[行政行為の瑕疵]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ法律の勉強に向いています。
電話が減る。
来客が途切れる。
西日が書棚を赤く染める。
そして机の上には、秋山さんが置いていった煎餅。
「……三枚減ってます」
「気のせいだ」
相馬先輩が言いました。
「袋の中に十九枚あったんです」
「数えたのかよ」
「行政法を勉強してると、事実認定にうるさくなるんです」
「嫌な成長だな」
私は煎餅の袋を自分の側へ引き寄せ、昨日途中で閉じたノートを開きました。
最初のページには、題名だけがあります。
――行政行為の瑕疵。
昨日、市役所が秋山さんへ出したのは、屋外広告物の許可を取り消す通知でした。
ところが理由欄に書かれていたのは、
『駅前環境整備上、不適当と認めるため』
ほぼそれだけ。
何が不適当なのか。
どの基準に違反したのか。
どんな事実を認定したのか。
分からない。
そこで市役所へ行って尋ねたら、
景観統一のため。
大型看板を減らす方針だから。
という具体的な説明が、あとから出てきた。
そして倉田係長は言いました。
――理由なら今説明しました。
私はペンを持ち直します。
「さて」
ノートの一番上に書きました。
瑕疵。
……読めるけど、日常ではまず使いません。
「先輩」
「何だ」
「瑕疵って普段言います?」
「言わん」
「ですよね」
「お前は最近言いそうだけどな」
「嫌です。友達なくします」
奥で書類を見ていた片桐所長が、こちらを見ました。
「意味は分かるか」
「欠陥とか、間違いとか、法的な問題がある状態ですよね」
「大きくはそれでいい」
私は書きます。
行政行為の瑕疵。
行政庁が行った処分などに、法的な問題や判断上の問題があること。
「で」
相馬先輩が煎餅を一枚取ります。
「昨日の取消処分には瑕疵があったのか」
「そこを今から整理するんです」
「遅い」
「現場で全部分かった顔をする方が危ないんですよ」
昨日、まさにそれを学びました。
行政法には、
なんとなく変だ。
役所のやり方が気に入らない。
という感覚だけでは足りません。
どこが変なのか。
何が法的に問題なのか。
そこを切り分ける。
私は最初の線を引きました。
行政行為の瑕疵には、大きく二つの見方がある。
まず。
違法な行政行為。
そして。
不当な行政行為。
「違法と不当」
私は声に出してみました。
「似てるけど違うやつですね」
「言ってみろ」
所長が促します。
「違法は、法令に違反してる」
「うん」
「不当は、法律には違反してないけど、裁量判断として妥当じゃない」
「そうだ」
ここ、大事です。
役所の判断が気に入らない。
だから違法。
ではありません。
行政庁には、ある程度判断の幅が認められることがあります。
その範囲内で、
もっと別の判断もできたんじゃないか。
この判断は厳しすぎるんじゃないか。
そういう問題が、不当という形で出てくる。
「じゃあ昨日の件は?」
相馬先輩が聞きました。
「うーん」
私は通知書を思い出します。
「理由を十分に示していない点が法令や手続上の要求に反するなら、違法の問題になり得ます」
「うん」
「一方で、そもそも秋山さんの看板を、駅前景観の方針だけで取り消す判断自体が妥当なのか、というところには裁量の問題もありそうです」
「そこだ」
所長が言いました。
「違法と不当を混ぜるな」
私は丸で囲みます。
違法。
法律違反。
不当。
法令違反まではないが、裁量判断が妥当でない。
「試験だと」
私は呟きます。
「不当な処分は、必ず違法ではない」
「そう」
「逆に、違法な処分は単に“不当”というだけでは済まない」
「そういうことだ」
相馬先輩が煎餅を噛みながら言いました。
「役所のやり方がムカつく、で全部違法扱いすんなってことだな」
「言い方は雑ですけど、その通りです」
「褒められた」
「褒めてません」
次。
瑕疵には別の分類もあります。
今度は、
何が間違っているのか。
その場所で分ける。
主体の瑕疵。
内容の瑕疵。
手続の瑕疵。
形式の瑕疵。
「また増えました」
