[行政行為の取消しと撤回]現場編 「許可した以上、役所は取り消せません」の罠。最初から違法だった許可と、あとから失われた資格
役所の「取り消します」は、ときどき二種類あります。
最初から間違っていたから、なかったことにする。
最初は正しかったけれど、あとから事情が変わったから、これから先は認めない。
日常会話では、どちらもだいたい「取り消す」で済みます。
だから困るんです。
法律だけが、そこを妙に細かく分けてくるので。
昭和六十三年。
地方都市の片桐行政書士事務所で、私は朝から一枚の紙とにらめっこしていました。
「……取消しと撤回」
鉛筆でノートに書く。
その下に、
取消し――最初から瑕疵。
撤回――あとから事情変更。
と書いてみる。
そして三秒後。
「似てる……」
「朝から何がだ」
向かいの机で相馬先輩が書類を綴じながら言いました。
「取消しと撤回です」
「違うだろ」
「分かってます。分かってるんですけど、問題文で『許可を取り消した』って出てくると、脳が全部“取消し”箱に放り込もうとするんですよ」
「お前の脳の整理棚が雑なんだろ」
「行政法の用語が悪い可能性も検討してください」
「却下」
また即決です。
私が昨夜読んでいたテキストには、こうありました。
行政行為の取消し。
行政行為の撤回。
職権取消し。
争訟取消し。
取消権者。
撤回権者。
取消しの制限。
撤回の制限。
いやもう。
似た言葉を近所に密集させるの、やめません?
受験生の頭の中では、住宅密集地より火事になります。
そんなことを考えていたときでした。
事務所の引き戸が、勢いよく開きました。
「先生!」
飛び込んできたのは、四十代半ばくらいの男性でした。
額に汗。
紺色の作業着。
片手に封筒。
もう片方の手には、なぜか小さな木製の看板。
看板には墨で、
喫茶・軽食 こもれび
と書かれていました。
どう見ても、相談に来るとき持ってくる物ではありません。
「どうしました」
奥から片桐所長が出てきます。
男性は封筒を机の上へ置きました。
「営業許可を取り消すって言われたんです」
私はノートから顔を上げました。
取消し。
今、言いましたね。
朝から揉めていた単語が、向こうから歩いてきました。
こういうときだけ行政法は距離感がおかしいです。
「お名前を」
「水野です。水野哲也。駅裏で『こもれび』って喫茶店をやってます」
「ああ、駅前再整備の脇の」
相馬先輩が顔を上げました。
「去年できた店か」
「はい。親父の倉庫を改装して。市の観光振興の話もあって、駅に来る人向けの軽食を出そうって」
聞けば、水野さんは昨年、市の関係窓口と保健所に相談しながら店舗を整備し、必要な営業許可を得て店を始めたそうです。
コーヒー。
サンドイッチ。
ナポリタン。
昭和の喫茶店として隙のない布陣です。
ところが今朝、市役所の担当者から電話があった。
駅前再整備の工事計画が変更され、店の一部が将来の工事用通路にかかる可能性が出てきた。
そのため――
「『営業許可を取り消す方向です』って」
水野さんが言いました。
「それで店をやめろっていうんですか」
「書面は?」
片桐所長が聞きます。
「まだです。電話だけです」
「正式な処分を受けた?」
「いえ。でも、『市の方針なので』って」
相馬先輩が眉を寄せました。
「営業許可を出したのは誰だ」
「保健所です」
「電話してきたのは?」
「市の都市整備課です」
はい。
この時点で、もう何かがおかしい。
私は思わず口を挟みました。
「水野さん、その人は本当に“営業許可そのものを取り消す”って言ったんですか?」
