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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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3/21

第二話:白い怪物は、嘘をつけない

第一話を読んでくださってありがとうございます。


歌音は、相原賺の心に見えた白い怪物のことが気になって仕方ありません。

けれど、見えたからといって、何を言ってもいいわけではなくて。


今回は、二人が初めて「五分だけ」話すお話です。


チャイムの音が、教室の空気を切った。


相原賺は、誰よりも早く席を立った。


机の上の本を閉じる。

筆箱をしまう。

椅子を戻す。

右手で鞄の持ち手を握る。


その一つ一つが、妙に正確だった。


まるで、決められた手順を一秒もずらさず実行しているみたいに。


「相原くん!」


私が声をかけると、彼は廊下に出る直前で止まった。


振り向く。


表情は変わらない。


けれど、私には見えていた。


彼の背後で、白い怪物が少し肩を強張らせたのを。


「何ですか」


「さっきの怪物の話なんだけど」


「いません」


「いや、いるって」


「いません」


「でも見えたもん」


「見えたとしても、それは僕の所有物ではありません」


「所有物!?」


思わず声がひっくり返った。


この人、怪物に所有権とか言い出した。


やっぱり変だ。


いや。


私も相当変なことを言っている自覚はある。


「じゃあさ、昼休み、少し話せない?」


「理由って何ですか」


「気になるから」


「その理由では不十分です」


「えぇ……」


断られた。


しかも真顔で。


普通なら「いいよ」とか「無理」とか、もう少し感情のある返事が返ってくるところだ。


でも相原くんの言葉は、定規で線を引いたみたいにまっすぐだった。


曲がらない。


濁らない。


ごまかさない。


だから少し、痛い。


「じゃあ、理由を追加する」


私は胸の前で拳を握った。


「私は、相原くんのことを怖いと思わなかった」


相原くんの目が、ほんの少し動いた。


白い怪物のページが、風もないのにめくれる。


一枚。


また一枚。


小さな男の子がいた。


教室の隅。


耳を押さえて、机の下にしゃがみこんでいる。


周りの子供たちは笑っている。


先生は困った顔をしている。


そして、誰かが言った。


――気持ち悪い。


次のページ。


白い画用紙。


そこに描かれた怪物。


真っ白な体。


大きな爪。


角。


牙。


でも、その怪物は泣いている子供の前に立っていた。


守るみたいに。


「……天野さん」


相原くんが、初めて私の名前を呼んだ。


「はい!」


「人を見て、怪物がいると言うのは、一般的には失礼です」


「うっ」


正論だった。


ものすごく正論だった。


「ごめんなさい」


私は頭を下げた。


「でも、悪口で言ったわけじゃないだに」


「悪意の有無と、相手が受け取る不快感は別です」


「うぐっ」


二撃目。


この人、言葉が刃物みたいに正確だ。


でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


たぶん、傷つけようとしていないからだ。


ただ、嘘がつけないだけ。


ただ、本当のことをそのまま置いていくだけ。


「分かった。じゃあ言い方変える」


私は相原くんの目を見た。


「相原くんの心、絵じゃなくて物語みたいだった」


そのとき。


相原くんの指が、鞄の持ち手を強く握った。


「……心、ですか」


「うん」


「それは、見えないものです」


「私には、見える」


「非科学的です」


「よく言われる」


「なら、訂正してください」


「できない」


「なぜ」


「見えてるから」


「見えているものが、正しいとは限りません」


相原くんの声は、さっきより少し低かった。


私は口を閉じた。


怒らせた、と思った。


いや、違う。


たぶんこれは、怒りだけじゃない。


見られたくない場所を、勝手に覗かれた人の声だった。


「……ごめん」


今度は、さっきより小さな声になった。


「見えたからって、言っていいとは限らないよね」


相原くんは答えなかった。


沈黙。


廊下を、何人かの生徒が通り過ぎていく。


「また天野が変なこと言ってる」


「相原に絡むとか勇者じゃん」


「白い怪物コンビ?」


小さな笑い声がした。


相原くんは反応しない。


いや、違う。


顔には出ていないだけだ。


彼の後ろで、白い怪物の背中に、細い雨が降りはじめていた。


「……昼休み」


相原くんが言った。


「図書室の前なら、五分だけ」


「本当!?」


「大きな声を出さないでください。音が刺さります」


「あ、ごめん」


