[行政行為の瑕疵]現場編 「理由は今ここで説明しました」の罠。後出しの説明と消えない瑕疵、そして“違法だから無視していい”を切り分ける
役所から届く一枚の紙は、ときどき人の人生を、やけに簡単な一行で片づけます。
不許可とします。
取り消します。
認めません。
以上。
受け取った側には「以上」じゃないんですけど。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所で働き始めてから、私は役所の書類を見るたび、まず余白を見る癖がつきました。
何が書いてあるかではなく。
何が書いてないか。
行政法というものは、どうやら空白にも住んでいるらしいのです。
「朝比奈。客」
書類棚の向こうから相馬先輩の声が飛んできました。
「はい」
「茶。濃いやつ」
「お客様用ですか」
「俺用」
「自分で淹れてください」
「新人の仕事だ」
「その根拠規定を提示してください」
「うるせえ」
最近、先輩との会話が行政法に侵食されています。
たぶんよくない傾向です。
応接の長椅子には、一人の男性が座っていました。
四十代後半くらい。
日に焼けた顔。
作業着。
膝の上で帽子を握りしめています。
怒っているというより、不安を押し込めようとしている人の顔でした。
「こちら、秋山正吉さん」
片桐所長が紹介しました。
「駅前で看板屋をやってる」
「ああ、秋山看板店さん」
知っています。
古い商店街の角にある店です。
手書きの看板からネオン管まで扱っている、小さいけれど妙に目立つ店。
駅前再整備が始まってから、工事用看板の依頼で忙しくなったと聞いていました。
「それがな」
秋山さんが封筒から一枚の紙を出しました。
「市役所から、こんなのが来まして」
私は受け取りました。
湖西市長名。
屋外広告物許可取消通知書。
対象となる広告板の所在地。
許可番号。
取消年月日。
そして理由欄。
私は二度読みました。
短い。
ものすごく短い。
理由。
――駅前環境整備上、不適当と認めるため。
以上。
「……これだけですか」
「これだけです」
秋山さんが言いました。
「電話で聞いたら、『再開発の邪魔になるから』って」
「看板そのものに違反があるんですか」
「それが分からんのです」
秋山さんは身を乗り出しました。
「高さも大きさも、前に役所が確認して許可を出したんです。毎年更新もしてる。今度の更新も通って、それから二か月しか経ってない」
私は通知を見直しました。
取消し。
不許可ではありません。
一度出した許可を、あとから消している。
「何の看板です?」
「うちの店の屋上看板です。国道から見えるやつ」
「ああ」
あれか。
赤地に白文字で、
秋山看板店
と書いてある巨大な看板。
駅前の景色に三十年ほど居座っているらしい。
「取り外せ、と?」
「来月末までに」
「費用は」
「こっち持ちだそうです」
秋山さんの声が低くなりました。
「見積もり取ったら四十万ですよ」
昭和六十三年の四十万円。
軽くありません。
「しかも、ただ外すだけじゃないんです」
秋山さんは唇を噛みました。
「あの看板、親父が店を建てたときに上げたものでね。親父はもう死んでます。別に文化財じゃない。役所から見れば、ただの古い看板でしょう。でも、俺にとっちゃ……」
そこで言葉が止まりました。
片桐所長は急かしませんでした。
相馬先輩も珍しく黙っています。
「……店そのものみたいなもんなんです」
秋山さんは小さく言いました。
なるほど。
生活の困りごとは、金額だけでは測れません。
四十万円の撤去費。
商売上の目印。
父親の残した看板。
それを役所は、
環境整備上、不適当。
その一行で落としてきた。
「で、市役所には行ったんですか」
相馬先輩が聞きました。
「昨日」
「何て?」
「再開発で駅前の景観を統一したいんだそうです。新しい商店街にするから、古い大型看板は順番に外してもらうと」
「条例違反だとは言われた?」
「いや」
「危険だとか?」
「それもない」
「じゃあ何で取消しなんだ」
「だから聞いたら」
秋山さんの顔が歪みました。
「担当の人が、『これは市の裁量ですから』って」
出ました。
裁量。
行政法界の「だいたい全部説明した気になれる単語」ランキング上位です。
もちろん裁量はあります。
でも、
裁量です。
だから説明しません。
は、さすがに雑です。
「それで?」
「理由なら説明したでしょう、と」
秋山さんが通知書を指で叩きました。
「再開発に合わない。景観統一のためだ。それで十分だって」
私は理由欄を見ました。
駅前環境整備上、不適当と認めるため。
何が不適当なのか。
どんな基準なのか。
どの事実が問題なのか。
