第七話:見ない約束と、白いスケッチブック
海のあと、歌音と賺は「見ないで隣にいる練習」を日常の中で続けていきます。
今回は、二人が共同制作へ向かうための最初の一歩です。
海へ行った次の日。
目覚ましが鳴る前に起きて、顔を洗い、制服に着替え、朝ごはんまで食べた。
忘れ物も確認済み。
完璧。
あまりにも完璧すぎて、私は玄関で胸を張った。
「今日の私は違う」
そう宣言した瞬間。
母が台所から顔を出した。
「歌音、お弁当」
「あ」
違わなかった。
私は弁当箱を受け取って、鞄に突っ込んだ。
「でも今日は側溝に落ちないから!」
「そこが目標なの?」
母の声が心配そうだった。
目標は低いほど達成しやすい。たぶん。
◇◇◇
坂道を上る途中、海の匂いがまだかすかに残っているようだった。
昨日見た海。
門脇吊橋。
強い風。
相原くんの作った予定表。
波の音。
そして。
今日は、見ないで隣にいる練習。
その言葉を思い出すだけで、胸が少しくすぐったくなる。
嬉しいだけでも、苦しいだけでもない。
何かが静かに続いている。
青い線が、まだ足元に残っているみたいに。
私は足元を見た。
もちろん、道には何も描かれていない。
でも、昨日の青い線は、私の中に残っていた。
「よし」
私は小さく言った。
今日は見ない。
勝手に見ない。
見えても、すぐ言わない。
相原くんが言っていた。
見たい時は、理由を言ってください。
頷いた。
理由が必要。
だから今日、相原くんの心は見ない。
そう決めたところで。
足元の小石につまずいた。
「ふぎゃっ」
転びはしなかった。
ぎりぎり踏みとどまった。
私は勝った。
側溝にも落ちていない。
今日の私は、かなり強い。
◇◇◇
教室に入ると、いつものざわめきがあった。
文化祭が終わった後の学校は、空気が軽い。
机の上にはまだ、誰かが作った飾りの残りが置かれていたりする。
黒板の端には、消し忘れた白いチョークの線。
窓際には、文化祭の片付けで余った段ボール。
終わったのに、まだ終わりきっていないものがある。
私は席に座って、鞄から教科書を出した。
そして、ふと廊下の方を見た。
相原くんが、交流授業の教室へ向かって歩いていた。
背が高い。
黒髪。
表情はほとんど動かない。
歩く速度は一定。
右手に鞄。
左手に、昨日の予定表を入れていたファイル。
私は、反射的に彼の後ろを見そうになった。
白い怪物。
青い線。
黒い糸。
その奥の古い赤。
見たい。
思ってしまった。
でも。
私は、机の上に両手を置いた。
ぎゅっと握る。
見ない。
今日は、見ない。
昨日だけじゃない。
今日も、見ない練習。
その時、相原くんが廊下の向こうで立ち止まった。
こちらを見た。
目が合った。
心臓が跳ねた。
私は反射的に手を振りそうになった。
でも、授業前の廊下で大きく手を振ったら、たぶん相原くんは困る。
私は小さく、指先だけを動かした。
相原くんは、小さく頷いた。
ほんのわずか。
ミリ単位。
いや、センチはない。
でも、頷いた。
私は机に額をぶつけそうになった。
嬉しさで。
「歌音」
隣から玲子の声がした。
「顔が忙しい」
「顔って忙しくなるの?」
「なる。今、出勤ラッシュ」
「そんなに?」
「かなり」
玲子は眠そうな目で私を見た。
でも、たぶん全部見ている。
私が相原くんを見たことも。
見ようとして、やめたことも。
小さく手を振ったことも。
そのあと机に沈みかけたことも。
「昨日、海、行ったんでしょ」
「うん」
「楽しかった?」
私は考えた。
楽しかった。
でも、それだけじゃない。
大事だった。
怖くもあった。
分からないまま、隣にいた。
言葉にするには、まだ少し形がない。
「波がうるさかった」
玲子はまばたきをした。
「感想、そこ?」
「でも、一定だった」
「相原くんみたいな感想になってる」
