第四話:黒い線は、誰のために引かれた
文化祭の展示をきっかけに、歌音は「心が見えること」と「心を描いていいこと」の違いに向き合いはじめます。
ただ、分かったつもりになることと、本当に立ち止まれることは別でした。
今回は、歌音の善意が初めて誰かを大きく傷つけます。
教室の隅にいた真央の、見えないままにしてほしかったものに触れてしまう話です。
文化祭まで、あと三週間。
美術室の黒板には、先生が大きく書いた文字が残っていた。
『文化祭展示テーマ案』
その下には、部員たちが出した案が並んでいる。
『季節』
『私の好きな場所』
『夢』
『学校』
『自由制作』
どれも悪くない。
悪くないんだけど。
私は、スケッチブックを抱えたまま、うーんとうなった。
「歌音、顔がうるさい」
隣で三島玲子が言った。
「顔ってうるさくなるの?」
「なる。今なってる」
玲子は眠そうな目で黒板を見ている。
でも、たぶん全部見ている。
黒板も。
先生も。
部員たちの反応も。
そして、私が何かを思いつきかけていることも。
「天野さん、何か案ある?」
先生に聞かれて、私は顔を上げた。
そのとき、頭の中でいろんな色が弾けた。
教室。
美術室。
交流授業。
普通科のクラス。
相原くんのクラス。
笑っている人。
困っている人。
緊張している人。
何かを隠している人。
私には、人の心が絵に見える。
なら。
それを、一枚にしたらどうなるんだろう。
私は立ち上がった。
「みんなの心を、一枚の絵にしたいです」
美術室が、少し静かになった。
先生がまばたきをする。
「みんなの心?」
「はい。普通科のクラスと、交流授業で一緒になる相原くんのクラスの人たち。みんなの心に見える色とか形とかを集めて、一枚の大きな絵にするんです」
言いながら、胸がどんどん熱くなる。
「そしたら、みんな違うけど、同じ絵の中にいられるっていうか。言葉で説明しなくても、なんとなく伝わるっていうか」
先生は腕を組んだ。
「面白いけど、かなり大きい制作になるね」
「やりたいです!」
私は即答した。
玲子が隣で、小さくため息をついた。
「即答が早い」
「だって、絶対いい絵になる」
私はスケッチブックを開いた。
まだ真っ白なページ。
でも私には、もう少し見えていた。
黄色い花。
赤い線。
青い窓。
灰色の雨。
まっすぐな線路。
鍵のかかった箱。
白い余白。
そして、どこかにいる白い怪物。
みんな違う。
違うから、きっときれいになる。
「歌音」
玲子が、私のスケッチブックを指で押さえた。
「それ、本当にその人のため?」
「え?」
「見えるから描く、ってなってない?」
私は笑ってごまかそうとした。
「大丈夫だよ。悪い絵にするわけじゃないし」
「悪く描かなければいい、って話じゃない」
玲子の声は静かだった。
静かなのに、少し重かった。
「本人のいないところで、本人の心を展示に使うのは違う」
私は言葉に詰まった。
でも、その時の私はまだ、ちゃんと分かっていなかった。
分かったような顔をしていただけだった。
◇◇◇
その日の昼休み。
私はさっそく、教室でクラスメイトたちを見ていた。
見る、といっても、じろじろ見るわけじゃない。
たぶん。
たぶん、そんなに見てない。
「歌音、めっちゃ見てる」
前の席の女子に言われた。
「えっ、そう?」
「見てる。何? 私の顔に何かついてる?」
「ついてない! 心に黄色い花が咲いてるだけ!」
「心?」
しまった。
私は慌てて口を押さえた。
でも、頭の中にはもう絵が浮かんでいる。
その子の心は、黄色い花畑だった。
でも、花びらの端が少し焦げている。
笑っているけど、どこか焦っている。
たぶん、文化祭の準備が不安なんだ。
隣の男子は、赤い絵の具を太い筆で引いたみたいな心。
たぶん、やる気がある。
でもちょっと怒っている。
後ろの子は、水色のガラス。
きれいだけど、触ったら割れそう。
黒板の近くにいる子は、くしゃくしゃの紙。
何か言いたいことを丸めて捨てたみたいな絵。
