[行政主体]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、昼間より少しだけ法律が似合います。
電話が減る。
来客も途切れる。
西日が書棚の背表紙を赤く染める。
そして机の上には、安西さんが置いていった団子。
「……一本ありません」
「食った」
相馬先輩が言いました。
「早い」
「仕事した人間の権利だ」
「そんな権利、どの法律にあります?」
「相馬法」
「廃止してください」
私は残った団子を守るように皿を自分の側へ寄せ、ノートを開きました。
今日、市役所の掲示板に貼られていたのは、
『駅前広場周辺においては、一切の食品販売営業を認めない』
という、ずいぶん強い文面でした。
けれど調べてみれば、その正体は条例でも規則でもない。
商工観光課の「課内の申し合わせ」。
つまり、役所内部で決めた取扱方針でした。
私はノートの一番上に書きます。
行政立法。
……名前が強い。
なんでしょう。
戦国武将みたいです。
行政立法。
字面だけなら、行政が国会を差し置いて勝手に法律を作り始めそうな感じがあります。
「相馬先輩」
「何だ」
「行政立法って、行政が法律を作ることですか」
「違う」
「即答」
「それくらいは俺でも知ってる」
「じゃあ説明してください」
「お前が勉強しろ」
実務派、急に逃げましたね。
奥で帳簿を見ていた片桐所長が、新聞から目を上げました。
「広く言えば、行政機関が定める一般的な規範だ」
私はペンを止めました。
「一般的な規範」
「個別の誰か一人に対してではなく、一定の範囲の人や行政組織に対して繰り返し適用されるルールだ」
「なるほど」
今日の貼り紙も、
安西フミさんだけ団子を売るな、
ではありませんでした。
駅前広場周辺で食品販売をする人は、一律に認めません。
そういう形です。
個人名ではなく、条件に当てはまる人全体を対象にしている。
「じゃあ今日の貼り紙も、行政立法なんですか?」
「そこは慎重に分けろ」
所長が言いました。
「行政機関が一般的な形でルールを作ったからといって、全部が同じ効力を持つわけじゃない」
来ました。
行政法名物。
似たような名前を並べて受験生を眠らせる時間です。
私はノートに大きく線を引きました。
行政立法には、大きく分けて二種類。
法規命令。
行政規則。
「先輩」
「何だ」
「この二つ、名前だけで覚えにくくないですか」
「知らん」
「法規命令と行政規則ですよ。『法規』と『規則』って、どっちもルールっぽい」
「じゃあ団子で覚えろ」
「急に雑」
相馬先輩が串を一本持ち上げます。
「外の客まで縛れる団子と、店の中だけの決まりの団子」
「団子に規範性を持たせないでください」
でも。
悔しいことに、ちょっと分かりやすい。
私はノートに書きました。
法規命令。
行政機関が定めるルールのうち、国民の権利義務に関わり、外部に対する法的な拘束力を持つもの。
行政規則。
行政組織内部を規律するためのルール。
原則として、行政内部で効力を持ち、それ自体が国民を直接拘束するわけではない。
「つまり」
私は今日の貼り紙を思い出します。
「一番大事なのは、そのルールが役所の外の人まで直接縛るものなのか、ってことですね」
「そうだ」
所長が短く答えました。
法規命令は、国民との関係にまで効いてくる。
行政規則は、基本的には役所の中のルール。
ここを混同すると、
役所の内部方針が、
いつの間にか、
市民にとって絶対の法律に化ける。
今日の安西さんの件は、まさにそれでした。
商工観光課の中で、
今年は駅前の露店を抑えよう。
そう申し合わせる。
そこまでは、行政内部の方針としてあり得る。
でも、その内部方針を外に出して、
『一切認めない』
とだけ掲示する。
すると、市民から見れば、
法律で禁止されている。
条例で駄目なんだ。
許可を申請する余地すらない。
そう受け取ってしまいます。
「所長」
「何だ」
「行政規則は、絶対に国民に影響しないんですか?」
所長の目が少し細くなりました。
あ。
たぶん今の質問、試験で引っかけられるところです。
「影響しない、とは言うな」
「直接拘束しない?」
「そうだ」
なるほど。
私は書き直します。
行政規則は、原則として国民を直接には拘束しない。
でも役所の職員がそれに従って動けば、結果として国民に影響は出ます。
たとえば今日。
課内で、
「露店は原則として認めないようにしよう」
という方針が決まる。
職員がその方針に従って、
「今年は駄目です」
と窓口で答える。
それだけでも、安西さんの商売には現実の影響が出ます。
ただし、
だからといって、その内部方針そのものが、法律と同じ力で安西さんを直接縛っていることにはならない。
「ここ、ややこしいですね」
「行政法はだいたいややこしい」
相馬先輩が言います。
「励ましになってません」
「事実だ」
私は次の見出しを書きました。
法規命令。
法規命令には、さらに種類があります。
まず、法律から委任を受けて定めるもの。
委任命令。
そして、法律を実施するために必要な細かい事項を定めるもの。
執行命令。
「うわ」
「何だ」
「名前が増えました」
「喜べ」
