[行政行為の取消しと撤回]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、昼間より少しだけ法律が似合います。
電話が減る。
来客も途切れる。
窓から差し込む西日が、書棚の背表紙を赤く染める。
そして私の机の上には、水野さんが置いていったナポリタンの空き容器。
「……先輩」
「何だ」
「私の分、ちょっと減ってませんでした?」
「気のせいだ」
「ケチャップの付いたフォーク持ちながら言われても説得力ありませんよ」
「証拠があるなら立証しろ」
「行政事件訴訟の前に窃盗事件にしません?」
「大げさだな」
大げさではありません。
食べ物の恨みは、行政法より長く残ります。
私は空き容器を脇へ寄せて、ノートを開きました。
昨日――という感覚でいいのか、この昭和六十三年生活。
ともかく今日の昼、水野哲也さんが事務所へ飛び込んできました。
駅裏で喫茶店「こもれび」を営む水野さん。
市の都市整備課から、
「営業許可を取り消す方向です」
と電話で告げられ、店を畳むものだと思い、看板まで外してしまった。
ところが話を聞いてみると、妙でした。
営業許可を出した当初、水野さんの申請に不正はない。
設備基準も満たしている。
検査も済んでいる。
許可そのものには、もともと問題がなかった。
問題が出たのは、その後です。
駅前再整備計画が変更され、店舗周辺を工事用通路として使う可能性が出てきた。
つまり。
私はノートの真ん中に線を引きました。
取消し。
撤回。
似た顔をしています。
でも、見る時間が違う。
「相馬先輩」
「何だ」
「昨日まで、この二つをわざわざ分ける意味がよく分からなかったんですよ」
「試験に出るからだろ」
「夢がない」
「資格試験に夢を求めるな」
「少しくらいくださいよ」
私は鉛筆を持ち直しました。
「でも、水野さんの件で分かりました」
「何が」
「行政行為が“いつ駄目だったのか”で、話が変わるんですよね」
奥で帳簿を見ていた片桐所長が、短く言います。
「そこが入口だ」
私はノートの一番上に大きく書きました。
行政行為の取消し。
行政行為が成立した時点ですでに瑕疵があり、その瑕疵を理由として、効力を失わせる。
原則として、行政行為がなされた時点にさかのぼって効力を失わせる。
「つまり」
私は自分で声に出して確認しました。
「最初から問題があった行政行為ですね」
「ああ」
所長が答えます。
たとえば。
不正な手段を使って行政書士登録を受けた。
本当は要件を満たしていないのに、嘘の書類を出した。
行政庁がそれを見抜けず、登録してしまった。
その時点では、形式上は登録されている。
でも、成立の瞬間から問題を抱えている。
「後から不正が発覚したから、後から瑕疵が生まれたわけじゃない」
「そうだ」
所長が言いました。
「不正は登録の時点ですでに存在している」
「なるほど」
私は書きます。
取消し=原因は成立時。
効果=原則として遡及。
そして、その下にもう一つ。
行政行為の撤回。
これは、成立した時点では適法。
ところが、その後の事情によって、行政行為を将来に向かって存続させる理由がなくなる。
そのため、将来に向かって効力を失わせる。
「水野さんの件で言えば」
私は言いました。
「営業許可を出したときは問題なかった。でも、その後に駅前再整備の事情が出てきた」
「そうだな」
「仮に、その後の事情を理由に営業許可の効力を失わせるなら、法律上は撤回の問題になる」
「そういうことだ」
ここ。
昨日までなら、試験問題の単なる分類でした。
でも水野さんは、「取消します」と言われて看板を外した。
一般の人からすれば、呼び方なんてどうでもいい。
営業できなくなるなら、同じです。
でも法律では同じではない。
「所長」
「何だ」
「撤回なのに、法律や処分の文言では“取消し”って書いてあることもあるんですよね」
「ああ」
「それ、受験生に優しくなさすぎません?」
「法律用語は受験生のために作られていない」
「正論が刺さる」
そう。
大事なのは名称ではありません。
処分書に「取消し」と書いてあるか。
