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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

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26/282

[行政上の強制手段]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ静かです。


 電話が減る。


 来客も途切れる。


 西日が机の端を赤く染める。


 そして私は、ノートを開いたまま、五分くらい同じところを見つめていました。


 ――行政上の強制手段。


 字面が強い。


 何でしょう。


 行政法の中でも、今日は特に武闘派です。


「まだ一行か」


 向かいの机から相馬先輩が言いました。


「考えてるんです」


「五分も?」


「五分だから考えてるんです」


「寝てただろ」


「目は開いてました」


「それを世間ではぼんやりしてるって言う」


 失礼な。


 でも否定はしません。


 今日、市役所が三宅さんの古い倉庫を壊そうとした件。


 撤去命令は出ていました。


 期限も過ぎていた。


 三宅さん側に、義務を履行していない事情があった。


 そこまでは間違いありません。


 でも市役所は、


「命令に従わないなら、市が壊します」


 と考えた。


 そして、戒告も代執行令書もないまま、業者と重機を連れてきた。


 そこで止まりました。


 私はノートの最初に書きます。


 行政上の強制手段。


 大きく分けて、


 行政強制。


 行政罰。


「まずここです」


「何が」


「似てるんですよ」


「何がだ」


「どっちも“言うこと聞かなかった人に行政が何かする”感じが」


「雑だな」


「だから今整理してるんです」


 奥で帳簿を見ていた片桐所長が、顔も上げずに言いました。


「時間で分けろ」


「時間?」


「将来か、過去か」


 私はペンを止めました。


「なるほど」


 行政強制。


 これは将来に向かって行政目的を実現するためのもの。


 義務を履行させる。


 危険を除く。


 税金などを徴収する。


 とにかく、今後ちゃんと行政目的を達成するために働く。


 一方。


 行政罰。


 こちらは過去の義務違反に対する制裁です。


 もうやってしまった。


 もう違反した。


 だから、その違反そのものに対して罰を科す。


「じゃあ、今日の三宅さんの件は」


「行政強制だ」


 所長が答えます。


「はい」


 撤去命令に従っていない。


 だから、市が将来に向かって建物を撤去する。


 目的は、過去を罰することではありません。


 建物をなくすことです。


 つまり、


 撤去させるための手段。


 それが行政強制。


「じゃあ、“命令に従わなかったから罰金”なら?」


 相馬先輩が聞きます。


「行政罰?」


「場合による」


「出た」


「何が」


「行政法名物、“場合による”」


 行政法って、本当に一言で終わらせてくれません。


 私はノートの右側に大きく矢印を書きました。


 行政強制。


 さらに二つ。


 行政上の強制執行。


 即時強制。


「今日の代執行は、強制執行のほうですよね」


「ああ」


「じゃあ即時強制との違いは?」


 私は自分で言いながら思い出します。


 教材で見た酔っ払いの話。


 路上で寝ている人。


 車にひかれる危険がある。


 警察官が安全な場所へ移す。


「……義務があるかどうか?」


 所長が頷きました。


「そこだ」


 私はノートに線を引きます。


 行政上の強制執行。


 すでに義務が課されている。


 それなのに義務者が履行しない。


 だから行政が強制的にその義務を実現する。


 今日の三宅さん。


 撤去命令があった。


 つまり先に、


 倉庫を撤去しなさい。


 という義務が課されていた。


 それを履行しなかった。


 だから、市は代執行を検討した。


 一方。


 即時強制。


 こちらは先に義務を課していない。


 命令して、期限を待って、違反したら強制する。


 そんな時間がない。


 だから、緊急の必要から直接身体や財産へ実力を加える。


「たとえば道路の真ん中で泥酔して寝てる人」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「今から“道路から離れなさい。期限は明日まで”とか言ってる場合じゃない」