「喜べ」
「試験に出るからですか」
「そうだ」
「全然うれしくない」
私はまず主体の瑕疵と書きました。
「誰が処分したか、の問題ですね」
たとえば。
本来その行政行為をする権限がない者が処分してしまった。
極端な例なら、そもそも正当に公務員となった者ですらない人物が、行政庁の名を使って処分した。
「そんなことあるのか」
相馬先輩が言います。
「教材には、公務員試験に合格してない人が合格書を偽造して公務員になって行った行為って例がありました」
「だいぶ事件だな」
「私もそう思います」
昭和の片桐事務所でも、さすがにそこまでの相談はまだ来ていません。
次。
内容の瑕疵。
「これは分かりやすいですね」
本来百万円と課税すべきところ、計算を誤って百二十万円と課税した。
中身そのものが間違っている。
「秋山さんの件なら?」
「条例上は取消事由に当たらないのに、当たると判断して許可を取り消した、とかなら内容面の問題が出そうです」
「そうだな」
次。
手続の瑕疵。
行政処分を行うために踏まなければならない手続を飛ばした。
必要な審議や聴聞、諮問をしなかった。
「これは、道順を間違えた感じですかね」
「変な言い方するな」
「でも、目的地は処分で、そこまでの必要な手続きを飛ばしてる」
「まあ、覚え方としては好きにしろ」
そして最後。
形式の瑕疵。
一定の形式で行うことを求められているのに、その形式を守っていない。
理由を付けなければならないのに付けなかった。
「昨日の件はここですね」
「典型的にはな」
所長が言いました。
私は昨日の通知書を思い出しました。
駅前環境整備上、不適当と認めるため。
「理由が一応書いてある場合でも、不十分なら問題になる?」
「なる」
「ゼロじゃなきゃいい、ではない」
「そうだ」
ここも大切。
理由を付ける制度の趣旨から見て、
なぜその処分になったのか分からない。
それでは、形式だけ理由欄が埋まっていても十分とは限らない。
「役所って、理由欄が空白じゃなければセーフ、みたいにはならないんですね」
「それじゃ作文欄になるだろ」
相馬先輩が言いました。
「確かに」
私はノートへ線を引きました。
ところが。
瑕疵がある。
イコール。
その行政行為は最初から存在しない。
ではありません。
ここからが昨日、秋山さんが一番勘違いしていたところです。
「違法なら無効じゃないの?」
秋山さんはそう言いました。
私はノートに大きく書きます。
取消しうべき行政行為。
無効な行政行為。
「先輩」
「何だ」
「行政法って、“取消し”って言葉が多すぎません?」
「何の話だ」
「行政庁が許可を取り消す“取消し”と、違法な処分を後から取り消す“取消し”が同じ日本語なの、受験生に優しくないです」
「国に文句言え」
「どこ宛てですか」
「知らん」
まあいいです。
まず。
通常の瑕疵。
つまり、違法ではあるけれど、ものすごく重大で、誰が見ても明白というほどではない瑕疵。
この場合。
その行政行為は、取り消されるまでは一応有効なものとして扱われます。
これが公定力。
「来ましたね」
私は思わず身構えます。
「公定力」
名前が強い。
なんでしょう。
一度役所が処分したら、国家権力のオーラで何でも正しくなる感じがします。
「そういう意味じゃないぞ」
所長が言いました。
「分かってます」
公定力とは。
行政行為に瑕疵があっても、権限ある機関によって取り消されるまでは、有効なものとして扱われる力。
行政処分が、
少しでも間違いがあったら自動的に消える。
では、社会が動かなくなる。
だから一応効力を持たせる。
ただし。
違法なら争って取り消してもらう余地がある。
「昨日、秋山さんに“勝手に無効扱いするな”と言ったのは、これですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
秋山さんが、
理由付記に問題がある。
だからこの取消処分は最初から無効。
看板は放置していい。
と決めつけるのは危険。
通常は。
違法な瑕疵があるとしても、取り消されるまでは処分の効力がある。
