表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/21

第七話:見ない約束と、白いスケッチブック

海のあと、歌音と賺は「見ないで隣にいる練習」を日常の中で続けていきます。

今回は、二人が共同制作へ向かうための最初の一歩です。


海へ行った次の日。


目覚ましが鳴る前に起きて、顔を洗い、制服に着替え、朝ごはんまで食べた。


忘れ物も確認済み。


完璧。


あまりにも完璧すぎて、私は玄関で胸を張った。


「今日の私は違う」


そう宣言した瞬間。


母が台所から顔を出した。


「歌音、お弁当」


「あ」


違わなかった。


私は弁当箱を受け取って、鞄に突っ込んだ。


「でも今日は側溝に落ちないから!」


「そこが目標なの?」


母の声が心配そうだった。


目標は低いほど達成しやすい。たぶん。


◇◇◇


坂道を上る途中、海の匂いがまだかすかに残っているようだった。


昨日見た海。


門脇吊橋。


強い風。


相原くんの作った予定表。


波の音。


そして。


今日は、見ないで隣にいる練習。


その言葉を思い出すだけで、胸が少しくすぐったくなる。


嬉しいだけでも、苦しいだけでもない。


何かが静かに続いている。


青い線が、まだ足元に残っているみたいに。


私は足元を見た。


もちろん、道には何も描かれていない。


でも、昨日の青い線は、私の中に残っていた。


「よし」


私は小さく言った。


今日は見ない。


勝手に見ない。


見えても、すぐ言わない。


相原くんが言っていた。


見たい時は、理由を言ってください。


頷いた。


理由が必要。


だから今日、相原くんの心は見ない。


そう決めたところで。


足元の小石につまずいた。


「ふぎゃっ」


転びはしなかった。


ぎりぎり踏みとどまった。


私は勝った。


側溝にも落ちていない。


今日の私は、かなり強い。


◇◇◇


教室に入ると、いつものざわめきがあった。


文化祭が終わった後の学校は、空気が軽い。


机の上にはまだ、誰かが作った飾りの残りが置かれていたりする。


黒板の端には、消し忘れた白いチョークの線。


窓際には、文化祭の片付けで余った段ボール。


終わったのに、まだ終わりきっていないものがある。


私は席に座って、鞄から教科書を出した。


そして、ふと廊下の方を見た。


相原くんが、交流授業の教室へ向かって歩いていた。


背が高い。


黒髪。


表情はほとんど動かない。


歩く速度は一定。


右手に鞄。


左手に、昨日の予定表を入れていたファイル。


私は、反射的に彼の後ろを見そうになった。


白い怪物。


青い線。


黒い糸。


その奥の古い赤。


見たい。


思ってしまった。


でも。


私は、机の上に両手を置いた。


ぎゅっと握る。


見ない。


今日は、見ない。


昨日だけじゃない。


今日も、見ない練習。


その時、相原くんが廊下の向こうで立ち止まった。


こちらを見た。


目が合った。


心臓が跳ねた。


私は反射的に手を振りそうになった。


でも、授業前の廊下で大きく手を振ったら、たぶん相原くんは困る。


私は小さく、指先だけを動かした。


相原くんは、小さく頷いた。


ほんのわずか。


ミリ単位。


いや、センチはない。


でも、頷いた。


私は机に額をぶつけそうになった。


嬉しさで。


「歌音」


隣から玲子の声がした。


「顔が忙しい」


「顔って忙しくなるの?」


「なる。今、出勤ラッシュ」


「そんなに?」


「かなり」


玲子は眠そうな目で私を見た。


でも、たぶん全部見ている。


