[行政裁量]現場編 「裁量ですから、市の自由です」の罠。判断の余地と好き勝手を混ぜる役所と、目的から外れた“駅前らしさ”
「役所の判断です」は、ときどき便利すぎる言葉です。
法律で決まっています。
条例で決まっています。
なら、まだ話は分かります。
でも、
「総合的に判断しました」
「こちらの裁量です」
と言われると、急に霧が出る。
何をどう総合したのか。
どこからどこまで自由なのか。
そもそも、その判断、本当に何でもありなのか。
――行政法を勉強していた頃の私は、そこまで考えていませんでした。
裁量。
テキストに出てくると、だいたい眠い単語です。
でも昭和六十三年の片桐行政書士事務所で、その二文字は、商売をやめるかどうかという重さを持って机の上に置かれました。
「ですからね、わたしゃ別に、駅前を占拠したいわけじゃないんです」
相談者の女性は、そう言って膝の上の風呂敷をぎゅっと握りました。
名前は田所千代さん。
六十二歳。
駅前商店街で、二十年以上、小さなおでん屋をやっている人です。
髪はきっちり後ろでまとめている。
話す声は強い。
ただし、目の下には寝不足の影がありました。
「冬だけですよ。十二月から二月まで。夕方から夜八時まで。駅前広場の端っこに、小さい屋台を出したい。それだけなんです」
「これまでも?」
片桐所長が聞きます。
「ええ。去年まではね」
「許可を取って?」
「毎年、市役所に申請してましたよ。広場を使う許可だとか何とか。ちゃんと使用料も払って」
「今年は不許可になった」
「そうなんです」
千代さんは風呂敷から一枚の紙を出しました。
市役所から来た通知。
そこには、短くこう書いてあります。
――駅前広場使用許可申請については、駅前再整備事業の趣旨等を総合的に勘案し、不許可とします。
「……短いですね」
私が言うと、相馬先輩が横から紙を奪うようにして見ました。
「短いっつうか、何も言ってねえな」
「一応、“総合的に勘案”してます」
「行政文書で一番信用ならん日本語の一つだ」
「先輩、それ偏見では?」
「実務経験だ」
強い。
千代さんは身を乗り出しました。
「それで役所に聞きに行ったんです。何が悪いんですかって」
「何て?」
「“今年から駅前のイメージを一新したい”って」
私は少し眉を上げました。
「イメージ」
「若い人が集まる、明るくて新しい駅前にするそうですよ」
「なるほど」
「でね」
千代さんの声が少し低くなりました。
「昨日見たら、私が出してた場所のすぐ近くで、クレープ屋が準備してるんですよ」
「クレープ?」
「若い兄ちゃんと姉ちゃんがやる、洒落たやつ」
相馬先輩が紙から顔を上げました。
「そっちは許可が出た?」
「そうらしいです」
ああ。
嫌な形が見えてきました。
「それでまた役所に聞いたんです。なんで向こうはよくて、私は駄目なんですかって」
「はい」
「そしたら言われました」
千代さんは、そこで一度、息を吸いました。
「“使用許可は市の裁量ですから”って」
事務所が静かになりました。
相馬先輩が、
「出たな」
と呟きます。
私は心の中でも同じことを言っていました。
出ました。
裁量。
昨夜までなら、私にとっては問題集の選択肢の中にいる単語です。
裁量行為。
裁量権の逸脱。
裁量権の濫用。
要件裁量。
効果裁量。
文字だけ並べると、眠気の四天王です。
でも今は、その一言で千代さんの冬の売上が飛びかけている。
そう考えると、急に文字が立ち上がります。
「所長」
「何だ」
「確認したいです」
「言え」
私は不許可通知を指さしました。
「市に裁量があることと、市が好きに決めていいことって、同じじゃないですよね」
片桐所長は、短く答えました。
「違う」
千代さんが私を見ます。
「どう違うんです?」
私は一瞬、言葉を探しました。
ここで講義を始めたら駄目です。
現場。
現場です。
「法律が、役所にある程度の判断の幅を持たせることはあります」
「はい」
「でも、その幅の中なら何を理由にしてもいい、という意味ではありません」
千代さんは黙って聞いています。
「何のための制度なのか。その目的に沿って考えているか。関係ある事情を見ているか。逆に、関係ない事情で決めていないか。そこは別です」
相馬先輩が横から言いました。
「つまり、“裁量です”で話を終わらせるなってことだ」
「そうです」
「最初からそう言え」
「法律用語を日常語に変換するの、先輩の仕事じゃないですか?」
