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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

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[行政指導]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ法律の話がしやすくなります。


 電話が減る。


 来客も途切れる。


 窓の外では、西日が商店街の看板を赤く染めている。


 そして私の机の上には。


「……ありません」


「何が」


「コロッケです」


 相馬先輩が新聞から目を上げました。


「昨日食っただろ」


「十二個あったんですよ」


「四人で食った」


「一人三個のはずです」


「そうだな」


「なのに昨日の夕方、残りが二個だった気がするんですけど」


「気のせいだ」


「計算に気のせいはありません」


「行政法の勉強しろ」


「逃げた!」


 都合が悪くなると行政法へ送還する。


 この先輩、実務家として正しいのかもしれませんが、人としてどうなんでしょう。


 私はぶつぶつ言いながらノートを開きました。


 昨日のページには、題名だけがあります。


 ――行政指導。


 その下に、一行。


 「お願いです」と言われたら、「断ったら何が起きますか」と聞く。


 我ながら、受験参考書には載せにくい覚え方です。


 でも。


 昨日の佐伯文子さんの件を思い出すと、これ以上しっくりくる言葉もありません。


 市役所は、六戸のアパートを建てようとしている佐伯さんに対して、


 地域整備協力金として百五十万円を出してほしい。


 そう求めました。


 根拠は、集合住宅建設指導要綱。


 税金ではない。


 法定の負担金でもない。


 役所自身も、


「強制ではありません」


 と言っていた。


 つまり。


 行政指導です。


「相馬先輩」


「何だ」


「まず定義からやります」


「勝手にしろ」


「行政指導とは」


 私はノートに書きながら読み上げます。


「行政機関が、その任務または所掌事務の範囲内で、一定の行政目的を実現するため、特定の者に一定の作為または不作為を求める、指導、勧告、助言その他の行為であって――」


