[行政主体]現場編 「決まりです」と言われたところから行政法は始まる。役所の「駄目」の中身をほどく魔法の質問
役所の壁に貼ってある文言は、ときどき妙に偉そうです。
「できません」
「受け付けません」
「認められません」
黒々とした文字。ラミネート加工。無駄に強い断定。
あれを見せられると、人はだいたい二種類に分かれます。
「そういうものか」と帰る人と、
「いやでも、おかしくないですか」と食い下がる人。
そして、町で本当に面倒ごとを起こすのは、たいてい後者です。
――で、今の私は、その面倒ごとを眺めている側でした。
いや、正確には、眺めているつもりだったんですけど。
目が覚めたとき、私は木の長椅子に寝かされていました。
硬い。狭い。首が痛い。
見上げれば古びた天井。鼻をくすぐるのは紙とインクと古いファイルの匂い。耳に入るのは、ガチャガチャと乱暴に引き出しを閉める音と、外から聞こえる車のクラクション。それから、すぐ近くで誰かが吐き捨てるように言いました。
「起きろ、新人。そこで死なれると邪魔だ」
ひどい第一声です。
顔を上げると、白シャツにベスト姿の男が、書類の束を抱えたままこちらを見下ろしていました。三十前後。目つきは悪い。けれど、“嫌な人”というより“常に忙しすぎる人”の顔をしています。
「……誰ですか」
「こっちが聞きたい」
そんな切り返しありますか?
でも次の瞬間、頭の奥で、知らないはずの記憶がぴたりと噛み合いました。
ここは片桐行政書士事務所。
私は朝比奈こはる、十八歳の事務見習い。
この口の悪い人は、先輩の相馬誠司。
そして、壁のカレンダー。
昭和六十三年。
「……うわあ」
「何だその顔」
「いえ、ちょっと時代が重くて」
「朝から意味不明だな、お前」
意味不明なのは私もです。
昨夜まで私は令和のワンルームで、行政書士試験のテキストに埋もれていたはずでした。
行政主体。行政機関。行政庁。法規命令。行政規則。訓令。通達。
眠い単元のフルコースです。
いえ大事なんですよ。大事なのは分かります。でも、受験生の脳にとって「通達と法令の違い」は、深夜一時を過ぎると急に霧の向こうへ消えていくんです。少なくとも私の脳ではそうでした。
それがどうして昭和の行政書士事務所なのか。
どうして見習いなのか。
どうして首がこんなに痛いのか。
何一つ納得できませんが、現実逃避をしている余裕はありませんでした。
「茶ァ入れろ。あと、その壁見てこい」
相馬先輩が顎で示した先、事務所の入口脇に、小さな人だかりができていました。
地域の掲示板です。
商店会のお知らせ、祭りの案内、求人、迷い犬。そういう紙に混じって、一枚だけ、妙に役所っぽい紙が貼られています。
私は近づいて、その文面を読みました。
露店営業に関するお知らせ
駅前広場周辺においては、衛生上および景観上の観点から、一切の食品販売営業を認めないこととする。
湖西市商工観光課
「……強いなあ」
「だろ」
相馬先輩が肩越しに言う。
「今朝それ見て、近所の団子屋の婆さんが怒鳴り込んできた」
「怒鳴り込んだ?」
「毎年、祭りの日だけ駅前で団子売ってるんだと。今年もそのつもりで仕込みまで始めてたのに、急にこんなの貼られたってな」
なるほど。
相談が来て、事件が起きて、犯人を止めに走る――ではありません。
今回はもう、壁に答えみたいな顔をした問題文が貼ってあるわけです。
しかもこの文面、嫌な感じがします。
ものすごくする。
「所長は?」
「奥で話聞いてる」
奥の応接へ行くと、小柄なおばあさんが腕を組んで座っていました。年は六十代後半くらい。割烹着。目が鋭い。泣いてはいません。むしろ今にも市役所を噛みそうな顔です。
「安西フミです。あんたが新しい子?」
「はい、朝比奈こはるです」
「こはるちゃん。あの貼り紙、腹立たないかい」
「腹は立ちます」
即答すると、おばあさんは少しだけ機嫌を直しました。
「そうだろう? こっちは三十年、祭りの日だけ団子焼いてきたんだよ。急に『一切認めない』だってさ。何様だい」
片桐所長が静かに湯呑みを置きました。
「安西さん、確認ですが、これまで駅前で団子を売るのに、毎年許可か何かは取っていましたか」
「商店会には話を通してたよ。観光課の若いのも、『例年どおりで』って」
「書面は?」
「ないねえ」
「警察や保健所は」
「そこまでは知らないよ。昔から皆やってるし」
私は内心で、「うわぁ」と小さく呻きました。
昭和の“昔からやってる”は、かなり強い。
そして法的には、かなり危ない。
でも同時に、壁の貼り紙にも引っかかる。
一切の食品販売営業を認めないこととする。
この言い方。
役所はよくこういう言い方をします。
