[行政計画]現場編 「市の計画が変わっただけです」の罠。町を信じて工場を建てた人と、自由に変えられる計画・変えた責任
役所の「計画」は、地図に線を引くだけでは済まないことがあります。
道路を造ります。
駅前を整備します。
工場を誘致します。
観光地にします。
紙の上では、全部未来の話です。
でも。
その未来を信じて、先に金を使う人がいる。
土地を買う人がいる。
借金する人がいる。
仕事を辞める人だっている。
だから行政の計画というものは、ときどき恐ろしく重い。
――そんなことを、私はその朝まで知りませんでした。
「朝比奈。地図押さえろ」
「はい?」
「飛ぶ」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
九月の朝。
窓から吹き込んだ風が、机いっぱいに広げられた市の再整備計画図を持ち上げました。
私は慌てて両手で押さえます。
「重しとかないんですか」
「お前がいる」
「人間を文鎮扱いしないでください」
相馬先輩は返事もせず、赤鉛筆で駅前の区画を丸く囲みました。
駅。
旧商店街。
市営駐車場予定地。
観光交流館予定地。
そして少し離れた川沿いには、
『新産業振興地区』
と書いてあります。
太い破線に囲まれた、妙に夢のある名前でした。
「新産業振興地区……」
声に出してみる。
なんでしょう。
昭和の役所が付ける名称って、基本的に希望を詰め込みすぎなんですよね。
新。
未来。
振興。
交流。
文化。
だいたいこの辺を二、三個混ぜれば何かできます。
「そこ、今年の春まで工場誘致地区だった」
相馬先輩が言いました。
「だった?」
「今は見直し」
「見直し」
「観光道路のルートが変わってな」
赤鉛筆が、川沿いから大きく迂回しました。
「市は工場より観光施設を優先するらしい」
「へえ」
私は地図を眺めました。
行政計画。
昨夜までなら、その四文字を見ただけで脳が布団を敷き始める単元です。
行政機関が、将来の行政活動について目標を立てる。
都市計画。
土地利用計画。
経済計画。
開発計画。
名前だけ並べれば、眠気の精鋭部隊。
拘束的計画。
非拘束的計画。
はいはい、権利を制限するかどうかね。
――くらいの認識でした。
ところが。
事務所の扉が、乱暴に開きました。
「片桐先生……!」
入ってきたのは、五十歳前後の男性でした。
背広ではない。
紺の作業服。
手には茶封筒。
顔色が悪い。
そして胸元には、小さな金属粉が白く付いていました。
相馬先輩の表情が変わります。
「久世さん」
「市から、これが……」
男性――久世正夫さんは、茶封筒から一枚の紙を出しました。
片桐所長が受け取る。
私は横から覗きました。
『新産業振興施策の見直しについて』
嫌な題名です。
役所の文章は、重大なことほど「見直し」で済ませようとする癖があります。
本文には、こうありました。
財政事情及び駅前観光再整備事業との整合性を踏まえ、川南地区において予定していた製造業誘致施策を終了する。
今後、新規の工場誘致に関する道路整備及び関連助成については実施しない。
「……これ、いつ決まったんですか」
久世さんの声がかすれていました。
「先週です」
「先週?」
「はい」
片桐所長が紙から顔を上げます。
「久世さん。最初から話してください」
久世さんは、一度唇を噛みました。
「二年前です」
そして、ゆっくり話し始めました。
二年前。
市は川南地区への工場誘致を始めた。
工場を呼び込み、雇用を増やす。
そのため道路を拡幅する。
上下水道も整える。
固定資産税の優遇も検討する。
市の担当者は何度も地元企業を回った。
「うちにも来ました」
「誰が」
