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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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7/21

第六話:白い余白と、海までの道

文化祭当日です。


歌音が作ったのは、誰かの心を勝手に描く展示ではなく、誰かが自分で選んだ色を預かる展示でした。


傷つけたことは消えません。

すぐに元通りにもなりません。

それでも、何も描かない場所を残したまま、物語は少し前へ進みます。


文化祭当日。


美術室は、いつもより少し静かに見えた。


窓際には、部員たちの絵。


壁には、先生が貼った案内の紙。


机の上には、絵の具の匂いがまだかすかに残っている。


そして、教室のいちばん奥。


そこに、私たちの絵があった。


『自分で選んだ色を、預かる展示』


大きな紙いっぱいに、色と線と形が広がっている。


赤い丸。


黄色い花びら。


黒い点。


透明な四角。


波みたいな青。


ぎざぎざの線。


何も描かれていない白い紙。


普通科のクラスの生徒たちが選んだ色。


交流授業の生徒たちが選んだ線。


誰のものかは分からない。


名前はない。


理由もない。


そして、参加しなかった人の場所もある。


白い余白。


そこには、何も描かなかった。


何も描かないことを、残した。


私は絵の前に立って、胸の前で両手を握った。


「緊張してる?」


隣で玲子が言った。


「してる」


「顔が静か」


「それ、いいこと?」


「今日はいいこと」


玲子は、いつもの眠そうな目で絵を見た。


「最後まで、勝手に足さなかったね」


「うん」


「えらい、とはまだ言わない」


「うん」


玲子は少し私を見た。


「でも、前よりいい」


その一言で、泣きそうになった。


でも、泣かなかった。


今日は泣く日じゃない。


見る日だ。


見すぎないように、見る日だ。


◇◇◇


最初に来たのは、普通科のクラスの子たちだった。


「あ、これ私の黄色かも」


前の席の女子が、絵の左上を指さした。


そこには、小さな黄色い花びらがいくつも重なっている。


「名前書いてないのに分かるの?」


「分かる。だって私、黄色にしたもん」


彼女は少し照れたように笑った。


「焦げたところは?」


言いかけて、私は口を閉じた。


危ない。


それは、私が勝手に見たものだ。


彼女が選んだのは、黄色い花びら。


それだけでいい。


「ううん。きれいだなって」


「でしょ」


彼女は嬉しそうに笑った。


その隣で、男子が腕を組んで絵を見ていた。


「誰のとか分かんないけど、なんか全部違うな」


「うん」


「でも、一枚になってる」


頷いた。


胸が少しあたたかくなる。


次に、交流授業の生徒たちが来た。


先生に付き添われて、何人かがゆっくり美術室に入ってくる。


一人の生徒は、絵の前で足を止めた。


同じ色を何度も塗り重ねた四角。


その四角を、じっと見ている。


長い時間。


本当に長い時間。


やがて、その子は先生の袖を引いて、絵を指さした。


「あった」


小さな声だった。


先生が微笑む。


「うん。あったね」


別の生徒は、青い点を見つけて、何度も指で空中を叩くみたいに示した。


言葉はなかった。


でも、顔が少し明るくなった。


普通科の子が、それを見て言った。


「それ、きれいだね」


青い点を指さしていた子は、少しそちらを見た。


それから、もう一度、青い点を指さした。


まるで、そうだと言うみたいに。


胸がぎゅっとなった。


私が説明しなくても。


私が心を読まなくても。


ちゃんと、誰かが自分の色を見つける。


ちゃんと、誰かがそれを見ている。


美術の先生が、絵の前で静かに言った。


「一人ずつ違うのに、一枚になってるね」


その言葉を聞いた瞬間、私は少し泣きそうになった。


でも、泣かなかった。


◇◇◇


午後になって、真央ちゃんが来た。


先生と一緒だった。


私は、息を止めそうになって、ゆっくり吐いた。


駆け寄らない。


謝らない。


今ここで、私の気持ちを押しつけない。


真央ちゃんは、絵の前に立った。


その心は、見ないようにした。


見えてしまいそうになった黒い線から、目をそらした。


代わりに、真央ちゃんの手元を見た。


彼女は、展示の端に置いてある白いカードを一枚取った。


そこには、何も描かれていない。


白いカード。


参加したくない人、まだ決めたくない人、何も描きたくない人のために置いたもの。


真央ちゃんは、その白いカードを、展示の下にそっと置いた。


それから、私を見た。


ほんの一秒。


言葉はなかった。


許されたわけではない。


仲直りしたわけでもない。


でも、彼女は自分で白を選んだ。


私が勝手に描いた黒い線ではなく。


自分で、白を選んだ。


私は深く頭を下げた。


