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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

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21/272

[行政指導]現場編 「お願いですが、従わないなら水道は難しい」の罠。任意の協力と事実上の強制を分ける、“お願い”の顔をした行政

挿絵(By みてみん)

 役所の「お願い」は、ときどき断れない顔をしています。


「強制ではありません」


「ご協力をお願いします」


「あくまで指導です」


 柔らかい言葉です。


 柔らかいんですけど。


 その直後に、


「ただ、従っていただけない場合は……」


 と続いた瞬間。


 お願いは、急に牙を生やします。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所で働き始めてから、私は役所の言葉には裏面があることを知りつつありました。


 表面だけ読んではいけない。


 誰が言ったのか。


 何を根拠に言ったのか。


 断ったら何が起きるのか。


 そこまで見て、ようやく一枚の文章になる。


「こはる」


「はい」


「それ、三回目だぞ」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がです?」


「同じところを雑巾で拭いてる」


 私は自分の手元を見ました。


 事務所の応接机。


 さっきから右上の十五センチ四方だけが、異様につやつやしています。


「……考え事してました」


「仕事しながら考えるな」


「仕事って机拭きですけど」


「机拭きも仕事だ」


「昭和、労務管理が厳しい」


「お前は意味不明なこと言ってないで茶を入れろ」


 今日も先輩は通常運転です。


 私は雑巾を絞りながら、机の端に置いてある行政法の本をちらりと見ました。


 行政指導。


 昨夜読んだところです。


 行政機関が、一定の行政目的を達成するために、特定の人へ指導したり、勧告したり、助言したりする。


 ただし、処分ではない。


 法的拘束力もない。


 つまり。


 役所版の「できればお願いします」。


 ――というところまで読んで、私は寝ました。


 いや、大事なんですよ。


 分かっています。


 ただ、「法的拘束力のない行政作用」って文字だけ見ると、ものすごく眠い。


 眠気に法的拘束力がありました。


 そのとき。


 事務所の引き戸が、勢いよく開きました。


「先生、ちょっと助けてください!」


 入ってきたのは、五十代くらいの女性でした。


 小柄で、髪を後ろでまとめています。


 両手には茶色い封筒。


 そして顔には、


 役所から帰ってきた人特有の、


 「何を言われたのか分からないけど、とにかく駄目っぽかった」


 という疲労が浮かんでいました。


 片桐所長が奥から顔を出します。


「佐伯さん」


「先生」


 女性――佐伯文子さんは、ほっとしたように息を吐きました。


「市役所で変なこと言われたんです」


「座ってください」


 私はすぐにお茶を出しました。


 相馬先輩は新聞を畳みます。


「何やるんです?」


 佐伯さんは封筒から図面を出しました。


「うちの裏に、小さいアパートを建てるんです」


「アパート?」


「六戸だけです」


 佐伯さんのご主人は三年前に亡くなったそうです。


 自宅の裏には、昔、家族で畑に使っていた土地がある。


 子ども二人はもう独立した。


 佐伯さん自身は、この先も一人で暮らしていく。


 そこで。


 老後の足しになればと、土地の一部に二階建て六戸の小さな賃貸住宅を建てることにした。


 派手な開発ではありません。


 高層マンションでもない。


 町でよく見かける、外階段のついた小ぶりなアパートです。


「建築屋さんとも話が進んで、銀行にも相談して……」


 佐伯さんが封筒を握ります。


「それで、市役所へ相談に行ったんです」


「はい」


「そしたら、町づくり課の人に言われました」


 佐伯さんは声を落としました。


「地域整備協力金を出してくださいって」


 私は首をかしげました。


「協力金?」


「百五十万円です」


「……六戸で?」


「ええ」


 結構な額です。


 相馬先輩の眉が動きました。


「条例?」


「分かりません」


「納付書は?」


「ありません」


「請求書は?」


「それも」


 相馬先輩と私は顔を見合わせました。


 片桐所長が静かに聞きます。


「役所から書面はもらいましたか」


