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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

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20/268

[行政契約]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼より少しだけ静かです。


 電話が鳴らない。


 来客も途切れる。


 古い扇風機だけが、首を振るたびにカタ、カタ、と音を立てています。


 そして私の机の上には、赤、黄色、薄い青。


 佐伯美代子さんが置いていった毛糸が三玉。


「……これ、法律の勉強机に見えませんね」


「手芸教室でも始めろ」


 相馬先輩が書類から顔も上げずに言いました。


「行政書士事務所から毛糸屋への華麗なる転業」


「お前なら違和感ない」


「どういう意味ですか」


「細かいところを延々いじる」


「行政法の悪口になってません?」


 私は毛糸を机の隅へ寄せて、ノートを開きました。


 昨日、題名だけ書いて終わったページ。


 ――行政契約。


 その下には、私が勢いで書いた一行があります。


 役所が契約書に判を押したら、そこは「上から命令する場所」ではなくなる。


 そして小さく、


 原則として。


 行政法で「絶対」と言うと、だいたい後ろから例外に殴られる。


 これは最近の私の学習成果です。


「よし」


 私はペンを握りました。


「今日はちゃんと整理します」


「昨日やれ」


「昨日は現場で頭がいっぱいだったんです」


「受験生の常套句だな」


「昭和でも刺さる言葉やめてください」


 奥で帳簿を見ていた片桐所長が、こちらを見ました。


「まず定義だ」


「はい」


 いきなり始まりました。


 片桐塾。


 授業料はたぶん残業です。


 私はノートに書きます。


 行政契約。


 行政主体が、他の行政主体または私人と、対等な立場で締結する契約。


「一番大事なのは?」


 所長が聞きます。


「対等な立場」


「なぜだ」


「行政行為と違うから」


 私は昨日の市役所を思い出しました。


 美代子さんに対して、


 市の決定です。


 来月十五日までに出てください。


 そう説明していた。


 でも、実際にあったのは、


 使用許可の取消しでも、


 営業停止命令でも、


 行政処分としての明渡命令でもありません。


 旧観光案内所を、市が美代子さんへ一定期間貸す。


 美代子さんは使用料を払う。


 その合意です。


「行政行為なら」


 私は声に出して整理します。


「行政庁が法令上の権限に基づいて、一方的に法的効果を発生させる」


「そうだ」


「でも行政契約は、相手の合意が必要」


「そこだ」


 相馬先輩が口を挟みました。


「昨日、市が『来月出ろ』って言っただけじゃ、契約内容は勝手に変わらない」


「はい」


「じゃあ市が『公共のためだ』って百回言ったら?」


「回数で契約が変わったら怖いです」


「千回」


「音量でも回数でも変わりません」


「一万回」


「先輩が先に疲れます」


 所長が一言。


「合意だ」


 はい。


 きれいに締まりました。


 私は太字にする勢いで書きます。


 行政契約は、当事者の意思の合致によって成立する。


 だから、行政主体が契約の当事者だからといって、その場面で当然に公権力を行使できるわけではない。


 ここが行政行為との大きな違い。


「じゃあ所長」


「何だ」


「行政契約を結ぶには、法律の根拠って必要なんですか?」


「原則として不要だ」


「ここ、試験で狙われそうですね」


 私はすぐ書きます。


 行政行為。


 国民の権利を制限したり、義務を課したりするためには、法律上の根拠が問題になる。


 行政契約。


 原則として、契約締結そのものについて個別の法律の根拠は不要。


「なんでです?」


 私が聞くと、相馬先輩が先に答えました。


「契約だからだろ」


「雑です」


「でも合ってる」


 所長が言いました。


 悔しい。


「契約は、相手が同意しなければ成立しない。行政が一方的に権利を制限する作用とは違う」


「なるほど」


 たとえば。


 国が高速道路を作る。


 建設会社に工事を頼む。


 国が、


 今日からお前は高速道路を造れ。


 と命令して建設会社に働かせるわけではありません。


 それは怖い。


 普通に請負契約を結ぶ。


 工事内容。


 代金。


 期限。


 条件。


 双方が合意する。


 このような契約も、行政主体が結ぶ以上、行政契約ということになる。


「公共施設の利用契約も同じですね」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「昨日の建物貸付契約も、その発想で見れば分かりやすい」