役所が「取消し」と呼んでいるか。
ではない。
原因を見る。
最初から瑕疵があったのか。
それとも後から事情が生じたのか。
それによって、取消しか撤回かを判断する。
私はノートの端に書きました。
名前ではなく、原因を見る。
「じゃあ、質問」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「違法な行政行為って、その時点で無効なんじゃないのか」
「あ」
来た。
公定力。
昨夜まで見ただけで眠くなった単語です。
「違います」
「説明」
「違法な行政行為でも、当然に無効になるとは限らない」
「うん」
「取消されるまでは、一応有効なものとして扱われる」
「それを?」
「公定力」
よし。
言えた。
私はノートに書きます。
行政行為には公定力がある。
違法な行政行為であっても、権限ある機関によって取消されるまでは、一応有効なものとして扱われる。
「だから」
私は続けました。
「最初から瑕疵があったとしても、本人が勝手に“これは違法だから無視します”とはできない場合がある」
「そうだ」
所長が言いました。
「まず効力を失わせる必要がある」
行政法って、変なところが冷静です。
間違っている。
だから即ゼロ。
とはしない。
いったん行政行為として成立した以上、法的安定性のために、正式に効力を除くまでは有効として扱う。
乱暴に言えば、
間違った役所の決定でも、正式にひっくり返すまでは決定として立っている。
それが公定力。
「嫌な力ですね」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「でも逆に、毎回本人が勝手に無効だと言い出したら行政が回らんだろ」
「それもそうなんですよね」
ここが行政法の面倒なところです。
個人を守る。
行政も回す。
どっちか一方だけでは済まない。
私は次の見出しを書きました。
職権取消し。
争訟取消し。
「取消しにも二種類あるんですよね」
「言ってみろ」
所長の口頭試問です。
「職権取消しは、行政庁が自分で、以前の行政行為が違法または不当だったと認めて取り消すもの」
「相手方からの主張を待たずに、だな」
「はい」
たとえば。
不正申請を見抜けずに行政書士登録を認めた。
後から行政庁が、
この登録は最初から違法だった。
と気づき、自ら取り消す。
これが職権取消し。
「争訟取消しは?」
「行政処分を受けた側が、不服申立てや取消訴訟で争って、審査庁や裁判所などによって取消される場合」
「そうだ」
たとえば。
行政書士登録を職権取消しされた本人が、
いや、自分は不正なんてしていない。
この取消処分こそ違法だ。
と争う。
そして裁判所が、
取消処分は違法だから取り消す。
と判断する。
これが争訟取消し。
「取消しを取り消す」
私は呟きました。
「日本語だけ見ると迷路ですね」
「だから論点で見ろ」
「先輩が論点って言った」
「うるさい」
私は笑いながら次へ進みます。
では。
行政庁が職権取消しをするには、法律に、
この場合は取消してよい。
と明文で書いてなければならないのか。
答え。
必ずしも、特別な法律上の根拠は必要とされない。
「ここ、ちょっと意外でした」
私は所長を見る。
「法律の根拠がなくても取消せるんですよね」
「ああ」
「権利を奪う可能性もあるのに?」
「だから制限が問題になる」
なるほど。
理屈としては、
違法な行政行為を行政庁自身が是正する。
そのために、いちいち個別の根拠規定がなければ何もできない、とすると不都合がある。
だから職権取消しそのものには、一般に特別な法律上の根拠は必須ではない。
でも。
だから自由に何でも取り消していい。
ではない。
「ここで授益的行政行為ですね」
「そうだ」
所長が言いました。
授益的行政行為。
私人に利益を与える行政行為。
営業許可。
給付決定。
免許。
登録。
そういうものです。
水野さんの営業許可も、典型的に本人へ利益を与える行政行為です。
「たとえば営業許可を受けて」
私は昨日の資料を思い出します。
「厨房を工事して、冷蔵庫を買って、看板も作って、店を開いた」