 そこで一度、息を吸います。


「処分に該当しないもの」


「長いな」


「法律の定義はだいたい長いです」


「短く言え」


「役所が、仕事の範囲内で、特定の人に『こうしてくれませんか』と求める。ただし法的な命令ではない」


「それでいい」


 悔しい。


 最初からそれを言わせるために聞いた気がします。


 私はノートに大きく線を引きました。


 まず一つ目。


 行政指導は、行政機関が「任務または所掌事務の範囲内」で行う。


「つまり」


 私は昨日の市役所を思い出します。


「町づくり課が、集合住宅建設に伴う地域整備について協力を求める。これは少なくとも、町づくりの仕事との関係がある」


「そうだな」


「でも、たとえば町づくり課が佐伯さんに『商店街の祭りで焼きそばを売ってください』って求めたら?」


「知らん」


「雑!」


 奥で書類を読んでいた片桐所長が顔を上げました。


「行政指導という概念に入るためには、その行政機関の任務や所掌事務の範囲内である必要がある」


「ですよね」


「行政機関が何か言えば全部行政指導、ではない」


 私は頷いて書き込みます。


 ここ、試験だとかなりいやらしく出そうです。


 役所の人が言った。


 だから行政指導。


 ではない。


 誰が。


 どんな権限や担当事務の範囲で。


 誰に。


 何を求めたのか。


 やっぱり行政法は、肩書より中身です。


「二つ目」


 私はペンを進めます。


「行政指導は、特定の者に対して行う」


「昨日なら?」


「佐伯さんです」


 六戸のアパートを建てる佐伯さんに、


 百五十万円の協力をお願いします。


 それは、特定の相手に向けられたものです。


「じゃあ駅前の掲示板に」


 私は続けます。


「『市民のみなさん、ゴミを減らしましょう』って貼るのは?」


「それを行政指導と言うのか」


「言わない」


 私は自分で答えました。


「不特定多数への一般的な呼びかけだから」


「そうだ」


 片桐所長が短く言います。


 なるほど。


 前に扱った貼り紙の話ともつながってきます。


 行政指導は、特定の者に対するもの。


 ただの啓発や一般広報とは違う。


「行政法って」


 私は呟きました。


「同じ『お願い』でも、誰に言ってるかで分類が変わるんですね」


「だから論点で喋るなと言ってるだろ」


 相馬先輩が言います。


「今まさに論点を整理してるんです!」


「知ってる」


「じゃあ邪魔しないでください!」


 私は三つ目を書きました。


 処分に該当するものは、行政指導ではない。


「これ、昨日いちばん大事だった気がします」


「どうしてだ」


「だって、市役所が佐伯さんに百五十万円を『払え』と法的に命じる処分なら、断ったら義務違反になるかもしれない」


「うん」


「でも行政指導なら、法的拘束力はない」


「そうだ」


 ここです。


 昨日まで、私の頭の中では、


 行政指導=お願い。


 処分=命令。


 くらいの雑な分類でした。


 でも現場では、その違いが百五十万円になる。


 もっと言えば。


 払わなければ水道が引けないかもしれない。


 そう思わされた佐伯さんにとっては、


 生活そのものの違いになります。


 私はノートに書きました。


 行政指導には、原則として法的拘束力がない。


 行政指導を受けた人は、それに従う法律上の義務を当然には負わない。


「だから昨日」


 私は言いました。


「佐伯さんは、協力金を断ることができた」


「そうだ」


「でも」


 ここでペンが止まります。


「これ、法律の根拠がなくても行政指導できるんですよね」


 相馬先輩がこちらを見る。


「お前、昨日それ気にしてたな」


「だって変じゃないですか」


「何が」


「行政は法律に従って動くんですよね。なのに行政指導だけ、法律の根拠がなくてもできる」


 片桐所長が答えました。


「法的に強制しないからだ」


 短い。


 でも核心です。


 行政が国民に義務を課したり、権利を制限したりするなら、法的根拠が重要になる。


 でも行政指導は、


 あくまでお願い。


 助言。


 勧告。


 相手の任意の協力を期待するものです。


 だから。


 法律に、


 「この場合はこの行政指導をしてよい」


 と一個一個書かれていなくても、行政目的の範囲内で行うことができる。


「つまり」


 私は書きます。


 法律の根拠がなくてもできる。


 なぜなら、それ自体には法的拘束力がないから。


「先輩」


「何だ」


「これ、試験だと『行政指導は行政作用だから、必ず法律の根拠が必要である』とか出そう」


「出そうだな」


「怖いですね」


「試験はお前を怖がらせるためにあるんじゃない」


「でもだいたい怖いことしてきますよ」


 私は次へ進みました。


「じゃあ、一番大事なところ行きます」


「何だ」


「任意性」


 昨日。


 市役所は佐伯さんに言いました。


 強制ではありません。


 ただ。


 協力していただけないと、今後の手続が円滑に進むか分かりません。


 水道の接続もあります。


 皆さん払っています。


 佐伯さんだけ例外というわけにもいかないでしょう。


「これ」


 私は言いました。


「形式だけ見れば行政指導ですよね」


「ああ」


「でも、実際にはかなり断りにくい」


「そうだな」


 私はノートに丸をつけます。


 行政指導は、相手方の任意の協力によって実現されるもの。


 だから。


 任意と言いながら、実際には断れないように圧力をかける。


