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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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4/21

第三話:白い怪物は、選ばされない

第二話を読んでくださってありがとうございます。


図書室前での「五分」が、少しずつ二人の時間になっていきます。

でも歌音は、まだ見えたものに引っ張られがちです。


今回は、相原くんの優しさが「誰かに証明されるためのものではない」と知るお話です。


次の日の昼休み。


私は、図書室の前に三分前から立っていた。


昨日の反省をした結果である。


待ち合わせには、早く行く。


大きな声を出さない。


怪物という単語は、本人の前では使わない。


見えたものを、全部だと思わない。


完璧。


たぶん。


「天野さん」


背後から声がして、私は肩を跳ねさせた。


相原くんが立っていた。


今日も表情はほとんど動かない。


でも、その後ろの白い怪物は、昨日より少し近くにいるようだった。


「早いね」


「約束時刻の二分前です。早すぎるとは言えません」


「なるほど」


私はうなずいた。


その時だった。


階段の方から、女の子の泣きそうな声が聞こえた。


一年生くらいの子が、廊下の端で鞄の中をかき回している。


その子の心は、灰色の水彩画だった。


雨雲。


滲んだ校舎。


黒い線でぐちゃぐちゃになった駅の絵。


たぶん、帰り道で困っている。


たぶん、定期か何かをなくした。


たぶん、今すぐ誰かに助けてほしい。


私の頭の中で、答えが勝手に並んだ。


そして私は、相原くんを見た。


白い怪物が、小さく顔を上げている。


「相原くん」


「何ですか」


「あの子、困ってる」


「見れば分かります」


「助けてあげよう」


相原くんは、すぐには動かなかった。


私は焦った。


灰色の水彩画が、どんどん濃くなっていくように見えたからだ。


「ほら、相原くんの絵も反応してる」


言ってから、しまったと思った。


相原くんの目が、すっと私に向いた。


白い怪物のページが、音を立てずに閉じる。


「僕を、便利な道具みたいに使わないでください」


声は大きくなかった。


でも、廊下の空気が少し冷たくなった。


「ち、違う。そういうつもりじゃ」


「つもりの問題ではありません」


昨日も聞いた言い方だった。


悪意の有無と、相手が受け取る不快感は別。


その言葉が、胸の中でそのまま返ってきた。


「ごめん」


私は頭を下げた。


「私、また決めつけた」


相原くんは答えなかった。


白い怪物は、閉じたページの向こうで動かない。


角の根元に、黒い糸みたいなものが巻きついているのが見えた。


昨日はなかったものだ。


それが何なのか、私は聞けなかった。


聞いてはいけないようだった。


「天野さん」


「はい」


「僕は、誰かに優しい人だと証明するために動くわけではありません」


「……うん」


「あなたが見たものを正解にするためにも、動きません」


胸が痛かった。


でも、相原くんはそこで話を終わらせなかった。


「ただ」


彼は階段の方を見た。


「困っている人がいて、僕に分かる手順があるなら、確認します」


相原くんは、泣きそうな一年生に近づいた。


急に距離を詰めず、少し離れた場所で止まる。


「困っていますか」


一年生が顔を上げた。


「え、あの、バスの、時間が」


「行き先はどこですか」


「伊豆高原駅です。でも、スマホの充電が切れて」


定期じゃなかった。


帰れないわけでもなかった。


私は、また勝手に絵の続きを描いていた。


「現在時刻は十二時四十一分です。次のバスは十二時五十二分。校門前の停留所です」


相原くんは鞄から小さなメモ帳を出した。


そこには、バスと電車の時刻がきれいに書かれていた。


「十五時台までは、この順番です。写しますか」


一年生は何度も頷いた。


「ありがとうございます」


「礼は不要です。情報を渡しただけです」


そう言いながら、相原くんはメモの端を丁寧に切って渡した。


白い怪物のページが、ほんの少し開く。


でも、昨日みたいに全部は見えなかった。


角に巻きついた黒い糸。


閉じたままのページ。


小鳥を乗せた手。


それだけ。


私は、見えないところを見ようとするのをやめた。


やめた、つもりだった。


「相原くん」


彼が戻ってきてから、私は言った。


「助けてくれてありがとう、じゃなくて」


言葉を選ぶ。


選ぶのって、こんなに難しいんだ。


「自分で決めてくれて、ありがとう」


相原くんは、眉を寄せた。


「礼の対象が不明確です」


「そこは受け取って」


「検討します」


白い怪物が、閉じたページの隙間からこちらを見ていた。


思った。


あの黒い糸のことを、いつか聞ける日が来るだろうか。


でも、今日じゃない。


今日はまだ、五分の途中だから。


◇◇◇


それから数日、私たちは昼休みに五分だけ話すようになった。


約束の場所は図書室前。


相原くんは、いつも壁際に立つ。


私は、なるべく声を抑える。


なるべく。


成功率は、五割くらい。


「低いです」


「今、口に出てた?」


「出ていました」


「うぐっ」


でも、その五分の中で、私は少しずつ相原くんのことを知った。


相原くんのメモ帳は、すごかった。


バスの時刻。


電車の乗り換え。


駅から学校までの坂道。


雨の日に水たまりができやすい場所。