「そうです。『今後、営業継続を認めるのは難しいので、許可を取り消す方向で調整する』って」
「許可を出した保健所からじゃなく?」
「はい」
相馬先輩が私を見る。
「何だ」
「いえ」
私は少し考えました。
誰が取消せるのか。
誰が撤回できるのか。
朝からノートに書いていた単語が、急に机の上から立ち上がった気がします。
「ちょっと、変じゃないですか」
「どこが」
「まず、“誰が何を取り消すのか”が混ざってます」
水野さんが首をかしげました。
「同じじゃないんですか」
「たぶん、そこを分けないと危ないです」
私は自分で言ってから、頭の中を探りました。
取消し。
撤回。
行政行為。
処分庁。
上級行政庁。
うう。
昨夜は文字が全部同じ色をしていたのに。
でも水野さんの店がかかっていると思うと、輪郭が出てくる。
「所長」
「言ってみろ」
「営業許可が出た時点で、何か違法なところがあったんでしょうか」
水野さんは首を振りました。
「ないです。保健所の検査も受けました。厨房も直しました。流し台も増やした。冷蔵庫も買った。全部言われたとおりに」
「申請に嘘は?」
「ないです!」
「隠したことも?」
「ありません!」
声が大きくなりました。
「すみません」
「いや、いい」
片桐所長が水野さんを落ち着かせます。
私は続けました。
「じゃあ、今の話だけなら、許可そのものが最初から間違っていた、って話ではなさそうです」
「そうですね」
「問題が出てきたのは、許可のあとです。駅前再整備の計画が変わった」
「はい」
そこで。
私の頭の中で、二つの単語がようやく別の箱へ落ちました。
「だったらこれ、“取消し”って呼んでるけど、本当に法律上の取消しなんですかね」
相馬先輩の手が止まりました。
所長の目がこちらへ向きます。
「続けろ」
「行政行為の取消しって、成立した時点ですでに問題があった場合ですよね」
「ああ」
「でも水野さんの営業許可は、出た当時は適法だった。少なくとも、今聞いてる範囲では」
「そうだな」
「なら、その後に事情が変わったことを理由に将来へ向かって効力を失わせるなら――」
口に出す前に、一瞬怖くなりました。
合ってる?
昨夜、眠気と戦いながら読んだところですけど?
でも。
ここまで来たら言うしかない。
「撤回、じゃないですか」
片桐所長が、小さく頷きました。
「そう考えるべきだな」
よし。
心の中で小さく拳を握りました。
相馬先輩が言います。
「で、それが何の役に立つ」
「そこですよ」
調子に乗った瞬間、実務に殴られました。
「言葉遊びじゃ店は残らんぞ」
「分かってます」
私は封筒を見ます。
「でも、“取消しだから役所ならいつでも消せる”みたいな話にはならないはずです」
「ほう」
「しかも、撤回するにしても、その許可を出した行政庁と、市の都市整備課は同じじゃない」
所長が立ち上がりました。
「相馬」
「はい」
「市役所へ行く。保健所にも連絡しろ」
「了解」
そして所長は私を見ます。
「こはるも来い」
「やっぱりですか」
「言い出しっぺだ」
この事務所における言い出しっぺ責任、法的根拠はたぶんありません。
でも実効性だけは恐ろしいほどあります。
◇
市役所の都市整備課は、駅前再整備の図面で埋まっていました。
壁には駅前広場。
バス乗り場。
歩道。
仮設店舗。
そして赤鉛筆で引かれた工事区域。
その端に、小さく「こもれび」の文字がある。
案内された会議机の向こうに座ったのは、倉田係長でした。
最近、会う頻度が高いです。
この町、行政法の論点が全部この人のところに集まってません?
