけますか」
「これ?」
「はい」
澄江さん自身が箱を動かします。
管の根元が見えました。
森田さんと三浦係長が確認する。
ものの十分ほどでした。
「やはり古い枝管が残っています」
三浦係長が言います。
「これが原因かどうかはまだ分かりません。ただ、確認する必要があります」
澄江さんが管を見つめました。
「主人が昔、自分で流し台を付けたんです」
「なるほど」
「じゃあ、役所の人が来たのも、嫌がらせじゃなかったんですね」
森田さんが少し困った顔をします。
「嫌がらせではないです」
「でも昨日は怖かったわよ」
「……すみません」
「『拒否できません』って言われたから」
「はい」
「何か悪いことしたみたいで」
その言葉に、森田さんは黙りました。
私は横で聞いていて、少し胸が痛くなりました。
役所から見れば、たった一言。
調査ですから。
拒否できません。
でも聞く側にとっては、
自分が逃げようとしている人間みたいに感じる。
後ろめたいことがある人みたいに聞こえる。
それだけで、かなりの圧です。
「大橋さん」
森田さんが言いました。
「昨日の言い方は、間違ってました」
澄江さんが顔を上げます。
「調査の必要はあります。でも、だから何をしてもいいわけではありません。最初に、必要な範囲を説明するべきでした」
うん。
いい。
私は心の中で静かに拍手しました。
行政法の教科書には、たぶんこういう文章は載っていません。
でも。
権限の範囲を説明する。
相手の生活へどこまで入るのかを示す。
それだけで、調査はずいぶん違う顔になります。
「まあ」
澄江さんが言いました。
「分かればいいんですよ」
「ありがとうございます」
「その代わり」
「はい」
「コーヒー飲んでいきなさい」
森田さんが固まりました。
「勤務中なので」
「じゃあ水」
「水道課が水を断るわけにもいかんな」
三浦係長がぼそっと言いました。
ちょっと面白い人でした。
調査が終わると、私たちは片桐事務所へ戻りました。
昼前。
澄江さんが、紙袋を抱えてやって来ます。
「これ」
「何です?」
「サンドイッチ」
「いいんですか」
「昨日のお礼。余ったから」
昭和の町の人は、だいたい「余った」と言いながら明らかにこちらの人数分を持ってきます。
優しさに照れが混ざっている。
良い文化です。
「ありがとうございます」
「それと」
澄江さんは私を見ました。
「こはるちゃん」
「はい」
「昨日、あんたが聞いたでしょう」
「何をです?」
「『拒否したらどうなるんですか』って」
「ああ」
「あれ、私には思いつかなかった」
私は少し黙りました。
「役所の人が『調査です』って言うとね、それだけで従わなきゃいけない気がするのよ」
「そうですよね」
「でも今日みたいに、“どこまで見ます”って言われたら、別に嫌じゃなかった」
「うん」
「何だか変ね」
変。
でもたぶん、行政法ってそういうところがあります。
同じ調査でも、
境界線が見えないと怖い。
権限が見えないともっと怖い。
どこまで入られるのか。
断れるのか。
断れば何が起きるのか。
それが分からないから、
“役所だから全部できる”
に見えてしまう。
「変じゃないと思います」
私は言いました。
「やることが同じでも、どういう権限で、どこまでできるのか分かるだけで全然違いますから」
「そういうものかねえ」
「たぶん」
たぶん、です。
ここで断言しない。
今日一日で私は少し賢くなりました。
「じゃあ今度から役所の人が何か調べに来たら、まず聞くことにするわ」
「何を?」
「拒否したらどうなるんですか、って」
相馬先輩がサンドイッチを取ろうとして、手を止めました。
「いきなりそれ聞くと感じ悪いぞ」
「先輩がそれ言います?」
「俺は感じ悪くていいんだ」
「開き直らないでください」
片桐所長が包みを開けました。
「聞き方だ」
全員が所長を見ます。
「何の調査で、何を確認したいのか。どこまで必要なのか。それから聞け」
澄江さんが頷きました。
「なるほどねえ」
「いきなり拒否する必要もない。いきなり全部応じる必要もない」
それ。
私は心の中で線を引きました。
まさに今日の教訓です。
行政調査は、
役所対市民の腕相撲ではない。
全部見せるか。
全部拒否するか。
二択じゃない。
何のための調査なのか。
どこまでの権限なのか。
拒否した場合、どうなるのか。
その一つ一つを分ける。
すると、
ぼんやりした“圧”が、
具体的な手続へ変わっていく。
午後。
私は机に戻り、ノートを開きました。
行政調査。
昨日まで、この文字を見ただけで眠かった。
正直に言います。
行政法の中でも、かなり地味な部類だと思っていました。
処分。
行政指導。
行政強制。
不服申立て。
取消訴訟。
そういう派手なスター選手たちの陰に隠れて、
行政調査は、ベンチで資料を抱えている係員みたいな印象だったんです。
でも違いました。
役所は、何かを決める前に調べる。
税金をかける前にも。
営業を監督するときも。
水道を管理するときも。
違反を疑うときも。
行政は、情報がなければ動けません。
だから調査は、行政活動の入口です。
そして入口だからこそ、
相手の生活へどこまで踏み込めるのか、
という問題が最初に出る。
私はペンを持ちました。
でも、まだ本文は書きません。
今日の現場だけでは、分かったようで分かっていないからです。
強制調査。
相手が拒否しても、実力を使って調べられるもの。
そういう調査には、法律上の根拠がいる。
しかも物理的な強制となれば、令状との関係も出てくる。
間接強制調査。
身体を押さえつけたり鍵を壊したりするわけではない。
でも拒否すれば罰則などが待っている。
だから「任意です」とも言い切れない。
そして任意調査。
協力を求める。
拒否できる。
ただし。
現実には役所の人から「協力してください」と言われれば、それだけでかなり強く感じる。
さらに。
税務調査では、令状がなくても適法に行われる質問検査があるらしい。
じゃあ、憲法上の令状主義との関係は?