「轢かれますね」


「だからその場で動かす」


「でも、それも行政が勝手にやっていいわけじゃない」


「そうだ」


 所長が言います。


「法律か条例の根拠が必要だ」


 私はそこを二重線で囲みました。


 行政上の強制手段は、とにかく実力を使います。


 人を動かす。


 物を壊す。


 財産を差し押さえる。


 だから、


 便利そうだから。


 必要だから。


 皆のためだから。


 だけでは足りない。


 法律上の根拠がいる。


 それが今日、現場でいちばん強く感じたところでした。


「所長」


「何だ」


「じゃあ、行政上の強制執行は何種類でしたっけ」


「言ってみろ」


 来ました。


 口頭試問。


 昭和の事務所は、授業料を払っていないのに容赦がありません。


「代執行」


「うん」


「執行罰」


「うん」


「直接強制」


「うん」


「行政上の強制徴収」


「それで全部だ」


 私はノートに四つ並べました。


 代執行。


 執行罰。


 直接強制。


 行政上の強制徴収。


「名前は分かるんですけど」


「何だ」


「全部“強制”なんですよね」


「当然だろ」


「そこを分けるんです」


 まず。


 代執行。


 今日の三宅さんの事件が、そのまま具体例です。


 行政が、


 本人の代わりにできる義務。


 これが重要。


 たとえば、


 建物を撤去する。


 違法に設置した看板を外す。


 放置した物を撤去する。


 そういう、


 他の人が代わってやっても目的を達成できる義務です。


「代替的作為義務」


 私は呟きました。


「名前が硬い」


「法律用語に愛嬌を求めるな」


 相馬先輩が言います。


「でも覚えにくいじゃないですか」


「今日の倉庫で覚えろ」


「それは覚えやすいです」


 確かに。


 三宅さん本人が壊さなくても、


 市が業者を使って壊せば、


 倉庫がなくなるという目的自体は達成できる。


 だから代執行に向いている。


 逆に、


 本人にしかできない義務。


 本人がある説明をする。


 本人自身が一定の行為をする。


 そういう義務は、行政が代わってやることができない。


「で、今日の問題は?」


 相馬先輩が聞きます。


「手続です」


 私は即答しました。


 代執行は、


 命令に従わなかった。


 はい壊します。


 では終わらない。


 まず。


 相当期間を定めて、文書で戒告する。


 この期限までに履行しなければ、代執行します。


 そう知らせる。


 今日、市役所はここを飛ばしていました。


「撤去命令があったから十分、って主任は言ってましたね」


「あれが雑だった」


 相馬先輩が言います。


「撤去命令は、撤去義務を課すもの」


「戒告は?」


「その義務を履行しなければ、次に代執行するぞという手続」


「別物」


「そういうことだ」


 次。


 それでも履行しない場合。


 代執行令書で通知する。


 いつ代執行するのか。


 執行責任者は誰か。


 費用の概算額はいくらか。


 そういった事項を知らせる。


「昨日電話で“明日壊します”は」


「令書じゃない」


「ですよね」


 強い言葉と、正式な手続は別物です。


 ここでもまた同じ。


 役所が言った。


 だから効力がある。


 ではありません。


 何の制度として。


 どの形式で。


 誰が。


 何を通知したか。


 そこを見る。


 そして実際に代執行する。


 このとき執行責任者は証票を携帯する。


 要求されたら呈示しなければならない。


「今日、主任持ってませんでしたね」


「持ってなかったな」


「相馬先輩、あの質問ちょっと格好よかったです」


「ちょっと余計だ」


「証票は?」


「そこだけ切り取るな」


 でも、あの瞬間は確かに効きました。


 今日これから人の財産を壊す。


 なら、


 あなたは誰ですか。


 本当にその権限で動いていますか。


 そう住民が確かめられる。


 証票なんて、教材だけで見れば細かい暗記事項です。


 でも実物の場面に置くと、意味が変わります。


 権力を使う側が、身分と責任を隠したまま動かないための仕組みです。


 最後。


 代執行にかかった費用。


 これは義務者から徴収できます。


「ただし」


 私は書きながら言いました。


「実際に要した費用ですよね」


「そうだ」


「適当に高く決めて取るわけじゃない」


「当然だ」


 納期日を定めて。