でも、「よく言う」ことと「法的にそれでいい」ことは別です。
「こはる」
所長がこちらを見る。
「何か気づいたか」
「はい」
私は貼り紙を指さしました。
「たぶん最初の論点は、“それ、誰が決めたんですか”です」
相馬先輩が、ああ始まった、という顔をしました。
でも止めない。止めないなら続けます。
「所長、この貼り紙、法令名が書いてありません」
「……続けろ」
「景観上とか衛生上とか、理由っぽい言葉はある。でも、何の条例なのか、何の規則なのか、どの権限で一切禁止にしたのかが抜けてます」
安西さんが眉をひそめました。
「つまり?」
「貼り紙だけでは、法律なのか、内部のお願いなのか、ただの窓口方針なのか分からないってことです」
部屋の空気が少し変わりました。
所長がほんのわずかに頷く。
「そうだな」
相馬先輩が腕を組む。
「じゃあ、ただの張りぼてか?」
「そこまではまだ」
私は首を振りました。
「本当に条例や規則に基づいて制限してる可能性もあります。でも逆に、課の内部運用とか、通達めいたものを、市民に対して“法”みたいな顔で貼ってるだけかもしれません」
「通達?」
安西さんが首をかしげる。
「何だいそれ」
「役所の中で、部下にこうしろって回す文書です」
「じゃあ外の人間には関係ないのかい」
「原則として、そのまま市民を直接縛るものではありません」
相馬先輩が口の端を上げました。
「寝ぼけてるわりに、今日は回るな」
「私も驚いてます」
本当にです。
昨夜までテキストの隅にあった「通達は行政内部の命令にすぎず、国民を直接拘束しない」なんて一文が、今はやけに生き生きして見えます。
文字だけなら眠いのに、人の商売がかかると急に目が覚めるの、ずるくないですか行政法。
「相馬」
所長が立ち上がる。
「市役所だ。こはるも来い」
「またですか」
「言い出しっぺだ」
昭和の職場、言い出しっぺに厳しい。
市役所の商工観光課は、古い建物の二階にありました。
窓口で件の貼り紙を見せると、若い職員が「ああ」と気まずそうな顔をしました。
「それですか……」
「あなたの課が出したんですね」
相馬先輩が単刀直入に聞く。
「はい。ただ、祭り前で混乱してまして」
「質問を変える。これ、何に基づくんです?」
職員は一瞬詰まりました。
「ええと、駅前広場の適正利用の観点から……」
「それは観点だ。根拠じゃない」
強い。
私はちょっと好きです、こういう詰め方。
若い職員は助けを求めるように奥を見て、やがて係長らしい男性が出てきました。四十代。疲れた顔。でも嫌な人ではなさそうです。
「どうされました」
片桐事務所の名刺を見せると、係長は少しだけ警戒を深めました。
「その貼り紙ですが」
私は言いました。
「条例ですか。規則ですか。法令に基づく一律禁止ですか。それとも課の運用ですか」
係長は、露骨に答えづらそうな顔をしました。
「……厳密には、課内の申し合わせです」
はい、出ました。
心の中で机を叩きました。
「申し合わせで、“一切認めない”と市民に告知したんですか」
「いや、今年はトラブル防止のためでして」
「法的根拠なしに?」
係長の額に汗がにじみます。
「駅前広場は苦情も多くてですね、煙だの匂いだの、見た目が悪いだの」
「それで課として控えてもらおうと考えた、と」
「ええ」
「でも、それは条例上の禁止ですか」
「……ではありません」
相馬先輩が息を吐きました。
「つまり、法的な一般禁止じゃない」
「はい……」
「なのに、“認めないこととする”と貼った」
「……はい」
係長、もう少し言い方を考えた方がよかったです。
いえ、役所はだいたい考えてないからこうなるんですが。
私はさらに聞きました。
「では、安西さんのような既存の出店者に、個別の説明や聴取は?」
「していません」
「許可制そのものを導入したわけでもなく?」
「そこまでは……」
ここまでくると、かなり見えます。
この貼り紙は、条例でも規則でもなく、せいぜい内部方針の外向け雑運用です。
しかも書き方が強すぎる。
所長が初めて口を開きました。
「係長。あなた方が混乱防止のために指針を設けたい気持ちは分かる。しかし、法令に基づかない内部方針を、市民に対して絶対的禁止であるかのように掲示するのはまずい」
係長は唇を引き結びます。
「……しかし、自由にさせると収拾がつきません」
「なら、正しい手順を踏むべきです」
私は思わず前のめりになりました。
「たとえば、必要な許可や調整の種類を明示するとか、“今年は個別協議が必要”と書くとか。“一切認めない”って書き方は、法令の禁止みたいに見えます」
係長が、初めて私をちゃんと見ました。
「君、学生さん?」
「見習いです」
「妙に細かいね」