私は思わず笑った。
「相原くん、海の音好きなんだって」
「うん」
「怒ってるのか笑ってるのか、判断しなくていい音だから」
玲子は黙った。
それから、黒板の方を見た。
「いいじゃん」
「うん」
「で、歌音」
「なに?」
「調子に乗らない」
「乗ってないよ!」
「今、片足乗ってた」
「どこに!?」
「顔に」
やっぱり顔は忙しいらしい。
◇◇◇
昼休み。
私は図書室前の廊下に立っていた。
十二時三十一分。
約束の時間ではない。
そもそも、五分の約束はまだ戻っていない。
だから私は、待ち合わせをしているわけではない。
ただ、図書室の前に用事があるだけ。
用事。
用事とは何か。
図書室に本を返すことである。
私は手元を見た。
本はない。
用事がなかった。
まずい。
完全に不審者である。
「天野さん」
背後から声がした。
私は肩を跳ねさせた。
振り向くと、相原くんが立っていた。
今日も表情はほとんど動かない。
でも、昨日の海を見た後だからか、ほんの少し近く見えた。
近く見えた、というのは距離の話ではない。
実際の距離は、たぶん二メートルくらい。
相原くん基準では、かなり正しい距離。
「こんにちは」
「こんにちは!」
声が大きかった。
私は慌てて口を押さえた。
「こんにちは」
言い直した。
相原くんは、少し目を細めた。
「音量が変わりました」
「調整しました」
「はい」
「えらい?」
「評価基準が不明です」
「そこは雰囲気で」
「雰囲気は基準として不安定です」
「うぐ」
正論。
昼休みの廊下に、いつもの相原くんの正論が置かれる。
なぜか少し安心した。
「あの」
私は両手を前で握った。
「昨日のことなんだけど」
相原くんは、すぐには答えなかった。
けれど逃げなかった。
壁際に少し移動して、人が通れる場所を空ける。
それから言った。
「三分なら可能です」
三分。
前と同じ。
五分ではない。
でも、三分はある。
「ありがとう」
「礼は不要です。条件を確認します」
「はい」
条件。
私は背筋を伸ばした。
相原くんは、ファイルから小さな紙を出した。
文字がきれいに並んでいる。
え。
紙。
準備してある。
「昨日、天野さんが言ったことについてです」
「私が言ったこと?」
「見ないで隣にいる練習」
胸がきゅっとなった。
相原くんは紙を見ながら続けた。
「練習を継続する場合、条件が必要です」
「条件」
「はい」
頷いた。
見ないで隣にいる練習にも、条件がある。
相原くんらしくて、笑いそうになる。
でも、ここで笑うのは違う。
相原くんは、紙をこちらに向けた。
そこには、三つの項目が書いてあった。
一、見たい時は、理由を先に言う。
二、見えたものを、その場で断定しない。
三、描く時は、許可を取る。
紙を見つめる。
昨日の海の音みたいに、胸が静かになった。
「これ」
声が小さくなった。
「相原くんが考えたの?」
「はい」
「すごい」
「必要だったので」
「褒める理由は何ですか」
「理由?」
また理由。
でも、今度はちゃんと考えた。
「私に、守れる形にしてくれたから」
相原くんは、紙を持つ指を少し動かした。
「守れるかどうかは、まだ分かりません」
「うん」
「でも、分からないままだと困ります」
「うん」
「だから、項目にしました」
頷いた。
「ありがとう」
「礼は」
「不要です、だよね」
「はい」
「でも、言いたいから言う」
相原くんは考えた。
「受け取ります」
その言葉だけで、泣きそうになった。
でも三分しかない。
涙で使い切るのは、さすがに困る。
「私も」
私は鞄から、小さなメモ帳を出した。
昨日、帰ってから書いたものだ。
何度も書き直して、字が少しよれている。
「考えてきた」
相原くんは、私のメモを見た。
そこには、こう書いてある。
『見えたら、まず止まる』
