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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政行為

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[行政裁量]現場編 「裁量ですから、市の自由です」の罠。判断の余地と好き勝手を混ぜる役所と、目的から外れた“駅前らしさ”

挿絵(By みてみん)

 「役所の判断です」は、ときどき便利すぎる言葉です。


 法律で決まっています。


 条例で決まっています。


 なら、まだ話は分かります。


 でも、


 「総合的に判断しました」


 「こちらの裁量です」


 と言われると、急に霧が出る。


 何をどう総合したのか。


 どこからどこまで自由なのか。


 そもそも、その判断、本当に何でもありなのか。


 ――行政法を勉強していた頃の私は、そこまで考えていませんでした。


 裁量。


 テキストに出てくると、だいたい眠い単語です。


 でも昭和六十三年の片桐行政書士事務所で、その二文字は、商売をやめるかどうかという重さを持って机の上に置かれました。


「ですからね、わたしゃ別に、駅前を占拠したいわけじゃないんです」


 相談者の女性は、そう言って膝の上の風呂敷をぎゅっと握りました。


 名前は田所千代さん。


 六十二歳。


 駅前商店街で、二十年以上、小さなおでん屋をやっている人です。


 髪はきっちり後ろでまとめている。


 話す声は強い。


 ただし、目の下には寝不足の影がありました。


「冬だけですよ。十二月から二月まで。夕方から夜八時まで。駅前広場の端っこに、小さい屋台を出したい。それだけなんです」


「これまでも?」


 片桐所長が聞きます。


「ええ。去年まではね」


「許可を取って?」


「毎年、市役所に申請してましたよ。広場を使う許可だとか何とか。ちゃんと使用料も払って」


「今年は不許可になった」


「そうなんです」


 千代さんは風呂敷から一枚の紙を出しました。


 市役所から来た通知。


 そこには、短くこう書いてあります。


 ――駅前広場使用許可申請については、駅前再整備事業の趣旨等を総合的に勘案し、不許可とします。


「……短いですね」


 私が言うと、相馬先輩が横から紙を奪うようにして見ました。


「短いっつうか、何も言ってねえな」


「一応、“総合的に勘案”してます」


「行政文書で一番信用ならん日本語の一つだ」


「先輩、それ偏見では?」


「実務経験だ」


 強い。


 千代さんは身を乗り出しました。


「それで役所に聞きに行ったんです。何が悪いんですかって」


「何て?」


「“今年から駅前のイメージを一新したい”って」


 私は少し眉を上げました。


「イメージ」


「若い人が集まる、明るくて新しい駅前にするそうですよ」


「なるほど」


「でね」


 千代さんの声が少し低くなりました。


「昨日見たら、私が出してた場所のすぐ近くで、クレープ屋が準備してるんですよ」


「クレープ?」


「若い兄ちゃんと姉ちゃんがやる、洒落たやつ」


 相馬先輩が紙から顔を上げました。


「そっちは許可が出た?」


「そうらしいです」


 ああ。


 嫌な形が見えてきました。


「それでまた役所に聞いたんです。なんで向こうはよくて、私は駄目なんですかって」


「はい」


「そしたら言われました」


 千代さんは、そこで一度、息を吸いました。


「“使用許可は市の裁量ですから”って」


 事務所が静かになりました。


 相馬先輩が、


「出たな」


 と呟きます。


 私は心の中でも同じことを言っていました。


 出ました。


 裁量。


 昨夜までなら、私にとっては問題集の選択肢の中にいる単語です。


 裁量行為。


 裁量権の逸脱。


 裁量権の濫用。


 要件裁量。


 効果裁量。


 文字だけ並べると、眠気の四天王です。


 でも今は、その一言で千代さんの冬の売上が飛びかけている。


 そう考えると、急に文字が立ち上がります。


「所長」


「何だ」


「確認したいです」


「言え」


 私は不許可通知を指さしました。


「市に裁量があることと、市が好きに決めていいことって、同じじゃないですよね」


 片桐所長は、短く答えました。


「違う」


 千代さんが私を見ます。


「どう違うんです?」


 私は一瞬、言葉を探しました。


 ここで講義を始めたら駄目です。


 現場。


 現場です。


「法律が、役所にある程度の判断の幅を持たせることはあります」


「はい」


「でも、その幅の中なら何を理由にしてもいい、という意味ではありません」


 千代さんは黙って聞いています。


「何のための制度なのか。その目的に沿って考えているか。関係ある事情を見ているか。逆に、関係ない事情で決めていないか。そこは別です」