「俺は役所と喧嘩する担当だ」
「職務分掌が雑」
所長が立ち上がりました。
「行くぞ」
「市役所ですか?」
「他にどこがある」
はい。
今日も言い出しっぺ制度が発動しました。
昭和の職場には、労務管理より先に現場があります。
市役所の都市整備課には、見覚えのある顔がありました。
倉田係長です。
以前、別件で私たちと散々やり合った人。
私たちを見るなり、眉間に皺が寄りました。
「……今日は何です」
「言い方」
相馬先輩が言う。
「こちらも仕事なんですよ」
「こっちもだ」
「分かってます」
倉田係長はため息をついて、応接の椅子を勧めました。
完全な悪人ではない。
だからこそ、毎回ややこしい。
「田所さんの駅前広場使用申請です」
所長が通知を机に置きました。
「ああ」
「不許可理由を確認したい」
「通知のとおりです。駅前再整備の趣旨を総合的に勘案して――」
「その“総合的”の中身です」
私が言いました。
倉田係長がこちらを見ます。
「また君か」
「また私です」
「最近、細かいね」
「行政法が細かいんです」
「人のせいみたいに言うな」
ちょっと一目置かれ始めている気がします。
たぶん悪い意味でも。
倉田係長は書類をめくりました。
「駅前は、来年度から本格的な再整備に入ります。今年の冬から、試験的に新しい活用を始めることになりました」
「新しい活用?」
「若者や観光客が集まるような店舗を優先する方針です」
「方針は文書になっていますか」
「内部の選定基準があります」
「見せてもらえます?」
「内部資料です」
「では、田所さんを不許可にした理由は?」
「駅前の新しいイメージと合わないと判断しました」
来ました。
ついに裸になりました。
新しいイメージと合わない。
千代さんの、おでん屋が。
「一方、クレープ店には許可を?」
「出ています」
「なぜです」
「若者向けで、外観も統一感がある。再整備の方向性に合うからです」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「じゃあ、味じゃなくて見た目か」
「そう単純ではありません」
「じゃあ何を見た」
「衛生面、営業時間、設備、来街者への訴求力、周辺環境との調和などです」
「田所さんの衛生面に問題は?」
「ありません」
「営業時間は?」
「従来どおりなら問題ありません」
「設備は?」
「大きな問題はありません」
「苦情歴」
「確認した範囲ではありません」
「安全面」
「特に」
相馬先輩が腕を組みました。
「じゃあ何が駄目なんだ」
倉田係長が少し黙りました。
「……新規性です」
私は思わず聞き返しました。
「新規性?」
「昔ながらのおでん屋では、再整備のイメージに合わない」
「その“新規性”は、広場使用許可の要件なんですか」
倉田係長の指が止まりました。
部屋の空気も止まる。
これです。
今日の引っかかり。
去年まで認められていた。
安全上の問題もない。
衛生上の問題もない。
苦情もない。
なのに今年は、クレープはよくて、おでんは駄目。
その違いが、
“新しい駅前っぽいかどうか”。
でも。
その判断をしていい根拠は、どこにあるのか。
「条例を見せてください」
私が言うと、倉田係長は棚から冊子を持ってきました。
駅前広場管理条例。
利用目的。
禁止事項。
使用許可。
そして、市長は「広場の管理上支障があると認めるとき」などの場合には許可をしないことができる。
ざっと読む。
なるほど。
確かに、役所に判断の余地はあります。
何でも自動的に許可する仕組みではない。
でも。
「係長」
「何です」
「“管理上の支障”って、駅前の見た目が古い、も含むんですか」
「景観や再整備方針も含めて判断しています」
「それは分かります。でも、条例の目的は?」
私は前の条文を指さしました。
駅前広場の適正な管理。
公共の利便。
安全で円滑な利用。
そんな文言が並んでいます。
「再整備のイメージ戦略そのものを優先して、問題なく使えていた人を落とす制度なんでしょうか」
「だから、そこは裁量で――」
「裁量があるのは分かってます」
自分でも、少し声が強くなったのが分かりました。
「でも裁量があるからこそ、何を考慮して決めたかが問題になるんじゃないですか」
倉田係長が黙ります。
私は続けました。
「安全に問題がある」
「……」
「通行を妨げる」
「……」
「衛生上問題がある」
「……」