これでは分からない。
でも。
ここで一つ、別の問題があります。
「秋山さん」
「はい」
「この通知、納得できないからって、無視して看板をそのままにするつもりでした?」
秋山さんの目が泳ぎました。
「……実は」
やっぱり。
「知り合いが言うんですよ。理由が書いてない処分なんか違法なんだから、無効だろって」
私は額を押さえたくなりました。
出た。
法律知識の半分だけ知っている人が一番怖いやつです。
「それで、撤去しなくていいんじゃないかと」
「それは待ってください」
私は即答しました。
「え?」
「この取消処分に問題があるとしても、それだけで最初から存在しなかったことになるとは限りません」
秋山さんが眉をひそめます。
「違法なら無効じゃないんですか」
「そこが違うんです」
口にした瞬間。
頭の中で何かがつながりました。
昨日までテキストの中で眠気を誘っていた単語。
瑕疵。
取消し。
無効。
公定力。
文字で見ると、どれも灰色でした。
でも今、目の前には本当に困っている人がいる。
通知書がある。
撤去期限がある。
四十万円が飛びそうになっている。
途端に、その灰色の単語へ色がつきます。
「所長」
私は片桐所長を見ました。
「これ、まず二つ分けた方がいいですよね」
「言ってみろ」
「この処分に瑕疵があるかどうかと、その瑕疵があるから処分を無視していいかどうか」
所長が頷きました。
「そうだ」
相馬先輩が私を見る。
「珍しくまともだな」
「毎回言いますよね、それ」
「毎回珍しいからな」
「積み上がらない評価制度」
でも今は冗談を言っている場合ではありません。
私は秋山さんに向き直りました。
「処分に問題があるかもしれない。だから争う余地はあります」
「はい」
「でも、“問題があるらしいから、自分で勝手に無効扱いする”のは危険です」
「……じゃあ、どうすれば」
「きちんと争うんです」
不服申立て。
取消訴訟。
まだ言葉は出しすぎない。
現場ではまず、期限と通知書と根拠を確認する。
「相馬」
所長が立ち上がりました。
「役所へ行くぞ」
「またか」
「こはるも」
「ですよね」
「嫌なら残れ」
「行きます」
「即答だな」
だって気になります。
この紙。
何か足りない。
しかもその足りなさを、市役所があとから言葉で埋めようとしている。
それが本当に通るのか。
市役所の都市整備課。
駅前再整備の関係書類が壁際に積まれ、窓口には模型まで置かれていました。
将来の駅前。
白いタイル。
統一された街灯。
低い看板。
植栽。
昭和末期らしい「未来都市感」が漂っています。
こういう模型では、なぜか人間が全員楽しそうなんですよね。
現実の商店主は今、看板を外せと言われて青ざめていますけど。
「倉田係長」
相馬先輩が声をかけました。
奥から顔を出したのは、見慣れつつある男でした。
「ああ……片桐さん」
明らかに嫌そうな顔をされました。
最近この人、私たちを見ると血圧が上がっている気がします。
「今度は何です」
「秋山看板店の件です」
倉田係長の表情が少し固まりました。
「屋外広告物ですか」
「ええ」
所長が通知書を差し出します。
「これ、取消しの具体的な理由は?」
「昨日、秋山さんには説明しました」
「通知書には?」
倉田係長が紙を見ます。
「書いてありますよ」
「駅前環境整備上、不適当と認めるため」
「はい」
「それだけです」
「ですから昨日、具体的に――」
そこで私は口を挟みました。
「係長」
「何です」
「昨日説明した内容は、取消しをした時点で秋山さんに分かっていたんですか」
倉田係長が一瞬止まりました。
「……いや、だから通知後に説明を」
「それ、順番が逆じゃないですか」
部屋の空気が少しだけ変わりました。
相馬先輩は黙っています。
所長も黙っている。
どうやら続けろ、ということらしい。
怖いなこの事務所。
「取消しを受けた人は、その通知を見て、何を理由に自分の許可が取り消されたのか考えますよね」
「ええ」
「それで納得できなければ、不服を申し立てる」
「まあ」
「でも、理由が“環境整備上不適当”だけだったら、何を争えばいいんですか」
倉田係長が口を閉じました。
「看板の高さですか。大きさですか。色ですか。設置場所ですか。安全性ですか。それとも、ただ古いからですか」
「今回は景観統一の方針で――」
「それを処分時に書いてないんですよね」
「だから昨日説明したでしょう」
出ました。
今日の主役です。
理由は今ここで説明しました。
私は通知書を持ち上げました。
「あとから説明すれば、最初に理由を書かなかったことは全部なかったことになるんですか」
倉田係長の眉が動きました。
「……細かいね、君は」