「当時の商工課長と、企業誘致の担当です」
久世さんは言いました。
「『久世さん、今の工場じゃ狭いでしょう。川南へ出ませんか』って」
久世さんは、小さな金属部品工場を営んでいました。
従業員八人。
自動車部品の下請け。
古い工場は住宅地の中にあり、騒音の苦情も出始めていた。
そんなとき、市から誘いが来た。
『川南地区を市の新しい工業拠点にします』
『進出企業には全面的に協力します』
『道路も整備します』
『これから十年、あそこを育てます』
十年。
その言葉が、久世さんの中に残った。
「それで土地を?」
私が聞くと、久世さんは頷きました。
「二千坪」
「二千……」
「土地だけで三千二百万です」
喉が鳴りました。
昭和六十三年。
三千二百万円。
十八歳見習いの私には、ほぼ天文学です。
「借入れは?」
相馬先輩が聞く。
「土地と建屋と機械で、全部合わせて九千万円くらい」
九千。
私は頭の中でそっと電卓を閉じました。
「工場は?」
「半分できてます」
「半分」
「基礎と鉄骨まで」
久世さんは両手を握りました。
「道路が広がるっていうから、大型トラックが入れる向きで建てたんです。市の担当に配置図も見せました。向こうも『それなら大丈夫』って」
「書面はありますか」
所長が聞きました。
「計画書はあります。市の説明会資料も。あと……」
久世さんは鞄からパンフレットを出しました。
青い表紙。
『川南新産業振興構想』
工場の完成予想図。
広い道路。
緑地帯。
トラック。
笑顔の労働者。
ものすごく未来が約束されています。
昭和のパンフレット、未来に対する信用度が高すぎます。
「市とのやり取りは?」
「手紙が何通か」
出てきた。
商工課からの文書。
『貴社の川南地区への移転につきましては、市といたしましても本施策の趣旨に合致するものとして歓迎いたします』
『造成及び道路整備については、今後の事業計画に沿って進めてまいります』
『ぜひ当地域への進出を具体的にご検討ください』
私は紙を持つ手を止めました。
これ。
ただ「市にはこういう計画があります」と知らせただけじゃない。
かなり具体的に誘っています。
「いつ土地を買ったんですか」
「去年の十一月です」
「工事開始は?」
「今年三月」
「そのころ、市は?」
「何も言いませんでした」
久世さんは顔を伏せました。
「むしろ着工したって言ったら、担当が『完成が楽しみですね』って」
部屋が静かになりました。
完成が楽しみですね。
その六か月後。
計画は終了します。
道路も造りません。
助成もしません。
行政法の教科書にしたら一行でしょう。
行政計画の変更。
でも現場では。
鉄骨が立っている。
銀行の借金がある。
従業員の生活がある。
「市は何て?」
相馬先輩が聞きました。
久世さんが茶封筒を指さします。
「昨日、説明を聞きに行きました」
「それで」
「『計画というものは事情に応じて変更されます』と」
あ。
私の眉が勝手に動きました。
「ほかには?」
「『もともと道路整備を保証した契約ではありません』って」
「……なるほど」
「あと」
久世さんは乾いた笑いを浮かべました。
「『土地を買うと決めたのは久世さんですよね』って」
その瞬間。
相馬先輩の顔から表情が消えました。
怖い。
この人、本気で腹が立つと声じゃなく表情が静かになるんですね。
「誰が言った」
「倉田係長です」
「またあの人ですか」
思わず口から出ました。
この町、市役所に倉田係長しかいないんでしょうか。
いやレギュラーなんですけど。
片桐所長が私を見ました。
「こはる」
「はい」
「どう思う」
来ました。
最近この事務所、私を現地試験会場みたいに使ってません?