だから。
審査請求をする。
取消訴訟をする。
行政庁自身に見直させる。
そうやって正式に取り消させる。
「つまり」
私は書きます。
違法だから無視。
ではなく。
違法だから争う。
「いい覚え方だ」
所長が言いました。
ちょっと嬉しい。
ところが。
例外があります。
重大かつ明白な瑕疵。
この場合。
行政行為は無効となる。
初めから効力を持たない。
「重大かつ明白」
私は声に出しました。
「また受験生を苦しめる熟語ですね」
「意味は?」
「瑕疵が重大で、しかも明白」
「そのままだな」
相馬先輩が言います。
「そのままなんですよ!」
でも、そのままだからこそ難しい。
重大とは。
違法性が強い。
行政行為の根本に関わるような問題がある。
明白とは。
外から見ても瑕疵がはっきりしている。
簡単にいえば。
行政行為として到底そのまま扱えないほどの、深刻ではっきりした欠陥。
「たとえば」
私は考えます。
「権限がまったくない人間が、勝手に税金を課した、とか?」
「典型的にはそういう方向だな」
「それくらい強い瑕疵だから、最初から効力を認めない」
「そうだ」
私は昨日の件へ戻ります。
「じゃあ秋山さんの理由付記不備って、“重大かつ明白”なんですか?」
所長はすぐには答えませんでした。
それから言います。
「安易にそう決めるな」
「ですよね」
「瑕疵があることと、その行政行為が当然無効になることは別だ」
「だから昨日、無視するなって」
「そうだ」
ここ。
試験でも現場でも重要です。
行政行為に違法がある。
だから即無効。
ではない。
無効になるのは、重大かつ明白な瑕疵がある場合。
それ以外は、原則として取消しうべき行政行為。
取り消されるまでは効力を持つ。
私は大きく囲みました。
違法 ≠ 当然無効。
「これ、一番間違えそうです」
「間違えるやつは多い」
相馬先輩が言いました。
「先輩も昔?」
「知らん」
「受験してませんもんね」
「喧嘩売ってんのか」
さて。
昨日の事件の核心。
理由付記の瑕疵。
そして。
あとから理由を説明したら治るのか。
ここで出てくるのが、
瑕疵の治癒。
「名前だけ聞くと優しそうですね」
「治るんだからな」
「でも昨日のは治らない可能性がある」
「そこを整理しろ」
所長が言いました。
私はノートの次のページを開きます。
瑕疵の治癒。
本来、行政行為をした時点では手続や形式に欠陥があった。
しかし、その後の事情によって、その欠陥を問題にする必要がなくなったと扱える場合がある。
「ただし」
私はペンを止めました。
「何でも後から埋めればいいわけじゃない」
「その通り」
昨日。
秋山さんの通知書には、具体的な理由がほとんど書かれていなかった。
ところが市役所は、
窓口で後から説明した。
だからもう問題ないでしょう。
と言おうとした。
これ。
本当に治癒するのか。
教材に出てきた判例は、税金の更正処分でした。
私はその概要を思い出しながら整理します。
ある会社が青色申告をしていた。
税務署長から増額更正を受けた。
けれど更正通知書に書かれた理由が不十分だった。
会社が審査請求をした。
その後。
審査裁決の段階で、詳しい理由が示された。
税務署側は言った。
最初の理由が足りなくても、後の裁決で具体的な理由を明らかにした。
だから問題は治った。
「でも裁判所は認めなかった」
私は呟きます。
「そうだ」
所長が答えました。
なぜか。
理由付記には意味があるからです。
単なる親切説明ではない。
処分をする行政庁に、
ちゃんと考えさせる。
慎重に判断させる。
恣意的な処分を防ぐ。
そして処分を受けた人に、
なぜ処分されたのかを知らせる。
争うなら何を争えばいいのか分からせる。
その目的がある。
「ここ、昨日そのままでしたね」
私は秋山さんの言葉を思い出します。
高さが駄目なら直す。
色なら塗る。
危ないなら補強する。
でも、
街に合わないから外せ。
それだけでは何をすればいいか分からない。
「秋山さん、通知を受けた時点では、何を反論すればいいのか分からなかった」
「そうだな」