『言う前に、相手の状態を見る』
『描く前に、聞く』
『危なくなったら、玲子に止めてもらう』
相原くんは、最後の項目で止まった。
「三島さんが含まれています」
「うん」
「本人には」
「まだ」
「確認してください」
「はい」
正論だった。
でも、声はやわらかかった。
「三分です」
相原くんが言った。
「終わります」
「うん」
頷いた。
追いかけない。
もっと話したい、を押しつけない。
「その紙、私も持ってていい?」
「写しなら。原本は僕が持ちます」
「契約書みたい」
「契約ではありません。確認事項です」
小さく笑ってしまった。
「分かった。写しください」
「明日、渡します」
「はい」
相原くんは頷いて、図書室の方へ歩いていった。
私はその背中を見送った。
白い怪物を探さずに、その背中を見送れた。
◇◇◇
放課後の美術室。
私は玲子の前に立った。
「歌音」
玲子が鉛筆を置いた。
「何してるの」
「お願いがあります」
「私が調子に乗ったら、止めてください」
「いつも止めてる」
「正式にお願いします」
「正式」
「相原くんの条件に、玲子が入ってる」
「なんで私が契約書に入ってるの」
「契約書じゃなくて確認事項だって」
「余計に謎」
私はメモ帳を見せた。
玲子は読んで、眉を上げた。
「分かった」
「いいの?」
「いいよ」
「ありがとう!」
「ただし」
玲子は、私の額を鉛筆の先ではなく、消しゴム側で軽く押した。
「止めた時に、むくれない」
「むくれない」
「泣いてごまかさない」
「ごまかさない」
「勢いで『でも』って言わない」
「う」
「今言いかけた」
「まだ言ってない」
「でも」
言った瞬間、玲子の目が細くなった。
「あ」
「練習一回目、失敗」
「早い!」
「出だしがいいね」
「どこが!?」
玲子は笑った。
「でも、前よりまし」
「それ褒めてる?」
「だいぶ」
「だいぶの声じゃない」
「声で判断しない」
美術室の空気が、少し軽くなった。
文化祭の後、ここにいると胸が痛くなることがあった。
真央ちゃんの顔。
相原くんの声。
玲子の怒った目。
全部、この部屋に残っているようだったから。
でも今、玲子がいつもの声で突っ込んでくれる。
許されたわけじゃない。
なかったことになったわけじゃない。
でも、ここでまた描いていいのかもしれない。
そう思えた。
その時、美術室の扉が開いた。
美術の先生が、紙の束を持って入ってくる。
「みんな、ちょっといいかな」
部員たちが顔を上げた。
先生は黒板に一枚のポスターを貼った。
白い紙。
大きな文字。
『全国高校生絵画コンテスト』
私は、その文字を見た瞬間、背筋が伸びた。
全国。
絵画。
コンテスト。
強そうな単語が三つ並んでいる。
先生が説明する。
「今年のテーマは、境界。応募は個人でも共同制作でも可。希望者は来週までに相談してください」
境界。
その言葉が、胸の中で静かに響いた。
境界。
見えるものと、見えないもの。
踏み込むことと、隣にいること。
私と相原くん。
白い怪物。
黒い糸。
青い線。
そして、白い余白。
頭の中に、絵が浮かびそうになった。
大きな白い怪物。
海まで続く線。
夕方の空。
開かないページ。
私は慌てて、両手で目を覆った。
「歌音」
玲子が言った。
「何してるの」
「見ない練習」
「ポスターは見ていいと思う」
「あ、そっか」
私は手を下ろした。
部員が数人、こちらを見て笑っている。
恥ずかしい。
でも、ちょっとだけ笑えた。
先生も少し困った顔で笑っていた。
「天野さん、興味ある?」
「あります!」
即答してしまった。
玲子が横で小さく息を吐く。
「即答が早い」
「だって、境界だよ」
「うん」
「絶対、描きたい」
言ってから、私は止まった。
描きたい。
何を。
誰の。