「行政法で生き延びるには、細かくなるしかないんです」
「何の話だ」
「こっちの事情です」
相馬先輩が横から低い声を出しました。
「係長。市の規則では、取消しの通知に理由を書くことになってるだろ」
倉田係長は答えませんでした。
つまり、なっている。
「それなら」
相馬先輩が机を指で軽く叩きます。
「書けよ」
シンプル。
実務派、強い。
「いや、書いてあります」
「抽象語一個で済ませるなら、理由欄なんかいらんだろ」
「相馬さん」
「間違ってるか?」
倉田係長が黙ります。
片桐所長がそこで口を開きました。
「倉田さん」
「はい」
「市が駅前景観を整えたいこと自体を、こちらは否定していません」
「……はい」
「大型看板を整理したい事情があることも分かります」
所長の声は穏やかでした。
だからこそ重い。
「だが、行政が一度与えた許可を取り消すなら、何を根拠に、どの事実を見て、なぜその人の許可を失わせるのか。それを曖昧にしていい理由にはならない」
倉田係長は小さく息を吐きました。
「実は」
少し間を置いてから言いました。
「課内でも意見は割れたんです」
ほう。
「条例の基準上は、秋山さんの看板は直ちに違反というわけではありません」
秋山さんの肩が動きました。
「では、なぜ取消しを?」
私が聞きます。
「駅前再整備に合わせて、大型看板を減らす方針になったからです」
「方針」
「ただ、個別にお願いしても応じてもらえない店があって」
嫌な予感がしました。
「それで、取消し処分にした?」
相馬先輩が聞く。
「……市には一定の裁量があります」
また出た。
裁量。
便利すぎて乱用されがちな四文字。
「裁量があるのと、理由を書かなくていいのは別でしょう」
私は言いました。
「それに、条例上の基準を満たしているものを、再整備方針だけで取り消せるのかは別の話です」
倉田係長がこちらを見ます。
「君、本当に見習い?」
「自分でも疑ってます」
昨日まで現代の受験生だったので。
たぶん。
「とにかく」
倉田係長は少し苛立ったように言いました。
「理由なら今説明しました。大型看板は新しい景観方針に合わない。それが理由です」
私はそこで、ようやく自分の違和感の輪郭をつかみました。
理由付記。
処分時に相手へ理由を示す。
その意味は、
あとで役所が好きな説明を足せるようにするためじゃない。
むしろ逆だ。
処分する側に、その時点できちんと考えさせる。
そして処分を受けた側に、
何を理由に不利益を受けたのか。
どこを争えばいいのか。
それを分からせるため。
「係長」
「まだありますか」
「あります」
「多いなあ」
「すみません。性分で」
私は通知書を机に置きました。
「昨日の説明を聞くまで、秋山さんは“どこが悪かったのか”を知らなかったんです」
「……」
「それなのに、昨日の説明で最初から全部分かっていたことにするのは、おかしくないですか」
倉田係長は黙りました。
「たとえば秋山さんが、通知を受けた翌日に不服を申し立てようとしたら?」
「……」
「何を書けばいいんですか。“環境整備上不適当と言われたけれど、何が不適当か分からないので全部反論します”ですか」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「ひでえ申立書だな」
「書く側も泣きますよ」
秋山さんがようやく口を開きました。
「昨日だって、俺は何を聞けばいいのか分からなかったんです」
倉田係長を見る。
「高さが駄目なら直す。色なら塗る。危ないなら補強する。そういう話なら相談できるでしょう」
「秋山さん……」
「でも、“街に合わないから外せ”だけじゃ、何もできないじゃないですか」
その声には怒鳴り声より重いものがありました。
「親父の看板なんです」
部屋が静まりました。
「絶対残せとは言いません。危ないとか、法律に違反してるとか、ちゃんと理由があるなら考えます」
秋山さんは通知書を見ました。
「でも、何で俺だけ取り消されたのか。それぐらいは教えてもらってもいいでしょう」
倉田係長が目を伏せました。
完全な悪人ではない。
むしろ、この人はいつもそうです。
役所の中で決まったことを、外へ運んでくる。
そして外で揉める。
中間管理職という生き物は、行政法以前に気の毒です。
でも。
気の毒だから、雑な処分をしていいわけでもない。
片桐所長が言いました。
「倉田さん。いったん内部で確認してください」
「何をです」
「この取消しが、条例上どの根拠に基づくのか」
「……はい」
「その根拠に照らして、秋山さんの看板のどの事実が取消事由に当たると判断したのか」
「はい」
「そして、その理由を処分時に十分示していなかったことをどう扱うのか」