 美代子さんと市。


 見た目の力関係は対等ではありません。


 市役所は大きい。


 美代子さんの店は小さい。


 でも、契約関係の中では、


 貸主。


 借主。


 約束をした当事者同士として扱う。


 だから、市が突然、


 市有施設だから返してください。


 市が決めたから従ってください。


 と行政処分みたいに振る舞うと、おかしなことになる。


「でも」


 私はペンを止めました。


「本当に何でも自由に契約していいんですか?」


 所長がこちらを見る。


「どういう意味だ」


「法律の根拠がいらないなら、役所って好きな相手と好きな契約をしていいことになりません?」


 たとえば公共工事。


 市長の友達の会社だけに工事を発注する。


 毎年ずっと。


 他社には一切チャンスなし。


「それは駄目だろ」


 相馬先輩が言いました。


「ですよね」


「契約自体に法律の根拠が不要なのと、契約の仕方について何のルールもないのは別だ」


 おお。


 今日は先輩がよく働きます。


「それだ」


 所長が短く言いました。


 私は大きく丸をつけました。


 重要。


 行政契約の締結に法律上の根拠が不要。


 イコール。


 行政主体が無制限に自由な契約をしてよい。


 ではない。


 行政主体は公金を使います。


 公共工事を発注します。


 公平性や透明性も問題になる。


 だから、地方公共団体なら契約方法について、


 一般競争入札。


 指名競争入札。


 随意契約。


 などの法令上のルールがあります。


「ここで一個目の判例だ」


 所長が言いました。


「来ましたね」


 嫌な予感しかしません。


 判例。


 受験生にとって、


 読む前は短そうに見えて、


 読み始めると登場人物が増殖する文章です。


「随意契約の制限に違反した契約」


「はい」


「当然に無効か」


 私は止まりました。


「……違法なら、無効なんじゃないんですか?」


「そう思わせる問題だ」


 相馬先輩が笑います。


「嫌な言い方」


「試験はそういうもんだ」


 私は教材で見た判例を思い出します。


 昭和六十二年五月十九日の最高裁。


 普通地方公共団体が、随意契約の制限に関する法令に違反して契約を締結した場合。


 だからといって、


 はい違反。


 はい無効。


 と一直線にはならない。


「確か……」


 私は記憶を探ります。


「その契約を無効にしないと、随意契約を制限した法令の趣旨が没却されるような、特段の事情がある場合に限って、私法上無効になる」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「長い!」