 文書で納付を命じる。


 それでも払わなければ、


 国税滞納処分の例によって強制徴収できる。


「ここで今日の続きなんですよ」


「何が」


「昨日、気になってたやつです。代執行費用を払わなかったらどうなるのか」


「やっと回収したな」


「伏線みたいに言わないでください」


 私は丸をつけました。


 代執行。


 実施して終わりではない。


 費用徴収まで制度の中にある。


 ただし。


 ここで例外。


 非常の場合。


 または危険切迫の場合。


 そんなときには、戒告や代執行令書による通知を省略できる。


「今日、市役所が言ってた“危険だから”ってやつですね」


 私が言うと、所長が頷きます。


「だが」


「本当に危険が切迫しているかが必要」


「そうだ」


 二か月放置していた。


 今日でなければ倒れるという状況でもない。


 工事工程が迫っている。


 それだけでは、


 危険切迫だから正式な手続を飛ばします。


 とは言えない。


「これ、重要ですね」


「ああ」


「“危ない”って言えば全部省略できるわけじゃない」


「当然だ」


「でも現場だと、そうなりがちなんでしょうね」


 所長は少しだけ黙ってから言いました。


「急ぐ理由と、法律上の緊急性を混ぜるな」


 私はそのままノートに書きました。


 急ぐ理由。


 法律上の緊急性。


 似ているようで違う。


 役所の工期が迫っている。


 上司に急かされている。


 業者をもう手配してしまった。


 それは行政側の事情。


 一方。


 今この瞬間にも崩落する。


 生命身体へ差し迫った危険がある。


 こちらは緊急性。


 ここを混ぜたら、


 行政の都合で手続が消えてしまいます。


「次」


 相馬先輩が言いました。


「執行罰」


「名前が罠ですよね」


「何が」


「罰って書いてあるのに、行政罰じゃない」


「そこは試験に出そうだな」


「絶対ひっかけますよね」


 執行罰。


 これは行政強制です。


 つまり、過去を罰するためではない。


 将来、義務を履行させるための手段。


 義務を履行しなければ、


 過料を科しますよ。


 と予告する。


 その心理的圧力によって、


 本人に義務を履行させる。


「要するに」


 私は考えました。


「やらないとお金かかりますよ、って迫る?」


「雑だが近い」


「そして履行すれば、過料は取られない」


「そう」


 だから、


 違反したから制裁します。


 ではない。


 まだ履行の余地を残しながら圧力をかける。


 しかも、


 義務を履行しなければ繰り返し科すこともあり得る。


「本当に延滞料っぽいですね」


「試験で書くなよ」


「書きません」


 実際には執行罰の例は極めて限られ、教材では砂防法三十六条が代表例として挙がっていました。


 ここで重要なのは、


 執行罰は行政罰ではない。


 だから、行政刑罰と併科されても、直ちに二重処罰の禁止に反するものではない。


「罰って字が入ってるせいで、余計ややこしい」


「名前で覚えるな」


 相馬先輩が言います。


「何を見るんですか」


「目的」


「あ」


「義務を履行させたいのか。違反を制裁したいのか」


「未来か過去」


「そういうことだ」


 所長の最初の言葉に戻ってきました。


 時間で分けろ。


 強い。


 次。


 直接強制。


 これは代執行とは違います。


 行政上の義務を本人が履行しない。


 そこで行政が、


 本人の身体や財産に直接実力を加えて、


 義務が履行された状態を作る。


「代わりにやるんじゃない」


「そうだ」


「直接、実力で状態を変える」


「そう考えろ」


 たとえば一定の施設を使用禁止にしたのに、


 それでも使っている。


 そこで、その建物を実力で封鎖する。


 本人に、


 ちゃんと使用をやめてください。


 と何度もお願いするだけではなく、


 物理的に使えない状態にする。


「これも法律の根拠が必要」


「もちろんだ」


 行政上の強制執行は、


 代執行。


 執行罰。


 直接強制。


 強制徴収。


 どれも法律の根拠なしにできない。


 ここは大きく囲います。


 行政が必要だと思っただけでは駄目。


 そして四つ目。


 行政上の強制徴収。


「これは分かりやすいです」


「言ってみろ」


「お金を払う義務がある。払わない。だから行政が財産を差し押さえて、そこから徴収する」


「うん」


 典型は税金。