「騒音や煙で周囲に支障が出る」
「……」
「そういう事情を見るなら分かります。広場を管理する制度だから」
千代さんの申請書を指さしました。
「でも、“昔っぽいから”を大きな理由にして落とすのは、本当にこの許可制度が役所に与えた判断の範囲なんですか」
倉田係長の表情が変わりました。
怒った、というより。
痛いところを突かれた人の顔です。
「昔っぽい、とは言っていません」
「新規性がない」
「……」
「新しい駅前のイメージに合わない」
「……言いました」
「ほぼ同じです」
相馬先輩が横から追撃しました。
「しかもクレープ屋を選んだ理由が、若者向けだの見た目だのって話なら、なおさらだ」
「駅前振興は市の重要施策です」
「だから何だ」
「何だ、とは?」
「重要施策なら、どんな制度でも好きなように使っていいのかって聞いてる」
相馬先輩の声が低くなります。
「商店振興なら商店振興の制度でやれ。イベントの出店者選びなら、その基準を出せ。広場の使用許可で、別の政策目的を混ぜるなら、どこまで許されるのか説明しろ」
荒っぽい。
でも、ものすごく分かりやすい。
私は心の中で拍手しました。
倉田係長が眼鏡を外して、眉間を押さえました。
「……再整備の担当から要請が来てるんですよ」
空気が少し変わります。
「要請?」
所長が初めて聞き返しました。
「今年は駅前の印象を変えたい。既存の露店的なものは減らして、新規事業者を入れてほしいと」
「文書で?」
「庁内会議の方針です」
「つまり」
私はゆっくり言いました。
「広場使用許可の判断をするときに、別部署の“駅前を新しく見せたい”という方針をかなり重く見たんですね」
「そうです」
「その結果、管理上の問題がない田所さんを不許可にした」
「……そうなります」
そこまで言ったところで、片桐所長が静かに口を開きました。
「倉田さん」
「はい」
「行政に裁量が必要なのは分かる」
「ええ」
「現場は、条文だけで全部処理できない」
「そのとおりです」
「だが」
所長は不許可通知を指先で軽く叩きました。
「裁量は、目的を外れていい免許じゃない」
短い。
でも、部屋の空気がきれいに切れました。
私は思わず背筋を伸ばしました。
そうです。
たぶん、今日一番大事なのはこれです。
裁量。
それは自由ではない。
正確には、一定の幅がある。
でも、幅には端がある。
その端を越えれば、おかしくなる。
中にいても、使い方が滅茶苦茶なら、おかしくなる。
だから、
「裁量です」
は、答えじゃない。
むしろ、そこから、
じゃあ何を見たんですか。
何のための権限ですか。
関係ない事情を混ぜてませんか。
重視すべき事情を落としてませんか。
と聞く話になる。
倉田係長はしばらく黙っていました。
「……再検討します」
相馬先輩が即座に言いました。
「いつまでに」
「相馬さん」
「冬は待ってくれません」
この人、期限管理になると急に怖い。
「今週中に」
「遅い」
「明後日」
「明日」
「無茶言わないでください!」
倉田係長が初めて声を荒らげました。
よかった。
人間味が戻りました。
結局、翌日の午後に内部協議を行い、その結果を連絡する、ということになりました。
事務所へ戻る道すがら、千代さんはしばらく黙って歩いていました。
駅前では、ちょうど例のクレープ屋が木製の看板を取りつけています。
若い男女が、楽しそうにペンキを塗っている。
千代さんはそれを見ました。
私は少し心配になりました。
「千代さん」
「何です?」
「クレープ屋さんが悪いわけでは――」
「分かってますよ」
千代さんは即答しました。
「若い子が商売始めるんだ。頑張ったらいい」
そう言ってから、少し笑いました。
「私だって、若い頃はずいぶん生意気だったんです」
「今は?」
「年季の入った生意気」
「進化してる」
「そう」
強い。
「ただね」
千代さんは、駅前広場を見渡しました。
「あの子らを入れたいなら、そういう募集をすればいいんですよ」
私は千代さんを見ました。
「新しい店を何軒募集します、とか」
「はい」
「そういう話なら、私も文句は言いません」
「……」
「でも、私の申請に対して“広場を使うのに支障がある”みたいな顔で駄目にされるのは、何か違うでしょう」
私は、小さく頷きました。
この人、法学部に行ってないだけで論点はもう分かってます。
法律って、ときどき名前をつけるだけなんですよね。
人が先に感じていた、
“それ、筋が違わない?”
