漬物石
男は、沢渡と名乗った。
B級の槍使いで、三人の小さなパーティで第六層から第七層に潜っているという。今朝、床を斬っていた長剣のC級の男とは、昔からの顔見知りらしい。
「あいつが、門前通りに振り方を見る研ぎ屋がいると言っていた。今朝、研いでもらった剣を見せられた。鷹取の研ぎ直しでは見たことのない刃の顔をしていた」
沢渡さんは、肩の布をほどいて、槍をカウンターに横たえた。
柄は使い込まれた黒い木で、穂先は迷鋼だった。刃渡りは俺の前腕ほど。両刃の、細身の穂先だ。
その刃の地が、灰色を通り越して、鉛のように黒ずんでいた。
灯の刀の曇りとは、色が違う。白く濁るのではなく、黒く沈んでいる。
「第六層の、鉄甲蟹だ。甲羅の継ぎ目を突く。今日、十匹は突いた。最後の方は、穂先が滑って入らなかった」
「明日も、潜るんですか」
「仲間が待っている。鷹取に出せば三日かかる」
沢渡さんは、それ以上は口にしなかった。頼む、とも言わない。ただ、俺の顔を見ていた。
「振ってみせてもらえますか」
「聞いている」
沢渡さんは、槍を取って、裏の路地へ出た。
◇
路地の街灯の下で、沢渡さんは槍を構えた。
腰を落とし、穂先をわずかに下げる。突く。引く。突く。引く。
無駄のない動きだった。突きの終わりで、穂先がぶれない。まっすぐ入って、まっすぐ抜ける。灯や久我さんのように、こじる癖もない。
ただ、突き込んだ先で、ほんのわずかに手首を返す。穂先を半分だけひねって、刺さったものを抉るような動きだった。
「最後に、少しひねりますね」
「甲羅の継ぎ目は、突いただけでは開かない。ひねって、こじ開ける」
「なら、穂先の根元は厚めに残します。先だけ細く」
沢渡さんは、黙って頷いた。
研ぎ場で、穂先を中砥に当てた。刃先の丸みを均していく。ここまでは、いつもどおりだった。
合砥に替えたところで、手の中の感触が変わった。
曇りが、深い。
灯の刀の曇りは、刃の表から少し奥に染みていた。この穂先の曇りは、鋼の芯の近くまで沈んでいる。指先に、重く冷たいものが溜まっているのが伝わってくる。
合砥の上で往復させる。研ぎ汁が濁る。灰色、濃い灰色。そこまでは同じだった。
けれど、十往復、二十往復と続けるうちに、研ぎ汁の色が、それ以上濃くならなくなった。
手の中の重さは、まだ残っている。それなのに、石の方が、もう曇りを吸い取らない。
俺は手を止めて、穂先を灯りにかざした。
刃の地の黒ずみは、薄くなっていた。七割ほどは抜けている。けれど、芯の近くに、まだ鉛色の影が沈んでいる。
合砥の面を指で撫でた。今の数十往復で、また目に見えて減っていた。それでいて、最後の方は、ほとんど何も吸っていなかった。
この石では、足りない。
じいちゃんの中山の合砥は、いい石だ。京都の天然の仕上げ砥で、俺が知っている中で一番締まった石だ。それでも、第六層の曇りの、最後の三割は抜けない。もっと締まった石が要る。けれど、これより締まった石を、俺は持っていなかった。
「……すみません」
俺は穂先を沢渡さんに見せた。
「七割です。今の石では、これ以上抜けません」
沢渡さんは、穂先を受け取って、長いこと見ていた。
「鷹取の研ぎ直しから戻ってきた刃より、ずっといい」
「でも、最後まで起きてません」
沢渡さんは、起きる、と口の中で一度だけ繰り返した。それ以上は聞かずに、少し考えてから言った。
「明日の朝まで、預けておいていいか」
「石を、探してみます。当てはないですけど」
沢渡さんは穂先を俺に預けて、明日の朝また来ると言って帰っていった。
◇
石のことを考えながら、みわ食堂の暖簾をくぐった。