 道路占用料。


 河川占用料。


 放置違反金。


 こうした行政上の金銭納付義務について、


 法律上認められた手続で強制徴収する。


「ここで試験の罠」


 私はノートの端に星印を書きました。


「水道料金」


「どうなる」


「民事上の話」


「そう」


 水道料金については、行政上の強制徴収の仕組みではなく、民事上の強制執行の問題になる。


「名前だけ見ると市に払うお金だから、全部行政上の金銭債権に見えますよね」


「そこを分けろ」


「行政が相手なら何でも行政法、じゃない」


「そういうことだ」


 さらに。


 行政上の金銭納付義務について強制徴収の制度がある場合、


 行政側が、


 面倒だから普通の民事訴訟を起こして差し押さえよう。


 とはできない。


 行政上の強制徴収という特別な手段による。


「これ、行政は強いのに、逆にルートも決められてるんですね」


 私が言うと、所長が答えました。


「強い権限ほど、使い方を縛る」


 短い。


 今日のテーマそのものです。


 私は一度ノートを閉じかけました。


「まだだ」


 相馬先輩が言います。


「え?」


「即時強制」


「……見てました?」


「逃がすか」


 鬼。


 仕方なく、また開きます。


 即時強制。


 行政上の強制執行との最大の違いは、


 あらかじめ義務を課していないこと。


 緊急の必要があって、


 義務を命じてから従うかどうか見ている暇がない。


 だから、その場で直接、身体や財産に実力を加える。


 路上で泥酔している人を保護する。


 迷い子や負傷者など、応急の救護を要する人を保護する。


 こうした場面です。


「でも」


 私はペンを止めました。


「即時強制って、かなり強烈ですよね」


「だから根拠が要る」


「法律か条例」


「そうだ」


 義務違反がなくても、


 人の身体へ直接手を出せる。


 むしろその分、根拠は必要です。


「今日の倉庫の件を、“危ないから即時強制です”って処理することもできませんよね」


「簡単にはできない」


「先に撤去命令を出して、義務を課していた時点で、今回の筋は強制執行の問題」


「そう考えるのが自然だ」


 つまり。


 緊急だから何でも即時強制。


 でもない。


 まず、どんな制度なのかを正しく分類する必要がある。


 私はノートの左側に大きく書きました。


 義務あり → 不履行 → 強制執行。


 義務なし → 緊急の必要 → 即時強制。


「これ、覚えやすい」


「やっと受験生らしくなったな」


「ずっと受験生です」


「昭和でな」


「そこはもういいです」


 さて。


 次。


 行政罰。


 ここからは、


 未来ではなく過去。


 義務違反をした。


 その違反に制裁を加える。


 大きく二つ。


 行政刑罰。


 行政上の秩序罰。


「名前がまた似てる」


「耐えろ」


「行政法って、ネーミングにもう少し配慮できなかったんでしょうか」


「誰に言ってる」


「立法者全般」


「大きく出たな」


 行政刑罰。


 これは刑法に定めのある刑罰を科すものです。


 拘禁刑。


 罰金。


 拘留。


 科料。


 刑罰なので、原則として刑法総則が適用され、刑事訴訟法に従って科される。


「過去の違反に対して、本物の刑罰」


「そうだ」


 そして、行政法規では両罰規定が置かれることも多い。


 従業員が業務に関して違反した場合、


 その行為者本人だけでなく、


 法人や事業主にも罰金刑を科す。


「会社が“社員が勝手にやりました”で全部逃げられないようにするわけですね」


「そういう場面がある」


「宅建業法にもありますね」


「ああ」


 私はそこも書き込みます。


 行政刑罰。


 行為者。


 さらに法人等にも科刑され得る。


 両罰規定。


「で、一番危ないのが次です」


「過料か」


「はい」


 行政上の秩序罰。


 これは形式的、軽微な行政上の義務違反に対して科される過料です。


 届出義務。


 登録義務。


 通知義務。


 そういった秩序維持のための義務に違反した場合。


「そして」


 私は大きく書きました。


 科料 = 刑罰。


 過料 = 刑罰ではない。


「読み方ほぼ同じなのに!」


「試験委員が喜びそうだな」


「絶対喜んでます」


「勝手に決めるな」


 科料は刑罰。


 過料は刑罰ではありません。


 同じ「かりょう」なのに、世界が違います。


 法律用語、たまに受験生へ悪意ありません?