「判例だからな」


「もう少し人類に優しく言ってください」


 相馬先輩が鉛筆を持ちました。


「法律違反した契約だからって、何でも即死とは限らん」


「急にゲームみたいにしないでください」


「ただし、ルールを無視した契約を有効にしたら、その規制自体が意味なくなるような場合は無効」


「……分かりやすいのが腹立ちます」


 私はノートに整理します。


 地方公共団体の契約手続に違法がある。


 それだけで当然に契約が無効になるわけではない。


 法令違反の程度。


 規制の趣旨。


 契約を有効とした場合に、その法令の趣旨が失われるか。


 そういった事情を見る。


「行政法って」


 私は呟きました。


「違法と無効を簡単にイコールで結ばせてくれませんよね」


「民法でもそうだ」


「逃げ場がない」


 行政主体の契約にルール違反がある。


 でも、その契約に基づいて工事が進んでいる。


 相手方もいる。


 代金もある。


 第三者への影響もある。


 すべてを後から当然無効にすると、別の混乱が起きる。


 だから判例は、


 法令違反だから即無効、


 という処理をしていない。


「つまり試験で」


 私は言いました。


「『随意契約の制限に違反した地方公共団体の契約は当然に無効となる』って書いてあったら」


「危ない」


「むしろ誤りを疑う」


「そうだ」


 私は横に書きました。


 「違法」≠当然に「無効」。


 行政法。


 こういう「イコールにするな」が多すぎます。


 次。


 私はページをめくりました。


「公害防止協定」


 相馬先輩が言います。


「今度は何だ」


「町と産業廃棄物処理業者が結んだ協定です」


 これは平成二十一年七月十日の最高裁判決。


 この昭和六十三年の事務所で平成の判例を思い出している時点で、私の存在そのものが法的にだいぶ不審です。


 そこは考えない。


 考えると負けます。


「内容は?」


 所長が聞きます。


「町と、町内で産業廃棄物処理施設を設置してる業者が、公害防止協定を結んだ」


「うん」


「そこに、施設の使用期限を定めて、その期限を超えて産業廃棄物を処分しない、という約束があった」


「それで?」


「業者は廃棄物処理法に基づく知事の許可を持ってる」


 私はそこで一度ペンを止めました。


 ここ、混乱しやすい。


 知事の許可はまだ有効。


 法律上は、その期間中、事業を続けられる。


 でも町との契約では、


 もっと早い期限でやめると約束した。


「どっちが勝つんです?」


 私は聞きました。


「その聞き方が雑だ」


 所長が言いました。


 痛い。


「許可があるなら、町との約束は無効?」


「そう単純ではない」


 判例は、


 公害防止協定に基づく使用期限や、その期限を超えて処分してはならないという定めについて、


 それによって、廃棄物処理法上の許可期間内に事業や施設を廃止することになっても、


 同法の趣旨には反しないとしました。


「つまり」


 私は言葉を選びます。


「行政の許可って、“許可期間中は絶対に事業を続ける権利を保障する契約”じゃない?」


「そう考えるな」


 所長が言いました。


「許可は、公法上の禁止を解除するものだ」


「なるほど」


 許可がある。


 だから営業してよい。


 でもそれは、


 本人が別の契約で、


 この日までにやめます。


 と約束することまで禁止するものではない。


 少なくとも、その約束が法律の趣旨に反しない限り。


「昨日の美代子さんと逆方向ですね」


「どういう意味だ」


 相馬先輩が聞きます。


「昨日は市が、契約なのに命令みたいに扱おうとした」


「うん」


「公害防止協定では、逆に“契約だから意味がない”とはならない」


「そうだな」


 行政契約は、


 ただのお願い。


 役所の内輪話。


 ではありません。


 合意が成立すれば、契約として効力を持つ。


 だからこそ行政側も勝手に破れない。


 私人側だって、


 相手が役所だから約束なんて軽いです、


 とは言えない。


「対等って」


 私は呟きます。


「役所の力を弱くするためだけの言葉じゃないんですね」


「当たり前だ」


 所長が言いました。


「双方を約束に縛る」


 なるほど。


 これは大事です。


 行政契約。


 対等。


 というと、


 住民を役所から守る話に見える。


 でも本質はもっと冷たい。


 契約したなら、双方が拘束される。


 行政も。


 私人も。


 その冷たさが、結果として一方的な力を抑える。


「じゃあ三つ目」


 私は新しい見出しを書きました。


 公共工事。


 指名競争入札。


 村外業者。


「これ、昨日ちょっと気になったやつです」


「何がだ」


 相馬先輩が聞きます。


「役所が契約相手を選ぶときって、どこまで自由なんだろうって」


 公共工事を発注する。


 どの業者と契約するか。


 もちろん行政にも一定の裁量はある。


 工事実績。


 技術力。


 信用。


 地域事情。


 いろいろ見るでしょう。


