↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/262

[行政上の強制手段]現場編 「市が片づければ済むでしょう」の罠。撤去命令と実力行使を混ぜる現場と、“命じた後”にも必要な手続

挿絵(By みてみん)


 役所の「言うことを聞かないなら、こっちでやります」は、ときどき一番危ない言葉です。


 相手が悪い。


 迷惑をかけている。


 何度言っても従わない。


 そこまで揃うと、人はつい思います。


 ――だったら、もう強制的にやってしまえばいい。


 気持ちは分かります。


 ものすごく分かります。


 ですが行政法というものは、そういう「もういいだろ」の瞬間に、急に細かくなるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所の朝は、一本の電話から始まりました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


 私、朝比奈こはるが受話器を取ると、向こうから切羽詰まった女性の声が飛び込んできました。


『あの、すみません、市役所が今日、うちの小屋を壊すって言ってるんです』


「……今日?」


『はい。もう業者さんまで来てて』


 私は一瞬、受話器を耳から離しました。


 聞き間違いでしょうか。


 朝九時十三分。


 相談内容。


 今日、役所が小屋を壊す。


 行政書士事務所の一日は、もう少し穏やかな話から始まるものでは?


「場所はどちらですか」


『駅北の旧青果市場の裏です。父が使ってた倉庫で……』


 駅北。


 私は壁に貼られた市街図へ目をやりました。


 そこはちょうど、駅前再整備の予定区域にかかる場所でした。


 最近、相談が増えている地区です。


 仮設店舗。


 道路。


 立ち退き。


 開発予定。


 町が便利になるとき、だいたいその下で誰かの事情が踏まれます。


「お名前をお願いします」


『三宅千代です』


「市役所から、何か書類は来ていますか」


『はい。前に“撤去してください”って紙が来ました。でも父が倒れて、それどころじゃなくて。父は先月亡くなって……私、何から手をつけていいか分からなくて』


 声が震えました。


『昨日、市役所の人に、明日壊しますって言われたんです』


「昨日?」


『電話で』


「書面は?」


『……ありません』


 私は黙りました。


 背中のあたりを、行政法受験生特有の嫌な予感が走ります。


 こういうときの「書面はありません」は、だいたい物語が始まる合図です。


「少し待ってください」


 受話器を押さえ、向かいの机で書類をめくっていた相馬先輩を見ました。


「先輩」


「嫌だ」


「まだ何も言ってません」


「その顔は面倒事だ」


「当たりです」


 私は事情を簡単に伝えました。


 相馬先輩の眉が動きます。


「撤去命令は出てる?」


「出てるみたいです」


「今日壊すって通知は?」


「電話だけ」


「所長」


 相馬先輩が奥へ声を飛ばしました。


 片桐所長が顔を出します。


「何だ」


「市が今日、倉庫を壊すそうです」


「何の倉庫だ」


「旧青果市場裏。撤去命令あり。昨日電話で“明日壊す”」


 所長は三秒だけ黙りました。


「行くぞ」


 短い。


 そして速い。


 私は受話器へ戻りました。


「三宅さん。今からそちらへ向かいます。役所の人に、私たちが行くまで少し待ってもらえますか」


『待ってくれるでしょうか』


「分かりません」


『えっ』


「でも、“誰が、何の手続で壊すのか確認したい”と伝えてください」


 隣で相馬先輩が上着を掴みながら言いました。


「あと業者に触らせるな」


「先輩、それ私が言うと角が立ちます」


「じゃあ柔らかく言え」


 無茶を言う。


「作業開始を少々お待ちいただきたい、と」


「同じだろ」


「日本語は大事です」


 十分後。


 私たちは旧青果市場の裏手にいました。


 問題の倉庫は、倉庫というより大きめの物置でした。


 トタン張り。


 ところどころ錆びている。


 屋根は傾き、裏側の木材が道路予定地へ少し張り出しています。


 正直に言います。


 見た瞬間の感想は、


 ――これは撤去しろって言われそう。


 でした。


 でも。


 だからといって、役所が好きな日に好きな方法で壊していいことにはなりません。


 そこが行政法の面倒で、ありがたいところです。


「朝比奈さん?」


 小柄な女性が駆け寄ってきました。


 三宅千代さん。五十代くらい。


 目の下に濃い隈があります。