「また片桐さんですか」
倉田係長は、露骨に嫌そうな顔をしました。
「こっちの台詞です」
相馬先輩が言います。
「水野さんの店の件」
「ああ……」
倉田係長の眉間に皺が寄りました。
「再整備計画が変更になりましてね」
「営業許可を取り消すそうですね」
私が言うと、係長は首を振りました。
「いや、まだ決定ではありません。今後の営業継続は難しいと伝えただけです」
「誰が許可を取り消すんです?」
「それは……」
「都市整備課ですか?」
「いや、営業許可自体は保健所ですから」
「じゃあ、都市整備課が取り消すんじゃない」
「まあ、それはそうですが」
相馬先輩が机に肘をつきます。
「なら電話で『許可を取り消す方向』なんて言うな。本人はもう店を畳まされると思ってるぞ」
「しかし、工事区域にかかる可能性がありまして」
「可能性?」
「正式決定はまだです」
私は反射的に聞きました。
「正式決定もまだなんですか?」
「ええ。ただ、ほぼそうなる見込みです」
ほぼ。
行政実務でよく出てくる、便利だけど住民には怖い言葉です。
ほぼ駄目。
ほぼ決定。
ほぼ無理。
その“ほぼ”の中に、手続が丸ごと埋まっていることがあります。
「倉田係長」
私は聞きました。
「水野さんの営業許可は、許可を受けた当初に何か問題があったんですか?」
「いや、ありません」
「申請に虚偽があったとか」
「聞いていません」
「設備基準を満たしていなかったとか」
「それもないです」
「じゃあ、許可は当初は適法だった」
「そうですね」
「その後に駅前再整備の事情が変わった」
「ええ」
「それなら、“最初から違法だったから取り消す”話ではないですよね」
倉田係長が私を見ました。
「……何が言いたいんです」
「言葉を正確にしないと、次の議論を間違えると思います」
私は少し息を整えました。
「もし本当に許可の効力を将来に向かって失わせるというなら、それは“撤回”として考える話じゃないですか」
倉田係長は黙りました。
そして、横に座っていた若い職員が小声で言います。
「撤回……」
はい。
その反応、昨日までの私です。
「法律用語では、そういう区別があります」
私は言いました。
「最初から問題があった行政行為を消す取消しと、最初は問題がなかったけれど、その後の事情によって将来へ向かって効力を失わせる撤回」
「でも一般には、どっちも“取消し”って言いますよね」
若い職員が言いました。
「言います。だから余計に危ないんです」
私は自分で言いながら、ちょっと感動していました。
昨日まで試験問題の嫌がらせだと思っていた区別が、いま人の店を畳ませるかどうかの話になっている。
用語って、現場へ来ると急に責任を持ち始めます。
倉田係長が腕を組みました。
「しかし、呼び方がどうであれ、必要なら行政は許可を失効させることがあるでしょう」
「あります」
片桐所長が初めて口を開きました。
「だが、“必要そうだから”で済む話ではない」
係長の顔が固くなります。
「工事上の必要があります」
「まだ工事区域も正式決定していない」
「ですが――」
「それに」
所長は淡々と続けました。
「この店は営業許可を前提に設備投資をしている」
水野さんが持参した資料を机へ置きます。
厨房改装。
給排水工事。
冷蔵庫。
排気設備。
看板。
合計金額を見て、私は一瞬目を疑いました。
喫茶店って、始めるのにこんなにかかるんですか。
ナポリタン一皿の背後に、設備投資が重すぎます。
「百万円単位で投資している」
所長が言います。
「許可が出たからだ」
倉田係長は黙りました。
「行政側に事情が生じたからといって、利益を与えた処分を何の考慮もなく消せるわけではない」
「でも、市の事業も止められません」
「止めろとは言っていない」
所長の声は静かでした。
「混ぜるなと言っている」
「……何をです?」
「再整備計画上、水野さんの店舗の移転が必要になる可能性があること」
「はい」
「営業許可そのものを消せること」
「……」
「同じではない」
ああ。
今日もこの人、一言が重い。
私は頭の中で線を引きました。
店を移転してほしい。
土地を使いたい。
再整備に協力してほしい。
それと、
行政上の営業許可の効力を失わせる。
別の話です。