 でも。


「長年、指名競争入札に参加していた建設業者を」


 私は判例の内容を思い出しながら言います。


「村外業者だから、って理由だけで参加させなかった」


「それが問題になった」


 所長が言いました。


 平成十八年十月二十六日最高裁判決。


 村発注の公共工事。


 ある建設業者は、長年継続して指名競争入札に参加していた。


 それなのに、


 村外業者に当たる。


 ただそれだけを理由として指名しなかった。


 最高裁は、その措置を、


 裁量権の逸脱または濫用に当たり違法としました。


「つまり」


 私は書きます。


 行政契約は対等な契約。


 でも、契約締結前の行政側の相手方選定についてまで、


 完全な私人と同じ自由があるわけではない。


「ここ、面白いですね」


「何が」


「普通の人なら、誰と契約するかはかなり自由じゃないですか」


「そうだな」


「でも行政は、公平性とか合理性とか、裁量の限界が問題になる」


 役所は私人ではありません。


 契約の場面では対等。


 だからといって、


 行政主体であることまで消えるわけじゃない。


 ここ、試験で雑に覚えると危ない。


「行政契約なんだから全部民法だけ見ればいい」


 ではない。


「役所なんだから全部行政処分として考えればいい」


 でもない。


 行政主体が契約という手段を使っている。


 だから、その両方の目がいる。


「ややこしい」


 私は正直に言いました。


「行政法は全部それだ」


 相馬先輩が言います。


「身も蓋もない」


 でも昨日の美代子さんの事件を当てはめると、少し分かります。


 市には、駅前再整備という公共目的がある。


 観光案内所を復活させたい。


 行政上の判断。


 政策判断。


 それ自体はある。


 でも。


 既に美代子さんと期間を定めた建物貸付契約を結んでいる。


 そこでは市は、契約当事者になる。


 だから、


 政策が変わった。


 公共のためだ。


 市の決定だ。


 その三言だけで、


 契約期間を一方的に五か月短縮できるとは限らない。


 市が早く返してほしいなら、


 契約上の根拠があるのか。


 解除事由があるのか。


 なければ合意解除を求めるのか。


 代替場所はどうするのか。


 移転費用をどう扱うのか。


 条件を話し合う。


 昨日、片桐所長が言った、


 「協議に戻してください」


 という一言。


 あれは単なる交渉術ではありませんでした。


 法的な関係を、


 行政の命令モードから、


 契約の合意モードへ戻した。


 そういうことだったんです。


「所長」


「何だ」


「昨日、市役所の担当者が口頭で『市の決定です』って言ったこと自体に、何か法的効果ってあるんですか?」


「契約内容次第だが、それだけで行政処分になるわけではない」


「ですよね」


「名前ではなく、中身を見ろ」


 また出ました。


 行政法の大原則。


 名前に騙されるな。


 役所が、


 決定。


 命令。


 通知。


 お願い。


 と何と呼んだとしても。


 実際に何をしているのか。


 法的根拠は何か。


 権利義務を一方的に変動させる処分なのか。


 契約上の意思表示なのか。


 単なる協議の申入れなのか。


 中身を見る。


「じゃあ昨日の通知文は?」


 私は思い出します。


 明け渡すようお願いする。


「少なくとも文面上は、協力要請に近い」


「でも現場では『決定だから出てください』と説明した」


「そうだ」


「だから美代子さんは、拒否できないと思った」


 これです。


 制度の雑さ。


 行政契約の場面で、


 役所側が自分を無意識に“上”へ戻してしまう。


 契約書があるのに、


 役所の内部決定を、そのまま相手への命令へ変換してしまう。


 昨日、美代子さんが一番困っていたのは、


 契約条項そのものより、


 「市が決めたなら逆らえない」


 という空気でした。


「契約の一番怖いところって」


 私は言いました。


「当事者が対等だって知らないまま契約することかもしれませんね」


 所長は何も言わず、少しだけ頷きました。


 相馬先輩が私のノートを覗きます。


「試験用にまとめろ」


「急に先生みたいな顔しないでください」


「行政契約。何を覚える」


 私はペン先で机を軽く叩きます。


「まず、行政主体と私人や他の行政主体との契約」


「うん」


「行政行為と違って、対等な立場で、意思の合致によって成立する」


「次」


「原則として、契約締結自体に法律上の根拠は不要」


「次」


「でも行政だから、契約の仕方について法令上の制約がある場合がある」


「例」


「地方公共団体の随意契約」


「判例」


「随意契約の制限に違反した契約が、当然に私法上無効になるわけではない」


「どういう場合に無効になり得る」


「その契約を無効にしなければ、随意契約を制限した法令の趣旨を没却する結果になる特段の事情がある場合」


「よし」


 ちょっと待ってください。


 私、尋問されてません?


