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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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第九話:シンクロのはじまり

第九話では、二人の制作の呼吸が少しずつ揃い始めます。

けれど、近づくことは嬉しいだけではありません。


次の日の放課後。


美術室に入ると、昨日の紙は棚の上で乾いていた。


薄い海の色。


細い線。


風のために空けた白い場所。


昨日は頼りなく見えた紙が、今日は絵に近づいている。


私は鞄を置いて、手を洗った。


筆を出す。


パレットを出す。


水入れに水を入れる。


そこで、手が止まった。


相原くんが来る前に、絵の具を出しすぎてはいけない。


青。


白。


緑。


昨日はそこまでだった。


赤はまだ早い。


黒もまだ早い。


黄色は、どうだろう。


私は黄色のチューブを持ったまま、固まった。


「歌音」


玲子が横から言った。


「チューブと見つめ合ってる」


「今、黄色と交渉してる」


「要求は?」


「出たいって言ってる」


「歌音の声で?」


「うん」


「却下」


玲子は、黄色のチューブを私の手から抜き取った。


「まだ相原くん来てない」


「分かってる」


「分かってる手じゃなかった」


私は右手を見た。


確かに、少し黄色を出す気でいた。


右手、また会議を通していない。


「今日は右手を監査します」


「玲子監査員」


「不正支出が多いから」


「絵の具は経費?」


「歌音の場合、感情の経費」


言い返せなかった。


◇◇◇


相原くんは、下校前のチャイムが鳴る少し前に来た。


手にはファイル。


昨日より、薄い紙が増えている。


「こんにちは」


「こんにちは」


「その紙、増えてる」


「昨日の作業を整理しました」


相原くんは机に紙を並べた。


城ヶ崎海岸の地図。


昨日の補助線の写し。


風向き。


湿度。


乾燥時間のメモ。


私は最後の紙を見た。


『昨日の紙の乾燥推定』


「乾燥に資料がある」


「あります」


「絵より先に紙が研究されてる」


「紙は重要です」


玲子が椅子を引いた。


「今日も会議で一枚描けそう」


「会議の絵って何色?」


「灰色」


「やだ」


相原くんは真面目に考えた。


「会議が長い場合、灰色は妥当です」


「相原くんまで」


でも、悪くない。


こういうやりとりの間、昨日の紙は静かに机の上にある。


急かしてこない。


まだ始まったばかりの絵は、私たちが座るのを待っているみたいだった。


◇◇◇


机は今日も、だいたい四十五度。


だいたい、という言葉に相原くんは少し不満そうだったけれど、何も言わなかった。


そのかわり、机の脚の位置に小さなマスキングテープを貼った。


「次回から再現できます」


「机に足跡がついた」


「位置の記録です」


「足跡でよくない?」


「机は歩きません」


「知ってる」


玲子が小さく笑った。


今日は、私が紙の右側。


相原くんが左側。


玲子は少し離れて、鉛筆を削っている。


見張り役。


いや、監査員。


昨日の薄い青は、ちゃんと乾いていた。


私は紙の端に指を置く。


色には触れない。


触れたくなるけれど、触れない。


相原くんも、自分の線に定規を置かず、しばらく見ていた。


「今日は」


彼が言った。


「昨日の線を増やす前に、海の色を確認します」


「うん」


私はパレットを寄せた。


青。


白。


緑。


昨日と同じ三色。


そこへ、相原くんが言った。


「黄色は使いますか」


私は黄色のチューブを見た。


さっき玲子に没収された黄色。


机の端に置かれている。


「なんで分かったの?」


「昨日の海の色より、今日の窓の光が黄色いからです」


美術室の窓を見る。


確かに、夕方にはまだ早いのに、光が少し暖かい。


黄色。


ほんの少しなら、海の上に置ける。


でも私は、黄色を取らなかった。


まず、相原くんを見る。


「黄色、少しだけ混ぜたい」


「理由は、窓の光ですか」


「うん。あと、昨日より紙が乾いて見えるから」


相原くんは紙を見た。


それから頷いた。


「分かります」


その一言で、右手が黄色へ伸びる。


玲子の鉛筆が、私の手首の前で止まった。


「量」


「分かってる」


「歌音の少しは、ときどき滝」


「滝は言いすぎ」


「前科がある」


私はチューブの先をパレットに近づけた。


本当に少し。


米粒くらい。


いや、米粒は案外大きい。


点。


黄色い点。


「出ました」


「報告制なんだ」


「監査がいるので」


玲子は満足そうに頷いた。


相原くんは、黄色の点を見てから、筆洗いの水をこちらへ寄せた。


「水が必要になります」


私は筆を持ったまま止まった。


今、私も水を取ろうとしていた。


相原くんの手の方が、少し早かった。


「ありがとう」


「必要だと思いました」


「私も今、取ろうとしてた」


「はい」


相原くんは、筆洗いから手を離した。