 相馬先輩が横から言いました。


「つまり、“裁量です”で話を終わらせるなってことだ」


「そうです」


「最初からそう言え」


「法律用語を日常語に変換するの、先輩の仕事じゃないですか?」


「俺は役所と喧嘩する担当だ」


「職務分掌が雑」


 所長が立ち上がりました。


「行くぞ」


「市役所ですか?」


「他にどこがある」


 はい。


 今日も言い出しっぺ制度が発動しました。


 昭和の職場には、労務管理より先に現場があります。


 市役所の都市整備課には、見覚えのある顔がありました。


 倉田係長です。


 以前、別件で私たちと散々やり合った人。


 私たちを見るなり、眉間に皺が寄りました。


「……今日は何です」


「言い方」


 相馬先輩が言う。


「こちらも仕事なんですよ」


「こっちもだ」


「分かってます」


 倉田係長はため息をついて、応接の椅子を勧めました。


 完全な悪人ではない。


 だからこそ、毎回ややこしい。


「田所さんの駅前広場使用申請です」


 所長が通知を机に置きました。


「ああ」


「不許可理由を確認したい」


「通知のとおりです。駅前再整備の趣旨を総合的に勘案して――」


「その“総合的”の中身です」


 私が言いました。


 倉田係長がこちらを見ます。


「また君か」


「また私です」


「最近、細かいね」


「行政法が細かいんです」


「人のせいみたいに言うな」


 ちょっと一目置かれ始めている気がします。


 たぶん悪い意味でも。


 倉田係長は書類をめくりました。


「駅前は、来年度から本格的な再整備に入ります。今年の冬から、試験的に新しい活用を始めることになりました」


「新しい活用?」


「若者や観光客が集まるような店舗を優先する方針です」


「方針は文書になっていますか」


「内部の選定基準があります」


「見せてもらえます?」


「内部資料です」


「では、田所さんを不許可にした理由は?」


「駅前の新しいイメージと合わないと判断しました」


 来ました。


 ついに裸になりました。


 新しいイメージと合わない。


 千代さんの、おでん屋が。


「一方、クレープ店には許可を?」


「出ています」


「なぜです」


「若者向けで、外観も統一感がある。再整備の方向性に合うからです」


 相馬先輩が椅子にもたれました。


「じゃあ、味じゃなくて見た目か」


「そう単純ではありません」


「じゃあ何を見た」


「衛生面、営業時間、設備、来街者への訴求力、周辺環境との調和などです」


「田所さんの衛生面に問題は?」


「ありません」


「営業時間は?」


「従来どおりなら問題ありません」


「設備は?」


「大きな問題はありません」


「苦情歴」


「確認した範囲ではありません」


「安全面」


「特に」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ何が駄目なんだ」


 倉田係長が少し黙りました。


「……新規性です」


 私は思わず聞き返しました。


「新規性?」


「昔ながらのおでん屋では、再整備のイメージに合わない」


「その“新規性”は、広場使用許可の要件なんですか」


 倉田係長の指が止まりました。


 部屋の空気も止まる。


 これです。


 今日の引っかかり。


 去年まで認められていた。


 安全上の問題もない。


 衛生上の問題もない。


 苦情もない。


 なのに今年は、クレープはよくて、おでんは駄目。


 その違いが、


 “新しい駅前っぽいかどうか”。


 でも。


 その判断をしていい根拠は、どこにあるのか。


「条例を見せてください」


 私が言うと、倉田係長は棚から冊子を持ってきました。


 駅前広場管理条例。


 利用目的。


 禁止事項。


 使用許可。


 そして、市長は「広場の管理上支障があると認めるとき」などの場合には許可をしないことができる。


 ざっと読む。


 なるほど。


 確かに、役所に判断の余地はあります。


 何でも自動的に許可する仕組みではない。


 でも。


「係長」


「何です」


「“管理上の支障”って、駅前の見た目が古い、も含むんですか」


「景観や再整備方針も含めて判断しています」


「それは分かります。でも、条例の目的は?」


 私は前の条文を指さしました。


 駅前広場の適正な管理。


 公共の利便。


 安全で円滑な利用。


 そんな文言が並んでいます。


「再整備のイメージ戦略そのものを優先して、問題なく使えていた人を落とす制度なんでしょうか」


「だから、そこは裁量で――」


「裁量があるのは分かってます」


 自分でも、少し声が強くなったのが分かりました。


「でも裁量があるからこそ、何を考慮して決めたかが問題になるんじゃないですか」


 倉田係長が黙ります。


 私は続けました。


「安全に問題がある」