「これだけです」


 差し出されたのは、一枚のコピーでした。


 題名。


 ――集合住宅建設に伴う地域整備協力について。


 その下には、


 道路。


 公園。


 学校。


 ごみ集積所。


 水道。


 そうした公共施設への負担が増えるため、一定規模以上の住宅建設を行う事業者に対して協力を求める旨が書かれていました。


 そして下部には、


 戸数に応じた協力金額。


 六戸なら百五十万円。


「……これ、条例番号とかないですね」


 私が言うと、相馬先輩が紙を取りました。


「要綱って書いてある」


 確かに。


 隅に小さく、


 集合住宅建設指導要綱。


 とありました。


 要綱。


 役所の仕事ではよく出てくる言葉です。


 でも。


「佐伯さん」


 私は聞きました。


「百五十万円を払わないと、アパートは建てられないって言われたんですか?」


「そこなんです」


 佐伯さんの表情が曇りました。


「最初は『強制ではありません』って言われました」


「はい」


「だから私、『じゃあ払えません』って言ったんです」


「はい」


「主人が残したお金もそんなにないし、銀行から借りる金額だって決まってますから」


 そこで。


 担当者の表情が変わったそうです。


『もちろん任意です。ただ……』


 佐伯さんは、そのときの口調を真似しました。


『協力いただけないとなると、今後の手続が円滑に進むかどうかは分かりません』


 私は眉を寄せました。


「今後の手続?」


「私も聞いたんです」


『何が進まないんですか』


 すると。


『水道の接続などもありますしね』


 と言われた。


 部屋が静かになりました。


 相馬先輩が椅子の背にもたれます。


「……水道か」


「はい」


「具体的に、給水しないと言われました?」


「そこまでは」


 佐伯さんは首を振りました。


「でも、『協力していただいている方との公平もありますから』って」


「公平」


「それで最後に」


 佐伯さんは唇を噛みました。


『皆さん協力されています。佐伯さんだけ例外というわけにもいかないでしょう』


 私は思わず目を閉じました。


 うわあ。


 出ました。


 日本社会でトップクラスに断りにくい呪文。


 ――皆さんやっています。


 法令より効くときがあります。


「先生」


 佐伯さんが片桐所長を見ました。


「これ、払わないと駄目なんでしょうか」


 片桐所長はすぐには答えませんでした。


「町づくり課で、何と説明されましたか」


「協力金です」


「税金ではない?」


「違うと言ってました」


「負担金でもない?」


「役所の人は、『寄付に近いものです』って」


 寄付。


 その言葉に。


 昨夜まで眠気を誘っていた一行が、頭の中でむくりと起き上がりました。


 行政指導。


 特定の人に対し。


 一定の行政目的を実現するため。


 作為または不作為を求める。


 ただし。


 処分ではない。


 法的拘束力もない。


 私は口を開きました。


「所長」


「何だ」


「これ、行政指導じゃないですか」


 相馬先輩が私を見る。


「根拠は」


「だって、“協力してください”ですよね」


「だから?」


「しかも税でも法定の負担金でもなく、要綱に基づく協力金。特定の建築主に対して、町づくりのために支払ってほしいと求めてる」


「うん」


「それなら、少なくとも説明どおりなら……」


 私は佐伯さんの紙を指しました。


「断れるはずです」


 佐伯さんが目を見開きました。


「断っていいんですか?」


「行政指導なら、です」


 そこは慎重に。


 超重要。


 名前だけ見て断言すると死ぬ。


 行政法は毎回そこを狙ってきます。


 片桐所長が頷きました。


「まず市役所に確認する」


「先生」


 佐伯さんが不安そうに言います。


「でも水道を止められたら……」


「そこも確認します」


 所長の声は静かでした。


「“任意です”と言いながら、断ったことで別の手続に不利益を与えるなら、話は変わる」


 私はその言葉で、背中がぞくっとしました。


 行政指導。


 法的拘束力はない。


 だったら。


 行政側が、


 言うことを聞かなければ困るぞ。


 と実質的な圧力をかけ始めた瞬間。


 それはもう、


 単なるお願いとして扱っていい話じゃない。


「相馬」


「はいよ」


「行くぞ」


「市役所?」


「ああ」


「こはるも」


「ですよね」


 最近、所長の「こはるも」が早い。


 研修というより連行です。


 市役所の町づくり課。


 午後二時。