私は、相原くんの白い怪物を思い浮かべていた。
まただ。
また、勝手に描こうとしている。
胸の中で、さっきの三つの条件が開いた。
一、見たい時は、理由を先に言う。
二、見えたものを、その場で断定しない。
三、描く時は、許可を取る。
私は息を吐いた。
「描きたい、けど」
玲子がこちらを見る。
先生も、少し待ってくれた。
「まだ、何を描くかは決めない」
声が震えた。
でも、言えた。
「誰かの心を描きたいなら、ちゃんと聞いてからにする」
玲子は何も言わなかった。
でも、眠そうな目が少しやわらかくなった。
「前より、まし」
「それ今日二回目」
「二回言うくらいには、まし」
私は笑った。
◇◇◇
その日の夜。
私は机の前に座っていた。
目の前には、真っ白なスケッチブック。
新しいものだ。
文化祭の後、買った。
でも、まだ一ページも描いていない。
真っ白で、何もない。
何もないのに、少し怖い。
私は鉛筆を持った。
全国絵画コンテスト。
テーマは境界。
描きたいものは、ある。
白い怪物。
青い線。
海。
でも、それは相原くんの心にあるものだ。
私が勝手に描いていいものじゃない。
私は鉛筆を置いた。
そして、スケッチブックの表紙を撫でた。
「何も描かないことも、選択」
文化祭で学んだ言葉が、胸に戻ってくる。
私は立ち上がって、本棚からもう一冊、同じ白いスケッチブックを取り出した。
二冊買っていた。
安売りだったし、表紙がきれいだったし、なんとなく。
なんとなくは、理由として不十分です。
頭の中で、相原くんの声がした。
私は一人で笑った。
「理由、追加します」
小さく言って、私は一冊の表紙に付箋を貼った。
そこに書く。
『相原くんへ。
全国絵画コンテストのテーマが「境界」でした。
もしよければ、このスケッチブックを使ってください。
何か描いても、描かなくても大丈夫です。
返さなくても大丈夫です。
何も描かないことも、選択です。
天野歌音』
書いてから、考えた。
返さなくても大丈夫。
本当に?
いや、安売りだった。大丈夫。
私は付箋の最後に、小さく書き足した。
『でも、もし返してくれたら嬉しいです』
うん。
正直。
私はスケッチブックを鞄に入れた。
心臓が少し早い。
これは告白ではない。
スケッチブックを渡すだけ。
ただの白い紙。
ただの道具。
ただの、はず。
「うわあああ」
私は机に突っ伏した。
ただの、ではなかった。
相原くんに、何かを渡す。
それだけで、こんなに緊張する。
恋、なのかもしれない。
いや、待って。
恋は花畑の風景画として見える。
自分の心は見えない。
不便。
めちゃくちゃ不便。
私は布団に倒れ込んだ。
明日、渡す。
ちゃんと、理由を言う。
描いてほしいとは言わない。
何も描かなくてもいいと言う。
でも。
もし、一本でも線があったら。
私は、きっと嬉しい。
◇◇◇
翌日の昼休み。
私は、図書室前に立っていた。
今日は本を持っている。
ちゃんと持っている。
返す本。
用事がある。
不審者ではない。
たぶん。
相原くんは、十二時三十二分に来た。
正確だ。
「天野さん」
「こんにちは」
今日は音量調整成功。
「こんにちは」
相原くんは、昨日言っていた紙の写しを差し出した。
三つの条件。
きれいな字。
私は両手で受け取った。
「ありがとう」
「礼は不要です」
「受け取る練習は?」
相原くんは黙った。
「受け取ります」
「やった」
思わず小さく拳を握った。
相原くんがそれを見て、首を傾げる。
「勝敗が発生しましたか」
「発生した」
「何に勝ったんですか」
「昨日の私」
「抽象的です」
「だよね」
私は笑った。
それから、鞄から白いスケッチブックを取り出した。
急に手が重くなる。
「相原くん」
「はい」
「理由を言います」
相原くんの目が、少し動いた。
「はい」