「法令に基づく過料は?」


 所長が聞きます。


「非訟事件手続法によって、地方裁判所が科す」


「条例や規則違反の場合は?」


「地方自治法に基づいて、地方公共団体の長が行政処分として科す」


「よし」


 珍しく即答できました。


 少し嬉しい。


「じゃあ、秩序罰の過料と行政刑罰は、同時に科せない?」


 相馬先輩が聞きました。


「……科せます」


「理由」


「目的や要件が違うから」


「そうだ」


 執行罰と行政刑罰も同じ。


 目的が違う。


 将来、義務を履行させるための執行罰。


 過去の違反を制裁する行政刑罰。


 だから、両者の併科が直ちに二重処罰の禁止に反するわけではない。


「結局」


 私は少し考えました。


「“お金を払わせる”ってだけ見ちゃ駄目なんですね」


「どういうことだ」


「執行罰も過料。秩序罰も過料。でも意味が違う」


「そうだ」


「罰金もある。科料もある。強制徴収もある。代執行費用もある」


「全部違う」


「見た目がお金だからって一緒にすると終わる」


「試験ではな」


「現場でもですよ」


 私は今日の倉庫を思い出しました。


 もし市が三宅さんに対して、


 倉庫を撤去しなかった。


 だから代執行します。


 それは、倉庫をなくすための行政強制。


 代執行した費用を払ってください。


 それは代執行費用の徴収。


 さらに、


 過去の命令違反そのものについて法令上の制裁があるなら、


 それは別途、行政罰の問題。


 一つの出来事でも、


 効果は一本ではありません。


「この辺、混ぜると危ないですね」


「役所でも混ざる」


 所長が言いました。


「え」


「命令違反だから罰だ。命令違反だから強制できる。命令違反だから何をしてもいい。そう短絡するな」


「……今日そのままですね」


「ああ」


 三宅さんは義務を履行していなかった。


 そこは事実。


 でも、


 だから戒告はいらない。


 だから令書はいらない。


 だから今日壊していい。


 とはならない。


 義務違反が一つあったからといって、


 行政側の手続まで消えるわけではない。


 ここが今日、いちばん重要でした。


 私はノートを見返します。


 少しずつ見えてきました。


 行政上の強制手段。


 まず、


 未来の行政目的実現なら行政強制。


 過去の義務違反への制裁なら行政罰。


 行政強制のうち、


 先に義務があるなら行政上の強制執行。


 先に義務を課す暇がない緊急時なら即時強制。


 行政上の強制執行には、


 代執行。


 執行罰。


 直接強制。


 行政上の強制徴収。


 この四つ。


「試験で狙われそうなところ、まとめてみろ」


 相馬先輩が言います。


「先輩、完全に先生役に味を占めましたね」


「いいからやれ」


 私は指を折りました。


「まず、行政強制と行政罰を、未来と過去で分ける」


「うん」


「執行罰は“罰”って名前でも行政罰じゃない」


「うん」


「強制執行は、あらかじめ義務がある。即時強制は、原則として先行する義務がない」


「うん」


「代執行は代替的作為義務」


「うん」


「代執行は、原則として文書による戒告、代執行令書による通知、実際の執行、費用徴収という流れ」


「うん」


「非常の場合や危険切迫の場合には、戒告と令書通知を省略できることがある」


「うん」


「執行責任者は証票を携帯して、要求があれば呈示」


「うん」


「代執行費用を払わないときは、国税滞納処分の例で強制徴収」


「うん」


「行政上の強制徴収と民事上の強制執行を混同しない。特に水道料金」


「うん」


「過料と科料を混同しない。過料は刑罰じゃない。科料は刑罰」


「よし」


 私は息を吐きました。


「多い!」


「行政法だ」


「その一言で全部済ませないでください!」


 所長が少しだけ笑いました。


 珍しい。


 たぶん笑った。


 たぶん。


 そこで電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『三宅です』


「あ、三宅さん」


『今日、倉庫の中を片づけ始めました』


「もう?」


『はい。父の写真、出てきました』


 電話の向こうで、少し笑う声がしました。


『市場がまだ賑やかだったころの写真です。父、若くて』


「よかったですね」


『あとね、帳面もありました。昭和四十年代からの』


「それは捨てないほうがいいです」


『そう思って』


 少し間があきました。


『朝比奈さん』


「はい」


『倉庫は、たぶん最後は壊すことになると思います』


 私は黙りました。


『でも、今日壊されるのと、自分で中を片づけてから壊すのじゃ、全然違いますね』


「……はい」


『手続って、時間をくれるものなんですね』


 その言葉に、私は何も返せませんでした。


 今日の午前中、自分でも似たようなことを考えていました。


 でも当事者から言われると、重さが違います。


「三宅さん」


『はい』


「市から次の書類が来たら、そのまま持ってきてください」


『分かりました』


「今度は、一枚ずつ見ましょう」


『お願いします』


 電話が切れます。


 しばらく私は受話器を見ていました。