 窓口には「快適な住環境づくりにご協力ください」というポスターが貼ってありました。


 快適な住環境。


 文字は爽やか。


 今の私には百五十万円と読めます。


「佐伯文子さんの集合住宅について確認したい」


 相馬先輩が名刺を出しました。


 対応に出たのは若い男性職員でした。


「ああ、佐伯さんの件ですか」


「地域整備協力金って、何です?」


「市の指導要綱に基づいてお願いしているものです」


「法的な納付義務は?」


 若い職員が一瞬止まります。


「……義務という言い方ではありません」


「じゃあ任意?」


「まあ、行政指導という形です」


 やっぱり。


 私は思わず身を乗り出しました。


「では、佐伯さんが応じないと言った場合、それだけを理由に建築関係や水道関係の手続で不利益を受けることはありますか」


 職員の視線がこちらへ向きます。


「あなたは?」


「片桐事務所の見習いです」


「見習い……」


 なぜそこでちょっと不安そうな顔をするんでしょう。


 私も不安です。


「いや、ただですね」


 職員は言いました。


「これまで皆さんにご協力いただいていますので」


 来た。


 皆さん。


 行政法最大の非条文化規範。


「それは分かります」


 私は言いました。


「でも、“皆さん払っています”と、“払う法的義務があります”は別ですよね」


 職員が黙りました。


 相馬先輩が少し笑います。


「お前、今日はよく喋るな」


「昨日勉強したところなので」


「現場で口頭試験すんな」


 でも若い職員は、だんだん困った顔になってきました。


「いや、うちだけで決めてるわけじゃないんですよ」


「じゃあ誰が?」


「係長を呼びます」


 数分後。


 出てきた顔を見て、私は少し驚きました。


「……倉田係長」


「また君か」


 商工観光課から異動したのか、兼務なのか。


 役所というのは、ときどき同じ人が別の窓口から出てきます。


 町が小さいからでしょう。


 あるいは私たちが面倒案件へ吸い寄せられているだけかもしれません。


「片桐先生」


 倉田係長は所長へ軽く頭を下げました。


「今日は何です」


「佐伯文子さんの件です」


 所長が協力金の紙を置きます。


「これは行政指導ですか」


「そうです」


 即答でした。


「強制ではありません」


「なら、応じないことはできますね」


「制度上は」


 私は引っかかりました。


 制度上は。


 その二文字、嫌な予感しかしません。


 相馬先輩も同じらしく、すぐに聞き返します。


「制度上は、って何だ」


「現実には、町づくりは皆さんの協力で成り立っているということです」


「だから?」


「一件だけ負担しないとなれば、不公平感も出ます」


「それは行政側の事情だろ」


「もちろんです。ただ」


 倉田係長は少し声を落としました。


「水道局との協議も必要ですし」


 来ました。


「協力金を払わないと水道が引けないんですか」


 私が聞く。


「そうは言っていません」


「じゃあ引けるんですね?」


「それは水道局の判断です」


「町づくり課から水道局へ、“協力金未納”を連絡するんですか?」


 倉田係長は答えませんでした。


 沈黙。


 行政実務では、たまに書面より雄弁です。


 片桐所長が言いました。


「係長」


「はい」


「整理しましょう」


 来た。


 所長の「整理しましょう」は、だいたい誰かが逃げられなくなる合図です。


「市は、佐伯さんに百五十万円を払うよう求めている」


「はい」


「法令上の義務ではない」


「はい」


「処分でもない」


「はい」


「行政指導として協力を求めている」


「そのとおりです」


「ならば、佐伯さんには応じない選択肢がある」


 倉田係長が息を吐きます。


「理屈ではそうです」


「理屈ではなく、制度上そうなんでしょう」


 静か。


 でも重い。


 倉田係長は言葉に詰まりました。


 所長は続けます。


「その一方で、応じなければ水道接続その他の手続が不利になると受け取れる説明をしている」


「不利にするとは言っていません」


「では、しないんですね」


「……」


「協力金に応じなかった事実だけを理由に、不利益な扱いはしない。そう理解してよろしいですか」


 倉田係長が黙ります。


 相馬先輩が肘を窓口へつきました。


「簡単な質問ですよ」


 圧を足さないでください。


 十分効いてます。


 倉田係長はしばらく考えたあと、言いました。


「少なくとも町づくり課としては、協力金を支払わないことだけを理由に、法令上可能な手続を拒むことはしません」


 その瞬間。