でも。
考えます。
行政計画。
計画は将来を見通して作るもの。
事情が変われば、変更されることはある。
行政を十年二十年、過去の計画で縛り続けるわけにはいかない。
だから「計画を変更したから直ちに違法」ではない。
たぶん。
でも。
目の前の久世さんは、市から具体的に誘われた。
長期に続く施策だと言われた。
それを前提に土地を買った。
借金した。
工場を建て始めた。
そこで突然変更。
何も補償なし。
……あれ。
何か。
眠いテキストの端に、こんな判例が――。
「宜野座……」
口から漏れました。
「何だ?」
相馬先輩が聞く。
「いえ、地名です」
「ここは湖西だぞ」
「分かってます」
頭の奥を探ります。
工場誘致。
自治体。
長期間の施策。
勧誘。
それを信頼して企業が投資。
途中変更。
損害。
補償なし。
確か。
「所長」
「何だ」
「行政計画って、変更自体はあり得ますよね」
「ああ」
「でも、市が特定の人に具体的に『この計画に乗ってください』って勧めて、その人が長期継続を信じて大きな投資をした場合……」
私は久世さんを見る。
「計画だから自由に変更できます、で全部終わりにはならないんじゃないですか」
久世さんが顔を上げました。
相馬先輩が腕を組む。
「続けろ」
「たぶん問題は」
私は指を折りました。
「市に計画を絶対続ける義務があるか、だけじゃない」
一つ。
「久世さんに、どこまで具体的な働きかけをしたか」
二つ。
「その働きかけを信じて、どれだけ資金や労力を投入したか」
三つ。
「その投資が、計画がある程度長く続くことを前提にしていたか」
四つ。
「急な変更で、見過ごせない損害が出るか」
そして。
「それなのに、市が何の措置もせず、『自分で決めたんでしょう』で切っていいのか」
所長が小さく頷きました。
「そこだ」
久世さんの肩が、ほんの少し下がりました。
助かった、という顔ではありません。
でも。
自分が全部悪かったわけではない。
そう言われた人の顔でした。
「相馬」
「はい」
「市役所へ行くぞ」
「こはるもだな」
「もちろん」
「ですよね」
最近、驚かなくなってきました。
慣れって怖いです。
市役所の商工振興課。
倉田係長は、私たちを見るなり露骨に嫌な顔をしました。
「また片桐事務所ですか」
「また倉田係長ですね」
「君は一言多いな」
「よく言われます」
所長が久世さんから預かった書類を机に置きました。
「久世製作所の件です」
倉田係長の眉が寄る。
「ああ……」
「道路整備を中止するそうですね」
「正確には、事業計画の見直しです」
ほら来た。
見直し。
役所の万能緩衝材。
「結果として、中止でしょう」
相馬先輩が言いました。
「まあ……そうですが」
「助成も」
「終了します」
「誘致施策も」
「終了です」
「じゃあ中止じゃねえか」
「言葉尻を取らないでください」
「言葉を仕事にしてるんでね」
相馬先輩、今日は最初から切れ味が鋭い。
倉田係長はため息をつきました。
「しかしですね。行政の計画は社会情勢や財政事情で変更されるものです。未来永劫、同じ施策を続けると保証したわけではありません」
所長が答えます。
「それはそうでしょう」
「でしたら」
「変更できることと、変更に伴う責任がないことは別です」
倉田係長が黙りました。
あ。
所長の短いやつ。
刺さった。
「責任、と言われても」
倉田係長は資料をめくりました。
「土地購入を命じたわけではありません。工場建設も市の強制ではない。久世さんの経営判断です」
私は机の上に一通の手紙を置きました。
「これ、商工課名で出してますよね」
『ぜひ当地域への進出を具体的にご検討ください』
倉田係長が止まる。
次。
『貴社の移転計画は、本市の新産業振興施策に合致するものとして歓迎します』
次。
『道路整備については事業計画に沿って進めてまいります』
次。
説明会資料。
『今後十年を見据えた工業拠点形成』
私は聞きました。
「これを出しながら、『市は何も言ってません。勝手に買っただけです』は、ちょっと無理ありませんか」
「勝手とは言ってません」
「似たようなことは言ったそうです」
「……」
倉田係長は唇を結びました。
「それでも、契約書があるわけではないでしょう」
「はい」
私は頷きます。
「だから、道路を必ず造れ、と今ここで言ってるわけじゃありません」
「では何を」