「うん」
「そのあと役所が、“やっぱりあの許可、最初から違法だったから取り消します”って言ったら」
「相手は大きな不利益を受ける」
所長が続けます。
「だから、授益的行政行為の職権取消しには制約がかかる」
私はノートに線を引きました。
行政庁の適法性回復。
相手方の信頼・利益。
この二つを比べる。
「判例も、比較衡量するんですよね」
「そうだ」
私は慎重に言葉を選びます。
処分庁など正当な権限を持つ行政庁が、自ら以前の処分を違法・不当と認めた場合でも。
処分を取消すことによる相手方の不利益と。
その処分を維持することによる不利益と。
それらを比較する。
そして、処分を放置することが公共の福祉の観点から著しく不当といえるような場合に、職権取消しが認められる。
「つまり」
私は言いました。
「役所が、“間違ってました。以上”では済まない場合がある」
「そういうことだ」
片桐所長が答えます。
最初から違法だった。
だから必ず取消せる。
そんな単純な話ではない。
その行政行為を信頼して、私人が生活や事業を組み立てている場合がある。
行政の間違いを正す必要性と。
その人の信頼を壊す不利益。
そこを無視できない。
「制度の冷たさが、逆に人を守るところですね」
私は小さく言いました。
「何だ急に」
相馬先輩がこちらを見る。
「いえ」
でも本当にそう思いました。
営業許可という言葉は冷たい。
授益的行政行為も冷たい。
比較衡量なんて、もっと冷たい。
でもその冷たい言葉が、
厨房に百万円かけた人の生活を、
“役所が間違えたんだから仕方ない”
の一言から守る。
法律って、そこが妙です。
私は次に書きました。
取消権者。
「職権取消しできるのは?」
相馬先輩が聞きます。
「処分庁」
「他」
「上級行政庁」
「撤回は?」
「……処分庁だけ」
「よし」
昨日の水野さん事件で、ここがまさに問題になりました。
営業許可を出したのは保健所。
ところが電話してきたのは市の都市整備課。
都市整備課には、
工事計画を調整する権限があるかもしれない。
店舗移転の協議をする立場でもある。
でも。
だから営業許可まで自由に消せるわけではない。
「行政って、“役所”でひとまとめに見ると危ないですね」
私は言いました。
「そうだ」
所長が答えます。
「権限は組織ごと、機関ごとに分かれている」
「昨日、水野さんは“市役所に言われたから全部決まった”と思ってました」
「一般の人ならそう思う」
「私も前ならそう思いました」
外から見れば全部、
市役所。
県庁。
国。
役所。
でも行政法では、
誰が処分庁なのか。
誰に取消権限があるのか。
そこを切る。
この区別がないと、権限のない人の発言が、行政処分そのものに見えてしまう。
「じゃあ次」
相馬先輩が言います。
「職権取消しは、何でもできるか」
「できません」
「具体的に」
「まず、不可変更力がある行政行為は駄目」
私はノートへ書きます。
不可変更力。
行政庁自身が、一度した判断を自由に変更できない効力。
典型的には、不服申立てに対する裁決。
「一度裁決したら、裁決庁自身が後から勝手にひっくり返せない」
「そうだ」
「裁判所の判決に近い感じですね」
「近いと考えればいい」
行政庁も、一定の場合には自分の判断を自由にやり直せない。
これが不可変更力。
「次」
「侵害的行政行為の職権取消しは、基本的には相手に有利」
「例は」
「行政書士登録を取り消す処分」
「それをさらに職権取消しすると?」
「登録取消処分が消えるので、本人には利益になる」
「だから?」
「一般に、授益的処分を取り消す場合ほど厳しい制限はない」
「よし」
そして。
授益的行政行為の職権取消しは慎重。
ここはさっきの水野さんの話に直結します。
「で」
相馬先輩が腕を組みました。
「ここまでが取消し」
「はい」
「じゃあ撤回」
「来ました」
私はページをめくりました。
行政行為の撤回。
成立時には適法。
その後に生じた事情を理由として、将来に向かって効力を失わせる。
「典型例は?」
「免許を正当に取得したあとに、その免許を失わせるような事情が発生した場合」