 私の中で何かが、ぴたりとはまりました。


 ああ。


 これだ。


 昨夜テキストで、


 行政指導には法的拘束力がない。


 と読んだとき。


 私は、


 じゃあ無視すればいいじゃん。


 くらいに思っていました。


 でも現実では、そんなに簡単じゃない。


 役所に「ご協力を」と言われる。


 断ったら何か不利になるかもしれない。


 申請が遅れるかもしれない。


 別の手続で嫌な顔をされるかもしれない。


 そう思えば。


 法的拘束力がなくても、人は従います。


 だから。


 行政指導が任意だということは、


 ただ紙の上で、


 「強制ではありません」


 と書けば済む話じゃない。


 本当に断れる余地がなければ。


 その「お願い」は、お願いの顔を失う。


「もう一つ」


 私は言いました。


 倉田係長が、露骨に嫌そうな顔をしました。


 最近ちょっと関係性ができてきています。


「何だね」


「佐伯さんに、行政指導の趣旨と内容をちゃんと説明してもらえませんか」


「説明はしました」


「『百五十万円お願いします』だけじゃなくてです」


 私は紙を指しました。


「なぜ求めるのか。何を根拠にしているのか。従わない場合に法的義務違反になるのかならないのか。そこをはっきり」


「……君は細かいな」


「行政法って細かいところが本体じゃないですか」


「誰に教わった」


「昨日の私です」


「知らんがな」


 関西人でもないのに倉田係長がそんな顔をしました。


 相馬先輩が横から言います。


「書面で出せます?」


「何をです」


「行政指導の内容」


「そこまで必要ですか」


「口で言った言わないになるからな」


 倉田係長は額を押さえました。


「分かりました」


 少し考え、


「協力金の趣旨と、法的な強制納付ではないことについて、文書を作ります」


「それから」


 片桐所長が言います。


「水道の件も切り離してください」


「切り離す?」


「協力金への対応と、給水が可能かどうかは、別の根拠で判断する」


「それは……」


「当然でしょう」


 所長は短く言いました。


「お願いを、別の制度で強制するな」


 私は心の中で膝を叩きました。


 それです。


 今日の全部、それです。


 倉田係長は反論しませんでした。


 ただ、しばらく紙を見つめて。


 やがて小さく頷きました。


「水道局には、こちらから余計な連絡はしません」


「元々、何か言う予定だったんですか?」


 私が聞くと。


「君は本当に余計なことを聞くな」


「褒め言葉として受け取ります」


「違う」


 でも。


 倉田係長の口元が、ほんの少しだけ緩みました。


 完全な悪人ではない。


 たぶん倉田係長だって、市の事情を背負っています。


 新しい住宅が増えれば道路もいる。


 ごみ処理も増える。


 学校や公園の負担だってある。


 財政に余裕があるわけでもない。


 だから建築主にも協力してほしい。


 その気持ちは分かる。


 問題は。


 協力をお願いすることと、


 断れない形にすることは、


 同じではない。


 その線を越えると。


「自主的にお願いします」


 という一言では済まなくなる。


 事務所へ戻ると。


 佐伯さんは落ち着かない様子で待っていました。


「どうでした」


 片桐所長が椅子へ座ります。


「百五十万円を払う法的義務がある、という話ではありませんでした」


 佐伯さんの肩が少し下がりました。


「じゃあ……払わなくても?」


「行政指導として協力を求めている、という説明です」


「断れるんですか」


「断ること自体はできます」


 佐伯さんは、今度こそ大きく息を吐きました。


「よかった……」


「ただし」


 所長が続けます。


「アパート建設に必要な別の法令上の手続まで不要になるわけではありません」


「あ」


「建築、水道、道路その他、必要なものは一つずつ確認します」


「はい」


「協力金を断ることと、正規の手続を守ることは別です」


 佐伯さんは何度も頷きました。


 そこ、大事。


 行政指導が任意だから、


 役所の言うこと全部無視していい。


 ではありません。


 雑にまとめるとすぐ事故る。


「でも」


 佐伯さんは少し迷ってから言いました。


「私、払う気がないわけじゃないんです」


「え?」


「本当に町のために必要で、余裕があれば少しくらい協力してもいいと思ってます」


 私は少し意外でした。


 佐伯さんは続けました。


「ただ、今日役所で言われたときは、払わないと水も引けないのかと思って」


「怖かったんですね」


「ええ」