「後日、役所で説明されたからといって、通知を受けた時点で反論できなかった不利益まで消えるわけじゃない」
「そこだ」
所長が短く言いました。
私は判例のポイントを書きます。
処分庁とは別の機関が、後の不服審査で詳しい理由を示した。
だからといって、最初の理由付記不備が当然に治るわけではない。
なぜなら。
まず。
処分庁自身に慎重・合理的な判断をさせるという理由付記の目的が損なわれる。
さらに。
処分を受けた側が、審査請求の時点で具体的な処分理由を知らされていなければ、十分な不服理由を主張できない。
「つまり」
私は言いました。
「後から答えを見せられて、“ほら、最初から解けたでしょう”って言われても困る」
「受験生っぽい例えだな」
「だってそうじゃないですか」
試験開始時には問題文が半分しか書いてない。
答案を出した後で、
実はこういう問題でした。
と言われる。
それで、
ちゃんと答えられなかったあなたが悪い。
は、おかしい。
「かなり分かりやすいな」
相馬先輩が言いました。
「珍しく褒めました?」
「気のせいだ」
もう一つ。
判例では、
最初の更正処分が理由付記不備によって取り消された場合、その後に新しく更正し直せるとは限らない。
期間制限の問題があるからです。
つまり。
取消してもどうせ同じ処分をやり直せるんだから意味ない。
とも言えない。
処分が取り消されること自体が、相手方の利害に現実の影響を与える場合がある。
「だから」
私はまとめます。
「後から詳しい理由が出たとしても、“もう最初の不備は気にしなくていいよね”とはならない」
「そういうことだ」
「昨日の倉田係長の“今説明しました”だけでは終われない」
「そうだな」
ただし。
ここも注意。
瑕疵があれば、後から一切治癒されない。
ではありません。
瑕疵の種類。
制度の目的。
その後の手続。
相手方の利益。
そういう事情を見て判断される。
「行政法って」
私はため息をつきました。
「全部、最後に“場合による”がつきません?」
「法律はだいたいそうだ」
「受験生泣かせですね」
「だから問題になる」
それはそう。
私は次に、昨日の事件を人間関係で整理しました。
処分庁。
市役所。
処分の相手方。
秋山さん。
処分。
屋外広告物許可の取消し。
瑕疵として問題になる点。
理由の提示が十分だったか。
そして場合によっては、
そもそも取消しの法的根拠や裁量判断にも問題がある可能性。
「ここで一つ」
相馬先輩が言いました。
「市役所の判断が“不当”なだけなら、取消訴訟で取り消せるのか」
私は固まりました。
「急に試験問題出してきましたね」
「答えろ」
「取消訴訟は違法性を争うものだから、不当なだけでは原則として取消しの理由にはならない……ですよね」
所長が頷きます。
「そうだ」
「審査請求では?」
「違法だけでなく不当も審査対象になり得る」
「なるほど」
私は大きく書きました。
ここ試験注意。
審査請求。
違法・不当を争える。
取消訴訟。
原則として違法を争う。
「これ、かなり大事ですね」
「大事だ」
つまり。
秋山さんが、
この判断はひどすぎる。
他の看板とのバランスが悪い。
行政として妥当でない。
という不当性まで広く見てもらいたいなら、行政不服審査の場面では意味がある。
一方。
裁判所に取消しを求めるなら、
法令違反。
裁量権の逸脱・濫用。
手続違反。
理由提示の違法。
そういった法的な違法性として組み立てる必要がある。
「裁量って」
私は昨日の倉田係長を思い出しました。
「何でも自由に決めていい、じゃないんですよね」
「当然だ」
所長が言います。
裁量がある。
それでも。
判断の基礎となる事実を誤る。
考慮すべきことを考慮しない。
考慮してはいけないことを重視する。
著しく合理性を欠く。
そういう場合には、裁量権の逸脱・濫用として違法になり得る。
「昨日の“再開発だから大型看板を減らしたい”っていうのも」
「それだけで直ちに違法とも適法とも言えん」
「条例や許可条件との関係を見ないといけない」
「そういうことだ」
やっぱり行政法は、
結論より切り分け。