という違和感に。
翌日の夕方。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『都市整備課の倉田です』
「お疲れさまです」
『田所さんの件ですが』
私は姿勢を正しました。
『再検討しました』
「はい」
『結論から言うと、条件付きで許可します』
「え」
思わず声が出ました。
相馬先輩がこちらを見る。
所長も新聞から目を上げました。
『従来の位置では再整備工事との関係で問題があるので、少し場所をずらします。屋台の寸法、通行幅、火気の管理について条件を付けます』
「それは、田所さんも確認が必要ですが……」
『あと、デザインについても最低限、周辺の案内表示を統一してもらいます』
「おでんをクレープに変えろとかではなく?」
『そんなこと言いません』
「昨日はかなり近いこと言ってました」
『……言い方が悪かった』
珍しい。
倉田係長が認めました。
『内部でも話になりました。広場管理上の支障と、再整備の宣伝目的が混ざっていた』
私は、少し息を止めました。
『再整備の方針自体は変えません。ただ、使用許可の審査は、その目的に沿ってやり直します』
「ありがとうございます」
『礼を言われる話でもないです』
「じゃあ言いません」
『そこは言っといてくださいよ』
「どっちですか」
受話器の向こうで、倉田係長が小さく笑いました。
『……朝比奈さん』
「はい」
『昨日の“裁量があるからこそ、何を見たかが問題になる”って話』
「はい」
『腹立ちました』
「すみません」
『でも、庁内会議でそのまま使いました』
「使用料をください」
『切りますよ』
電話が切れました。
私は受話器を置いて、顔を上げました。
「条件付きで許可です」
「お」
相馬先輩が短く言う。
「よかったな」
所長も一言だけ。
「筋が戻った」
その日の夜。
千代さんは、湯気の立つ大鍋を抱えて事務所に現れました。
「許可が出た祝いです」
「早くないですか?」
「仕込みはしてましたから」
「不許可なのに?」
「二十年以上商売してる女が、役所の紙一枚で大根を買うのをやめると思います?」
思いません。
まったく思いません。
机の上に、大根、こんにゃく、玉子、ちくわ。
事務所が一気に冬の匂いになりました。
相馬先輩が勝手に箸を取りました。
「うまそうだな」
「先輩」
「何だ」
「まだ相談者が取り分けてません」
「裁量だ」
「その使い方、今日一日で一番間違ってます」
千代さんが笑いました。
「好きなの取っていいですよ」
「ほら、許可出た」
「今のは千代さんの所有権に基づく許可です」
「お前、飯のときまで法律の話すんな」
「誰のせいですか」
私は玉子を一つもらいました。
出汁がしみています。
ちゃんとおいしい。
古いとか新しいとか、そんな言葉では味は決まりません。
「でも」
私は箸を持ったまま言いました。
「今日、ちょっと分かった気がします」
相馬先輩が警戒した顔をします。
「何が」
「裁量です」
「飯食ってからにしろ」
「短くします」
私は千代さんの不許可通知を思い出しました。
駅前再整備の趣旨等を総合的に勘案し、不許可とします。
一見すると、役所が難しいことを考えて決めたように見えます。
でも。
その中身をほどいてみたら、
衛生。
安全。
通行。
火気。
広場管理に関係する事情には、大きな問題がなかった。
それより、
若者向けか。
新しい印象か。
昔っぽくないか。
そんな要素が大きく使われていた。
しかもそれは、広場を適切に管理するという許可制度の目的とは、少しずれたところから入ってきた事情でした。
「法律が役所に判断の余地をくれることはある」
私は言いました。
「でも、判断の余地があるって、“何を理由にしてもいい”じゃない」
所長が静かに頷きます。
「そうだ」
「どこまで判断していいのか。その判断を何のために使うのか。そこから外れたら、“裁量です”では隠せない」
「今日はまともだな」
相馬先輩が言いました。
「また“今日は”って言いましたね」
「大根食え」
「話を逸らさないでください」
千代さんは、そんな私たちを見て笑っていました。
「役所の人も大変なんでしょうね」
少し意外な言葉でした。
「怒ってないんですか?」
「怒ってますよ」
即答。
「でも、あの係長さんも、自分で私のおでんが嫌いだから落としたわけじゃないんでしょう」
「たぶん」
「上から“駅前を新しくしろ”って言われたら、そうしたくなるのも分からなくはない」
千代さんは大根を一つ取ります。