「父がここで青果の卸をやってたんです。市場が閉まったあとも、道具を置いてて」


「今は使っていますか」


「ほとんど使ってません。でも中に父の帳面とか、昔の写真とか……」


 その言葉で、古い倉庫が少し違って見えました。


 役所から見れば、撤去対象の工作物。


 三宅さんから見れば、亡くなった父親の時間が詰まった箱です。


 行政法の事件は、この二つが同時に正しいから面倒なんですよね。


「三宅さん」


 片桐所長が静かに聞きました。


「撤去命令の書面を見せてもらえますか」


「はい」


 三宅さんが封筒を差し出します。


 市都市整備課。


 宛名は三宅さんのお父さん。


 内容は、道路予定地にはみ出している部分を含め、一定期日までに建物を撤去するよう命ずるもの。


 命令自体は、少なくとも形としては出ている。


「期限は二か月前ですね」


 私が言うと、三宅さんはうつむきました。


「父が入院していて……。私も毎日病院で」


「市には連絡しましたか」


「一度だけ。でも、“期限は期限です”って」


 相馬先輩が舌打ちしました。


「で、昨日いきなり今日撤去か」


 そのとき。


「片桐さん?」


 背後から声がしました。


 振り返ると、見覚えのある顔。


 倉田係長です。


 商工観光課ではなく、今回はなぜか都市整備課の職員二人と一緒にいます。


「あれ。係長」


「また君か」


「また私です」


「今度は何だ」


「それはこちらの台詞です」


 倉田係長は疲れた顔で額を押さえました。


「今日は応援だ。都市整備課の案件だが、再整備関係で調整に入ってる」


 隣には、都市整備課の主任らしい男性。


 もう一人は若い職員。


 そして少し離れたところに、作業服の業者が三人。


 バール。


 ロープ。


 小型重機。


 いや、本当に壊す気ですね。


「では確認します」


 片桐所長が撤去命令の書面を持ち上げました。


「今日の撤去は、代執行ですか」


 都市整備課の主任が、一瞬黙りました。


「……ええ、まあ」


「まあ?」


 相馬先輩が低く返す。


「代執行なら代執行でしょう」


「所有者に撤去命令が出ています。期限も過ぎている。それでも撤去されていない以上、市が代わって撤去します」


 理屈は分かります。


 聞いた感じ、ものすごく自然です。


 命令した。


 従わなかった。


 だから市が代わりにやる。


 代執行。


 テキストなら三行で済むところです。


 でも私は、三宅さんの持ってきた封筒をもう一度見ました。


 何か足りない。


 いや。


 かなり足りない。


「すみません」


 私は手を挙げました。


 主任が怪訝そうに見る。


「何ですか」


「戒告は?」


「……はい?」


「代執行する前の戒告です」


 空気が少し止まりました。


 相馬先輩が横で、にやりともせず私を見ます。


 続けろ、の顔です。


 たぶん。


 違ったら怖いので見ないことにします。


「相当期間を定めて、“その期限までに履行しなければ代執行します”って、文書で戒告しましたか」


 主任が書類をめくります。


「撤去命令は出しています」


「それは撤去しなさい、という義務を課した書面ですよね」


「同じようなものでしょう」


 出ました。


 行政実務で一番怖い種類の言葉。


 ――同じようなもの。


 法的手続で、その言葉を出した瞬間、だいたい何かが違います。


「同じではないと思います」


 私が言うと、主任の眉が上がりました。


「撤去命令は、“撤去義務があります”という話ですよね」


「そうです」


「戒告は、“この期限までにやらなければ、市が代わってやります”という次の段階の話です」


「しかし本人は命令を無視している」


「それでも、です」


 言いながら。


 私の頭の中で、昨夜まで白黒だったテキストの図が急に立体になります。


 義務。


 不履行。


 戒告。


 代執行令書。


 執行。


 費用徴収。


 昨日までなら、


 長いなあ。


 順番多いなあ。


 くらいにしか思っていませんでした。


 でも今。


 一つずつの段階の間に、人間がいます。


 三宅さんがいる。


 父親が亡くなった。


 書類が届いた。


 でも次に何が起きるか分からなかった。


 昨日いきなり電話が来た。


 明日壊します。


 その一言で、今日ここに重機が来ています。


 手続って。


 時間を作るためにあるんですね。


「それと」


 私は続けました。


「代執行令書は?」


 主任が黙りました。


「いつ代執行するのか。執行責任者は誰か。費用の概算はいくらか。そういう通知です」