「公害防止協定」


「町と産業廃棄物処理業者が締結した協定で、法律上の許可期間より早く施設の使用を終える内容でも、それが廃棄物処理法の趣旨に反するとは限らない」


「もっと正確に」


「厳しい!」


 私は言い直します。


「使用期限や、期限後は処分をしてはならないという約束によって、許可期間内に事業や施設が廃止されることがあっても、その定めは廃棄物処理法の趣旨に反しないとされた」


「うん」


「村外業者」


「村の公共工事で、長年指名競争入札に参加していた業者を、村外業者だということだけを理由に参加させなかった措置は、裁量権の逸脱・濫用として違法」


「よし」


 相馬先輩が満足そうに頷きました。


「何なんです、その立場」


「教育係」


「初耳です」


「今決まった」


「合意してません」


「あ」


 相馬先輩が止まりました。


 私はにやりとします。


「行政契約の法理、早速役立ちましたね」


「うるさい」


「教育係契約、不成立です」


「所長命令なら成立する」


「それは契約じゃない!」


 奥から所長の声。


「相馬」


「はい」


「新人教育はお前の仕事だ」


「……ほら見ろ」


「雇用契約の職務内容を確認したいです!」


「お前もな」


「私もですか!」


 行政契約を勉強していたはずなのに、労働法へ飛び火しました。


 危険です。


 私はノートに戻ります。


 試験で引っかかりそうなところ。


 行政契約は行政が関わる。


 だから法律の根拠が必要。


 ――誤り。


 原則不要。


 行政契約だから、行政は私人と完全に同じく自由。


 ――これも危ない。


 行政主体には、契約手続や相手方選定について公法上の制約がかかることがある。


 随意契約の制限違反。


 ――直ちに契約無効とは限らない。


 行政との契約で、法律上の許可より厳しい義務を私人が引き受けた。


 ――当然に無効とは限らない。


 行政が契約相手を選ぶ場面。


 ――裁量はあるが、逸脱・濫用すれば違法となり得る。


「結局」


 私は言いました。


「行政契約って、一言で言うと何なんでしょう」


 相馬先輩が即答します。


「役所との約束」


「簡単すぎます」


「でも間違ってない」


 所長が言いました。


 またですか。


「ただし」


 所長は帳簿を閉じました。


「役所であることは消えない」


 私はペンを止めます。


「契約では対等。しかし契約を結ぶ側が行政主体である以上、公共性、公平性、法令上の手続、裁量統制の問題は残る」


「なるほど」


 これなら分かります。


 行政契約は、


 行政が私人に変身する制度ではありません。


 役所は役所のまま。


 ただ、


 公権力で一方的に決める方法ではなく、


 契約という方法を選んでいる。


 だから合意が必要。


 だから双方が約束に拘束される。


 でも、


 行政だからこそのルールや制約まで消えるわけではない。


「行政行為と行政契約の比較、書いとけ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 私はノートの中央に線を引きました。