私はスケッチブックを胸の前に持った。
「全国絵画コンテストがあって、テーマが境界で」
「はい」
「私は、それを聞いた時、相原くんの青い線を思い出した」
言ってから、息を吸う。
「でも、それは相原くんのものだから、勝手に描きたくない」
「はい」
「だから、もしよければ」
私はスケッチブックを差し出した。
「これ、使ってください」
相原くんは、白い表紙を見た。
手を伸ばさない。
私は慌てて続ける。
「何か描いても、描かなくても大丈夫。返さなくても大丈夫。でも返してくれたら嬉しい。あ、でもそれは圧じゃなくて、正直な気持ちで、えっと」
言葉が転がる。
まずい。
暴走している。
私は口を閉じた。
両手でスケッチブックを持ったまま、固まる。
相原くんは、しばらく黙っていた。
廊下を、生徒たちが通り過ぎていく。
遠くで誰かが笑っている。
図書室のドアが開いて、閉まる。
相原くんは、やがて言った。
「質問があります」
「はい」
「これは、僕に何かを描かせるためのものですか」
私は首を振った。
「違う」
「では、何ですか」
考える。
ちゃんと考える。
「選べる場所」
相原くんは、私を見た。
「描いてもいいし、描かなくてもいい場所」
私は続けた。
「相原くんの線を、相原くんが置いてもいい場所」
相原くんは、白いスケッチブックを見た。
それから、ゆっくり手を伸ばした。
受け取った。
私は息を止めた。
「預かります」
胸がぱっと明るくなった。
でも、飛び跳ねない。
大声を出さない。
廊下で回らない。
私は、足の指に力を入れて耐えた。
「ありがとう」
「礼は」
「不要です。でも言います」
「受け取ります」
二回目の「受け取ります」だった。
記念日にしたい。
名前は、あとで考える。
相原くんは、スケッチブックをファイルと一緒に鞄へ入れた。
とても丁寧に。
角が折れないように。
それだけで、胸がまた温かくなった。
「三分です」
相原くんが言った。
「終わります」
「うん」
「返却するかどうかは、検討します」
「うん」
「描くかどうかも、検討します」
「うん」
「何も描かない可能性があります」
「うん」
頷いた。
「それも、相原くんの選択だから」
相原くんは黙った。
それから言った。
「はい」
その一言が、白い紙の上に置かれた小さな点みたいに見えた。
私は、見ていない。
心は見ていない。
でも、何かが始まったようだった。
◇◇◇
三日間。
スケッチブックは返ってこなかった。
私は落ち着いていた。
玲子にも言われた。
「落ち着いているふりがうるさい」
「ふりって何」
「朝から何回、図書室前を見た?」
「数えてない」
「私は数えた。七回」
「玲子も暇なの?」
「歌音が視界で動くから」
私は机に突っ伏した。
返ってこなくても大丈夫。
そう書いた。
でも、気になる。
気になるものは気になる。
「今、名言っぽいこと考えたでしょ」
「考えただけ」
玲子は呆れたように言った。
◇◇◇
四日目の放課後。
美術室の机の上に、白いスケッチブックが置かれていた。
私は、最初それに気づかなかった。
先生に頼まれて筆洗いを片付けていたからだ。
水を捨てて。
筆を洗って。
布で拭いて。
よし、今日は手順がいい。
相原くんみたい。
そう思いながら戻ってきた時。
玲子が、顎で机を示した。
「来てる」
「何が?」
「白いやつ」
私は固まった。
机の上。
白いスケッチブック。
表紙の付箋はなくなっている。
代わりに、小さなメモが挟まっていた。
『返却します。
描くかどうかを検討しました。
一部、描きました。
相原賺』
一部。
描きました。
私は、スケッチブックの前に立った。
手が震える。
開いていいのか。
いいはずだ。
返却された。
でも、見る前に。
私はメモを見た。
許可。
これは、見ていいということ?