「危険があります」


 主任は倉庫を指さしました。


「見てください。老朽化している。再整備工事も始まる。道路部分へ倒れれば危ない」


「今すぐ倒れる危険ですか」


 所長が聞きました。


 主任は口を閉じました。


「いや……そこまでは」


「非常の場合や危険切迫なら、手続を省ける場合もある」


 片桐所長の声は淡々としていました。


「だが、今日でなければ事故が起きるほど切迫しているのか」


「それは……」


「二か月待っている」


 相馬先輩が言いました。


「二か月待てた危険が、今日だけ突然切迫したのか?」


 強い。


 私ならもう少し柔らかく言います。


 でも相馬先輩は、こういうとき柔らかさを職場に置いてきます。


「道路工事の日程もあります」


 主任が反論しました。


「今週中に撤去しないと工程に影響が出るんです」


「工程の都合と、危険切迫は別でしょう」


 私が言いました。


 主任の視線が刺さります。


 うん。


 怖い。


 でもここ、たぶん大事です。


「市に都合があるのは分かります。でも、今日ここで強制的に壊せる法的理由が、“工期が迫ってるから”だけなら、それは緊急の場合とは違うんじゃないですか」


 倉田係長が、横で深く息を吐きました。


「主任」


「何です」


「……戒告、出してないんですか」


「撤去命令で十分だと思っていました」


「令書は?」


「電話で通知しました」


 倉田係長の顔が、完全に「うわ」という顔になりました。


 分かりやすい。


 市役所内でも、これはまずいと思われているようです。


 三宅さんが恐る恐る聞きました。


「あの……じゃあ、今日は壊されないんですか」


 ここで私は、勢いよく「はい!」と言いたくなりました。


 でも行政法。


 勢いで答えると死ぬ科目です。


 所長を見る。


 片桐所長が三宅さんに向き直りました。


「撤去命令そのものが消えるわけではありません」


 三宅さんの表情が曇る。


「建物を撤去する義務は残っています」


「……はい」


「ただし、市が代わって撤去するなら、そのための手続が必要です」


「じゃあ」


「今日は、その手続を確認するまで作業を止めてもらいます」


 三宅さんの肩から、目に見えて力が抜けました。


 完全勝利ではありません。


 倉庫を残せると決まったわけでもない。


 でも。


 今日突然、中の荷物ごと壊される。


 その未来だけは、一度止まりました。


 主任は納得していない顔でした。


「しかし、命令に従っていないのは事実ですよ」


「そうですね」


 私は頷きました。


 そこは逃げません。


「三宅さん側にも、命令を放置した問題があります」


 三宅さんが小さく頭を下げます。


「すみません……」


「ただ」


 私は主任を見ました。


「義務違反があることと、行政がどんな強制手段でも使えることは別です」


 口に出した瞬間。


 自分で少し驚きました。


 これ。


 たぶん今日の中心です。


 悪いことをした。


 従わなかった。


 だから何をされても仕方ない。


 ではない。


 むしろ強制する側こそ、


 何の義務があるのか。


 どの強制手段を使うのか。


 その手段に法律上の根拠があるのか。


 必要な手続を踏んだのか。


 そこをきっちり分けなければいけない。


 行政って。


 強いからこそ、細かく縛られているんですね。


 片桐所長が主任へ言いました。


「本日は作業を中止してください。市で手続を再確認した上で、必要なら改めて正式に進める。それでいいでしょう」


 主任はしばらく黙っていました。


 やがて。


「……分かりました」


 業者へ向き直ります。


「今日は撤収してください」


 作業員たちは、思ったよりあっさり道具を片づけ始めました。


 たぶん彼らも、揉めた現場で無理に壊したくなかったのでしょう。


 三宅さんは、その様子を見ながら口元を押さえました。


「よかった……」


 私は言いました。


「まだ終わってません」


「分かってます」


「荷物の整理は急いだほうがいいです」


「はい」


「撤去についても、市とちゃんと話しましょう」


「はい」


「今度は書面を一枚ずつ確認しましょう」


「……はい」


 最後の返事は、少し笑っていました。


 そこへ倉田係長が近づいてきます。


「朝比奈さん」


「はい」


「君、本当に見習いか」


「いちおう」


「細かすぎる」


「行政法に褒め言葉として受け取ります」


「褒めてない」


「でも間違ってませんでしたよね」


「……」


 黙りました。


