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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政法総論

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[行政契約]現場編 「市との約束は、市がいつでも変えられます」の罠。上からの処分と対等な契約を混ぜる役所と、一枚の契約書

挿絵(By みてみん)

 役所が相手だからといって、全部が「命令」になるわけではありません。


 税金を払え。


 許可は出せない。


 営業を止めろ。


 そういう話なら、いかにも役所らしい。


 向こうが決めて、こちらが従う。


 少なくとも見た目はそうです。


 でも。


「来月から出てください。市の決定です」


 そう言われた瞬間、私は思いました。


 ――いや、それ。


 本当に「決定」で済ませていい話ですか?


 昭和六十三年。


 地方都市の片桐行政書士事務所で働き始めて、まだ日も浅いころのことでした。


「こはる」


「はい」


「電話」


 相馬先輩が、こちらを見もせず受話器を差し出してきました。


「誰からです?」


「知らん」


「聞いてくださいよ」


「お前が聞け」


「電話取った人の仕事でしょう」


「俺はいま忙しい」


 見ると、相馬先輩は新聞の競馬欄を開いていました。


「ものすごく忙しそうですね」


「人生設計だ」


「役所に提出できない種類の計画ですね」


「早く取れ」


 仕方なく受話器を受け取ります。


「はい、片桐行政書士事務所、朝比奈です」


『あの……こちらで、市役所との契約の相談って、できますか』


 女性の声でした。


 少し震えています。


「内容によりますが、お話は伺えます。どうされました?」


『店を、出ていけって言われて』


「大家さんと揉めてるんですか?」


『大家が、市役所なんです』


 私は受話器を握り直しました。


 はい。


 行政法の匂いがしてきました。


 しかも、たぶん面倒なやつです。


 昼過ぎ。


 相談者は、小さな紙袋を両手で抱えて事務所へやってきました。


 名前は佐伯美代子さん。


 四十代半ば。


 駅前で小さな手芸店を営んでいるそうです。


 紙袋からは、毛糸と布地が少し覗いていました。


「ここなんです」


 美代子さんが机の上に一枚の地図を広げます。


 駅前再整備区域。


 最近、この町で何かと話題になる場所です。


 古い商店を取り壊し、駅前広場を整え、観光客向けの施設を作る。


 市長肝いり。


 商工会も乗り気。


 議会では毎月のように何か揉めている。


 私にはまだ全体像が見えていませんが、どうも最近うちへ来る相談は、この駅前に吸い寄せられている気がします。


「もともと、うちの店はこの辺にあったんです」


 美代子さんが地図の一角を指さしました。


「再整備で取り壊すことになって、市から仮店舗へ移ってくれって言われまして」


「仮店舗?」


「旧観光案内所です。駅の裏にある」


 相馬先輩が「ああ」と頷きました。


「二年前に閉めた建物か」


「はい。市がもう使ってないから、工事が終わるまでそこを貸すって」


 美代子さんは鞄から一冊の書類を取り出しました。


「ちゃんと契約もしています」


 片桐所長が受け取ります。


 表紙には、


 旧観光案内所建物貸付契約書。


 そうありました。


 契約期間は一年。


 月々の使用料。


 用途は手芸用品の販売。


 市と佐伯美代子さん。


 双方の記名押印。


 どう見ても、立派な契約書です。


「それで、いつ出ろと言われたんです?」


 相馬先輩が聞きます。


「昨日です」


「昨日?」


「市役所の人が突然店に来て……来月十五日までに明け渡してくださいって」


「一か月もないじゃないですか」


「はい」


 美代子さんの指が、膝の上でぎゅっと組まれました。


「困るって言いました。まだ契約期間が五か月残ってますから。そうしたら……」


 そこで言葉を切る。


「何て?」


 私が促すと、美代子さんは顔を上げました。