「それは全然違います」


 私は言いました。


「払うかどうかを考えるのと、払わないと困らせるぞって思わされて払うのは」


 佐伯さんがゆっくり頷きます。


「そうね」


 それから笑いました。


「同じ百五十万円でも、ずいぶん違うわね」


 本当にそうです。


 お金の額は同じ。


 書類も同じ。


 でも。


 自分で選んで払うのか。


 断れないと思って払うのか。


 法律は、そういうところを分けるためにあるのかもしれません。


 数日後。


 市役所から新しい文書が届きました。


 地域整備協力金について。


 市の住宅環境整備のため、一定規模の集合住宅建設者に任意の協力を求めていること。


 法令に基づく強制的な負担ではないこと。


 協力しないことのみを理由として、法令上認められる申請その他の手続について不利益に扱うものではないこと。


 以前より、ずっと長い。


 役所の文章というものは。


 正確に書こうとすると、急に長くなる。


 でも私は、その長さが少し好きでした。


 曖昧な一言より。


 長くても、線を引いてある文章の方が人を守ることがあります。


 佐伯さんは結局、百五十万円をそのまま支払うことはしませんでした。


 代わりに。


 ごみ集積所の整備については、建築業者と相談して敷地内にスペースを設ける。


 周辺道路についても、工事車両の出入り時間を地元と調整する。


 そういう具体的な協力をすることになりました。


「百五十万円より、こっちの方が納得できます」


 佐伯さんはそう言いました。


 そして一週間後。


 事務所に、大きな紙袋を持ってきました。


「これ、皆さんで」


「何です?」


「コロッケ」


 相馬先輩の顔が、行政書士ではなく少年になりました。


「何個です?」


「十二個」


「佐伯さん」


 相馬先輩が真顔になる。


「行政指導ならもっと持ってきてもらえます?」


「先輩!」


 何を学んだんですかあなたは。


 佐伯さんが声を上げて笑います。


「強制じゃないなら考えます」


「じゃあ十五個」


「値上げ交渉しないでください!」


 片桐所長が紙袋を見ながら言いました。


「一人三個だ」


「所長、それは処分ですか?」


 私は聞きました。


「指示だ」


「従わなかったら?」


「明日の茶当番」


「事実上の強制じゃないですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「争え、行政書士受験生」


「どこにですか!」


「所長不服審査会」


「所長しか委員いなさそう!」


 結局。


 コロッケは一人三個。


 残りは翌日の昼食になりました。


 手続は不透明。


 結論は合理的。


 片桐行政書士事務所の統治機構には、まだ改善の余地があります。


 夕方。


 佐伯さんを見送ったあと。


 私は机の上に、例の指導要綱のコピーを置きました。


 行政指導。


 昨日までなら。


 法的拘束力のない行政作用。


 はい次。


 くらいで読み飛ばしていたところです。


 でも今日。


 その言葉には、ちゃんと人の顔がつきました。


 佐伯さんの顔です。


「任意なら断ればいい」


 教科書なら一行。


 現実では。


 そんなに簡単じゃない。


 役所の窓口で。


 皆さん払っています。


 今後の手続もあります。


 水道のこともあります。


 そう言われれば。


 普通の人は思います。


 断ったらまずい。


 法的拘束力がないことと、


 心理的な圧力がないことは、


 同じではない。


 だからこそ。


 お願いする側には、


 お願いのままで止まる責任がある。


 私はノートを開きました。


 ――行政指導。


 その下に何か書こうとして。


 やめました。


「書かないのか」


 相馬先輩が聞きます。


「今日は題名だけにします」


「またか」


「まだ分かってないことがあるので」


「何だ」


 私は指を折ります。


「行政指導って、法律の根拠がなくてもできるんですよね」


「らしいな」


「でも、どこまでやったら駄目になるのか」


「うん」


「断った人を不利に扱ったら?」


「うん」


「“指導”って名前でも、実際には断れないほど強かったら?」


「うん」


「それから、誰にでも貼り紙で呼びかけるのと、佐伯さん個人に百五十万円お願いするのって、同じ行政指導なのか」


「……」


「先輩?」


「質問多いな」


「だって今日だけで増えたんです」


 昨夜まで。


 行政指導なんて、


 処分じゃない。


 拘束力ない。


 終わり。


 くらいに思っていました。