「タイミングが近かったです」


近かった。


ただそれだけ。


それだけなのに、胸が変なふうに跳ねた。


私は筆に水を含ませる。


黄色を、青に混ぜる。


光を少しだけ足した海の色。


紙の端へ置く。


昨日の薄い青に、今日の光が重なる。


相原くんは、同じタイミングで鉛筆を持った。


私が筆を紙から離す。


相原くんも鉛筆を紙から離す。


かつん。


筆の軸と鉛筆が、机の上で同じような音を立てた。


「あ」


私が言った。


相原くんも、私を見た。


「同時でした」


「うん」


玲子が鉛筆を削る手を止めた。


「いまの、ちょっと気持ち悪いくらい揃ったね」


「気持ち悪いって言わないで」


「じゃあ、妙」


「それも微妙」


相原くんは、机の上の筆と鉛筆を見ていた。


「偶然です」


「うん」


私も頷いた。


偶然。


たぶん。


でも、そのあとも似たようなことが続いた。


私が水を足そうとすると、相原くんが紙を少し押さえる。


相原くんが線を引こうとすると、私は先にパレットを端へ寄せる。


私が濃い青を見ていると、相原くんが「それは暗すぎると思います」と言う。


相原くんが白い場所に定規を置きかけると、私は首を振る。


言葉が先じゃない。


手が先に動く。


それが何度か続いた。


◇◇◇


「一回止めよう」


玲子が言った。


私は筆を持ったまま顔を上げた。


相原くんも、鉛筆を止める。


「なんで?」


「二人とも、速くなってる」


「速い?」


玲子は机の上を指さした。


「悪い意味じゃない。でも、確認する前に手が動いてる」


その言葉で、私は自分の右手を見た。


筆を握っている。


さっきより、紙に近い。


相原くんも、自分の鉛筆を見た。


白い場所の手前で止まっている。


「すみません」


私と相原くんの声が重なった。


重なった。


本当に、同じタイミングだった。


玲子が眉を上げた。


「今のも?」


私は口を押さえた。


相原くんは、黙った。


鉛筆を机に置く。


昨日の「今日の作業は、成立しました」とは違う沈黙だった。


少し固い。


「相原くん?」


彼は紙を見ている。


白い場所。


青い線。


黄色の混ざった海。


そのどれも見ているようで、どれも見ていないようにも見えた。


「今日は」


相原くんが言った。


「ここで中断したいです」


私は息を吸った。


もっと描きたい。


今、揃っていた。


今なら、もっと進めるかもしれない。


そう思った。


でも、筆を置いた。


紙の右上には、まだ何も置いていない白い場所がある。


そこへ筆を逃がしたくなったけれど、置かない。


パレットの横に、筆を寝かせた。


「分かった」


それだけ言った。


相原くんは、小さく頷いた。


「理由を説明するには、時間が必要です」


「今じゃなくていい」


言ってから、私は玲子を見た。


玲子は何も言わなかった。


でも、スケッチブックをそっと閉じた。


音はほとんどしなかった。


それで、今日の制作が終わった。


◇◇◇


片付けは静かだった。


筆を洗う。


パレットを拭く。


水を捨てる。


相原くんは、紙を棚へ運ぶ前に、端の乾き具合を確認した。


私は反対側を持つ。


昨日と同じように、同じ速さで。


でも、今日は少し緊張した。


紙を置いたあと、相原くんは一歩下がった。


「破れていません」


「うん」


「ずれてもいません」


「うん」


そこまでは昨日と同じ。


でも、次の言葉はなかった。


今日の作業は、成立しました。


そうは言わなかった。


美術室の窓の外は、もう暗くなり始めている。


机の上には、空欄のままの応募用紙。


紙の上には、昨日より明るくなった海の色。


そして、閉じられたスケッチブック。


私は、相原くんを追いかけなかった。


理由を聞きたかった。


何が怖かったのか、知りたかった。


でも、今は聞かない。


相原くんが鞄を持つ。


美術室の扉の前で、振り向いた。


「明日」


彼は言った。


「続きをするかどうか、考えます」


「うん」


私の返事は、小さかった。


でも、ちゃんと届いたと思う。


相原くんは廊下へ出ていった。


私は棚の上の紙を見る。


青。


黄色。


白い場所。


揃いすぎた筆と鉛筆。


偶然。


そう思いたかった。


私は自分の右手を見た。


さっきまで、相原くんの線に合わせるみたいに動いていた手。


その手を、そっと握った。


握る力が、なかなか抜けなかった。


今日の紙には、まだ乾いていない色がある。


そこだけが、部屋の暗さの中で静かに光っていた。


第九話では、歌音と賺の筆のタイミングが重なり、制作中の小さなシンクロが起こりました。

次回は、その近さを賺がどう受け止めるのか、そして二人がどんな距離で制作を続けるのかを描きます。


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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

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