「なぜです?」
「試験に出る」
「もっと嫌です」
所長が新聞をたたみました。
「違いを言ってみろ」
突然の口頭試問。
昭和の事務所、教育が野生的です。
「委任命令は……法律が『細かいところは行政に決めてもらいます』と委ねた部分を定めるもの」
「うん」
「執行命令は、法律の内容を実際に実施するための細かい手続なんかを定めるもの」
「それでいい」
よかった。
私は少し勢いづきました。
「ただし、行政が勝手に国民へ新しい義務を増やしていいわけじゃない」
「そこだ」
所長が言いました。
「国民の権利を制限したり、義務を課したりするなら、法律上の根拠が問題になる」
私は今日の貼り紙を指でなぞりました。
一切の食品販売営業を認めない。
もし本当にこれが、
一定の地域で食品販売そのものを法的に禁止する、
という意味なら。
「かなり強いですよね」
「ああ」
「だからこそ、“課内でそう決めました”じゃ足りない」
「そういうことだ」
今日、私たちが最初に聞いたのは、
正しい政策ですか。
露店は迷惑ですか。
団子屋さんはかわいそうですか。
ではありませんでした。
何に基づいているんですか。
条例ですか。
規則ですか。
法令上の禁止ですか。
それとも内部方針ですか。
まず、そこでした。
行政法では、内容以前に、
誰が。
何の権限で。
どんな形式で。
何を決めたのか。
それを切り分ける必要があります。
「じゃあ次」
相馬先輩が、勝手に私のノートをのぞき込みました。
「行政規則」
「はい」
「具体例」
「訓令とか通達」
「違いは?」
「……」
来た。
さっきまで元気だった私の脳が、急に遠くを見る。
訓令。
通達。
受験生を静かに仕留める似たもの兄弟です。
「所長」
「自分で言え」
「助けてくれませんね」
私は記憶を引っ張りました。
「訓令は、上級行政機関が下級行政機関に対して、権限の行使について指揮するための命令……」
「大体それでいい」
「通達は?」
「訓令の一種として出されることが多い。法令の解釈や運用方針を下級行政機関や職員に示すものだ」
なるほど。
私は書き込みます。
たとえば、ある法律について、
この条文はこういう意味で扱いなさい。
この場合はこう処理しなさい。
全国の役所へ運用を揃えるため、上から下へ通知する。
それが通達。
「じゃあ、通達に『こう処理しなさい』と書いてあっても、市民に対して『通達に書いてあるからあなたは義務を負います』とは、そのまま言えない」
「そう考えるのが基本だ」
所長が言いました。
「根拠になるのは、法律やそれに基づく法規命令などだ。通達そのものが国民の権利義務を新しく作るわけではない」
「今日の倉田係長たちが、もし上から通達を受けていたとしても?」
「原則は同じだ」
私は頷きました。
ここ。
重要です。
役所内部ではものすごく重要な文書でも、
それと、
市民を法的に縛る根拠になることは別問題。
行政の世界では、
内部で偉い文書が、
外でも偉いとは限らない。
「所長」
「何だ」
「じゃあ、行政規則に職員が違反して行政処分をしたら、その処分は違法になるんですか?」
今度は相馬先輩が私を見ました。
「急に受験生みたいな顔になったな」
「受験生なんです、一応」
「昭和で?」
「そこは毎回刺さないでください」
所長は少し考えてから言いました。
「内部規則に違反したというだけで、直ちに処分が違法になるとは限らない」
「おお」
「見るべきなのは、その処分が法令に適合しているかだ」
「つまり」
私は整理します。
内部の取扱基準に違反した。
だから即、違法。
とはならない。
逆に、
内部の通達どおりに処理した。
だから絶対に適法。
ともならない。
結局、外部との関係では、
法律などの法規に照らして判断しなければならない。
「通達どおりやりました、は無敵カードじゃないんですね」
「そんな便利なカードがあったら裁判所はいらん」
相馬先輩が言いました。
「確かに」
私は今日の場面を思い返しました。
倉田係長は言いました。
駅前広場は苦情が多い。
煙。
匂い。
景観。
混乱を防ぎたい。
その事情自体は、たぶん嘘ではありません。
役所にも役所の事情がある。
むしろ、だからこそ難しい。
明らかな悪人なら、話は簡単です。
でも実際には、
善意で作った内部方針が、
面倒を避けるため少し強い表現になり、
誰も「これ、法的根拠は何ですか」と確認せず、
そのまま市民へ出ていく。
すると、
ただの内部運用が、
外から見ると絶対命令に見える。
私は団子を一つ食べました。
甘い。
今日の行政法も、少し甘い。
「じゃあ今日、市役所がやるべきだったのは何だったんでしょう」
私が聞くと、所長は答えました。
「混ぜないことだ」
「何をです?」
「内部の方針と、法的な禁止を」
短い。
でも、全部入っています。
内部で、
なるべく露店を減らそう。
トラブルが多いから慎重に扱おう。
そう考えること。
法令上、
あなたは出店できません。
禁止されています。
と外部へ告げること。
これは別です。
前者を後者の顔で出すから、問題になる。
「じゃあ、今日の書き換え後の掲示は?」
私は思い出しながら読み上げます。