私が相原くんを見たことも。


見ようとして、やめたことも。


小さく手を振ったことも。


そのあと机に沈みかけたことも。


「昨日、海、行ったんでしょ」


「うん」


「楽しかった?」


私は考えた。


楽しかった。


でも、それだけじゃない。


大事だった。


怖くもあった。


分からないまま、隣にいた。


言葉にするには、まだ少し形がない。


「波がうるさかった」


玲子はまばたきをした。


「感想、そこ?」


「でも、一定だった」


「相原くんみたいな感想になってる」


私は思わず笑った。


「相原くん、海の音好きなんだって」


「うん」


「怒ってるのか笑ってるのか、判断しなくていい音だから」


玲子は黙った。


それから、黒板の方を見た。


「いいじゃん」


「うん」


「で、歌音」


「なに?」


「調子に乗らない」


「乗ってないよ!」


「今、片足乗ってた」


「どこに!?」


「顔に」


やっぱり顔は忙しいらしい。


◇◇◇


昼休み。


私は図書室前の廊下に立っていた。


十二時三十一分。


約束の時間ではない。


そもそも、五分の約束はまだ戻っていない。


だから私は、待ち合わせをしているわけではない。


ただ、図書室の前に用事があるだけ。


用事。


用事とは何か。


図書室に本を返すことである。


私は手元を見た。


本はない。


用事がなかった。


まずい。


完全に不審者である。


「天野さん」


背後から声がした。


私は肩を跳ねさせた。


振り向くと、相原くんが立っていた。


今日も表情はほとんど動かない。


でも、昨日の海を見た後だからか、ほんの少し近く見えた。


近く見えた、というのは距離の話ではない。


実際の距離は、たぶん二メートルくらい。


相原くん基準では、かなり正しい距離。


「こんにちは」


「こんにちは!」


声が大きかった。


私は慌てて口を押さえた。


「こんにちは」


言い直した。


相原くんは、少し目を細めた。


「音量が変わりました」


「調整しました」


「はい」


「えらい?」


「評価基準が不明です」


「そこは雰囲気で」


「雰囲気は基準として不安定です」


「うぐ」


正論。


昼休みの廊下に、いつもの相原くんの正論が置かれる。


なぜか少し安心した。


「あの」


私は両手を前で握った。


「昨日のことなんだけど」


相原くんは、すぐには答えなかった。


けれど逃げなかった。


壁際に少し移動して、人が通れる場所を空ける。


それから言った。


「三分なら可能です」


三分。


前と同じ。


五分ではない。


でも、三分はある。


「ありがとう」


「礼は不要です。条件を確認します」


「はい」


条件。


私は背筋を伸ばした。


相原くんは、ファイルから小さな紙を出した。


文字がきれいに並んでいる。


え。


紙。


準備してある。


「昨日、天野さんが言ったことについてです」


「私が言ったこと?」


「見ないで隣にいる練習」


胸がきゅっとなった。


相原くんは紙を見ながら続けた。


「練習を継続する場合、条件が必要です」


「条件」


「はい」


頷いた。


見ないで隣にいる練習にも、条件がある。


相原くんらしくて、笑いそうになる。


でも、ここで笑うのは違う。


相原くんは、紙をこちらに向けた。


そこには、三つの項目が書いてあった。


一、見たい時は、理由を先に言う。


二、見えたものを、その場で断定しない。


三、描く時は、許可を取る。


紙を見つめる。


昨日の海の音みたいに、胸が静かになった。


「これ」