「『市の施設なんだから、市の判断で使い方を変えられます』って」


 なるほど。


 出ました。


 役所版「俺の家なんだから俺が決める」。


 でも、契約相手にそれを言い出す大家さんは、普通に嫌です。


「理由は聞きました?」


「観光案内の施設として、また使うことになったそうです。駅前再整備が予定より早まったとかで」


「書面は?」


「これだけです」


 一枚の紙。


 旧観光案内所の使用について。


 再整備事業の進捗に伴い、施設を行政目的に使用する必要が生じたため、翌月十五日までに明け渡すようお願いする。


 お願い。


 文面では、お願い。


 でも店に来た職員は、


 市の決定です。


 出てください。


 そう言った。


 この二つ、だいぶ温度が違います。


「断ったらどうなるって言われました?」


「そこまでは。ただ……」


 美代子さんは俯きました。


「市役所に逆らって商売なんてできませんから」


 その言葉が、妙に重かった。


 そうなんですよね。


 役所は、ときどき何も強制していないのに、強制より強い。


 許認可。


 補助金。


 道路。


 施設。


 町内の評判。


 相手が「市」だというだけで、普通の人は一歩引く。


 法的に対等です。


 そんな言葉を知っていても、現実の空気までは対等になってくれません。


 片桐所長が契約書をめくりました。


「中途解約の条項は」


「ないな」


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「施設が必要になったら返せ、みたいなのも?」


「見当たらん」


「災害とか緊急時は?」


「それもない」


 私は少し身を乗り出しました。


「所長」


「何だ」


「これって……市が何か行政処分をしたわけじゃないですよね」


 片桐所長が私を見る。


「続けろ」


 出ました。


 続けろ。


 この一言が出ると、だいたい私の頭の中で昨日まで眠っていたテキストが起き出します。


「市が美代子さんに、法律上の権限を使って“使用禁止を命じた”とか、“許可を取り消した”とかじゃない」


「ああ」


「契約を結んで、建物を貸してる」


「そうだ」


 私は契約書を見ました。


 貸す人。


 借りる人。


 契約期間。


 使用料。


 用途。


 昨日までのテキストなら、


 行政契約。


 行政主体が私人などと対等な立場で締結する契約。


 そう書いてあったはずです。


 正直、読んだときの感想は、


 行政も契約するんだなあ。


 以上。


 でした。


 眠い。


 恐ろしく眠い単元です。


 でも今、美代子さんの店の商品が詰まった紙袋を見ていると、急に輪郭が出てきました。


「市役所が契約当事者になったからって」


 私は言いました。


「急に相手より上になるわけじゃないんですよね?」


 片桐所長が短く答えました。


「そうだ」


 美代子さんが目を上げます。


「……上じゃない?」


「少なくとも、この契約の話では」


 私は契約書を指さしました。


「美代子さんは、市から営業許可をもらってこの建物を使っているわけじゃありません」


「ええ」


「市と契約して借りてるんです」


 相馬先輩が椅子にもたれます。


「つまり、“役所だから言うことを聞け”の話じゃない」


「はい」


「じゃあ何の話だ」


 分かっています。


 これは試されている。


「契約どおりにできるか、です」


「そうだ」


 所長が契約書を閉じました。


「行くぞ」


「どこへです?」


「市役所」


「今日もですか」


「契約期間は待ってくれん」


 行政書士事務所というより、町の法律消防隊みたいになってきました。


 市役所の管財課。


 案内された会議室で待っていると、見覚えのある顔が入ってきました。


「……また君か」


「あ」


 倉田係長でした。


 以前、駅前の露店問題で揉めた商工観光課の係長です。


「異動したんですか?」


「兼務だ」


「役所も大変ですね」


「君に言われたくない」


 ちょっと仲良くなってません?