 それでは行政指導の性質と矛盾します。


「所長」


「何だ」


「たとえば佐伯さんが協力金を払わなかったとして」


「うん」


「それだけを理由に、水道の接続を拒否する」


「問題になる」


「建築関係の手続をわざと止める」


「それもだ」


「担当者がずっと窓口で嫌な顔をする」


「それは法的評価が難しい」


「ですよね」


 そこは何でも違法にできるわけではない。


 でも少なくとも。


 行政指導に従わないことを理由として、


 別の法制度を使って相手へ不利益を与える。


 そうなれば、


「強制ではありません」


 という建前は、かなり怪しくなります。


 私は昨日の片桐所長の言葉を思い出しました。


 ――お願いを、別の制度で強制するな。


 これ、本当に分かりやすい。


「行政指導って、柔らかいから便利なんですね」


 私は言いました。


「何が」


「命令しなくても話し合いで解決できる。法律に全部書かなくても、その場に応じた助言ができる」


「その代わり?」


「柔らかいままでいないといけない」


 所長がこちらを見ました。


「そういうことだ」


 私は少し嬉しくなりました。


 たぶん。


 昨日までなら、


 行政指導は非権力的な事実行為。


 という言葉だけ丸暗記していました。


 今は違います。


 非権力的。


 つまり。


 力で従わせるものではない。


 それが行政指導の強みであり、限界でもある。


「でも」


 私は次のページを開きました。


「ここからが怖いところですよね」


 相馬先輩が嫌そうな顔をします。


「まだあるのか」


「判例があります」


「出たな」


「行政法のラスボスみたいな言い方やめてください」


 私はノートに書きました。


 病院開設中止勧告事件。


「名前からして行政指導っぽいですね」


「どういう事件だ」


 相馬先輩が聞きました。


 珍しくちゃんと聞いています。


「病院を開こうとする人に、行政側が『病院の開設を中止してください』と勧告した事件です」


「勧告なら行政指導だろ」


「原則はそうです」


 医療法上。


 その勧告自体は、


 任意に従うことを期待する行政指導。


 法的には、


 絶対に従わなければならない命令ではない。


 でも。


「問題は、その先です」


「何が起きる」


「その勧告に従わず病院を開設すると、保険医療機関の指定を受けられなくなることがある」


 相馬先輩の顔が少し真面目になります。


「それはきついな」


「ですよね」


 健康保険や国民健康保険を使えない病院。


 実際には。


 かなり厳しい。


 患者さんの多くは保険診療を利用する。


 保険医療機関として指定されない病院は、経営上ほとんど成り立たない。


「じゃあ」


 私は言いました。


「形式上は『病院をやめてください』という勧告。でも従わなければ、実際には病院経営が極めて困難になる」


「断れるようで断れない」


「そうです」


 ここで。


 最高裁は。


 その病院開設中止勧告について、


 抗告訴訟の対象となる行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為に当たると判断しました。


 私はノートに二重丸をつけました。


「ここ、試験で大好きなところですよね」


「お前は試験を人みたいに言うな」


「だって絶対好きですよ。『行政指導は処分ではない』と覚えた受験生に、急にこの判例を投げてくるんですよ」


「性格悪いな」


「そうでしょう?」


「試験のな」


「誰の話してると思ったんですか」


 私は改めて整理します。


 原則。


 行政指導は処分ではない。


 だから通常、抗告訴訟の対象にならない。


 でも。


 形式が「勧告」だから。


 名前が「行政指導」だから。


 必ず処分性が否定されるとは限らない。


 実際にどんな法的・実際的効果をもたらすのか。


 そこを見る。


「つまり」


 私は昨日の佐伯さんに置き換えます。


「もし市役所の協力金のお願いが、本当にただのお願いなら行政指導」


「うん」


「でも、払わなかったら必ず水道の給水を拒否される仕組みになっていて」


「うん」


「水道がなければアパートなんて事実上建てても使えない」


「うん」


「そこまで強い効果が結びついていたら?」


 片桐所長が言いました。


「単純に『行政指導だから処分ではない』で終わらせるな」


「ですよね」


 私は大きく書きました。


 名前ではなく、実質を見る。


 行政法って。


 この言葉、何回出てくるんでしょう。


 たぶん最後まで出てきます。


「もう一つ判例があります」


「まだあるのか」


「教育施設負担金事件」


「昨日そのままだな」


 そう。


 驚くほど昨日の佐伯さんの事件に近い。


 市がマンションを建てようとする事業者に対し、


 指導要綱に基づいて教育施設負担金の寄付を求めた。


 ここまでは、


 昨日の地域整備協力金とほとんど同じです。


「でも」


 私は続けます。


「その指導要綱に従わない事業者に、水道の給水を拒否するなどの制裁措置を背景にしていた」


「水道、また出たな」


「出るんですよ」


 しかも。


 実際に従わない事業者が建築したマンションについて、水道の給水などを拒否していた。


 つまり。


 建前だけではない。


 現実に、


 従わなければ困る。


 という状態を作っていた。


「それじゃ寄付じゃないな」


 相馬先輩が言いました。