「それと、怪物という単語は使わないでください」


「えっと……じゃあ、白い子?」


「それも不適切です」


「じゃあ、しろちゃん」


「さらに不適切です」


私は困った。


白い怪物が、相原くんの後ろで首を傾げている。


なんだか、本人より表情が豊かだ。


「じゃあ、相原くんの絵」


そう言うと、彼は黙った。


否定しなかった。


だから私は、勝手にそれを合格だと思うことにした。


◇◇◇


昼休み。


私は約束通り、図書室の前に向かった。


相原くんはすでに立っていた。


時計を見る。


十二時三十三分。


たぶん、約束の時間ぴったりなのだろう。


「遅れましたか?」


「ううん。私が一分早い」


「なら問題ありません」


相原くんはそう言って、壁際に立った。


廊下の中央ではなく、端。


人の流れを避けるような場所。


「相原くんって、いつも端にいるよね」


「人とぶつかる可能性が低いからです」


「なるほど」


「それと、背後に人がいると落ち着きません」


「分かる気がする」


「本当に分かりますか」


「たぶん、ちょっとだけ」


「ちょっとなら、分かると言い切らない方が正確です」


「うっ。また正論」


私は苦笑いした。


相原くんは笑わなかった。


でも、背後の白い怪物は、ほんの少し目を細めた。


「それで」


相原くんが言った。


「話とは何ですか」


「相原くんの絵のこと」


「絵ではありません」


「でも私にはそう見える」


「その話を続けるなら、僕は帰ります」


「待って待って。じゃあ別の話」


私は慌てて両手を振った。


「勝手に決めつける話はしない。約束する」


「約束の範囲が曖昧です」


「えっと……見えたものを、相原くんの全部だって言わない」


相原くんは、黙った。


「それなら、継続できます」


「相原くんって、嘘つけないの?」


彼は即答した。


「苦手です」


「苦手?」


「正確には、嘘をつく必要性が理解できない場面が多いです」


「本当のことを言ったら、人が傷つく時もあるじゃん」


「あります」


「じゃあ、どうするの?」


「黙ります」


「言っちゃう時は?」


「失敗です」


その言い方が、あまりにも淡々としていて。


私は一瞬、何も言えなくなった。


失敗。


その言葉の裏で、ページがめくれた。


◇◇◇


小さな相原くんがいた。


たぶん、小学校低学年。


白い画用紙が床に散らばっている。


教室の後ろには、鳥かごがあった。


中にいたはずの小鳥は、床の上で震えていた。


羽が折れている。


周りの子供たちは、口を押さえていた。


笑っている子もいた。


青ざめている子もいた。


でも、音が遠い。


水の中で聞くみたいに、言葉の形が歪んでいた。


誰かが言った。


「先生には言うなよ」


別の誰かが言った。


「相原のせいにしようぜ。あいつ、変だから」


小さな相原くんは、小鳥を見ていた。


泣いていない。


怒っていない。


ただ、じっと見ている。


その横で、白い怪物が膝をついていた。


大きな手を伸ばしたいのに、伸ばしていいのか分からないみたいに。


そして先生が来た。


「誰がやったの?」


教室が静まり返る。


小さな相原くんは、まっすぐ指を差した。


「三人が、鳥かごを揺らしました。小鳥が落ちました」


嘘をつかなかった。


それだけだった。


でも。


そこから先のページは、絵の具をこぼしたみたいに滲んでいた。


「チクった」


「空気読めよ」


「相原って怖い」


「何考えてるか分かんない」


断片だけが、雨粒みたいに落ちてくる。


机を叩く音。


耳を押さえる小さな手。


床に落ちた白い羽。


誰かの笑い声。


先生の困った顔。


そして、白い怪物の背中。


怪物は小さな相原くんを抱きしめようとしている。


でも、その腕は少し震えていた。


守りたいのか。


隠したいのか。


それとも、誰にも触らせたくないのか。


私には、分からなかった。


ページが閉じる。


白い怪物が、小さな相原くんを抱きしめていた。


牙も爪もあるのに。


誰よりも優しい手つきで。


◇◇◇


「天野さん」


呼ばれて、私は現実に戻った。


相原くんが私を見ていた。


「顔色が悪いです」


「あ……ごめん」


「僕の話で気分が悪くなりましたか」


「違う」


私は首を横に振った。


「相原くんを、悪い人だって決めつけたくない」


口から出た言葉は、それだけだった。


相原くんは黙った。


「私は、見ただけだから全部は分からない。でも、あの小鳥を見捨てなかったことまで、悪いことにしたくない」


「何を見たんですか」


「小鳥」


相原くんの目が止まった。


「……それは、誰から聞きましたか」


「誰からも聞いてない」


「では、なぜ知っているんですか」


「見えたから」


「どこまで見えましたか」


私は答えに詰まった。


