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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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9/21

第八話:青い線は、どこまで続く

第八話では、青い線の隣に歌音の色を置く共同制作が始まります。

二人の線と色は、まだ噛み合ったり、ずれたりしながら進んでいきます。


全国高校生絵画コンテスト。


テーマは、境界。


応募形式は、個人制作でも共同制作でも可。


その文字を見た夜、私は布団の中で目を閉じた。


閉じた。


閉じたのに、眠れなかった。


頭の中で、青い線がずっと伸びている。


白いスケッチブックの最後のページ。


相原くんが、自分で引いた一本の線。


あの線の隣に、私の色を置きたい。


そう思った。


でも、それだけでは足りない。


一緒に描くなら、相原くんの返事がいる。


大丈夫。


私はできる。


たぶん。


「歌音、電気」


廊下から母の声がした。


「寝てる!」


「返事したら寝てないよ」


正論だった。


家にも正論がある。


私は布団を頭までかぶった。


明日、相原くんに言う。


一緒に描きたい、と。


……短すぎる?


私は布団の中で、枕に額を押しつけた。


いや、これくらいでいい。


明日の私、がんばれ。


◇◇◇


翌日の昼休み。


私は図書室前に立っていた。


今日は本を持っている。


返す本。


予備の本。


さらに予備の予備の本。


三冊。


用事が多い。


不審者ではない。


「歌音」


通りかかった玲子が、私の腕の本を見た。


「図書室に引っ越すの?」


「用事の強化」


「言い方」


玲子は私の持っている一番上の本を見た。


「それ、昨日借りたやつじゃない?」


「返す」


「読んだ?」


「表紙は見た」


「用事、弱いね」


弱かった。


でも、本はある。


昨日よりは強い。


十二時三十二分。


相原くんが来た。


ファイルを持っている。


歩く速度は、いつも通り。


廊下の端を、きれいにまっすぐ歩いてくる。


私の心臓だけが、予定より早い。


「天野さん」


「相原くん」


私は本を抱え直した。


三冊は重い。


用事を強化しすぎた。


「本を返すんですか」


「うん」


「三冊」


「用事だから」


「用事の量と目的の正当性は別です」


「今日も正確」


相原くんは、少しだけ首を傾げた。


「褒めていますか」


「褒めてる」


「理由は」


「相原くんだから」


「理由になっていません」


なっていなかった。


でも、そういうところも相原くんだった。


私は息を吸った。


「理由を言います」


相原くんの目が、こちらに向く。


「はい」


私は鞄から、白いスケッチブックを出した。


最後のページに青い線がある。


今日は開かない。


廊下で広げるものじゃない。


「昨日、先生に言われた」


「はい」


「全国絵画コンテスト、二人で出してもいいんだって」


「はい」


「私は」


言葉が詰まりそうになった。


でも、本三冊が腕に食い込んでいる。


痛い。


逆に冷静になった。


「相原くんと一緒に、描いてみたい」


相原くんは、すぐには答えなかった。


廊下を、何人かの生徒が通り過ぎていく。


玲子は少し離れた場所で、棚の本を見ているふりをしている。


絶対、聞いている。


「質問があります」


「はい」


「二人で描くとは、何を共有することですか」


「え」


一緒に描くこと。


そう言いそうになって、止めた。


一緒に描く。


その一言だけだと、広すぎる。


相原くんには、たぶん広すぎる。


「紙」


私は言った。


「まず、同じ紙」


「はい」


「それから、時間。放課後の、美術室にいられる時間」


「はい」


「あと、線と色。相原くんが置いた線の隣に、私が色を置く」


相原くんは黙って聞いている。


私は続けた。


「でも、全部を一緒に決めるんじゃなくて、相原くんの線は相原くんが決める。私の色は私が決める。困ったら止める」


言い終わってから、私は本を抱え直した。


腕が限界だった。


「本、置いてもいいですか」


相原くんが言った。


「え?」


「重そうです」


私は一瞬、自分の腕を見た。


本三冊。


かなり重い。


「置きます」


私は近くの棚の上に本を置いた。


どさっ。


音が大きかった。


図書室の中から、司書の先生がこちらを見た。


私は小さく頭を下げた。


絵を描く前に、本の搬入で怒られるところだった。


相原くんは、スケッチブックを見た。


「確認したいことがあります」


「はい」


「僕の線を、天野さんの解釈だけで変えないこと」


「うん」


「線の意味を、僕の確認なしに増やさないこと」


「うん」