声が小さくなった。


「相原くんが考えたの?」


「はい」


「すごい」


「必要だったので」


「褒める理由は何ですか」


「理由?」


また理由。


でも、今度はちゃんと考えた。


「私に、守れる形にしてくれたから」


相原くんは、紙を持つ指を少し動かした。


「守れるかどうかは、まだ分かりません」


「うん」


「でも、分からないままだと困ります」


「うん」


「だから、項目にしました」


頷いた。


「ありがとう」


「礼は」


「不要です、だよね」


「はい」


「でも、言いたいから言う」


相原くんは考えた。


「受け取ります」


その言葉だけで、泣きそうになった。


でも三分しかない。


涙で使い切るのは、さすがに困る。


「私も」


私は鞄から、小さなメモ帳を出した。


昨日、帰ってから書いたものだ。


何度も書き直して、字が少しよれている。


「考えてきた」


相原くんは、私のメモを見た。


そこには、こう書いてある。


『見えたら、まず止まる』


『言う前に、相手の状態を見る』


『描く前に、聞く』


『危なくなったら、玲子に止めてもらう』


相原くんは、最後の項目で止まった。


「三島さんが含まれています」


「うん」


「本人には」


「まだ」


「確認してください」


「はい」


正論だった。


でも、声はやわらかかった。


「三分です」


相原くんが言った。


「終わります」


「うん」


頷いた。


追いかけない。


もっと話したい、を押しつけない。


「その紙、私も持ってていい?」


「写しなら。原本は僕が持ちます」


「契約書みたい」


「契約ではありません。確認事項です」


小さく笑ってしまった。


「分かった。写しください」


「明日、渡します」


「はい」


相原くんは頷いて、図書室の方へ歩いていった。


私はその背中を見送った。


白い怪物を探さずに、その背中を見送れた。


◇◇◇


放課後の美術室。


私は玲子の前に立った。


「歌音」


玲子が鉛筆を置いた。


「何してるの」


「お願いがあります」


「私が調子に乗ったら、止めてください」


「いつも止めてる」


「正式にお願いします」


「正式」


「相原くんの条件に、玲子が入ってる」


「なんで私が契約書に入ってるの」


「契約書じゃなくて確認事項だって」


「余計に謎」


私はメモ帳を見せた。


玲子は読んで、眉を上げた。


「分かった」


「いいの?」


「いいよ」


「ありがとう!」


「ただし」


玲子は、私の額を鉛筆の先ではなく、消しゴム側で軽く押した。


「止めた時に、むくれない」


「むくれない」


「泣いてごまかさない」


「ごまかさない」


「勢いで『でも』って言わない」


「う」


「今言いかけた」


「まだ言ってない」


「でも」


言った瞬間、玲子の目が細くなった。


「あ」


「練習一回目、失敗」


「早い!」


「出だしがいいね」


「どこが!?」


玲子は笑った。


「でも、前よりまし」


「それ褒めてる?」


「だいぶ」


「だいぶの声じゃない」


「声で判断しない」


美術室の空気が、少し軽くなった。


文化祭の後、ここにいると胸が痛くなることがあった。


真央ちゃんの顔。


相原くんの声。


玲子の怒った目。


全部、この部屋に残っているようだったから。


でも今、玲子がいつもの声で突っ込んでくれる。


許されたわけじゃない。


なかったことになったわけじゃない。


でも、ここでまた描いていいのかもしれない。


そう思えた。


その時、美術室の扉が開いた。