「何だ」


 相馬先輩が聞きます。


「手続って」


「うん」


「結果を変えるためだけにあるんじゃないんですね」


 相馬先輩は何も言いませんでした。


 代わりに、所長が言いました。


「結果までの扱い方を決めるものでもある」


 私はその言葉を、ノートの端に書きました。


 結果までの扱い方。


 今日、市役所が最初にやろうとしたこと。


 撤去命令あり。


 不履行あり。


 なら壊す。


 理屈だけ切り取れば、短い。


 でも法律は、その間に手順を挟みます。


 戒告。


 期間。


 通知。


 責任者。


 証票。


 費用。


 どれも面倒です。


 けれど、その面倒が、


 今日壊される人に一日を与える。


 一週間を与える。


 説明を受ける機会を与える。


 荷物を出す時間を与える。


 争うなら争う準備をする時間を与える。


 制度の冷たさは、


 確かに人を縛ります。


 でも。


 行政の力が感情や勢いだけで動かないようにするのも、その冷たさです。


「今日の一行」


 所長が言いました。


「あ」


 忘れるところでした。


 私はノートの一番下を空けます。


 少し考えて。


 書きました。


 ――「義務違反がある」と「行政が何をしてもいい」は、まったく別の話。


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「長い」


「いいじゃないですか」


「一行の覚え書きだろ」


「一行に収まってます」


「じゃあもう少し試験向けにしろ」


「試験向け?」


「強制手段を見るときは?」


 私はペンを持ち直しました。


 そして、その下にもう一つ。


 義務が先か、実力行使が先か。未来を実現するのか、過去を罰するのか。


「どうです?」


「悪くない」


「珍しく褒めました?」


「褒めてない」


「倉田係長と同じ病気ですか」


「何だそれ」


 奥で所長が新聞を畳みました。


「こはる」


「はい」


「最後にもう一つ」


「まだあります?」


「行政が強制できる場面で、最初に確認することは何だ」


 私はノートを見ました。


 代執行。


 執行罰。


 直接強制。


 強制徴収。


 即時強制。


 行政刑罰。


 秩序罰。


 全部に共通するもの。


「……根拠です」


 所長が頷きます。


「そうだ」


 行政が強い力を使うとき。


 最初に見るのは、


 怒っているか。


 困っているか。


 迷惑か。


 ではない。


 何を根拠に、その力を使えるのか。


 そして、


 その根拠が認めた手順を踏んでいるのか。


 そこです。


「法律の根拠がなかったら?」


「できない」


「必要性があっても?」


「必要性だけでは足りない」


「皆のためでも?」


「足りない」


 冷たい。


 でも、その冷たさが必要です。


 なぜなら、


 “皆のためだから”


 という言葉は、ときどき一人を簡単に踏みつぶすから。


 三宅さんの倉庫は、


 たぶん最終的にはなくなる。


 それでも今日、


 市役所は一度止まりました。


 なぜ止まったのか。


 三宅さんがかわいそうだったからではありません。


 私たちが市役所より声が大きかったからでもない。


 行政が人の財産に実力を加えるためには、


 正しい根拠と、


 正しい手続が必要だったからです。


 それだけ。


 でも、その「それだけ」が、人を一日救う。


 私はノートを閉じました。


 行政上の強制手段。


 昨日までなら、


 代執行。


 執行罰。


 直接強制。


 行政上の強制徴収。


 即時強制。


 行政刑罰。


 秩序罰。


 このあたりを見た瞬間、眠気が来ていました。


 でも今は。


 倉庫の前で立ち尽くす三宅さんの顔が浮かびます。


 業者のバール。


 主任の「撤去命令が出ています」。


 私の「戒告は?」。


 相馬先輩の「証票は?」。


 そして、


 市役所が一度、重機を引いた瞬間。


 法律用語には、人情なんてありません。


 でも、


 人情で権力を止められないときに、


 冷たい手続が止めてくれることがある。


 行政法。


 やっぱり字面は眠いです。


 でも今日はたぶん、昨日より少しだけ好きになりました。


「こはる」


「はい」


「帰るぞ」


 相馬先輩が上着を取ります。


「先輩」


「何だ」


「さっき私の机のコッペパン食べました?」


「食ってない」


「袋なくなってます」


「知らん」


「返してください」


「もうない」


「行政上の強制徴収を検討します」


「だからパンに行政法を使うな」


「では直接強制で取り返します」


「腹の中からどうやって取るんだよ」


 私は少し考えました。


「……代執行?」


「何を代わりにやるんだ」


 奥から所長の声。


「二人とも帰れ」


 はい。


 この命令だけは、


 今日も素直に履行しておくことにします。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
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