「完成させるために、無理に続けないこと」


「うん」


「それと」


相原くんは、棚の上の本を見た。


「制作に不要な本を三冊持ってこないこと」


「そこも!?」


「腕が疲れると、筆圧に影響する可能性があります」


玲子が、棚の向こうで肩を震わせた。


笑っている。


絶対笑っている。


「分かった」


私は頷いた。


「次から本は一冊にします」


「制作に必要なら」


「必要な本にします」


相原くんは、少し考えた。


「それなら、一緒に描くことを検討できます」


胸が跳ねた。


検討。


まだ決定ではない。


でも、扉が少し開いた。


「ありがとう」


「礼は不要です」


「受け取る練習は」


相原くんは、ほんの短い沈黙のあとに言った。


「受け取ります」


棚の向こうで、玲子が小さく拍手した。


司書の先生に見られて、すぐ本を読むふりをした。


◇◇◇


放課後。


美術室の机を二つ合わせた。


向かい合うと、近すぎる。


横並びだと、紙が見づらい。


斜め。


相原くんがそう提案した。


「斜め四十五度がいいです」


「そんな正確に?」


「近すぎず、遠すぎず、紙の共有ができます」


私は机を動かした。


がたん。


「それは三十度くらい」


「机の角度って見て分かるの?」


「だいたい」


「だいたいなのに四十五度って言ったの?」


「目標値です」


机にも目標がある。


玲子が椅子に座ったまま言った。


「絵を描く前に、机で一話終わるよ」


「それは困る」


「私はちょっと見たい」


「玲子」


結局、机は「だいたい四十五度」ということになった。


全国は遠い。


まず机が遠い。


◇◇◇


机の上に、大きめの紙を置いた。


スケッチブックの最後のページは、開いて横に置く。


青い線。


細くて、少し揺れていて、でも途切れていない線。


私はその線に触れないように、紙の端を押さえた。


相原くんはファイルから、地図を出した。


城ヶ崎海岸の地図。


バスの時刻表。


天気図。


海岸線を印刷した紙。


さらに、透明な定規。


分度器。


コンパス。


「相原くん」


「はい」


「美術室でコンパス見ると、数学の気配がする」


「円を描く道具です」


「そうなんだけど」


「数学の道具でもあります」


「逃げ場がない」


相原くんは、地図を紙の左側に置いた。


「青い線は、海岸線ではありません」


「うん」


「でも、海へ向かう線ではあります」


私は息を止めた。


相原くんが、自分でそう言った。


海へ向かう線。


私はすぐ色を置きたくなった。


右手が、筆に伸びる。


玲子が、私の手首を鉛筆の消しゴム側で止めた。


「早い」


「まだ何もしてない」


「筆が前のめり」


「筆のせい?」


「八割、歌音」


二割は筆らしい。


筆にも責任がある。


相原くんは、私の手元を見てから、紙の右下を指さした。


「ここに、まず基準線を置きます」


「基準線」


「はい」


「相原くんの青い線とは別?」


「別です。これは制作上の補助線です」


「補助線」


また数学が来た。


でも、相原くんの手は迷っていなかった。


鉛筆で、薄い線を引く。


まっすぐ。


とてもまっすぐ。


まっすぐすぎて、紙の上が急に静かになる。


私はその横に、薄い青を置こうとした。


海の色。


昨日の線の色。


相原くんの声。


波。


予定表。


白い怪物。


黒い糸。


古い赤。


全部が一気に浮かびそうになる。


筆が止まった。


多い。


多すぎる。


相原くんが言った。


「線の意味が増えすぎています」


私は筆を持ったまま固まった。


「今、分かったの?」


「筆が迷っていました」


「筆、また告げ口した?」


「告げ口ではありません。状態です」


玲子が机の向こうで言った。


「筆、今日はよく働くね」


私は筆を見た。


細い丸筆。


何も言わない。


でも、確かに震えている。


「ごめん」


私は筆を置いた。


「ちょっと乗せすぎた」


相原くんは、紙を見たまま言った。


「何を乗せようとしましたか」


「海と、昨日のことと、相原くんの線と、怪物と、黒い糸と、あと、なんか全部」


「多いです」


「はい」


「この紙は、全部を置くには小さいです」


「うん」


相原くんは、定規を置いた。


「まず、海だけにしてください」


海だけ。


私はパレットを見た。


青。


白。


ほんの少し緑。


黒は、入れない。


赤も、入れない。


筆に水を含ませる。


絵の具を溶く。


紙の端に、薄い青を置く。


相原くんの線には触れない。


隣。


すぐ隣ではなく、少し離れた隣。


紙に水が染みる。


青が、ゆっくり広がる。


「それは」


相原くんが言った。


「海ですか」


「海」


私は答えた。


「今は、海だけ」


相原くんは頷いた。


「分かりやすいです」