美術の先生が、紙の束を持って入ってくる。


「みんな、ちょっといいかな」


部員たちが顔を上げた。


先生は黒板に一枚のポスターを貼った。


白い紙。


大きな文字。


『全国高校生絵画コンテスト』


私は、その文字を見た瞬間、背筋が伸びた。


全国。


絵画。


コンテスト。


強そうな単語が三つ並んでいる。


先生が説明する。


「今年のテーマは、境界。応募は個人でも共同制作でも可。希望者は来週までに相談してください」


境界。


その言葉が、胸の中で静かに響いた。


境界。


見えるものと、見えないもの。


踏み込むことと、隣にいること。


私と相原くん。


白い怪物。


黒い糸。


青い線。


そして、白い余白。


頭の中に、絵が浮かびそうになった。


大きな白い怪物。


海まで続く線。


夕方の空。


開かないページ。


私は慌てて、両手で目を覆った。


「歌音」


玲子が言った。


「何してるの」


「見ない練習」


「ポスターは見ていいと思う」


「あ、そっか」


私は手を下ろした。


部員が数人、こちらを見て笑っている。


恥ずかしい。


でも、ちょっとだけ笑えた。


先生も少し困った顔で笑っていた。


「天野さん、興味ある?」


「あります!」


即答してしまった。


玲子が横で小さく息を吐く。


「即答が早い」


「だって、境界だよ」


「うん」


「絶対、描きたい」


言ってから、私は止まった。


描きたい。


何を。


誰の。


私は、相原くんの白い怪物を思い浮かべていた。


まただ。


また、勝手に描こうとしている。


胸の中で、さっきの三つの条件が開いた。


一、見たい時は、理由を先に言う。


二、見えたものを、その場で断定しない。


三、描く時は、許可を取る。


私は息を吐いた。


「描きたい、けど」


玲子がこちらを見る。


先生も、少し待ってくれた。


「まだ、何を描くかは決めない」


声が震えた。


でも、言えた。


「誰かの心を描きたいなら、ちゃんと聞いてからにする」


玲子は何も言わなかった。


でも、眠そうな目が少しやわらかくなった。


「前より、まし」


「それ今日二回目」


「二回言うくらいには、まし」


私は笑った。


◇◇◇


その日の夜。


私は机の前に座っていた。


目の前には、真っ白なスケッチブック。


新しいものだ。


文化祭の後、買った。


でも、まだ一ページも描いていない。


真っ白で、何もない。


何もないのに、少し怖い。


私は鉛筆を持った。


全国絵画コンテスト。


テーマは境界。


描きたいものは、ある。


白い怪物。


青い線。


海。


でも、それは相原くんの心にあるものだ。


私が勝手に描いていいものじゃない。


私は鉛筆を置いた。


そして、スケッチブックの表紙を撫でた。


「何も描かないことも、選択」


文化祭で学んだ言葉が、胸に戻ってくる。


私は立ち上がって、本棚からもう一冊、同じ白いスケッチブックを取り出した。


二冊買っていた。


安売りだったし、表紙がきれいだったし、なんとなく。


なんとなくは、理由として不十分です。


頭の中で、相原くんの声がした。


私は一人で笑った。


「理由、追加します」


小さく言って、私は一冊の表紙に付箋を貼った。


そこに書く。


『相原くんへ。

全国絵画コンテストのテーマが「境界」でした。

もしよければ、このスケッチブックを使ってください。

何か描いても、描かなくても大丈夫です。

返さなくても大丈夫です。

何も描かないことも、選択です。

天野歌音』


書いてから、考えた。


返さなくても大丈夫。


本当に?