「……」


「通行を妨げる」


「……」


「衛生上問題がある」


「……」


「騒音や煙で周囲に支障が出る」


「……」


「そういう事情を見るなら分かります。広場を管理する制度だから」


 千代さんの申請書を指さしました。


「でも、“昔っぽいから”を大きな理由にして落とすのは、本当にこの許可制度が役所に与えた判断の範囲なんですか」


 倉田係長の表情が変わりました。


 怒った、というより。


 痛いところを突かれた人の顔です。


「昔っぽい、とは言っていません」


「新規性がない」


「……」


「新しい駅前のイメージに合わない」


「……言いました」


「ほぼ同じです」


 相馬先輩が横から追撃しました。


「しかもクレープ屋を選んだ理由が、若者向けだの見た目だのって話なら、なおさらだ」


「駅前振興は市の重要施策です」


「だから何だ」


「何だ、とは?」


「重要施策なら、どんな制度でも好きなように使っていいのかって聞いてる」


 相馬先輩の声が低くなります。


「商店振興なら商店振興の制度でやれ。イベントの出店者選びなら、その基準を出せ。広場の使用許可で、別の政策目的を混ぜるなら、どこまで許されるのか説明しろ」


 荒っぽい。


 でも、ものすごく分かりやすい。


 私は心の中で拍手しました。


 倉田係長が眼鏡を外して、眉間を押さえました。


「……再整備の担当から要請が来てるんですよ」


 空気が少し変わります。


「要請?」


 所長が初めて聞き返しました。


「今年は駅前の印象を変えたい。既存の露店的なものは減らして、新規事業者を入れてほしいと」


「文書で?」


「庁内会議の方針です」


「つまり」


 私はゆっくり言いました。


「広場使用許可の判断をするときに、別部署の“駅前を新しく見せたい”という方針をかなり重く見たんですね」


「そうです」


「その結果、管理上の問題がない田所さんを不許可にした」


「……そうなります」


 そこまで言ったところで、片桐所長が静かに口を開きました。


「倉田さん」


「はい」


「行政に裁量が必要なのは分かる」


「ええ」


「現場は、条文だけで全部処理できない」


「そのとおりです」


「だが」


 所長は不許可通知を指先で軽く叩きました。


「裁量は、目的を外れていい免許じゃない」


 短い。


 でも、部屋の空気がきれいに切れました。


 私は思わず背筋を伸ばしました。


 そうです。


 たぶん、今日一番大事なのはこれです。


 裁量。


 それは自由ではない。


 正確には、一定の幅がある。


 でも、幅には端がある。


 その端を越えれば、おかしくなる。


 中にいても、使い方が滅茶苦茶なら、おかしくなる。


 だから、


 「裁量です」


 は、答えじゃない。


 むしろ、そこから、


 じゃあ何を見たんですか。


 何のための権限ですか。


 関係ない事情を混ぜてませんか。


 重視すべき事情を落としてませんか。


 と聞く話になる。


 倉田係長はしばらく黙っていました。


「……再検討します」


 相馬先輩が即座に言いました。


「いつまでに」


「相馬さん」


「冬は待ってくれません」


 この人、期限管理になると急に怖い。


「今週中に」


「遅い」


「明後日」


「明日」


「無茶言わないでください!」


 倉田係長が初めて声を荒らげました。


 よかった。


 人間味が戻りました。


 結局、翌日の午後に内部協議を行い、その結果を連絡する、ということになりました。


 事務所へ戻る道すがら、千代さんはしばらく黙って歩いていました。


 駅前では、ちょうど例のクレープ屋が木製の看板を取りつけています。


 若い男女が、楽しそうにペンキを塗っている。


 千代さんはそれを見ました。


 私は少し心配になりました。


「千代さん」


「何です?」


「クレープ屋さんが悪いわけでは――」


「分かってますよ」


 千代さんは即答しました。


「若い子が商売始めるんだ。頑張ったらいい」


 そう言ってから、少し笑いました。


「私だって、若い頃はずいぶん生意気だったんです」


「今は?」


「年季の入った生意気」


「進化してる」


「そう」


 強い。


「ただね」


 千代さんは、駅前広場を見渡しました。


「あの子らを入れたいなら、そういう募集をすればいいんですよ」


 私は千代さんを見ました。


「新しい店を何軒募集します、とか」


「はい」


「そういう話なら、私も文句は言いません」


「……」


「でも、私の申請に対して“広場を使うのに支障がある”みたいな顔で駄目にされるのは、何か違うでしょう」


 私は、小さく頷きました。


 この人、法学部に行ってないだけで論点はもう分かってます。


 法律って、ときどき名前をつけるだけなんですよね。


 人が先に感じていた、


 “それ、筋が違わない?”