私は、スケッチブックにメモをしていく。
黄色。
焦げた花びら。
赤い線。
水色のガラス。
丸めた紙。
すごい。
教室だけで、こんなに色がある。
これが相原くんのクラスも合わせたら、もっとすごい絵になる。
胸が弾んだ。
放課後、交流授業の教室前で、私は相原くんたちのクラスの生徒たちも見た。
規則正しく並んだ線。
音符のない楽譜。
同じ色を何度も塗り重ねた四角。
鍵のかかった箱。
遠くまで続く線路。
そして、相原くん。
相原くんの後ろには、白い怪物がいた。
今日は、怪物の足元に青い線がある。
海まで続く線。
角には、黒い糸。
まだ、ほどけない糸。
「……きれい」
気づいたら、声に出ていた。
「何がですか」
相原くんがこちらを見た。
「えっと、みんなの心」
言った瞬間、相原くんの目が少し細くなった。
私は慌てて続ける。
「文化祭の展示でね、普通科のクラスと相原くんのクラス、みんなの心を一枚の絵にしたいんだ」
「みんなの心を」
「うん。色とか形とか、いろいろ違ってて。でも、一枚にしたら絶対きれいになると思う」
相原くんは、すぐには答えなかった。
白い怪物が、青い線を片手で押さえている。
「天野さん」
「はい」
「それは、誰に許可を取りましたか」
私は固まった。
「え?」
「みんなの心を絵にすることについてです」
心臓が、どくんと鳴った。
その時、背後から声がした。
「私もそれ、聞こうと思ってた」
振り向くと、玲子が立っていた。
腕を組んで、私のスケッチブックを見ている。
「歌音。これ、本人たちに描いていいって聞いた?」
「でも、名前は出さないよ」
言い訳みたいに、言葉が出る。
「誰の心か分からないようにするし。悪い絵にするわけじゃないし。みんなが分かり合える展示になると思うし」
玲子は、まっすぐ私を見た。
「分かり合うためなら、勝手に見られてもいいの?」
言葉が刺さった。
相原くんも、静かに言った。
「見られたくない人もいます」
私は、スケッチブックを握った。
「でも」
「説明したくない人もいます」
「……」
「分かってほしい形を、自分で選びたい人もいます」
美術室でも、廊下でもないのに。
私は、逃げ場のない場所に立っているようだった。
私には見える。
だから、描ける。
だから、伝えられる。
そう思っていた。
でも。
握っていたスケッチブックが、急に重くなった。
そこに並んだ色の名前が、誰かの机の中を勝手に開けた記録みたいに見えた。
「私は」
声が小さくなった。
「みんなのこと、分かってほしかっただけで」
「はい」
相原くんは言った。
「その目的は、悪いとは思いません」
私は顔を上げた。
「でも、方法は別です」
やっぱり、正確な言葉だった。
まっすぐで。
痛くて。
でも、逃げ道をふさぐためじゃなくて、道を間違えないための言葉。
玲子が、スケッチブックを指さした。
「歌音が見た心を描くんじゃなくてさ」
「うん」
「本人に選んでもらえば?」
「選んでもらう?」
「自分の今の気持ちを、色とか線とか形にするなら何か。そう聞くの」
私は、息を呑んだ。
「私が描くんじゃなくて」
「みんなが選ぶ」
玲子が言った。
相原くんが続ける。
「その方が、本人の選択が入ります」
本人の選択。
その言葉が、胸の中で静かに広がった。
◇◇◇
次の日。
私は展示案を書き直した。
タイトル。
『みんなの心を、一枚の絵に』
その下に、大きく書く。
『ただし、心を勝手に描かない』
玲子が横から覗き込んだ。
「自分への注意書き?」
「うん。大事」
「大事だね」
私は新しい紙を用意した。
そこには、質問を書いた。
『今の自分の気持ちを、色・線・形で表すなら?』
名前は書かなくていい。
理由も書かなくていい。
ただ、自分で選んだ色や形だけを教えてもらう。
赤い丸。
青い線。
緑の四角。
黒い点。
白い余白。
波みたいな線。
ぎざぎざの線。
何も描かない、という選択もあり。
先生に見せると、先生は少し考えてから頷いた。
