第五話:見えたものを、叫んではいけない
前回、歌音は「助けたい」という気持ちのまま、真央と相原くんを傷つけてしまいました。
今回は、その失敗のあとに残るものの話です。
謝りたい。許されたい。元に戻りたい。
けれど、本当に向き合うべきなのは、自分が楽になるための謝罪ではありません。
放課後の美術室は、いつもより暗く見えた。
窓から入る夕方の光が、机の上に長く伸びている。
私は椅子に座って、スケッチブックを見つめていた。
何も描けなかった。
鉛筆を持っても、手が動かない。
頭の中には、真央ちゃんの顔が残っている。
驚いた目。
傷ついた目。
逃げ場を失った人の目。
そして、相原くんの声。
あなたは、僕を見ていません。
あなたが見ているのは、あなたの中の白い怪物です。
「歌音」
玲子の声がした。
顔を上げると、玲子が美術室の入り口に立っていた。
いつもの眠そうな目。
でも、今日は眠そうに見えなかった。
怒っていた。
本当に怒っていた。
「佐伯さん、先生のところにいる」
「……うん」
「泣いてた」
胸が痛くなった。
「私、謝りに」
立ち上がろうとした瞬間、玲子が言った。
「今は行かないで」
私は止まった。
「でも」
「今行くのは、歌音が楽になりたいからでしょ」
その言葉は、相原くんの言葉より鋭かった。
私は息を止めた。
「違う。私は、ちゃんと謝りたくて」
「謝って、許してもらって、安心したいんでしょ」
「玲子」
「今日の歌音、最低だった」
美術室が静まり返った。
玲子は近づいてきて、私の前に立った。
「見えたからって、叫んでいいわけない」
「……」
「怖かったのは分かる。でも、怖かったからって、人前で誰かの心を暴いていいわけじゃない」
「暴いたつもりじゃ」
「つもりじゃなくても、暴いたの」
私は俯いた。
机の上に、涙が落ちそうになる。
でも、泣いたらだめだと思った。
泣いたら、また自分が被害者みたいになる。
「相原くんのことも」
玲子は続けた。
「助けたかったんじゃないでしょ」
「……」
「自分が見た黒い線が怖くて、相原くんをそこに置きたくなかっただけでしょ」
私は何も言えなかった。
何か言えば、全部言い訳になるようだった。
「歌音」
玲子の声が、少し低くなった。
「優しさって、自分が怖いものから誰かを遠ざけることじゃない」
胸が焼けるみたいだった。
「相原くんは、佐伯さんに近づいたんじゃない。距離を取って、声をかけてた。私は見てた」
「……うん」
「先生を呼ぶ準備もしてた。廊下の端にいた支援の先生に目配せしてた」
知らなかった。
私は何も見ていなかった。
相原くんが、どこに立っていたのか。
誰を確認していたのか。
何をしようとしていたのか。
私は、黒い線しか見ていなかった。
そして、白い怪物を勝手に守ろうとした。
「私」
声が震えた。
「何をすればいい?」
玲子は、すぐには答えなかった。
「まず、展示案を止める」
「え?」
「今の歌音に、みんなの心を扱う資格はない」
その言葉で、涙が出た。
出てしまった。
でも玲子は、慰めなかった。
「泣いてもいいけど、泣いて終わりにしないで」
「……うん」
「先生に、今日あったことを自分で説明する。佐伯さんの名前を広げないようにお願いする。廊下にいた子たちにも、余計な噂をしないように言う。できる?」
「できる」
「相原くんに謝るのは、その後」
「……うん」
「佐伯さんに謝るのは、先生がいいと言ってから」
「うん」
玲子は、そこでようやく少し息を吐いた。
「私は手伝わない」
私は顔を上げた。
「え」
「今回は、自分でやって」
それは突き放す言葉だった。
でも、見捨てる言葉ではなかった。
「歌音が自分で止めたものだから」
頷いた。
「分かった」
分かった、と言ったけれど。
本当は、まだ何も分かっていなかった。
ただ、逃げちゃだめだということだけは分かった。
◇◇◇
先生に説明するのは、怖かった。
言葉にすると、自分のしたことがもっとはっきりしてしまうからだ。
私は、見えた黒い線のことは言わなかった。
言えなかった。
でも、自分が早合点して、真央ちゃんの前で大声を出したこと。
相原くんが何かしたように聞こえる言い方をしてしまったこと。
周囲に誤解を広げたこと。
文化祭展示の準備で、人の気持ちを軽く扱っていたこと。
それは全部、言った。
先生は長く黙っていた。
「天野さん」
「はい」
「謝ることと、責任を取ることは別です」
「……はい」
「佐伯さんには、今すぐ会わせられません。本人が望んでいない」
胸が痛んだ。
でも、当然だった。
「相原くんにも、先生から確認します。あなたが直接話したいなら、相原くん本人の了承が必要です」
「はい」
「文化祭展示は、一度保留にしましょう」
「はい」
私は頭を下げた。
下げるしかなかった。
◇◇◇
その後、私は廊下にいた何人かに声をかけた。
「今日のこと、噂にしないでほしい」