 でも今日の現場では。


 その「拘束力がない」という一言の周りに、


 山ほど問題がありました。


 誰に向けられたものなのか。


 何を求めているのか。


 本当に任意なのか。


 断ったらどうなるのか。


 役所は、お願いの範囲を越えていないのか。


 それどころか。


 名前は勧告でも、


 現実には断った瞬間に仕事や生活が成り立たなくなるような場合まで、


 本当にただの「お願い」として扱っていいのか。


 考え始めると、行政指導という言葉が急に怖くなります。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、佐伯さんを助けたのは何だと思う」


「行政手続法?」


「まだ違う」


「じゃあ……行政法の知識?」


「それも違う」


 所長が私を見る。


「“断れるはずだ”と確認したことだ」


 私は黙りました。


「制度は、使わなければ紙だ」


 それだけ言って。


 所長は奥へ引っ込みました。


 ずるい。


 短いのに、それっぽい。


 相馬先輩がコロッケを一つつまみます。


「お前の今日の教訓は?」


「そうですね」


 私は少し考えました。


 行政指導。


 お願い。


 任意。


 協力。


 どれも、柔らかい言葉です。


 でも。


 柔らかい言葉ほど、


 その後ろに何があるかを見ないといけない。


 私はノートの端に、一行だけ書きました。


 ――「お願いです」と言われたら、「断ったら何が起きますか」と聞く。


「怖い新人だな」


 相馬先輩が言いました。


「先輩」


「何だ」


「そのコロッケ、四個目ですよね」


「気のせいだ」


「一人三個って所長の指示でした」


「行政指導だろ」


「いや絶対違う」


「任意に協力してくれ」


「返してください」


「断る」


「断ったら?」


「俺が食う」


「ものすごく具体的な不利益!」


 奥から所長の声が飛んできました。


「相馬」


「はい」


「明日の茶当番」


「……はい」


 私は吹き出しました。


 どうやら。


 片桐行政書士事務所では、


 行政指導より所長命令の方が、


 ずっと拘束力が強いようです。


 窓の外では、昭和六十三年の町が夕暮れに沈み始めていました。


 駅前では再整備の測量杭が増え。


 空き地には新しい建築計画の看板が立ち。


 役所と町の人が話さなければならない場面は、これからもっと増えていくのでしょう。


 全部を法律で命令するわけにはいかない。


 だから行政は、お願いをする。


 話し合う。


 指導する。


 助言する。


 それ自体は悪いことではありません。


 むしろ、法律で殴るより柔らかく解決できることだってある。


 でも。


 お願いだからこそ。


 断れる余地がなければならない。


 今日、佐伯さんが取り戻したのは百五十万円だけではありません。


 払うか。


 払わないか。


 何なら協力できるのか。


 それを自分で考える余地でした。


 条文は冷たい。


 「法的拘束力はない」


 なんて。


 人情の欠片もない言葉です。


 でも。


 その冷たい一線があるから。


 役所の善意も。


 役所の都合も。


 いつの間にか命令へ変わることを止められる。


 私はノートを閉じました。


 明日。


 もう少しちゃんと整理しよう。


 行政指導とは何なのか。


 なぜ法律の根拠がなくてもできるのか。


 誰に対する行為なのか。


 処分とは何が違うのか。


 そして。


 ただの勧告のはずなのに、


 現実には断れないほど重くなるとき、


 法律はそれをどう見るのか。


 今日は、まだ答えまで書きません。


 ただ一つ。


 佐伯さんの顔を思い出せば。


 もう「行政指導」という四文字を見て眠ることだけは、なさそうでした。


「こはる」


「はい?」


 相馬先輩が紙袋を覗き込んでいます。


「明日の分、一個食っていいか」


「駄目です」


「お願いだ」


「断ります」


「任意に協力を」


「断ります」


「先輩命令」


「法的根拠は?」


「……」


「ないんですね?」


「お前、面倒くさくなったな」


「行政法のおかげです」


 所長の低い声が、奥から飛んできました。


「二人とも仕事しろ」


「はい」


「はい」


 この命令には。


 残念ながら。


 誰も任意性を主張しませんでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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