いや、安売りだった。大丈夫。


私は付箋の最後に、小さく書き足した。


『でも、もし返してくれたら嬉しいです』


うん。


正直。


私はスケッチブックを鞄に入れた。


心臓が少し早い。


これは告白ではない。


スケッチブックを渡すだけ。


ただの白い紙。


ただの道具。


ただの、はず。


「うわあああ」


私は机に突っ伏した。


ただの、ではなかった。


相原くんに、何かを渡す。


それだけで、こんなに緊張する。


恋、なのかもしれない。


いや、待って。


恋は花畑の風景画として見える。


自分の心は見えない。


不便。


めちゃくちゃ不便。


私は布団に倒れ込んだ。


明日、渡す。


ちゃんと、理由を言う。


描いてほしいとは言わない。


何も描かなくてもいいと言う。


でも。


もし、一本でも線があったら。


私は、きっと嬉しい。


◇◇◇


翌日の昼休み。


私は、図書室前に立っていた。


今日は本を持っている。


ちゃんと持っている。


返す本。


用事がある。


不審者ではない。


たぶん。


相原くんは、十二時三十二分に来た。


正確だ。


「天野さん」


「こんにちは」


今日は音量調整成功。


「こんにちは」


相原くんは、昨日言っていた紙の写しを差し出した。


三つの条件。


きれいな字。


私は両手で受け取った。


「ありがとう」


「礼は不要です」


「受け取る練習は?」


相原くんは黙った。


「受け取ります」


「やった」


思わず小さく拳を握った。


相原くんがそれを見て、首を傾げる。


「勝敗が発生しましたか」


「発生した」


「何に勝ったんですか」


「昨日の私」


「抽象的です」


「だよね」


私は笑った。


それから、鞄から白いスケッチブックを取り出した。


急に手が重くなる。


「相原くん」


「はい」


「理由を言います」


相原くんの目が、少し動いた。


「はい」


私はスケッチブックを胸の前に持った。


「全国絵画コンテストがあって、テーマが境界で」


「はい」


「私は、それを聞いた時、相原くんの青い線を思い出した」


言ってから、息を吸う。


「でも、それは相原くんのものだから、勝手に描きたくない」


「はい」


「だから、もしよければ」


私はスケッチブックを差し出した。


「これ、使ってください」


相原くんは、白い表紙を見た。


手を伸ばさない。


私は慌てて続ける。


「何か描いても、描かなくても大丈夫。返さなくても大丈夫。でも返してくれたら嬉しい。あ、でもそれは圧じゃなくて、正直な気持ちで、えっと」


言葉が転がる。


まずい。


暴走している。


私は口を閉じた。


両手でスケッチブックを持ったまま、固まる。


相原くんは、しばらく黙っていた。


廊下を、生徒たちが通り過ぎていく。


遠くで誰かが笑っている。


図書室のドアが開いて、閉まる。


相原くんは、やがて言った。


「質問があります」


「はい」


「これは、僕に何かを描かせるためのものですか」


私は首を振った。


「違う」


「では、何ですか」


考える。


ちゃんと考える。


「選べる場所」


相原くんは、私を見た。


「描いてもいいし、描かなくてもいい場所」


私は続けた。


「相原くんの線を、相原くんが置いてもいい場所」


相原くんは、白いスケッチブックを見た。


それから、ゆっくり手を伸ばした。


受け取った。


私は息を止めた。


「預かります」


胸がぱっと明るくなった。


でも、飛び跳ねない。


大声を出さない。


廊下で回らない。


私は、足の指に力を入れて耐えた。


「ありがとう」


「礼は」


「不要です。でも言います」


「受け取ります」


二回目の「受け取ります」だった。


記念日にしたい。


名前は、あとで考える。


相原くんは、スケッチブックをファイルと一緒に鞄へ入れた。


とても丁寧に。


角が折れないように。


それだけで、胸がまた温かくなった。


「三分です」


相原くんが言った。


「終わります」


「うん」


「返却するかどうかは、検討します」


「うん」


「描くかどうかも、検討します」


「うん」


「何も描かない可能性があります」


「うん」


頷いた。


「それも、相原くんの選択だから」


相原くんは黙った。


それから言った。


「はい」


その一言が、白い紙の上に置かれた小さな点みたいに見えた。


私は、見ていない。


心は見ていない。


でも、何かが始まったようだった。


◇◇◇


三日間。


スケッチブックは返ってこなかった。


私は落ち着いていた。


玲子にも言われた。


「落ち着いているふりがうるさい」


「ふりって何」


「朝から何回、図書室前を見た?」


「数えてない」


「私は数えた。七回」


「玲子も暇なの?」


「歌音が視界で動くから」


私は机に突っ伏した。


返ってこなくても大丈夫。


そう書いた。


でも、気になる。


気になるものは気になる。


「今、名言っぽいこと考えたでしょ」


「考えただけ」


玲子は呆れたように言った。


◇◇◇


四日目の放課後。


美術室の机の上に、白いスケッチブックが置かれていた。


私は、最初それに気づかなかった。


先生に頼まれて筆洗いを片付けていたからだ。


水を捨てて。


筆を洗って。


布で拭いて。


よし、今日は手順がいい。


相原くんみたい。


そう思いながら戻ってきた時。


玲子が、顎で机を示した。


「来てる」


「何が?」


「白いやつ」


私は固まった。


机の上。


白いスケッチブック。


表紙の付箋はなくなっている。


代わりに、小さなメモが挟まっていた。


『返却します。

描くかどうかを検討しました。

一部、描きました。

相原賺』


一部。


描きました。


私は、スケッチブックの前に立った。


手が震える。


開いていいのか。


いいはずだ。


返却された。


でも、見る前に。


私はメモを見た。


許可。


これは、見ていいということ?