 その後ろから、五十代くらいの男性が入ってきました。


 管財課長の村瀬という人です。


「片桐先生。ご足労いただいて」


「先生はやめてください」


 所長が言いました。


「片桐で結構です」


 短い。


 村瀬課長は契約書を机に置きました。


「事情は伺っています。ただ、市としても必要な措置でしてね」


「必要なのは分かります」


 所長が答えます。


「問題は、その必要性だけで契約を途中で終わらせられるのか、です」


 村瀬課長の表情が少し固くなりました。


「市有施設ですよ」


「ええ」


「行政上の必要が生じた以上、市が使用方法を変更するのは当然でしょう」


 はい。


 来ました。


 私は心の中で赤ペンを構えました。


 その「当然」を今から分解します。


 所長は何も言いません。


 相馬先輩も黙っている。


 嫌な予感。


 これ、私に言わせる気ですね?


 倉田係長が私を見ました。


 目が合います。


「……何だ」


「いえ」


「言いたそうだな」


「では遠慮なく」


「遠慮しろとは言ってない」


 そこは言ってほしかった。


 私は契約書を一枚めくりました。


「村瀬課長。一つ確認していいですか」


「どうぞ」


「美代子さんに対して、何か行政処分をしたんですか?」


「行政処分?」


「たとえば使用許可を取り消したとか、法律や条例に基づいて明渡しを命じたとか」


「いや、そういう話ではない」


「では、これは何です?」


 私は契約書を指しました。


「貸付契約です」


「そうです」


「市と美代子さんが合意して、期間を決めて、使用料も決めて結んだ」


「ええ」


「だったら、市役所が相手だからって、“市が決めました”だけで全部終わるんでしょうか」


 村瀬課長が眉を寄せます。


「行政上の必要があるんですよ」


「必要があることと、一方的に契約を変えられることは別ですよね」


 部屋が静かになりました。


 倉田係長が小さく息を吐く。


「……そこか」


「そこです」


 昨日までなら、


 行政契約は対等。


 この一行を丸暗記して終わっていました。


 でも今なら分かります。


 対等、というのは、


 役所の人と市民が同じ椅子に座る、


 みたいな精神論ではありません。


 役所が契約という方法を選んだなら。


 そこで決めたことを、


 行政庁の命令みたいに片方だけで動かしていいわけではない。


 そこが違う。


 相馬先輩が契約書を村瀬課長の方へ押しました。


「市が必要になったらいつでも返還させられる、って条項はどこです?」


「……ありません」


「契約解除については?」


「借主側が違反した場合についてはあります」


「佐伯さん、何か違反しました?」


「それは……していません」


「使用料の滞納」


「ありません」


「目的外使用」


「ありません」


「店で競馬場でも始めました?」


「始めてません」


 美代子さんが小さく答えました。


 そこは私も確認してませんでしたけど、多分大丈夫です。


 相馬先輩は椅子の背にもたれました。


「なら、市側の都合で期間途中に出てもらう根拠は?」


 村瀬課長が黙りました。


 その沈黙が、今日いちばん雄弁でした。


 でも。


 役所にも事情はある。


 そこを無視して「はい論破」で終われば気持ちはいいですが、生活はそんなに単純じゃありません。


 村瀬課長は腕を組みました。


「予定が変わったんです。国鉄駅周辺の整備に合わせて、観光案内機能を早急に戻す必要が出た。予算も動いています」


「それは市側の事情でしょう」


 相馬先輩が言います。


「分かっています」


 課長の声が少し荒くなる。


「しかし公共のためなんです」


 公共。


 強い言葉です。


 税金と同じくらい、反論しづらい。


 美代子さんが小さくなったのが分かりました。


「私は……別に、市の邪魔をしたいわけじゃないんです」


 ほら。


 こうなる。


 公共と言われた瞬間、


 自分の五か月は、わがままみたいに見えてくる。


「でも」


 美代子さんは続けました。


「私も、あの場所に移るために棚を作りました。看板も付け替えました。前の店を閉めて、お客さんにも場所を知らせて……」