声には出さなかった。


ここで謝罪を始めるのは、違うと思ったから。


真央ちゃんは、先生と一緒に美術室を出ていった。


白いカードだけが、展示の下に残った。


それは何も描かれていないのに、私にはその日一番大きな色に見えた。


◇◇◇


相原くんは、少し遅れて来た。


美術室の入り口で立ち止まり、まず人の多さを確認しているようだった。


それから、壁際を通って、絵の前まで来る。


急がない。


人にぶつからない場所を選ぶ。


いつもの相原くんだった。


私は、絵の横に立っていた。


「相原くん」


「はい」


「来てくれて、ありがとう」


「先生から、混雑が少ない時間だと聞きました」


「うん」


「それと」


相原くんは、絵を見たまま言った。


「確認したいことがありました」


頷いた。


「白い怪物は」


自分でその言葉を出すのが、少し怖かった。


「描かなかった」


相原くんは、絵を見たまま頷いた。


「はい」


「相原くんの白と青い線も、描いてない」


「はい」


「参加しないって言ったから」


「はい」


「でも、白い余白は残した」


私は、絵の中央を見た。


そこには何も描かれていない場所がある。


大きな白い余白。


誰かが参加しなかった場所。


まだ決めていない場所。


描かれないまま、そこにある場所。


「それは、相原くんの代わりじゃない」


私は言った。


「誰かの代わりでもない」


「はい」


「描かないでおく場所が必要だと思った」


相原くんは、すぐには答えなかった。


白い怪物が、彼の後ろに見える。


今日は雨に濡れていない。


でも、角の黒い糸はまだそこにある。


怪物は、絵の中央の白い余白を見ていた。


相原くんが言った。


「描かれていないのに、ある感じがします」


私は息を止めた。


「ある?」


「はい」


相原くんは、白い余白を指さした。


「白い場所があります」


次に、展示の端に置かれた白いカードを見た。


「選ばないことも、置かれています」


それから、目を伏せた。


「だから、急いで決めなくていい感じがします」


胸が熱くなった。


うまく言葉が出てこなかった。


「相原くん」


「はい」


「それ、すごくうれしい」


「僕は事実を言いました」


「うん。だからうれしい」


相原くんは、困ったように眉を寄せた。


でも、白い怪物は、絵の前で静かに座っていた。


閉じたページを抱えたまま。


開いてはいない。


それでよかった。


玲子が少し離れた場所で言った。


「前より、いい絵じゃん」


「玲子」


「褒めてる」


「分かってる」


今度は、ちゃんと分かった。


◇◇◇


文化祭は、無事に終わった。


展示の前では、最後にみんなで写真を撮った。


普通科の生徒。


交流授業の生徒。


先生たち。


玲子。


私。


相原くん。


全員が同じ方向を向いているわけではなかった。


笑っている人もいた。


カメラを見ていない人もいた。


少し離れて立っている人もいた。


真央ちゃんは写真には入らなかった。


でも、展示の下には白いカードがあった。


それでよかった。


同じ形にならなくても、同じ場所にいることはできる。


同じ写真に入らなくても、そこにいたことは消えない。


私は、展示の絵を見上げた。


全部分かったわけじゃない。


誰かの心を、全部見せてもらえたわけでもない。


でも、分からないまま一緒に見られる絵は、作れた。


文化祭が終わったあと、美術室は少しずつ片付いていった。


絵の具をしまう。


机を戻す。


床に落ちた紙を拾う。


玲子は、最後まで残って手伝ってくれた。


「歌音」


「なに?」


「第一段階は、まあ成功」


「第一段階?」


「調子に乗らない練習」


「ひどい」


「褒めてる」


「絶対ちょっとしか褒めてない」


玲子は肩をすくめた。


「だいぶ褒めてる。でも言うと調子に乗るから」


私は笑った。


笑いながら、窓の外を見た。


校庭の向こうに、夕方の空が広がっている。


海の方角が、少し明るかった。


◇◇◇


文化祭の翌週。


私は相原くんに、一枚の紙を渡した。


直接ではなく、先生を通して。


そこには、こう書いた。


『海の予定について。

前に話していたことを、まだ検討してもらえるなら、相原くんが決めた条件を聞きたいです。

断っても大丈夫です。

返事をしなくても大丈夫です。

私は、相原くんが選ぶまで待ちます。』


返事は、三日後に来た。


小さなメモ用紙。


文字はきれいだった。


『検討します。

条件を作成します。』


それだけだった。


でも、私はその紙を見て、しばらく動けなかった。


許されたわけじゃない。


元に戻ったわけでもない。


でも、ゼロではなかった。


◇◇◇


さらに一週間後の日曜日。


私は、城ヶ崎海岸駅の前に立っていた。


約束の時間は、十時。


私は九時五十二分に着いた。


えらい。


かなりえらい。


寝坊していない。


転んでもいない。


側溝にも落ちていない。