「変更の仕方です」
倉田係長が私を見る。
「市が長期施策として工場進出を勧めて」
私はパンフレットを指で叩きました。
「具体的な誘致までして」
手紙。
「その誘いを前提に巨額の資金を投入した事業者がいて」
建設中の工場写真。
「それを知りながら工事も進んでいて」
そして通知。
「ある日突然、『計画が変わりました。以上』で切る」
私は息を吸いました。
「計画を変更する自由があるからといって、そこまで全部なかったことにできますか」
倉田係長は返事をしませんでした。
代わりに、奥から課長らしい男性が出てきました。
白髪混じり。
眼鏡。
胸元の名札には、
商工振興課長 黒田。
「何の騒ぎだ」
倉田係長が立ちました。
「課長、久世製作所の件で」
「ああ」
黒田課長は私たちを見る。
「もう説明したはずですが」
「説明は聞きました」
所長が言います。
「そこで確認に来ました」
「確認?」
「変更理由です」
黒田課長は眉をひそめました。
「財政事情と駅前再整備です」
「具体的には」
「今年度、国から予定していた補助採択が見送られました。また、新駅前観光道路計画の事業費が膨らんでいる」
「工業地区の整備を続ける余裕がないと」
「そういうことです」
所長は頷きました。
「それはいつ判明しました」
「六月ごろです」
「六月」
私は思わず口を挟みました。
「久世さんの工場、六月時点で鉄骨発注済みですよね」
「その点は把握していません」
「市の担当者、五月に現場見に来てます」
「……」
倉田係長が課長を見る。
空気が変わりました。
「報告してないんですか」
「いや……」
倉田係長の声が小さくなる。
「進出状況については月報に」
黒田課長の目が険しくなりました。
「月報?」
「はい」
「見せてください」
少しして、ファイルが出てきました。
五月。
『久世製作所 造成完了。六月鉄骨工事予定』
六月。
『工事進捗約三〇%。年内操業開始予定』
七月。
『工事進行中』
私は言葉を失いました。
知ってた。
市は知ってたんです。
計画見直しの話が内部で動いている間も。
久世さんが投資を続けていることを。
黒田課長の顔から少しずつ余裕が消えます。
「課長」
相馬先輩が低い声で言いました。
「六月に見直しの検討を始めた」
「……ええ」
「久世さんの工事が進んでるのも知ってた」
「担当レベルでは」
「市として報告受けてるじゃねえか」
「しかし、正式決定前でしたから」
「だから何も言わなかった?」
「検討段階のものを外部へ軽々しく話すわけにはいきません」
「その間にも向こうは金を使ってる」
「……」
倉田係長が小さく言いました。
「課長」
「何だ」
「少なくとも、一度説明は必要だったんじゃないでしょうか」
意外でした。
倉田係長が。
役所側の人が。
こっち寄りのことを言った。
黒田課長が険しい目を向けます。
「倉田君」
「いえ。私は昨日、『自己判断です』と言いましたけど」
倉田係長は苦い顔をしました。
「この月報を見ると……ちょっと違います」
私は少しだけ息を吐きました。
役所の人間だって、一枚岩ではありません。
担当者だって、
決めた側と、
説明させられる側がいる。
所長が静かに言いました。
「今日ここで、計画変更そのものを撤回しろとは言いません」
黒田課長が顔を上げます。
「では」
「まず久世さんとの協議の場を作ってください」
「協議?」
「既に投入した費用」
所長が指を一本立てます。
「道路整備中止によって使えなくなる設計変更費」
二本。
「移転を前提に生じた追加負担」
三本。
「市側の勧誘と久世さんの投資との関係」
所長は手を下ろしました。
「全部整理する」
「補償を求めているんですか」
「今ここで金額を決めろとは言っていません」
「なら」
「何も検討せずに『計画変更だから終わり』は駄目だと言っています」
黒田課長が黙りました。
長い沈黙でした。
遠くで電話が鳴る。
職員が書類をめくる音。
窓の外で、市役所前の銀杏が揺れている。
ようやく。
黒田課長が言いました。
「……副市長まで上げます」
相馬先輩が眉を上げる。
「いつ」
「今週中に」
「書面で」
「分かりました」
「久世さんにも」
「連絡します」
私は内心で、机の下で小さく拳を握りました。
勝った。
――ではありません。
工場への道路が復活したわけでもない。
九千万円の借金が消えたわけでもない。