たとえば。
最初は正当に行政書士登録を受けた。
でもその後、法が定める欠格事由に該当するような事情が生じた。
すると将来に向かって登録を失わせる。
法律上は撤回の問題。
「大事なのは」
私は鉛筆で丸をつけました。
「行政実務では“取消し”という言葉を使っていても、法理上は撤回のことがある」
「だから名称に釣られるな」
「原因を見る」
「そうだ」
私は昨日のノートの一行を見返しました。
――「取り消す」と言われたら、まず時間軸を見ろ。
悪くない覚え方です。
自画自賛します。
「じゃあ撤回に法律上の根拠は?」
所長が聞きました。
「特別な根拠は必ずしも必要ではない」
「理由は」
「その行政行為を存続させる基礎が後から失われた場合などに、行政目的を実現するため撤回が必要になるから」
私は少し間を置きました。
「ただし、これも無制限じゃない」
「そうだ」
ここも大事です。
法律上の特別な根拠が不要。
その一文だけ覚えると危ない。
受験生は、
根拠不要=自由。
と飛びつきたくなる。
でも行政法は、そういう雑な覚え方をすると必ず次のページで刺してきます。
「撤回も、比例原則とか信頼保護とか、利益の比較が問題になる」
「そう考えろ」
所長が言います。
たとえば。
小さな違反一つ。
軽微な事情変更一つ。
それだけで直ちに最も重い不利益処分をする。
そんなやり方は、必要性や相当性との関係で問題になる。
行政目的の達成に必要な範囲を超えていないか。
本人へ与える不利益が過大ではないか。
そこを見る。
「昨日の都市整備課みたいに」
私は言いました。
「工事計画が変わるかもしれない。だから営業許可を消します、では飛びすぎてる」
「そうだな」
相馬先輩が言います。
「そもそも営業許可を消す必要があるのかから考えろって話だ」
「移転協議で済むかもしれない」
「工事通路を変えられるかもしれない」
「仮設措置で足りるかもしれない」
「別の行政上の手続になるかもしれない」
そう。
行政目的がある。
だから直ちに許可撤回。
ではない。
目的と手段をつなぐ必要がある。
私は次に書きました。
撤回権者。
処分庁のみ。
「ここ、取消しと違いますね」
「ああ」
「取消しは処分庁と上級行政庁」
「原則な」
「撤回は処分庁だけ」
「そうだ」
「試験で混ぜてきそう」
「混ぜてくるだろうな」
「嫌な笑顔やめてください」
相馬先輩、受験生が引っかかるところを楽しむ顔をしています。
私は次へ進みます。
撤回の制限。
まず。
不可変更力がある行政行為は撤回できない。
これは職権取消しと同じ。
「侵害的行政行為の撤回は?」
「本人に利益になるなら、一般に制限は弱い」
「授益的行政行為は?」
私は少し考えました。
「原則として、自由には撤回できない」
「そうだ」
営業許可。
補助金決定。
使用許可。
免許。
そうした利益を与える行政行為を、後から事情が変わったからというだけで行政が簡単に消していいなら。
私人は行政処分を信頼して行動できなくなります。
水野さんなんて、その典型です。
許可を信じて厨房を改装した。
設備を買った。
店を開いた。
そこへ突然、
事情が変わったので、今日から終わりです。
では困る。
「じゃあ授益的行政行為は、絶対に撤回できないんですか」
私が聞くと、所長が首を振りました。
「絶対ではない」
「ですよね」
行政上の必要性が生じる場合もある。
許可を維持することで公共の利益に重大な支障が生じる場合もある。
本人側の事情が変わる場合もある。
だから問題は、
撤回できるかゼロか百か。
ではなく。
なぜ撤回するのか。
どれほど必要なのか。
相手がどれほど信頼しているのか。
その不利益をどう考えるのか。
そういう比較になります。
「判例で行政財産の使用許可の話がありますよね」
「ある」
所長が答えます。
私はノートを確認しました。
都有行政財産である土地について。
建物所有を目的として期間の定めなくされた使用許可があった。
しかし後に、その土地を本来の行政目的で使う必要が生じた。
そこで将来に向かって使用許可が取り消された。