「そうなんです」


 寄付。


 協力。


 お願い。


 言葉だけなら任意です。


 でも。


 断れば水が来ない。


 建物が使えない。


 事業が成り立たない。


 それでは、


 実際には選択肢がありません。


 最高裁は、


 そのような行為について、


 行政指導の限度を超えた違法な公権力の行使に当たるとしました。


「じゃあ昨日」


 私は言いました。


「市役所がちゃんと『協力金を払わなくても、それだけを理由に水道その他の手続で不利益には扱わない』と整理したのは、大事だったんですね」


「そういうことだ」


 片桐所長が頷きます。


「行政指導は、従わせるために他の権限を乱用していい制度じゃない」


 なるほど。


 制度の冷たさが、また一つ人を守る形になりました。


 行政側にも事情はある。


 住宅が増えれば、


 道路。


 ごみ。


 学校。


 水道。


 公園。


 いろいろな負担が増える。


 だから協力を求めたい。


 それは分かる。


 でも。


 だからといって、


 法的義務ではない負担を、


 水道や別の手続を人質にして支払わせていいことにはならない。


 ここに線を引く。


 その線が、


 行政指導の任意性なんだと思います。


「先輩」


「何だ」


「行政指導って、断ったら即終了しないといけないんですか」


「どういう意味だ」


「相手が嫌だと言ったら、行政はもう何も言えない?」


 相馬先輩は所長を見ました。


 逃げた。


 片桐所長が答えます。


「行政指導自体を続けることが直ちに許されないとは限らない」


「ですよね」


「ただし、相手の意思を無視して事実上強制するところまで行けば問題になる」


「線引きですね」


「ああ」


 行政は説明することができる。


 もう一度お願いすることもある。


 利害関係を調整することもある。


 そのための柔軟な手段が行政指導です。


 でも。


 お願いと強制の境目は、


 相手が現実に自由に選べるかどうか。


 そこにあります。


「じゃあ、試験向けに整理します」


 私はページの中央に大きく書きました。


 行政指導。


 まず。


 行政機関の任務または所掌事務の範囲内。


 次に。


 一定の行政目的を実現するため。


 そして。


 特定の者に対して。


 一定の作為または不作為を求める。


 指導、勧告、助言その他の行為。


 ただし。


 処分に該当しないもの。


「ここまでが定義」


「うん」


「性質として」


 法的拘束力はない。


 法律上の根拠がなくても行うことができる。


 非権力的な事実行為。


 相手方の任意の協力を前提とする。


 そして原則として。


 抗告訴訟の対象となる処分には当たらない。


「でも例外的に」


 私は大きく矢印を引きました。


 形式上は勧告などでも、


 従わないことで重大な不利益が事実上避けられず、


 実質的に相手の権利義務に強い影響を与える場合には、


 処分性が認められることがある。


「病院開設中止勧告事件ですね」


「ああ」


「それから」


 行政指導の名の下に、


 従わない相手へ給水拒否などの制裁を加え、


 事実上従わせる。


 そこまで行けば。


 行政指導の限度を超えた違法な公権力の行使となり得る。


「教育施設負担金事件」


「そうだ」


 かなり整理できてきました。


 でも。


 私はまだ一つ引っかかっていました。


「所長」


「何だ」


「昨日の佐伯さんの件って」


「うん」


「市役所が『百五十万円を払ってください』って言っただけなら行政指導ですよね」


「ああ」


「もし『払わないなら水道は絶対につなぎません』って正式に決定したら?」


「それは別の問題になる」


「給水拒否という行政上の判断自体が、適法かどうかを検討する」


「はい」


「つまり」


 私は書きます。


 一つの事件の中でも、


 行政指導。


 処分。


 事実行為。


 別の制度上の決定。


 これらが混ざることがある。


 だから。


 「役所に何か言われた」


 という一塊で見てはいけない。


 何をされたのか。


 どの行為を争うのか。


 どの行為に法的効果があるのか。


 そこを切り分ける。


「行政法って」


 私はため息をつきました。


「本当に“切り分ける学問”ですね」


「今さらか」


「今さらです」


 昨日。


 佐伯さんは、


「役所から百五十万円払えって言われた」


 と思っていました。


 でも。


 中身を分けると。


 百五十万円の協力要請。


 これは行政指導。


 法的拘束力はない。


 建築に必要な各種手続。


 これはそれぞれ別の法令に基づいて判断される。


 水道接続。


 これもまた別。


 行政指導に従わないことだけを理由として、それらを不当に不利に扱うことは許されない。


 そう分けた瞬間。


 一つの巨大な「役所の駄目」が、


 いくつもの小さな論点にほどけた。


 私は、そこに少しだけ昨日のカタルシスを思い出しました。


 法律が何かを魔法みたいに解決したわけじゃない。


 ただ。


 混ざっていたものを分けただけ。


 なのに。


 人は、それだけで少し自由になります。


「受験生向けの引っかけ、最後にやります」


 私は言いました。


「勝手にしろ」


 相馬先輩がもう完全に付き合う気を失っています。


「第一問」


「聞いてない」


「行政指導は行政作用なので、必ず法律の根拠を必要とする」