「天野さん」


背後から声がした。


振り向くと、相原くんが立っていた。


リュックを背負っている。


手には、折りたたまれた紙。


「おはよう」


「おはようございます」


「早いね」


「九時五十四分です。六分前なので、早すぎません」


「私は八分前」


「問題ありません」


問題ありません。


なんだか、それだけで嬉しかった。


でも、前みたいに飛び跳ねなかった。


声も大きくしなかった。


相原くんは、手に持っていた紙を開いた。


そこには、今日の予定がきれいに書かれていた。


城ヶ崎海岸駅。


遊歩道。


休憩場所。


門脇吊橋。


灯台。


海の見える場所。


帰りの時間。


雨天時の変更案。


文字は小さいけれど、読みやすい。


矢印はまっすぐ。


道は青い線で引かれている。


「すごい」


私は思わず言った。


「宝の地図みたい」


「観光案内図です」


即答だった。


でも、相原くんの後ろにいる白い怪物は、地図を少し胸に抱え直した。


たぶん、嫌ではない。


たぶん。


「じゃあ、案内お願いします」


「案内というより、予定の共有です」


「はい、予定の共有お願いします」


相原くんは頷いた。


私たちは、駅から歩き出した。


木の道。


木漏れ日。


遠くから聞こえる波の音。


観光客の声。


風に混じった潮の匂い。


私は何度も立ち止まりそうになった。


そのたびに、相原くんが言う。


「そこは足元が不安定です」


「はい」


「右側に寄ると、人とぶつかる可能性があります」


「はい」


「その岩は滑ります」


「はい」


「返事だけでなく、行動も修正してください」


「うっ。正論」


相原くんは笑わない。


でも、白い怪物の足元の青い線は、海の方へまっすぐ伸びていた。


◇◇◇


門脇吊橋に着いた時、風が強くなった。


橋の下で、波が岩にぶつかっている。


白いしぶき。


深い青。


ごつごつした黒い岩。


海は、思っていたよりずっと大きかった。


そして、うるさかった。


でも。


「うるさいのに、一定だね」


私が言うと、相原くんがこちらを見た。


「覚えていたんですか」


「覚えてるよ」


私は手すりの向こうの海を見た。


「相原くんが好きな音だから」


相原くんは、何も言わなかった。


でも、沈黙が嫌じゃなかった。


波の音があるからかもしれない。


急に意味のある言葉にならない音。


怒っているのか、笑っているのか、判断しなくていい音。


私は、相原くんの心を見ようとした。


白い怪物のページ。


黒い糸。


青い線。


その奥。


まだ開かないページ。


でも、途中でやめた。


今日は、見ない。


見ないで、隣にいる。


そう決めた。


「見ないんですか」


相原くんが言った。


私は驚いて、横を向いた。


「分かるの?」


「見ようとして、やめた顔をしていました」


「そんな顔ある?」


「あります」


相原くんは、海を見たまま言った。


「今日は、見ないんですか」


頷いた。


「今日は、見ないで隣にいる練習」


波の音が、橋の下から響いてくる。


相原くんは、黙った。


それから言った。


「それは、助かります」


胸が静かに温かくなった。


でも、相原くんは続けた。


「ただ」


「ただ?」


「見たい時は、理由を言ってください」


私は、ゆっくり相原くんを見た。


「理由ってありますか?」


相原くんは真顔で答えた。


「あります」


「どんな?」


「僕が、聞く準備をするためです」


風が吹いた。


髪が顔にかかる。


私はそれを押さえながら、笑った。


泣きそうだったけど、笑った。


「じゃあ、いつか言う」


「はい」


「でも今日は、見ない」


「はい」


「今日は、一緒に海を見る」


相原くんは、小さく頷いた。


「それなら、できます」


私たちは並んで、海を見た。


白い怪物は、まだ全部のページを開いてくれない。


黒い糸の理由も、まだ分からない。


ほどけたわけでもない。


それどころか、風が強く吹いた一瞬、黒い糸の奥に別の色が見えたようだった。


古い赤。


乾いた絵の具みたいな、もう誰にも触られたくない色。


私は目をこすった。


次に見た時には、ただ黒い糸が角に巻きついているだけだった。


でもその日、海までの青い線は、私たち二人の足元まで伸びていた。


第六話でした。


白い怪物は、まだ全部のページを開いてくれません。

黒い糸も、ほどけたわけではありません。

そして、その奥にはまだ歌音の知らない色が残っています。


でも歌音は、「見ないで隣にいる」ことを選べるようになりました。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

続きが気になった方は、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。

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