「食品販売を一律に禁止するものではなく、関係機関との協議および必要な手続を経て個別に判断する」
「前よりは正確だ」
「少なくとも、何もしないうちから“全面禁止”ではない」
「そうだ」
それだけで、安西さんには次の一歩があります。
必要な手続を調べる。
場所の使用について確認する。
衛生面について関係機関と相談する。
条件を満たした上で、個別判断を求める。
最初の貼り紙では、その入口ごと塞がれていました。
法律で禁止されているなら、諦めるしかない。
そう思わせる書き方だったからです。
私はノートに大きく書きました。
行政立法で大切なのは、
「誰が書いたか」だけではない。
「誰を拘束するルールなのか」を見る。
「もう一つ」
所長が言いました。
「法規命令にも限界がある」
「限界?」
「行政が、法律から何も根拠を与えられていないのに、自由に国民の権利を制限できるわけではない」
「法律による行政の原理ですね」
「そうだ」
私は少し嬉しくなりました。
知っている言葉が、つながっていく。
行政立法は単独で浮いている単元じゃない。
法律による行政の原理。
権限。
法律の留保。
行政作用。
全部つながっています。
今日、市役所で感じた違和感。
『一切認めない』
という強い言葉。
違和感の正体は、
そんな強い制限を、一つの課が内部の申し合わせだけで市民へ向けて出していいのか。
ということでした。
「だから最初に根拠を聞く」
私は呟きました。
「そういうことだ」
所長が言います。
私はノートを整理しました。
法規命令。
行政機関が定めるルールのうち、国民の権利義務に関係し、外部的な法的拘束力を持つもの。
委任命令。
法律の委任に基づき、法律が委ねた事項を定めるもの。
執行命令。
法律を実施するために必要な細目的事項を定めるもの。
行政規則。
行政組織内部の規律。
訓令、通達など。
原則として、国民を直接拘束するものではない。
「試験で一番ありがちな引っかけは?」
相馬先輩が聞きました。
「突然所長みたいなこと言いますね」
「答えろ」
「……通達に法規としての効力がある、みたいな選択肢?」
「他は」
「行政規則が国民に全く影響を及ぼさない、とか」
「そうだな」
所長が頷きます。
私は続けました。
「それから、行政規則に違反しただけで行政処分が当然に違法になる、というのも危ない」
「うん」
「逆に、行政規則どおりなら当然に適法、も危ない」
「そうだ」
少し分かってきた。
試験問題では、こういうところを狙ってくる。
行政規則は内部ルールです。
だから、
国民には一切関係ありません。
ではない。
行政実務を通じて間接的な影響はある。
でも、
だから国民を法的に直接拘束できます。
でもない。
その中間。
行政法は、この「一言で言い切ると間違う場所」が多すぎる。
「行政法って、断言した人から死ぬゲームですね」
「何だその物騒な例え」
相馬先輩が笑います。
「でも試験ってそうじゃないですか。“必ず”“当然に”“一切”って書いてあると怖い」
「今日の貼り紙と同じだな」
「あ」
そこで私は笑いました。
本当だ。
今日の掲示には、
『一切の食品販売営業を認めない』
と書いてありました。
一切。
試験でも現場でも、強すぎる断定には気をつけたほうがいいのかもしれません。
安西さんは、あの紙を見て、
もう団子を売れない。
そう思いました。
でも確認してみると、
一律禁止の法令ではなかった。
必要な手続を踏んだ上で個別に判断する余地があった。
たったそれだけの違いです。
でも、商売を続けられるかもしれない人にとっては、巨大な違いです。
法律用語は冷たい。
法規命令。
行政規則。
訓令。
通達。
どれも、人情の欠片もない名前です。
でも。
その冷たい区別があるから、
役所内部の都合を、
いつの間にか国民への絶対命令へ変えてしまうことを止められる。
私はノートの最後のページに、
今日の一行の覚え書きを書きました。
内部の「決まり」を、外部の「法律」に化けさせない。
相馬先輩が横から読みます。
「今日はまともだな」
「今日は、って何ですか」
「じゃあもう一個書け」
「何を?」
「役所で“一切”って言われたら?」
私は少し考えます。
そして、その下に書き足しました。
「一切できません」と言われたら、まず「何に書いてありますか」と聞く。
所長がそれを見ました。
「それでいい」
窓の外は、もう暗くなっていました。
昭和六十三年の町に、商店街の明かりが一つずつ灯っていきます。
明日は安西さんと、必要な手続を一つずつ確認する予定です。
出店できるかどうかは、まだ決まっていない。
でも少なくとも、
誰かが内部で決めた「面倒だから駄目」が、
法律の顔をして彼女を追い返すことはなくなった。
制度の冷たさは、人を突き放すことがあります。
でも、その冷たい線引きが、
勝手な「決まりです」に線を引くこともある。
行政法。
やっぱり眠いところは眠いです。
でも今夜の私は、たぶん昨日より少しだけ、
通達と法規命令を間違えずに眠れそうでした。
……団子をもう一本食べてから。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