「誤り」


「正解」


「第二問」


「続くのか」


「行政指導は法的拘束力がないので、相手方はそれに従う法的義務を負わない」


「正しい」


「基本は正解」


「基本は?」


「例外的に処分性が認められる判例があるから、何でも一言で処理しない」


「面倒くさいな」


「行政法ですから」


「第三問」


「まだあるのか」


「行政指導は不特定多数に向けて行われる一般的な啓発活動も含む」


「誤り」


「特定の者に対する行為です」


「第四問」


 私は少し意地悪く笑います。


「行政庁が『勧告』という名前をつけた行為は、必ず行政指導であり処分性はない」


「誤り」


「おお」


「病院のやつだろ」


「覚えてるじゃないですか!」


「お前がしつこいからな」


 ちょっと嬉しい。


「第五問」


「最後にしろ」


「行政指導に従わない事業者に水道を供給しないことによって、事実上行政指導に従わせても、行政指導自体に法的拘束力がない以上、問題はない」


「誤り」


「理由は?」


「そんなもん、お願いじゃないからだろ」


 私はペンを止めました。


 そして笑いました。


「完璧です」


「なら終われ」


「先輩、行政法向いてますね」


「嫌な呪いかけるな」


 私はノートを見返しました。


 昨日まで。


 行政指導という言葉は、


 教科書の余白にいる地味な存在でした。


 処分じゃない。


 強制力ない。


 はい終わり。


 でも。


 現場では違います。


 行政指導は。


 法律による強制の一歩手前で、


 行政と住民が話し合うための柔らかい道具です。


 柔らかいから便利。


 柔らかいから、人の事情に合わせられる。


 でも。


 柔らかい道具だからこそ、


 行政側が力を入れすぎれば、


 簡単に形が変わる。


 お願いが圧力になる。


 助言が命令になる。


 勧告が、実際には断れない通告になる。


 私はノートの最後に。


 一行の覚え書きを書きました。


 ――行政指導は「従わせる制度」ではなく、「選べるまま協力を求める制度」。


「長いな」


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「じゃあ先輩なら?」


「『お願いは、断れて初めてお願い』」


 私はしばらく黙りました。


「……そっちの方がいい」


「だろ」


「腹立つ」


「何でだよ」


 私は自分の一行を消して、書き直しました。


 ――お願いは、断れて初めてお願い。


 そして、その下にもう一行。


 ――「行政指導だから処分ではない」と、名前だけで決めない。実際に何が起きるかを見る。


 片桐所長がそれを見ました。


「それでいい」


 外はもう暗くなっていました。


 昭和六十三年の町。


 駅前では再整備の話が進み。


 集合住宅が建ち。


 店が増え。


 道路が変わる。


 これから行政は。


 もっとたくさんの人へ、


 お願いをするのでしょう。


 協力してください。


 控えてください。


 変更してください。


 少し待ってください。


 制度は。


 命令だけでは回らない。


 人同士が譲り合わなければ進まないこともある。


 だから行政指導は必要です。


 でも。


 必要だからこそ。


 それが命令のふりを始めたとき、


 誰かが止めなければならない。


 法的拘束力はない。


 その冷たい一文は。


 行政を弱くするためにあるのではなく。


 お願いを、


 お願いのまま保つためにあるのかもしれません。


「こはる」


「はい」


「帰るぞ」


 相馬先輩が上着を取ります。


「ちょっと待ってください。ノートしまいます」


「早くしろ」


 私はノートを閉じました。


 そのとき。


 机の引き出しの奥から。


 紙袋が見えました。


「……先輩」


「何だ」


「これ何です?」


「知らん」


 引っ張り出す。


 油の染みた紙袋。


 中を見る。


 コロッケ。


 一個。


 私はゆっくり相馬先輩を見ました。


「最後の一個、隠しましたね?」


「証拠は?」


「現物があります」


「拾得物だ」


「事務所の引き出しから出てきました!」


「任意に俺へ返却を求める行政指導か?」


「違います」


「じゃあ従わない」


 私はコロッケを持ち上げました。


「これは私が食べます」


「待て」


「お願いですか?」


「返せ」


「処分ですか?」


「命令だ」


「法的根拠は?」


「俺が買った」


「……え?」


「昨日の帰りに一個追加で買った」


 沈黙。


「じゃあ先輩のですね」


「最初からそう言ってる」


「言ってません」


「返せ」


「はい」


 私は素直に返しました。


 相馬先輩が勝ち誇った顔でコロッケを受け取ります。


 そして。


 半分に割りました。


「食うか」


「……いいんですか?」


「任意に協力してやる」


「その言い方、今日だけはやめてください」


 半分のコロッケは、少し冷めていました。


 でも。


 昨日より、ちゃんと味がしました。


 お願いは。


 断れて初めてお願い。


 そして。


 断れる相手に差し出されたものだからこそ。


 受け取る側も、


 少し素直に「ありがとう」と言える。


 行政指導。


 昨夜まで眠かった四文字は。


 今夜はもう。


 たぶん、忘れません。

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