小鳥。


白い羽。


教室。


笑い声。


でも、それだけだ。


全部じゃない。


私は、全部を知った顔をしそうになっていた。


「……断片だけ」


正直に言った。


「たぶん、相原くんが覚えていることの、ほんの少し」


また沈黙。


今度の沈黙は、さっきより重かった。


相原くんは私を見ている。


たぶん、疑っている。


怖がっている。


いや。


怖がっているのは、私じゃない。


自分の中に入ってこられることを、怖がっている。


「僕は」


相原くんは、ゆっくり言った。


「優しくありません」


「え?」


「小鳥を助けたかったわけではありません。羽が折れていたから、保健室に持っていく必要があると思っただけです」


「それ、優しいじゃん」


「違います。手順です」


「手順でも、助けたなら優しいだに」


「優しさは感情です。僕には、その場で泣いたり怒ったりする反応ができませんでした」


「でも小鳥を見捨てなかった」


「……」


「私は、それを優しいって呼びたい」


言ってから、私は少し怖くなった。


どう呼ぶかを決めるのは、本当は私じゃない。


でも、言わずにはいられなかった。


相原くんは答えなかった。


でも、白い怪物のページが一枚だけ止まった。


小鳥を手のひらに乗せたページ。


そこに、ほんの少し色が差した。


真っ白だった怪物の手に、淡い黄色が滲む。


春の光みたいな色だった。


◇◇◇


その時だった。


廊下の奥から、男子たちの声が聞こえた。


「なあ、相原」


「普通科の女子にまで怪物見えるって言われてんじゃん」


「やっぱ本物じゃね?」


笑い声。


相原くんは動かなかった。


けれど、白い怪物の背中に雨が強くなる。


私はむっとした。


「ちょっと」


言い返そうとした瞬間。


相原くんが、私の前に手を出した。


止めるみたいに。


「反応すると長引きます」


「でも」


「事実ではない言葉に、訂正の義務はありません」


「……相原くん」


「それに」


彼は目を伏せた。


「怪物と言われることには、慣れています」


その言葉が、私は嫌だった。


慣れていい言葉じゃない。


慣れなくていい痛みだ。


私は鞄からスケッチブックを取り出した。


「天野さん?」


「五分、まだ残ってる?」


「残り一分四十秒です」


「十分!」


私は床にしゃがみこんで、勢いよく鉛筆を走らせた。


白い怪物を描く。


大きな体。


牙。


角。


爪。


でも、その手には小鳥。


背中には雨。


足元には、折れた白い画用紙。


そして、その横に。


私は小さな女の子を描いた。


制服姿の、寝坊して、転んで、側溝に足を突っ込むような女の子。


その子は、怪物に向かって傘を差している。


「できた」


私はスケッチブックを相原くんに向けた。


彼はしばらく絵を見ていた。


一秒。


二秒。


三秒。


長い。


長い沈黙。


やがて、相原くんは言った。


「この女の子は、危機管理能力が低いです」


「そこ!?」


「怪物に近づくのは危険です」


「でも、この怪物は小鳥を助けるじゃん」


「怪物であることと、小鳥を助けることは矛盾しません」


「じゃあ、女の子が傘を差すことも矛盾しないら」


相原くんは黙った。


白い怪物が、絵の中の傘をじっと見ている。


雨の音が、少し弱くなったようだった。


「天野さん」


「なに?」


「僕は、あなたの言うことの大半が分かりません」


「うん。私も相原くんの言うこと、たまに分からん」


「それでも、話すんですか」


「話す」


「なぜ」


私は、スケッチブックを胸に抱えた。


「相原くんの絵の続きを、見たいから」


相原くんは、困ったように目を伏せた。


表情はほとんど動かない。


けれど私には見えた。


白い怪物が、初めてページの外に手を伸ばすのを。


ほんのわずか。


ほんのわずか。


「……五分は終わりました」


「えっ、もう?」


「はい」


「じゃあ、明日も五分!」


「約束はしていません」


「今からする!」


「検討します」


「それ、可能性あるやつ?」


「ゼロではありません」


私は笑った。


相原くんは笑わない。


でも。


白い怪物の背中に降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。


第二話でした。


相原くんは、嘘をつくのが苦手な少年です。

そして歌音は、見えたものを黙っていられない少女です。


噛み合わない二人ですが、ほんの少し、会話の入口ができました。


白い怪物の背中に降っていた雨が止むまでの五分間。

次回も読んでいただけたら嬉しいです。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

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