法理上は撤回です。
「この場合」
私は言いました。
「使用権者は、撤回で土地を使えなくなったんだから、必ず損失補償を受けられるわけじゃない」
「そうだ」
所長が答えます。
「特別の事情がなければ、補償は当然には認められない」
「特別の事情?」
「行政財産として使う必要が生じても、なおその人に使用権を保持させるだけの実質的理由があるような事情だ」
「許可の際に、特別な約束がされていたとか」
「そういう事情だな」
なるほど。
私は書き込みます。
行政財産の本来の用途・目的のために必要となって使用許可を撤回した場合。
特別の事情がない限り、使用権喪失について当然に補償を求められるわけではない。
「これも」
私は昨日の水野さん事件を思い返しました。
「行政が後から必要になったから全部補償しろ、でもないし」
「逆に何でも無償で取り上げられる、でもない」
相馬先輩が言います。
「結局、事情を見るんですね」
「行政法はだいたい事情を見る」
「試験では断言してくるくせに」
「それを見抜くのが試験だ」
身も蓋もない。
私はノートに、大きく二本の矢印を書きました。
取消し。
過去へ戻る。
撤回。
未来へ進む。
「これ、イメージで覚えた方がいいですね」
「どう覚える」
「取消しは“出生時検査”」
「何だそれ」
「生まれた瞬間から問題があった行政行為」
「撤回は」
「途中で事情が変わって、これから先は続けられなくなる」
「まあ、分からなくはない」
相馬先輩が嫌そうに認めました。
私は少し勢いづきます。
「じゃあ水野さんの営業許可」
「うん」
「許可時に申請書の偽造があった。実は設備基準も満たしていなかった。それを役所が見抜けず許可した」
「それなら?」
「取消し」
「効果」
「原則として遡及」
「じゃあ許可時には全部適法だった。しかし、その後に本人が重大な許可条件違反をした」
「撤回」
「効果」
「将来に向かって失効」
「昨日の都市整備計画変更」
「それだけで直ちに撤回できるかは別として、時間構造としては撤回の側」
「よし」
口頭試問、通過。
私は満足して鉛筆を置きかけました。
「まだだ」
所長が言いました。
「え」
「試験で危ないところ」
厳しい。
私は鉛筆を持ち直しました。
「まず、“取消し”という文言があるから法律上も取消しとは限らない」
「うん」
「成立後の事情を理由に将来へ向かって効力を失わせるなら、法理上は撤回」
「他」
「違法な行政行為でも、取消されるまでは公定力で一応有効」
「他」
「職権取消しに特別な法律上の根拠は、原則として不要」
「撤回も」
「同じく、必ずしも特別な根拠を要しない」
「権限者」
「職権取消しは処分庁と上級行政庁。撤回は処分庁」
「授益的行政行為」
「取消しも撤回も、相手方の信頼や不利益が大きいので制限が問題になる」
「不可変更力」
「裁決など、不可変更力のあるものは行政庁自身が自由に職権取消しや撤回をできない」
所長が頷きました。
「それでいい」
ほっとしました。
相馬先輩が言います。
「じゃあ最後に、一番簡単な見分け方」
「時間です」
「即答だな」
「最初から駄目なら取消し。後から駄目になったら撤回」
「雑だが、入口としてはそれでいい」
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行の覚え書き。
少し考えてから、書きます。
――行政行為の「取り消します」は、まず“いつ問題が生じたか”を見る。
「普通だな」
相馬先輩が言いました。
「普通でいいんです。試験前日に思い出せる言葉じゃないと意味ないので」
「じゃあもう一行」
「何です」
「役所が“取消しです”と言ったら?」
私は笑って、その下に書き足しました。
――名前を信じるな。原因と効力を見ろ。
「それはいい」
所長が短く言いました。
珍しく褒められました。
たぶん。
私はもう一度、水野さんの件を思い出します。
電話一本。
営業許可を取り消す方向です。
その一言で、水野さんは看板を外した。
でも実際には。
営業許可そのものについて正式な処分予定すらなかった。