言うたびに、喉が詰まった。
「私が勝手に勘違いして、大声を出しただけだから」
何人かは気まずそうに頷いた。
何人かは「分かった」と言った。
一人は、「でも相原が何かしたんじゃないの?」と言った。
そのとき、逃げたくなった。
でも、逃げなかった。
「違う。相原くんは何もしてない」
私は言った。
「私が間違えた」
その言葉は、自分の口から出るたびに、少しずつ重くなった。
◇◇◇
翌日の昼休み。
図書室前に、相原くんはいなかった。
当たり前だった。
五分の約束は、取り消された。
私は壁際に立って、時計を見た。
十二時三十三分。
いつもの時間。
でも、そこには誰もいない。
白い怪物も見えない。
ただ廊下だけがある。
人が通り過ぎる。
笑い声が遠くで響く。
私は、初めて思った。
五分をくれていたのは、相原くんだったのだ。
私が勝手に見つけたんじゃない。
私が勝手に近づいたんじゃない。
彼が、五分だけならと決めてくれていた。
それを、私は壊した。
◇◇◇
放課後、美術室の前で相原くんを見かけた。
支援の先生と一緒だった。
私は足を止めた。
声をかけていいのか分からない。
理由を言う準備もできていない。
でも、逃げたくなかった。
「相原くん」
声は小さかった。
相原くんがこちらを見た。
表情は変わらない。
白い怪物は、見えた。
でも、遠かった。
ページは閉じている。
角には黒い糸。
昨日よりも、ずっと太い。
「話してもいいですか」
言ってから、私は慌てて付け加えた。
「今じゃなくてもいい。相原くんが、いいと思う時でいい。嫌なら、嫌って言っていい」
相原くんは、しばらく黙った。
支援の先生が、相原くんを急かさずに待っている。
やがて、相原くんは言った。
「三分なら」
胸が詰まった。
五分じゃない。
三分。
それでも、くれた。
「ありがとう」
「礼は不要です。条件を確認します」
相原くんは、壁際に移動した。
私は、いつもより少し離れて立った。
「昨日のこと」
声が震えた。
「私が間違えました」
相原くんは何も言わない。
「真央ちゃんのことも、相原くんのことも、何も聞かなかった」
「はい」
「見えたものが怖くて、勝手に決めつけた」
「はい」
「相原くんを、白い怪物の役にした」
そこで、相原くんの目が少し動いた。
私は続けた。
「守らなきゃって思った。でも、それは相原くんを見てたんじゃなかった」
言葉を選ぶ。
逃げない言葉を。
自分が楽になるためじゃない言葉を。
「ごめんなさい」
相原くんは、すぐには答えなかった。
沈黙が、長かった。
私は、許してほしいと思った。
でも、その気持ちが出てきた瞬間、自分で握りつぶした。
許してもらうために謝るんじゃない。
間違えたから、謝る。
それだけだ。
「謝罪は受け取りました」
相原くんが言った。
胸が少し軽くなりかけた。
でも、次の言葉で止まった。
「ただし、五分の約束は戻しません」
「……うん」
「天野さんが怖いです」
息が止まった。
「僕の心を見られることではなく」
相原くんは、言葉を一つずつ置いた。
「見えたものを、天野さんがどう使うかが怖いです」
頷いた。
頷くしかなかった。
「はい」
「文化祭の展示も、僕は参加しません」
「……分かった」
白い怪物が、閉じたページを抱えている。
雨は降っていない。
でも、黒い糸がほどける気配はなかった。
「三分です」
相原くんが言った。
「終わります」
「うん」
相原くんは、支援の先生と一緒に廊下を歩いていった。
私はその背中を見送った。
追いかけなかった。
見ようともしなかった。
見たところで、もう私のものじゃない。
最初から、一度も私のものではなかった。
◇◇◇
文化祭展示は、保留になった。
私は大きな紙の前で、ひとりで座っていた。
『みんなの心を、一枚の絵に』
その文字が、今はとても軽く見えた。
みんなの心。
一枚の絵。
私が言うには、大きすぎる言葉だった。
私は、その紙を裏返した。
新しい紙を出す。
そこに、ゆっくり書いた。
『自分で選んだ色を、預かる展示』
まだ、展示になるかは分からない。
相原くんは参加しない。
真央ちゃんも、参加したくないかもしれない。
それでも。
誰かが自分で選んだものだけを、預かる。
選ばないことも、白紙で出すことも、参加しないことも、同じくらい大事にする。
それを、先生に見せよう。
だめなら、だめでいい。
私は初めて、展示が完成しない可能性を考えた。
完成しなくてもいい。
誰かを傷つけて完成するくらいなら。
未完成の方が、ずっといい。
第五話でした。
玲子は今回、歌音を慰めません。
相原くんも、謝罪を受け取っても、すぐには元の距離に戻りません。
それでも、これは冷たさではなく、歌音が自分のしたことを引き受けるために必要な距離です。
「見えたものをどう使うかが怖い」
相原くんのこの言葉が、歌音にとって本当の課題になりました。
次回、文化祭当日です。