一部、描きました。


返却します。


たぶん、見ていい。


でも、私は念のため先生の方を見た。


相原くんはいない。


先生もいない。


玲子が言った。


「開いていいって意味でしょ」


「でも」


「心じゃなくて、スケッチブック」


「うん」


「本人が返した」


「うん」


「それでも不安なら、明日聞けば」


私は考えた。


明日まで待つ。


それもできる。


でも、相原くんは返却した。


一部、描きました、と書いた。


私は深呼吸した。


「開きます」


「宣言するんだ」


「大事」


私は表紙を開いた。


一ページ目。


白紙。


二ページ目。


白紙。


三ページ目。


白紙。


何も描かれていない。


でも、白紙が続くことが、なぜか嬉しかった。


何も描かないページを、ちゃんと残している。


そう思えたから。


私はページをめくる。


最後のページ。


そこに。


一本の線があった。


青い線。


細くて。


まっすぐではなくて。


少し揺れていて。


でも、途切れていない線。


ページの左下から、右上へ向かっている。


海まで続く線のようにも見えた。


でも、海だけではない。


どこか、まだ知らない場所へ向かっている線。


息を呑んだ。


胸の中で、何かが静かに開いた。


白い怪物は描かれていない。


黒い糸も描かれていない。


古い赤もない。


ただ、青い線だけがある。


相原くんが、自分で置いた線。


私は、その線に触れそうになって、やめた。


触らない。


今は見るだけ。


玲子が隣から覗き込んだ。


「線だね」


「うん」


「一本」


「うん」


「歌音」


「なに?」


「泣く?」


「泣かない」


目元を押さえた。


涙は落ちなかった。ぎりぎり。


私はスケッチブックをそっと閉じた。


「玲子」


「うん」


「私、これの隣に色を置きたい」


玲子は私を見た。


「相原くんに聞いてから」


「うん」


今度は、すぐに頷けた。


「聞いてから」


私は白いスケッチブックを胸に抱えた。


その中には、一本の青い線。


まだ絵ではない。


作品でもない。


約束でもない。


でも、始まりだった。


私が勝手に見つけたものじゃない。


私が勝手に描いたものでもない。


相原くんが、自分で選んで置いた線。


そこから、何かが始まる。


そう思った。


◇◇◇


翌日の昼休み。


私は図書室前に立っていた。


今日は本を持っていない。


用事はない。


不審者である。


でも、理由はある。


理由ってありますか。


あります。


私は、胸の前でスケッチブックを抱えた。


十二時三十二分。


相原くんが来た。


「天野さん」


「相原くん」


私は一歩、近づきかけて止まった。


距離。


二メートル。


よし。


「理由を言います」


相原くんは頷いた。


「はい」


私はスケッチブックを少し持ち上げた。


「この青い線の隣に、私の色を置きたいです」


心臓がうるさい。


でも、声は大きすぎなかった。


たぶん。


「描いてもいいですか」


相原くんは、すぐには答えなかった。


廊下の窓から、午後の光が入っている。


空気の中に、少し埃が舞っている。


遠くで誰かが笑っている。


相原くんは、私の持つスケッチブックを見た。


それから、私を見た。


「条件があります」


頷いた。


「はい」


「僕の線を、天野さんの解釈だけで変えないこと」


「うん」


「描いた後、僕が見て、困る場合は止められること」


「うん」


「完成させることを目的にしすぎないこと」


胸が少し痛んだ。


でも、それは必要な痛みだった。


「うん」


「それから」


「それから?」


「三島さんに、暴走を止める許可を正式に取ること」


「取った!」


「確認済みですか」


「確認済み」


「なら、いいです」


私は息を止めた。


「いい、って」


「描いていいです」


そのとき。


私は飛び跳ねそうになった。


でも、飛ばない。


廊下で飛んだら危ない。


相原くんも困る。


私は足の裏を床に押しつけた。


「ありがとう」


「礼は不要です」


「受け取って」


「受け取ります」


三回目。


これはもう、だいぶすごい。


「ただし」


「ただし」


相原くんは真顔で言った。


「図書室前で跳ねないでください」


「跳ねてないよ!?」