倉田係長の顔が険しくなりました。
「再通知を出せば済む話ですか」
所長はすぐには答えませんでした。
「そこも含めて確認してください」
「……」
「後から説明すれば、最初の不備が当然に消える。そう決めつけない方がいい」
短い。
でも、その一言で倉田係長の表情が変わりました。
「分かりました」
所長が続けます。
「こちらも、処分を無効だと決めつけて放置はしません」
秋山さんが私を見ました。
私は頷きました。
そこ、大事です。
「必要なら正式に争います」
相馬先輩が言う。
「だからそっちも正式にやれ」
「……分かりましたよ」
帰り道。
秋山さんが不安そうに聞きました。
「先生」
「私は先生じゃないです」
「じゃあ、こはるさん」
「はい」
「結局、俺は看板を外さなくていいんですか」
来ました。
一番答えづらい質問。
私は横目で所長を見ました。
所長は前を向いたまま。
答えろ、と。
鬼。
「今の段階で、“処分はなかったことだから無視して大丈夫”とは言えません」
秋山さんの顔が曇ります。
「ただ」
私は続けました。
「何も言わずに外す必要もありません」
「……」
「この処分が本当に適法なのか。理由の書き方は十分なのか。取消しの根拠はあるのか。正式に確認して、必要なら正式に争えます」
秋山さんはしばらく歩いてから言いました。
「変なもんですね」
「何がです?」
「役所がおかしいなら、役所の紙なんか破っていいと思ってました」
「気持ちは分かります」
「でも、そうじゃない」
「はい」
「おかしいからこそ、ちゃんとした手順でおかしいって言わなきゃならない」
私は少し笑いました。
「たぶん、そういうことなんだと思います」
行政法。
本当に面倒な法律です。
違法なら無効。
とは限らない。
おかしいから無視。
ともいかない。
間違った行政行為でも、取り消されるまでは存在することがある。
でも。
だから行政に間違いを指摘できないわけじゃない。
むしろ、間違いを正式に正す道筋がある。
制度って面倒です。
でも、その面倒さが、
声の大きい方が勝つ世界になるのを止めているのかもしれません。
翌日の午後。
片桐行政書士事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『都市整備課の倉田です』
「お疲れさまです」
『疲れてますよ』
「すみません」
『君らのせいじゃない……とは言い切れないな』
まあ半分くらいはうちのせいです。
『昨日の件、課内で再検討しました』
私は姿勢を正しました。
「はい」
『取消処分の執行をいったん止めます』
「え」
思わず声が出ました。
『正式には、処分の根拠と理由について再確認することになりました』
「じゃあ撤回ですか」
『まだそこまでは言ってません』
倉田係長らしい。
『ただ、少なくとも今の通知だけで撤去を進めろという話にはしません』
私は相馬先輩へ手招きしました。
『それと』
「はい」
『調べたら、他の大型看板については、まだ取消通知を出していませんでした』
「……秋山さんだけ?」
『先に一件、試すつもりだったらしいです』
うわあ。
行政実務で一番聞きたくない種類の「試す」です。
「係長」
『分かってます』
声が苦い。
『俺も、それはまずいと思った』
「どうするんです」
『課長と法務担当に回します』
「理由付記の件も?」
『それも』
少し間がありました。
『昨日の説明で足りるだろう、という意見もありましたけどね』
「はい」
『でも君に言われたとおり、通知を受けた時点で何を争えばいいか分からない。それは確かだ』
私は少しだけ息を吐きました。
「ありがとうございます」
『礼を言われる話じゃないですよ。本来こっちが先に考えることだ』
その一言は、妙に残りました。
電話を切る。
「どうだった」
相馬先輩が聞きます。
「いったん撤去は止まりました」
「お」
「処分の根拠と理由を再検討するそうです」
所長が帳簿から顔を上げました。
「そうか」
それだけ。
相変わらず反応が薄い。
「所長、もう少し喜びません?」
「まだ終わってない」
「ですよね」
正しい。
悔しい。
夕方。
秋山さんが事務所へやって来ました。
両手に細長い包みを持っています。
「これ」
「何です?」
「親父の代から近所に配ってる煎餅です」
「そんな商品まであるんですか」
「看板屋ですから」
「関係ないですよね?」
「ないね」
ないんだ。
包みを開けると、四角い醤油煎餅に、
秋山看板店
の焼印が押してありました。
「徹底してますね」
「宣伝は大事だからな」
秋山さんは笑いました。
昨日よりずっと柔らかい顔です。
「役所から電話が来ました」
「はい」