なのかもしれません。
私はここまでを見返します。
違法と不当。
瑕疵の場所。
主体。
内容。
手続。
形式。
取消しと無効。
重大かつ明白。
公定力。
瑕疵の治癒。
文字だけなら、本当に眠くなる並びです。
でも。
昨日の事件へ戻すと、全部意味がありました。
市役所の取消処分に問題がある。
まず。
それは法令違反なのか。
裁量判断として不当なのか。
何が間違っているのか。
内容なのか。
手続なのか。
形式なのか。
そして。
違法だとしても、当然無効なのか。
それとも取り消されるまでは有効なのか。
さらに。
最初の理由提示が不十分だったとして、
後から説明を加えれば治るのか。
順番に見ていけば、
「役所がおかしい!」
という大きな塊が、
少しずつ法律の言葉に分解されていく。
「所長」
「何だ」
「行政法って、喧嘩を細かくする法律ですね」
「どういう意味だ」
「“役所が悪い”“市民が正しい”みたいな大喧嘩にしないで、どこが違法なのか、どこが不当なのか、どの手続が欠けたのかって細かくする」
所長は少し考えてから言いました。
「その方が人を救える」
私はペンを止めました。
短い。
でも、そうなんだと思います。
全部おかしい。
全部許せない。
そう言っているだけでは、直せない。
理由が足りない。
ここが根拠に合わない。
この手続を踏んでいない。
この判断には裁量の逸脱がある。
そこまで細くすれば、
直す場所が見える。
昨日、秋山さんの看板は残せると決まったわけではありません。
でも。
処分をいったん止めて。
根拠を確認して。
理由を見直して。
法務担当へ回す。
そこまで話を戻せた。
制度の冷たさが、
話を正しい位置に戻した。
「もう一個」
相馬先輩が言います。
「試験で引っかかりそうなやつまとめろ」
「先輩、今日はやたら教育熱心ですね」
「暇なんだよ」
「言っちゃった」
私はまとめます。
まず。
違法な行政行為がすべて無効である。
これは誤り。
原則として、重大かつ明白な瑕疵がなければ取消しうべき行政行為。
次。
取消しうべき行政行為は、最初から効力がない。
これも誤り。
取り消されるまでは公定力により有効なものとして扱われる。
次。
不当な行政行為は必ず違法である。
誤り。
法令違反ではないが、裁量判断として妥当でない場合がある。
次。
後から理由が示されれば、理由付記の瑕疵は必ず治癒する。
誤り。
理由付記制度の目的や相手方の不利益などから、治癒が否定されることがある。
次。
違法な行政行為は、自分の判断で無視してよい。
危険。
無効でない限り、正式な手続で取り消してもらう必要がある。
「最後のは試験というより現場だな」
相馬先輩が言いました。
「でも一番大事かもしれません」
昨日の秋山さん。
知り合いに、
違法なら無効だ。
放っておけばいい。
と言われていました。
もし本当にそれを信じていたら。
撤去命令を放置した。
さらに手続が進んだ。
別の不利益が生じた。
そんな可能性だってあった。
「法律知識って」
私は呟きました。
「半分だけ知ってると危ないですね」
「お前も気をつけろ」
「すごく刺さります」
所長が新聞をたたみました。
「だから、言葉で覚えるな」
「え」
「関係で覚えろ」
私は顔を上げました。
「誰が処分した」
「市役所」
「誰に」
「秋山さん」
「何を」
「屋外広告物許可の取消し」
「何が問題だった」
「理由付記が不十分だった可能性。処分根拠や裁量判断にも問題の余地」
「その瑕疵の効果は」
「当然無効とは限らない。通常は取消しの問題」
「後で説明したら」
「自動的に治癒するとは限らない」
「それでいい」
なるほど。
本当に、人で覚えると分かりやすい。
税務署長。
納税者。
更正処分。
理由不備。
国税局長。
審査裁決。
後から詳しい理由。
でも治癒しない。
昨日の事件と形が重なります。
私は最後のページを開きました。
今日の一行の覚え書き。
しばらく考えます。
そして書きました。
――「違法」と「無効」は同じではない。傷を見つけたら、まず傷の深さと治し方を見る。
相馬先輩が覗き込みます。