その言葉だけで、肩の力が抜けた。


◇◇◇


三十分後。


紙の上には、線が増えていた。


相原くんの補助線。


海岸線をもとにした細い線。


バス停から海までの距離を示す線。


風向きの矢印。


安全に歩ける道。


階段。


休憩場所。


「相原くん」


「はい」


「これは観光案内図ですか」


「違います」


「でも灯台までの行き方が分かる」


「分かる方が安全です」


「絵が安全第一になってる」


「安全は重要です」


「重要だけど、絵がヘルメットかぶってる」


玲子が吹き出した。


相原くんは紙を見る。


真剣に見る。


「ヘルメットは描いていません」


「比喩だよ」


「比喩でしたか」


「うん」


「絵が息をしてない、ってこういう時に使う?」


私が言うと、相原くんの手が止まった。


しまった。


言い方が強かったかもしれない。


でも、相原くんは怒らなかった。


紙を見ている。


自分の線を見ている。


「息をしていない」


彼は繰り返した。


「はい」


「正確ですが、動いていないという意味ですか」


私は少し考えた。


「うん。道は分かる。でも、風がない」


「風」


「あと、波の音もない」


相原くんは、窓の外を見た。


美術室の外では、部活帰りの生徒が笑っている。


ここから海は見えない。


でも、昨日の音は覚えている。


相原くんも、たぶん覚えている。


彼は定規を置いた。


「では、風の場所を空けます」


「空ける?」


「線を引かない場所です」


私は紙を見た。


相原くんが、紙の中央に白い場所を残している。


さっきまで、そこにも細い線を入れようとしていた。


でも、手を止めた。


何も描かない場所。


風が通る場所。


「そこ」


私は言った。


「いい」


相原くんは、私を見た。


「何がいいですか」


「急いで決めなくていい感じがする」


言ってから、私は笑った。


「これ、前に相原くんが言ってたやつだ」


相原くんは、少しだけ目を伏せた。


「はい」


玲子が、机の端から紙を見た。


「やっと絵が深呼吸した」


「絵、呼吸できますか」


「今した」


「確認できません」


「相原くん、そこは確認しないで感じて」


「難しいです」


「だろうね」


三人で、紙を見た。


線。


青。


白い場所。


まだ、作品ではない。


でも、もうただの紙でもない。


◇◇◇


下校時刻のチャイムが鳴った。


美術室の窓が、夕方の色に変わっている。


先生が言った。


「今日はここまでにしよう」


私は筆を洗った。


筆洗いの水が、薄い青に濁っている。


相原くんは、紙が乾くまでの時間を確認している。


「乾燥まで、あと十二分くらいです」


「乾燥にも予定がある」


「あります」


「だよね」


玲子が道具箱を閉めながら言った。


「応募用紙、どうするの」


私は机の上に置かれた募集要項を見た。


名前を書く欄。


作品タイトルを書く欄。


個人制作か、共同制作かを選ぶ欄。


空欄が、こちらを見ている。


私はペンを持った。


持ったけれど、書かなかった。


相原くんを見る。


相原くんも、応募用紙を見ていた。


「今日は」


私は言った。


「ここ、空けておく」


相原くんは頷いた。


「まだ、作品ではありません」


「うん」


「でも」


彼は紙の上の青を見た。


「始まってはいます」


その言い方が、まっすぐで。


私は、ペンを置いた。


応募用紙の共同制作の欄は、空白のまま。


机の上の紙には、薄い青と、細い線と、風のための白い場所。


何も決めきっていない。


でも、何も始まっていないわけじゃない。


相原くんが紙の端を押さえ、私は反対側を押さえた。


二人で、乾いたばかりの紙を持ち上げる。


まだ頼りない。


ちょっと曲げたら、すぐ折れそうだ。


だから、ゆっくり。


同じ速さで。


棚の上に置いた時、紙はどこも破れていなかった。


それだけのことなのに、私は少し息を吐いた。


相原くんも、手を離す前に紙の端を確認していた。


「破れていません」


「うん」


「ずれてもいません」


「うん」


「今日の作業は、成立しました」


私は笑った。


「成立しました」


窓の外で、夕方の光がゆっくり沈んでいく。


青い線は、まだどこにも着いていない。


でも、その隣に置いた薄い海の色は、ちゃんと乾き始めていた。


第八話では、歌音と賺が初めて同じ紙を共有しました。

次回は、制作中の呼吸や筆のタイミングが少しずつ揃い始め、二人の心のシンクロが見え始めます。


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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

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