一部、描きました。
返却します。
たぶん、見ていい。
でも、私は念のため先生の方を見た。
相原くんはいない。
先生もいない。
玲子が言った。
「開いていいって意味でしょ」
「でも」
「心じゃなくて、スケッチブック」
「うん」
「本人が返した」
「うん」
「それでも不安なら、明日聞けば」
私は考えた。
明日まで待つ。
それもできる。
でも、相原くんは返却した。
一部、描きました、と書いた。
私は深呼吸した。
「開きます」
「宣言するんだ」
「大事」
私は表紙を開いた。
一ページ目。
白紙。
二ページ目。
白紙。
三ページ目。
白紙。
何も描かれていない。
でも、白紙が続くことが、なぜか嬉しかった。
何も描かないページを、ちゃんと残している。
そう思えたから。
私はページをめくる。
最後のページ。
そこに。
一本の線があった。
青い線。
細くて。
まっすぐではなくて。
少し揺れていて。
でも、途切れていない線。
ページの左下から、右上へ向かっている。
海まで続く線のようにも見えた。
でも、海だけではない。
どこか、まだ知らない場所へ向かっている線。
息を呑んだ。
胸の中で、何かが静かに開いた。
白い怪物は描かれていない。
黒い糸も描かれていない。
古い赤もない。
ただ、青い線だけがある。
相原くんが、自分で置いた線。
私は、その線に触れそうになって、やめた。
触らない。
今は見るだけ。
玲子が隣から覗き込んだ。
「線だね」
「うん」
「一本」
「うん」
「歌音」
「なに?」
「泣く?」
「泣かない」
目元を押さえた。
涙は落ちなかった。ぎりぎり。
私はスケッチブックをそっと閉じた。
「玲子」
「うん」
「私、これの隣に色を置きたい」
玲子は私を見た。
「相原くんに聞いてから」
「うん」
今度は、すぐに頷けた。
「聞いてから」
私は白いスケッチブックを胸に抱えた。
その中には、一本の青い線。
まだ絵ではない。
作品でもない。
約束でもない。
でも、始まりだった。
私が勝手に見つけたものじゃない。
私が勝手に描いたものでもない。
相原くんが、自分で選んで置いた線。
そこから、何かが始まる。
そう思った。
◇◇◇
翌日の昼休み。
私は図書室前に立っていた。
今日は本を持っていない。
用事はない。
不審者である。
でも、理由はある。
理由ってありますか。
あります。
私は、胸の前でスケッチブックを抱えた。
十二時三十二分。
相原くんが来た。
「天野さん」
「相原くん」
私は一歩、近づきかけて止まった。
距離。
二メートル。
よし。
「理由を言います」
相原くんは頷いた。
「はい」
私はスケッチブックを少し持ち上げた。
「この青い線の隣に、私の色を置きたいです」
心臓がうるさい。
でも、声は大きすぎなかった。
たぶん。
「描いてもいいですか」
相原くんは、すぐには答えなかった。
廊下の窓から、午後の光が入っている。
空気の中に、少し埃が舞っている。
遠くで誰かが笑っている。
相原くんは、私の持つスケッチブックを見た。
それから、私を見た。
「条件があります」
頷いた。
「はい」
「僕の線を、天野さんの解釈だけで変えないこと」
「うん」
「描いた後、僕が見て、困る場合は止められること」
「うん」
「完成させることを目的にしすぎないこと」
胸が少し痛んだ。
でも、それは必要な痛みだった。
「うん」
「それから」
「それから?」
「三島さんに、暴走を止める許可を正式に取ること」
「取った!」
「確認済みですか」
「確認済み」
「なら、いいです」
私は息を止めた。
「いい、って」
「描いていいです」
そのとき。
私は飛び跳ねそうになった。
でも、飛ばない。
廊下で飛んだら危ない。
相原くんも困る。
私は足の裏を床に押しつけた。
「ありがとう」
「礼は不要です」
「受け取って」
「受け取ります」
三回目。
これはもう、だいぶすごい。
「ただし」
「ただし」