「昨日まで受験生だった気がするので」
「何だそれ」
それは私も思います。
結局、その場で全面撤回まではいきませんでした。役所はそんなに素直じゃない。
でも所長は、静かに逃げ道を作りました。
「では少なくとも、この表現は修正してください」
「修正、ですか」
「ええ。法令に基づく一律禁止ではない以上、誤解を招きます。必要な手続や関係機関との協議が必要である旨を、事実に即して書き換えるべきです」
係長はしばらく悩み、やがて頷きました。
「……文面は、検討します」
相馬先輩が横から刺す。
「今日中にです。祭りは待ってくれません」
圧が強い。頼もしい。
事務所へ戻ると、安西さんは腕組みのまま待っていました。
「で?」
「団子は、今のままだと即営業とは言えません」
所長が先に言う。
「ただし、あの貼り紙が“法律だから絶対無理”という話ではありません」
安西さんの目が鋭く光る。
「じゃあ、戦えるのかい」
「喧嘩は勧めません」
私は言いました。
「でも、必要な手続を確認して、正しい土俵に引きずり戻すことはできます」
「土俵」
「はい。今の問題は、“何が必要か”じゃなくて、“役所の雰囲気で全部駄目にされている”ことです」
安西さんは、ふん、と鼻を鳴らしました。
「確かに、あの紙はむかつくね」
「私もです」
「気が合うじゃないか」
そう言って笑う顔は、最初より少しだけ柔らかくなっていました。
その後、所長と相馬先輩が必要な窓口を整理し、私は安西さんのこれまでの出店実績や場所、販売形態を聞き取りました。
すると分かったのは、完全な無秩序ではなかったということです。
商店会との調整は長年されていた
祭りの日の短期出店として慣行化していた
本格的な常設営業ではない
ただし保健衛生面や場所の使用ルールは曖昧だった
つまり、安西さんは“悪質な無許可営業者”ではなく、昔ながらの慣行の上にいた人だったのです。
問題はそこへ、役所が雑に“禁止”の札を立てたことでした。
夕方、市役所から一本の電話が入りました。
受けたのは私です。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『商工観光課の倉田です』
午前中の係長でした。
『掲示文、差し替えました』
「早いですね」
『早くしないと、明日もっと怒鳴り込まれますから』
それはそうです。
『表現を、“食品販売を一律に禁止するものではなく、関係機関との協議および必要手続を経て個別に判断する”に修正しました』
「ありがとうございます」
『……君の言うとおり、あれでは法律みたいでした』
少し意外でした。
もっと意地を張るかと思っていたのに。
『ただ、出店を全部認めるわけではありませんよ』
「ええ。それは分かっています」
『分かってるならいい』
そこで電話は切れました。
私は受話器を置いて、少しだけ息をつきました。
完全勝利、ではありません。
安西さんが明日すぐ駅前で団子を焼けるわけでもない。
必要な確認はまだある。
衛生面のこと。
場所の使用のこと。
関係する窓口との調整だって残っています。
でも、少なくとも一つ、剥がれました。
“役所がそう決めたから絶対だ”
という、あの妙に分厚い膜が。
最初に貼り紙を見たときは、一枚の紙が駅前全部を封鎖しているように見えました。けれど中身を尋ねてみれば、その「絶対」は少しずつほどけていった。
誰が決めたのか。
何に基づいているのか。
本当に一律禁止なのか。
それとも、役所の中でそう扱うことにしていただけなのか。
たったそれだけ確認しただけで、「駄目です」だった話が、「では、何が必要ですか」という話に変わったのです。
法律って、もしかして。答えを出す前に、質問を正しい形に直すものなのかもしれません。
帰り際、安西さんが事務所に小さな包みを置いていきました。
「今日はまだ売れないから、試作の団子だよ」
「ありがとうございます」
「こはるちゃん」
「はい」
「あんた、妙な子だね」
「よく言われます」
「でもいいね。“駄目”の中身を聞く子は」
その言葉は、ちょっと嬉しかった。
「昔はさ」
安西さんは包みの紐を結び直しながら言いました。
「役所の人に駄目だって言われたら、それで終わりだと思ってたんだよ」
「今も、そう思う人は多いと思います」
「でも今日みたいに、聞いてみりゃ違うこともあるんだねえ」
「あります」
「じゃあ、今度から聞くよ」
安西さんは顎を上げました。
「何で駄目なんですか、って」
私は思わず笑いました。
「たぶん、嫌がられますよ」
「知ったことかい」
強い。
この人、たぶん私たちがいなくてもそこそこ戦えたんじゃないでしょうか。
でも。
戦える人ばかりじゃありません。