 声が詰まる。


「来月出てくださいって言われても、次がないんです」


 誰も喋りませんでした。


 役所側にも事情がある。


 美代子さんにも生活がある。


 だから契約にしたはずです。


 最初から、


 市の都合が変わったら明日出てください。


 という関係なら。


 何のために期間を五か月先まで決めたのか。


「課長」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「公共の必要性があることは否定しません」


「なら――」


「だからこそ、契約として処理してください」


 短い。


 でも部屋の空気が止まりました。


「命令のように扱わないことです」


 村瀬課長が黙る。


 所長は続けました。


「市が五か月早く明け渡してほしい。その必要がある。なら、その条件を提示して佐伯さんと協議すればいい」


「条件……」


「移転先を探すのか。移転費用をどうするのか。営業への影響をどう扱うのか。明渡し時期を調整できるのか」


 私はそこで、ようやく腑に落ちました。


 そうか。


 契約なら、


 「従え」


 ではない。


 「話し合え」


 なんだ。


 もちろん契約にも義務はあります。


 約束したら守らなければならない。


 むしろ、その意味では冷たい。


 でも冷たいから、


 相手が役所だから黙って飲め、


 という雑な処理を止められる。


「でも」


 村瀬課長が言いました。


「行政主体が契約する場合だって、公共性は考慮されるでしょう」


「当然です」


 所長は答えました。


「しかし公共性という言葉だけで、契約相手の同意を消していいわけではありません」


 倉田係長が手元の書類を見ました。


「……そもそも、この文書の書き方がまずいですね」


「倉田?」


「『明け渡すようお願いする』と書いてあるのに、現場では『市の決定だから出てください』と説明している」


 あ。


 以前と同じです。


 紙ではお願い。


 口では命令。


 役所あるある、再び。


「担当者は誰です?」


「若手です」


「本人は、行政財産の使用許可と貸付契約をごちゃ混ぜにしてるんじゃないですか」


 倉田係長が言いました。


 私は少し驚きました。


 おお。


 この人。


 前より一歩、こっちへ来てる。


 村瀬課長が渋い顔をします。


「……確認します」


 相馬先輩が言いました。


「確認だけじゃ困る。佐伯さんは店を続けなきゃ飯が食えない」


「分かっています」


「じゃあ今日は、“来月十五日で決定”を一度下ろしてください」


「白紙にしろと?」


「違う」


 所長が言いました。


「協議に戻してください」


 その一言が、たぶん今日の答えでした。


 取消しでもない。


 撤回でもない。


 処分の無効でもない。


 そもそも、そんな入口ではなかった。


 契約相手同士の話し合いに戻す。


 上と下になっていた机を、同じ高さに戻す。


「市としては、観光案内所への転用方針を変えることはできません」


 村瀬課長が言います。


「それは構いません」


 美代子さんが初めて、自分から言いました。


「私も五か月絶対ここにいるって言いたいわけじゃないんです」


 声はまだ小さい。


 でも、さっきとは違う。


「次の場所を探してもらえるなら。棚を動かす費用も相談できるなら。せめてお客さんに知らせる時間がもらえるなら」


 村瀬課長は黙って聞いていました。


 やがて書類を閉じます。


「……分かりました」


 美代子さんが顔を上げました。


「明渡し日は一度保留します」


「本当ですか」


「再整備担当と商工観光課にも確認して、代替場所を探します。移転に伴う条件についても、契約担当と整理します」


 相馬先輩が釘を刺します。


「口だけにしないでくださいよ」


「分かってます」


「書面で」


「分かってます」


「期限も」


「相馬さん」


 倉田係長が呆れた顔をしました。


「あなた、役所の人間より役所っぽいですね」


「褒め言葉として受け取っとく」


 たぶん褒めてません。


 帰り際。


 倉田係長が廊下で私を呼び止めました。


「朝比奈君」