結果として店を続けにくくなることはある。
でも、だからといって手段が何でもいいわけではない。
相馬先輩が図面を指さしました。
「それに、これ」
「何です」
「工事用通路、一本ずらせないのか」
倉田係長が顔をしかめます。
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃないから聞いてる」
「大型車両の旋回半径があります」
「じゃあ夜間搬入は」
「近隣住民から騒音苦情が出ます」
「店舗前だけ通路幅を絞る」
「安全基準上厳しい」
「仮設通路」
「費用が――」
「つまり」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「まだ検討の余地はあるんだな」
「……ゼロとは言いません」
「なら“営業許可を取り消す方向”なんて先に言うなよ」
強い。
でもその通りです。
まだ工事計画は確定していない。
移転の必要性も確定していない。
営業許可をどう扱うかも別問題。
それなのに、電話一本で話が最後まで進んだように伝えてしまった。
この町の行政トラブル、だいたい途中の説明をすっ飛ばしすぎでは。
「倉田係長」
私は言いました。
「水野さん、看板まで持ってきたんです」
「看板?」
「今日、店を畳むつもりで外したそうです」
倉田係長の表情が変わりました。
「……もう?」
「電話で“許可を取り消す方向”って言われたら、そう思いますよ」
会議室が静かになります。
それまで図面の線でしかなかった店が、少しだけ人間の形になった気がしました。
倉田係長はしばらく黙ったあと、ため息をつきました。
「分かりました」
相馬先輩が目を細めます。
「何が」
「少なくとも現段階で、営業許可そのものを失わせる決定がされたような説明は訂正します」
「書面で」
「……書面で出します」
「それから?」
「再整備計画について、水野さんへの説明の機会を設けます」
「それから?」
「相馬さん、畳み掛けないでください」
「口頭で済ませるとまた揉めるから聞いてるんだ」
完全に信用されていません。
まあ、ここまでの経緯を考えると仕方ない。
倉田係長は少し考え、
「工事用通路の代替案も技術担当と再確認します」
と言いました。
私は思わず息を吐きました。
店が残ると決まったわけではありません。
再整備計画が優先される可能性だってある。
営業許可以外の問題も出てくるでしょう。
でも少なくとも。
電話一本の「取り消す方向」で、今日店を畳む話ではなくなりました。
◇
事務所へ戻ると、水野さんはずっと玄関近くで待っていました。
「どうでした」
「店を畳むのは、今日はやめてください」
私が言うと、水野さんの肩が少し下がりました。
「取り消されないんですか」
「そこまでは断言できません」
私は正直に言いました。
「ただ、市役所の都市整備課が今日決めたわけではないです。それに、今出ている事情は、もともとの営業許可が違法だったという話でもありません」
「じゃあ……」
「ちゃんと順番に整理することになりました」
相馬先輩が横から言います。
「工事計画が本当に店にかかるのか。代替案はないのか。営業許可をどうする法的理由があるのか。誰が判断するのか」
「誰が……」
「そこ大事です」
私は言いました。
「役所は一つの建物に見えますけど、中では権限が別れてますから」
「市役所から言われたら、全部同じだと思ってました」
「分かります」
外から見れば全部「お役所」です。
でも行政法は、そこを容赦なく分けます。
この人が言った。
だから市として決定した。
とは限らない。
この課が困っている。
だから別の行政庁が出した許可を自由に消せる。
とも限らない。
水野さんは、持ってきた看板を見ました。
「これ、今朝外したんですよ」
「戻しましょう」
私が言うと、水野さんは少し笑いました。
「戻していいんですかね」
「少なくとも、今日外す必要はなかったです」
「じゃあ、戻します」
その言葉が、思ったより嬉しかった。
完全勝利ではありません。
店がこの先もずっと続く保証はない。
再整備計画次第では、水野さんに何らかの移転や調整をお願いすることになるかもしれません。
でも。
今日の朝には、
役所に許可を取り消される。