 という違和感に。


 翌日の夕方。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『都市整備課の倉田です』


「お疲れさまです」


『田所さんの件ですが』


 私は姿勢を正しました。


『再検討しました』


「はい」


『結論から言うと、条件付きで許可します』


「え」


 思わず声が出ました。


 相馬先輩がこちらを見る。


 所長も新聞から目を上げました。


『従来の位置では再整備工事との関係で問題があるので、少し場所をずらします。屋台の寸法、通行幅、火気の管理について条件を付けます』


「それは、田所さんも確認が必要ですが……」


『あと、デザインについても最低限、周辺の案内表示を統一してもらいます』


「おでんをクレープに変えろとかではなく?」


『そんなこと言いません』


「昨日はかなり近いこと言ってました」


『……言い方が悪かった』


 珍しい。


 倉田係長が認めました。


『内部でも話になりました。広場管理上の支障と、再整備の宣伝目的が混ざっていた』


 私は、少し息を止めました。


『再整備の方針自体は変えません。ただ、使用許可の審査は、その目的に沿ってやり直します』


「ありがとうございます」


『礼を言われる話でもないです』


「じゃあ言いません」


『そこは言っといてくださいよ』


「どっちですか」


 受話器の向こうで、倉田係長が小さく笑いました。


『……朝比奈さん』


「はい」


『昨日の“裁量があるからこそ、何を見たかが問題になる”って話』


「はい」


『腹立ちました』


「すみません」


『でも、庁内会議でそのまま使いました』


「使用料をください」


『切りますよ』


 電話が切れました。


 私は受話器を置いて、顔を上げました。


「条件付きで許可です」


「お」


 相馬先輩が短く言う。


「よかったな」


 所長も一言だけ。


「筋が戻った」


 その日の夜。


 千代さんは、湯気の立つ大鍋を抱えて事務所に現れました。


「許可が出た祝いです」


「早くないですか?」


「仕込みはしてましたから」


「不許可なのに?」


「二十年以上商売してる女が、役所の紙一枚で大根を買うのをやめると思います?」


 思いません。


 まったく思いません。


 机の上に、大根、こんにゃく、玉子、ちくわ。


 事務所が一気に冬の匂いになりました。


 相馬先輩が勝手に箸を取りました。


「うまそうだな」


「先輩」


「何だ」


「まだ相談者が取り分けてません」


「裁量だ」


「その使い方、今日一日で一番間違ってます」


 千代さんが笑いました。


「好きなの取っていいですよ」


「ほら、許可出た」


「今のは千代さんの所有権に基づく許可です」


「お前、飯のときまで法律の話すんな」


「誰のせいですか」


 私は玉子を一つもらいました。


 出汁がしみています。


 ちゃんとおいしい。


 古いとか新しいとか、そんな言葉では味は決まりません。


「でも」


 私は箸を持ったまま言いました。


「今日、ちょっと分かった気がします」


 相馬先輩が警戒した顔をします。


「何が」


「裁量です」


「飯食ってからにしろ」


「短くします」


 私は千代さんの不許可通知を思い出しました。


 駅前再整備の趣旨等を総合的に勘案し、不許可とします。


 一見すると、役所が難しいことを考えて決めたように見えます。


 でも。


 その中身をほどいてみたら、


 衛生。


 安全。


 通行。


 火気。


 広場管理に関係する事情には、大きな問題がなかった。


 それより、


 若者向けか。


 新しい印象か。


 昔っぽくないか。


 そんな要素が大きく使われていた。


 しかもそれは、広場を適切に管理するという許可制度の目的とは、少しずれたところから入ってきた事情でした。


「法律が役所に判断の余地をくれることはある」


 私は言いました。


「でも、判断の余地があるって、“何を理由にしてもいい”じゃない」


 所長が静かに頷きます。


「そうだ」


「どこまで判断していいのか。その判断を何のために使うのか。そこから外れたら、“裁量です”では隠せない」


「今日はまともだな」


 相馬先輩が言いました。


「また“今日は”って言いましたね」


「大根食え」


「話を逸らさないでください」


 千代さんは、そんな私たちを見て笑っていました。


「役所の人も大変なんでしょうね」


 少し意外な言葉でした。


「怒ってないんですか?」


「怒ってますよ」


 即答。


「でも、あの係長さんも、自分で私のおでんが嫌いだから落としたわけじゃないんでしょう」


「たぶん」


「上から“駅前を新しくしろ”って言われたら、そうしたくなるのも分からなくはない」


 千代さんは大根を一つ取ります。