どんな調査でも事前通知が必要なのか?
理由を全部言わなければいけないのか?
警察の所持品検査は、承諾がないと絶対駄目なのか?
自動車の一斉検問は、全員止めてもいいのか?
それから。
税務上の質問検査を、犯罪捜査の代わりに使っていいのか。
……増えた。
疑問が。
めちゃくちゃ増えた。
「何だ、その顔」
相馬先輩が言いました。
「行政調査、思ったより深いです」
「沼にはまったな」
「昨日まで一ページで終わると思ってました」
「行政法で一ページで終わると思うな」
「怖いこと言わないでください」
私はノートの一番上にだけ書きました。
――行政調査。
その下に、
――『調査できる』と『拒否できない』は同じか?
と書きます。
今日は、そこまで。
所長が私のノートを見ました。
「続きは?」
「まだです」
「なぜだ」
「今日、分かったのは入口だけです」
「何が分かった」
私は少し考えました。
「役所が“調査です”と言ったとき、最初に見るのは調査の名前じゃない」
「うん」
「相手が拒めるのか。拒んだらどうなるのか。実力行使できるのか。罰則なのか。ただ協力を求めているのか」
所長が頷きます。
「それでいい」
相馬先輩が紙袋から最後の卵サンドを取ろうとしました。
私はその手を押さえます。
「先輩」
「何だ」
「それ私のです」
「名前書いてない」
「朝比奈こはるの協力に基づく任意提供です」
「じゃあ協力しろ」
「拒否します」
「拒否したら?」
「私が怒ります」
「間接強制か」
「違います」
「罰則は?」
「今から作ります」
所長が新聞越しに言いました。
「法律の根拠がない」
「所長が一番厳密!」
相馬先輩が笑いながら卵サンドを半分に割りました。
「ほら」
「半分ですか」
「任意調整だ」
「絶対いま作った言葉ですよね」
「食うのか食わないのか」
「食べます」
結局、半分もらいました。
十分です。
行政法もサンドイッチも、全部取るか全部失うかじゃない。
境界線を引いて、必要なところだけ分ければいい。
……いや。
さすがにサンドイッチから行政法を学ぶのは無理がありますね。
夕方。
喫茶ミモザの前を通ると、店の明かりがついていました。
窓越しに澄江さんが客へコーヒーを運んでいます。
今日も店は普通に営業している。
市役所も普通に仕事をしている。
誰かが勝ったわけでも、
誰かが負けたわけでもありません。
ただ一つ。
「調査なんだから拒否できません」
という曖昧な壁だけが、なくなりました。
代わりに残ったのは、
何を調べるのか。
どこまで必要なのか。
何を根拠にできるのか。
拒否したら、どうなるのか。
という、少し面倒だけれど、ずっと公平な問いです。
条文は冷たい。
調査権限。
強制。
罰則。
令状。
任意。
どれも温かい言葉ではありません。
でも、その冷たい区別があるからこそ、
「役所だから全部見せて」
という雑な一言を止められる。
逆に、
「嫌だから全部断る」
という雑な反応も止められる。
その間に、
ちゃんと話せる場所を作れる。
今日、私が覚えたのは、たぶんこれです。
――「調べる権限」と「従わせる力」は、同じではない。
私は事務所へ戻り、ノートを閉じました。
強制調査。
間接強制調査。
任意調査。
昨日よりは、少しだけ顔が見える。
でもまだ足りません。
明日は、
どうして令状が必要な調査と、そうでない調査があるのか。
拒否に罰則が付く調査は、本当に任意と言えるのか。
行政調査と行政手続法は、どういう関係なのか。
判例は、どこまで行政に調査の裁量を認めているのか。
そこまで整理してみようと思います。
相馬先輩が背後から言いました。
「また難しい顔してるな」
「明日まとめます」
「今日やれ」
「所長みたいなこと言わないでください」
「忘れるぞ」
「正論やめてください」
奥から、片桐所長の声が飛んできました。
「調査開始」
「何のですか?」
「お前の机」
「拒否します」
「昨日の未処理書類が三件ある」
「それは調査じゃなくて監査です!」
「どっちでもいい。片付けろ」
「権限の根拠を!」
「所長」
「強い!」
相馬先輩が笑いました。
私は仕方なく、机の上の書類を集めます。
どうやら片桐行政書士事務所における所長の調査権限だけは、
かなり強制力が高いようでした。
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