行政計画の変更が取り消されたわけでもない。
でも。
『市の計画が変わっただけです』
という一言で閉じられかけた扉が。
もう一度、開いた。
事務所へ戻る途中。
久世さんの建設中の工場へ寄りました。
川沿いの広い土地。
鉄骨だけの建物。
まだ壁はない。
青空が骨組みの向こうに見える。
目の前の道路は狭い。
大型トラック同士なら、すれ違うのも難しい。
「これが広がる予定だったんですね」
「はい」
久世さんが言います。
「あそこまで、十二メートル道路になるって」
指さした先。
草地。
用水路。
古い民家。
市のパンフレットでは、そこに立派な道路が描かれていました。
「それを信じたんですね」
そう言ってから。
少し違う気がしました。
信じた。
というと、久世さんだけが勝手に期待したみたいです。
だから言い直します。
「信じるよう、市が勧めたんですね」
久世さんは、少し黙りました。
「そう言ってもらえると……助かります」
「え?」
「昨日からずっと」
久世さんは鉄骨を見上げました。
「俺が馬鹿だったのかなって思ってたんです」
胸が痛みました。
「役所なんか信じるからだ」
「書面で契約もしないで」
「事業なんて変わるのが当たり前だ」
「経営者なら自己責任だ」
きっと。
本人が一番、自分に言っていた言葉です。
「もちろん」
私は言いました。
「事業の判断をしたのは久世さんです」
「はい」
「行政計画だって、絶対に変えちゃいけないものじゃありません」
「……はい」
「でも」
私は鉄骨を見ます。
九千万円。
二千坪。
八人の従業員。
長期計画。
誘致の手紙。
市の担当者の言葉。
「だから全部一人で背負え、とは限らないと思います」
久世さんはしばらく何も言いませんでした。
それから、小さく。
「ありがとうございます」
と言いました。
事務所へ戻ると。
相馬先輩が私の机に缶コーヒーを置きました。
「ほら」
「珍しいですね」
「久世さんからだ」
「やっぱり」
「何を期待した」
「先輩の人間的成長」
「捨てるぞ」
「すみません」
缶はまだ冷たかった。
昭和の缶コーヒー。
甘い。
とても甘い。
法律問題のあとに飲むと、だいたい砂糖が多すぎます。
「でも先輩」
「何だ」
「今日の件、難しくないですか」
「何が」
「行政計画って」
私は机の上に、市のパンフレットを置きました。
「計画なんだから、未来の事情で変わるのは当然ですよね」
「ああ」
「全部絶対守れって言ったら、行政なんて動けない」
「そうだな」
「でも、計画を信じた人がいるから変更できない、ってなったら、それも困る」
「そうだ」
「じゃあ、どこで線を引くんですか」
相馬先輩が缶コーヒーを開けます。
「知らん」
「知らんのかい」
「だからお前が勉強するんだろ」
「先輩、最近それ便利に使ってません?」
奥から所長の声がしました。
「計画そのものと、計画を信じさせた行為を分けろ」
私は振り返りました。
「計画そのものと?」
「行政が将来に向けて施策を決めること」
「はい」
「その施策へ参加するよう、特定の相手へ具体的に働きかけること」
「あ」
「同じではない」
所長はそれだけ言って、帳簿へ視線を戻しました。
私はパンフレットを見ます。
『十年を見据えた工業拠点形成』
『ぜひ当地域への進出を』
『道路整備を進めてまいります』
久世さんは。
単に新聞で市の計画を読んで。
勝手に土地を買ったわけじゃない。
市から個別に誘われた。
何度も説明された。
計画の継続を前提に投資した。
そこが。
たぶん大事なんだ。
「それに」
所長が続けます。
「行政計画にはもう一つ、最初に見ることがある」
「何ですか」
「その計画が国民を拘束するかどうかだ」
あ。
教材の文字が頭に浮かびました。
拘束的計画。
非拘束的計画。
「今日の産業振興構想は?」
「久世さんに工場建設を義務付ける計画じゃない」
「はい」
「土地の使用を法的に制限しているわけでもない」
「じゃあ、基本的には非拘束的な計画……?」
「そういう整理になるだろう」
私はペンを持ちました。
でも所長が言います。
「今日は書くな」
「え?」
「まだ分かってない顔してる」
「顔で判定されました」
「明日整理しろ」
「はい」
「いや、今夜でもいい」
「どっちですか」
「忘れないうちにだ」
この人、前にも同じこと言ってませんでした?