都市整備課の担当者が、再整備計画上の懸念と、営業許可の効力を混ぜた。
さらに、
最初から違法な許可なのか。
後から事情が変わったのか。
そこも整理されていなかった。
言葉を分ける。
権限を分ける。
時間を分ける。
それだけで。
「もう店を閉めるしかない」
という一本の道が、
工事計画を見直す。
代替案を検討する。
誰に処分権限があるか確認する。
必要性を比較する。
そんな複数の道にほどけた。
法律って。
答えを一つ出すものだと思っていました。
でも現場では逆なのかもしれません。
雑に一つになった話を、いったん分ける。
取消しか。
撤回か。
処分庁は誰か。
成立時に問題があったのか。
成立後に事情が変わったのか。
相手方は、その行政行為をどれだけ信頼していたのか。
行政側には、どれほどの必要性があるのか。
そうやって分けたあとで。
ようやく、何をしていいかが見えてくる。
机の上に電話が鳴りました。
私が出ます。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『あ、朝比奈さん? 水野です』
「こんにちは。どうしました?」
『今日、市役所の人が店に来まして』
一瞬、身構えました。
「何かありました?」
『いえ。工事通路の案、別のルートも検討するって説明してくれました』
「本当ですか」
『まだ決定じゃないそうですけど』
「それでも一歩ですね」
『あと、営業許可の件は、“現時点で取り消す話ではない”って、はっきり言ってくれました』
水野さんの声は、前より軽い。
『看板、戻しておいてよかったです』
「はい」
『明日も普通に営業します』
「ナポリタン、作れますね」
『もちろん』
受話器の向こうで、水野さんが笑いました。
『今度は朝比奈さんの分、多めにします』
「お願いします。先輩が盗るので」
「おい」
隣から声が飛んできます。
水野さんがさらに笑いました。
『じゃあ、また』
「はい」
電話を置きました。
「誰が盗った」
「取消しを求めます」
「何を」
「先輩のナポリタン一皿分の権利を」
「成立時から瑕疵があるのか?」
「あります」
「何だ」
「先輩だから二皿食べていいと思ってることです」
「それ行政行為じゃないだろ」
「じゃあ撤回します」
「何を」
「今後、私のナポリタンに手を出す許可」
「そんな許可受けてない」
「最初から無権限だった!」
相馬先輩が吹き出しました。
所長が奥から言います。
「朝比奈」
「はい」
「そこまでいくと混ざってる」
「すみません」
せっかく整理したのに台無しです。
私はノートを閉じました。
窓の外では、昭和六十三年の町が夕暮れに沈み始めています。
駅前では再整備の測量杭が並び。
その少し外れで、たぶん今頃、水野さんが「こもれび」の看板に明かりを入れている。
行政行為の取消しと撤回。
名前だけなら眠い。
判例まで並べると、もっと眠い。
でも。
その区別を間違えると、
過去に問題があったのか。
未来を変える理由が生じたのか。
そこさえ曖昧なまま、人の仕事を終わらせることになりかねない。
だから法律は、面倒なくらい分けるのでしょう。
取消し。
撤回。
過去と未来。
成立時の瑕疵と、その後の事情。
役所が使う一つの「取り消す」という言葉の中に、別々の制度が入っている。
今日、私が覚えたのは。
行政法で「取消し」という言葉を見たら、言葉そのものに飛びつかないこと。
まず時間軸を見る。
次に権限を見る。
そして最後に、
その一言で困る人が、どこに立っているのかを見る。
条文は冷たい。
取消しも撤回も、名前だけなら人情なんてありません。
でも。
その冷たい区別が、
電話一本で外された店の看板を、
もう一度掛け直す時間を作ってくれることがある。
私はノートの最後に、もう一度だけ書きました。
――最初から駄目なら取消し。後から駄目なら撤回。言葉ではなく、時間を見る。
今度こそ、忘れない気がしました。
たぶん。
少なくとも次にナポリタンを取られたときまでは。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