窓口で「決まりです」と言われれば、それ以上聞けない人もいる。
壁に「一切認めない」と貼られていれば、自分にはどうしようもないと思って帰る人もいる。
言葉が強ければ強いほど、その後ろに根拠があるように見える。それが役所の名前で出ていれば、なおさらです。
安西さんが帰ったあと、相馬先輩が包みを開けました。
「お、みたらしか」
「まだ私、見てもいませんけど」
「早い者勝ちだ」
「事務所における団子の配分ルール、雑すぎません?」
「嫌なら所長に申し立てろ」
「何をですか」
奥で新聞を読んでいた所長が、顔も上げずに言いました。
「却下」
「まだ申し立ててません」
「結論は同じだ」
「横暴!」
相馬先輩が笑いました。
「ほら。『駄目です』って言われたぞ」
「所長の場合は根拠を聞いても無駄そうですね」
「聞いてみろよ」
私は所長を見ました。
「所長。私が団子を二本食べてはいけない法的根拠をお願いします」
「残りが三本しかない」
「ものすごく合理的だった」
「一人一本だ」
相馬先輩がすでに二本目へ手を伸ばしていました。
「先輩?」
「俺は先輩だから二本」
「そのルールこそ根拠を出してください!」
結局、団子はじゃんけんになりました。
役所より迅速。手続も透明。
ただし私は負けました。
行政手続以前に、じゃんけん手続で救済されませんでした。
少しして、事務所が静かになります。
窓の外では、昭和の町が夕暮れに沈み始めていました。
商店街の看板に灯りがつき、遠くから自転車のベルが聞こえる。
机の端には、今日一日ほとんど開けなかった私のノートがありました。
表紙を開く。白いページ。
書こうとして、私はペンを止めました。
今日覚えたことは、たぶん一行では済みません。
あの貼り紙は、なぜ人を直接縛ることができなかったのか。条例や規則だったらどう違うのか。通達や内部の申し合わせは、役所の中ではどんな意味を持つのか。
そして、役所の内部ルールが現実には市民へ影響するのに、それでも法律と同じではないというのは、どういうことなのか。
考え始めると、頭の中に疑問符が増えていきます。
「何だ。書かないのか」
相馬先輩が言いました。
「今書くと、たぶん間違えます」
「珍しく慎重だな」
「今日は現場で分かった気になっただけなので」
これは本当にそうでした。
私は今日、
“役所の決まりには種類がある”
ということだけは、身体で分かりました。
でも、その境目をきちんと言葉にできるほど理解したわけじゃない。昨日までテキストの中で眠っていた単語が、今日は急に立ち上がった。ただ、それぞれが何者なのかまでは、まだちゃんと顔を見ていません。
所長が新聞をたたみました。
「それでいい」
「え?」
「分かった気になるより、疑問を残せ」
私はノートの白いページを見ました。
「じゃあ、明日まとめます」
「今日のうちにしろ」
「どっちですか!」
相馬先輩が吹き出します。
「所長、厳しいな」
「忘れる前に整理しろ」
なるほど。そこは正論です。私はノートの一番上に、題名だけを書きました。
――行政立法。
そして、その下は空けておきました。今日のところは、それで十分です。
役所の貼り紙一枚。
団子屋のおばあさん一人。
たったそれだけの出来事なのに、教科書の中で眠っていた言葉が、急にこちらを向きました。
法規命令。
行政規則。
訓令。
通達。
昨夜までなら、見ただけで眠くなった並びです。
でも今は少し違います。
あの「一切認めない」は、いったい何だったのか。
どうして私たちは、あの紙を法律と同じようには扱わなかったのか。
そこをちゃんと説明できるようになれば、今日のことが本当に自分の知識になる気がしました。
私はノートを閉じました。明日、もう一度開けばいい。そのときは、団子の匂いだけじゃなく、今日の「駄目です」の正体まで、きちんと言葉にしてみよう。
窓の外では、駅前の灯りが一つずつ点いていました。
役所の紙は、人を簡単に止めます。でも、その紙の後ろ側を覗いてみれば、そこには必ず、
誰が決めたのか。
何に基づくのか。
本当に人を縛るものなのか。
そういう問いが隠れています。
今日、私が覚えたのは答えではありません。
たぶん、「決まりです」と言われたところから、行政法は始まる。
それだけでした。
机の上では、最後の一本の団子をめぐって、相馬先輩がこちらを警戒しています。
「先輩」
「何だ」
「それ、半分にしません?」
「嫌だ」
「根拠は?」
「俺が先に取った」
「雑!」
どうやらこちらの争いには、まだ救済の余地がありそうです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