「はい」


「一つ聞いていいか」


「何でしょう」


「今日の話って、結局なんだ?」


「え?」


「前は内部規則と法令の違いだっただろ」


「覚えてるんですね」


「嫌でも覚える」


「今回は……」


 私は少し考えました。


「役所が出てきても、全部が行政処分になるわけじゃない、ってことだと思います」


 倉田係長が腕を組みます。


「契約なら契約として考える?」


「はい」


「市と住民でも?」


「はい」


「対等に?」


「少なくとも、契約当事者としては」


 倉田係長はしばらく黙りました。


「……役所の職員はな」


「はい」


「『市が決めた』って言葉を使いすぎるんだよ」


 意外な言葉でした。


「便利なんですか」


「便利だ」


「認めるんですね」


「便利だから危ない」


 倉田係長は自分で言って、少し苦い顔をしました。


「若いのにも言っとく」


「お願いします」


「君も、何でも役所に喧嘩売るなよ」


「売ってません」


「毎回来る」


「相談者が来るんです」


「そのうち市役所に机置くか?」


「嫌です」


「即答か」


「片桐事務所のほうがお茶がおいしいので」


「そこか」


 事務所へ戻ったころには、空が少し赤くなっていました。


 美代子さんは、何度も頭を下げました。


「ありがとうございました」


「まだ決まったわけじゃありませんよ」


 私は言いました。


「移転先もこれからですし、条件もまだ」


「それでも」


 美代子さんは微笑みました。


「昨日までは、来月には店がなくなるって思ってましたから」


 その違いは大きい。


 店を失わない、と決まったわけではない。


 でも、


 あなたの意見は聞かなくていい。


 から、


 条件を話し合いましょう。


 に変わった。


 制度の上では、たった一段。


 生活の上では、かなり大きな一段です。


「あの」


 美代子さんが紙袋を差し出しました。


「これ、よかったら」


「何です?」


「店で余った毛糸なんですけど」


 相馬先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。


「食えないのか」


「先輩、差し入れを食べ物前提にしないでください」


「団子の次だから期待するだろ」


「行政事件の報酬を間食で計算しないでください」


 美代子さんが笑いました。


「こはるちゃん、編み物します?」


「ほぼできません」


「じゃあ教えてあげる」


「本当ですか?」


「市役所との話が片づいたらね」


「それ、ものすごく良い成功報酬みたいですね」


「成功報酬って言うな」


 相馬先輩に頭を軽く小突かれました。


 片桐所長は奥で、今日の契約書の写しを読んでいます。


 私は自分の机に戻りました。


 そしてノートを開く。


 今日の題名だけ書きました。


 ――行政契約。


 その下にペンを置きかけて、止めます。


 行政契約。


 行政主体が、私人や他の行政主体と契約する。


 対等な立場。


 意思の合致。


 昨夜までなら、その三つを書いて終わりだったでしょう。


 でも、今日の美代子さんの顔を見たあとでは、それだけでは足りない気がしました。


 なぜ、行政行為とは違うのか。


 役所は、契約を結ぶときにも法律の根拠が必要なのか。


 行政主体が結ぶ請負契約や施設の利用契約は、普通の民間契約と何が違うのか。


 地方公共団体の契約には、入札や随意契約のようなルールもあるはずです。


 では、そのルールに違反した契約は、全部当然に無効になるのか。


 それから。


 もし町と業者が公害防止のために、法律上の許可以上に厳しい約束をしたら、その約束はどうなるのか。


 さらに公共工事。


 役所には契約相手を選ぶ裁量があるとしても、「村外の業者だから」というだけで長年参加していた業者を外すようなことまで自由なのか。


 ……だめだ。


 増えました。


 疑問が。


 行政法って、現場へ出るたびにテキストのページが増殖するんですけど。


「難しい顔して何してる」


 相馬先輩が覗き込みます。


「今日の復習です」


「もう答え分かっただろ」


「何がです?」


「役所でも、約束したら守れ」