店は終わりだ。
という一本の太い線しか見えていなかった話が、
誰が決めるのか。
いつの事情なのか。
もともとの許可に問題があったのか。
それとも、その後に事情が変わったのか。
何を失わせようとしているのか。
その必要性は本当にあるのか。
いくつもの細い線に分かれました。
法律って、ときどき面倒です。
でも。
話を細かく分けることで、人を雑に切らずに済む。
そういう面倒なら、悪くない気がします。
「ところで」
相馬先輩が看板を見ました。
「『こもれび』ってナポリタンうまいのか」
「自信あります」
「じゃあ今度食いに行く」
「先輩」
「何だ」
「今、ものすごく自然に無料サービスを期待してません?」
「してない」
「顔がしてます」
「一皿くらい出すだろ」
「出しますよ」
水野さんが笑いました。
「今日のお礼に」
「ほらな」
「ほらな、じゃないです。こういうのを当然と思うのが一番危ないんですよ」
片桐所長が奥から言いました。
「払え」
「……はい」
一撃でした。
水野さんが帰ってしばらくしてから、事務所に電話が入りました。
倉田係長です。
『朝比奈さん』
「はい」
『水野さんには、うちから改めて説明します』
「お願いします」
『あと、一つ訂正しておきます』
「何です?」
『営業許可を取り消す、という言い方は不適切でした』
「おお」
『そんなに嬉しそうに言わないでください』
「すみません」
『現時点で、保健所が営業許可について処分をする予定はないそうです』
「本当ですか」
『ええ。少なくとも都市整備課から保健所へ、そんな正式な要請もしていませんでした』
私は受話器を握ったまま固まりました。
「……じゃあ、あの電話は」
『担当者が、今後どうなるか分からないから先に伝えておいた方がいいと考えたようです』
先に。
伝えておく。
結果、店主は看板を外した。
善意って、本当にときどき乱暴です。
『注意しておきました』
「ありがとうございます」
『ただし、再整備の調整は残ります』
「はい。それは別の問題です」
電話の向こうで、倉田係長が少し黙りました。
『……最近、君のそういう“別の問題です”が怖くなってきました』
「褒め言葉として受け取ります」
『褒めてません』
電話が切れました。
相馬先輩が聞きます。
「どうだった」
「営業許可、現時点では何の処分予定もないそうです」
「は?」
「都市整備課の担当者が先走ったみたいです」
相馬先輩が天井を仰ぎました。
「役所ってのは、なんで書面にする前だけ口が軽いんだ」
「書面にすると責任が生まれるからじゃないですか」
「嫌なところだけ現代人だなお前」
「現代人なんです」
「昭和だぞ」
「そこを毎回えぐらないでください」
奥で片桐所長が書類をめくりながら言いました。
「言葉を雑にすると、処分まで雑に見える」
私は所長を見ました。
「取消しと撤回も、ですか」
「そうだ」
たった一言。
でも今日一日の話が、そこへ収まった気がしました。
取消し。
撤回。
テキストでは、どちらも眠かった。
原因が成立時なのか成立後なのか。
効果が遡るのか将来だけなのか。
正直、昨日までは試験用の分類にしか見えませんでした。
でも今日。
水野さんの店は、一度「許可を取り消す」と言われただけで、看板を外すところまでいった。
それほど、「取り消す」という言葉は強い。
だからこそ、
何が理由なのか。
いつ生じた理由なのか。
誰が効力を失わせようとしているのか。
そこを分けなければならない。
制度の冷たさは、ときどき面倒です。
いちいち名前をつける。
いちいち権限を分ける。
いちいち原因を分ける。
でも、その冷たい区別があるから、
役所の誰かが電話一本で、
「もう終わりです」
と人の仕事を終わらせることを止められる。
夕方。
水野さんがもう一度事務所に顔を出しました。
「看板、戻してきました」
「早いですね」
「外したままだと縁起が悪い気がして」
手には紙袋。
「これ」
「何です?」
「ナポリタンです」
「持ち帰れるんですか?」
「無理やりです」
蓋を開けると、アルミ皿に真っ赤なナポリタン。
昭和。
ものすごく昭和。
相馬先輩が椅子から立ちました。
「俺の分は」
「あります」
「水野さん」
私は言いました。