相馬先輩が笑いました。
「所長語だ。『今日中に理解しろ』って意味だ」
「無茶ですね」
「昭和だからな」
「昭和、万能免罪符じゃないですよ」
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
相馬先輩が取る。
「片桐行政書士事務所」
少し聞いて。
こちらを見ました。
「久世さんだ」
「もう?」
「ああ」
相馬先輩は受話器を所長へ渡しました。
所長が短く話す。
「はい」
「……そうですか」
「分かりました」
「では、その場に相馬を」
相馬先輩が露骨に嫌な顔をします。
「俺ですか」
所長は電話を切りました。
「明後日、市が協議するそうだ」
「早い」
「副市長、財政、商工振興課。久世さん側からも資料を出してほしいと」
「補償の話ですか」
「まだ分からん」
所長は言います。
「だが、“何もする必要はない”からは進んだ」
それで十分でした。
今は。
久世さんの工場が完成するか。
道路がどうなるか。
市がどこまで負担するのか。
何も決まっていません。
ただ。
昨日まで久世さんは、
『計画が変わりました』
という一行の向こう側に、置き去りにされていました。
今日は。
『なぜ変更したのか』
『どこまで市が働きかけたのか』
『誰がそれを信頼して投資したのか』
『変更によって何が失われるのか』
その話をする席ができた。
法律って。
ときどき派手な答えを出してくれません。
でも。
話し合う必要すらない、とされた人を。
話し合うべき相手へ戻す。
それだけでも。
かなり大きい。
夕方。
私は事務所の窓から、川南の方を見ました。
もちろん工場までは見えません。
ただ、あの鉄骨の姿が頭に残っていました。
計画は紙です。
でも。
紙を信じて立つ鉄骨は、本物です。
借金も。
土地も。
働く人も。
投入した時間も。
本物です。
だから。
「計画なんだから変わります」
だけでは、たぶん足りない。
変えていいか。
と。
変えたことで生じた損害を放置していいか。
は。
同じ質問ではない。
「こはる」
相馬先輩が呼びます。
「何ですか」
「久世さんから差し入れ」
机の上に置かれたのは、小さな紙袋でした。
開けると。
たい焼き。
「工場の近所の店だってよ」
「嬉しい」
「一個もらうぞ」
「待ってください」
「何だよ」
「今日は私も働きました」
「だから?」
「一人一個」
「俺は二個」
「なぜ」
「明後日の協議に俺が行く」
「未来の労働を先取りして配分しないでください」
所長が奥から言いました。
「三人で分けろ」
「所長の分もあるんですか」
「当然だ」
「何もしてない顔して全部締める人が一番強い……」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
相馬先輩が笑いました。
たい焼きを割る。
湯気。
あんこの匂い。
昭和の夕方は、甘いものに救われる率が高い。
私は一口食べてから。
机の端に置いてあるノートを開きました。
真っ白なページ。
上にだけ、題名を書きます。
――行政計画。
その下に。
少し考えて。
今日は一文だけ書きました。
計画は変更できても、信頼まで無かったことにはできない。
相馬先輩が横から覗きます。
「何だそれ」
「今日の仮まとめです」
「試験答案には書くなよ」
「分かってます」
「で。拘束的計画と非拘束的計画は?」
「それは明日」
「逃げたな」
「現場編なので」
「何だそれ」
危ない。
メタ発言でした。
私は咳払いして、たい焼きを食べます。
昨日まで。
行政計画なんて、役所が将来の方針を決める話だと思っていました。
拘束的。
非拘束的。
法律の根拠。
計画変更。
そんな単語を覚えれば終わりだと。
でも今日。
一枚の計画図の向こう側に。
二千坪の土地がありました。
九千万円の借金がありました。
八人の従業員がいました。
そして。
市に勧められて未来を信じた人がいました。
行政計画は未来について書かれた紙です。
けれど。
その未来を信じて人が動いた瞬間から。
紙の上だけの話ではなくなる。
窓の外。
夕暮れの町では、駅前再整備の看板が街灯に照らされていました。
『明日のまちへ』
大きな文字。
私は少しだけ笑いました。
行政は、未来を描く。
でも。
その未来へ人を誘ったなら。
描き直すときにも。
そこに立ってしまった人を、ちゃんと見なければならない。
今日のところ。
私はそれだけ覚えておくことにしました。
「先輩」
「何だ」
「たい焼き、もう一個ありません?」
「ない」
「本当に?」
「計画変更だ」
「食料配分計画を勝手に変えないでください」
「非拘束的計画だ」
「覚えたての言葉を雑に使わないで!」
奥で、片桐所長が小さく笑いました。
たぶん。
明日はこの続きを、ちゃんと勉強することになりそうです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