「雑!」


「違うのか」


「間違ってはいないですけど!」


 私はノートを隠しました。


「もっとちゃんと整理したいんです。行政行為との違いとか、契約の法律上の根拠とか」


「論点で喋るな」


「先輩が振ったんでしょう!」


 片桐所長が、契約書から目を上げました。


「こはる」


「はい」


「今日の佐伯さんの件で、一番まずかった言葉は何だ」


 私は考えました。


 市有施設です。


 公共のためです。


 市の判断です。


 いろいろあります。


 でも。


「『市の決定だから』ですか?」


「なぜだ」


「契約の話を、処分みたいにしたから」


 所長が頷きました。


「それだけ覚えておけ」


「でも、行政契約の細かいところは?」


「自分で調べろ」


「やっぱり!」


 相馬先輩が笑います。


「所長の教育方針は一貫してるな」


「放置とも言いますよ」


「考えさせてるんだ」


「便利な言い換えですね」


 私はもう一度ノートを見ました。


 そして、今日は説明を書かず、一行だけ残しました。


 ――役所が契約書に判を押したら、そこは「上から命令する場所」ではなくなる。


 少し考えて、


 「原則として」


 と横に小さく付け足しました。


「何で付け足した」


 相馬先輩が聞きます。


「行政法で断言すると、あとでだいたい例外に殴られるので」


「成長したな」


「嫌な成長です」


 夕暮れの事務所。


 古い扇風機が、カタカタ音を立てています。


 机の端には、美代子さんが置いていった毛糸。


 赤。


 黄色。


 薄い青。


 ばらばらの色なのに、一つの袋に入ると妙に暖かく見えました。


 たぶん契約も同じです。


 行政主体。


 私人。


 立場も力も、現実には同じじゃない。


 市役所と小さな手芸店。


 どう考えても、見た目の大きさは違います。


 それでも契約という形を選んだ瞬間、


 法律はその二人を、


 「約束した者同士」


 という同じ机につかせる。


 条文は冷たい。


 契約書だって冷たい。


 紙に書いてあるのは期間と金額と義務ばかり。


 でも、その冷たさがあるから、


 「役所なんだから従ってください」


 という温度の高すぎる圧力を、いったん止めることができる。


 今日、美代子さんの店が守られたわけではありません。


 たぶん移転はするでしょう。


 市の観光案内所も必要なのでしょう。


 公共事業そのものを止めたわけでもない。


 ただ。


 出ていけ。


 から、


 どうすれば出てもらえるか話しましょう。


 に変わった。


 私は、その違いを忘れたくないと思いました。


「先輩」


「何だ」


「もし私が先輩と、『明日の掃除は先輩が全部やる』って契約したら」


「しない」


「合意してください」


「嫌だ」


「行政契約以前に契約が成立しない」


「当たり前だ」


「じゃあ所長」


「嫌だ」


「まだ何も言ってません!」


「掃除なら相馬だ」


「所長!」


「俺に決定権がある」


 相馬先輩が叫びました。


「それ、契約じゃなくて命令でしょう!」


 私は思わず吹き出しました。


 なるほど。


 行政行為と行政契約。


 今日のところは、それくらいの違いで覚えておけばいいのかもしれません。


 片方は、


 「決める」。


 もう片方は、


 「合意する」。


 役所が登場しただけで、その二つをごちゃ混ぜにしない。


 それが今日の教訓です。


 そして翌朝。


 私は相馬先輩の机の上に、雑巾が三枚置かれているのを見ました。


「……先輩」


「何だ」


「所長の命令、執行されてますね」


「うるさい」


「不服申立ては?」


「却下された」


「早い」


「口頭でな」


「教示は?」


「『働け』だと」


「簡潔すぎる!」


 どうやら片桐行政書士事務所では、


 行政契約より先に、


 所長権力の統制を学んだほうがよさそうです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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