「まだ看板は外さなくていいって」
「正確には、今すぐ撤去を進めない、ですね」
「細かいなあ」
「大事なんです」
「分かったよ」
秋山さんは苦笑しました。
「でも、助かりました」
「まだ残せると決まったわけじゃありません」
「それでもいいんです」
意外でした。
「ちゃんと理由を聞いて、それから考えます」
秋山さんは窓の外を見ました。
「危ないっていうなら直す。新しい街に本当に合わないっていうなら、デザイン変えることだってできる」
「はい」
「でも最初から、“取り消したから外せ”って言われるのとは違うでしょう」
その通りです。
「俺、昨日まで」
秋山さんが言いました。
「役所に勝つか、負けるかだと思ってたんです」
「私も昔はそう思ってました」
「違うんですね」
「たぶん」
私は煎餅を一枚取ります。
「何を理由に、どう決めたのか。それをちゃんとさせるだけでも、意味があるんです」
秋山さんは笑いました。
「難しいこと言うね」
「最近ようやく分かってきたところです」
本当に。
昨夜までなら、
行政行為の瑕疵。
重大かつ明白。
取消し。
無効。
瑕疵の治癒。
そんな言葉を見た瞬間、脳が布団を敷き始めていました。
でも今日は違います。
一枚の通知書。
一行だけの理由。
後から足された説明。
そして、
「おかしいんだから無視していいだろ」
という秋山さんの言葉。
全部がつながっていました。
行政行為に瑕疵がある。
その一言だけでは、まだ足りない。
何がおかしいのか。
どの程度おかしいのか。
それは最初から効力がないほどなのか。
それとも、取り消されるまでは効力を持つのか。
そして。
後から説明を足したら、最初の欠陥は消えるのか。
考えなければいけないことが、ずいぶんあります。
「こはる」
相馬先輩が煎餅を二枚取っています。
「何です」
「難しい顔してるぞ」
「今日のこと、整理しようと思って」
「明日にしろ」
奥から所長の声が飛びます。
「今日やれ」
「どっちなんですか、この事務所は!」
秋山さんが声を上げて笑いました。
その笑い声を聞きながら、私はノートを開きました。
まだ詳しくは書きません。
今日、現場で分かったことだけ。
役所の処分に間違いがある。
だからといって、
その処分が最初から存在しなかったことになるとは限らない。
そしてもう一つ。
処分の理由は、
怒られてから後付けすればいい飾りではない。
それを書こうとして、ペンが止まりました。
この先は、ちゃんと整理しないと危ない。
違法と不当。
取消しと無効。
重大かつ明白。
公定力。
理由付記。
瑕疵の治癒。
今日は入口だけ見えた。
なら、それでいい。
私はノートの一番上に題名だけ書きました。
――行政行為の瑕疵。
相馬先輩が横から覗き込みます。
「何だ、その難しそうな字」
「傷です」
「は?」
「行政行為についた傷」
「余計分からん」
「私も今から分かる予定です」
「頼りねえな」
「昨日よりは進歩してます」
煎餅をかじる。
ぱり、と気持ちのいい音がしました。
制度は冷たい。
一度出された処分は、
「おかしい気がする」
というだけで消えてはくれません。
それは時々、とても理不尽に見えます。
でも同時に。
役所側も、
「あとで説明したからいいでしょう」
で全部をなかったことにはできない。
処分した時点で何を考えていたのか。
何を理由にしたのか。
どんな手続を踏んだのか。
その一つ一つを問われる。
冷たい制度だからこそ、
後出しで話を作ることにも線を引ける。
私は今日、それを少しだけ知りました。
「先輩」
「何だ」
「この煎餅、一人何枚ですか」
「全部俺のだ」
「その処分、理由付記が足りません」
「理由は腹が減ったからだ」
「今ここで理由を足しても駄目です」
「何でだよ」
「後出しだからです」
所長が新聞をめくりながら言いました。
「一人二枚」
「所長!」
「残りは客用だ」
完璧な理由提示でした。
しかも具体的。
異議を差し挟む余地がない。
私は二枚目の煎餅へ手を伸ばしました。
今日の教訓。
役所の処分に傷を見つけても、勝手に「なかったこと」にはしない。
でも。
その傷を、
「後で説明したから治りました」
の一言で塞がせてもいけない。
窓の外。
夕暮れの駅前に、秋山看板店の赤い看板が見えました。
残るかどうかは、まだ分かりません。
けれど少なくとも明日も、
あの看板はそこにあります。
そして今度こそ市役所は、
なぜそれを外させようとするのか。
ちゃんと言葉にしなければならない。
昨日よりほんの少しだけ、
話は正しい場所へ戻っていました。
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