 勝った。


 とは思いません。


 たぶん。


 少しだけ思いました。


 そのとき、相馬先輩が若い市職員の胸元を指さしました。


「ところで」


「はい?」


「今日、執行責任者は誰だった?」


 主任が振り返ります。


「私ですが」


「証票は?」


「……証票?」


 今度は私が主任を見ました。


 主任も私を見ました。


 相馬先輩が淡々と言います。


「代執行の現場で、執行責任者が携帯するやつだよ」


「……」


 沈黙。


 倉田係長が空を見上げました。


 今日は晴天です。


 逃げ場はありません。


「持ってません」


 主任が言いました。


「でしょうね」


 相馬先輩が答えました。


 でしょうね、って。


 先輩、それ追い打ちです。


「何ですか、それ」


 三宅さんが小声で聞きます。


「実際に代執行するときに、責任者が携帯する証明みたいなものです」


「そんなのまであるんですか」


「あるみたいです」


「みたい?」


「昨日まで文字でしか知りませんでした」


 三宅さんが少し笑いました。


「じゃあ、朝比奈さんも今日勉強してるのね」


「ものすごく」


 本当に。


 受験テキストでは、


 執行責任者は証票を携帯し、要求があるときはこれを呈示しなければならない。


 この一文。


 正直、どうでもいい細かい数字問題の仲間だと思っていました。


 でも今日見たら違います。


 誰が責任を持って、人の財産へ実力を加えるのか。


 その人が本当に権限を持っているのか。


 住民側が確かめるための、小さな仕組みなんですね。


 細かい手続。


 でも細かいからこそ、


 「なんとなく市役所の人が来て、なんとなく壊した」


 を防げる。


 それは、かなり大事なことに思えました。


 事務所へ戻ったのは、昼をだいぶ過ぎてからでした。


「腹減った」


 相馬先輩が言いました。


「人の倉庫が壊されるかどうかの横で、先輩ずっとお腹鳴ってましたよね」


「生理現象だ」


「緊張感返してください」


 そこへ三宅さんが、少し遅れて事務所へやって来ました。


 手には小さな紙袋。


「今日はありがとうございました」


「まだ解決してません」


 所長が言います。


「分かってます」


 三宅さんは頷きました。


「でも、今日いきなり壊されなかっただけで十分です。中のものを出す時間ができました」


 それ。


 私は胸の奥で、少しだけ引っかかりました。


 時間。


 今日、私たちが作ったのは、結局それだけかもしれません。


 撤去命令は残っている。


 三宅さんには撤去義務がある。


 市も、正式な手続を踏めば、いずれ代執行できるかもしれない。


 最終的には倉庫はなくなるかもしれない。


 それでも。


 今日と明日の間に、


 写真を取り出す時間ができた。


 帳面を運ぶ時間ができた。


 父親の荷物を、重機ではなく自分の手で片づける時間ができた。


 行政法の手続って。


 結果を変えないこともある。


 それでも、人の扱われ方を変えることはあるんですね。


「これ、よかったら」


 三宅さんが紙袋を差し出しました。


 中には、駅前の老舗パン屋のコッペパンが入っていました。


「父が好きだったんです」


「いただきます」


 私が言うより早く、相馬先輩が袋を開けました。


「ありがとうございます」


「先輩、さっき腹減ったって言ってましたもんね」


「人間、腹が減ると判断を誤る」


「それを今日の教訓みたいに言わないでください」


 三宅さんが笑います。


 朝、電話越しに震えていた声とは違う笑い方でした。


 パンを分けながら、所長が確認します。


「三宅さん。今日は一度止まりましたが、明日から準備しましょう」


「はい」


「まず倉庫の中身を整理する」


「はい」


「それから、市が改めて正式な手続を取るのか確認する」


「はい」


「撤去自体について争う事情があるなら、それも別に考える」


 三宅さんが少し不安そうに言います。


「私、父の命令を放っておいたから……何か罰を受けるんでしょうか」


「そこも別問題です」


 私が口を挟むと、相馬先輩がこちらを見ました。


「ほう」


「何ですか」


「分かってきたな」


 ちょっとだけ嬉しい。


 顔には出しません。


「撤去させるための強制と、過去に命令へ従わなかったことへの制裁って、同じじゃないですよね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「今日、市がやろうとした代執行は、倉庫を撤去するっていう行政目的を将来に向かって実現するためのもの」