「だからこそ、決まりが要るんですねえ」


 私は箸を止めました。


「決まり?」


「どこまでなら考えてよくて、どこから先は違うのか」


 その言葉が、妙に胸に残りました。


 行政法の条文は、冷たい。


 権限。


 要件。


 効果。


 裁量。


 逸脱。


 濫用。


 人の気持ちなんて知らない顔をして並んでいる。


 でも。


 今日みたいな場面では、その冷たさが役に立つ。


 新しい街にしたい。


 若い人に来てほしい。


 観光客を増やしたい。


 そういう願いは、悪くありません。


 むしろ、たぶん必要です。


 けれど善い目的を持っているからといって、どの権限でも、どんな使い方をしていいわけじゃない。


 制度が冷たく線を引くから、


 「それはこの権限でやる話ですか」


 と聞ける。


 裁量という余白があるから、現実に合わせられる。


 でも、その余白に何を書いてもいいわけではない。


 その夜、千代さんが帰ったあと。


 事務所には、おでんの匂いだけが残っていました。


 私は自分の机に戻り、ノートを開きます。


 まだ詳しく整理する気にはなれません。


 今日分かった気になって、そのまま覚えると危ない。


 だって裁量には、もっといろいろあるはずです。


 そもそも、


 何を事実として認めるのか。


 その事実が法律の要件に当たるのか。


 要件に当たったとして、どんな処分をするのか。


 どの段階で、どんな判断の余地があるのか。


 そして裁判所は、その判断をどこまで審査するのか。


 頭の中に疑問が増えていきます。


「また止まったな」


 相馬先輩が言いました。


「今日は題名だけにします」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「今日はテーマが違います」


「便利だなお前」


 私はノートの上に書きました。


 ――行政裁量。


 それから、その下に一行だけ。


 「裁量がある」と「自由に決めていい」は、同じではない。


 所長が横から見ました。


「もう一つ書け」


「何です?」


「裁量と言われたら、何を聞く」


 私は少し考えました。


 今日、市役所で聞いたこと。


 何を理由にしたのか。


 その事情は、この制度と関係があるのか。


 何のために与えられた権限なのか。


 他の申請者と扱いが違うなら、その違いに理由があるのか。


 そして。


 私は一行、書き足しました。


 ――「裁量です」と言われたら、「何を見て、何のために、その結論にしたんですか」と聞く。


「長い」


 相馬先輩が言いました。


「大事なので」


「試験で答案欄に入らんぞ」


「これは試験答案じゃありません」


「じゃあもっと短くしろ」


「先輩なら?」


 相馬先輩は少し考えました。


「“好き勝手すんな”」


「短すぎます」


 所長が新聞を畳みます。


「だが、本質は近い」


「所長まで!」


 三人で少し笑いました。


 窓の外では、駅前広場の工事用フェンスの向こうに、新しい看板の明かりが見えています。


 町は変わっていきます。


 古い店が消えることもある。


 新しい店が入ることもある。


 その全部を法律で止めることなんてできません。


 たぶん、止めるべきでもない。


 でも。


 変える権限を持った人が、


 どこまで変えていいのか。


 何を理由に決めていいのか。


 誰か一人を外すとき、その理由は制度の目的に沿っているのか。


 そこを問うことはできる。


 今日、おでん屋一軒を救ったのは、


 「絶対に許可しろ」


 という法律ではありませんでした。


 むしろ逆です。


 役所に判断の余地があるからこそ、


 その判断が筋を通しているかを問えた。


 裁量。


 昨日まで、私にはぼんやりした単語でした。


 でも今は少し違う。


 自由と勝手の間に引かれた、見えにくい線。


 たぶん、行政法は、その線を探す学問でもあるのでしょう。


 私はノートを閉じました。


 詳しい整理は、また後で。


 今夜覚えておくのは、一つだけです。


 役所に「判断の余地」があっても、


 その余地は、何でも書ける白紙ではない。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「何です?」


「鍋の底に玉子一個残ってる」


「本当ですか」


「俺が食う」


「駄目です」


「俺の裁量だ」


「逸脱・濫用です!」


「まだ説明できねえだろ、それ」


「明日できるようになります!」


 奥で片桐所長が、珍しく声を立てて笑いました。


 結局、最後の玉子は半分ずつになりました。


 行政裁量より、おでん裁量のほうが円満解決は早いようです。

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