「これなら展示として成立しそうだね。交流授業の先生にも相談してみよう」
私は胸を撫で下ろした。
これで大丈夫。
そう思った。
本当に大丈夫かどうかは、まだ何も分かっていなかったのに。
◇◇◇
放課後。
私はアンケート用紙を配るために、交流授業の教室へ向かった。
廊下には、文化祭準備のざわめきが広がっていた。
段ボールを運ぶ音。
誰かの笑い声。
先生の呼びかけ。
その中で、一人だけ動けなくなっている子がいた。
名前は、たしか佐伯真央。
普通科のクラスの子で、いつも後ろの席で本を読んでいる。
この前、文化祭準備を手伝えるか聞かれて、薄く笑っていた子。
あの時、水色のガラスの奥に、細い黒い線が見えた子。
真央ちゃんは、階段の踊り場の隅に立っていた。
手には、黒い細いペン。
その心が、見えた。
黒い線だった。
細くて、鋭くて、何本も何本も重なっている。
紙を裂くみたいな線。
腕に巻きつくみたいな線。
声にならない叫びみたいな線。
息を呑んだ。
怖い。
見た瞬間、そう思ってしまった。
その時、相原くんが廊下の反対側から歩いてきた。
真央ちゃんに気づいたのか、少し離れたところで止まる。
「困っていますか」
相原くんの声が聞こえた。
真央ちゃんは顔を上げない。
黒い線が、さらに濃くなる。
相原くんが、一歩だけ近づいた。
私は、頭の中が真っ白になった。
黒い線。
鋭い線。
手に持ったペン。
相原くん。
白い怪物。
守らなきゃ。
止めなきゃ。
今、何かが起きる。
「だめ!」
気づいた時には、私は叫んでいた。
廊下中に響くくらいの声だった。
「相原くん、近づいちゃだめ!」
ざわめきが止まった。
みんながこちらを見る。
真央ちゃんも、ゆっくり顔を上げた。
目が合った。
その目は、驚いていて。
傷ついていて。
逃げ場を失った人の目だった。
私はそこで初めて、自分が何をしたのか分かった。
でも、もう遅かった。
「何? どうしたの?」
「相原が何かした?」
「近づいちゃだめって何?」
「佐伯さん、泣いてる?」
声が、声が、声が。
廊下に集まってくる。
真央ちゃんの心の黒い線が、ばらばらにほどけた。
ほどけたのではなかった。
切れたのだ。
真央ちゃんは、握っていたペンを落とした。
カン、と乾いた音がした。
それから、走り出した。
先生が名前を呼ぶ。
玲子が私の肩を掴む。
相原くんは、その場に立っていた。
表情は変わらない。
でも、白い怪物が見えた。
角に巻きついた黒い糸が、一気に増えていた。
何重にも。
何重にも。
彼の白い怪物を、きつく縛っていた。
「相原くん」
私は手を伸ばした。
相原くんは、一歩下がった。
初めてだった。
彼が私から、はっきり離れたのは。
「天野さん」
声は静かだった。
静かすぎて、怖かった。
「あなたは、僕を見ていません」
私は動けなかった。
「あなたが見ているのは、あなたの中の白い怪物です」
「違う、私は」
「違いません」
相原くんは、私をまっすぐ見た。
「あなたは、僕が何を確認していたのか聞きませんでした」
「……」
「佐伯さんが何を望んでいたのかも、聞きませんでした」
「……」
「あなたが怖くなったから、叫びました」
胸が潰れるみたいだった。
「僕は、その役をするためにいるわけではありません」
その役。
白い怪物。
守られる人。
守る人。
私が勝手に描いた物語。
相原くんは、私に背を向けた。
「五分の約束は、取り消します」
私は何も言えなかった。
白い怪物のページが閉じる。
ばたん、と音がしたようだった。
今までで一番重い音だった。
第四話でした。
歌音は悪意で動いたわけではありません。
けれど、悪意がなければ人を傷つけない、というわけでもありません。
見えたものを信じすぎたこと。
相原くんを「守るべき白い怪物」として見てしまったこと。
そして、真央の心を人前にさらしてしまったこと。
ここから先、歌音は「ごめん」で終わらない責任と向き合うことになります。