「跳ねる前の顔をしていました」


「顔!」


私は両手で顔を押さえた。


本当に、私の顔は私より先に生きている。


相原くんは、わずかに首を傾げた。


それが、笑いに近いものなのかどうかは分からない。


分からない。


でも、分からないまま、嬉しかった。


青い線の隣に、私の色を置ける。


それは、相原くんの心を勝手に描くことじゃない。


相原くんが置いた線の隣に、私が立つことだ。


私はスケッチブックを抱きしめた。


白いページの最後にある青い線。


そこから、海ではないどこかへ。


私たちの新しい道が、少し伸びたようだった。


◇◇◇


放課後。


私は美術室の机に、スケッチブックを置いた。


開く。


最後のページ。


青い線。


その隣には、まだ何もない。


私は絵の具箱を開けた。


赤。


黄色。


青。


白。


黒。


いつもなら、ここで手が勝手に動く。


この色がいい。


この線の隣には、これ。


そんなふうに、頭の中で答えが走り出す。


でも今日は、筆を持たなかった。


ただ、色を並べた。


相原くんの線の隣に、私の色を置く。


それは、急いで完成させることじゃない。


隣に座る場所を、ちゃんと探すことだ。


「歌音」


玲子が、後ろから覗き込んだ。


「まだ何も描いてない」


「うん」


「珍しい」


「今、すごく我慢してる」


「右手がもう筆を探してる」


「私の右手、独立してない?」


「だいぶ器用」


私は右手を左手で押さえた。


最近、私の体は会議を通さずに動く。


玲子はスケッチブックの青い線を見た。


いつもの眠そうな目。


でも、今日は真剣だった。


「これ」


「うん」


「歌音だけじゃ描けないやつだね」


胸が静かに鳴った。


「うん」


頷いた。


「私だけじゃ、描けない」


その言葉は、悔しくなかった。


むしろ、嬉しかった。


私一人では描けないものがある。


相原くんが置いた線があるから、そこに置ける色がある。


「天野さん」


美術の先生の声がした。


振り向くと、先生がコンテストの募集要項を持って立っていた。


「そのスケッチブック、コンテストの案?」


一瞬、即答しかけた。


はい、これで全国行きます。


優勝します。


新聞に載ります。


お菓子も食べます。


……最後のは関係ない。


それに、勝手に全国へ行ってはいけない。


「まだ」


私は言った。


「まだ、案です」


先生は頷いた。


「共同制作にする可能性は?」


共同制作。


その言葉だけで、胸が熱くなった。


でも、私はスケッチブックを見た。


青い線。


相原くんが、自分で置いた線。


「相原くんに聞いてからです」


先生は、笑った。


「そうだね」


玲子が隣で言った。


「前より、だいぶまし」


「今日は、だいぶが多い」


「だいぶの日」


「何それ」


先生は募集要項を机に置いた。


『全国高校生絵画コンテスト』


テーマ。


境界。


応募形式。


個人制作、共同制作、どちらも可。


その文字が、やけにまぶしく見えた。


私は、青い線の隣に何も描かれていない白い場所を見た。


ここから先は、私だけでは決めない。


けれど、相原くんがいいと言ってくれたら。


二人で、この白い場所に向かえるなら。


全国も、賞も、まだ遠すぎてよく分からない。


それでも、この線の隣に立つ絵なら描いてみたい。


先生が言った。


「来週までに、応募するかどうか考えておいて」


頷いた。


「はい」


前みたいな即答ではない。


けれど、弱くもない。


ちゃんと聞いてから進むための、はいだった。


スケッチブックの中で、青い線が静かに伸びている。


その隣には、まだ何もない。


だからこそ、私たちはそこへ行けるのかもしれない。


第七話では、賺が三つの条件を作り、歌音が白いスケッチブックを渡しました。

最後のページに置かれた青い線は、賺が自分で選んだ最初の線です。

次回は、青い線の隣に歌音が色を置き、全国絵画コンテストへ向けた共同制作が本格的に始まります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

続きが気になった方は、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。

目次へ戻る 感想を書く レビューを書く


― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