「うん」


「それとは別に、過去の違反に何か制裁を科すなら、また別の根拠が要る」


「そのとおり」


 三宅さんは少し困った顔をしました。


「難しいですね」


「難しいです」


 私は即答しました。


「私も今日、やっと少し分かりました」


 昨夜まで。


 行政上の強制手段。


 行政強制。


 行政罰。


 強制執行。


 即時強制。


 代執行。


 執行罰。


 直接強制。


 強制徴収。


 漢字が多い。


 似ている。


 何なら全部だいたい強そう。


 それくらいの印象でした。


 でも今日。


 小さな倉庫の前で見えました。


 行政が人に何かを強制するとき、


 全部を一つの「強制」で済ませてはいけない。


 すでに義務を課したのか。


 その義務が履行されていないのか。


 人の代わりに行政がやるのか。


 身体や財産へ直接実力を加えるのか。


 お金を取り立てるのか。


 それとも、そもそも義務を命じる暇もない緊急事態なのか。


 あるいはもう終わった違反に対して、罰を与えるのか。


 似ているようで、


 全部、入口が違う。


 そして入口が違えば、必要な法律の根拠も、手続も違う。


 だから、


 「命令に従わなかったんだから仕方ない」


 で全部を飲み込んではいけない。


 人が悪いことをしたときほど、


 行政側の手続は雑でよくなる。


 そんなルールではない。


 むしろ逆なのかもしれません。


 人の身体や財産へ強制的に手を伸ばすなら、


 どの手を使うのか。


 なぜその手を使えるのか。


 ちゃんと名前をつける。


 ちゃんと根拠を示す。


 ちゃんと順番を踏む。


 制度の冷たさって、


 こういうところでは人を守るんですね。


 夕方。


 市役所から電話がありました。


 受話器を取ると、倉田係長でした。


『都市整備課で確認しました』


「はい」


『今日は、やはり手続が足りていませんでした』


「やはり」


『嬉しそうに言うな』


「言ってません」


『声がそうだった』


 鋭い。


『正式に戒告からやり直すそうです』


「分かりました」


『それと、三宅さんには事情を聞く時間を取ると』


「それは助かります」


『ただし、撤去命令自体はそのままだ』


「承知しています」


『君、今日はそこをちゃんと分けてたな』


「褒めてます?」


『褒めてない』


 二度目。


 この人、褒めると死ぬ病気でしょうか。


『ただ』


「はい」


『命令があることと、何をしてもいいことは違う。それはこっちも整理し直す』


 私は少し黙りました。


「倉田係長」


『何だ』


「ありがとうございます」


『礼を言われる話じゃない』


 そう言って電話は切れました。


 私は受話器を置きます。


 机の上には、三宅さんが置いていったコッペパンの袋。


 残り一個。


 相馬先輩が、じっと見ています。


「先輩」


「何だ」


「それ私のです」


「名前書いてない」


「共有財産みたいに言わないでください」


「じゃあ強制徴収する」


「行政上の金銭納付義務ですらありません!」


「細かいな」


「今日のテーマを全部雑に混ぜるのやめてください!」


 奥から所長が言いました。


「半分にしろ」


 相馬先輩と私は黙りました。


 合理的。


 そして強い。


 パンを半分に切りながら、私は机の端に置いたノートを開きました。


 真っ白なページ。


 上に一行だけ書きます。


 ――行政上の強制手段。


 その下に、


 代執行。