「だからこそ、決まりが要るんですねえ」
私は箸を止めました。
「決まり?」
「どこまでなら考えてよくて、どこから先は違うのか」
その言葉が、妙に胸に残りました。
行政法の条文は、冷たい。
権限。
要件。
効果。
裁量。
逸脱。
濫用。
人の気持ちなんて知らない顔をして並んでいる。
でも。
今日みたいな場面では、その冷たさが役に立つ。
新しい街にしたい。
若い人に来てほしい。
観光客を増やしたい。
そういう願いは、悪くありません。
むしろ、たぶん必要です。
けれど善い目的を持っているからといって、どの権限でも、どんな使い方をしていいわけじゃない。
制度が冷たく線を引くから、
「それはこの権限でやる話ですか」
と聞ける。
裁量という余白があるから、現実に合わせられる。
でも、その余白に何を書いてもいいわけではない。
その夜、千代さんが帰ったあと。
事務所には、おでんの匂いだけが残っていました。
私は自分の机に戻り、ノートを開きます。
まだ詳しく整理する気にはなれません。
今日分かった気になって、そのまま覚えると危ない。
だって裁量には、もっといろいろあるはずです。
そもそも、
何を事実として認めるのか。
その事実が法律の要件に当たるのか。
要件に当たったとして、どんな処分をするのか。
どの段階で、どんな判断の余地があるのか。
そして裁判所は、その判断をどこまで審査するのか。
頭の中に疑問が増えていきます。
「また止まったな」
相馬先輩が言いました。
「今日は題名だけにします」
「昨日もそんなこと言ってなかったか」
「今日はテーマが違います」
「便利だなお前」
私はノートの上に書きました。
――行政裁量。
それから、その下に一行だけ。
「裁量がある」と「自由に決めていい」は、同じではない。
所長が横から見ました。
「もう一つ書け」
「何です?」
「裁量と言われたら、何を聞く」
私は少し考えました。
今日、市役所で聞いたこと。
何を理由にしたのか。
その事情は、この制度と関係があるのか。
何のために与えられた権限なのか。
他の申請者と扱いが違うなら、その違いに理由があるのか。
そして。
私は一行、書き足しました。
――「裁量です」と言われたら、「何を見て、何のために、その結論にしたんですか」と聞く。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「大事なので」
「試験で答案欄に入らんぞ」
「これは試験答案じゃありません」
「じゃあもっと短くしろ」
「先輩なら?」
相馬先輩は少し考えました。
「“好き勝手すんな”」
「短すぎます」
所長が新聞を畳みます。
「だが、本質は近い」
「所長まで!」
三人で少し笑いました。
窓の外では、駅前広場の工事用フェンスの向こうに、新しい看板の明かりが見えています。
町は変わっていきます。
古い店が消えることもある。
新しい店が入ることもある。
その全部を法律で止めることなんてできません。
たぶん、止めるべきでもない。
でも。
変える権限を持った人が、
どこまで変えていいのか。
何を理由に決めていいのか。
誰か一人を外すとき、その理由は制度の目的に沿っているのか。
そこを問うことはできる。
今日、おでん屋一軒を救ったのは、
「絶対に許可しろ」
という法律ではありませんでした。
むしろ逆です。
役所に判断の余地があるからこそ、
その判断が筋を通しているかを問えた。
裁量。
昨日まで、私にはぼんやりした単語でした。
でも今は少し違う。
自由と勝手の間に引かれた、見えにくい線。
たぶん、行政法は、その線を探す学問でもあるのでしょう。
私はノートを閉じました。
詳しい整理は、また後で。
今夜覚えておくのは、一つだけです。
役所に「判断の余地」があっても、
その余地は、何でも書ける白紙ではない。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「何です?」
「鍋の底に玉子一個残ってる」
「本当ですか」
「俺が食う」
「駄目です」
「俺の裁量だ」
「逸脱・濫用です!」
「まだ説明できねえだろ、それ」
「明日できるようになります!」
奥で片桐所長が、珍しく声を立てて笑いました。
結局、最後の玉子は半分ずつになりました。
行政裁量より、おでん裁量のほうが円満解決は早いようです。
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