灯が言ったとおり、カウンターの端に俺の分の晩飯が取ってあった。客の引けた店の中で、剛さんが厨房の片付けをしていて、恵子さんが帳簿をつけていた。灯は奥の座敷で、大学のレポートを広げていた。
「直、遅かったな。客か」
「第六層帰りの、槍の人」
「沢渡か。あいつ、腕は確かだぞ」
剛さんは、厨房の隅の大きな樽の前にしゃがみ込んだ。蓋の隙間から、白菜の漬物の匂いがした。
「ほら、漬物も食ってけ。今年のはいい出来だ」
樽の蓋の上に、重しの石が載っていた。
両手で包めるほどの、灰色の石だった。角が取れて丸く、表面がつるりとしている。剛さんが、蓋ごと石をどけようとして、膝をかばってよろけた。
「あ、俺がやります」
俺は厨房に入って、石に手をかけた。
その瞬間、手のひらの中で、何かがはっきりと応えた。
研ぎ場で、合砥に刃を当てたときの感覚に似ていた。けれど、もっと強い。この石は、締まっている。合砥より、ずっと細かく、ずっと硬く締まっている。石の奥から、刃を当ててみろと言われているような手応えがあった。
俺は石を抱えたまま、動けなくなった。
「直? どうした、腰か」
「剛さん。この石、どこの石ですか」
剛さんは、きょとんとした。それから、石を見て、少しだけ顔をしかめた。
「……第六層の石だ」
剛さんは、厨房の椅子に腰を下ろして、自分の右膝をさすった。
「五年前、第六層で膝をやったときにな。鉄甲蟹に脚を払われて、壁際に倒れた。倒れるとき、ひびの入った壁を掴んだんだ。そしたら、壁が欠けて、その欠片を掴んだまま転がった。仲間に担がれて地上に戻ったら、手の中にまだこれがあった」
剛さんは、少し照れくさそうに笑った。
「捨てられなくてな。辞めるきっかけになった石だ。戒めのつもりで、漬物石にしてる」
「この石、研げます」
「は?」
「砥石になります。合砥より、ずっといい」
剛さんと、奥の座敷から顔を出した灯と、帳簿から顔を上げた恵子さんが、三人揃って俺を見た。
「ダンジョンの壁の石が?」
灯が言った。
「協会じゃ、層の石なんて、持って帰っても何の値打ちもないって」
「値打ちがあるかは知らない。でも、研げる」
剛さんは、しばらく漬物石を見ていた。それから、膝を叩いて立ち上がった。
「持ってけ。割ってもいい」
「でも、剛さんの」
「戒めなら、膝が覚えてる。石は、使える奴が使え」
◇
店に戻って、じいちゃんの古い玄翁で、漬物石の端を割った。
割れ口の、一番きめの細かいところを選んで、荒砥の上で平らに擦る。面直しだ。手のひらに収まるほどの、小さな面が一つできた。
水に濡らすと、石の色が深い青灰色に変わった。
沢渡さんの穂先を、その面に当てた。
一往復で、研ぎ汁が黒く濁った。
灰色ではなく、黒だった。墨汁を垂らしたような真っ黒な研ぎ汁が、穂先の下から流れ出す。合砥では抜けなかった芯の近くの曇りが、石へ吸い込まれていく。手の中の重さが、往復のたびに軽くなる。
やがて、研ぎ汁の色が、また薄くなった。今度は、吸い取るものがなくなったからだ。
穂先を灯りにかざす。
鉛色の影が、消えていた。刃の地が、芯まで澄んでいる。
帳場の方で、じいちゃんの椅子が軋む音がした。じいちゃんは、いつの間にか研ぎ場の入口に立って、俺の手元を見ていた。
「……ダンジョンの石か」
「剛さんの漬物石。第六層の壁の石だって」
じいちゃんは何も言わなかった。ただ、研ぎ桶の黒い水を、長いこと見ていた。
俺は、面直しをした漬物石の欠片を手に取った。
一本の穂先を研いだだけで、面は目に見えて減っていた。第六層の深い曇りを吸い取った分、石も削れている。割った残りの塊も、使える面が取れるところは限られている。
「これじゃ、三本ももたない」