「長い」
「一行です」
「二行にまたがってる」
「ノートが小さいんです」
「言い訳するな」
私は少し考えて、その下にもう一つ書きました。
――後出しの説明で、最初から十分だったことにはならない。
「そっちはいいな」
「ですよね」
所長もそれを見ました。
「覚えておけ」
「はい」
「理由を書くのは、処分を受けた人のためだけじゃない」
「処分する側にも、ちゃんと考えさせるため」
「そうだ」
私は昨日の通知書を思い出します。
もし市役所が最初から、
どの条例の。
どの基準に基づいて。
秋山さんの看板の。
どの部分を問題にして。
なぜ取消しが必要なのか。
それを具体的に書こうとしていたら。
もしかすると。
処分を出す前に、
あれ。
本当に取消せるのか。
この根拠で足りるのか。
他の看板との扱いは同じか。
そう立ち止まったかもしれない。
理由付記は、
処分後の説明書ではない。
処分前に行政自身へ考えさせるブレーキでもある。
そう考えると、
ずいぶん印象が変わります。
法律の形式は冷たい。
理由を書け。
手続を踏め。
権限を確認しろ。
取消すまでは効力がある。
重大かつ明白なら無効。
どれも、人情とは遠い言葉です。
でも。
その冷たい形式があるから、
「まあ後で説明すればいい」
を止められる。
「気に入らないから処分する」
を止められる。
逆に市民側の、
「気に入らないから無視する」
にも歯止めをかける。
役所も市民も、
同じ手続の上へ戻す。
たぶん、それが行政法なんだと思います。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何です」
「煎餅、最後の一枚」
「半分にしましょう」
「嫌だ」
「理由は?」
「俺が先に見つけた」
「その判断、不当です」
「違法じゃないならいいだろ」
「審査請求します」
「誰に」
私は所長を見ました。
「所長」
「棄却」
「まだ申立て内容を聞いてません!」
「煎餅は相馬にやれ」
「なぜです!」
「昨日、車を出した」
私は黙りました。
具体的理由。
事実の提示。
判断とのつながり。
悔しい。
ものすごく悔しいけど、理由付記として妙に強い。
相馬先輩が勝ち誇った顔で煎餅を取ります。
「適法処分だな」
「不当です!」
「審査請求しろ」
「します!」
所長が新聞を開き直しました。
「却下」
「今度は用語まで違います!」
事務所に笑い声が広がりました。
窓の外。
駅前には、秋山看板店の赤い看板がまだ見えています。
あれがこの先どうなるのかは分かりません。
市役所がきちんと根拠を示した上で、もう一度取消しを検討するかもしれない。
逆に、処分そのものを見直すかもしれない。
秋山さんが新しいデザインへ変える道を選ぶかもしれない。
結論はまだない。
でも。
昨日よりは確実に、
誰が。
何を根拠に。
どんな理由で。
何を決めたのか。
そこが見えるようになっています。
行政行為の瑕疵。
昨日までなら、
試験に出る面倒な言葉。
それだけでした。
今は少し違います。
瑕疵とは、
役所を責めるための言葉ではない。
どこが壊れているのかを見つけるための言葉なんだと思います。
壊れ方が分かれば。
取り消すべきなのか。
最初から無効なのか。
手続をやり直すべきなのか。
理由を書き直せば済むのか。
それとも、もう後からでは治せないのか。
次に何をするべきかが見える。
私はノートを閉じました。
今日の覚え書き。
違法だから無効、ではない。
後から説明したから治った、でもない。
行政行為の傷は、
傷があるかだけでなく、
どこに。
どれだけ深く。
いつから。
誰に影響しているのか。
そこまで見て、初めて扱い方が決まる。
……行政法。
相変わらず眠い名前ばかりです。
でも今夜はたぶん、
「重大かつ明白」
くらいなら、寝る前に思い出せそうでした。
最後の煎餅を相馬先輩に取られた件については。
瑕疵が重大かつ明白なので、
私は今後も無効を主張する予定です。
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