 と書いて。


 ペンを止めました。


 今日の出来事だけでも、整理したいことが多すぎます。


 撤去命令があるだけで、すぐ代執行できるわけではない。


 まず義務があって。


 それが履行されなくて。


 それでも行政が代わりにできる種類の義務で。


 法律上の根拠があって。


 さらに戒告や通知が必要で。


 例外として、非常の場合や危険が切迫しているときは省略できることがあって。


 執行責任者は証票を持って。


 終わったら費用も徴収する。


 そして、その費用を払わなかったら――


「……あ」


「何だ」


 相馬先輩がパンを頬張りながら言いました。


「まだ続きがある」


「何が」


「代執行費用を払わなかった場合です」


「明日にしろ」


「先輩が言うんですか」


「今日は働いた」


「私もです」


 所長が新聞を畳みます。


「こはる」


「はい」


「今日は一つだけ覚えろ」


「何ですか」


「強制できる、で止まるな」


 私はペンを持ったまま顔を上げました。


「どう強制できるのかまで見ろ」


 短い。


 でも、たぶん今日の全部でした。


 私はノートの余白に、その言葉を書き留めます。


 強制できる、で止まらない。


 どう強制できるのかを見る。


 今日の市役所は、


 撤去命令がある。


 従っていない。


 だから壊せる。


 そう考えていました。


 でも、その間には手続がありました。


 たぶん行政法というのは、


 「AだからBです」


 という直線の途中に、


 本当にBへ行っていいのか確認する関所をいくつも置く法律なんでしょう。


 面倒です。


 ものすごく面倒。


 でも。


 今日、その面倒のおかげで、


 三宅さんは父親の写真を自分の手で取り出せます。


 それなら少しくらい、


 覚える価値はあるのかもしれません。


 私はノートを閉じました。


 明日は、この続きをちゃんと整理しよう。


 行政強制と行政罰。


 強制執行と即時強制。


 代執行と直接強制。


 執行罰の「罰」は、本当の罰なのか。


 過料と科料は何が違うのか。


 税金は行政が直接取り立てられるのに、水道料金はなぜ違うのか。


 考え始めると、また眠くなりそうな名前が列を作っています。


 でも昨日までとは少し違いました。


 もう全部、


 ただの用語には見えません。


 倉庫の前に立つ三宅さん。


 バールを持った業者。


 撤去命令を持つ主任。


 電話だけで「明日壊します」と告げた役所。


 それぞれの顔が浮かびます。


 法律の名前は冷たい。


 強制なんて言葉は、なおさらです。


 でも。


 行政が本当に人へ力を使う瞬間ほど、


 冷たい名前と細かい手続が必要になる。


 たぶん今日の教訓は、そこでした。


「先輩」


「何だ」


「最後のパン、私の半分ちょっと大きくないですか」


「気のせいだ」


「先輩のほうが大きいです」


「目測だろ」


「測ります?」


「そこまでやるな」


 私は定規を取り出しました。


「行政法を舐めないでください」


「パンに適用するな」


 所長がため息をつきました。


「二人とも帰れ」


 その命令には、たぶん逆らわないほうがいい。


 なぜなら片桐行政書士事務所において、


 所長の「帰れ」は、


 かなり直接強制に近いからです。


 ……もちろん、法的には全然違います。


 そこは明日、ちゃんと整理します。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。