「甘やかさないでください。この人、行政上の悪しき慣行になります」
「お前、人を慣行扱いするな」
水野さんが笑います。
「今日は助かりました」
「まだ終わってませんよ」
「分かってます」
水野さんは少し真面目な顔になりました。
「でも、朝は本当に終わったと思ったんです」
その一言で、事務所が少し静かになりました。
「役所から許可取り消すって言われたら、もう何も言えないと思ってました」
「そうですよね」
「でも、聞くことがあるんですね」
「あります」
「何を?」
私は少し考えました。
今日一日を一番短くするなら。
「いつから駄目になったんですか、ですかね」
「いつから?」
「最初から駄目だったのか。それとも、あとから事情が変わったのか」
水野さんは頷きました。
「それで、違うんですか」
「かなり」
そこから先を説明しようとして。
私は口を閉じました。
まだ、全部をちゃんと言葉にできる自信はありません。
取消しと撤回の違い。
取消しには職権取消しと争訟取消しがあること。
誰が取り消せるのか。
撤回できるのは誰なのか。
法律の根拠は要るのか。
許可のように利益を与える行政行為を、行政がどこまで後からひっくり返せるのか。
相手がその許可を信頼して設備投資までした場合に、その信頼をどう考えるのか。
そして。
役所に公益上の必要が生じたとき、どこまでなら撤回できるのか。
今日の現場で、輪郭だけは見えました。
でも輪郭の中身までは、まだ埋まっていません。
水野さんが帰ったあと、私はノートを開きました。
朝、書いたページ。
取消し――最初から瑕疵。
撤回――あとから事情変更。
その二行を見ます。
朝より、ずっと意味が重い。
「今日は書かないのか」
相馬先輩がナポリタンをすすりながら聞きました。
「書きます」
「珍しい」
「でも今日は、タイトルだけ」
私は新しいページを開きました。
行政行為の取消しと撤回。
そこまで書いて、ペンを置きます。
「また逃げたな」
「逃げてません。整理するんです」
「同じだろ」
「違います」
所長が奥から言いました。
「違う」
私は勝ち誇って相馬先輩を見ました。
「ほら」
「所長、それ何の話です?」
「知らん」
「味方じゃなかった!」
水野さんのナポリタンは、少し甘めでした。
ケチャップが強くて、玉ねぎがしゃきしゃきしていて、妙に懐かしい味がします。
私はフォークを置き、ノートをもう一度見ました。
今日の教訓。
役所が「取り消す」と言ったら、言葉だけで怯えない。
まず聞く。
その行政行為は、
最初から間違っていたのか。
それとも、
あとから事情が変わったのか。
たったそれだけで、見える法律が変わる。
昨日まで、取消しと撤回は試験問題の中で似た顔をした二人組でした。
でも今日は違います。
一人は過去を見る。
一人は未来を見る。
そして、その違いの間に、
水野さんが外しかけた店の看板がありました。
条文も判例も、たぶん冷たい。
でも。
冷たいからこそ、
「もう駄目です」
という雑な一言を、
いつから。
なぜ。
誰が。
どこまで。
と切り分けてくれる。
私はノートの余白に、小さく書きました。
――「取り消す」と言われたら、まず時間軸を見ろ。
相馬先輩が横から覗き込みます。
「何だそれ」
「今日の覚え方です」
「過去か未来かってことか」
「はい」
「じゃあ俺が、お前のナポリタンの残りを食ったら?」
「成立当初から違法です」
「何の成立だ」
「昼食秩序です」
「取消しか?」
「即時返還です」
「もう食った」
「遡及して返してください」
「無茶言うな」
所長が顔も上げずに言いました。
「相馬」
「はい」
「人のを食うな」
「……はい」
行政法より強い。
片桐所長の一言には、たぶん公定力があります。
そんなことを考えながら、私は残ったナポリタンを自分の前へ引き寄せました。
明日は、この二つをちゃんと分けてみようと思います。
取消し。
撤回。
どちらも同じように見える「役所の取り消します」。
でも。
その一言の前と後ろには、
人の生活が乗っている。
だから、同じで済ませてはいけないのでしょう。
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