 行政行為。


 行政庁が公権力を行使し、一方的に法的効果を生じさせる。


 法律上の根拠が問題になる。


 相手の同意がなくても成立する場面がある。


 行政契約。


 行政主体と相手方の合意で成立する。


 対等な当事者関係が基本。


 原則として契約締結に個別の法律上の根拠は不要。


 ただし行政主体ゆえの法令上の制約はあり得る。


「昨日の事件に当てはめると?」


 先輩が聞きます。


「市は美代子さんに、旧観光案内所を一定期間貸す契約を結んでいた」


「うん」


「それを行政上の必要が生じたからといって、『市の決定です』の一言で処分みたいに変更しようとした」


「うん」


「だからまず、これは行政処分なのか、契約上の問題なのかを切り分けた」


「それで?」


「契約なら、契約条項を確認する」


 中途解除条項。


 契約違反の有無。


 明渡しの根拠。


 合意による変更の余地。


 そこを見る。


「だから昨日は」


 私は続けました。


「美代子さんが絶対に五か月残れる、と断言したわけじゃない」


「そうだ」


「市も困っているから、合意解除や契約変更を協議する余地はある」


「うん」


「でも、“市が決めたから終了”ではない」


「それでいい」


 私はやっと腑に落ちました。


 昨日のカタルシスは、


 市を負かしたことじゃない。


 美代子さんの店を絶対に守ったことでもない。


 上から下へ流れていた話を、


 横並びへ戻したこと。


 それだったんだ。


「契約って、地味ですね」


 私は言いました。


「今さら何だ」


「いや、行政処分みたいに取り消すとか、無効とか、ドーンとした感じがない」


「契約はだいたい地味だ」


「でも」


 私は美代子さんの毛糸を見ました。


「地味だからいいのかもしれません」


 市役所。


 公共事業。


 駅前再整備。


 行政目的。


 言葉を並べると大きい。


 そこに、


 小さな手芸店。


 五か月。


 移転費用。


 棚。


 常連客への案内。


 そんな話を並べても、公共の前では小さく見えます。


 でも契約書は、その小さいものを小さいまま切り捨てない。


 期間を決めた。


 使用料を決めた。


 用途を決めた。


 なら、それを一つずつ扱う。


 公共性を否定せず。


 私人の生活も消さず。


 その間を条件で埋めていく。


 制度の冷たさが、人を救う。


 最近、少しずつその意味が分かってきました。


 法律は、


 美代子さんがかわいそうだから助ける、


 とは言いません。


 市役所はひどいから負けろ、


 とも言わない。


 契約なら。


 合意はあるか。


 解除条項はあるか。


 違反はあるか。


 契約変更をするなら双方が同意したか。


 それだけです。


 冷たい。


 ものすごく冷たい。


 でもだからこそ、


 役所だから。


 公共のためだから。


 逆らえないから。


 そんな空気を、一度机の外へ出せる。


 私はノートの最後に、今日の一行の覚え書きを書きました。


 ――行政契約では、「役所だから」ではなく、「何を合意したか」を見る。


 少し考えて、その下にも書き足します。


 ――対等とは、力が同じという意味ではない。約束を一方だけで書き換えられないということ。


「二行あるぞ」


 相馬先輩が言いました。


「今日は特別です」


「一行の覚え書きじゃないだろ」


「行政法が一行で終わらせてくれないんです」


 所長が私のノートをちらりと見ました。


「上の一行だけでいい」


「どっちです?」


「役所だから、ではなく、何を合意したかを見る」


「やっぱりそこですか」


「試験でも現場でも同じだ」


 私はその一文に線を引きました。


 外はもう暗くなっています。


 商店街の明かりが、窓越しにぽつぽつ見える。


 明日は、市役所から美代子さんの代替店舗候補について連絡が来る予定です。


 まだ解決ではありません。


 条件交渉もある。


 移転費用もある。


 営業時間や立地だって大事です。


 でも美代子さんはもう、


 「市が決めたから仕方ない」


 とは思っていない。


 市側も、


 「お願い」と「決定」を混ぜないよう、少し慎重になるでしょう。


 それで十分とは言いません。


 でも昨日よりは、まともな話し合いができる。


 それが行政契約の現場での意味なのだと思います。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「はい」


「毛糸、一玉くれ」


「何に使うんです?」


「競馬新聞束ねる」


「美代子さんに謝ってください」


「じゃあ雑巾まとめる」


「もっと駄目!」


 私は毛糸を全部抱え込みました。


「これは私が使います」


「契約成立な」


「誰とです?」


「美代子さんと」


「教えてもらう約束はしましたけど、毛糸を全部もらう契約じゃないです」


「細けえな」


「今日のテーマですよ!」


 奥から所長が言いました。


「相馬」


「はい」


「人の毛糸を勝手に使うな」


「……はい」


 私は笑いました。


「先輩」


「何だ」


「所長の命令には素直ですね」


「雇われてるからな」


「対等な契約関係じゃないんですか」


「仕事中は上下がある」


「なるほど。契約したから現実の力関係まで全部平らになるわけじゃない」


「何でも教材にするな」


「今のはいい例でした」


「忘れろ」


「ノートに書きます」


「やめろ!」


 私は笑いながら、ページの隅に小さく書き足しました。


 契約上の対等性と、現実の立場の差は別。


 これもたぶん、忘れないほうがいい。


 行政契約。


 昨日までなら、


 行政主体が私人と対等な立場で締結する契約。


 それだけの眠い一文でした。


 今は違います。


 市役所と小さな手芸店。


 公共事業と五か月の営業。


 行政目的と一枚の契約書。


 その間で、


 「誰が偉いか」


 ではなく、


 「何を約束したか」


 を見る。


 それが契約なんだ。


 私はノートを閉じました。


 行政法は、上から降ってくる命令ばかりではありません。


 ときどき役所も、こちら側と同じ机に座ります。


 そして同じ机に座った以上、


 最後にものを言うのは肩書ではなく、


 合意です。


 ……もっとも。


「先輩」


「何だ」


「明日の掃除当番、交代しません?」


「嫌だ」


「条件を協議しましょう」


「しない」


「対等な立場で」


「断る」


「意思の合致がない!」


 契約成立への道は、行政相手より険しいこともあるようです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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