相原くんは真顔で言った。
「図書室前で跳ねないでください」
「跳ねてないよ!?」
「跳ねる前の顔をしていました」
「顔!」
私は両手で顔を押さえた。
本当に、私の顔は私より先に生きている。
相原くんは、わずかに首を傾げた。
それが、笑いに近いものなのかどうかは分からない。
分からない。
でも、分からないまま、嬉しかった。
青い線の隣に、私の色を置ける。
それは、相原くんの心を勝手に描くことじゃない。
相原くんが置いた線の隣に、私が立つことだ。
私はスケッチブックを抱きしめた。
白いページの最後にある青い線。
そこから、海ではないどこかへ。
私たちの新しい道が、少し伸びたようだった。
◇◇◇
放課後。
私は美術室の机に、スケッチブックを置いた。
開く。
最後のページ。
青い線。
その隣には、まだ何もない。
私は絵の具箱を開けた。
赤。
黄色。
青。
白。
黒。
いつもなら、ここで手が勝手に動く。
この色がいい。
この線の隣には、これ。
そんなふうに、頭の中で答えが走り出す。
でも今日は、筆を持たなかった。
ただ、色を並べた。
相原くんの線の隣に、私の色を置く。
それは、急いで完成させることじゃない。
隣に座る場所を、ちゃんと探すことだ。
「歌音」
玲子が、後ろから覗き込んだ。
「まだ何も描いてない」
「うん」
「珍しい」
「今、すごく我慢してる」
「右手がもう筆を探してる」
「私の右手、独立してない?」
「だいぶ器用」
私は右手を左手で押さえた。
最近、私の体は会議を通さずに動く。
玲子はスケッチブックの青い線を見た。
いつもの眠そうな目。
でも、今日は真剣だった。
「これ」
「うん」
「歌音だけじゃ描けないやつだね」
胸が静かに鳴った。
「うん」
頷いた。
「私だけじゃ、描けない」
その言葉は、悔しくなかった。
むしろ、嬉しかった。
私一人では描けないものがある。
相原くんが置いた線があるから、そこに置ける色がある。
「天野さん」
美術の先生の声がした。
振り向くと、先生がコンテストの募集要項を持って立っていた。
「そのスケッチブック、コンテストの案?」
一瞬、即答しかけた。
はい、これで全国行きます。
優勝します。
新聞に載ります。
お菓子も食べます。
……最後のは関係ない。
それに、勝手に全国へ行ってはいけない。
「まだ」
私は言った。
「まだ、案です」
先生は頷いた。
「共同制作にする可能性は?」
共同制作。
その言葉だけで、胸が熱くなった。
でも、私はスケッチブックを見た。
青い線。
相原くんが、自分で置いた線。
「相原くんに聞いてからです」
先生は、笑った。
「そうだね」
玲子が隣で言った。
「前より、だいぶまし」
「今日は、だいぶが多い」
「だいぶの日」
「何それ」
先生は募集要項を机に置いた。
『全国高校生絵画コンテスト』
テーマ。
境界。
応募形式。
個人制作、共同制作、どちらも可。
その文字が、やけにまぶしく見えた。
私は、青い線の隣に何も描かれていない白い場所を見た。
ここから先は、私だけでは決めない。
けれど、相原くんがいいと言ってくれたら。
二人で、この白い場所に向かえるなら。
全国も、賞も、まだ遠すぎてよく分からない。
それでも、この線の隣に立つ絵なら描いてみたい。
先生が言った。
「来週までに、応募するかどうか考えておいて」
頷いた。
「はい」
前みたいな即答ではない。
けれど、弱くもない。
ちゃんと聞いてから進むための、はいだった。
スケッチブックの中で、青い線が静かに伸びている。
その隣には、まだ何もない。
だからこそ、私たちはそこへ行けるのかもしれない。
第七話では、賺が三つの条件を作り、歌音が白いスケッチブックを渡しました。
最後のページに置かれた青い線は、賺が自分で選んだ最初の線です。
次回は、青い線の隣に歌音が色を置き、全国絵画コンテストへ向けた共同制作が本格的に始まります。