コンビニの前の信号が、朝だけ妙に長いこと。


全部、小さな文字で書いてある。


しかも、きれいだった。


定規で引いたみたいな線。


角度のそろった矢印。


必要な情報だけが、迷子にならないように並んでいる。


「相原くん、地図作るの好きなの?」


「好きというより、必要です」


「必要?」


「知らない場所に行く時、頭の中に道順がないと不安になります」


相原くんは、メモ帳の端を指で押さえた。


「だから先に作ります。作ると、少し静かになります」


「静か?」


「頭の中が」


その言い方が、少し柔らかかった。


私は、相原くんの後ろを見た。


白い怪物は、閉じたページの上に座っていた。


黒い糸は、まだ角の根元に巻きついている。


でも、怪物の足元には、小さな地図が広がっていた。


白い紙に、細い青い線。


線の先には、海が描かれている。


「海」


気づいたら、声に出ていた。


相原くんが顔を上げる。


「何ですか」


「あ、えっと」


しまった。


見えたものをすぐ言わない。


昨日も一昨日も決めたばかりなのに。


「海、好きなんだなって」


「好きです」


即答だった。


私は少し驚いた。


相原くんが、こんなに迷わず「好き」と言うのを初めて聞いたからだ。


「理由ってありますか?」


「それ、相原くんの口癖じゃん」


「今は僕が聞いています」


「えっと、波がきれいだから?」


「それもあります。でも主な理由ではありません」


相原くんはメモ帳を閉じた。


「海は、うるさいのに一定です」


「うるさいのに、一定」


「波の音は大きいです。でも、急に意味のある言葉になりません。誰かが怒っているのか、笑っているのか、判断しなくていい」


私は黙った。


白い怪物の足元で、青い線が少し光った。


「だから、楽です」


相原くんはそう言った。


楽。


その一言が、私には宝物みたいに聞こえた。


もっと知りたい。


海のこと。


地図のこと。


相原くんの頭の中が静かになる瞬間のこと。


「じゃあさ」


私は身を乗り出した。


「今度、一緒に海行こうよ」


言ってから、自分でも驚いた。


距離。


近い。


急。


全部だめ。


相原くんは、まばたきを一回した。


白い怪物の地図が、ぱたんと半分に折れる。


「予定外です」


「だよね! ごめん! 今のなし!」


「なしにはできません。聞きました」


「うっ」


「ただし、検討はできます」


「検討?」


「条件があります」


相原くんは、メモ帳をもう一度開いた。


「行くなら、日時、集合場所、滞在時間、帰りの経路、雨天時の対応を先に決めたいです」


私はぽかんとした。


デート。


いや、違う。


これは調査。


いや、でも海。


相原くんが好きな海。


私の頭の中で、花畑と波と時刻表が大混雑した。


「天野さん」


「はい」


「顔が赤いです。体調不良ですか」


「違います!」


声が大きくなった。


相原くんが少し眉を寄せる。


「ごめん。音量、失敗」


「はい」


私は深呼吸した。


ゆっくり。


相原くんのペースを、勝手に決めない。


相原くんの好きなものを、勝手に私のイベントにしない。


でも。


やっぱり知りたい。


それは消えなかった。


「じゃあ、条件を一緒に書く」


私はスケッチブックを開いた。


「相原くんは道順。私は、海の色」


「海の色は当日の天候で変わります」


「だから面白いんじゃん」


相原くんは、考えた。


白い怪物が、折れた地図をもう一度広げる。


黒い糸はまだある。


でも、青い線は消えていなかった。


「では、天候別に三種類必要です」


「三種類?」


「晴れ、曇り、小雨」


「雨でも行くの?」


「大雨なら中止です。小雨なら、海の音が変わります」


その時。


相原くんの声が、ほんの少し弾んだようだった。


顔は変わらない。


でも、白い怪物の足元で、青い線が波みたいに揺れていた。


思った。


この人は、傷ついているだけの人じゃない。


怖がられてきただけの人でもない。


好きなものがある。


その好きなものへ向かう道を、自分で描ける人だ。


「じゃあ、晴れと曇りと小雨の海を描く」


「まだ行くと決定していません」


「検討中だら?」


「はい」


「ゼロではない?」


「ゼロではありません」


私は笑った。


今度は、相原くんの後ろの白い怪物も、ほんの少し地図を抱え直した。


ページはまだ、全部開かない。


黒い糸の理由も分からない。


でも、海までの青い線だけは、確かにそこにあった。


◇◇◇


その日の放課後、文化祭準備の話し合いが少し始まった。


教室の後ろで、佐伯真央が文庫本を閉じていた。


「佐伯さん、展示の準備、手伝える?」


誰かに聞かれて、真央ちゃんは小さく頷いた。


笑っている。


けれど私には、その笑顔の端が薄い紙みたいに見えた。


水色のガラスの奥に、細い黒い線が一本だけ走っている。


私は気になった。


でも、相原くんとの海の話で頭がいっぱいで、声をかけなかった。


黒い線は、すぐに見えなくなった。


第三話でした。


相原くんは、歌音の期待に応えるために誰かを助けるわけではありません。

自分で確認して、自分で決めて、できることを選ぶ人です。


そして、海まで続く青い線が少し見えました。


次回は文化祭編に入ります。

歌音の「見える力」が、もう一度大きく問われることになります。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

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